「アメリカン・スナイパー」

  American Sniper

 (2015/03/30)


  

見る前の予想

 毎年毎年、下手をすると年に2本ぐらいやってくるクリント・イーストウッド監督作。それらが一本一本バラバラな題材の作品な上に、それなりに粒ぞろいだから驚かされる。今回もフォー・シーズンズを題材にした「ジャージー・ボーイズ」(2014)の後にイラク戦争を扱ったこれが来て、おまけにアカデミー作品賞候補になっているから二度ビックリだ。
 残念ながら受賞はならなかったものの、かなりの話題になっているのは間違いない。何よりアメリカ国内では、政治的立場を異にする人々から、それぞれ対照的な評価を得ているらしい。だが、それらの評価を見て単純に「イラク戦争肯定」映画だの何だの…というのもいささか的外れっぽい気がする。特に戦争を題材にした近年のイーストウッド監督作品は、父親たちの星条旗(2006)と硫黄島からの手紙(2006)の「硫黄島二部作」を見れば分かるように、そんな単純なシロモノではない。
 では「反戦映画」なのかと言うと、これまた簡単にそうくくれるワケもない気がする。今回の映画はまだ湯気の立っているイラク戦争の映画ということもあって、かなり微妙な雰囲気がしているのだ。ミリタリー映画好きからはそれなりに評価も高いようで、それもまたメッセージ映画とは違う空気を醸し出している。
 ここんとこイーストウッド映画を偶然何本か見逃してしまったこともあって、今回は見逃すまいと劇場に駆けつけたワケだ。

あらすじ

 その男は白昼のビル屋上で寝そべって、ライフルの狙撃用スコープをひたすら覗いていた。
 ここは、まさに戦いの渦中のイラク。男は米海軍選り抜きのエリート部隊「ネイビー・シールズ」のスナイパー、クリス・カイル(ブラッドリー・クーパー)だ。今、クリスは下の通りをゆっくり前進しつつある友軍の一団をバックアップするため、このビルの屋上から周囲の状況を観察していた。傍らに援護の兵士がたった一人いるだけの、孤独な戦いだ。
 やがてクリスはスコープごしに、あるビルの屋上で下を見下ろしながら携帯をかける男を見つける。クリスは装着しているヘッドセットで、本部に状況を報告した。本部は「そちらで判断して射殺してよい」と伝えてくるが、状況はそんな簡単なものではない。もし関係ない通話だったら、取り返しがつかないのだ。
 やがて男は屋上から消えるが、そのすぐ後に女と少年がそのビルから通りに出て行く。どう考えても怪しい。特に、女はチャドルの中に何かを隠しているように見える。すると、女は少年に何かを手渡すではないか。
 どうも手榴弾のように見えるが、確信が持てない。もし間違って子供を撃ったら、たちまち刑務所行き。しかし女と少年のすぐ前まで、友軍の部隊は近づいて来ている。どうすればいい、どうすれば正しいのか…。
 クリスがスコープを覗きながら躊躇しているうちに、少年はその「何か」を持って走り出すではないか。果たしてクリスの決断は…。
 思えばクリスと「銃」との関わりは、彼がまだ少年だった頃にさかのぼる。故郷テキサス州オデッサで、父ウェイン・カイル(ベン・リード)から鹿狩りを教えてもらったのが始まりだ。クリス少年(コール・コニス)はキッチリ命中させて、腕がいいと父からほめられる。
 そんなクリスの一家は、日曜といえば教会に通うほど信心深く勤勉な家族だ。ある日、クリスがよその子を殴って帰ってくる。それは幼い弟ジェフ(ルーク・ サンシャイン)がイジメられていたので、助け出すために振るった鉄拳だった。そんな子供たちに、父親はこう語りかけた。世の中には3種類の人間がいる、弱 く身を守れない「羊」と他者を餌食にする「狼」、そして邪悪な者を打ち負かして弱い者を守る「番犬」…。
 「クリス、オマエは他者を守る“番犬”だな」と父は語った…。
 やがて青年に成長したクリスは、弟ジェフ(キーア・オドネル)と連日ロデオ三昧。そのあげく女は浮気に走ってしまったが、大して惜しい素振りも見せない。彼には「男の世界」の方が大事なのだ。
 ところが、そんなクリスに転機が訪れる。テレビでアフリカの米国大使館がテロで爆破される場面を見て、彼は強い衝動に突き動かされたのだ。早速、彼が足を運んだのが、海軍の新兵募集窓口。海軍精鋭部隊「ネイビー・シールズ」目指した特訓が始まった。
 その時、クリス30歳。このような年齢で「ネイビー・シールズ」目指すのは、体力的にもかなり異例なことだ。しかし、大の男たちが音を上げる過酷な訓練の日々も、クリスは黙々と耐える。
 そんな彼が持ち前の素質を開花させたのが、狙撃の訓練だった。こと狙撃に関しては、教官にも譲らないほどのこだわりを見せるクリス。そんな彼は、仲間たちの中でもメキメキと頭角を現して行くのだった。
 そんなある日、クリスはバーのカウンターで一人のいい女に出会う。その女の名はタヤ・レナエ(シエナ・ミラー)。彼女は「ネイビー・シールズ」の男なんて御免と言いながらも、クリスのノリに心を開き始める。クリスはタヤにターゲットをしぼったらしく、俄然ためらいなく口説き倒した
 こうしてクリスとタヤは、晴れの結婚式の日を迎える。「ネイビー・シールズ」の荒くれ者たちも、今日ばかりはよそいきをビシッとキメて祝福に来ていた。だが、そんなクリスと「ネイビー・シールズ」の仲間たちに、結婚式の最中に出動命令が下される。時は2002年、例の「9・11」の直後だ。こうしてクリスたちは初陣を飾るべく、戦乱渦巻くイラクへと旅だって行った。
 その結果…クリスは今、このビルの屋上で銃を構えている。
 彼の眼下では女が少年に何かを手渡して、少年は米兵たちの方へ駆け出そうとしていた。さぁ、どうする?
 クリスはためらわずに引き金を引き、少年を正確に狙撃した。少年はその場に倒れ、手榴弾が転がる。すると絶叫していた女が、その手榴弾を投げようとする ではないか。クリスはまたしても冷静に第2弾を発射し、女はその場に崩れ落ちる。女が投げた手榴弾も、米兵たちに届かずに爆発した。
 クリスは見事任務を全うしたのだ。
 兵舎に戻ったクリスは、仲間たちに手荒く祝福される。確かに大成功だった。おかげで友軍も被害に遭わずに済んだ。万事めでたし。まことに気分がいい、実に気分がいい…。
 本当にそうなんだろうか…?


どうにでも受け取れる「つかみどころ」のない映画

 ここまでは、映画のほんの「さわり」でしかない。
 この後、クリスは凄まじい「命中率」で「伝説」と呼ばれる存在になるが、同時にイラク側から首に懸賞をかけられるまでに敵視される。また、敵側にも元オリンピック射撃金メダリストという「伝説」スナイパーが いて、クリスはこの男に並々ならぬ敵対心を抱くようになる。しかし戦場での体験はクリスの心を蝕み、帰国しても「心ここにあらず」状態。結局、またまた戦 場に舞い戻る…ということを繰り返し、結果としてイラクに4回出征。「ライバル」である例の敵側スナイパーを倒して、「一区切り」つけてようやく戦場から 離れる決意をする。しかし、心の荒廃は癒せない。ある医師の勧めから、戦場で負傷したり心の病いを患った元兵士の助けとなるようになって、ようやく心の平 安を取り戻すのである。だが、その結果…というお話だ。
 ストーリー上から見ると、典型的な「アメリカ的」価値観で育った男が、その「アメリカ的」愛国心で戦場に行き活躍するが、結果として心を病んでしまう…という展開。これを、「アメリカ」的価値観が主人公を病ませてしまった…と「厭戦的」観点で見るか、「アメリカ的」価値観で戦った男が尊い犠牲となった…と「英雄称賛的」観点から見るかで映画は180度変わって見えてくる。
 正直、微妙な映画である。エンディングの沿道いっぱいの星条旗を見させられても、特にアメリカ人でもない僕などは複雑な心境になってきてしまう。
 しかも、前述した2つの見方はいずれも攻め込まれたイラク側から見れば「いい気なもんだ」としか思えない見方だが、そもそも映画最初の部分で語られる「アメリカ的」価値観そのものを肯定的に見ているのかどうかに よっても見え方は異なる。確かにそう思って見れば、主人公の子供時代から青年期への「アメリカ的」価値観の植え付けられ方、その描き方は、あまりにステレ オ・タイプと言えばステレオ・タイプ。類型的と言えば類型的。まるで「なぞったような」描き方と思えば確かにそう思える。
 元々クリント・イーストウッドは、あまりユニークな見せ方で映画を描く人ではない。例えばキャスティングでも、女だてらにボクサーとなるヒロインにボーイズ・ドント・クライ(1999)で性同一性障害の主人公に扮したヒラリー・スワンクをキャスティングしたり、ネルソン・マンデラ役に「この人しかいない」とばかりにモーガン・フリーマンを持って来たり…と、かなり「典型的」な役者起用を好んで行う。あまりひねった演出をしない人だ。
 だから、これも元々のイーストウッドの持ち味…と言えばそう言えなくもない。言えなくもないのだが…主人公の性格設定の上で大きい部分なので、あまりサ ラッと「当たり前」に描いてはマズいはず…とも思えるのだ。だから逆にこうも言える。イーストウッドはそれを承知の上で、「あえて」類型的に描いたのでは?…と。実際、そのように見ることも可能なのである。
 もし仮にわざと類型的に描いたとすると、そこには一種の「皮肉」の ような効果が生じる。「絵に描いたよう」な「アメリカ的」価値観を植え付けられた主人公が、「絵に描いたよう」な愛国心でイラクと戦いにやってくる。しか し、そこはそんなおめでたい考えが通るような場所ではないし状況ではなかった…という風に、これまた全く異なるお話に見えて来ないでもないのだ。そしてそ れは、「父親たちの星条旗」での戦争とアメリカ・イズムの描き方を考えると、あながちない事はない描き方なのである。
 先にも述べたように、イーストウッドはどっちかと言えばひねった演出をしない人、強くクセのある描き方や強烈な主張を打ち出さない人だ。特に今回は、どういう視点から見てもそれなりに見える…という描き方だし、逆に言うと「こう見せる」という方向性が見えない描き方でもある。どうにでも受け取られる映画に仕上がっているのだ。だからアメリカでも賛否両論だし、みんなてんでんバラバラな発言をしているのだろう。
 さぁ、一体どうしたもんだろうか。これは英雄称賛映画なのか、厭戦映画なのか、はたまた反戦映画なのだろうか? 一体この映画はどう読むべきなんだろう。

 

 

 

 

 




 

こ こからは映画を見てから!

 

 


 

 

 

 


イーストウッドは一体何を描きたかったのか?

 実際ここまで見ていくと、実はイーストウッドは愛国、英雄称賛のふりをして実は戦争批判映画を描いているのだ…と「良心的な映画」としてホメたくなってくる。実際にそうしている人もいるし、そう見る向きも少なくないようだ。
 実際のところ、いろいろな意味で汚辱にまみれてしまったイラク戦争を…しかも外部の我々の目から見たら、批判的に思いたくなるのは仕方ないだろう。だから我らがイーストウッドも、きっとそう思っているに違いない…と。
 しかしイーストウッドが本当にそう考えているかと言えば、それはどうも怪しいような気がする。
 例えばエンディングの満艦飾の星条旗も、皮肉などではなくマジ。少なくとも主人公が英雄的な人物だとは思っているんじゃないだろうか。
 その反面、ある程度イラク戦争に対しては批判的に見ているようでもあり、また嫁も子もいる敵側スナイパーの私生活をチラリと見せたりするあたりに「硫黄島からの手紙」を撮った映画作家の片鱗を覗かせていたりもするので、アメリカが乗り込んでバンバンやっつければいいと単純に思っているワケではなさそうだ。
 しかし主人公を、「アメリカ的」価値観で凝り固まったモンスターやらコッケイな人物としては描いていない。そして、ある程度の戦争犠牲者として描こうとはしているが、そこにトコトン話を持って行って国や社会を告発するかと言うと、その気もないんじゃないかという気がする。
 「…気がする」とは何とも頼りない言い方で申し訳ないが、正直言って本作はつかみ所がないのでこう言うしかない。いつだってひねった演出をしない、クセのある描き方をしないイーストウッドだが、今回は一際その度合いが増している気がする。そういう臭いを極力消しているような気がするのだ。だからこそ、これほど本作への評価がとっ散らかってしまっているのだろう。それはある程度、計算ずくなのかもしれない。
 あるいは、ハッキリ分からないように描こうとしてそうなったんじゃなくて…ひょっとすると主人公の持つ「アメリカ的」価値観がいいか悪いか、正しいか間 違っているか、イラク戦争が正しいかどうか…いや、そもそも戦争自体が正しいかどうか…なんてことは、描いていないのかもしれないんじゃないか。そう考え ないと、主人公の前提である育ち方やら考え方について、あるいはこの戦争について、あまりに熱のない描き方をしている理由が分からない
 父親が言った「羊」「狼」「番犬」という言葉が子供心にインパクトがあった…と一応は描いているが、それがその後の人生に何度も影響を与えているように は描かれずにいきなり戦場に行ってしまっている。信心深く保守的な一家で育ってカウボーイになって…と「典型的アメリカ人」だと描かれてはいるが、それが 人生のある側面でこういう言動ににじみ出ている…という描写はほとんどない。おまけに「愛国心」にしても、テレビで米国大使館が襲われたのを見て、いきな り軍を志願するという唐突さ。戦争そのものだって、「とにかく主人公は行きました」としか描いていない。主人公や置かれた状況のバックグラウンドを懇切丁 寧に…あるいは強烈に描こうという意思が感じられない。「一応描いてみました」程度の描き方でしかないのだ。
 …というか、それってイーストウッドは「どうでもいい」と思っているんじゃないだろうか?
 いや、もちろん「どうでもいい」というのは極論だが、イーストウッドがこの映画で描きたかったのは、そんなことではなかったんじゃないだろうか。建て前 上、イラク戦争当事国の映画としてはいろいろ描かなくてはならなかったし、実際、自分もそれなりに思うところはあっただろうからアレコレ描くことは描いた が、それらは今回本当に描きたいところではなかったのではないか?
 では、イーストウッドは一体何を描きたかったのか?


まだ、やり残した仕事が終わっていない

 本作では、主人公は一応、一種のPTSDを患っているという設定になっている。
 主人公は最初のイラク出征後にすでに心を病んでいて、妻にもそのことを指摘されている。常に「心ここにあらず」な状態で、日常生活に対して無気力な様子を見せている。確かに、これはどう見てもビョーキである。
 ここまで来ると、僕らはすでに似たような映画を見ていることを思い出すだろう。そう、やはり同じイラク戦争絡みのハート・ロッカー(2008)が、まさに同じような状況を描いていた。
 過酷な戦場体験で疲弊した兵士が、本国の日常生活に戻ってくる。しかし極限状況では極めて有能なこの人物が、スーパーでシリアルひとつ買えないほど腑抜 けになってしまう。結局この兵士は、あれほど過酷だった戦場に戻ることを熱望する。もはや、そこにしか彼の居場所がないからだ…。
 このように、「ハート・ロッカー」で描かれた状況は本作「アメリカン・スナイパー」の状況と酷似している。いかにも典型的PTSDのようであり、日常生活に戻ったら使い物にならない…という点でこれは一種のビョーキだろう。その点については、僕もまったく異議がない。
 しかし、これが戦場体験の副産物に特有のもので、特異な状況でないとならないものなのか?…というと、僕はちょっと違うんじゃないかと思ったのだ。
 日常の営みに関わるアレコレ…やれメシを食うだとか作るだとか着るものを選ぶとか買い物をするとか、そういう事になると非常に苦手意識があるのに、自分の得意分野…特に趣味やら仕事になるとイキイキしてくる…。実は自分も含めて、多くの「男」にはこうした傾向が多分にある。 つまりこの映画のビョーキ描写は、「男」というものの習性が極端に出たものではないのか…と僕は思ったわけだ。自分自身、仕事である書籍の制作やら原稿執 筆に際してはまったく迷いがないし躊躇わないのだが、確かに買い物やら家事やら何やらとなると思い切り頭とカラダの動きが鈍くなる。あの主人公のアリサマ には、どうもアレコレ心当たりがあるのだ。
 「ハートロッカー」の描くイラクの極限状況と、僕あたりのつまんない生活とを一緒くたにするのは間違いかもしれない。しかし僕はあの映画を見たときに、どうもこれは「男」のサガみたいなモノを描いた映画ではないかと思わされた。特にあの映画では、それが「男の病理」みたいな域にまで描かれていたように思う。この受け止め方は、あながち間違っていないのではないか。
 今回の「アメリカン・スナイパー」でも、それと似たようなモノを改めて感じさせられた。
 しかも「ハートロッカー」の時は「それ」が病的なこととしてネガティブに感じられたのが、本作ではいささか違った感じ方になったの が印象的だ。それは主人公の2回目か3回目の出征のくだりを見た時、特に強く感じられた。主人公は敵側のスナイパーを「ライバル」として強く意識し始め、 「打倒ライバル」を目指し始めるが果たせない。しかも戦友が敵の攻撃で重傷を負っていながら、それに対して「借りを返す」ことができないまま帰国すること になる。この時、主人公よりもまず「観客」の僕自身が思わず強く感じてしまったのだ…「まだ、やり残した仕事が終わってない」…と。
 そう、まだ「仕事が終わっていない」。
 スナイパーの仕事は、その是非はともかく主人公がその能力を遺憾なく発揮できるものであり、なおかつ主人公が「手応え」を感じられるものだった。それな のに、「成就」を感じられないまま帰国によって中断を余儀なくされる懸案が残されたなら、確かに「いち早く仕事場に戻って、残された仕事を終了させたい」 と思うのが自然だろう。故国にずっと残されていた妻は、「あなたはもう十分国に尽くしたのだから、もう戦場に戻らなくてもいい」と再三主人公に言っていた が、これはそういう問題ではない。彼女はまったく分かっていない。「やり残した仕事」だから、最後まで片付けなくてはならないのである。
 そして、これが一般的な「男」のサガ、「男」が共通して持つ性質なのか…というと、そうでもないような気がしている。
 一時期、僕は連日深夜帰宅・徹夜朝帰り、休日も返上で働いていた(今もそれは大して変わらない)。僕としては、仕事をやっている以上ちゃんと仕上げなけ ればならないし、やるからには自分なりに納得してやらねばならないと思っていたから、そのことを苦にしたことは一度もない。しかし、僕の周辺ではそれを理 解できない人も結構いて…というか、理解できない人の方が大半だったように記憶している。僕としては、そっちの方が理解できなくて驚いていたものだった。
 今になって改めて考えてみると、そこには根本的に「仕事」に対する考え方の違いがあったような気がする。
 みんながみんな、やりたい仕事に就ける訳ではない。否、そもそも「やりたい仕事」なんてある人ばかりじゃないだろう。そういう人にとっては「仕事」イ コール「やりたくない事」「食うために仕方なくやる事」「やりたくないけどやらなきゃならない事」ってことかもしれない。だとしたら、仕事をやりたくってやっている人間の気持ちなど、到底分かる訳もないのだ。
 考えてみると…つい最近独立するまでいくつもの会社で勤めてきた僕は、これまで職場の上司などから理不尽な仕事の妨害や、仕事の質や効率、利益にとって 何のメリットもない高圧的な指図を受けて、何度もヘキエキしたことがある。会社というものは、質の高い仕事を行うことによって高い利益を得る集団だと思っ ていたので、僕にはこうした上司の「足を引っ張るような」言動が不思議で仕方なかった。しかも上司たちは、それが会社のため、組織のため…みたいな顔をし ていろいろ妨害を仕掛けてくる。なぜ上司や管理職がこんな何の利益にもならないことをやってくるのかまったく理解できなくて、その都度僕は大いに悩んでい たものだった。どうして会社の中で働くと仕事が気持ちよく出来ないのか、物事がスムーズに進まないのかが分からなかった。
 しかし、今なら少しはその理由が分かる。こんな事を言ったら笑っちゃいそうだが…彼らにとってはおそらく仕事とは「楽しくない」ことだったのだ。そして、誰にとっても「楽しくない」はず…「楽しくなくあるべき」だと思っていたに違いない。
 だとすると、そこで「楽しそう」に仕事をしていた僕は、おそらく彼らにとってもの凄く不愉快だったはずだ。そして、彼らはこう考えたに違いない。あいつ が「楽しそう」に仕事をやっているのは理不尽だ。オレはこんなに「楽しくない」のにおかしい。それは手を抜いたり、そこで不正に「楽しくなる」ことをやり ながら仕事をしているのではないか。そのやり方は組織にとって良くないに違いない。ともかく絶対に認めてはならない。なぜなら、仕事はすべて「楽しくない」「つらい」ものでなければならないからだ。「楽しい」なんて間違っている…!
 閑話休題。ともかく、みんながみんなやりたい「仕事」に就いているわけではないし、そもそもやりたい「仕事」があるわけでもない。本人はやりたい「仕事」に就いているつもりでも、元々が向いていないし本当はこれぽっちもやりたがっていないってこともあるだろう。
 しかしやりたい「仕事」があって、それをやりたくってやっている人間としては、何よりもそれが最優先。やりたくってやっているから、納得のいく形でやり たいに決まっている。途中中断や不完全な形での収束などあり得ない。もちろん効率やコストやら制約があるのは当たり前だが、それを前提としながらも…少な くとも自分が満足する形まで持っていって終わらせたい。それが「仕事」というものだし、プロというものだろう。
 ならばスナイパーの仕事に「やりがい」を見いだしてしまった本作の主人公は、やはりこの仕事を全うしたい…と思ったのではないだろうか。
 少なくとも僕は、彼の気持ちが分かった。そして、彼が何でイラクに戻らなければならないかも理解できた。というか、戻らなけりゃいけないだろうと僕自身も思った
 この「ハートロッカー」との描き方の違い、観客である僕にとっての印象の違いは、おそらく「ハートロッカー」を作った監督が「女」のキャスリン・ビグローで、本作の監督が「男」のイーストウッドだからじゃないだろうか。やはり女の目線からするとそういう男の生態はネガティブに見えてしまうだろうし、批判的に意地悪く扱いたくなってしまうだろう。そもそも理解が出来ないはずだ。僕もついつい「女の口車」に乗せられて(笑)、見ていてそんな気持ちになってしまった。
 それと比べれば、イーストウッドはある程度の理解を持って本作の主人公を見ている気がする。
 そして…いささか極論かもしれないが、本作の「仕事」の部分以外…アメリカ的価値観だとか愛国心だとかPTSDだとかといった部分…は、実はイースト ウッドにとってどうでもよかったんじゃないかと思っている。実話で実在人物が主人公で、なおかつまだ湯気が立っているほどホットな話なだけに、さすがに 「そういう事はどうでもいい」とは真っ正面からは言えなかった。しかも制作準備中に主人公が亡くなってしまうアクシデントに見舞われたら、なおさらそうはいかないはずだ。
 また、主人公がスナイパーとしての仕事を遂行するにあたって、良心の呵責を感じる場面がなかったと言えばウソになるだろう。その強烈な体験が社会復帰を 妨げたのも、決して間違いではないだろう。だから一応映画の周辺にあれこれ「それ」っぽいことを飾り付けてはみたものの、正直言っていささかなおざりにし か描けない。なおざりと言うと語弊があるなら、そこを「中心」にしては描けない…と言うべきか。実際のところ、本作の「仕事」以外の要素についての描き方 には、類型的で熱のないものしか感じられないのである。
 だから本作は「男の仕事」…しかも、「好きな仕事に巡り会えた男」にとっての「仕事」…を描いた映画のような気がする。強引な結論かもしれないが、僕には正直言ってそうとしか思えないのだ。
 いや…前述したことと矛盾しちゃうけど、これはむしろ「男」に限らないんじゃないのか。イマドキ「女」だってこういう奴はゴマンといるだろう。
 そして本作を見た後では、やはり「好きな仕事に巡り会えなかった人種」「好きな仕事など元々なかった人種」とは、僕はおそらく一生分かり合えないような気がしている。それでPTSDみたいに見られたり「社会復帰できない奴」と見なされるのなら、僕はそれでも結構だ…とさえ思い始めているのである。



 

 

 

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