新作映画1000本ノック 2014年4月

Knocking on Movie Heven's Door


こ のページの作品
 「大統領の執事の涙」 「LIFE!」 「エレニの帰郷」
 「早熟のアイオワ」 「ホビット/竜に奪われた王国」

 

「大統領の執事の涙」

 The Butler

Date:2014 / 04/ 28

みるまえ

  ホワイトハウスで何代もの大統領についた、黒人の執事のお話。それがそのままアメリカ現代史になっていく…という構成は、見る前から容易に想像がつく。主 演がフォレスト・ウィテカーというのは、まさにハマリ役だ。そして超豪華なオールスター・キャスト。この題材から想定できる黒人キャストに加えて、豪華な 新旧スターがズラリ。問題なのは「大統領“の”執事“の”涙」という「の」の連発するタイトル。僕もそんなに神経を使って文章を書いていないので、それは ついつい「の」を連発して駄文を書いてしまう時もある。しかし映画という商品の「顔」となるべきタイトル、そこに普通「の」を二段構えで入れるかね。こ りゃあかなり恥ずかしいんじゃないだろうか。そして先に挙げたオールスターキャストにしても、ジョン・キューザック、アラン・リックマン、ロビン・ウィリ アムズにジェーン・フォンダってキャストのとっ散らかり方はどうなんだ? さらにはレニー・クラヴィッツって配役も分からない。この脈絡のないキャスティ ングも、何だかセンスがあまり感じられなくて気になる。タイトルにしたって、あくまで日本で付けたシロモノで内容とは関係ないものではあるが、一事が万 事。こういうケチのつき具合って、意外に作品の出来を反映しちゃってることも多いのだ。そんなこんなで今ひとつ見る気になれずにズルズルと遅らせていた が、結局、上映終了間際に往生際悪く見に行った次第。当然のことながら、作品に対する期待値はかなり低いままスクリーンと対峙することになった。

ないよう

  ここは、あのホワイトハウス。いかにも実直そうな黒人男セシル(フォレスト・ウィテカー)が、イスに座って名前を呼ばれるのを、今か今かとソワソワと待っ ている。そんな彼の脳裏に、彼のこれまでの人生が浮かんでは消えた…。1920年代、アメリカ南部。大農場で綿の実を積んでいる黒人奴隷たち。少年時代の セシルはこの農場の奴隷男女の間に生まれた。ある日、作業中のこと。農園の若旦那(アレックス・ぺティファー)がやって来て、作業中のセシルと父の前で母 (マライア・キャリー)を強引に連れ去ってしまう。意味が分からないセシルは文句を言いたくて仕方がないが、「大人の事情」が分かる父はじっと黙ってい た。それを見て、なおさらもどかしそうなセシル。やがて母が連れ込まれた納屋から、悲鳴らしきものが聞こえてくる。こうなると、さすがに父親も我慢ができ ない。マズイと分かってはいても、納屋から出てきた若旦那に一言いわずにはいられない。だが、それはやっぱりマズかった。若旦那はセシルの見ている前で、 父をあっさり撃ち殺してしまったのだ。絶望のどん底に突き落とされたセシルを救ったのは、この農場の女主人ウェストフォール夫人(バネッサ・レッドグレー ブ)。夫人は彼を屋敷の中で働かせることにしたため、セシルの待遇はかなり良くなった。いわゆる「ハウス・ニガー」という給仕の仕事である。しかし、成長 して青年となったセシルは、そろそろ若旦那の目の敵にされそうだ。そう悟ったウェストフォール夫人は、セシルを農場から旅立たせるのだった。しかし時代が 時代だけに、風来坊の黒人青年に行く場所などなかった。そんなこんなで、ある街に流れ着いたセシル。飢えと疲れでフラフラになった彼は、深夜、あるホテル の窓から見えるケーキにクギづけになる。完全に理性を失った彼は窓を破って中に侵入し、ケーキをガツガツ頬張り始めた。ところがそんな気配に気づいて、中 から人がやって来る。やって来たのは、そのホテルで働いている執事のメイナード(クラレンス・ウィリアムズ三世)。メイナードは泥棒が押し入ったと思って やって来たが、飢えたセシルを見るに見かねて、そのホテルで働けるように取りはからってくれた。その日から、メイナードによるセシルへの特訓が始まった。 それは、一人前の執事になるための特訓だ。言われる前に客の気持ちを読め、本音の顔と白人の前の顔は別に持て…こうしてセシルは一流の執事として、ホテル でみるみる頭角を現した。こうして一流の執事となって、今やワシントンの一流ホテルの執事にまでのし上がったセシル。グロリア(オプラ・ウィンフリー)と いう妻と家庭を築き、子どもも生まれた。その働きぶりはめざましいものがあったが、特に優れているのは政治的なバランス。場所柄、政治家などがやって来る ことが少なくないが、どんなことを言われても聞かれてもセシルの答えは常にソツがなかった。それが思わぬ人生の転機をもたらすとは…。ある日、家でくつろ いでいたセシルに、一本の電話がかかってくる。「白人からの電話はロクな話じゃない」…イヤな予感に顔をこわばらせるセシル。しかしそれは、彼をホワイト ハウスの執事として採用したいという連絡だった。それは、アイゼンハワー大統領(ロビン・ウィリアムズ)時代のことであった…。

みたあと

 お恥ずかしい話だが、僕はこの映画を劇場に見に行くまで、本作の監督がリー・ダニエルズだとは知らなかった。リー・ダニエルズといえば、「プレシャス」(2009)ですでにアメリカの黒人たちが抱えるシビアな問題を取り上げていた。次の「ペーパーボーイ/真夏の引力」 (2012)では特に黒人問題がどうの…という問題提起はしていないが、南部のむせ返るような人間関係を描いてヘビーな作品を作っていた。それらの作品か ら比べると、本作は「黒人問題」を前面に置いた作品ではあるものの、かなり品行方正な作品を目指しているかのように見える。何せタイトルが「大統領の執事 の涙」だし(笑)。スターを並べるという意味では「ペーパーボーイ/真夏の引力」も相当な豪華だったが、何せあっちはアクの強さがハンパなかった。それに 比べると今回の「執事の涙」はNHK大河ドラマ風の豪華配役で、ソツがないって言えばソツがないが、それほど個性やセンスも感じられないキャスティング。 あまり面白みが感じられない気がしていた。まぁ、いかにもお金がかかっている上に年代記モノの大作だし、さすがにクセモノ風だったリー・ダニエルズもここ は無難にいかない訳にいかなかったか。

ここか らは映画を見てから!

こうすれば
  そんなリー・ダニエルズの「借りてきたネコ」感はそこかしこに漂っていて、思い切りねちっこかった前作「ペーパーボーイ/真夏の引力」を考えると、同じ映 画作家の作品とは思えないくらい。そして最も食い足りない点は、大スケールの物語を語りきるために、いささか駆け足になってしまっているところだ。お話と しても長期にわたる大河物語になっているだけでなく、アメリカ現代史…さらにはアメリカ黒人史を展望する内容になっている。ところがどうしたってそんなデ カい対象をこの限りある上映時間に押し込めなければならないので、どうしたって歴史や社会を上っ面でなでるようにしか描けない。特に主人公フォレスト・ ウィテカーの長男セシル(デヴィッド・オイェロウォ)は、1960年代あたりからのアメリカ公民権運動からブラックパワーに至る流れのエポック・メイキン グな現場にはすべて居合わせて、黒人の地位向上に関する運動らしきものを一通り体験するような設定になっている。例えば「幕末」を舞台にした映画で、主人 公がペリーの黒船襲来の現場に出くわしただけでなく、桜田門外の変にも下関事件にも薩英戦争にも大政奉還にも戊辰戦争にも居合わせているような感じなの だ。まさにNHK大河ドラマ。そんな「生きる黒人地位向上史」みたいな人間がいるんだろうか…というくらい典型的な人物に作られてしまっているので、正直 言ってお話の「作り物」感がスゴイのである。この長男と、「旧世代」で保守的な父親である「執事」と大統領との関わりが、ほぼパラレルで描かれていくとい う構成。おまけに次男はベトナムに行って戦死という、これまた「典型」ぶり。やりたいことは分かる。しかし、あまりに「図式的」なのだ。そういう意味で は…アプローチの仕方としてはまったく違うものの、20世紀を悠然としたカメラワークでとらえながら、いかにもなキーワードやアイコンを散りばめることで サラッと現代史をなでるように描いて深みにはかける、ギリシャのテオ・アンゲロプロス監督の遺作「エレニの帰郷」 (2008)にも似たような食い足りなさが漂うのである。さらに、見ていくうちにどうやらこの映画の終点が現代の「オバマ時代」であることが分かってくる と、食い足りなさがシラジラしさに変わっていかざるを得ない。アメリカ黒人の立場からしてオバマ出現がいかに大きな出来事だったかは察するに余りあるが、 オバマ政権の現状が必ずしも素晴らしいことづくめではないと分かっちゃっている観客(しかもアメリカ黒人ではなく日本人)からすれば、やっぱり少なからず シラけるのだ。これだけ苦難の歴史を積み重ねて、たどり着いた結果が「これ」なのかよと思ってしまうのである。やはり現代史、特に現代の政治をほぼリアル タイムで映画に描くのは難しい。アンジェイ・ワイダの「鉄の男」(1981)ですら、カンヌのパルムドールを勢いでとっちゃったものの、僕あたりは見てい て少々イタかったからねぇ。

みどころ
 では、ソツはないけどソコソコどまりの作品で面 白みにかけるのか…と言われると、実はそうとばかりも言えない。キラ星のごとくかき集められたスターによる大統領そっくりショーが、意外や意外にもなかな か楽しいのである。ロビン・ウィリアムズによるアイゼンハワー、リーブ・シュレイバーによるジョンソンあたりは、僕にとってそれらの大統領に対するイメー ジが曖昧なためにピンとは来なかったが、ジェームズ・マーズデンによるケネディ、ジョン・キューザックによるニクソン、アラン・リックマンによるレーガン はなかなかの傑作。いずれも見た目は正直あまり似ていないのだが、その人間性を感じさせてうまいのである。特にジョン・キューザックをニクソンに起用す るって発想は普通出ないだけに、ちょっとビックリした。そしてもっとビックリしたキャスティングは、ジェーン・フォンダによるナンシー・レーガン夫人だろ うか。バリバリの左翼であるフォンダがこの役ってだけで笑っちゃうのだが、それが結構良い役だから嬉しくなる。さらに、それ以外のオールスター・キャスト の中で最も感心したのは、主人公の妻を演じたオプラ・ウィンフリー。どこか泥臭くて暑苦しくて、途中で亭主の友人にヨロめいたりもする役。彼女のおかげで この全体的にアメリカ黒人現代史をサラッとなでたような印象の映画に、汗臭さやきれいごとでない人間味が吹き込まれた観がある。彼女の演技は予想以上に大 きな影響を映画全体に与えていたのではないだろうか。そして、いろいろケチはつけたものの、やっぱり本作にはそれなりの意義があったように思う。いかに 上っ面をなでたようであってきれいごとで図式的だとはいえ、ともかくアメリカ現代史を黒人側からの視点で見ていくという試みを行ったことは価値がある。し かも、それを極めてマイナーなアプローチや狭い視点ではなく、あくまでメイン・ストリームとしてのハリウッド大作において真っ正面から描いた…という点 が、極めて意義深いことだったんじゃないかと思うのだ。そのことだけでも、この作品が制作された意味は大きいのではないだろうか。

さいごのひとこ と

 この作品の続編が「ホワイトハウス・ダウン」かな?

 

「LIFE!」

 The Secret Life of Walter Mitty

Date:2014 / 04/ 14

みるまえ

 ベン・スティラーの新作である。日本では一応コメディの人ということになっているスティラーだが、実際のところハリウッドではどういう位置づけなんだろう。最大のヒット作品は「ナイトミュージアム」(2006)だし、「ズーランダー」(2001)なんてバカ映画もある。だからコメディの人ってのは間違いないんだろうが、この人って最初に知ったのは監督も兼ねたちょっと苦い青春映画「リアリティ・バイツ」(1994)でのこと。ウェス・アンダーソンの「ザ・ロイヤル・テネンバウムズ」(2001)への出演歴などを見るだけでも、「単なるお笑いの人」ではないと見える。例えば完全なコメディと思って見た「ペントハウス」 (2011)が何ともスッキリしない後味になってしまったのも、スティラーの微妙な立ち位置のせいだと考えるべきかもしれない。そんなスティラーの新作 は、毎日毎日チマチマとした日常を繰り返している平凡な男が、ある事件をキッカケにそれまでやってきたコトもない大冒険に乗り出すというお話らしい。「書 を捨てよ街へ出よう」ってか(笑)? 何だかもう見ちゃったようなありふれた設定だが、唯一ユニークな点としては主人公がグラフ誌「ライフ」の写真担当だ というところ。あれっ、「ライフ」ってもう廃刊されちゃったんじゃないのか? ただ、予告編で「この映画の主人公は、あなたです」なんて「いかにも」な宣 伝コピーを見せられちゃったらねぇ。勝手に「オマエつまんない人生歩んでるんだろ?」って決めつけてくるなよ。だから、ゲンナリして見る気がなくなった (笑)。だから見ないでずっと放置していたのだが、ある人から「意外に面白い」との言葉を聞いて、ちょっと興味が湧いてきた。そんなわけで、公開からかな り経ったある日、劇場に足を運んだ次第。

ないよう

  アパートの一室。ワイシャツ、ネクタイにベージュの薄手ジャンパー姿…という典型的小市民の出で立ちのこの男。その名をウォルター・ミティ(ベン・スティ ラー)という。彼はノートパソコンを開いて、婚活縁結び系サイトを眺めていたところ。どうやらその画面に出ている女性に気があるようだ。彼女の名はシェリ ル(クリステン・ウィグ)。いかにも快活そうな彼女のお好みの男性はというと、どうやら人生積極派でグイグイ系の人物らしい。しかし、当のウォルターはい かにも実直だけが取り柄みたいな男。本人もこれには気後れせざるを得ない。それでもウォルターは、彼女のページに設けられた「ウィンク」のボタンを押そう かどうか葛藤する。別にどうってこたぁないボタンなのだが、これを押せば相手に「気があるよ」と伝わるという仕掛け。それが分かっちゃうというのは、やっ ぱり何とも気まずい。そんなわけでずっと悶々としていたウォルターは、最後の最後に勇気を奮ってボタンを押す。しかし皮肉なことに、ネットがうまくつなが らなかったのか「ウィンク」は送信できない。そんなわけで、悶々としたまま出勤となるウォルター。納得できない彼は、駅で電車を待っている間にこの婚活縁 結び系サイトの担当者トッド(パットン・オズワルト)に携帯で苦情をブチまける。トッドとのやりとりからすると、どうやら先ほどのシェリルという女性は ウォルターの職場に一ヶ月ほど前から来たばかりの同僚ということらしい。ところがウォルターは、トッドに自分のページの記載内容のショボさを突かれて困 惑。「何でもいいから冒険とかどこかに行ったとか、書くことないんですかね?」…だが、残念ながらそんなものはあるわけない。実直一筋で生きてきた彼だ。 そんな時、どこからともなく犬の鳴き声が。いきなり目がランランと輝きだしたウォルターは、パッと駅のプラットフォームから外に飛び降りて、そのまま隣接 するアパートの窓に突っ込む。彼がそのアパートから犬を抱えて脱出するや、アパートは炎に包まれて大爆発だ。そしてたまたまそこにやって来たのは、あの シェリルではないか。何と彼女はこの犬の飼い主。ウォルターは彼女の飼い犬を救ったヒーローだ! …と思ったら、それは夢だった。ウォルターはそんな夢に 突然囚われることがよくある。この日もそれで通勤電車に乗り損なった。そんなこんなで、やって来たのは彼の職場「タイム・ライフ社」のビル。ウォルターは 有名なグラフ誌「ライフ」の写真管理担当として働いていた。そこに彼を待ち構えていたのは駆け出し女優の妹オデッサ(キャスリン・ハーン)。母親エドナ (シャーリー・マクレーン)の引っ越しにあたって、ピアノの搬入をどうするかをアレコレ言って来た。正直言って、それって今することじゃねえだろ…と適当 にあしらってオフィスへとたどり着くと、彼が遅刻したという日に限って思わしくない事件が勃発していた。何と昨今の出版不況の煽りを受けて、いよいよ名門 「ライフ」誌も廃刊の憂き目を見ることになったというのだ。そんな憂鬱な会話をウォルターが同僚と交わしていたちょうどその時、そこに現れたのは会社再建 のために送り込まれたテッド・ヘンドリックス(アダム・スコット)という陰険そのものの男。つまりは「リストラ屋」だ。間の悪いことに、真っ先にこのテッ ドに目を付けられるウォルター。そんな憂鬱なウォルターだったが、目の前にあのシェリルがいればたちまち心はハッピー。勢い余って、自分がシェリルのヒー ローとなる夢物語を夢想してしまうウォルターだった。そんな彼が真っ暗な自分の地味〜な職場にやってくると、嬉しいニュースが待っていた。「ライフ」が誇 る天才的かつ孤高のカメラマン、ショーン・オコンネル(ショーン・ペン)から新作写真のフィルムが届いたのだ。そんなショーンは、当然「ライフ」の苦境を 知っていた。そこでショーンは、今まで自分の写真を活かすために陰で支えてくれた功労者ウォルターに、革の財布をプレゼントとして送って来たのだ。一度も 会ったことのない間柄で、しかも世界的なカメラマンと無名で縁の下の力持ち…ショーンがそんな自分に報いてくれたことに、ウォルターは感激の気持ちを隠せ ない。ところがひとつ奇妙なことが…。ショーンから送られてきたフィルムの中に、あるはずの「ナンバー25」の写真が欠けていたのだ。どこを探しても入っ ていない。おまけにマズイことに、「ライフ」は廃刊にあたって最終号をその「ナンバー25」写真の表紙で飾ると決まってしまったのだ。名カメラマン、 ショーンが自ら「これぞ真髄の写真」と表紙に選んで来た一枚。あの「リストラ請負人」テッドが「見せろ」と言ってきても、ウォルターは当然見せるわけにい かない。何とか「現像中」と言ってごまかしたものの、ショーンに在処を聞かないと分からない。しかしそのショーンは何しろ孤高のカメラマンだけに、どこに フラリと旅しているか分からない。どこで写真を送り、どこでギャラを受け取るのか…その手の総務的なことはシェリルの担当なので、それを良い機会に彼女に 話しかけるウォルター。するとどうやらショーンは、今はグリーンランドにいるらしい。さすがに国外では…と意気消沈するウォルターだが、ショーンに聞かね ば写真は見つからない。それがいかに大変なミッションか知ってか知らずか、シェリルも「探しに行けばいいじゃない?」と言い出す。おまけに写真の中に写っ ているショーンも、ウォルターに手招きしているように見えるではないか。ええい、ままよ。ウォルターは取るモノも取らず着の身着のままで、グリーンランド 行きの旅客機の機上の人となったのだった…。

みたあと

  実はこの映画の劇場パンフレットを買うまで知らなかったのだが、これってダニー・ケイ主演の「虹を掴む男」(1947)のリメイクだったとは! まぁ、 もっとも「ズーランダー」だってジョン・フランケンハイマー監督の「影なき狙撃者」(1962)のリメイクらしいから、そんなに意外でもないのかもしれな いが(笑)。でも、あのあまりにも有名な作品のリメイクとは思わなんだ。そうなってくると、だいぶこの作品から受ける印象が変わってくるんだけど…。

こうすれば
  予告編には、特に主人公が夢想家であるとは描かれていなかった。だから、毎日チマチマと杓子定規に生きてきた小市民が、いきなり広い世界に冒険の旅に出る ことになって「人生が変わる」っていう話だと思っていたのだ。そしたら「虹を掴む男」リメイクということで、主人公が「夢の中だけは行動派」という要素が 追加されることになる。だとすると、単に引っ込み思案な奴が外に出て行って積極派人間になるというだけでなく、バーチャルなんとかでなくていわゆる「リア 充」(笑)をめざせ!…というニュアンスが出てくるわけだ。そのあたり、今風って言えば今風な話なのかもしれない。ただし、実はそいつが問題だった。主人 公が何かというといちいち夢に逃避するので、そのつど話の流れが中断してしまう。そこらへんをCGなどを使ってアクション映画的見せ場にしているのだが、 夢の場面の間は本筋のドラマは止まったままだから、物語の流れがとにかく悪いのだ。見ていて便秘みたいな気分になる。しかもこれらの夢想場面は主人公のた めになっていなくて、ボーッとしているのでリストラ担当者に目を付けられたり、自転車のまま標識に激突したり…と、大抵ロクなことになっていない。特に物 語の前半は、社内でリストラされそうな危うい立場なのにチンタラ夢ばっかり見ているから、ハタで見ていて余計イラつくのだ。ところがベン・スティラーは 「ワタシいい人」って言いたげなわざとらしい善良さを顔に貼り付けていて、見ていて何となく気持ち悪い。「夢見る人」は善人…って決めつけが、何とも押し つけがましいのだ。でも、つぶれかかった会社の中で仕事しないでボーッとしてたら、そりゃあクビにもなるよ(笑)。あげく、さんざ探し回っていたカメラマ ンのショーンが実は自分のオフクロと会っていた…と分かるくだりには、主人公と一緒に見ている僕も唖然。それじゃここまでの話は全部無駄じゃないか (笑)! おまけにそれが分からなかったのは、主人公が夢にひたっていてオフクロの話を聞いていなかったからだ…というあんまりなオチ。オマエ何やってん の?…と言わずにはいられなくなってしまう。予告編で語られていたような、「決まり切った日常から、広い世間に出てみよう」的な感慨は、一気に脳裏から消 し飛んでしまうのだ。

ここか らは映画を見てから!

みどころ
 ところが終盤になって主人公がカメラマンのショー ンと対面するあたりから、すべての元凶である夢のシーンがなくなってお話がスッキリしてくる。そしてラストのオチに至って、これが「決まり切った日常か ら、広い世間に出てみよう」的なお話ではないと分かるのだ。むしろ主人公が毎日コツコツ積み上げてきたような、そういう「地道な日常こそが尊いのだ」とい う結論になる。これには正直ビックリした。そして、最後に本作の「悪役」であるリストラ担当者に対峙した主人公が言う言葉がシャレている。「上から命じら れてやっていたことなんだろうが、いやな奴なんかになるなよ」…悪党としてコテンパンにやっつけてカタルシスを得るのではなく、単純に悪と断じない節度が あってとても後味がいいのである。そもそも物事万事デジタルのご時世に、「虹を掴む男」リメイクを「ライフ」廃刊話を絡めて作るという発想が素晴らしい。 そんなわけで映画を見終わった時には、かなり最初のイヤ〜な気分が払拭されていた。ただ、やっぱり「地道な日常こそが尊い」という結論なのだったら、あの 執拗に繰り返されていた夢の場面は、ちょっと話の本筋からはずれていたのではないか。もっと言うと、「なくてもよかった」のではないか(笑)。ただ、そう 言っちゃうとそもそも本作の「虹を掴む男」リメイクという企画の根幹が揺らいでしまうので…いやはや何をかいわんや。結局、いいセンいってるんだけど、残 念ながらどこかがズレてるという印象は最後まで拭えないのだ。

さいごのひとこ と

 タイム・ワーナーでは絶対通らない企画。

 

「エレニの帰郷」

  (The Dust of Time)

Date:2014 / 04/ 14

みるまえ

  ギリシャの名匠テオ・アンゲロプロスの遺作。亡くなっていたのは知っていたが、その遺作が日本公開されていなかったということを、恥ずかしながら僕は知ら なかった。それでも映画ファンなのか…とお叱りをいただきそうではあるが、正直言って僕はアンゲロプロス映画の熱心な観客でも信者でもない。最後に見た作 品は、マルチェロ・マストロヤンニ主演の「こうのとり、たちずさんで」(1991)だったか。その後の「ユリシーズの瞳」(1995)は見たような気もす るが、実際のところは定かでない。そんな僕なのでなかなか見る気にならなかったのだが、いよいよ終わりが間近となってきたところで、とにかく見るだけ見よ うと劇場に足を運んだわけだ。ウィレム・デフォー、ブルーノ・ガンツ、ミシェル・ピッコリ、イレーヌ・ジャコブといった「豪華キャスト」で、しかも主人公 が映画監督であるという点も、見たくなった大きな要素のひとつだ。

ないよう

  ローマのチネチッタ撮影所。そこにやって来たのは、今この撮影所で新作を制作中のアメリカ人映画監督(ウィレム・デフォー)。彼は撮影済みのフィルムを チェックしたり、厳しい表情でスタッフとやりとりしたりしている。どうやら撮影は中断しているらしい。その作品の内容は、彼の生い立ちに関わるもののよう だ…。1950年代、真夜中を走る寝台列車。ソ連に向かうこの列車の中で、スピロスという男が何やら不正入国の手引きをしてくれる人物とアレコレ相談して いる。どうやらスピロスは、現在ソ連にいて出国できずにいるエレニという恋人を探しに行くらしい。そして見つけたら、ただちに彼女と共に出国する。そのた めの手はずを打ち合わせしているスピロスの表情に、徐々に緊張がはしっていく。こうしてやって来たソ連で、スピロスはエレニ(イレーヌ・ジャコブ)と再 会。ところが二人が路面電車に乗っている時に、何かが起こった。電車は停車し、乗客はみな何かに憑かれたように外に降りていった。街には建物から出てきた 人々が大勢出てきていた。スターリンの死去が報じられたため、人々は呆然となっているのだった。やがて集まって来た人々も散らばって去り、その場には路面 電車が停まったままで放置されている。その路面電車の中では、再会の喜びを抑えきれずにスピロスとエレニが抱き合っていた。しかし、そんな電車を不審に 思った警察が、電車に残っていた二人を逮捕。彼らは離ればなれにさせられる。エレニは厳寒のシベリアに連れて行かれ苦難の日々を送ることになるが、そこで 彼女を支えたのはやはりシベリア送りになったユダヤ人のヤコブ(ブルーノ・ガンツ)。やがてエレニはスピロスとの間の息子を産むが、何とかさまざまな手を 使ってこの息子をモスクワへと逃がすことに成功した。これが、後年に例の映画監督になる。エレニとヤコブも長年の苦難の末にオーストリアへの越境に成功。 一緒に逃れてきた人々とともに、イスラエルへ行く者とアメリカへ行く者に別れることになる。すでにスピロスがアメリカに移っていると聞いていたエレニはア メリカへ。ヤコブはイスラエルに行くかどうか迷ったが、エレニに同行することを決意する。こうして彼らは1970年代、アメリカへと向かうことになるのだ が…。

みたあと

  テオ・アンゲロプロスといえば「旅芸人の記録」(1975)で知られることになったギリシャの巨匠で、日本に紹介された当時からやたらに敷居が高い存在 だった。カメラの超長回しと物語の時勢が錯綜する独特の作風。決して取っつきやすい作品ではないし、この人のファンを自称する人たちもまた「一般の人には 難解な作品を愛好し理解するオレってスゲエ」的な自負を隠さない(笑)。こっちは学生の頃からシネフィルがゴキブリよりもキライ(笑)と来ているから、 まぁアンゲロプロスにもいいイメージは持っていなかった。それでもその作品は「お勉強」させてもらうかのごとく、ありがたく拝見させていただいてはいたの だ。その正直な感想を言わせてもらえれば、世評で言われているほど物凄く難解でハイブロウな訳でもないけど、さして面白い訳でもない…という印象だった。 興味深く見させてはもらった。でも、凄く気に入った訳じゃないとでも言おうか。もちろんアンゲロプロス作品をこよなく愛していらっしゃる方々はいるんだろ うし、そういう方々からすれば僕が分かっていなくて程度の低いバカということになるんだろうが、正直言って見てもあまり記憶に残っていないってことは、僕 にとって大切な映画って訳じゃなかったんだろう。そんなわけで、久々に見ることになったアンゲロプロス作品が「遺作」ってのも申し訳ない話だが、そうでも なかったら見なかっただろうってことも事実。何でも本作はエレニをヒロインとした現代史を描く三部作の2作目らしく、1作目「エレニの旅」(2004)を 見ていない僕にとってはそれだけでハンデがあるなと思っていたが、結果的にはあまり関係なかったように思う。前作を見ていようと見ていまいと、たぶん分か らないところは分からないし、それは分からなくてもあまり問題なかったような気がする(笑)。そもそも全部分かる必要がない映画ってのは世の中にあるもの だ。これはそんな映画なのである。ちなみに見ていて思い出したが、本作の主人公の映画監督は明らかにアンゲロプロス自身をダブらせたものだろうが、なぜか アメリカ人という設定。演じているのもハリウッド・スターのウィレム・デフォーだ。そういやかつての「ユリシーズの瞳」でも主人公はアメリカの映画監督 で、あの時にはハーベイ・カイテルが演じていたっけ。揃いも揃ってB級アクション感漂う俳優ってのも面白いところだが(笑)、これってどこかでつながって いるのだろうか? それとも、これってアンゲロプロスのファンからしたら、みんな知ってる当たり前のことなんだろうか?

ここからは映画を見てから!

こうすれば
 いわゆる「20世紀を総括する」的な内容の大作だが、商業娯楽映画のようにことさら「超大作」的な煽りがない。テオ・アンゲロプロス作品なんだから、当 然っちゃ当然の仕上がり。何の説明もなく新作に取り組んでいて煮詰まっている映画監督が出てきて、いきなりその映画の内容らしき、監督自身の母親の物語へ と唐突に移行する。この「何の説明もなく」とか「唐突に」というのが本作、そしてアンゲロプロス作品ならではの話法で、見ている側への親切心など微塵もな い。もちろん信者の方々にすれば、何でも親切にされないと分からない観客などバカということになってしまうのだから何をかいわんや。実際のところ、最初確 かに監督はローマのチネチッタで映画を製作していたはずなのに、途中からなぜかベルリンで製作していることになっていたりして、正直ちょっと混乱してし まった。分からなかった僕がバカなのか。でも、それは大したことではない。多少分からないことがあっても、それはそれで問題ないどうでもいいことだ。ま た、劇中でエレニを奪還するために単身乗り込んだスピロスが、彼女と再会したうれしさからか路面電車の中でコトをおっぱじめたあげく、警察に捕まってしま うという展開にはアホ過ぎて唖然となってしまうのだが、これはそういう見方をしちゃあいけない映画なんだろう(笑)。映画の終盤、ヤンチャが過ぎる孫娘に 付き合わされたおかげでおばあちゃんが残念な結果になるのも困った話だが、それもそう見てしまってはいけないってお約束なんだろう。そのアホっぽさまで も、あくまで「素晴らしい!」とホメなきゃいけない映画なのだ。ただ大変申し訳ないのだが…ここだけの話、ここで描かれている20世紀現代史ってのは…こ んなあっち行ったりこっち行ったりした描き方をされている関係から、決して「深み」を持って描かれているとは言えないのだ。例えばスターリンの死だとか、 ラジオから聞こえてくるウォーターゲート事件だとか、ベトナムの徴兵拒否だとか…時代を感じさせるキーワードはあちこちに散りばめられているが、それって 例えばNHKの朝ドラで戦争っていうと窓ガラスにテープが貼ってあったり、ラジオから玉音放送が聞こえて来たり…といった、一種「典型」化したアイテムを チラチラ見せていくのに似ている。こう言っちゃ申し訳ないが、意外にワンパターンな平板な表現でしかないのだ。おっと、それって言っちゃいけないことなの か(笑)? そしてラストに20世紀の終末と共にエレニもまた亡くなってしまうあたりは、まるで夏目漱石の「こころ」のラストで主人公が「明治の精神に殉 じる」のと共通するモノを感じてしまうが、正直言ってそこに僕が共感できるかと言えば「否」と言わざるを得ない。アンゲロプロスは当然そこに共感して作っ ているのだろうが、「20世紀と心中」なんて…そこはもう個人的な思い入れの領域なんでカンベンしてもらいたいのだ。うわ〜っ、アンゲロプロス信者のみな さん映画サロンのみなさんごめんなさい、僕は映画の価値の分からないバカな男です〜(笑)

みどころ
  しかし考えてみると、アンゲロプロスの映画は元から物語性で見せる映画だったり、キャラクターを掘り下げる映画なんかではなかった。例えて言うのは難しい が、離れたところから壁画を眺めるようなそういう視点の映画作りが特徴だった。だから、一般的に言われる「深み」に欠けるのは、致し方ないのかもしれない のだ。そういう意味では…こんな事を言ったら「純粋映画ファン」(笑)は「あんな俗っぽくて薄っぺらいミーハー映画と一緒にするな」と顔を真っ赤にして怒 るかもしれないが…20世紀現代史をBGMをガンガン流しながら駆け抜ける、クロード・ルルーシュの大作「愛と哀しみのボレロ」 (1981)に酷似しているというべきかもしれない。いや、これは意外に真面目にそう思っていて、ハリウッド・スターを含むオールスター・キャスティング をとっていたり、描き方が平板でステレオタイプで類型的だったり、分かりやすく典型的な歴史キーワードを散りばめていたり、何よりドラマ性が極めて希薄な 点…が結構イメージ的に近い気がする。結構発想の原点は似たようなもんじゃないのか。正直な話、僕は本作を難解だとも思わなかったし、フラフラと時制が 行ったり来たりして曖昧な描写も気にならなかった。そもそも、そこは見るべきところだと思わなかった。一方で…スターリンが死んだと知って広場に人々が集 まってくるくだりや、シベリアに送られたエレニやヤコブをはじめとする政治犯たちが雪の中を階段を黙々と上っていくくだりは、アンゲロプロスらしい長回し が遺憾なく活かされた素晴らしい場面だった。何より「映画」としての魅力を否定できないのだ。やたらに神棚に上げるのもどうかと思うが、やはりアンゲロプ ロスは希有な映画作家だったとここは認めるべきなのだろう。

さいごのひとこ と

 ウィレム・デフォーの撮ってた映画は完成したのか。

 

「早熟のアイオワ」

 The Poker House

Date:2014 / 04/ 07

みるまえ

 タイトルが「早熟のアイオワ」とは恐れ入った。レイトショーで細々とやっている映画だが、キャストにご注目。今をときめく若手女優二人…「世界にひとつのプレイブック」(2012)でオスカーを受賞したジェニファー・ローレンス、「キック・アス」 (2010)で大いに名を売ったクロエ・グレース・モレッツが主演しているというではないか。ただ、この強力キャストでレイトショーということは、彼女た ちが無名時代に出た作品で、おそらく大した出来映えでもないだろうと想像はつく。「早熟のアイオワ」という凄いタイトルも、この二人の女優さんの「早熟」 ぶりから付けられたのだろう。今だって若い彼女たちの無名時代となれば、そりゃあ「早熟」だわな。そんなこんなで大して期待は出来なそうな作品ながら、期 待しなければソコソコ楽しめるんではないか。そんなわけで、仕事を終えた平日にいそいそ映画館へと出かけて行ったわけ。

ないよう

 1976 年、アイオワ州の片田舎の町カウンシルブラフス。まだ外に人けもない早朝、家の扉を開けて一人の少女が戻ってくるところから物語は始まる。少女の名前はア グネス(ジェニファー・ローレンス)。彼女が真っ暗な家の中に入ってしばらくすると、奥から見知らぬ男がオズオズと出てくる。しかし、アグネスは驚きもし ない。こんなことは日常茶飯事だ。この男は、彼女の母親の「客」であることは明らかだ。「仕事」を終えて寝室でグッタリ寝ている母親を置いて、今から帰る ところなのだろう。ほぼ毎日のことともなれば、いちいち驚いてもいられない。アグネスは三姉妹の長女。次女のビー(ソフィア・ベアリー)は毎朝早起きして 新聞配達で家計を助けており、三女のキャミー(クロエ・グレース・モレッツ)は今日は友だちの家に泊まっていて留守。というより、ずっと友だちの家に泊ま りっぱなしだ。やはりこの家にいるのはイヤなのだろうか。この家はカラダを売って稼いでいる母親サラ(セルマ・ブレア)の「仕事場」であり、毎夜、商売女 仲間やポン引き、ドラッグディーラー、それらの客たちやポーカー賭博をしにやってくる男たちでごった返す。人呼んで「ポーカー・ハウス」。決して年頃の子 どもたちや娘たちがいるべき場所ではない。アグネスはここで妹たちがこうした悪い影響を受けないように守りつつ、自分もまたそんな環境に染まらぬように懸 命に生きていた。そんな日常にはもう驚かなくなってはいるが、それと自分との間には一線を画することを心がけているのだ。しかしかくいうアグネスも、母の 愛人兼ヒモのデュバル(ボキーム・ウッドバイン)が絡んでくればねちっこいディープ・キスで応じる。アグネスとて「お年頃」だ。そういったアレコレに興味 が湧かないわけじゃない。それでも何とか身近な雑音をシャットアウトして、普通の10代の女の子らしい生活をしようと頑張っているのだ。くたびれきったボ ロボロの状態でベッドから起き出した母親サラは、そんなアグネスの気持ちを知ってか知らずか、「そろそろカラダを売らないか」ととんでもないことを持ちか けてくる。そんな母親の姿と自分の周囲の状況を見ていると、時々本当にやりきれない気持ちになるアグネス。それでも、どうしたって何か日常が変わるわけで はないのだ。この日もそんな感じで、どうしようもない日常がダラダラと続くはずだったのだが…。

みたあと

  映画が始まってオープニング・タイトルが出てきた時、ふと監督の名前を見て驚いた。「ロリ・ペティ」…女性の監督。しかも、どこかで見たことのある名前 だ。誰だろう?…と映画を見ながらしばらく考えていたら、やっとこ思い出した。ロリ・ペティって確か女優さんの名だ。しかも僕はこの女優さんの数少ない (ひょっとしたら唯一の)主演作を見ていたのだ。それは、今はなき恵比寿ガーデンシネマで上映された、「タンク・ガール」(1995)なる作品。「タン ク・ガール」ったって、山田洋次の「馬鹿が戦車でやって来る」(1964)とは訳が違う(笑)。元々はイギリスのマンガが原作らしく、滅亡した地球を舞台 に刈り上げ頭のパンクな女の子が戦車に乗ってハチャメチャな活躍を繰り広げるという、ちょっとキッチュなセンを狙った映画だった。オープニングがかなりゴ キゲンで、原作マンガの絵をさまざまにコラージュした映像に、懐かしのテクノバンド「ディーヴォ」のノリノリのテーマソングが流れるという素晴らしい出来 映え。しかし肝心の映画が始まると、ガクッと面白くなくなるという残念すぎる映画だった。マンガの「タンク・ガール」はチャーミングなのかもしれないが、 それを実際の女優がマンガそっくりに扮して演じても、正直言って刈り上げ頭の女の活躍はさほど魅力的に見えないってことなんだろうか。千葉真一が髪型もメ イクもゴルゴ13そっくりに固めたためにスゴイことになってしまった(笑)、「ゴルゴ13/九竜の首」 (1977)にも似た結果に終わってしまったと言うべきなのか。はたまた、ロリ・ペティという女優さんそのものに魅力が乏しかったのか…。オープニングは サイコーだったし悪役にマルコム・マクダウェルというクセモノ役者を配したにも関わらず、映画「タンク・ガール」は悲惨な評価しか得られなかったと記憶し ている。ロリ・ペティという女優さんの名前も、それ以来まったく聞かなくなってしまった。ところが、どっこい生きてて監督さんになっていたとは! 映画を 見るまでまったく予想していなかったので、変に親近感が湧いて不思議な気分で映画を見ることになったわけだ。

ここか らは映画を見てから!

こうすれば
  こうして見始めた本作だが、お話は何とも殺伐として冷え冷えとしたもの。DV夫を追い出したはいいが、生活力がないためか売春で身を立てることになった母 親と、その母親に育てられている三姉妹のお話。お目当てのジェニファー・ローレンスはその三姉妹の長女で、実質上の主人公。こんな環境にも関わらずしっか り者で、妹たちに悪影響が及ばぬように頑張ってもいる。もう一人のお目当てクロエ・グレース・モレッツはというと、実はジェニファー・ローレンスのメイン のお話にはあまり絡まず、友だちの家で目覚めた後は酒場で飲み食いしてダラダラと時間をつぶす。思っていたより活躍の場がない役だった。ついでにこの二人 ほど知名度がないソフィア・ベアリーなる子役が演じている次女も、新聞配達している場面ばかりであまり出番がない。まぁ、ほぼジェニファー・ローレンス一 人舞台なのだ。そのローレンスを取り巻く環境は、前述の通り劣悪そのもの。そこに染まらずに頑張るけなげさと向こうっ気の強さには、現在の彼女に通じる魅 力の片鱗が伺える。本作には知名度の高い役者がもう一人出ていて、それがローレンスら三姉妹の母親役セルマ・ブレア。コメディ「キューティ・ブロンド」(2001)の時ですら目の下にクマがスゴくて、「ヘルボーイ」 (2004)でも幸薄感濃厚な暗いお色気が売り物の彼女。本作ではどんより…どころか思いっきり真っ暗で、もう若くもない女をあまりにリアルに演じちゃっ ていて、これは本人のためになるんだろうかとハタで心配になるどん底ぶり。そんなわけで、ヒロインであるローレンスを取り巻く劣悪な生活環境の描写は完璧 だ。しかし、それ以外がよろしくない。変に三姉妹にもバランスを取ろうとして、次女の新聞配達や三女の酒場での飲み食い場面など入れなくてもいい中途半端 なエピソードを入れているのが完全に裏目。ただでさえお話がどんよりした日常をダラダラと描くスタイルをとっていて、「朝起きて歯を磨いてトイレに入って ケツを拭いて」…的に延々描かれているところに、さらに無駄なエピソードのせいで冗長になっているようにしか見えない。さらに、お話が後半に入ってヒロイ ンのローレンスに「決定的な災難」が降りかかってくるのだが、そこからの展開にも疑問がある。彼女はこの「災難」に打ちひしがれながら、何とか立ち直って バスケット大会で大活躍する(彼女は高校のバスケット部のエースなのだ!)。そして三姉妹でクルマに乗って、カーステから流れる「Ain’t No Mountain High Enough」に合わせてノリノリで歌う。このマーヴィン・ゲイとタミー・テレルの名唱で知られる曲は、モータウン・レコードを扱ったドキュメンタリー映 画「永遠のモータウン」 (2002)でもヤマ場として取り上げられていたし、ジュリア・ロバーツ主演の「グッドナイト・ムーン」(1998)という作品でも彼女が子どもたちとこ の曲を歌って大いに場面を盛り上げていた。一発聞けば了解の、高揚感溢れる曲なのだ。だからこの曲を歌いながら、逆境にめげながらも三姉妹が徐々にポジ ティブな気分を取り戻す…という設定は悪くはない。しかしながら映画はそのままそこで終わってしまい、そこから何も起こらない! その日にヒロインの身に 降りかかった「不幸な事件」を振り切るように、あるいはそれをキッカケに心機一転して、故郷を離れて旅立つ…というようなことも起きない。単にカーステで 三人で歌って、ちょっと良い気分になっただけ。ただただ、何の発展性もない話で終わってしまうのである。これはちょっとどうなんだろうか。最後に、「彼女 はその後この映画の脚本・監督を手がけた」みたいな文言がドヤ顔で画面に出てくる。つまり本作は監督・脚本のロリ・ペティの自伝で、ジェニファー・ローレ ンスの役はペティ自身なんですよってことなんだが、そんなこと言われても「だから何なんだ」としか思えない。というか、本人は鼻高々なんだろうが、こんな ショボい映画しか作れなかったのか…という気持ちにしかならない。いやぁ、もうガッカリですよ。そもそも「不幸な事件」を振り切るようにバスケットの試合 に出るのはいいが、ヒロインが出てくるまでボロ負けだった試合が、彼女が出たとたんにシュートの山…ってマンガみたいな展開もどうなんだろう。本作が本当 に「ロリ・ペティ監督」の自伝ならば、あの描き方だけ見てると大げさな「年寄りの自慢話」にしか見えない。その直後に「ヒロインはその後この映画を撮 る」って文言が出てくるだけに、余計に「自慢」めいた内容に見えてしまう。結局「いい気なもんだ」としか思えなくなってしまうのだ。申し訳ないけど、これ はジェニファー・ローレンス、クロエ・グレース・モレッツが出ていたからレイトショーとはいえ公開されたものの、本来は日本公開されるべき映画じゃなかっ たと考えるべきだろう。女優ではイマイチだったロリ・ペティ、監督になって挽回もちょっと難しかったようだ。

さいごのひとこ と

 ロリ・ペティ先生の次回作をご期待ください。

 

「ホビット/竜に奪われた王国」

 The Hobbit - The Desolation of Smaug

Date:2014 / 04/ 07

みるまえ

 何だかんだ言って「ロード・オブ・ザ・リング」 (2001)三部作を終えた後のピーター・ジャクソンって、一般の人々から見ても映画ファンから見ても、かなり迷走している感じがしたんじゃないだろう か。もちろんあれだけのボリュームの大作でしかも三部作。おそらくピーター・ジャクソンが映画人生を終えた後まで生涯の代表作と評されるであろう「ロー ド・オブ・ザ・リング」の後には、何を持って来たってイマイチ扱いは致し方ないところ。もちろんその後に発表した「キング・コング」(2005)だって「ラブリー・ボーン」 (2009)だって見どころはたくさんあったが、「指輪」ほどの「問答無用」な凄さは持ち得ない。あの三本がいきなりスタンダードになっちゃうんじゃ気の 毒だとは思うが、映画を見る側は勝手なものでどうしてもそんな先入観で見ちゃうのだ。おまけにスピルバーグと組んでプロデュースに回った「タンタンの冒険/ユニコーン号の秘密」 (2011)は、僕からすればおそらく「スピルバーグ史上」最低最悪の出来。「タンタン」の続編は攻守交代で今度はピーター・ジャクソンが監督をすること になっていたようだが、いつまで経っても制作の話が聞こえて来ないというのは、つまりそういうことなんだろう。もはやあの作品は、スピルバーグ、ピージャ ク両者にとっての「黒歴史」化したと思われる。だからなのだろうか、ピーター・ジャクソンが結局「ロード・オブ・ザ・リング」ビギニングこと「ホビットの 冒険」映画化に着手したと聞いても、僕は一向に驚かなかった。というか、「やっぱりそこしかないんだね」と同情すらしたくらいだ。だから、結局は「延命処 置」としか思えないというのも本音。おまけにそれがまたしてもの「三部作」と聞いて、「引っ張る気マンマンだな」と呆れざるを得なかった。そして、いくら 「ロード・オブ・ザ・リング」で大成功したからと言って、もう一度同じようなことを繰り返してもうまくいくとは限らない…とどこか冷ややかに見ていたのも 事実だった。エディ・マーフィーが自分の十八番の役どころを満を持して再登場させたのに、見るも無惨な結果に終わった「48時間PART 2/帰ってきたふたり」(1990)や「ビバリーヒルズ・コップ3」(1994)みたいに、同じことをやっても時と巡り合わせが違って大ハズシになってし まうイヤな予感がしていたのだった。しかし、そこはどっこいピーター・ジャクソンはモノが違うのか。世間的にも「ロード・オブ・ザ・リング」の時の盛り上 がりが感じられないと思っていた「ホビット/思いがけない冒険」 (2012)だったが、いざ劇場に足を運んでみれば「やっぱり面白い」「やっぱり凄い」とメンコの数の違いを存分に見せつける結果となったではないか。さ すがにピージャク、「指輪」やらせりゃピカイチなんだよなぁ。そして第2作がやってくるやすぐにも見に行った…と言いたいところだが、何しろ1本が3時間 近くの巨編だからどうしても腰が重くなる。おまけに最近はどうも生理的な現象に弱くなって、長い映画はスッカリ苦手だ。そんなわけで、そろそろ終わっちゃ うのではないかという頃に何とか劇場に滑り込んだ次第。

ないよう

  それは土砂降りの晩だった。ここはホビット庄のはずれ、ブリー郷の町。その町のやたら繁盛している居酒屋兼食堂「躍る小馬亭」に入っていくのは、いかにも タフな風貌のドワーフ、トーリン・オーケンシールド(リチャード・アーミティッジ)。ドワーフ族の王の血筋をひく男だ。ここでトーリンは席を確保し、これ から酒と飯にありつこうというところ。しかし、トーリンはただ者ではない。彼は即座に、自分目がけて尋常ならざる殺気が投げかけられていることに気づい た。それは、気づいただけでも二人。トーリンが剣の柄に手をやり、今すぐにでも飛びかかれる体勢を整えたその時…。「いやぁ、これは奇遇じゃのお!」とデ カい声を上げて、トーリンの席の向かいに腰掛けた男が一人。それはかの有名な魔法使い、灰色のガンダルフ(イアン・マッケラン)だった。ガンダルフは驚く トーリンに、なおも一方的にアレコレとまくし立てる。それはトーリンとて知らぬ訳のない、かつてのドワーフの都「エレボール」の話だ。かつては圧倒的栄華 を誇っていたこの都も今は巨大な竜のスマウグに奪われ、ドワーフは流浪の民となってしまった。その「エレボール」を取り戻したければ、巨竜スマウグが巣く う「はなれ山」にある「アーケン石」が必要だ。だが「アーケン石」を手に入れるためには、一種の「忍びの者」が必要になるぞ…と。何のことはない、奇遇ど ころかガンダルフはトーリンに会う気マンマンだったのだ。かくして「エレポール」奪還のための旅は、この夜から始まった…。それから12か月後。先ほど出 てきた「躍る小馬亭」でのやりとりが発端となって、ホビット族のビルボ・バギンズ(マーティン・フリーマン)はガンダルフやドワーフたちと旅を続けてい た。道中でアゾグ(マヌー・ベネット)率いるおぞましいオークたちに追われ、生きた心地がしない。しかしもっと恐ろしいのは、黒くて毛深い巨大な生き物の 存在だ。その熊のような生き物が現れたと知ったガンダルフは、嫌な予感を抱かずにいられない。ともかくオークたちから身を隠さねばならない。巨大な熊も追 いかけてくる。ガンダルフは一行を引き連れ、森を駆け抜けて、ある一軒の家の敷地に滑り込む。すんでのところで門のかんぬきを閉めて、難を逃れた一行。し かしガンダルフは、一同に衝撃的な事実を告げるのだった。「ここはあの熊の家なんじゃ」…その名はビヨルン(ミカエル・パーシュブラント)。ある時は大 男、ある時は巨大な熊。その日もビヨルンは大男の姿に戻り、家の中で休んでいる一行の前に現れた。この男、ドワーフはキライだとズバリと歯に衣着せぬ言葉 を放つが、オークの方がもっと嫌いとのことで、一向に逃走用の馬を貸してくれることになった。さて、目的の「はなれ山」まで、普通の平坦な道を行っていた のでは、例のオークたちに襲われるし日数も足りない。おぞましくてオークたちも近づかない、森の中を進んでいくしかない。こうして森の入口までやって来た 一行は、ビヨルンに借りた馬をその場で放った。行く手はどこまで続くか分からない深い森だ。ここで何を思ったか、ガンダルフが突然その場を離れると言い出 す。どうやら、何か済ませねばならない用事があるらしい。「はなれ山」に着いたら私を待っていろ…と告げて去ろうとしたガンダルフに、いきなりビルボは何 かを告げようとした。例のゴラムの洞穴で見つけた「指輪」について打ち明けようとしていたのだった。だが、言えない。それを言ってしまったら、せっかくの 「指輪」を取り上げられてしまうかもしれない。すでにその「虜」になりつつあるビルボとしては、そんなことはとても耐えられない。だからガンダルフに「洞 穴で何を見つけたんだ?」と聞かれても、「勇気さ」とごまかすしかなかった。するとガンダルフは何か察したのか全く気づかなかったのか分からないが、「そ うか、それが必要になるぞ」とビルボに告げて去っていくのだった。こうしてガンダルフと別れて森に踏み入った一行だが、森は彼らの想像以上に深かった。道 に沿って歩いたつもりが、途中で道がなくなってしまう。慌てて戻って歩き直してみても、何度も何度も同じところを回っているばかり。これはマズイと高い木 の上に上ったビルボは、近くに湖があるのを発見。湖があるとなれば、「はなれ山」も遠くはない。喜び勇んで木から下りようとするビルボだが、誰も彼の声に 応えてくれない。みんなどこに行ってしまったのか。そんなビルボも下りる途中で、何者かに足をとられてしまう。それは暗い木立の下に隅々まで張り巡らされ た、巨大なクモの巣ではないか。唖然とするビルボの前に現れたのは、人間よりも…当然ホビットよりも巨大な、おぞましいクモの姿だった…。

みたあと

  前作「ホビット/思いがけない冒険」の時には、感想文にも書いた通り、僕は「また指輪かよ」とちょっとウンザリして見に行った。「結局こいつは指輪だけ」 とも思ったし、「今さら指輪を繰り返しても前のようにはいかねえだろう」とも思った。つまりは、かなり意地悪な気持ちを抱いて見に行ったわけなのだ。とこ ろが驚いたことに、やっぱり面白いんだよねぇ。「何でまた指輪を繰り返さなきゃならないのか」という必然性についても、その後の3D技術の進歩という理由 が立つ。確かにこれだけ3Dのテクノロジーがちゃんと確立すれば、「指輪」だって3Dで作り直したくなるわ。見ているこっちだってそんな気分になるほど、 「ホビット/思いがけない冒険」は見る喜びに満ちた映画だった。仮に物語が単なる繰り返しだったとしても、僕は許したかもしれない気がする。だから、その 「ホビット」の2作目が公開されるとなれば、当然見に行きたいという気持ちにはなる。しかし、このトシになると長い映画はどうも腰が重くなる…というの は、この感想文の冒頭に書いた通りだ。だから公開されてしばらく経っても、僕は劇場に辿り着けなかった。ようやく行く気になったのは、ポコッとまとまった 時間が空いたからでもあるし、そろそろ行かないと終わっちゃうと恐れたからでもあった。「指輪」ばかりはビッグ・スクリーンで見ないと話にならない、家庭 のテレビ画面で初対面という訳にはいかないのである。そんなわけで、突如見に行くことになった本作。残念ながら前作「ホビット/思いがけない冒険」を DVDでおさらい…なんてことはしていなかったし、自分の感想文すら読み返してなかった。実は原作の「ホビットの冒険」も子供の頃に読んでいたけれど、特 に好きだった訳でもなかったので内容はまるっきり覚えてなかった。だから映画が始まったのはいいけれど、前作ってどんな話でどこで終わっていたのか、か らっきし覚えていなかったのだ。これは困った。正直言ってファンタジーものの宿命なのだが、物語を進めていく上での特殊なお約束ごとやルールがたくさんあ るし、耳慣れない固有名詞もゴチャゴチャ出てくる。そこに三部作の真ん中二作目であるにも関わらず、それまでのあらすじを覚えていない…となると、ほとん ど何が始まって何が起こっているのか分からないまま映画を見始めなければならないということになる。実際、僕が本作を見始めた時は、そんなような状態だっ た。いきなり土砂降りの雨から始まって、「ありゃりゃ、これってどういう状況なんだ?」と完全に戸惑ってしまった。当然の事ながら、その後もどういう状況 なのか、前作とのつながりはどうなっているのか…はからっきし分からない。こりゃマズかったと思っても後の祭りだ。そんなわけで、僕は映画を見始めたかな り最初の段階で、物語を完璧に把握しようとすることを諦めてしまった。「サンポール」(笑)だか「エレポール」だか何だか分からないモノが正確には何を指 しているのか、そもそも旅の目的が何だったのか…そんなことは見ていればそのうち出てくるのだかろうから、いちいち気にしないことに気持ちを切り替えたの だ。とりあえず主役のホビットとドワーフの連中、そして魔法使いのガンダルフが善玉であること。善玉とはいえ、ドワーフのリーダー格のトーリンには、人を にらみつけたり恫喝したりするいじめっこ体質があること。いかにも悪そうな顔をして出てくる奴らは、問答無用で悪い奴であること。これさえ分かれば全く問 題はない。そう思ってスクリーンと対峙することにした。正直、面倒臭いことは考えたくないというのが本音だったわけだ。

ここからは映画を見てから!

みどころ
  結果的に言うと、この映画は細かい設定や状況、物語が分からなくても、まったく問題はなかった。というか、それを気にしなくなったおかげか、より映像に集 中できて「見る楽しみ」を堪能できた。物語やら固有名詞など分からなくても、アクションは息もつかせぬ勢いだし、スペクタキュラーな映像は群を抜いている し、3D技術はピカイチで他の名ばかりの立体映画を蹴散らかす素晴らしさだし、その世界観は圧倒的だ。それだけで十分オツリが来る。これで「映画評」とか 「感想文」と言っていいのだろうかと言われたら返す言葉がないが、実際そう思ったんだから仕方がない。こりゃあもう、ピーター・ジャクソンがよっぽど「指 輪」の世界にピッタリなんだと思うしかない。文句の言いようがないよ。そして後半に登場する竜の声を担当するのが…「スター・トレック/イントゥ・ダークネス」 (2013)に次いでまたまた登場。英国のテレビシリーズ「シャーロック」で売り出し中のカンパチ(笑)、あるいは平成の三田明(笑)こと、ベネディク ト・カンバーバッチだ。しかも「ホビット」には主役にこの「シャーロック」のワトソン役であるマーティン・フリーマンを抜擢しているから、またまたここで 「シャーロック」の人気者を起用ってことになる。しっかし、こいつしかいないのかねぇ。っていうか、こんなに何でも出したくなるほど「旬」ってことなんだ ろうか。こう言っちゃ何だが、日本のテレビ局なみに発想が貧困なキャスティングじゃないの? まぁ、相変わらずカンパチ旦那が偉そうな台詞を吐いていたの には笑っちゃったけど(笑)。こいつって上から目線の役しか出来ないのか? それはともかく、それ以外でケチを付けるべきところといえば、あれだけウジャ ウジャ出てきてドワーフがほとんど烏合の衆ってことぐらいだろうか。いてもいなくてもいいような連中ばかりってのは、さすがにマズくねえか? それ以外 は、見ていてワクワクハラハラしどうしってことを告白しなくてはなるまい。のっぴきならない事態が起こったところで「つづく」という終わり方も、三作目を 待つのがもどかしくなる素晴らしい幕切れ。「スター・ウォーズ/帝国の逆襲」(1980)を最初に見て、あのエンディングに衝撃を受けた時のことを思い出 した。にくいエンディングだねぇ。

さいごのひとこ と

 宇宙人だろうが竜だろうが偉そうなカンパチ(笑)。

 

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