新作映画1000本ノック 2014年3月

Knocking on Movie Heven's Door


こ のページの作品
 「ラッシュ/プライドと友情」 「アメリカン・ハッスル」 「ウルフ・オブ・ウォールストリート」 「スノーピアサー」 「アイム・ソー・エキサイテッド!」

 

「ラッシュ/プライドと友情」

 Rush

Date:2014 / 03/ 31

みるまえ

  正直に言って、僕は昔からモータースポーツにまったくと言っていいほど関心がない。だからあのロン・ハワードが、F1を題材に映画を撮ったと聞 いて耳を疑ってしまった。今でこそ渋みのある大人の映画も撮るようになったハワードだが、元々はハリウッド娯楽畑のホンワカムードが身上だった人。だか ら、まさかレース映画を堂々と描くとは、夢にも思わなかったというのが本音だ。性格も戦い方も違う二人のトップレーサーのライバル関係を描く作品と聞いて も、なおさらハワードとの接点は浮かんで来ない。二人のレーサーのうちニキ・ラウダはさすがに僕ですら名前を知っていたが、映画ではそのラウダが瀕死の状 態に陥る事故も描かれるというではないか。ロン・ハワード作品としてこれってどんな映画になるんだろう。そんなこんなで僕が映画館にたどり着いたのは、そ ろそろ上映終了がチラつき始めた頃のこと。感想文がさらにそれから遅れてしまったのは、毎度のことながら申し訳ない。

ないよう

 1976年8月、ドイツ・ニュルブルクリンク。F1第9戦ドイツGPのレースが、今まさに始まろうとしていた。イギリス出身のレーサー、ジェー ムズ・ハント(クリス・ヘムズワース)はワイルドなキャラクターで売っていたが、さすがに彼もスタート前の緊張感でピリピリ。そんな彼が視線を走らせた先 には、今回ハントと共に走るオーストリア出身のレーサー、ニキ・ラウダ(ダニエル・ブリュール)を駆るマシンがあった。この年、圧倒的な強さでポイントを 稼いでいたラウダのことを、常に上を目指すハントが意識しないわけはない。しかしハントがラウダに走らせた視線には、それ以上の意味があった。実はハント とラウダの間には、長い間に渡る浅からぬ縁があったのだ…。それは数年以上前にさかのぼる。オーストリアの名家の出身であるラウダは親の意向に背いてモー タースポーツの道を志し、自力で道を切り開いていった。その際にモノを言ったのが、彼の沈着冷静で「理論家肌」なところ。時にチームのメカニックよりもマ シンに詳しいラウダの発言に、誰もが一目置かずにはいられなくなる。歯に衣着せぬ物言いで何かと物議を醸しながらも、すべて実績で黙らせるラウダは世事に は一切無頓着だった。一方ハントはと言えば、ワイルドなキャラクター同様に私生活も徹底的に享楽派。寝た女も数知れず。しかしレースの前になると必ず吐き 気を催すあたり、人知れぬ繊細さも秘めている男だった。そんな彼ら二人が、1970年のF3のレースで顔を合わせたのは、まさに「ここで会ったが百年 目」。どう考えてもソリが合わない二人。ハントのワイルドさが無神経にも受け取れるラウダは、ついつい一言いってしまう。それに対して「細けえことはいい んだよ!」とばかりに笑い飛ばすハントは、神経質そうなラウダを「ネズミのような奴」と罵倒してしまう。以来、二人はお互いを意識しつつ、微妙な距離をと るようになる。やがてハントは着実に成績を上げていくが、ラウダも負けてはいない。ついには自ら大金を用意して、貧乏なF1チームに自ら出資するかたちで 参戦することになる。これを聞いたハントは穏やかではなかったが、チームオーナーが好意から自腹でF1参戦を決定。こうして二人の舞台はF1へと移った。 その一方で、この時期の二人は私生活のパートナーも手に入れていた。ハントは、偶然チームに遊びに来たモデルのスージー(オリビア・ワイルド)と知り合い 結婚。ラウダもたまたま足を運んだパーティーの帰りにマルレーヌ(アレクサンドラ・マリア・ララ)と出会い、偶然の珍道中の末に結ばれる。こうして二人の レーサー人生は、良くも悪くもパートナーとの関係に左右されることになった。早くも新天地F1でしのぎを削る二人だったが、どちらかといえば「理論家」ラ ウダに軍配が上がることが多かった。名声高まるラウダは、名門F1チームのフェラーリから声をかけられるまでに至る。1975年はこうしてラウダが優勝を 飾って終わるのに対して、ハントはオーナーの破産から所属チームが消滅。結婚生活も破綻と散々な状況となってしまう。何とか新たなチームに入って巻き返し を図るハントだったが、ラウダは圧倒的な強さで1976年も乗り切ろうとしていた。そんな8月、ニュルブルクリンク。天候は最悪の大雨。主催者側はレー サーたちを集めてミーティングを開き、レース開催の是非を決めようとしていた。「理論家」ラウダは冷静に危険性を指摘してレース中止を提案。ところが優勝 がかかっているハントは、ラウダが「逃げ切ろうとしている」と突っかかり、他のレーサーにも呼びかけて開催を主張する。結果的に多数のレーサーがハントに 賛同したため、ラウダの意とは裏腹に開催が決定してしまう。こうして悪条件の中、スタートを前にしたハントとラウダだったが…。

みたあと

 よくよく考えてみると、リアルタイムで見たレース映画ってそんなに多くない。トム・クルーズ主演、トニー・スコット監督の「デイズ・オブ・サンダー」(1990)とか、シルベスター・スタローン主演、レニー・ハーリン監督の「ドリヴン」 (2001)ぐらいだろうか。あとはレースがメインというわけではないが、アル・パチーノ主演、シドニー・ポラック監督の「ボビー・デアフィールド」 (1977)もこの仲間に入れてもいいかもしれない。かつてはシネラマの大迫力で描いたジョン・フランケンハイマー監督の「グラン・プリ」(1966)な んて大作もあったが、僕は年齢的にスクリーンで見ている訳もなく、テレビでその映像の片鱗を確認するにとどまっている。このように、総じてレース映画って のは元々そんなに多くはないのだ。それってぶっちゃけ撮影が大変だからということもあるのだろうか。エキストラを集めて車を集めて、1回や2回はレース・ イベントを実際に開催するのと同じくらいのことをやらなきゃならない。それほど大変な思いをして作っても、モータースポーツが好きな人々がみんな観客に なってくれる保証もないというところもあるんだろう。昨今では、CGの発達によって大分そのへんがラクにはなってきた。しかし前出の「ドリヴン」などは CGを過剰なくらい使って、何だかマンガみたいになっちゃったような感じもする。その点、本作はといえば…おそらくCGはかなり多用しているのだろうが、 それはスピード表現というよりは時代色の再現に費やされているような気がする。物語が実話で実際に撮影された映像も多く遺されているだけに、リアリティを 出すためにCGを多用したように見えるのだ。そしてレース場面はそれぞれ迫力たっぷりに描かれてはいたが、ロン・ハワードは特に技巧的に何か特別なことを やって盛り上げようとはしていなかったように思える。割と正攻法に…車載カメラの映像などを使ったりして…レース場面の迫力を出してはいたが、特別に今ま で見たこともないような映像を作ろうとしてはいなかった。そもそもロン・ハワードは迫力あるレース場面より、もっとこの映画で描きたいモノがあった。それ は映画を見る直前に買った劇場パンフを見ていて、スタッフ・リストを見た瞬間に分かった。何と「フロスト×ニクソン」(2008)の脚本家ピーター・モーガンが脚本を手がけ、製作に名を連ねているではないか。

ここからは映画を見てから!

みどころ
 元々が明るく楽しいコメディ「スプラッシュ」(1984)で名を上げ、最近でも「ダ・ヴィンチ・コード」 (2006)といった娯楽ヒット作を発表しているロン・ハワードだが、実は「アポロ13」(1995)あたりから、ちょっと渋みの加わったシリアス・ドラ マでも良い味を出すようになってきていた。しかしそうは言っても、それはあくまで「ロン・ハワードなり」の味わい。正直言ってアカデミー監督賞までとった 「ビューティフル・マインド」 (2001)に至っても、僕にとっては「それなり」の良さしか感じられなかった。決して悪くはないが、「ソコソコ」の良さとでも言おうか。ハリウッド娯楽 映画の作り手としては「良心派」と言っていいロン・ハワードだったが、逆に言うとその範囲「どまり」の映画作家だと思っていた。人の良さが感じられる作風 ではあるが、凄みとか深みまでは至らないだろうと思っていたのだ。それが良い意味で裏切られたのが、ハワードとしては異色作である「フロスト×ニクソン」 だった。イギリスのテレビ司会者が自らのグレードアップのために企画したニクソン単独インタビュー。しかしイギリスの…しかも少々軽薄なイメージの司会者 風情では、とてもじゃないが海千山千のニクソンに歯が立たないと完全に周囲にナメられる有様。思ったような出資も集まらず、背水の陣で臨んだインタビュー でも最初のうちは完全にニクソンにやられっぱなし。いよいよ追い詰められた司会者は、最終日の前の晩に突如ニクソン当人からの電話を受ける…。この終盤の 二人のやりとり、その凄みたるや…人生の不思議に思いを馳せざるを得ない面白さ。そして、エンディングに漂う余韻も忘れがたい。それはガップリと四つに組 み合った者同士でなければ分かり得ないような、万感の思いが感じられる幕切れだった。ただ、この時にはそのあまりの素晴らしさに驚きながらも、それがロ ン・ハワードの力量によるものとは、実はそんなに思っていなかった。元々はピーター・モーガンが書いた舞台劇が原作で主役二人もその芝居からそのまま映画 に持ち込まれていたことから、これはロン・ハワードのお手柄というよりピーター・モーガンと彼が書いた戯曲が素晴らしいからだろうと思っていた。それまで のハリウッドの娯楽映画監督、人の良さと誠実さが取り柄みたいなハワードのキャラからあまりに離れていた作品なので、とても彼の功績だとは完全に思えな かったのだ。しかし、何と今作はまたまたピーター・モーガンの脚本。しかも、これは映画のオリジナルだ。そしてモーガン自身がプロデューサーにもなってい るということは、彼自身がこの映画化に乗り気でやっているということだ。つまりモーガンは「フロスト×ニクソン」映画版の出来映えに満足しており、自らロ ン・ハワードの演出で…と本作の企画に乗り出したということではないか。しかもこの二人が再度組むということは…本作も「フロスト×ニクソン」と同じく、 親しいとも敵対し合うとも言い難い二人の男の「抜き差しならない関係」を扱ったものになっているのではないだろうか。案の定、本作はまさに希有な二人の強 烈なぶつかり合いと葛藤の映画だった。ストーリーをご覧になればお分かりのように、まったく対照的な二人の男がつかず離れずで競い合う。おそらくソリも合 わないし合わせる気もない。そもそも他人に合わせるようなことの出来ない強烈な個性の二人だ。そんな二人が何年もの間、お互いを意識しつつ距離をとりなが ら競合していく。基本的に二人の関係は、レース場面でしか表現されていない。そもそもあまり二人は接触しない。本来だったらドラマとしてはモノ足りなくな るところだろうが、この二人はそれでいい。この孤高感、ドライ感こそがこういう一匹狼的な男たちには似つかわしい。だから映画でも、ビックリするほど大胆 に二人のドラマ要素を切って捨てている。その代わり、レース場面を念入りにこってり見せるのだ。そこが、本作のレース場面がことさらに技巧に走ったり迫力 を煽ったりしていない理由でもある。本作では、不必要にレースを盛り上げたりする必要がない。この二人は、レースで自らを表現するような男だ。だからレー ス場面では、二人の個性をレースを通して表現しなくてはならない。単に迫力を出せばいいってもんじゃないのだ。そして見る側も、二人に思い入れを抱いて見 るからレースの迫力が増す。この映画のレース場面は、あくまでドラマの一要素でしかないのである。実人生での関係は希薄であり寡黙であっても、二人はレー スでは能弁であり饒舌ですらあったのだ。だからこそ、終盤の飛行場での二人のやりとりが、何とも心に染みてくる。まさに「ここで会ったが百年目」…抜き差 しならない間柄の二人の、余人には分かり得ない感情を想像させて、万感胸に迫る幕切れなのだ。これは間違いなく、あの「フロスト×ニクソン」の作り手なら ではの作品だ。そして「フロスト×ニクソン」、本作…と見てきた僕としては、ピーター・モーガンとロン・ハワードのコンビに、今度はあのレノン=マッカー トニーのドラマをぜひ作ってもらいたいと真剣に思うのである。

さいごのひとこ と

 振り向けば奴がいた。

 

「アメリカン・ハッスル」

 American Hustle

Date:2014 / 03/ 24

みるまえ

 正直言ってデビッド・O・ラッセル監督がこれほどのフィルムメーカー になるとは、「スリー・キングス」(1999)を見た時には想像もしていなかった。ところがいつの間にかオスカー常連。しかも演技賞に次々候補を送り込ん で、受賞までさせてしまうから大したものだ。今回も受賞こそしなかったが、主要賞すべてにノミネートだからタダごとではない。特に今回は、前々作「ザ・ファイター」(2010)からクリスチャン・ベイルとエイミー・アダムス、前作「世界でひとつのプレイブック」 (2012)からはジェニファー・ローレンスとブラッドリー・クーパーという「ラッセル組」とでも言うべき常連スターを持ってきて、さらに今回新たに ジェームズ・レナーを迎えるという豪華布陣。予告編を見たらお話は完全に1970年代モノで、みんな髪型がギンギンのパンチパーマなんかかけたりカーリー だったり、ネクタイの幅が異常に分厚かったり…というあたりがお楽しみ。1970年代といえば僕がアメリカ映画にハマった時期だから、これは無関心ではい られない。感想文をアップするのは遅くなったが、公開間もなく待ちきれず劇場へと飛び込んだ僕だった。

ないよう

 1970年代後半のある年のこと。豪華ホテルの一室で、一人黙々と鏡 に向かって「おぐし」を整える男が一人。頭頂部にほぼ9対1の分け目で残ったわずかな髪の毛。その上にヅラをひょいと載っけて丁寧に揃える。男は早朝のか なりの時間を費やして、毎朝その「儀式」を行っているのだ。さらに立派なビジネスマン然とした正装を身にまとい、いざ出陣。男の名はアーヴィン・ローゼン フェルド(クリスチャン・ベール)。彼はパートナーである女性シドニー・プロッサー(エイミー・アダムス)、そしてアーヴィンとはソリが合っていないらし いリッチー・ディマッソ(ブラッドリー・クーパー)とともに、ホテルの別の一室に乗り込む。そこでアーヴィン、シドニー、リッチーの3人は、アトラン ティック・シティの市長カーマイン・ポリト(ジェレミー・レナー)と面談の場を持った。どうやらこの面談、何やらヤバイことが絡んだミーティングらしい。 その面談の終わりにリッチーが、「富豪よりお礼です」と金が入っているらしきアタッシェ・ケースをカーマインに押しつけたのがマズかった。その「押しつけ がましさ」が警戒されたのか、カーマインは受け取らずにその場を足早に離れてしまう。これにはジックリ構えていたアーヴィンもカンベンならずキレる。「だ からシロートはイヤなんだよ!」…それでなくてもウマが合わないアーヴィンとリッチーはすったもんだ。それでもこのままではマズイということで、仕方なく アーヴィンはリッチーを追って部屋を出る。「結局オレが事を収めなきゃならないのかよ!」…。さて、そんなすべて物事の発端はといえば、その日から少々月 日をさかのぼる。それは知り合いの開いたパーティでのこと、アーヴィンとシドニーはそこで初めて出会った。シドニーは若くてなかなかのゴージャス美女。そ れに対してアーヴィンは確かに9・1分けの太鼓腹男だったが、なぜか無視しがたい男の色気があった。しかも二人には、デューク・エリントンのジャズに対す る深い造詣という共通する好みもあった。こうして二人は、どうしようもなく恋に落ちたのだった。しかし、残念ながらアーヴィンは妻帯者。おまけに子供まで いた。妻のロザリン(ジェニファー・ローレンス)は若くてケバい女で、しかも言動がかなりアレ。アーヴィンは今となっては大いに結婚を後悔しているが、ロ ザリンは大人しく別れるようなタマじゃないし子供を失うのも耐え難い。だが、アーヴィンにはそれ以上に乗り越えがたい壁があった…。彼の「本業」はクリー ニング屋の経営。しかしシドニーと深い仲になったアーヴィンは、自分のオフィスに彼女を誘って彼の「もうひとつの顔」を見せるのだった。それは、老人たち に金融商品を売ると見せかけてダマす「詐欺師」の顔。愛する女となったシドニーに自分の本当の姿を知って欲しいあまりのことだったのだが、さすがに「恋人 が詐欺師」…はキツかった。シドニーは憮然として部屋を飛び出し、アーヴィンは大いに後悔してサメザメと泣き崩れた。ところがどうしたことか、しばらくし てシドニーが戻ってくるではないか。しかもそこで彼女は、「ロンドンから来た金融レディー」を完璧に演じきった自分を披露した。何と、彼女はアーヴィンの 仕事に付き合ってくれようと言うのだ。しかもキャラ設定まで申し分ない。これ以上の恋人があろうか。かくして彼女による「ロンドン人脈」設定も加えること で、アーヴィンの詐欺師ビジネスはますます繁盛することになる。ところが好事魔多し。ある時やって来た客が、実はただ者ではなかった。この男リッチー・ ディマッソはFBI捜査官。かくして、二人はその場で御用となってしまった。こうして万事窮すとなってしまったアーヴィンとシドニーだが、実はリッチーに は別の目論見があった。アーヴィンとシドニーの詐欺師としての才能を使って、おとり捜査で政治家の汚職をあぶり出そうというわけだ。そうなると、もはや アーヴィンには選択の余地はない。本意ではないが、FBI捜査の片棒を担ぐ羽目になる二人だった。こうして始まった「詐欺」は見事にうまくハマって、終始 ゴキゲンのリッチー。アーヴィンはそんなリッチーを得意満面にさせていることが気に入らなかったし、彼が妙な慣れ慣れしさでシドニーに接近しているのも気 に入らなかった。そのせいもあって、順風満帆だったアーヴィンとシドニーの仲がギクシャクし始めたのも気に入らなかった。そんなイヤイヤのおとり捜査が続 くうち、次のターゲットして、アトランティック・シティの市長カーマインの名前が浮上してくるのだが…。

みたあと

  いきなり9・1分けの髪にヅラを載っけて、必死で整えるクリスチャン・ベイルが登場。もうそれだけで彼を知っている映画ファンなら爆笑必至のオープニン グ。エイミー・アダムスのカーリーヘアにブラッドリー・クーパーのパンチ・パーマも笑いどころだ。まさにこの映画の面白さは、こうしたお馴染みスターたち が1970年代のファッションに身を包んで「化ける」ところにあるのは間違いない。当時はオシャレだったのだが、今見てみると滑稽でしかないヘアスタイル や服装。それらを主演スターたちが「装う」一種のコスチューム・プレイであることが、本作の本質である。そして、それは単にコスチュームの問題だけではな い。実際に彼らが演じるキャラクターたちも、おとり捜査や詐欺のために何者かを「装って」いる。この「装う」ということが、今回の作品の最も重要な点だと 思うのだ。

ここからは映画を見てから!

みどころ
  スターたちの化けっぷりはみんな見事だが、とりわけクリスチャン・ベイルのロバート・デニーロ顔負けの増量・ヅラ演技には驚かされるだろう。そんな滑稽な 出で立ちでありながら、しかも魅力的な人物であるという難しい役どころを、ベイルが嬉々として演じていて素晴らしい。ブラッドリー・クーパーのパンチ・ パーマと歯止めが効かない暴走ぶりも楽しい。そしてジェニファー・ローレンスが演じるケバくてテメエ勝手でちょっとオツムもアレな女もなかなか傑作で、僕 も大いに笑わせてもらった。それに比べるとエイミー・アダムスは、元々の出世作「魔法にかけられて」 (2007)と比べればかなりの様変わりぶりだが、この人のキャパならこのくらいはやれるだろうという感じ、だろうか。そんな中、物語の中盤で意外なスペ シャル・ゲストスターが登場。まさに「この人にはこの役をやってもらうしかない」だろうなと思う役で、見ていて嬉しくなること請け合いだ。そんな「濃いい キャラクター」満載の本作は、過剰なまでの時代色や「コスチューム・プレイ」感も含めて、「作り上げられたドラマ」の醍醐味を満喫させてくれる。イマドキ のアメリカ映画はアクションやスペクタクルなどCGでこねくり回したようなあからさまな大作娯楽作品を除くと、逆に作者の個人的真情や実感を元に作り上げ られたドラマやリアル感を重視した自然な作風が好まれる傾向が強くなってきているので、このドラマを練ってキッチリと「作り込んだ」感は貴重だ。これは皮 肉や冗談ではなく、真面目にホメ言葉で言っている。お話のベースはどうやら実話らしいのだが、作り手が一からこしらえていった「ウェルメイド・プレイ」の 雰囲気が強いのだ。そのいずれ手練れの者たちが腕にヨリをかけて作り上げていった感じが、観客にとっては「ご馳走を食べさせてもらっている」ような感じで たまらない。だから終盤にそれが収まるところに収まって、しかるべき者たちがなるべき状態へとなっていく幕切れに、文字通り爽快な気分を味わえるのだ。ま た先ほどの「装う」という話でいえば、主人公たちは詐欺やおとり捜査をすることで身分を偽って「装う」だけでなく、本人が望むと望まざるとに関わらず 「装った」状態になっている…という点も興味深い。実はこの映画では、本来は悪しき者とされる人物が必ずしもそうではなく、逆に正しい者であるはずの人間 が逆に見えてくる…というケースが多々あるのだ。まぁ、詐欺師であるクリスチャン・ベイルやエイミー・アダムスが悪人には見えないのは、映画の主人公で観 客から共感されているからだろうと言えなくもない。しかし、ジェレミー・レナーの市長は汚職に手を出すが、それは私服を肥やすためでなくあくまで市民のた め。本人も情に厚いナイスガイである。その他の汚職政治家とされる連中も、少なからずFBIの強引なおとり捜査による「流れ弾」をくらったような気の毒な 人物として描かれる。とても「悪人」とは言い切れないのだ。ところがそれに対してブラッドリー・クーパー演じるFBI捜査官は、汚職政治家を捕らえるとい う「大義名分」の下に自分の野心を全うしようとして暴走。クリスチャン・ベイルを脅して服従させるとともにエイミー・アダムスに手を出そうとする、あきれ た公私混同ぶり。さらに、調子こいたあげくに上司をここぞとばかりに罵倒し侮辱し、見苦しいまでに増長する。さすがに「悪人」とまでは言えないが、かなり イタい困った人物として描かれているのだ。果たして本当に「正しい」のは、「悪」なのは、一体誰なのか。だから良くできたお芝居が最後にチョーンと拍子木 が打たれて鮮やかな幕切れを見せるかのように、それぞれの登場人物が彼らに見合った境遇に収まっていくエンディングの爽快感ったらない。なかなか世の中こ うはいかないが(本作は「実話」がベースとのことだが)、脚本・演出の巧みな技によって、まさに僕ら観客が「こうなったらいいな」と思える幕切れを迎え る。これは安易な「衝撃のエンディング」なんかデッチ上げるより、ずっと難しい匠の技なのだ。それを一見いともたやすいコトのようにやり遂げてしまう、デ ビッド・O・ラッセルの手腕には脱帽するしかない。

さいごのひとこ と

 ハゲデブオヤジに希望を与える映画。

 

「ウルフ・オブ・ウォールストリート」

 The Wolf of Wall Street

Date:2014 / 03/ 24

みるまえ

 マーティン・スコセッシとレオナルド・ディカプリオといえば、現代アメリカ映画の中で監督・主演の「名コンビ」と言わなきゃならないのだろう。「ギャング・オブ・ニューヨーク」(2001)に始まって、「アビエイター」(2004)、「ディパーテッド」(2006)、「シャッターアイランド」 (2009)…と来て今回で5回目のコラボだ。そのうち「ディパーテッド」は、スコセッシに念願のオスカーをもたらしてもいる。だからアブラの乗り切った 二人と言うべきなんだろうが、実は正直、そこまでこの二人って「名コンビ」なんだろうか?…って思わないでもなかった。というのも、僕らはその前にずっ と、スコセッシ=ロバート・デニーロって本当の「名コンビ」を見ちゃっているからねぇ。確かに優れた作品も何作かあるが、スコセッシ=デニーロの充実ぶり ほどには「ハマってない」んではないかと思っていた。しかし、そんな二人の今回の新作は、劇場で予告編がかかり始めたあたりから何かが違った。まったく何 の根拠もないのだが、今回ばかりは「カチッとハマッた」感じがビンビン伝わってきたのだ。成金丸出しのディカプリオが、カネにモノを言わせて乱痴気三昧。 その俗悪ぶり悪徳ぶりが、何ともピタリとスコセッシの資質とハマってる感じなのだ。「これは絶対に面白いはずだ!」…感想文をアップするのはかなり遅れて しまったが、僕は公開間もなく劇場へと飛んでいった。

ないよう

 「ストラットン・オークモンド社」…それは乱世の金融界に、王者のごとく堂々と君臨するライオン。当社では金融のプロフェッショナルたちが、あ なたの利益のために適切なアドバイスをします…。その「ストラットン」社のテレビCMでは、オフィス内を悠々とライオンがのし歩いている。CMが訴えかけ てくるのは、「気品」と「風格」だ。しかし、その実態は…オフィス内で雄叫びをあげて大騒ぎの社員たち。それは会社のイベントの余興なのか、コスチューム をつけた小人タレントを標的のボードめがけてダーツのように投げつける…という俗悪なゲームが盛り上がっていた。その中でも、ひときわエキサイトしている 若い男が一人。それが本作の主人公ジョーダン・ベルフォート(レオナルド・ディカプリオ)だ。彼こそこの会社の社長。この喧噪の「台風の目」だ。彼を駆り 立てているのは何か。セックス、確かに売春婦と思い切り羽目をはずしてやりまくってる。ドラッグ、確かに常にラリっていて、興奮状態でヘリを操縦してヤバ い状態になりかかったこともある。だが、そんなものの興奮は知れたものだ。ジョーダンを真に駆り立てているものは、ズバリ、金だ。金で何かを手に入れるだ けでなく、彼は100ドル札を丸めてコカインを吸い、それをゴミ箱に投げ捨てる。まさに、ジョーダンは金を文字通り楽しんでいる。そんなジョーダンは、コ ネもなければ力もない中流家庭の息子。まだ若造の頃に、このウォール街へとやって来た。すでに地味な女テレサ(クリスティン・ミリオティ)を妻に持ってい たが、飛ぶ鳥落とす大企業で株式ブローカーの見習いから始めることになった。最初は電話のかけ方…ってな感じで、陰険そうな先輩にウジウジと言われる ジョーダン。しかしそこに腕利きブローカーのマーク・ハンナ(マシュー・マコノヒー)が割って入る。ハンナは陰険な先輩のことを頭っからコケにして、 ジョーダンをかっさらうようにしてレストランへと連れて行った。しかしこのハンナという男、腕利きではあるが破格の人物ではある。高級そうで静かなレスト ランで、まくしたてる話の破天荒なこと! オナニーは毎日やれ…とか、株取引なんて中身空っぽ…とか、あげく自分の胸をゲンコツで叩いてリズムとりなが ら、妙なハミングをうなり出す始末。しかしこのハンナの持つ不思議な魅力とカリスマ性に、ジョーダンは少なからぬ衝撃を受ける。かくして、頑張って 「ウォール街人種らしく」振る舞うことを覚えていくジョーダン。株式ブローカーのライセンスを取得し、「さぁこれから!」という初日の1987年10月 19日月曜日のこと。それは起きてしまったのだ。ニューヨーク株式の劇的な大暴落、社内はたちまち阿鼻叫喚の嵐。かのマーク・ハンナですらお手上げの表 情。それこそが後に「ブラック・マンデー」と言われる金融界を揺るがす大事件だったのだ。会社は倒産、ジョーダンは失業。今日も今日とて新聞で求人広告を 見る日々。すると、あったあった。「投資家センター」なる会社で証券マンの募集が。早速スーツに身を固めて乗り込むジョーダンだったが、その「投資家セン ター」が想像以上にショボかった。街はずれのガレージにある小さな会社。中には何人かの社員が、やる気なさそうにチンタラやっていた。スーツなんか着てい る奴はいない。迎えた経営者のドウェイン(スパイク・ジョーンズ)からしてポロシャツなんか着ている。聞けばゴミみたいな会社のクズ株をちょびちょび売っ て、小銭をチマチマ稼ぐ商売らしい。唖然とするジョーダンだが、こんなところしかないなら贅沢は言えない。早速、電話を渡され商談開始。彼が売らされるこ とになったのは、ちっちゃい小屋みたいなところでやってる会社の株。ジョーダンはここを「ハイテク産業最前線」の会社のように話を膨らまして、相手の投資 家にメチャクチャに売り込む。そのズケズケズバズバした口調の良さに、周囲のボケ〜っとした社員たちも色めき出す。このマシンガントークのおかげで、 ジョーダンは出社初日にしてデカい売り上げをゲットした。さすが、ウォール街仕込みはダテじゃない。そしてジョーダンも、「こういうやり方もアリ」だと目 が覚める思いだった。こうしてノッてきたジョーダンだったが、ある日、レストランで話しかけてきた男がいる。その男ドニー・エイゾフ(ジョナ・ヒル)は同 じマンションの住人だが、ジョーダンの愛車ジャガーに目をつけたらしい。彼は遠慮なしにジョーダンの収入を聞いて、またまた唖然。何とジョーダンの意向も 聞かず、その場で勤めを辞めてジョーダンと株の仕事をすると宣言した。なるほど、確かにその手もある。かくしてジョーダンはドニーと共にガレージを押さ え、およそ株なんて縁がなさそうだが、欲と野心だけはマンマンの連中をかき集め始めた。まぁ、ハッキリ言えばドラッグを売っていた連中だ。ジョーダンは彼 らにスーツを着せ、彼が用意した原稿を渡して電話をかけさせた。それが「ストラットン・オークモンド社」の始まりだ。ジョーダンはいいかげんな会社を「名 門」らしく見せるために、こんな仰々しい名前を付けたのだ。最初は手堅く始めながら、徐々にエゲつない商売も。あっという間に会社はデカくなり、儲けも倍 増。何かと言うとお祝い…ということになり、そうなると映画の冒頭のようにど派手な大騒ぎを繰り広げる。その動きはたちまち業界にも知れ渡り、何とジョー ダンは「フォーブス」誌にも取り上げられることになる。そして彼らが付けたあだ名が「ウォール街のオオカミ」だ。もはや彼は世間からも無視できない存在と なっていた。しかしそれは、結果的にFBIのパトリック・デンハム捜査官(カイル・チャンドラー)の目を惹くことにもなっていたのだが…。

みたあと

 3 時間の大長編。正直言って見る前は少々怖かった。何しろこの映画を見た頃はあまり寝ていなかったので、ちょっとでも単調な映画だったら寝てしまう自信は十 分あった。おまけにここだけの話、歳をとったせいか最近トイレが近くなって困っていたのだ。おそらく今では「タイタニック」(1997)なんかヤバくて見 れないかも。だからこの映画でも、眠っちゃうかシモで苦しむかして困ってしまうだろうと思っていたのだ。ところがビックリ。あっという間なのである。本当 に、気がついたら映画が終わっていた…という感じなのだ。凄いカーチェイスが出てくるわけでも、宇宙人の侵略が描かれているわけでもない。マッチョなタフ ガイが大暴れするわけでもない。おまけに3時間。なのに、一瞬たりともダレる瞬間がない。というか、そんな長く見ていた気がしない。むしろテンポが早くて めまぐるしくて、とんでもないモノを見せられたと呆気にとられる。見た後は、ビフテキに天ぷらにうな重をたいらげたような「お腹一杯」感がスゴイ。そして 何よりディカプリオがイキイキしている! 予告編で感じた予感は間違いなかった。今回のスコセッシとディカプリオのコラボ、長らく回り道をしてきたが、よ うやくついにピタッとハマったという感じなのだ。

ここからは映画を見てから!

みどころ
  今回の作品、ジャンル的にはブラック・コメディに入るのだろうか。確かに笑っちゃうし、ディカプリオがイケイケで調子よくて、まったく無反省に不謹慎なこ とばかりやらかして歯止めがきかない。その「歯止めのきかなさ」がハンパなくて、猛烈にテンポがいい。だから画面では不謹慎なことばかり起きているのに、 見ていて一種のカタルシスがあるし笑ってしまう。アメリカ文明批判にも現代社会批判にも金融批判にもなり得る作品で、そういう側面もないわけではないと思 うのだが、実はあまりスコセッシはそういう描き方をしたいと思っていないようだ。むしろ観客にも主人公たちと同じアドレナリンの上がり方を体験させて、 「善悪」なんて薄っぺらい判断とは別の領域に持って行ってしまう。そして「社会派」的な描き方をしなかったことから、この作品はいかにもありがちな「あり きたりさ」からも「偽善」からも逃れることができた。欲をトコトン追求する主人公は、そこに何かの美学やトラウマや哲学があるわけでもなく、ただひたすら に「楽しい」「気持ちいい」くらいの感覚だけでバカバカしいまでの欲を貫いていく。そんな軽薄な主人公なのに、なぜか物凄く魅力的。もちろんそれは世界の 大スター=ディカプリオが演じているからそう見えるのだが、スコセッシは間違いなくこの主人公を魅力的に描こうとしている。ありきたりな「批判」など無意 味でシラジラしいと、彼には分かっているからだ。「欲のムキ出し」はよくない、品がない…というのは簡単だが、それでは現代社会で人々がなぜこれほど欲に かられて下品に立ち回るのか…という説明にはならない。スコセッシはそこに、ズカズカと土足で押し入っていくのである。それはどこか、悲惨さ・残酷さなど といったルーティン要素だけでなく、むしろその「魅力」「美しさ」から戦争を描いていった「地獄の黙示録」(1979)のアプローチにも似ている。本作は スコセッシ作品では「グッドフェローズ」(1990)や「カジノ」(1995)などと同系統の「男たちの年代記」モノだが、これらの作品がひたすらコワモ テのお兄さんたちのおっかないエピソードに満ちているのに対して、本作はとにかく軽薄で俗悪でバカ。しかしこういう役を演じている時のディカプリオは、実 に輝いているのである。というか、「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」(2002)、「華麗なるギャツビー」 (2013)、そして本作…と、「カネと欲」というか「詐欺師的人物」というか、もっとズバリいうと「資本主義の権化」的な一種カリカチュアライズされた キャラクターを演じさせると恐ろしいほどハマる俳優になってきた。ムチャクチャなんだけどカリスマもあるし、軽薄そのものなのに愛嬌がある。見ているこっ ちも「いけいけ、もっとやれ!」と言いたくなってしまうから困ったモノだ。そのくらいディカプリオはノっているのである。そして彼に次いで面白いのが、「マネー・ボール」 (2011)でもイイ味出していたジョナ・ヒル。彼がちょうど、前述の「グッドフェローズ」や「カジノ」などのスコセッシ作品で言うところのジョー・ペシ 的なキャラクターを演じている。本作でディカプリオとジョナ・ヒルが、危機的状況に陥っているのに強烈なドラッグで身動きができずにのたうち回る場面は、 ドタバタ・コメディとして後世に残る名場面ではないか。さらに、今年のオスカーで主演男優賞を獲得し、今やアブラの乗り切ったマシュー・マコノヒーの客演 も見もの。正直言って最初の頃にチョコッと出てくる小さな役でしかないのだが、その怪演ぶりがタダごとではない。とにかく場面をさらってしまって、映画を 見終わった後までも強烈な印象が残る。今のマシュー・マコノヒーに敵う役者はなかなかいないかもしれない。そんな調子で3時間乱痴気騒ぎが延々続いた後 で、「面白うてやがて哀しき」結末がやって来る。「すべてを失った」はずのディカプリオ演じる主人公が、しかしそこでもちっとも懲りてない! 「カネと 欲」は人間のサガでどうすることも出来ないものなのだ…というのが3時間を費やしての結論とは、むしろいっそ清々しいと言えるものかもしれない。スコセッ シがディカプリオと組んでからの最高作…というだけでなく、スコセッシ作品としても久々文句なしのクリーンヒットだ。

さいごのひとこ と

 バカは死ななきゃ治らないというお話。

 

「スノーピアサー」

 Snowpiercer

Date:2014 / 03/ 17

みるまえ

 「ほえる犬は噛まない」(2000)、「殺人の追憶」 (2003)…と、発表する作品がことごとくユニークで、かつ傑作。僕はこの2作でたちまち韓国のポン・ジュノ監督の大ファンになった。そんなポン・ジュ ノがSF怪獣映画を撮ると聞いて僕がいかに狂喜乱舞したことか。SF映画が好きでポン・ジュノ映画が好きな僕としては、これ以上の組み合わせはない。その 作品「グエムル/漢江の怪物」 (2006)が公開されるや、すぐに劇場に勇んで飛んでいったことを覚えている。その結果は…実は正直な話、ちょっと微妙だった。期待が大きすぎたのかと は思ったものの、そういう事でもなさそうだ。僕が「グエムル」をダメだと思った理由についてはその感想文を一読いただきたいが、あのポン・ジュノでもSF を撮ると危うくなっちゃうのか…と、複雑な気分になったことを覚えている。さて、その後、ポン・ジュノは「一休み」的な作品…「TOKYO!」(2008)に収められた短編を日本のスタッフ・キャストと撮り、こちらは可もなし不可もなしといった感じ。正直コレは僕もまったく期待してなかったので別にそれで良かったのだが、「TOKYO!」での「リハビリ」が効いたのか、次の「母なる証明」 (2009)は久々にユニークかつ傑作な作品に仕上がった。ポン・ジュノ完全復活! そしてついに!…久々に伝わってきた彼の新作は、何と国際的なキャス トの英語映画「スノーピアサー」。ついにポン・ジュノもここまで来たか。しかも、詳細については後述するが顔ぶれがなかなか豪華。実にセンスのいいキャス ティングなのだ。これは成功作になるのではないか? 唯一、不安がよぎるとすれば、またしてもSFということ。新たな氷河期に突入した地球上で、唯一生存 者を乗せて走り続ける特別列車のお話。いや、まさか「グエムル」もSFだから失敗したということはないだろうが、何となく漠然としたイヤ〜な予感は漂って くる。そんなこんなで公開初日に劇場へ。当日は、何十年ぶりかで東京に大雪が降った日(笑)。実は何本か見たい作品があったのだが、あの大雪が降るや本作 を見ることに決定! まさに、この作品を見る日としてはこれ以上ないコンディションだ。見終わった時にも雪は溶けるどころか街に積もっていたのだから、な お一層気分は盛り上がった。それなのに、感想文は思いっきり遅くなってしまった。こればっかりは本当に申し訳ない。

ないよう

 2014年7月1日、地球温暖化を食い止めるため、世界で人工冷却剤 が散布された。しかし、それは勢い余って地球に新たな氷河期をもたらした。それも単なる氷河期ではない。すべての生物を凍り付かせ死滅させる圧倒的な氷河 期だ。こうして全世界は、凍てついた廃墟を遺して死に絶えた。たったひとつ、猛スピードで爆走する巨大な列車「スノーピアサー」をのぞいて…。時は流れて 2031年、「スノーピアサー」は今も厳寒世界を爆走中。燃料補給もせずに走り続ける永久運動エンジンを搭載しており、一年で世界を一周する軌道を延々 回っていた。このエンジンによって列車内の温度や生活環境も保たれており、氷河期到来前にこの列車に乗り込めた者だけが生き残ることができた。そんな「ス ノーピアサー」を開発したのはウィルフォードなる人物率いるウィルフォード産業。彼らが「スノーピアサー」の運営と運行管理、そして車内の秩序維持を行っ ていた。そのためウィルフォードは、この「スノーピアサー」内の絶対的支配者となっていたのだ。「スノーピアサー」の車両構成としては、最前車両にエンジ ンを搭載した機関室。そこから先頭車両地区を上流階級の居住空間が占め、後方の車両に行けば行くほど下層の人々の住む車両となっていた。その最下層の暮ら す後方車両地区では、今日も今日とて兵士たちの監視の下、住人たちに食料であるプロテインブロックが支給されていた。着の身着のままの薄汚れた住人たち は、不満げな表情をしながら今日も黙々とその唯一の食料をもらうために列を成している。そんな住人たちの前で傲慢な態度で演説をぶつのは、ど近眼メガネを かけた首相のメイソン(ティルダ・スウィントン)。彼女は下層住人たちの「反抗心」を叱責し、支配者たちへの服従を説いていた。「この列車に乗せてもらっ た恩を忘れるなんて、身分をわきまえなさいっ!」…しかしそんな中でも、隠しきれないギラギラした視線を光らせる男がひとり。その男カーティス・エヴェ レット(クリス・エバンス)は、扉が開いて先頭方向が何両か先まで見渡せる時間をじっと計っていた。カーティスは先頭車両に攻め込む「革命」をひそかに計 画していたのだ。今までも「革命」は何度か起きていたが、いずれも機関室まで到達できなかったため挫折。しかしカーティスには勝算があった。なぜか先頭車 両の方から、プロテインブロックに隠したメッセージが届いてくるのだ。そのナゾの人物は、下層の住人たちに決起を促していた。カーティスと舎 弟的な立場のエドガー(ジェイミー・ベル)は、このメッセージの指示を受けながら徐々に革命のための準備を進めていた。この後方車両で人々の精神的支柱と なっているのは、ギリアム(ジョン・ハート)という老人。なぜか片脚で、人格的にも人々の尊敬を集める賢人だ。そんなギリアムも昨今の状況悪化に心を痛め ていたのか、カーティスの革命計画を止めようとはしなかった。ある日、またまた先頭車両からメイソンと兵士たちがやって来る。何と彼らは下層住人たちから 子どもたちだけを抽出し、その身長を計り始めた。ターニャ(オクタヴィア・スペンサー)はイヤな予感がして子どもを隠そうとするが、たちまち兵士たちに見 つかって息子ティミー(マーカンソニー・ライス)を奪われてしまう。やはり息子を連れて行かれたアンドリュー(ユエン・ブレムナー)は兵士たちに抵抗した ため、捕まってその場で「処刑」を行われることになった。何と列車の壁に空いた小さな穴から腕を出し、厳寒の外気に触れさせようというのだ。腕を外に出さ れ、悲鳴をあげるアンドリュー。所定の時間を過ぎて引き込まれた腕は、カチンコチンに凍結。それを一同が見ている前で粉々に粉砕された。そしてメイソンた ちのお眼鏡に適った子どもたちは、みんな先頭車両へと連れ去られて行った。あまりにもひどい。もう我慢できない。ついに限界に達した後方車両の有志たち は、カーティスをリーダーとして先頭車両に攻め込むことを決意した!

みたあと

 映画が始まるや、韓国の映画会社「CJエンタテインメント」のロゴが出てくる。つまり、これは基本的に韓国資本の作品。そこにアメリカとフランスの資本が参加している。だから「ラストスタンド」(2012)のキム・ジウン、「イノセントガーデン」(2013)のパク・チャヌクのようなかたちで「ハリウッドに迎えられた」わけではない。しかし同時に「猟奇的な彼女」(2001)に主演したチョン・ジヨンが「ハリウッド進出」したという触れ込みで、実はフランスと香港資本だった「ラスト・ブラッド」(2009)のような見かけ倒しでもない。元々がフランスの「劇画」を原作としていて、スタッフ・キャストともに外国人が大半を占めるという陣容。もはやこれは純粋な韓国映画というわけにはいくまい。ホン・サンスが「3人のアンヌ」 (2012)でイザベル・ユペールを主演に迎えたように、韓国映画人の本格的な海外進出を感じさせる作品だ。しかも見た目からセット、SFXなどすべて、 純粋なアメリカ映画だと言っても通用する堂々たる大作。これは「成功」なんじゃないかと見始めてすぐに確信してしまった。

みどころ
 ほとんど外国人で固めたキャスティングがなかなか充実していて、主演に「キャプテン・アメリカ/ザ・ファースト・アベンジャー」 (2011)で主役を張ったばかりのクリス・エバンスを持ってきているのにも目を見張らされるが、さらに周囲にもクセモノ俳優をズラリと揃えているのだ。 そのメンツたるや…ティルダ・スウィントン、ジェイミー・ベル、ジョン・ハート、エド・ハリス、さらに「ヘルプ/心がつなぐストーリー」(2011)でオ スカー助演女優賞をとったばかりのオクタビア・スペンサーといった布陣。そこにポン・ジュノ作品にも常連の韓国映画看板役者ソン・ガンホが参戦と来る。単 にスターバリューがあり豪華絢爛なだけでない、センスを感じさせるキャスティング。このあたりが本作を単なる「韓国監督の海外進出モノ」というコケ脅しの 作品ではないと感じさせる。プロデュースや脚本をはじめスタッフには海外の人材を多く投入していることもあり、製作は韓国主体でつくっていてもちゃんと「分 かってる」キャスティングを組んでいるのだ。原作はフランスのグラフィック・ノベルという劇画みたいなもの。生き物も死に絶えるほど厳寒状態になった地球 で、永久運動を続ける特別列車の乗客だけが生存している…という物語はなかなかユニークで、かつ列車という動く舞台が「映画的」だ。列車内での位置がその まま人々の階級になっているという設定を「現在の格差社会を象徴している」というのは、そもそも未来SFの中で「階級闘争」はありふれたテーマなので ちょっと言い過ぎだとは思うが、それでも10年ほど前なら絵空事だったこういうテーマが、かなりシャレにならないと受け止められているのは正直恐ろしい。 結果としてタイムリーなかたちで「列車内の革命」が描かれる本作、主人公クリス・エバンス率いる反乱グループがどんどん前の車両に行くごとに車両の趣向が 変わっていくあたり、見ていてワクワクしてしまう。何だかブルース・リーの遺作「死亡遊戯」(1978)で五重塔をどんどん上っていくと次々別の敵が現れ るという趣向を連想させられた。また、アッと驚くような理由で反乱グループと兵士たちの戦いが中断しちゃうくだりといい、子供をプロパガンダで洗脳的に教 育する学校車両の描き方といい、あちこちに独特なユーモアが漂っていることも見逃せない。このあたり、見た目は「純粋アメリカ映画だと言っても通用する」 と言ったが、やっぱりちゃんとポン・ジュノの映画になっていることに感心した。「ほえる犬は噛まない」以来の、ちょっとオフビートでどこかブラックな笑い が生きているのである。また、韓国トップスターであるソン・ガンホもついに英語をしゃべる時が来たか…と思いきや、結局最後まで完全に韓国語で通させ ちゃったことにも笑ってしまった。これもまた、「オレは普段通り、国際的キャストだろうが少しも変わっちゃいないよ」というポン・ジュノなりの「サイン」 に見えたが、それは考えすぎだろうか。

ここからは映画を見てから!

こうすれば
  まるで欧米映画のようなセンスあるキャスティング、スケール溢れる画面、ワクワクさせられるドラマ設定、しかもポン・ジュノならではの独特なユーモアも健 在。ならば言うことなし…と言いたいところ。実際、僕も途中まではそう思っていたのだが…。終盤、主人公は意外な事実を突きつけられて当惑。その後がいけ ない。結果的に主人公はこの列車を破壊して、自分を含むほとんど多くの人々を殺してしまうのだ。最後はソン・ガンホの娘として出てきていたコ・アソンとオ クタビア・スペンサーの息子…だけが生き残り、彼らがまるでアダムとイブみたいに人類の未来を託されるような幕切れだ。まぁ、いかにもSF映画っぽい分 かったような分かんないようなラストだが、彼らが助かったのはまったくの偶然で、本当だったら人類は全滅していてもおかしくなかった。いや、この二人しか 助かっていないなら、ほぼ全滅と言っていいだろう。そして、外の世界で生きていける保証はどこにもない。そもそも、人類の文化遺産や動植物などの生き残り を満載していた列車を破壊してしまったら、取り返しがつかないのではないか。あまりにも軽率で乱暴でムチャな結末ではないのか。この「管理社会型未来 SF」のラストで定番の、「革命でそれまでの社会秩序を根本的にぶっ壊す」というワンパターンな展開はいかがなものなんだろう。「管理社会」の枠組みと一 緒にインフラとか生活基盤まで破壊しちゃう。いつもこの手の作品を見ていて思うのは、「そんなことしちゃったら、みんな明日から生きていけなくなっちゃう んじゃないか?」と言うこと。すべてをぶっ壊すのは気分いいだろうしお話としても派手で結構だが、こんな不毛な幕切れはないと毎度思わされているのだ。そ れなのに、今回の作品でもそんな未来SFの「定番」を無批判に踏襲するとはビックリ。確かにこうなる伏線として、子どもたちがさらわれて列車を維持するた めの「生け贄」にされていた…という設定があるにはあった。だから「ぶっ壊す」ことも正当化されている…というつもりなんだろう。しかしそれって、結局は 作り手が「ぶっ壊す」ための言い訳をこじつけているようにしか見えない。そして、すべて「寓話」でございます…で押し通すには、中途半端にリアルな設定に されているからタチが悪いのだ。 いや、本当に頭の悪そうな結末なんだよねぇ。まさかあの「凡庸さ」を嫌うポン・ジュノがかくも平凡な結末を選択するとは…と、あまりのことに唖然としてし まった。ポン・ジュノってSF好きそうなんだけど、SF映画を作る方は必ずしも向いていないのだろうか。「母なる証明」で凄みさえ感じさせるユニークな結 末を見せてくれたポ ン・ジュノが、どうしてこんなハリウッドB級SF映画みたいな手垢がつきまくった幕切れを用意してしまったのか。本作の終盤で暴露された「真相」よりも、 そっちの方がよっぽど衝撃的だったよ。

さいごのひとこ と

 そういや、レールの保線はどうしてるのか。

 

「アイム・ソー・エキサイテッド!」

 Los Amantes Pasajeros (I'm So Excited!)

Date:2014 / 03/ 03

みるまえ

 スペインのペドロ・アルモドバルといえば世界的な映画監督ではあるが、個人的に「作品が好きか」と言われれば、ちょっと微妙と言わざるを得ない。 かく言う僕も、おそらく他の大半のみなさんと同じく、あの「神経衰弱ぎりぎりの女たち」(1987)で、その作品を初めて見たクチ。予告編ではカラフルな 色彩に目を見張ったし、きっとキッチュでポップな映画なんだろうとそれなりに期待もした。しかし実際に目にした作品自体は、ちょっと見る前の予想とは異 なっていた。確かにカラフルな映画ではあったが、コメディとしてはいささか泥臭い。そしてあまり笑えない。これを腹を笑える人もいるのかもしれないが、僕 は正直それほど面白いと思わなかった。世評は高かったしアメリカはじめ海外の評判もスゴかったので、「アレレ?」とコケてしまったのが本音だった。それか らアルモドバル映画はコンスタントに公開され、僕もそのうち何作かにつきあった。そのうち「アタメ」(1989)あたりから「面白い」と感じるようになっ たように記憶している。だが映画ファンからは大評判だった「母モノ」メロドラマみたいな「オール・アバウト・マイ・マザー」(1998)は、僕には今ひと つ。その後は、「問題作」の「トーク・トゥ・ハー」(2002)は結構気に入ってるし、よく分からなかった「バッド・エデュケーション」 (2004)も勝手にトリュフォー作品への傾倒ぶりをかぎ取って楽しんだが、「心底好きか」と問われると腰が退けてしまう。そんなわけでここ何作かのアル モドバル作品は、日本に上陸しても見逃してしまうということが多かった。そんなアルモドバルの今回の新作、なぜ見てみようと重い腰を上げたかと言えば…そ れはやはり「航空映画」だったから。このサイトをご覧のみなさんは先刻ご承知のように、僕は飛行機が大好きなのだ。アルモドバル作品なら「エアポート」シ リーズみたいな本来の「航空映画」ってことはないと思うが、それでも飛行機や空港が出てくる映画は見てみたくなる。そこで、最低限退屈はしないだろうと踏 んだわけだ。そして、理由がもうひとつ。今回は久々にコメディだと聞いたからだ。ちょうど何となくマジメな映画が見たくなかったところだ。バカな笑える映 画が見たい気分だった。そして、出てくる3人の男の客室乗務員が3人ともオカマちゃんらしいのはいかにも「らしい」が、劇中で懐かしのポインター・シス ターズ「アイム・ソー・エキサイテッド」を踊りまくると来ると、ちょっと見たいではないか。タイトルもこのポインター・シスターズの曲からいただいちゃっ てるくらいだから、これは全編ウキウキに踊りまくってるかもしれない。それが見られるなら、後はイマイチだろうがつまらなかろうが、どうでもいいって気が した。最初から「どうせアルモドバル作品なんだからイマイチで当たり前」と思えば、多少のことがあっても腹も立つまい。そんなわけで思い切り作品に対する ハードルを下げまくって、劇場に足を運んだわけだ。

ないよう

 ここはスペインのマドリッド空港。ペニンスラ航空の2539便が、もうすぐメキシコシティ目指して飛び立とうと待機中。そのランディングギアを 点検中の男性整備士(アントニオ・バンデラス)は、トーイングトラクターを運転中の女地上作業員(ペネロペ・クルス)を見てウットリ。どうやらお二人「デ キてる仲」らしい。しかし次の瞬間、彼女のトーイングトラクターがけん引する台車が、別の地上作業員に接触したので大慌て。はずそうとしていた車輪止めも そのままに、慌てて女地上作業員に駆け寄った。大したことなくて何より…という話になったものの、実は彼女は妊娠しているらしいという話になって、男性整 備士はもう2539便のことなどどうでもよくなってしまった感じ。これが後に大変な事態を引き起こすとは、誰一人夢にも思っていなかった。さて、そんなこ ととはツユ知らず離陸した2539便。しかし事態はすぐに乗員の知るところとなったもよう。それが証拠に、エコノミークラスの乗客やそこを担当する客室乗 務員たちはみななぜかグッスリ寝込んでいる様子。どうやらヤバイ事態が発生したため、エコノミーにいる人々は乗員乗客問わず、一服もって全員眠らせてし まったらしいのだ。実行したのは、ビジネスクラスを受け持つ男性客室乗務員。そのホセラ(ハビエル・カマラ)、ウジョア(ラウル・アレバロ)、ファハス (カルロス・アレセス)の3人は、なぜか揃いも揃ってオネエ系のゲイ。指示したのは機長のアレックス(アントニオ・デ・ラ・トーレ)と副操縦士のベニート (ウーゴ・シルバ)だが、この二人も何やら妖しげな間柄。しかも機長アレックスは、客室乗務員のホセラともアレな関係だ。運命のいたずらか、そんな乗員を 乗せた2539便は、ランディング・ギアの異常が発覚して管制塔の指示待ち。仕方なく、メキシコシティへは行かずに旋回状態という有様だ。しかし異変に感 づく奴は感づくもので、ブルーノというオバチャン(ロラ・ドゥエニャス)は持ち前の霊能力でこれに気づいていた。イイ歳こいて処女をこじらせていたブルー ノは、迷わずコクピットに突撃。図星を突いてコクピットはてんやわんやだ。乗客はそれ以外にも海千山千で、政財界などに顔が利くほどの夜の女ノルマ(セシ リア・ロス)、訳ありげなコワモテ男インファンテ(ホセ・マリア・ヤズピック)、不正行為がバレて国外逃亡を図ろうとしている銀行頭取マス(ホゼ・ルイ ス・トリーホ)、最近落ち目のロートル俳優リカルド(ギイェルモ・トレド)…といった面々。そしてホセラの「ウソはつけない」というハタ迷惑な主義がアダ となって、異常事態の発生が乗客の知るところとなってしまう。最悪の事態も覚悟しなければならなくなった彼らは、それぞれの「本音」をチラつかせていく。 落ち目俳優リカルドは機内の電話を使わせてもらって、関係がこじれていた恋人アルバ(パス・ベガ)に連絡。しかし彼女は、ちょうど陸橋の上から道路に身を 投げようとしているところだった。おまけに幸か不幸かアルバの携帯は電話がつながったまま宙に放り出され、たまたま下を自転車で通りかかったルティ(ブラ ンカ・スアレス)の手元へ。ところが何たる事か、偶然にもルティはリカルドの元恋人だというから世間は狭いではないか…。

みたあと

  ペドロ・アルモドバルがマトモな「航空映画」を撮るとは思っていなかったが、それでも舞台の大半が飛行機の中…と聞けば無関心ではいられない。こうして見 始めた映画だが、早速、登場したペニンスラ航空の2539便は、エアバスA340の機体。さすがヨーロッパ映画だけにボーイングではなかった。エアバス機 は日本の航空会社ではANAがA320をちょこっと持っているくらい。世界的には今流行の格安航空会社LCCがA320を多く導入していることで知られて いる。そしてジャンボを超える大型機、総二階建てのA380でも有名だ。そんなわけであまり馴染みのないエアバス機、A340とはどんな飛行機か?…とい うと、エンジン4発の大型機という位置づけになるらしい。結果的には競合機となったボーイング777に負けて生産中止となったみたいだが、新たにその 777と競合するために登場したのが、先日JALが導入を発表して話題となったエアバスA350という次第。今回はそんなエアバスA340が、「神経衰弱ぎりぎりの女た ち」のアルモドバルらしいケバケバした塗装で登場。男性客室乗務員が3人が3人ともオネエというのも「らしい」趣向だ。あまり航空会社や空港の協力を得ら れなかったのか、アンドニオ・バンデラスとペネロペ・クルスという大物同士の顔合わせによる地上整備員のコントみたいなエピソードが終わると、離陸場面も なしにいきなり飛行中の2539便。あとはずっとスタジオによるセット撮影となっているが、このセットが実際のA340と寸分違わぬものかどうかは確認で きなかった。ちょっとウソっぽく見えるが、本作の趣向から考えるとリアルさを要求するのが間違いかも。

ここからは映画を見てから!

こうすれば
 先 にもリアルさを要求するのが間違い…と言った通り、コメディだからという理由以上にお話の展開がザル。乗客はどんどんコックピットに入って来ちゃうし、異 常事態が起きたからとエコノミーの乗員乗客を全員眠らせてしまうなど、終始無茶な設定で展開。落ち目俳優が恋人に電話したら、その恋人の携帯電話が「たま たま」通りかかった俳優の元恋人の手元に転がり込んでくる…という展開からして、「リアル」さで語っちゃいけない映画であることは分かる。しかし、それに したって行き当たりばったりな展開だし、笑いの感覚の違いと言えば違いだが、ギャグも滑りに滑りまくっていて正直見ていてツライ。一番ガッカリだったの が…3人のオネエ客室乗務員のショータイム。予告では彼らがポインター・シスターズの「アイム・ソー・エキサイテッド」に乗って楽しげに踊りまくる場面が 出てきて、その曲名を映画タイトルにしていることからも、「こりゃあオネエたちが全編踊りまくる映画かな?」と大いに期待させた。歌って踊ってバカバカし く盛り上がるなら、それはそれで楽しいではないか。ところが残念なことに、このショータイム場面は「アイム・ソー・エキサイテッド」の1曲のみ。あとは飛 行機内のハチャメチャ人間模様に終始してしまうのだ。これには多少なりとも期待していたので、僕はかなりガッカリしてしまった。

みどころ
 ところがこのポインター・シスターズの歌が流れたあたりから、作品の空気も一変。乗客の正体や本音がどんどん明るみになっていく。「あの頃ペニー・レインと」 (2000)でも同様の場面があったが、「ペニー・レイン」ではそれによって親しい人間たちの関係が断ち切られてしまうのに対して、本作では極限状況が荒 療治になって全員の人生に良い変化が起きていくのがミソ。最後にはクスリの力を借りて全員メロメロ。その結果、機内は乱交パーティー的な状況になるという思い 切りシモに下った展開となる。こうなるとスペインの人のラテン気質にお茶漬けサラサラの日本人としてはついていけなくなりそうだったのだが、なぜか今回ば かりは僕はそうはならなかった。理由としてはリアルではないとは言え「極限状況」という設定があるからだろうか。突き抜けた下品さやバカバカしさが、見て いる側のカタルシスになっていく。ラストもあっけらかんのハッピーエンドで、僕としては妙に巨匠然としてシリアスなアルモドバル作品より好きになれた。作 り話なら作り話で、みんながハッピーというエンディングもいいではないか。

さいごのひとこ と

 やっぱり最後は人間シモだ。

 

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