新作映画1000本ノック 2014年1月

Knocking on Movie Heven's Door


このページの作品
「パリ、ただよう花」 「愛しのフリーダ」 「セッションズ」

 

「パリ、ただよう花」

 Love and Bruises/花

Date:2014 / 01 / 27

みるまえ

 あの「ふたりの人魚」(2000)が衝撃的だった、ロウ・イエの新作がやって来た。ロウ・イエといえば、その後に発表された「パープル・バタフライ」(2003)も「天安門、恋人たち」 (2006)もハズシなし。しかし、「天安門〜」の性表現がハードだったとか、天安門事件を題材にしちゃったのがマズかったとか…で、お上に睨まれるハメ に。その結果、しばらく映画を発表することができなくなってしまった。ところがどっこい、そんなコトではこのロウ・イエを黙らすことはできなかったらし い。一体どうやってお咎めなしになったかは知らないが、チャッカリとビデオカメラを使って「スプリング・フィーバー」 (2009)をモノにしてしまっていた。さらにパリを舞台に、今回の新作まで作っちゃうという大胆不敵ぶり。ロウ・イエ、まったく懲りていないのだ。しか も今回は、舞台の大半がパリ、フランス。自国の窮屈さから海外に飛び出したアッバス・キアロスタミと同じく、ロウ・イエが国外に活路を見いだしての一作。 これは見ないわけにはいかないと、公開間もなく劇場に飛び込んだ次第。

ないよう

  ここはパリ。その路上で、一組の男女が言い争っている。いや、言い争うというより、追いすがる女とうっちゃろうとする男という構図だ。男はフランスの中年 男、女はどうやら中国からやって来たばかりのホア(コリーヌ・ヤン)。彼女は中国で彼と知り合い、彼を追ってフランスまでやって来たようだ。しかしホアは 「最後に一度だけ抱いて」とまで言い寄るが、男はすっかりドン引きして去っていく。呆然自失のホアはたまたま通りかかった工事現場で建設工の若者とぶつか り、泣きっ面にハチ。その若者マチュー(タハール・ラヒム)は彼女を気にかけて、その後もホアにずっとついて歩く。おまけに勢い余ったマチューは、ホアに 好意を見せて言い寄る始末だ。そうなるとホアだって男に捨てられたばかりでまんざらでもない。しかし夜も更けて「じゃあサヨナラ」ということになると、い きなりマチューがキレた。「何だよここまで引っ張っておいて」と苛立ちをムキ出し。工事現場の暗がりに彼女を引っ張り込んで、嫌がるホアを無理矢理犯して しまう。暗がりの殺風景な工事現場で、服も脱がずに黙々とホアを犯すマチュー。殺伐かつ貧寒とした行為が終わった後、冷静に戻ったマチューはゆっくりホア の身体から離れる。そのまま、その場を去ってもよかった。しかしマチューは罪の意識か、はたまた人恋しさか、ボロボロのホアの元へと戻った。こうして二人 は連れだって連れ込みホテルへシケ込み、激しい行為の続きを始めた。これが、ホアとマチューの関係の始まりだった。やがて、一緒に住んでいたらしい中国人 の男の部屋から飛び出したホアは、マチューの部屋に暮らすようになる。あんな始まり方をしたホアとマチューだが、いまやすっかり恋人気分だ。ある夜などマ チューの仕事仲間ジョバンニ(ジャリル・レスペール)の夜遊びに付き合い、一晩バカ騒ぎをしたりする。だが、お仲間のジョバンニは下品な男で、マチューも こいつと一緒になって泥棒を働くテイタラク。さらに教養のないマチューは、大学で学ぶホアがクラスメートの男と一緒にいるのもイヤなようだ。おまけにマ チューはとんでもない暴挙に出た。後から合流すると言って、ホアとジョバンニを「パーティー」に行かせたのだ。ところが、「パーティー」会場のお屋敷には 誰もいない。おまけにいつまで経ってもマチューも来ない。そして案の定、粗野なジョバンニがホアににじり寄って来るではないか。ジョバンニはニヤ笑いしな がらホアに告げた。「あいつはいつまで待っても来ねえよ」…。

みたあと

  またぞろ過激な性描写が出てくるらしいとは聞いていたが、ロウ・イエの映画に「それ」はつきもの。今さらそんなモノでは驚きもしない。そして中国本国では 映画制作が思うに任せなくなったこともあり、すでに外国資本を得ていて「天安門、恋人たち」でベルリン・ロケもやってるし…というわけで、大々的なパリ・ ロケも自然な流れと理解できる。だから僕は、「いつものロウ・イエ作品」と安心して見に行ったわけだ。そして、今回はどんな趣向で僕の気持ちをグッとつか んでくれるのか…とじっと待っていたのだが、始まって早々にヒロインが建築現場みたいな殺風景な場所でいきなりレイプされてしまい、それなのに自分を犯し た男の後についていってなぜか恋人ヅラするに至っては、「アレレレ?」と当惑せざるを得ない。もちろん映画のストーリーの中の出来事を、世間一般のモラル で登場人物を裁いたりすることが無意味ということは分かっているつもりだ。極端な人物や物語設定で「人生の真理」を描くようなことだってあるだろう。しか しいつまで経っても、このロウ・イエ作品は僕に何の共感も覚えさせてくれない。これは一体どうなってしまったのだ?

ここからは映画を見てから!

こうすれば

  正直に言うと、この映画の登場人物には誰一人として共感できる奴がいない。もちろん筆頭は、国際的バカップルのヒロイン=ホアと彼氏のマチュー。マチュー は教養も知性も品もない底辺を絵に描いたような男で、しかも生殖器でモノを考えているような「万事それだけ」のカス。ホアはホアで、映画の中で終始流さ れっぱなし。おまけにどうやらガイジンと見ると相手構わず股を開いてしまうタイプらしい。こういう女って日本人だけじゃないんだねぇ。ガイジンならば、土 下座されたら誰でもやらせてしまいそうだ(そうは言ってもなぜか一人だけは拒否していたが)。そしてマチューの周囲のダチも同じくらい底辺。教養もないし 品もないし盗みで生計を立てるようなクズっぷりだ。だがホアの周辺にいた中国人学生たちはどうなのかと言えば、確かに教養だけはありそうだが俗物臭がプン プン。卑しさでは一歩も引かない。ヒロインは途中で中国に帰国することになるが…ここで前に捨てた恋人の元に転がり込むのもどうかと思うが、この元カレが またホアに媚びまくる情けない男。あまりに小市民っぷりが目に余るので、これまたどうにも好きになれない。どうにもこうにも、クズみたいな人物しか出て来 ない映画なのだ。そもそも基本的なストーリーラインからして、ミもフタもないものでしかない。マジメだけが取り柄の彼氏にモノ足りなさを感じたインテリ女 が、こいつを捨ててガイジン追いかけて海外へ出る。ところが実は完全に遊ばれてて、そいつの国に着いたとたんに捨てられる。おまけに、その国の底辺男に ひっかかって速攻でやられちゃう。それなのにガイジンというだけでその底辺男とツルんでねんごろになり、ダラダラズルズルと関係が続いてしまう…という、 文字にしたらますますくだらなさが際立つしょーもないシロモノ。くだらない女がくだらない男とくだらない関係を結んで、案の定くだらない結末を迎えるとい うだけのお話。そんな大した事のない話を「おフランス効果」で立派に見せかけてるだけみたいな映画なのだ。しかし、よくよく考えると…例えば「天安門、恋 人たち」あたりでもヒロインは結構サッサと男にやらせちゃったりするし、不毛な関係をズルズル引きずったりする。今さら蒸し返してどうなるという関係を、 もう一度構築してみようとしたりもする。筋書きや設定だけ見るとやってることはあまり変わらないようにも思えるではないか。では、なぜあっちが良くてこっ ちはダメな気がするのか。僕が変わったのかロウ・イエが変わったのか。ひとつ言えるとすると、やはり「パリ」だの「おフランス」だのってのを全面に出した のが、どこか災いしたんじゃないかってこと。何かというと抑圧されがちな本国ではなくフランスで撮っているという開放感が、結果として裏目に出ちゃったん じゃないかということだろうか。抑圧された中国で愛や性の不毛を語るのと、そんなモノはもうイヤというほど描かれて手垢がつきまくったフランスで語るのと では、おのずから何かが変わってくるんじゃないだろうか。だから映画全体が、ズバリとした実感を感じない作品になってしまった。そして、もしイマドキ「お フランス」…なんてことをありがたがっているんだとしたら、そのこと自体の感覚が古過ぎる。そのせいかどうか、何となく作品全体に漂うムードが古臭いので ある。何だか、「堕ちていく」「汚れていく」ということに対する自己陶酔というか美化みたいな発想が、大昔の日活ロマンポルノのシリアスな作品あたりに流 れている昭和臭プンプンな「やさぐれ」感に近い。そういう発想がどうしようもなく古いのである。そもそも結論として「だから何なんだ」という一言で締めく くれてしまうお話って、マズイんじゃないだろうか? 中国共産党をバカにしながらの不屈の映画づくりはいいのだが、それがこんなヌルい結果では困るのだ。 これじゃあガイジン大好き勘違いパー女の下半身ユルユル話でしかない。あの「天安門、恋人たち」や「スプリング・フィーバー」を見た時に感じた、脳天を貫 かれるような強烈な「実感」はどこへ行ってしまったのか。どうせロウ・イエ信者たちはアレコレとホメちぎるのだろうが、そんな事をしたらまったく彼のため にならない。この映画は間違いなくクズだ。ロウ・イエよ、アンタはこんなレベルじゃないだろう? もっと奮起してもらいたい。ホントに頼むよ。

さいごのひとこと

 深刻ぶっても舶来製にしても、しょせんはただのサセ子の話。

 

「愛しのフリーダ」

 Good Ol' Freda

Date:2014 / 01 / 06

みるまえ

  ビートルズを側近として支え続けていた秘書の女性が、何十年かの沈黙を破って当時を語るドキュメンタリー。元々は無名時代のビートルズのファンだった人ら しいが、こういう人の存在は知らなかったから興味津々。昨年末からチラシでこの映画の存在を知っていて、公開を楽しみに待っていた。僕もビートルズ・ファ ンの端くれとして、どうしたって興味がわく題材。勤めていた会社からの独立初日に、ポール・マッカートニー来日公演を見に行った余勢を駆って見に行きたい ところ。てんやわんやで年が明けたところで、2014年最初に見る映画として劇場へと足を運んだ次第。

ないよう

  今はもう70に手が届こうというフリーダ・ケリー。その日常は質素そのものだが、そんな彼女には誰にも語って来なかった驚くべき過去があった。それは、今 から約50年前の1961年にさかのぼる。当時、17歳だったフリーダは、リバプールの会社で働き始めていた。ある日、昼休みに同僚に連れられて、近くの クラブへと出かける。その名もキャヴァーン・クラブ。フリーダはその地下の小さなクラブにあるステージで、革ジャンを着た若者たちがエネルギッシュに演奏 するのを目撃する。それがフリーダとザ・ビートルズとの出会いだった。その鮮烈な音楽と個性に衝撃を受けた彼女は、それから毎日のようにクラブに通い詰め る。やがてビートルズのマネジャーであるブライアン・エプスタインから「秘書にならないか?」と声をかけられるフリーダ。それが、彼女の人生にとっての運 命の分かれ道だった。やがてビートルズは、20世紀で最大の存在へとのし上がっていく。ファンクラブの運営を任されるようになったフリーダは、ビートルズ を陰から支える重要な側近の一人となった。しかしどんなにビートルズの存在が大きくなっていっても、彼女自身は彼らへの接し方も自らのライフスタイルも変 えることがなかった。そんな彼女が、50年間も守っていた沈黙を破ったのは、一体なぜだったのか…?。

みたあと

  前にもどこかで書いたことがあるかと思うが、僕にとってもビートルズは重要な存在だった。僕が映画ファンになった経緯には、彼らの「ビートルズがやって来 るヤァ!ヤァ!ヤァ!」(1964)も大きく関わっているのだ。だから僕は、ビートルズが絡んでくる本とか映画は、どうしても目を通さずにはいられない。 マーティン・スコセッシの「ジョージ・ハリスン/リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド」 (2011)も興味深く見た。だが、僕はマニアと言えるほどのファンではないので、このフリーダ・ケリーという人の存在は知らなかったのが本当のところ。 だから、「知られざるビートルズ・エピソードが紹介されるかも」…という興味は正直あった。では、実際のところどうだったかと言えば…ハッキリ言うとアッ と驚く新事実なんてモノはまったくなかった。大概は知っている話、お馴染みのエピソードばかり。そもそもこの映画、ビートルズ・ヒストリーを語るという趣 向ではないのだ。おまけに超有名ミュージシャンについての映画でありながら、音楽映画でもない。劇中に音楽は結構流れているが、ビートルズ・オリジナルは 4曲だけ。あとはビートルズがカバーした曲の原曲だったり、エピソードに関わるような曲が流れる。でも、ビートルズ創作の秘密なんぞが語られるわけではな い。ビートルズが人気爆発して世界を征服していく様子も、逆に煮詰まっていって解散に追い込まれていく様子も、断片的な形でしか伝えられない。そういう意 味では、これは「ビートルズに関する映画」ですらないのかもしれないのだ。

みどころ

  では、ビートルズ・ファンの僕としては面白くなかったのか? 否、これはこれで別の意味で興味深いドキュメンタリー映画に仕上がっているのだ。確かに、こ れでビートルズ・ヒストリーはとてもじゃないが紡げない。そういう意味で「ビートルズ映画」として考えると物足りない内容なのだが、先に述べたようにそも そもこれは「ビートルズ映画」ではない。ビートルズの周辺で「たまたまあの凄まじい現象を目撃することの出来た人物」に関する映画なのだ。だから主人公は 当然のことながらフリーダ・ケリーであってビートルズではない。しかしそうなると、「凡人のお話じゃ面白くないじゃないか」と思われるムキもあるかもしれ ない。ところが、これがなかなか面白いから世の中分からない。そもそもフリーダという人、天才でも有名人でもないが、決して「凡人」ではない。いや、確か に市井の人で特別なところなど見受けられないのだが、こういう人物像は今となっては決して「凡」ではないのだ。そのくらい、イマドキ珍しいほどスジを通す 人、きっぱりした性格をした人物なのである。ファンクラブの運営でやろうと思えば手を抜くことはいくらでも出来るのに、あえて真っ当なやり方を選ぶ心根の 正しさ。彼女は元々がファンだから、誰よりファンの気持ちが分かるのだ。一方で、自らがビートルズ・ファンだからといって、ミーハー気質丸出しで彼らに接 しないという「身の程」も知っている。しかも相手が自分がファンとなったビートルズ…あの天下のビートルズであったとしても、スジが通らないことは頑とし て認めない。何とジョン・レノンだって土下座させる潔さ。それは、彼女にビートルズ利権にしがみつこうという「欲」がないからだろう。映画の中でも彼女 は、ビートルズに関するお宝はあらかた手放したこと、それでカネをつかもうとは思っていないことを何度も語る。「カネは欲しいけど、それを言い出したらキ リがない」という彼女の言葉は、まるで昔気質の職人のオッサンみたいだ(笑)。そして、そうは言ってもビートルズを愛しているから、決して彼らを暴露趣味 的に語ろうとは思わない。語ろうと思えば語れるのだろうが、良いことも悪いことも腹の底にしまっていとおしんでいる。だから「衝撃の事実」などは一向に描 かれないものの、見た後で一服の清涼剤のようなさわやかさが残るのだ。こういう人物は本当になかなかいない。そういう意味で、イマドキでは彼女も決して 「凡人」ではない。そして…映画を見ているうちに、ビートルズのことよりも彼女の人となりに大きな感銘を受ける。今では珍しくなった「高潔さ」を感じさせ るこの人自身が、文字通り希有な人物なのである。だがそれと同時に、この映画はユニークなビートルズ論にもなっているから不思議だ。これを見ると、ビート ルズってのは周囲の人に恵まれての成功だったんだなと分かるし、その実態は親しい人たちによる家族経営の商店みたいなもんだった…ということが分かる。だ から解散劇も、親子喧嘩、兄弟喧嘩みたいなもんだったと察しがつくのだ。そういう意味で、この映画はビートルズに直接肉薄するわけではないが、結果的に他 のどんな映画よりもビートルズを語る映画になっていると言えるのだ。自分の叔母の旧知の友人がたまたまフリーダだったという縁だけでこの映画を監督するこ とになったライアン・ホワイトは、ビートルズ秘話を描く変なスケベ根性を持ってなかったのが結果的によかった。まさにいろいろな意味で奇跡的映画である。

さいごのひとこと

 イマドキではマトモが非凡。

 

「セッションズ」

 The Sessions

Date:2014 / 01 / 06

みるまえ

  予告編とチラシで見る限りでは、子供の頃から首から下を動かすことができない障がい者の男が、障がい者専門のセックス・セラピストの女と出会って「願いを 叶えていく」お話…らしい。そういうテーマとなると、単に映画を見るのも感想書くのも億劫になってくる。言葉の中に「害」って言葉が入るとは何事か!…と か、グダグダ言われたくないしねぇ。おまけにこの映画には、その「障がい者」に「セックス」というヤバイ要素がもうひとつ加わっているから始末に負えな い。こちとら別に教養を得たいとかではなく単なるお楽しみで映画を見ているわけで、自慢じゃないが社会的な意識も高くない。こんな映画見たいとも思わない ところだが、予告編を見たらヘレン・ハントにウィリアム・H・メイシーが出ているではないか。このキャストはかなり魅力的だ。そんなわけで、僕にとって 2013年最後の映画…大みそかに見る映画となった次第。

ないよう

  マーク・オブライエン(ジョン・ホークス)は、幼い頃に患ったポリオのせいで首から下が動かない身体となり、ベッドに寝たきりの生活をしている。夜、眠る 時はいわゆる「鉄の肺」と言われる人口呼吸器が頼りだ。しかし持ち前の明るい性格と明晰な頭脳のおかげで、見事にカリフォルニア大学バークレー校を卒業。 何と詩人、そしてジャーナリストとして自活するようになった。とはいえ、その生活は多くをヘルパーに頼っている。大学卒業後に出会ったヘルパーのアマンダ (アニカ・マークス)は快活な美女で、マークは彼女に強く惹かれた。しかし、その気持ちを口にしたとたん、彼女は「好きだけど一緒にはいられない」とマー クの前から去ってしまう。前向きな生き方でさまざまな困難を克服してきたマークも、「愛」だけは手に入れることが出来なかった。次にやってきたオバチャン のヘルパーは最悪。ある日、教会に連れてきてもらったマークは神父のブレンダン(ウィリアム・H・メイシー)に、「あんなヘルパー辞めさせたいと思っても いいですよね?」と率直に告白。それをキッカケにしてマークは、それからいろいろなことをブレンダンに相談するようになり、まずはそのオバチャンのヘル パーをクビにした。代わりにやって来たのはヴェラ(ムーン・ブラッドグッド)という女性ヘルパー。彼女のサバサバした性格のおかげで、マークは大いに救わ れる思いがした。そんなある日、彼のもとに一本の電話が入る。それは、障がい者のセックスについての原稿依頼だ。早速、ヴェラに付き添われて取材に出向く マーク。そこで語られた内容は、思わず絶句するようなあけすけな内容。そして障がい者専門のセックス・セラピストの存在だった。そんな仕事があることを 知ったマークはそれを体験したいと思い始めるが、コトがコトだけになかなか重い腰が上げられない。そんなこんなでマークはブレンダン神父に相談すると、神 父は大いに戸惑いながらも聖職者なりのギリギリの線でマークの背中を押した。ヴェラもそんなマークを励まし、まずはセックス・セラピストを依頼する電話を 入れることから始まる。セラピーの場所として人の家を借りることになり、緊張の中をヴェラに連れて行ってもらうマーク。セラピストとしてシェリル(ヘレ ン・ハント)が現れるのと引き替えに、その家の人もヴェラも家を出て行った。緊張の極致。そんなマークに対して、「これは売春とは違う」こと、一人に対し て6回の「セッション」まで…と決めていることを冷静に告げる。やがて難航しながらもマークの服を脱がし、自らも裸になったシェリルはいよいよ「セッショ ン」を開始するが…。

みたあと

 実はこの映画を予告編で知った時は、結構面白そうだと期待した。ヘレン・ハントは元々好きな女優で、「恋愛小説家」(1997)も「ハート・オブ・ウーマン」 (2000)も好きだった。おまけに芸達者のウィリアム・H・メイシーも出ると来れば、コミカルで楽しい映画に仕上がっているのではないか。そんな風に 思っていたら、ネットなどを見るとやたらに肯定的過ぎる評価が満載。いわく「ポジティブ」「感動!」「いやらしくない」…何だかあまりに前向き過ぎる評価 ばかりが並んで、正直言って僕みたいなひねくれ者はだんだん辟易してしまった。そもそも障がい者であろうと何であろうと「セックス」を描いた映画というこ とにはなるわけで、それが「いやらしくない」ってどうなんだろう? セックスに関する「いやらしくない」映画っていい映画なんだろうか? セックスで「い やらしくない」ってホメ言葉じゃないよね。いやぁ、サメるぜそれじゃ。正直言ってこちとらそれほど人格者でなくて、人並みに下世話な興味も持っている。 ネットの他の映画ファンの方々はそんな興味は欠片もないんだろうが、僕にはハッキリ言って「いやらしい」興味は十分すぎるくらいある! 何をそんなに力一 杯断言しているんだか分からない(笑)が、周囲のシラジラしい評価で逆にこの作品の内容が不安になってきた。そんな「良心的」な作品なんぞ見たくもない。 僕は普通に面白い作品を見たいだけなのだ。そんな思いが渦巻く中で見に行った本作、いきなり首から下が麻痺しても前向きな主人公の大学卒業から始まって、 「ポジティブ」なことポジティブなこと。正直言って「この主人公はオレとはまったく接点のない男」と思ってしまって、映画が始まってすぐに興味を失ってし まいそうになった。ところがこいつ、自分についたオバチャンのヘルパーを嫌いになって、神父に愚痴をタラタラ。こうなってくると僕にも分かる。こういうヤ ツなら知っている。そしてこの映画の作り手は、深刻なことも笑っちゃうことも悲しいことも、すべて「昭和天ぷら粉」を使ったみたいにカラッと揚げて見せて くれるつもりであることが分かった。あとは、芸達者な役者たちを、安心して見ていればいいのだ。

みどころ

  まずは、主人公を演じたジョン・ホークスをホメなきゃいけないだろう。僕はこの役者さんを知らなかった(前に見ているのかもしれないが、この人とは認識し ていない)が、見る側を身構えさせることなしに障がい者をそれなりにリアルに見せるギリギリの線で演じていた。これはなかなか出来るようで出来ない。そし て…やっぱりヘレン・ハントが素晴らしかった! そこそこ魅力的で美しく、しかしちゃんと肉体の衰えも見せていてリアル。ヌード場面も多く神経を使う場面 が多かっただろうことは想像に難くないが、見事に演じ切って大したものだ。ちょっと話がわき道にそれるが、今回のヒロインがヘレン・ハントと聞いて、そう 言えば以前似たような設定の映画に出ていたような気がしていた。すると…あったあった。車イス生活になった主人公(エリック・ストルツ)の恋人を演じた 「ウォーダーダンス」(1991)って映画が。あの時も、劇中で首から下が麻痺した主人公と、彼女がベッドで行為に及ぶ場面があったっけ。そういや、 ちょっと神経質すぎる主人公ジャック・ニコルソンと恋に落ちるヒロインを演じた「恋愛小説家」も、あんな手のかかる男のお相手じゃほとんど「介護」みたい なもんだ(笑)。よくよく彼女は「そっち」系の役どころが多い人だなぁと笑ってしまった。これはまったくの余談。さて、問題の「いやらしい」か「いやらし くない」かという点(笑)だが、ちゃんとそれなりに「いやらしさ」はあってエロかった。確かに、真っ正面からセックスの現場を描いている真面目さはあるの で、いわゆる「扇情的」な印象はない。おまけに、服脱がせたり行為に及んだりするのがえらくシンドいってところを逃げずに描いているので、なかなかシビア でもある。でも、大丈夫。ちゃんと「いやらしい」です(笑)。どうせ「いやらしくない」なんてご託は、女性の映画ファンが「自分はいやらしいモノを見たん じゃない!」と言い張りたいからなんだろう。そんなことより僕が気になったのは、ヘレン・ハントが「売春とは違うから」と断言していること。こんなことを 言っちゃうと女性のみなさんに怒られてしまいそうだが、正直言って僕は見ていて「どこが違うのか」サッパリ分からなかった。そこに「ワタシたちはレベルが 違うから」みたいな 「売春している人への侮辱」がチラリと臭ってしまって、いささか残念な気がしたのだ。そこには、先の女性映画ファンの「いやらしくな い」発言と同種の「いやらしさ」を感じてしまう…。閑話休題。そんな風に「障がい者」周辺には何とも言えない偽善の臭いが漂いがちなのだが、それも僕らが 「障がい者」の「セックス」を特別視しちゃっているからなんだろう。まぁ、正直言って自分だって「特別視」してないとは言い難いが…。しかし、またまたお 話を元に戻すと、実はそれって「特別」な話じゃないんじゃないかっていうのが本作の趣旨だと思う。先に述べたように、本作では主人公たちがコトに及ぶ「行 為」のシンドさがリアルに描かれているが、ただ…まぁ、実際のところは我々にしたって、そういうコトに及ぶ時にはそれほどムードがある訳じゃない。時々は チラッとサメたりもするし(笑)。それはともかく…この映画は、割り切ってコトに及んだはずの男女が、関係が進むにつれてそうもいかなくなって…という、 意外なまでにオーソドックスな恋愛映画的ストーリー展開を見せるのだ。これって別に「特別」な話じゃない。そういう意味で、これは「障がい者のセックス」 の話というより普遍的な意味での「恋愛」とか「セックス」に関する物語だと受け止めるべきなんだろう。それをかなり極端な例で見せていく話なのだと考えれ ば、これはこれで「人ごと」ではなく「我々自身」の話なのである。元々がたった「6回」と限られた「セッション」…しかし、それも「感情」が入り込んで来 ることによって中断せざるを得なくなる。こと主人公とヒロインとの関係で言えば、残念な結末だとはいえる。しかしこの映画が非凡な点は、それを単に「残 念」に見せないところだ。確かに「関係」は苦い結末を迎えたが、それは「ない方がよかった」こととは描かれない。終盤にアッと驚く展開もあるにはあるが、 仮にそれがなくたってもハッピーエンドなのだ…と描いているところが秀逸なのである。そのあたりに、近作の「鑑定士と顔のない依頼人」(2013)などにも共通するモノが感じられて、僕は非常に興味深かった。

さいごのひとこと

 むしろ基本的には「筆おろし」映画と思うべき。

 

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