緊急小特集
ワールド・ウォー "G"
 
World War G
featuring :  "Godzilla"





リベンジ・マッチ〜「ゴジラ」(2014)


 1950年代、各国は競って核実験を行っていた。
 アメリカも、南太平洋などをはじめとして各地で核実験を強行。その最たるものが、ビキニ環礁における実験だろうか。周到に準備され、多くの軍のスタッフが動員された中に、ある「機関」の人々も混ざっていた。その名を「モナーク」という。
 しかしこれらの南の島には、原住民たちを脅かす謎の巨大な生き物の存在がいた。
 それを知ってか知らずか、核実験は行われる。カウントダウンが開始され、いよいよ核爆弾が炸裂するという瞬間…巨大な「何者か」が島の海岸そばに急浮上してくるではないか。
 閃光が炸裂!
 ものすごい爆風と立ち上る巨大なキノコ雲。しかし、果たしてあの「何者か」の正体とは…?
 1999年、フィリピン。「モナーク」のヘリコプターが降りていくのは、平原にぽっかりと開いた巨大な窪地だ。そこは数多くの労働者が掘削作業を行って いる鉱山だが、掘削中に広範囲にわたって陥没が起きたのだ。ヘリコプターから降りてきたのは日本人科学者の芹沢猪四郎博士(渡辺謙)と同僚のヴィヴィア ン・グラハム博士(サリー・ホーキンス)。彼らは放射能の防御服を身につけて、そこから地下洞窟へと降りていく。洞窟には、巨大な生物の白骨死体がそそり 立っていた。さらに目についたのが、洞窟の天井からぶら下がった二つの巨大な繭状のモノ。どうやらこれは何らかの卵のうようだが、その片方はぺしゃんこに なっていてすでに孵ってしまったようだ。その後、ヘリコプターからの捜索で、地下から何か巨大な「モノ」が飛び出して海に向かって這い出た跡が見つかる。 その「モノ」とは一体何で、どこへ向かったのだろうか。
 それからまもなくのこと、日本のある地方都市。誕生日の飾り付けを持った少年が、隣の部屋の様子を伺っている。隣の部屋ではジョー・ブロディ(ブライア ン・クランストン)が電話でしきりに何かを説明していた。どうやら、どこからともなく謎の振動と電磁波が周期的に起こり、それが徐々に近づいているらし い。そんなジョーの様子を見ている少年は、彼の息子のフォード(C. J. アダムス)。今日はジョーの誕生日。フォードはジョーに「お誕生日のサプライズ」をしようとしていたのだが、深刻な顔をして電話しているジョーの顔を見て いると、どうやら話しかけられる雰囲気ではない。別の部屋からやってきたフォードの母サンドラ(ジュリエット・ビノシュ)もその様子を見て、フォードを学 校に行かせた。やがてジョーとサンドラは、クルマで彼らの「職場」に出かける。その職場こそ、街の近郊にある原子力発電所だ。
 原子力発電所で、ジョーは日本人の同僚たちに事の重大さを必死に説明する。例の振動と電磁波で発電所に危機が迫っているとジョーは考えているのだ。しか し、なかなか賛同は得られない。一方、原子炉に異常が認められないか調べるために、サンドラは防護服を着て同僚たちとともに原子炉エリアへと入っていく。 ところが、そこでいきなり轟音と激しい振動が起きる。これによって原子炉から一気に放射性物質が漏れ出した。慌てて原子炉エリアを逃げるサンドラと同僚た ち。放射性物質が漏れたことが分かるや、発電所内も大騒ぎで職員たちが次々逃げ出す騒ぎとなった。街を護るためには防護壁を閉めて原子炉エリアを封鎖しな くてはならないが、それをすればサンドラたちが助からない。職員たちはすぐに防護壁を閉めろと命じるが、ジョーは防護壁の閉鎖場所まで行ってサンドラをひ たすら待った。しかし、時すでに遅し。ジョーの目の前で、漏れ出した放射性物質が勢いよく押し寄せてくるのが見える。胸がつぶれる思いで、ジョーは防護壁 を閉じた。防護壁の窓の向こう側には、サンドラが近づいてくる。彼女も自分の運命を悟っていた。そのうち防護壁は窓も含めて完全閉鎖され、サンドラの姿も 見えなくなった。悲痛な思いで立ちすくむジョー。
 しかしそんなことをしている間も、原子力発電所の崩壊は進んでいた。フォードが通っているインターナショナル・スクールでも先生が児童を連れて次々避難。フォードが学校の窓から外を見つめると、原子力発電所は内部から吸い込まれるようにして崩れ落ちていった…。
 それから15年後。
 軍用輸送機の後部扉が開いて、フォード・ブロディ大尉(アーロン・テイラー=ジョンソン)が顔をのぞかせる。ここはサンフランシスコ。彼は久々に自宅に 帰ってきたのだ。家では妻エル(エリザベス・オルセン)と息子サム(カーソン・ボールド)が彼の帰りを待っていた。何とこの日は、フォードの誕生日。妻と 息子がささやかにフォードを祝ってくれたのだ。
 そんな一家団欒に水を差したのは、一本の電話だった。何と父親のジョーが、日本で逮捕されたというのだ。それも、例の原発事故で立入禁止になった区域に 不法侵入したらしい。正直、あの事故以来、ジョーとフォードの仲は微妙なものになっていた。しかし放置するわけにもいかず、フォードは一路、日本へと向か うのだった。
 日本に着いたフォードは、ジョーの身元を引き受けた。ほかに行くところもないので、フォードはジョーが借りている日本のアパートへ。父ジョーはあの事故 以来、何やら陰謀論に夢中になっているかのようだった。部屋にはあの事故に関する記事の切り抜きが所狭しと貼り出され、ジョーがいまだにあの事故の妄執か ら逃れられていないことを物語っていた。さすがにこれにはついていけないフォード。しかしジョーは、決して自分がおかしいとは思っていない。むしろあの時 期に断続的に起こっていた振動と、例の事故との因果関係を知りたいと心から願っていたのだ。
 そんなところに、ジョーを呼び出す連絡が。何とジョーは、懲りずに再び立入禁止区域に侵入するつもりなのだ。さすがにそんな父親を止めるフォードだった が、ジョーの決意は揺るがない。妻サンドラの亡骸はいまだにあの原発の瓦礫の放置され、自分が寸前まで研究していたデータも自宅に置いたまま、サンドラの 写真一枚持ち出せなかったジョーなのだ。そんな父の嘆きを聞いてしまうと、フォードはもう止めることができない。結局、フォードはジョーと一緒に、立入禁 止区域に侵入することになる。
 立入禁止区域内の街は、「あの時」の状態で時計が止まったまま廃墟と化していた。防護服で身を固めた二人は愕然としながら街を歩いていたが、ジョーはそ こで野良犬たちが元気に駆け回っている点に注目した。ガイガーカウンターで測ってみても、まったく反応が見られない。ジョーは突然防護服のヘルメットを脱 ぎはじめたので、フォードは仰天。慌てて止めようとしたが、ジョーは息を大きく吸ってこう答えた。「放射能の値はゼロだ!」
 確かに放射能はなくなっている。なのに公式発表ではこのエリアは汚染され、現在も立入禁止に指定されているのだ。それは一体なぜなのか? 何かここに人が入られてはいけない理由でもあるのか?
 二人はかつての自宅に入り、例の振動のデータが入ったディスクを入手。しかし、ホッとしたのもつかの間。突如、ヘリコプターが降りて来て、二人は身柄を拘束されてしまう。そんな二人が連行されていった先は…。
 あの崩壊した原発事故跡に、巨大な研究施設が建造されていた。例の研究機関「モナーク」の施設である。その中心には巨大な繭があり、周囲には数多くの人 々が忙しく働いている。そしてこの施設内で、フォードとジョーはそれぞれ別々に身柄を拘束されていたのだ。ジョーが閉じ込められていたのは、尋問室のよう な部屋だ。そこで、ジョーは怒りをほとばしらせながら激しく叫ぶ。「あんたたちは嘘をついている! あれは地震や台風のような自然災害なんかじゃない。何 かを隠しているんだろ? 私には知る権利があるんだ!」
 その尋問室のマジックミラーの向こう側には、例の芹沢博士とグラハム博士がいた。彼らはジョーが主張する振動と電磁波について、思い当たるフシがあっ た。実は今もその電磁波は、この施設の中心に鎮座している巨大な繭から発せられているのだ。おそらくジョーには真相に近いモノが分かっているに違いない。 しかし彼らがそれに気づいたのは、あまりに遅きに失した。
 繭に突然激しい反応が起きたため、繭を抹殺するべく動き出すスタッフたち。しかし突然激しい電磁波が発生し、電子機器がすべて使用不能になった。そして 繭を破って出て来たのは、何本もの脚と巨大な翼を持った奇妙な生き物だった。別の狭い部屋に閉じ込められていたフォードは、妄想だと思っていた父の主張が 現実のものだということに気づいた。しかし繭から生まれた怪物は大暴れして、施設はメチャクチャに崩壊。ジョーはドサクサに紛れて尋問室から逃げ出せたも のの、建造物の倒壊に巻き込まれて高い所から落下してしまう。そして怪物は、翼を広げて夜空へと飛翔していった。
 翌朝、破壊された施設を見つめて呆然とする芹沢とグラハム。すでに「モナーク」は米軍の管理下に入り、周囲には兵士たちが忙しく働いていた。数多くのケ ガ人たちも次々収容される中、重傷を負ったジョーとその世話をするフォードの姿を見つけた芹沢博士は、「彼らが必要だ」と軍の人間に交渉する。しかし、 ジョーは輸送機の中で世を去った。
 彼らが落ち着いたのは、日本沿岸にやってきた米海軍の航空母艦サラトガ。そこを司令部として、ウィリアム・ステンズ提督(デビッド・ストラザーン)が全 体の指揮を執っていた。原子炉跡から例の怪獣が出現した際の衝撃で、東日本には甚大な地震被害が発生。とりあえず「あれは地震だった」ということで時間稼 ぎをしながら、当座は怪獣出現の事実は伏せておく作戦である。このステンズ提督の下で、芹沢博士たちも怪獣対策に備えることになった。
 サラトガ内の会議室では、ここまでの経緯の説明と今後の方針を決める会議が行われていた。ジョーを失って悲しみに暮れるフォードも、この会議に呼ばれる。
 「最初は1954年のことでした。原潜ノーチラス号が深海で“何か”を目覚めさせてしまった」と芹沢博士は語り始める。その言葉の後を、グラハム博士が続けた。「1950年代は米ソの核実験が次々行われていましたが、実はそれは“実験”ではなかった…」
 実はそれらの核実験は、深海で目覚めた「それ」を殺すための攻撃だった。「それ」は太古の地球に生きていた生物で、その頃の地球は今よりも高い濃度の放 射能に包まれていた。その濃度が下がるにつれて「それ」には暮らしにくい環境になったため、地底深く潜って生きるようになっていたのだ。ところが人類の核使用によって、「それ」はまた地 球の表面近くにやってくるようになった。芹沢博士やグラハム博士はその存在に気付いた人々が結成した組織「モナーク」のメンバーで、多国籍的なこの組 織は「それ」の動向を常に秘密裏に監視してきた…。芹沢博士はその場に集まった一同の方に向き直って、こう言い放った。
 「我々はそいつをこう呼んでいます…ゴジラ!」

 芹沢博士が「ゴジラ!」と初めて発音するこの段階で、上映が始まってから44分経過。そして スクリーンにゴジラが初めて登場するのはさらに遅れて、上映開始から56分経過したあたり。日本の原発跡から飛び出した原子力怪獣ムートーがハワイのホノ ルル近郊にやってきたため、それを追ってゴジラもワイキキ・ビーチに上陸するという設定だ。ビルの屋上から米軍の狙撃兵が照明弾を打ち上げると、その巨大 な姿が夜の闇に断片的に浮かび上がる…という場面…その「大きさ」を観客の脳裏に強烈に印象づける好シーンだ。そして58分経過時点で初めてゴジラの頭部 が画面に映し出され、あの印象的な雄叫びをあげる。
 上映時間123分はエメリッヒ版「ゴジラ」よりも短いが、それにしては引っ張れるだけ引っ張った印象だ。これまで挙げてきた映画の中でも、一番ゴジラ登場が遅い。映画の前半部分には、ゴジラが一切出ないのである。
 しかも驚くべきは、この後の1時間も決してゴジラは頻繁に登場する訳ではない。ある本によると、ゴジラ登場場面は合計しても10分もない…という話だ が、それはたぶん間違いないだろう。実は敵の怪獣であるムートーの方が、まだゴジラより多く画面に顔を出しているのである。
 何しろこのホノルルでのゴジラとムートーの戦いも、始まるか…と思ったら向き合った瞬間に場面は転換。あとはテレビ画面にチラチラと戦いの様子が映し出 されるだけという徹底ぶりだ。ゴジラ自体を出し惜しみするだけでなく、戦いが始まろうというところでも流れを断ち切ってしまうのだ。これにはさすがに僕も 驚いた。案の定、ネット上ではゴジラ好きな人たちが「出さなすぎ」とか「戦いを見せないなんて」と文句をブチまけている。まぁ、それは確かに言われるだろ うな。
 しかし正直言って…これ言っちゃうと怪獣好きの人たちに猛烈に反発されるだろうなとは思いつつ、どうしても言わずにはいられないのだが…あの「怪獣プロレス」みたいなのって見ていて面白いもんなのかね? 2頭(あるいはそれ以上)の着ぐるみ怪獣が組んずほぐれつ…って、一体何が面白いんだろう? 僕は子供の頃から、何となくそんなことを思いながら怪獣映画を見ていたのだ。
 そんなわけで暴言ついでに言わせてもらうと…あれって年寄りがテレビ時代劇のチャンバラを見ているのと同じなんじゃないだろうか。ほとんどホントに斬り 殺しているとは思えない殺陣で、まるで踊りみたいにキンキラ衣装を着てチャンチャ〜ンバ〜ラバラ…。「マツケンサンバ」の振り付けとどこが違うのだろう か。…つまりは緊迫感とかスリルとか皆無で、ただお約束でやっている感じ。だから僕は、そんな「怪獣プロレス」なんていっそ削っちゃってもいいんじゃない かと思ったのだ。怪獣映画の「良さ」を分かってなくてすみません。でも、分かんねえものは分かんねえ(笑)。
 さすがにこの「ゴジラ」の場合は「マツケンサンバ」とは違っていたが、それでも監督のギャレス・エドワーズは、僕が思ったようなことを感じていたんじゃないだろうか。そんなもん、最低限ありゃいいだろ…ってことなんじゃないか。
 しかしそれにしても…ハリウッド「ゴジラ」で怪獣対戦を見ることになるとはねぇ…。
 僕は当初この「ゴジラ」の企画を聞いた時から、当然のことながらゴジラ単体で出てくる映画だと思っていた。実は映画を見る前の情報を完全にシャットアウ トしていたから、実物を見るまで知らなかったのだ。だから、原発跡でワケの分からないヤツが出てきた時点でビックリした。何だこいつは?
 そもそも怪獣「対」怪獣…という形式自体、おそらく東宝が「ゴジラ」シリーズをどんどん継続させていくために、便宜上スタートさせたものではないだろう か。僕は前々から繰り返しているように怪獣映画にさほど詳しくはないが、その時代にちょうど子供で同時代的に状況を見て来た人間だから何となくそのあたり の事情は分かる。子供向けに「ハンバーグ・カレー」的な発想で作られていったのだろう…という発想の原点は理解できるわけだ。結果、毎度毎度「怪獣プロレ ス」が恒例となり、内容も当然のことながら「お子様メニュー」となった。第1作のシリアスかつダークな仕上がりから、どんどん幼稚化・形骸化していく一因 となったはずだ。だから、僕は怪獣対戦形式のスタイルをとることを好ましいとは思っていない。
 しかもリアリズムを基調とするハリウッド映画ならば、怪獣1頭出てくるだけでも非常に稀な大事件であろうはずなのに、2頭、3頭…と出てくるような不自然 な設定にするとは思えない。怪獣映画全盛期の子供ですら「何で怪獣はみんな日本に襲ってくるの?」と疑問に感じていた。複数出てくれば、ますますそう思うわな。この「複数の怪獣が出て来て戦う」と いう設定の不自然さは、どうしたって拭えないだろう。「そんなに次々出て来れるなら、なぜ今まで出て来なかった?」という話になってしまうから、ハリウッドでは絶対そん なことはやるまいと思っていたのだ。そもそもシリーズ化など目論んでいなかった1954年の第1作も単体でしか出て来なかったし、ハリウッドでの第1作 だってそうだった。それが普通の発想だろう。
 ところがギャレス・エドワーズは、驚くべきことに「別の怪獣」を出現させ、それとゴジラが戦う設定とした。これは本当に意外だった。
 それに気づいた時、僕はギャレス・エドワーズの狙いが何となく分かった。
 正直言って、ハリウッド第1作であるローランド・エメリッヒ版は、キャラクターとして人気はあるけど映画としてはチャチい「ゴジラ」をハリウッド・スタンダードで仕立て直して、大人向けの豪華なエンターテインメントとして通用するものにしてやる…という、どこか「上から目線」な 制作態度で作られたような気がする。そのあたりが日本のファンの方々の怒りを大いに買ってしまった一因であろうし、僕自身はぶっちゃけハリウッドから「上 から目線」で見られても仕方ない部分はあるとは思いながらも、それじゃあ何も「ゴジラ」の冠をつける必要ないじゃん…と思ったのも確かだった。
 しかし今回のギャレス・エドワーズ版は、日本の東宝で作った「ゴジラ」を尊重する… という前提で作っているのだ。これは言葉にすると実に単純で簡単そうに見えるが、実は非常に面倒くさい手続きを踏むことを意味する。渡世人の仁義じゃない が、「ゴジラと言ってもいささか広うござんす」(笑)。本作で複数の怪獣を出して対戦させるということは、ギャレス・エドワーズがゴジラ単体で出て来た第1作だけではなく東宝で作っていったシリーズをも含め
て尊重する…と言っているようなものなのだ。
 しかしそれって…真摯なテーマを秘めた第1作のみならず、今まで語ってきたようにその後の「シェー!」だとか空を飛ぶとか…そういったバカげた「ゴジ ラ」をも許容するということになりかねない。ローランド・エメリッヒはそのあたりをバッサリ切ってしまおうとしたが、今回はそれをも生かすという風に受け 取れるのだ。今回は「ファン目線」で作りますよ…という宣言したつもりなんだろうが、これはかなり危険な賭けではないのか。
 確かに…それまでローカル・ルールだった香港の剣劇映画のスタイルを、無理矢理グローバル・スタンダードとして欧米の観客に受け入れさせてしまったアン・リーグリーン・デスティニー(2000)のように、すでにギレルモ・デル・トロが「パシフィック・リム」で日本の怪獣映画ルールを先にグローバル・スタンダードにしてくれてはいた。あるいは、「クローバーフィールド/HAKAISHA」をその先駆者に加えてもいいだろう。
 しかも「上から目線」で啖呵を切ったにも関わらずローランド・エメリッヒ版は大不評を食らっていたので、ハードルはメチャクチャに下がってもいた(笑)。だからギャレス・エドワーズは、かなりやりやすい環境にはあったわけだ。
 しかし、それでも「ゴジラ」を「ファンの皆様のご期待に沿うように作りますよ」という宣言をするということは、かなりリスキーなことだと言わざるを得な い。なぜなら、それでなくてもファンというものは身勝手なところへ、「ゴジラ」のファンはすこぶるつきの偏狭さを持っているからだ。おまけにその「ファン 目線」とやらも、どれをもって正解とするかは極めて難しい選択になる。いや、そもそも正解ってあるんだろうか。
 一口に「ゴジラ」と言っても、1954年オリジナルを指すのかその後のシリーズを指すのか。一旦シリーズが中断する前のものか、シリーズが復活して以降 のもので考えるのか。人類の脅威なのか人類の味方なのか。全世界に散らばるファンのことを考えると、レイモンド・バー登場場面を継ぎ足した1956年の 「怪獣王ゴジラ」も無視できないのではないか。おまけに人によっては「ゴジラ」を「反核メッセージ」の「闘士」と見なしている向きもある。…ことほどさよ うに「ファン目線」そのものがあやふやで、思い切りブレまくっているシロモノだ。これらの人々の勝手な思惑を、すべて満足させるのは不可能だ。1954年オリジナル版の原点に立ち返る…とでも言っておけばそのあたり一番納得が得られただろうしフォーカスもしやすかっただろうに、ギャレス・エドワーズはよせばいいのに
怪獣「対」怪獣の戦いを持ち出してきてしまった。では、一体どのあたりを「最大公約数」的落としどころとするのか…。
 ところが、そんな状況下にも関わらず、本作は大ヒット。さらに、そこそこ悪くない評価を得たようだから、ギャレス・エドワーズは大したものだ。怪獣映画の土壌を先に耕してくれた 作品があったり、エメリッヒがかなりハードルを下げておいてくれた(笑)ことはあったにしても、今回の作品はなかなかバランス感覚が大変だっただろうなと 思わされる。そんな中で、ともかく結果を出したことは評価していい。
 そんなわけで…先にも述べたように、一般の評価は概ね悪くない。かなりホメられてる方ではないか。そして、いわゆる「ゴジラ」ファンと言われる人たちか らも、多くの「高評価」を得ているようだ。ただし、そういう「高評価」をしているファンたちも「まぁ一応及第点」とか「いろいろ穴はあるが目をつぶって やってもいい」とか、オマエ何様なんだよ(笑)と言いたくなるような奥歯にモノの挟まったような言いようだが…。当然、ケナしもそれなりに散見されるが、 ケナす奴はケナす奴で何だかえらく感情的になっているのは毎度のことだ。
 そんな中、渡辺謙は英語的な「ガッズィ〜ラ」ではなく、あくまで日本的に「ゴジラ」と発音することにこだわったと胸を張る。これをマスコミも「アッパレ!」とモテはやすしファンも「さすが!」と持ち上げていたけど…ここだけの話、「どうでもよくねえ?」と思ってたのってオレだけ(笑)? 実はこだわらなきゃならないとこって「そこ」じゃねえだろって思っているんだが。
 面白いと思ったのは、今回のゴジラは当然のことのようにCGで作ってあるものの、そのベースをモーション・キャプチャーで取り込んだ人間の動きに置いているところ。「ジュラシック・パーク」みたいな生き物っぽさ剥き出しのエメリッヒ版「ゴジラ」とは違い、本作は東宝がスーツアクターを使って着ぐるみで撮影したように、ロード・オブ・ザ・リング」三部作(2001〜3)のゴラム役でおなじみアンディ・サーキスを 起用して「ゴジラ」の動きを作り上げたというのだ。いわばデジタル着ぐるみ(笑)。やはり怪獣映画というのは、歌舞伎みたいな日本古来の伝統芸能の一種と 考えるべきなのだろう。そこに着目したギャレス・エドワーズは非凡だ。それにしてもアンディ・サーキスは例のゴラム大好評の後、同じピーター・ジャクソンキング・コング(2005)やら「猿の惑星/創世記<ジェネシス>」(2011)、「猿の惑星/新世紀<ライジング>」(2014)、そして本作「ゴジラ」…とほとんどモーション・キャプチャー専門役者と化しているが、これって本人にとっていいことなのかねぇ。それとも、モーション・キャプチャーならこの人…という意味で「芸風」として確立したと言えるんだろうか。
 閑話休題。さらに興味深いのは、どうやらギャレス・エドワーズは今回の「ゴジラ」制作にあたって、金子修介監督による平成「ガメラ」三部作を 少なからず参考にしたらしいこと。あくまで人間目線で建物越しや窓越しに怪獣を捉えるカメラワークとか、ゴジラが自然のバランスを護るために怪獣と戦うの であって人類の敵でも味方でもないという設定とかは、完全にこの平成「ガメラ」からのいただきだろう。ラストでは渡辺謙やサリー・ホーキンズなどが、まるで「神」か何かのように畏敬の念をもってゴジラを見ている。魚を食らってばかりのイグアナのお化けだったエメリッヒ版とは、落差ありすぎだ(笑)。
 ただ、すべての「ファン目線」には応えきれないから、バッサリ切るところは切っている。前述の「怪獣プロレス」への素っ気なさも、そういうところから来ているのだろう。
 そもそもギャレス・エドワーズは、小品ながら不思議な味わいのSF怪獣映画モンスターズ/地球外生命体(2010) で頭角を表した人だ。さすがに「ハリウッド大作」の本作ではあのデリケートな味は出せなかったのだろうが、そうしたさまざまな選択の仕方には確かなセンス を感じる。雄雌両方のムートーが「対面」する場面でも、「モンスターズ/地球外生命体」に出て来た怪獣同士の「愛の交歓」シーンを彷彿とさせる雰囲気が あったのが面白かった。やはり今回は、監督起用がズバリ当たったと言えるだろう。「パシフィック・リム」に次いで製作のレジェンダリー・ピクチャーズのお手柄である。
 ただそうは言っても実はこの作品には難点や穴がかなり多い。何より人間のドラマの部分にその「穴」は数多く散見できる。いやいや、僕だって別に怪獣映画で「人間ドラマ」を見たいなんてヤボは言わない。ただ、明らかに「穴」があるのは見逃せないのだ。
 そういう意味で言うと…本作の一番の問題点は、登場人物の設定がほとんど活かされないというところか。
 主人公として出てくるアーロン・テイラー=ジョンソンは、キック・アス(2010)のボンクラぶりが嘘のようなマッチョな役柄にビックリだが、爆薬処理のプロであるという設定でそれゆえに終盤の核ミサイル回収作戦にも同行している。ところが結局は核ミサイルのカウントダウンを止められず、海に廃棄するのが精一杯。そうなると、映画としては別に彼じゃなくてもよかったってことになっちゃわないか(笑)? また彼の父役であるブライアン・クランストンも 必死にかつての自宅まで戻ってデータを取り戻したものの、それらはチラッと芹沢博士の目に留まりこそすれ、すぐにムートーが繭から飛び出して来てほとんど 意味をなさなかった。まったくの死に損だ。さらに渡辺謙扮する芹沢博士たるや、いつも意味ありげな深刻な表情で登場するものの、ゴジラの来歴についてアー ロン・テイラー=ジョンソンたちや我々観客に説明する他はほとんど役に立っていない。そもそも最高司令官である
ウィリアム・ステンズ提督(デビッド・ストラザーン)がいろいろ質問しているのに、それらにろくすっぽ答えていない(笑)。質問にはマトモに答えないくせに、提督の作戦にはケチをつける(笑)という不思議な存在である。これってどういうことだろうか?
 ついでに言わせてもらうと、そんな「活かされなさ」はキャスティングにも強く感じられる。何でこれっぱかしの役に、わざわざフランスからジュリエット・ビノシュを 連れて来なければならなかったのか。ハリウッドで作る「ゴジラ」映画には、ジャン・レノみたいに「フランス人枠」でもあるんだろうか(笑)。ポスターには デカデカと名前が書かれているのだから、それなりに重要視されての起用であることは間違いないだろう。これは本当に理解に苦しむキャスティングだ。
 さらに「活かされない」といえば、なぜかドラマが本筋から違うところにそれていってしまう箇 所がいくつもあるのも不思議。その最たるものが、終盤の核ミサイル奪還作戦ではないだろうか。ムートーとゴジラ大作に奔走しなくてはならないアメリカ軍 が、なぜか本筋ではない核ミサイルの奪還に全力を注がねばならなくなる。途中で主人公アーロン・テイラー=ジョンソンがムートーの卵を焼き尽くしたりして たけれども、それは「たまたま」の副産物。ミサイル奪還って本来やらなきゃならない仕事じゃないだろ(笑)。しかも、なぜ核ミサイルを奪還しなくちゃなら ないかと言えば、結局は軍の作戦ミス。テメエで仕事増やしているんだから語るに落ちた話なのだ。
 そもそもゴジラ登場を引っ張るだけ引っ張ったおかげで、映画の前半はどちらかと言うとムートーのお話になっちゃっている。これって第2弾のお話ならまだしも、1作目からこれってマズいんじゃないだろうか。
 そして非常に難しい部分だとは思うが…「ゴジラが核実験によって目覚めた」のではなく、
「ゴジラを仕留めるために核実験が行われていた」…という設定は、大きく論議が分かれるところだと思う。
 これはゴジラを「反核の闘士」的に評価している人からすれば因って立つ根拠を失ってしまうことになるだろうし、第1作オリジナル版の「ゴジラの悲劇性」を評価する
大多数の人々からすると、異論反論が噴き出てくるポイントだろう。正直、僕も「こりゃあ難しい球を放ってしまったな」とちょっと違和感を持ってしまったのは確かだ。
 ただその後、米軍が怪獣殲滅のために核ミサイルを持ち出して来て、それに対して渡辺謙の芹沢博士が難色を示すシーンを出したり、芹沢博士の父親が広島で被爆しているらしいことを示唆したりして、何とかバランスを保とうとしているのが分かる。だから僕としては「ギリギリ何とか踏みとどまれたんじゃないかな」とは思うが、それでも人によってはゴジラの設定変更を「許しがたい!」と思ってしまうかもしれない。
 おまけに終盤にはサンフランシスコ沖での核ミサイル爆発が 出てくる。これだって、「そっち」の人には「核の脅威をナメてる」と怒りを買うだろう。実はこれについては未確認情報で、あの核ミサイルはムートーがすで に核エネルギーをチューチュー吸っちゃった後だから、かなり威力が削がれている…という設定になっているという話も聞く。しかし、肝心の映画の中ではそん なことは語られていないのだから、僕らがそれを考慮しなきゃならない理由もないだろう。だとすると、やっぱりあの核爆発の描き方は…少なくとも僕ら日本人 の目からすると…生温いと見えてしまうだろうなぁ。本来なら、主人公もサンフランシスコもヤバいことになっていなきゃオカシイはず。
ネット上での評価を見てみると、「怒りを覚える」とか「憤りを感じる」とか穏やか じゃない言葉が散見されて、「やっぱりな」とは感じられる。
 僕の個人的な意見を言わせてもらえば、前にも言及した「トータル・フィアーズ」やらトゥルーライズ(1994) のエンディングと同じで、向こうの奴らは相変わらず分かってねえな…としか言いようがないところ。これってアメリカ映画では毎度のことなので、よろしくな いとは思うが「またか」というのも正直なところだ。「怒り」やら「憤り」やら…とまで言われると、う〜ん…。意識が低くてすみません。でも、向こう の人の感覚っていまだにこんなもんなんだろうって気がしてしまう。
 ただ、いろいろケチをつけてはみたが、概ね僕はこの映画についてはこれである程度は正解だったと思っている。何よりドラマの重要な部分に日本での原発事故を 出してきたのは、正しい判断だったのではないだろうか。映画というのは「時代の産物」だし、特にSF映画はそういうものだ。今この時期に「ゴジラ」をあえ て作るとしたら、やはりそこにあの原発事故が絡んでくる…というのは必然だとは思う。むしろ出て来なければヘンだろう。「それ」がゴジラを生み出 した…という設定にはならなかったものの、映画の根幹に「それ」が出てくるのは正解だ。原発に事故が起きる悪夢のような状況、そして立入禁止区域内の廃墟の様子など、「今のゴジラ」を作るならやらなきゃウソというものだ。
 ムートーの出現が日本に巨大な地震を引き起こしたり、ワイキキ・ビーチから凄まじい津波が押し寄せたり…と、あちらこちらに東日本大震災の残像がチラつくのも、そういう意味では「必然」。これに対してもイチャモンをつけていた人がいたが、それを言い出したら何も映画で描けなくなっちゃう。僕はアップトゥデートな映画の特性からいって、これは「あり」だと思う。
 そんなわけで僕もこの映画、結果としては成功したんじゃないかと思ってはいるが、先ほどからあれこれ述べてきたように脚本にはいささか難があると言わざるを得ない。
 本来なら映画(特に娯楽映画)は、出来ればあらすじや設定はストレートであるべきだ。 高層ビルが火災に遭うとか、海から人食いザメが襲ってくるとか、タイタニック号が沈没するとか…映画の内容ってのは一言でいえるものが一番力強いものなの だ。ところがこの「ゴジラ」は、とても一言では説明できない。何しろお話の発端からして、原発で事故が起きてそこからゴジラが出るかと思えば…「アレ レ?」なんだから。例えば1954年のオリジナル版だったら核実験で目覚めた怪獣が東京を襲撃…で終わってしまうのに、今回の「ゴジラ」は説明するのがす ごく難しい。変な言い方だが…赤い旗と白い旗を指示通りに掲げるゲームで、指図する側が相手をわざと混乱させるために言う「赤上げて、白上げて、赤上げな いで白上げないで…赤上げて」みたいな感じ(笑)と言ったらいいだろうか。
何とも不自由で不自然でスッキリしないような感じ。作 品全体を貫く太い幹のようなストーリーラインがないか、あっても接ぎ木されているか、あるいはその太い幹が脇に追いやられてしまっている…というような印 象だ。あっちこっちをバランスをとりながら調整した結果、全体像としては一言でいえない内容になってしまったように思える。
 そうなってしまった理由はいろいろあるとは思うが…最大の理由は、口うるさくて各人がテメエ勝手な理想像を掲げている「ゴジラ」ファンに対して、できる だけ満足させようと心砕いた結果ではないだろうか。それぞれの持っている矛盾する「ゴジラ像」を調整しながらツギハギしていったら、こうなってしまったと いうような…。
 しかしその結果、映画はその力強さとストレートさを決定的に失ってしまったような気がする。カタチとしては何とか整っているけれども、「一筆書き」のようなパワーには欠ける。その失われた力強さを何とか各要素の「増量」で補ったのが、今回の「ゴジラ」という気がするのだ。
 原発事故から話の本題に入りながらも、そこからゴジラが出てくるわけではない。日本人科学者が重要な立場で出てくるものの、これといって何もしない。米 軍が怪獣対策の中心にいるが、結果的にはやらなくていいミサイル奪還作戦しかしていない。ムートーばかり出て来て、肝心のゴジラが出て来ない…。ほとんどの要素が本筋からそれていってしまう…ということの原因は、そういう点にあるんじゃないのか。
 
「ガッズィ〜ラ」なくて「ゴジラ」…とか言ってディティールいじくって喜んでるんじゃなくて、もっと映画の太い幹のような部分に目をやるべきじゃなかったのか。
 ゴジラの足を引っ張っているのは、ゴジラの本当の「敵」とは、実はファンの方じゃないのか。正直言ってファンでも何でもない僕から見ると、どうしてもそう感じられるのである。

 



この項おわり

 


 



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