「インターステラー」

  Interstellar

 (2014/12/08)


 
見 る前の予想
 クリストファー・ノーランの新作がやって来ると聞いたら、どうしたって気になってしまうのが人情だろう。
 彼の映画が好きな人もキライな人も、映画ファンなら気にならないはずがない。例えばデビッド・フィンチャーやウォシャウスキー兄弟(今は姉弟か)…などと同じく、現在のアメリカ映画界で新作が最も期待される映画作家なのだ。
 では僕はどうなのか…と問われれば、実はちょっとそこらへんが複雑なところ、前々からこのサイトで白状しているように、ちょっと前までノーランはダメな映画作家の筆頭だった。それがつい最近、あるキッカケから再びノーラン作品を面白く見れるようになった。結果的に、ノーランは僕にとってもその新作がとっても楽しみな映画作家となったわけだ。
 そんな中、先日「クリストファー・ノーラン」ブランドで公開されたのが、ジョニー・デップ主演トランセンデンス(2014)。しかしこの作品、僕は勝手にノーランの新作だと思い込んでいたらプロデュースだけの作品で、その出来映えもいささか「???」な作品だった。これはかなり失望させられてしまった。
 そんな肩すかしもあったので、新作が見たい…という気分は高まるばかり。そこにいよいよ新作の堂々上陸である。
 チラシや予告編を見ると、どうやら宇宙SFらしい。もうそれだけで期待に胸がふくらむ。SF映画なら僕の専門領域だし、どうやら他の惑星に行く話だというのもワクワクさせられる。スペースオペラではないハードなSFで惑星間旅行を描く作品は、ハリウッドの大作映画ではあまり数が多くない。だからそれだけで楽しみなのだ。
 さらに、今をときめくマシュー・マコノヒー主演。何とダラス・バイヤーズクラブ(2013)以来のオスカー受賞後第1作だ。これはいろいろと期待できそうではないか。
 さすがに仕事の都合があって公開初日に駆けつけるというわけにはいかなかったが、昨年末より手がけて来た本の仕事が印刷入校までたどり着いて一段落したところで、最寄りの劇場に直行。大スクリーンでこの最新作を堪能することにした。

あら すじ

 その時代、地球はすでに死にかけた世界になりつつあった。
 世界はいつの間にか慢性的な砂嵐に悩まされることになり、植物が大打撃を受けた。人々は科学技術よりも農業をとり、各自で作物を作り始めた。現在は農夫であるクーパー(マシュー・マコノヒー)もその一人だ。
 しかし状況は年々厳しくなり、雑穀もオクラも穫れなくなってきた。クーパーはかろうじて広大なトウモロコシ畑を持っているので、何とかやっていけているような状態。それでも生活は楽ではなかった。
 クーパーの家は、どこまでも広がる畑のど真ん中にあった。すでに妻を亡くしており、息子トム(ティモシー・シャラメ)、娘マーフ(マッケンジー・フォイ)、義父ドナルド(ジョン・リスゴー)と暮らしている。
 特に娘のマーフは父親譲りの好奇心に溢れ、今日も今日とて自分の部屋に幽霊が出た…と言い張る。兄トムはそんな話を一笑に付すが、クーパーは彼女の探求心を尊重して、慎重に言葉を選んで説明するのだった。
 ある日、クーパーは学校から子供の事で呼び出しを受ける。そこでトムとマーフを乗せてクルマで出かけたわけだが、途中で思わぬものと遭遇する。
 それは畑の上を飛ぶ小型無人機だ。
 世界がこんな状態になって以来、空軍もなくなり航空も消え失せた。小型無人機とはいえ、飛行機の姿を見かけるのは本当に久々のことだったのだ。これを見 たクーパーは、驚喜してクルマで無人機を追い始める。畑の中にまで突っ込んで、無人機をひたすら追跡だ。どうやら外国の空軍の無人機らしく、何らかの理由 であちこちさまようようになったらしい。クーパーは途中から運転をトムに任せて、マーフと共にノートパソコンを無人機に向ける。どうやら何らかのデータを 飛行機に送っているようだ。どんどん走っていくうち危うく崖から転落しそうになるが、その頃には例の無人機をパソコンからコントロールできるようになって いた。
 今でこそ農夫として身を立てているクーパーだが、実はかつてはこちらの分野が専門だった。宇宙飛行士としてキャリアを積んで来たが、世の中の変化から転身を余儀なくされたのだった。
 こうして手に入れた無人機だが、実は今の世の中では完全に無用の長物だった。クーパーも無人機をクルマの荷台に乗せてご満悦だったが、実際のところバラして太陽電池などを再利用する以外に手がなかった。
 さて、学校からの呼び出しはマーフのことであった。校長(デヴィッド・オイェロウォ)とマーフの担任(コレット・ウォルフ)による面談だったが、その内容はクーパーにとって衝撃的なものだった。担任によればマーフが「人類は月に到達した」とデマを流したというのだ。
 実は現在の教科書では、アポロ11号の月着陸はなかったことになっていた。担任の若い女教師は、そのねつ造を真顔で信じていたからシャレにならない。昔 も今も、そして未来も「先生と言われるほどのバカでなし」とはよく言ったもの。クーパーはあまりのことに開いた口が塞がらなかった…。
 その翌日、クーパーは一家で野球を見に出かけたが、砂嵐の発生で試合は中断。猛烈な砂埃の中を帰宅することになる。家に戻ると完全に閉め切ったつもり が、マーフの部屋だけ窓が開けっ放しで砂埃が舞っているではないか。慌てて戸締まりするクーパーとマーフだが、よくよく見ると部屋の床にはバーコードのよ うに平行線で砂埃が積もっている。これは一体何なのだ?
 前々からマーフの部屋では本棚の本がいくつもバタンと落ちることがあり、マーフはそれを幽霊の仕業だと思っていた。父クーパーに「科学的に分析せよ」と 言われてからは、マーフはその本の落ち方に規則性を見いだし、それがモールス信号ではないかと考えるようになっていた。では、この床の平行線はモールスな のか? いや、違う…今度はマーフよりクーパーが興奮する番だった。
 これはもっと複雑な…バイナリー・データではないか!
 それから床の平行線を夜通し分析を続けたクーパーは、ある結論に行き当たる。それは地図上の座標だ。平行線は「ある場所へ行け」と人を導くメッセージなのだ。
 この事実に興奮して、早速出かけることにするクーパー。マーフは家に置いてクルマで出かけるが、実は彼女も毛布にくるまって隠れ、助手席に「密航」していた。こうして父娘での冒険の旅が始まったわけだ。
 そのうちどっぷり日も暮れて、クーパーとマーフは山の中の一角へとやってくる。やがて目の前に現れたのは、何かの施設のフェンスだった。クーパーはクル マから降りてボルトカッターでフェンスを切ろうとするが、突然、まぶしい光線にさらされ、警告の言葉とともに気絶させられてしまう…。
 気づいてみると、そこは施設の内部。クーパーは囚われの身になっていて、目の前にいる箱形の奇妙なロボット…「TARS」(ビル・アーウィン)の尋問を 受けるハメになっていた。マーフの身が心配なクーパーが「TARS」に毒づいていると、どこからともなく若い女が現れる。彼女はアメリア・ブラント(ア ン・ハサウェイ)と自称するが、その名にはクーパーも聞き覚えがあった。そのアメリカに連れられて会議室へと連れて行かれるクーパー。そこには何人かの科 学者たちと共に…アメリアの父親でありクーパーも旧知の宇宙科学の権威、ブラント教授(マイケル・ケイン)が座っているではないか!
 山中の地下にこんな施設があるとは…驚嘆するクーパーに、彼らは「NASA」の所属であると語る。「NASA」は地球の異変後に解散となったが、近年、ある理由から再結成されていたのだ。それは空前絶後の極秘ミッションだ。
 クーパーはブラントから、このミッションへの参加を求められる。参加するもしないも情報が少な過ぎるが、情報は参加を決意した者のみに与えられるという。そうなると、クーパーには躊躇する選択肢はなかった。
 極秘ミッションの究極の目的は、地球脱出だ。
 もはや悪化する地球環境は、復旧の見込みが立たない。植物は枯れ果て食料は枯渇、それ以前に呼吸するための酸素が欠乏する。人類滅亡は必至だ。もはや脱出して、他の惑星に移住するしかない。
 しかし、太陽系には移住に適した惑星はなく、その外へはあまりに遠くて旅立つことが出来ない…今までは!
 実は近年の研究で、土星の近くに空間を超越する通り穴「ワームホール」が発見されていた。これは自然に発生するモノではなく、おそらくは何者かが人類の ために用意したものだろう。人類に残された可能性は、この「ワームホール」を通って他の銀河系へと出かけ、そこで移住に適した惑星を見つけることしかな い。
 実はもう何年も前から「ラザラス・ミッション」という移住計画が進行中で、すでに何人もの宇宙飛行士が移住可能な惑星を求めてこの「ワームホール」から 旅立っていた。そのうち3名の宇宙飛行士から、移住可能と思われる惑星の情報が返信されていたのだ。それらの惑星は、上陸した宇宙飛行士の名にちなんでミ ラー、エドマンズ、マン…と呼ばれていた。ミッションの次なる段階ではこれらの3惑星への移住適性を確証し、しかるべき詳しい情報を地球へと発信する必要 がある。クーパーは、その宇宙旅行の飛行士に選ばれたのだ。
 施設では、多数の人々を移住させるための巨大宇宙ステーションの建造がすでに進行中だ。しかし、それが難しいようならば…プランAとしての移住計画に対 して、プランBも考案されていた。それは大量の受精した卵子を今回の宇宙旅行に持参して、かろうじて「種」としての人類の存続を図るというもの。しかし… それは同時に、地球に生きている人々を見殺しにするということでもある。クーパーは、それは何としても避けたいと思った。
 しかも長期に渡る宇宙飛行であり、かなりの確率で帰還する見込みがない旅でもある。クーパーはどうしても、子供たちの行く末が心配だった。しかしブラント教授は、そんなクーパーにこう強く進言するのだった。「子供たちのためにこそ行かねば!」
 決意を胸に帰宅したクーパーは、この仕事を引き受けることに決めていた。他の家族は何とか説得したものの、娘のマーフだけはショックで部屋に引きこもっ てしまう。何とか頑になったマーフの心を解きほぐそうと、部屋にやってくるクーパー。そんな彼に、マーフは例の幽霊がモールスで「STAY(残れ)」と メッセージを送っている…と告げた。しかし、今さらそんな言葉に耳を傾けるわけにもいかない。「きっと帰ってくる」と約束はしたものの、クーパー自身まっ たく確証のない言葉だ。クーパーは自分の時計と合わせた腕時計をマーフに手渡すが、反発した彼女はその時計を投げ捨ててしまう。同時に本棚からまた何冊か 本が落ちたのも、何ともイヤな予感を感じさせた。
 結局、マーフは怒って引きこもったまま、家の前で父クーパーの出発を見送ることもなかった。こうして後味の悪い別れの末に、クーパーは宇宙へと旅立つのだが…。


クリストファー・ノーラン作品の評価と実態
 この感想文の冒頭でもチラリと述べたように…そして本サイトでも何度か述べてきたように、僕は一時期、クリストファー・ノーラン作品をまったく受け付けなくなった
 いや、正確には「まったく」ではなかったのだが…当時の世評は最高に彼を持ち上げていたのに、僕はそれに違和感しか感じなかった。どうも巷で言われているほど「いい映画」「面白い映画」ではないな…というのが正直な感想だったのだ。
 だがそんな僕も、ノーラン映画に最初から反発を感じていた訳ではなかった。
 ノーランが日本に紹介されたのは、たぶん第2作にあたるメメント(2000)の時だったと思う。その時には時制をバラバラに壊して再構成する凝った構成に感心して、「うまくやったなー」と素直に思ったような記憶がある。作品自体も「異色作」としてアート系の劇場で公開されていたから、あくまで小品としての位置づけだったのではないか。その時には、とてもじゃないが将来にハリウッドで大作を撮るとは思えなかった。
 ところがハリウッドからのお呼びは、意外なほど早くかかった。メジャー・スタジオに呼ばれて撮った最初の作品が、アル・パチーノ主演のインソムニア(2002)。ただ、ハリウッド映画といってもまだ「小品」感ムンムンで、決して大作とは言えない作品。「メメント」の衝撃はなかったものの、不眠症という題材を扱った特異な異色作の域を出ない作品だった。
 そういう意味ではクリストファー・ノーランが大きく「化けた」のは、一旦収束した「バットマン」シリーズを再起動させたバットマン・ビギンズ(2005)から…ということになるのだろうか。しかし僕がノーラン作品に今ひとつノレなくなって来たのも、実はこの作品からなのだった。
 「メメント」でスゴく野心的な作品を作る若手が出て来たな…と思わされて、それがあっという間にハリウッドのメインストリームの大作に起用されるという 快挙。異色作「メメント」の監督がアメコミ・ヒーロー映画を撮るというミスマッチ感も興味深かったが、集められた豪華キャストにも期待が集まる。僕も作品 を見る前の段階ではノーランの新作を素直に期待した。
 出来上がった作品は…映画ファンも一般の人々も大いに賞賛。アメコミ映画を大人の鑑賞に耐える作品に仕上げた…というような評価を得た。まぁ、それは作品を見る前から、大体予想できる評価ではあった。では、実際の作品を見て僕自身はどう感じたのかと言えば…実はかなり微妙だったと言わざるを得ない。
 「バットマン・ビギンズ」の感想文を今、改めて読んでみると、そのあたりの僕の複雑な心境が透けて見える。作品自体もキッチリ作ってあるし、キャスティングも単に豪華なだけでなくセンスの良さを感じさせる。撮影も美術も見事だ。いかにも「いい出来映え」の映画に思える。 それなのに…なぜか映画そのものにはノレない…。実は僕も当時その理由がハッキリとは分かっていなくて、何となく「これは違う」としか言えなかった。しか し、やはり「映画にとって大切な何か」が欠けているのではないか…と思ったのは確かだ。かなり期待してスクリーンと対峙したのに…結果として失望を味わっ たというのは、そういうことなのだろう。
 その「違和感」が完全に「こりゃイカン」に変わったのは、次のプレステージ(2006)から。ヒュー・ジャックマンクリスチャン・ベール共演のこの作品はまたまた豪華キャストの大作だったが、今回は作品の問題点が僕にもハッキリ分かった。ズバリと一言でいうと、もっともらしく見せてはいるがかなりイカサマ臭い映画なのだ。もっともらしく見せるための仕掛けが詐欺まがいで、見ていてとてもイヤな感じになってくるのである。ドラマとしてどう考えても無理のある話…を、いかにもな説得力ある俳優陣ともっともらしい演出で見せていく。その「上げ底」感がどうにも見ていて我慢ならなかった。
 そして、ノーランの評判を決定づけた新生「バットマン」シリーズ2作目ダークナイト(2008)。ここで世間のノーラン評価はおそらく頂点に達する。単純幼稚なアメコミ映画をシリアスな映画に作り替えた…と賞賛され、果ては「哲学的内容」とまで勇み足でホメまくる向きまで出現した。しかし…さすがに「哲学的内容」はないんじゃないの(笑)? こちらも「もっともらしく」作ってはいるが、過剰に「上げ底」された内容になっているんじゃないのか。
 ただし、当時はこの作品に批判的な視線を投げかけるのは圧倒的に少数派。しかも、その評価が爆発的に高まっていったので、僕はひどく違和感を感じてしまった。世評が高ければ高いほど、僕としてはシラケざるを得なかったのだ。
 そんなわけで…どうやらノーラン作品は僕にとって「鬼門」だと思い始めた頃、レオナルド・ディカプリオを主演に迎えたインセプション(2010)が発表される。こちらは、「夢泥棒」とでも言いたい奇妙な商売の連中が、眠っている人間の意識の中で戦うお話。またまた「難解で複雑な作品」として持ち上げられ、世間では高評価を得ることになる。またしても、「大げさ」な雰囲気が濃厚な作品…。
 ところが、なぜか今回は僕もこの作品を大いに楽しめたのだ。
 以前に感じた「ダマされた」感や「インチキ臭さ」は、この作品には感じなかった。いや、正確に言うとインチキ臭いことはインチキ臭いのだが、今回に限っては
それが「インチキ臭い」とバレバレ(笑)なので「もっともらしく」見えない、だからその「インチキ臭さ」も許せる…とでも言おうか。劇中に出てくる夢が何層にも分かれていて、夢の中の人物が眠ってまた別の夢を見ている…といった設定は、もはやインチキ臭いを通り越してバカバカしい域にまで到達。出てくる人物たちはもっともらしい顔をして演じているが、やっていることは大バカなことばかり。つまり、思いっきり「バカ映画」なのである。なるほど、これなら分かる。
 それまでのクリストファー・ノーラン映画も、実は結構バカバカしい内容だった。それなのに詐欺まがいの仕掛けを施して、見る人が思わず「哲学的内容」「難解」などと言いたくなってしまうような「もっともらしさ」を演出していた。だから、何となくダマされたようないやらしさがあったわけだ。しかし「インセプション」では、そのバカバカしさを隠そうとしていない。バカバカしさが露呈しているので、僕らはそのくだらなさを無責任に楽しむことができるのだ。これはかなり重要な違いだと思う。
 しかもそれまでのノーラン映画には、アクション場面などに顕著なように「映画的躍動感」に著しく欠けていた。実は「インセプション」でも、雪原でのスノーモービルによる追跡シーンなどは今ひとつな出来映えだと思う。しかし、バカバカしさを隠そうとしなくなったせいか、映画全体に風通しの良さというか一種の開放感が感じられるようになってきた。その結果、かつては乏しかった躍動感が少しずつ生まれてきたようにも思えるのである。これは、クリストファー・ノーランにとってひとつの成長ではないのか。
 この「インセプション」を境に、僕は再びクリストファー・ノーランに注目するようになった
 次に来るのが、ノーランにとっての「バットマン」映画第3弾ダークナイト・ライジング(2012)。あの「ダークナイト」の世界を引き継いで、またしてもスゴいハッタリで見せる映画になってしまうのか…と思いきや、フットボール競技場の大規模な陥没シーンなどに代表されるように「インセプション」のバカバカしさをここでも再現。いやぁ、クリストファー・ノーランはこうでなくちゃいけない。それまで、深刻なしたり顔で大見得切っていたようなシリーズの方向性を大きく転換。最後にはスカッと爽快なハッピーエンドに力づくで持って行ってしまった。またしても「バカ映画」。やはりノーランは、「インセプション」で何か大きく開き直ったに違いない。
 そんなクリストファー・ノーランが、今回は新たに宇宙SFに挑戦するというのだ。それは期待しないわけにはいかないだろう。どんな宇宙旅行や冒険を見せ てくれるのだろう。「インセプション」でパリの街が途中でグニャリと折れ曲がり、頭上にのしかかってきた場面のように、またしてもバケツの底が抜けたような豪快なバカバカしい映像を見せてくれるに違いない。映像のセンス・オブ・ワンダーが「命」であるSF映画で、これをやってもらえれば僕としては最高だ。いや、ぜひやっていただきたい。
 僕としては、新作「インターステラー」を楽しむための準備はすっかりオッケーなのだった。

見た 後での感想

 前にもどこかで語ったかと思うが、僕は昨年末から勤めていた会社を辞めて、フリーの編集者兼ライターとなった。
 その当初から関わっていた飛行機本の仕事が、先日ようやく一段落ついた。そうなれば、ちょっと自分にご褒美をあげたくなるのが人情だ。映画ファンの場合、ご褒美といえば何より映画である。いろいろ見たい映画はあったけれど、一番見たかったのはこの「インターステラー」。「インセプション」以来またまた気になる存在になってきたクリストファー・ノーランの新作だし、ノリにノってるマシュー・マコノヒーの新作だし、何より僕が大好きな宇宙SF映画だ。しかも惑星間旅行のお話らしいと聞けば、これは何をおいても見たい。
 ちょうど僕の事務所のすぐそばの新宿ミラノ座で、「インターステ ラー」は絶賛上映中だ。こういう映画は、誰が何と言ってもビッグスクリーンで見なくちゃいけない。これにはいかなる反論も許さない。せっかく日本で現在最 大級のスクリーンを擁するミラノ座が間近にあって、今ちょうど時間ができたとなれば、もうここで見るしかないだろう。これをよりによってシネコンで見よう なんて考える奴は、映画をカップルでラブホにシケこむための前菜としか思っていないチャラ男チャラ子としか思えない。
 ところがそんな僕の意見は、今の日本では決して多数派ではないようだ。
  まだ公開から10日ぐらいしか経ってない封切りホヤホヤの、平日の最終回。それにしたって1200席ぐらいある館内に、客が20人もいなかったんじゃないか。どうなっているんだ一体。ちょっと衝撃を受けたよこれは。
 クリストファー・ノーランのスケールでっかい大作を、ここにこんな巨大スクリーンがあるというのにみんな誰も見たがらない。おそらくシネコンではヒット 中のはずなのに、ここには人が来ない。しかもミラノ座は年内閉館だというのに、このガラガラぶり。どうせ閉館記念興行が始まったら連日超満員で、みんな 「惜しい」だの「残念」だの言うのだろう。これってどう見たって不健全ではないか。これで映画ファン(笑)とはおヘソが茶を沸かす。
 まぁ、そんな愚痴は別の機会にコボすとして…結論から言うと、新宿ミラノ座の大スクリーンで「インターステラー」を見たのは大正解。まずはバカでかさを視覚的に堪能したい映画なのだ。
 いやぁ、とにかくデカかった。話のスケールもデカかったし画面そのものもデカかった。そしてクリストファー・ノーランの大風呂敷の広げ方もデカかった。 広大な宇宙空間を行く途方もなさや未知の惑星を見る得体の知れなさが、ミラノ座の大スクリーンでさらに効果倍増。もっと言うと、約1200席の巨大空間に 客がわずか20人弱という状況がまた効果的。がら〜んとして静まり返った空間が、宇宙空間や無人の惑星の場面でものすごい威力を発揮する。いや、イヤミ じゃなくてホントに(笑)。
 かつてリュック・ベッソンがあんなバカ映画専門でなかった頃、いまは無き新宿プラザ劇場(奇しくもミラノ座のほぼ反対側にあった)で封切られたベッソン監督作3作目「グレー ト・ブルー」(1988)のことを思い出してしまった。「グラン・ブルー」なんて小洒落た映画のことじゃない。あくまで「グレート・ブルー」だ。あの時も 平日に映画館に行ったらガラガラで、1000席以上ある客席にわずか10人程度しかお客がいなかったように記憶している。70ミリ・プリントで上映される 巨大画面には、深海の青がどこまでも広がる。巨大画面と立体音響、そしてガラガラの客席は、相乗効果でスゴい迫力を出していた。アレは一生忘れられない映 像体験だな、マジで。
 だから新宿ミラノ座の大画面、デカい客席で本作を見られただけで、僕は本作を見た甲斐があったと思ったわけだ。もう、これで感想文をやめたって問題がないくらい(笑)。

 

 

 

 

 

 

 

こ こからは映画を見てから!

 

 

 

 

 

 




騒然とする世評と映画そのものとの剥離

 そうは言っても、少しは映画の内容について何か言わなきゃいけない。仕方ないからちょっとだけつぶやかせてもらうと…まずは、僕が映画を見て感じた印象と世評で言われていることとが、かなり違うってことだろうか。
 世評と言ってもいろいろある。例によって「ちょっと持ち上げ過ぎ」と思われる絶賛評がかなり目立つが、今回は今までになく酷評も目立つ。そういう意味で は「話題騒然」「賛否両論」な作品と言えるかもしれない。「ダークナイト」当時の絶賛評一辺倒で「反論は一切認めない」的な世間の空気と比べると、かなり 健全にはなってきた感じだ。だが、賛否どちらの評も「極論」が目立つのがノーラン作品らしい(笑)。
 そんなさまざまな評価の中でも、一番目立つのが「難解」ってこと。あとは「宇宙物理学を事前に予習した方がいい」とか、やたら上から目線で偉そうに言ってる奴もいる。いやぁ、この映画ってどんだけ高い教養を必要としているんだよ?
 ワームホールとかブラックホールとか相対性理論とかが分かりにくいというのか。いやいや、そんなこともないだろう。僕は元々がSF好きでこういう言葉や 概念に慣れているから難しく感じなかったのか…とも思っていたが、そういうことでもないように思う。ぶっちゃけ言って、ここに出てくる科学的な概念とか用 語だとかは、そう大したことじゃないから(笑)。ゴチャゴチャ外野が言うから難しく見えちゃうだけで、実は大した問題じゃない。何ならよく分からないなら 分からないままでもまったく問題ない。「予習」なんて必要ないから。たかが映画見るのに予習なんて冗談じゃないよまったく(笑)。それほどの映画じゃな い。
 …というか、いろいろな感想や批評の中には本作で扱われている科学的な要素がいかに「正確」かを評価しているものもあるが、本当に正確かどうかは実は ちょっと怪しいんじゃないかと思っている。僕も典型的な「文系」男で科学には強い方ではないのだが、そんな僕でも見ていて「アレレ?」と思ってしまう箇所 がいくつか…。重力のせいでその惑星での1時間が地球での何年かに相当するくらい強烈な重力を持った惑星なのに、離着陸にはそれほど苦労しているように思 われなかったのはどうなっているんだ? あるいは、ブラックホールに突入してあんなもんで済むのだろうか? 高名な科学者までがプロデューサーに名を連ね ているらしいので、僕ごときが矛盾を指摘できるほど穴があるお話なはずがない。…そのはずなのに、どう考えてもおかしなところが散見されるのだ。オレノ頭 ガワルイノカナ〜?
 何でそんなことを感じるかというと、別に宇宙の場面でなくても、すでに地球の場面からあちこち「アレレ?」が見受けられるからだ。
 例えば、劇中では地球に何らかの環境破壊が進んで砂嵐が頻繁に起こり、植物がどんどん絶滅していく状況だと説明されている。ところが主人公は、無人飛行 機を追跡するためにクルマでトウモロコシ畑に侵入。大事なはずのトウモロコシをバンバンなぎ倒して突っ走っている。徐々に作物が穫れなくなってきていると いうのに、作っている当人があんなことを平気でするだろうか。
 映画の後半でも成人になってからのマーフ(ジェシカ・チャスティン)がトウモロコシ畑に火を放つ場面があるが、いかに独善的な兄トム(ケイシー・アフ レック)から妻子を救い出すため…とはいえ、こんな食料事情が悪くなった状況下であんなことをやっちゃって大丈夫なのか。…というか、そういう事をやらか す気になるものだろうか。このあたりひとつとっても、結構この映画って「ザル」なんじゃないかと思えるのだ。
 あと、本作への世間の評価の中でよく言われているのが「複雑な内容」…。しかし、これも何のことを言っているのかちょっと分からない。実際の話、この映画をあまり複雑だとは思わないのだ。
 確かにこの映画では、前半部分…主人公クーパーが地球にいる前半部分からワームホールを出て冒険の本筋に入るまで…にチラチラと出てくる不可思議な要素 が、映画の終盤でアレコレと「伏線」として回収されていく。この映画を「複雑」と評しているのは、これらの「伏線」について語っているように思われる。し かしこれらは「伏線」として、それほど緻密なモノではない。本作と比べれば、むしろダイ・ハード(1988)の脚本なんかの方がよっぽど緻密な伏線が張り巡 らされている。本作の脚本に存在するのは、あくまでユル〜い伏線でしかない。この程度では「複雑」な話とも言えないだろう。
 いや…むしろ正直に言えば、お話はかなり荒っぽくて「御都合主義」的にすら見える。
 この映画のあらすじを改めて考えてみよう。下手すれば片道切符な旅になるかもしれない別の銀河への宇宙旅行に出発して、主人公は最後に捨て身のブラック ホール突入の末にたまたま土星付近のワームホールから帰還することが出来て、その土星付近に人類がスペースコロニーを作っていたことから偶然救出され、時 間切れギリギリで娘に約束した通り再会することができる…って、これってどう思う? 正直言ってこのお話が実際に実現する可能性は、あまりに低過ぎる。これほど本作のあらすじすべてを指摘しなくても、別の銀河への宇宙旅行から太陽系に戻って来れる…ということだけで、すでに「超」が付くほどの幸運なはず。先 ほども「ダイ・ハード」を引き合いに出したが、その主人公ジョン・マクレーンの100万倍ぐらい強運の持ち主でもなけりゃ不可能なくらいの、ラッキーの連 続にしか見えない。こんな脚本は、到底「緻密」なもんじゃないだろう。
 そもそもお話の構成をよくよく見れば、2つの問題点が挙げられるかもしれない。
 まずは、この人類救済計画自体が非常に脆弱な基盤の上に立っていること。いつの間にか土星の近くにワームホールが出来て、誰が作ったか知らないが「人類 を救うため」に作られたように思われる…ってあたりで、この計画の信憑性が疑われる。そしてそのワームホールの向こう側には人類が移住可能な惑星が「ある に違いない」から、それを探す旅に出る…って、この計画の因って立つ根拠があまりにも不確かで弱い。こんな計画を高名な科学者が提唱して、それに高額予算 をかけて派手に実現させるだろうか。こんな危うい計画に賛同する者なんているのか。もはやそれを疑う余裕も人類にはないとしても、あまりに土台がグラグラ で不確定要素が多過ぎる計画ではないか。そもそも、誰かが「人類を救うため」にワームホールを作った「はず」ってあたりからして危うい。どんだけこの計画 は「他力本願」なんだよ。
 そしてもっとよく分からないのが、ブラント教授が一生懸命計算している「重力」についての方程式。これを完成させるにはブラックホールの謎を実際に行っ て解き明かす必要がある…だの、これを解くことで人類が重力をコントロールすることが出来て「スペースコロニー」を建設することが出来る…といった、いさ さか「後出し」の要素が映画の後半にチラチラと出てくるが、そもそも、この方程式の話はなぜ出て来たのか? 表向きは「人類移住計画」を粛々と進行中という ことになっているのに、まるでブラント教授が趣味か余技、あるいは内職のように、この方程式を計算しているのがよく分からない。これは「複雑」でも「難 解」でもない。お話の中で説明もなく唐突に出てくるから分からないのだ。
 とりあえずワームホールまで行ったら何とか移住可能な惑星を見つけられるはず…という計画自体が「行き当たりばったり」だが、そもそも脚本の話の運び方 からして「行き当たりばったり」なのだ。そんな物語の登場人物たちの行動が、「行き当たりばったり」でないわけもないだろう。
 さて、最後に世評で多く見られる要素としては、父と娘の絆に「感動」ってやつ。時空を超えた壮大な「愛」のドラマ…って点ですわねぇ。
 この言葉を口に出すのも恥ずかしい気がする(笑)のだが、正直、僕はそんな「愛」のドラマをまったく感じなかった。こう言ったら怒られそうだが、実際にそうだから仕方がない。…というか、「愛」のドラマとして納得させてはもらえなかったとでも言おうか。
 こんな事を言ったら、次のような反論をくらうかもしれない。娘と後味の悪い別れ方をした時の、主人公の涙を見なかったのか。「きっと帰ってくる」と主人 公が約束したら、何十年の時が過ぎようと、ワームホールにブラックホールを超え、別の銀河にまで到達しても娘の元へ帰ってくる…その壮大なスケールの 「愛」を感じなかったのか。やはり遥かな時空を隔てていても、以心伝心、モールス信号やバイナリー・データで伝わる父娘の心を見なかったのか。…いやはや ごもっとも。ただ、そういう「要素」だけで言うなら、有名なメロドラマの「君の名は」だって立派な“時空を超えた壮大な「愛」のドラマ”…になっちゃうだ ろう。そういう要素をトッピングしたら必ず立派な「愛」のドラマになるのなら、映画づくりに苦労はしないのだ。
 それどころか、僕はむしろそういう「愛のドラマ」要素にリアリティを感じなかった。そもそも、そういうものを感じにくく作っているようにさえ見えた。
 例えば、娘のマーフである。
 少女時代の彼女が「置いていかれた」と怒っているのは仕方ないとして、いつまでも根に持ってグダグダ言っているのはいかがなもんだろう。大人になって… しかも科学者の道を歩み始めたのなら、父親の忸怩たる思いが理解できるはずだ。正直、この娘の根に持ち方が、見ていて非常に感じが悪い。演じているのがパ サパサしてあまり好感を持ちにくいジェシカ・チャスティンという女優なのも、僕としてはマイナス要素に思えた。「愛」の要素の「キモ」である娘マーフがそんな感 じなところへ、とりたてて強烈な実感やオリジナリティのある父娘関係が描かれている訳でもないので、正直言って「親子愛」を描いていてスゴい!…とはとても思え なかった。せいぜいその描き方は「普通」「ありきたり」にしか思えなかった。
 さらに、「親子愛」がストレートに響いて来ない別の理由もある。不思議なことに…地球にいる時から主人公は娘に強烈な愛情を注ぐのに対して、息子への愛 情はおざなり。息子にはあまり愛情も思い入れもなさそうで、もっぱら娘にばかり執着がありそうなのだ。お話の中でも、息子は最後に「アレな人」扱いされ ちゃってあんまりな感じ。「親子愛を描いた感動ドラマ」にしては、いささか不健全なものを感じさせるのだ。親子関係のイビツ感がハンパないのである。こ れってやっぱり変だよな。


映画はよく出来てればいいってもんじゃない

 ここまでいろいろと書いてくると、まるでこの映画はガタガタでひどい出来の作品みたいだ。
 実際、世評の中でも「酷評」の部類に入るモノのいくつかでは、ここで僕が挙げたようなことを指摘している。どこをどう見たって、キッチリ全体が整ってい て一部の隙もない作品…ってわけじゃなさそうだ。欠点も多いしアンバランスな作品に見える。まぁ、実際あちこちホコロビだらけではあるだろう。
 ならば、本作はダメな作品なのか?
 ここからは異論反論おありの方も多いと思うし、何を言っているのか分からないといった向きも少なくないと思う。だからみなさんにご賛同いただこうとはまったく思っていないが、自分としては正直で率直な意見を言わせていただこうと思っている。
 ここでもう一度問おう。本作はダメな作品なのか?
 いや…僕はあえて、、と言いたい。
 整っていれば、よく出来ていれば、映画は面白いってもんじゃないと僕は思っている。映画を魅力的にしているのは、「欠点がないこと」ではないと僕は思っているのだ。この映画は、まさにそれである。
 先に僕は「インセプション」以降のクリストファー・ノーラン映画を評価している…と語って来たが、その理由についてこのような言葉で説明していたと思う。
 「バカバカしさが露呈」「バカ映画」
 実は本作もまた、いわゆる「バカ映画」だ。これはホメ言葉で言っている。本作は、いかにも頭が悪そうな中学生男子の発想で作っている。いや、中学生じゃ ないかも…。中学生男子の発想で作った映画と言えばエクスペンダブルズ(2010)みたいなモノがすぐ浮かんでくるが、本作はそれよりもっとガキの発 想かもしれない。
 昔、自分が子供の頃に、布団の中に入ってから「宇宙ってどこまであるんだろう?」とか「宇宙人ってどんな格好をしているんだろう?」などと考えて、眠れ なくなったような思い出がある。まぁ、大人になったら滅多に考えなくなるようなことだし、子供の頃だってあまり人前で大声で言える話でもない。ただ、男の 子なら誰でも考えていたであろう妄想だ。
 特に僕の場合、他の惑星に行ったらどんな風景が見えるのだろう…と、よく物思いにふけっていた。そんな物思いの「友」となっていたのが、ある一冊の画集である。元々はどこか東欧の国の出版社で出されて、それの日本語版として出版された「月と惑星」という本だ。
 その実物を今ここでお見せしたいのだが、ちょっと奥にしまってあってすぐには取り出せない。ネットでいろいろ検索してみたら、岩崎書店という出版社から 1965年に出されていて、ヨーゼフ・サディル著、ルディェク・ペシェック画…というクレジットになっている。画家の名前が著者と対等で入っていることか らも分かる通り、この本はあくまで絵を見せる画集である。そこには月に始まり、太陽系の惑星すべての風景をリアルに描いたイラストがふんだんに収録されて いる。
 それらのイラストは極めて写実的であるだけでなく、発行当時の科学的な知識にも裏付けられたものだった。だから荒唐無稽な生物などは描かれていない。し かも、見ていて美しい。考えてみていただきたい。土星の表面から見た輪がどのように見えるか。木星に接近して見た大赤斑がどんな鮮やかさなのか。金星の雲 の下はどのようになっているのか…。それらがすべてリアルかつ美しいイラストで表現されているのである。僕はこの画集をヒマさえあればめくって、いろいろ な妄想にふけっていたのだ。
 また、スピルバーグ版に先立つオリジナル版宇宙戦争(1953)の冒頭で、太陽系にある各惑星の風景が特撮で再現されていたのも忘れがたい。映画の 本筋に入る前のプロローグに過ぎない場面だったが、これは僕にとっては大いにごちそうだった。いかに拙い特撮であっても、とにかく未知の世界を何とか再現 して見せようという心意気が何とも嬉しいではないか。あの作品の冒頭部分には、子供心に好奇心をかなり刺激された。
 まして太陽系ではなく、他の恒星系…別の銀河にある惑星だったどうだろう?
 太陽系の惑星だって、僕らがそこに行って見ることはできない。それが別の恒星系の惑星と来たら…写真やビデオで捕らえた映像ですら見るのは不可能だろ う。そこにどのような景色が広がっているのか…は、僕らにとって永遠のナゾだ。それを大画面のカラー映像で見せてくれるなら、何をおいても見たいではない か。
 本作は、そんな妄想を可視化したような作品だ。
 こんなことを言ったらあんまりかもしれないが、本作の前半は主人公たちを宇宙旅行に引っ張り出すための長々としたアリバイ工作でしかない。先にもいちい ち指摘したように、主人公たちが地球を旅立たねばならない理由は非常にいいかげんで雑なシロモノだ。おまけにあちこち結構穴がある。でも、これを理詰め で見てはいけない。いちいち細かいことを言っても仕方がないのだ。
 そんな本作の後半部分では、僕らにリアルな宇宙旅行を経験させてくれる。
 実際に未知の惑星に行ったらどうだろう?…という子供みたいな夢を具体化していく映画なのだから、そこにはチャチなモンスターなどが出る余地はない。僕 自身はそんなモンスターが出てくるB級SFも大好きだが、ここではあくまでリアリティを貫いてもらった方が嬉しい。どこまでも海が広がる惑星や雲まで凍る 厳寒の惑星…それらがまるで見て来たように出てくるから嬉しいのだ。実はもっといろいろなバリエーションの惑星を見せてもらいたかったくらい。しかし、こ れらの惑星場面を見せてもらっている間は、僕にとってまさに至福の時だった。
 また、絶対に自分の眼で見ることはできないし、何かで撮影するのも無理であろうワームホールやブラックホールも、素晴らしいSFX技術で見せてくれる。 それがどの程度科学考証に則ったものなのかは分からないが、それでも見ていてワクワクした。その時、僕は完全に童心に還って見ていたよ
 そして、まるでガキみたいな発想の映画…って、ある意味でまさに「バカ映画」じゃないか。
 布団の中で「宇宙ってどこまであるんだろ」とかワクワク考えているって、まぁ「大人」のやることではない(笑)。本作はそんな大バカな気分に忠実に、惑 星探査やワームホール、ブラックホールへの旅を映像化している。そして、宇宙旅行をリアルに見せる場面以外は、それを見せるための口実でしかない。普通は 「大人の分別」でそんな気分を露骨に出したりしないものだが、本作はむしろモロに出してしまっている。そのあたりがガキの発想だし、「バカ映画」たるゆえ んでもある。でも、この映画はそれでいいのだ。
 そんな「バカ映画」としての片鱗は、他にも本作のあちらこちらに散りばめられている。過去のSF映画などの設定や場面が、あちこちから引用されているように見えるのもそのひとつ。しかも洗練された手口でオマージュやリスペクトされたりするわけでもなく、それらが隠そうともせず剥き出しで出て来たりしているのだ。
 例えば映画全体の構想は、おそらくロバート・ゼメキスカール・セーガンの原作を映画化した「コンタクト」(1997)から得たのではないか。未知の「何者 か」から時空を超える宇宙旅行の手段を得ること、宇宙旅行に志願した主人公が一種の「浦島太郎」状態になること、父と娘の絆がドラマの「核」であること (ただし宇宙に出るのは娘の方)…などなど、本作と「コンタクト」との類似点が非常に多いからだ。
 しかし実は、「コンタクト」には宇宙旅行映画としては肝心の「未知の天体に着陸する」という場面だけはない。「それ」こそを見たいと願っていた僕のよう な宇宙映画好きにとっては、その一点だけが残念な映画でもある。クリストファー・ノーランも、実は同じようなことを思っていたのではないか。まさに本作 は、「コンタクト」から一種の宗教的な要素を抜いて、代わりに実際の宇宙旅行を入れたような印象の作品になっているのである。
 ちなみに「コンタクト」は、本作のプロデューサーの一人であるリンダ・オブストが製作に関わった作品でもある。また主役の一人として…「コンタクト」で は逆に地球に残されて年老いる設定ではあるが…本作の主役マシュー・マコノヒーが出演した作品でもある。むしろ本作との関連がない…と考える方が不自然な 作品なのだ。
 さらに本作におけるマシュー・マコノヒー起用は、別の「宇宙映画」からの引用と考えることも出来る。それは戦後のアメリカ宇宙開発史を映画にした「ライ トスタッフ」(1983)だ。その中の重要人物として登場するチャック・イエーガー(サム・シェパード)はどこか孤高のカウボーイのようなキャラクターと して描かれているのだが、まさにマシュー・マコノヒーその人もテキサス出身の西部男。その最新最大の成功作「ダラス・バイヤーズクラブ」からして、「エイ ズを患ったカウボーイ」である。宇宙旅行のフロンティアを切り拓く人物として、本作の主人公には「ライトスタッフ」のイエーガーが投影されていると見て間 違いないのではないか。
 このあたりのまるで「パッチワーク」のようなイメージの引用っぷりが、割と無邪気に屈託なく行われているあたりからして、本作は「深刻な作品」ではあり得ないように思う。途中でいきなりお楽しみ「サプライズ・ゲスト」が登場するのも、そんな印象をさらに強くさせるのだ。
 だが、僕が本作を「バカ映画」だとハッキリ確信したのは、実は劇中半ばで出てくる「ある場面」を見た時だった。
 人類移住先候補として挙げられていた3つの惑星…そのうち1つに着陸してみた結果は残念なものに終わる。限られた時間と燃料の中で、次に行く惑星を選ば なくてはならない。ひとつはマン博士の着陸した惑星、もうひとつはエドマンドという人物が着陸した惑星。マシュー・マコノヒー演じる主人公クーパーはここ で知識豊富な人物と聞いているマン博士の惑星への着陸を提案するが、なぜかアン・ハサウェイ扮するアメリアはエドマンドの惑星を推してくる。実はアメリア は、このエドマンドと恋仲だった。それを察していたクーパーは、彼女にそのことをズバリと指摘する。するとアメリアは何とか冷静さを保とうとしながらエド マンドの惑星を選ぶことが正当である理由を語り始め、さらにはなぜか「愛」という概念がいかにその裏付けとなるか…という苦しい弁明を始めるのだ。その様 子が何とも珍妙無類なのである。
 「あ、あ、あ、愛だけは時空を超えて生き続けるもので、だ、だ、だから愛ってのは…つ、つ、つまり何を言いたいかというと…」
 まるで往年の林家三平師匠が、落語のすべったギャグの直後にお客に向かって「い、い、今の話はどこが面白いかと言うと〜」と苦し紛れの説明をするかのよう な口ぶり(笑)。しどろもどろでロレツが回らず、内容も支離滅裂。本人は大真面目な顔をして言っているのだが、何を言いたいのかサッパリ分からない。その 様子を横で見ていたマコノヒー演じるクーパーは、一応最後まで聞いた上で「何言ってんだオメエ?」とでも言いたげに即座に「却下!」とバッサリ切り捨て る。寄席の大喜利かよ。これはどう考えたって、笑わせようとしてやっているとしか思えない。
 こんな場面が堂々と出てくる映画が、「シリアス」な作品なんてあり得ない。だからこそ僕は、本作を迷わず「バカ映画」と認定したのである。


 

 

 

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