「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」

  Guardians of the Galaxy

 (2014/11/10)


 
見 る前の予想
 実は、この作品のことはあまり詳しくなかった。
 マーベルの映画は「たかがマンガ」…とバカにしたい僕の気持ちを裏切って、いつも質の高い娯楽映画になっていた。だから今回もそこそこやるのではないか と思ったものの、タイトルはまったく聞いたことがない。「スパイダーマン」ほどの知名度のマンガはそうそうないとは思うが、それにしたって「ガーディアン・オブ・ギャラクシー」というタイトル自体が平凡すぎる。そこらへんにあるB級C級SF映画みたいなタイトルだ。だから、イマイチ食指がそそらなかった…というのが正直なところ。
 ところが公開まもなく、僕の知っている何人かの人たちがこの作品をベタホメし始めた。そのうち世評もなかなか高いということが分かって、なおさら見たい という気持ちが高まっていく。しかしちょうどそのタイミングで仕事が忙しくなり、何だかんだと後回しになってしまったのだった。
 そんなこんなでやっとこの作品について考える時間が出来たら、何とその日がロードショー公開の最終日! 僕はあわてて夜12半過ぎの最終回の上映に駆け込んで、「閉店間際」ギリギリで間に合ったというわけだ。そんなわけで「何を今さら」の感想文になってしまっているとは思うが、ご勘弁いただきたい。

あら すじ

 1988年、ここは地球。一人の少年が病院の待合室で、ヘッドフォンを耳につけてウォークマンの音楽を聴いている。少年の名はピーター・クイル(ワイアット・オレフ)。しかし曲は唐突に、彼のヘッドフォンをはずした叔父さんの声で断ち切られる。
 「お母さんが会いたがってる。こっちへ来い!」
 親族の大人たちでごった返している病室にコワゴワ入って行くと、そこには髪を失い青白い顔で病床に横たわる、母メレディス(ローラ・ハドック)の姿があった。メレディスはピーターにリボンをかけた小さい箱をプレゼントだと渡した。
 子供心にもピーターは、これが母親との別れになると感じずにはいられない。だからメレディスが「手を握って」と手を差し出しても、ピーターは怯えて後ずさるばかり。結局そのままメレディスの容態は急変し、ピーターは病室から追い出されてしまった。
 耐え難い悲しみに襲われたピーターは、そのまま病院から外に飛び出す。すると夜空からまばゆい光が照射され、ピーターの目の前に巨大な宇宙船が現れるではないか。ピーターは光とともに宇宙船に吸い込まれ、宇宙船はそのまま夜空へと消えて行った…。
 それから幾年月、ここは惑星モラグ。
 荒廃したこの惑星に、一人の男が降り立った。惑星は瓦礫に覆われていたが、男がある装置から光線を当てると、その廃墟のかつての栄華がよみがえる。そこ は何らかの巨大な施設で、周囲には多くの人々がいた。そして装置はこの建物の一角に、何やら意味有りげな物体の存在を指し示すのだった。
 どうやらこの男、廃墟の中からこの何らかの「お宝」を手に入れるつもりらしい。男が腰にとりつけたウォークマン(!)のスイッチを押すと、1970年代 のポップスが流れ出す。その曲に合わせてご機嫌に踊りながら廃墟の中へ入って行くこの男こそ、あの少年ピーター・クイルの26年後の姿(クリス・プラッ ト)だった。
 この惑星の変な生物も何のその、ピーターは問題の場所にたどり着き、またまた妙な装置の力を借りて「お宝」を手に入れる。それはちょうど野球のボールぐらいの、不思議な金属製の球体だった。
 ところがその頃、同じ惑星に降り立った連中がいた。その連中…コラス(ジャイモン・フンスー)とその手下たちも廃墟にやって来て、ピーターを発見。当然のことながら例の「お宝」…「オーブ」なる球体をよこせと言って来た。
 多勢に無勢、圧倒的危機なはずのピーターだったが、「オレは今では“スター・ロード”の異名で知られている」などとつまらない事を言っては、ノラリクラ リとその場をかわす。隙を見て逃げ出したピーターは、激しい撃ち合いから逃れて自分の宇宙船「ミラノ」に乗り込み、惑星モラグを脱出した。
 こうして「ミラノ」内でしってやったりの表情のピーター。そんな時、彼は雇い主ヨンドゥからの連絡を受ける。ヨンドゥ(マイケル・ルーカー)は宇宙盗賊 ラヴィジャーズの親玉であり、ピーターの宇宙での育ての親。今回の「オーブ」入手も、ヨンドゥからの指令だった。しかし手強い競合者の出現で「オーブ」の 思わぬ価値の高さに注目したピーターは、もはやヨンドゥの言いなりに「オーブ」を渡すつもりはない。そもそも隙あらば相手を出し抜くのは、悪党の十八番 だ。こいつは一人で売りさばいた方がデカい儲けになるはず…とピーターは穫らぬ狸の皮算用をはじき始める。
 ところがピーターの「競合者」は、彼が思っているよりもデカい相手だった。悪の帝国クリーの宇宙戦艦「ダークアスター」内で、コラスは「オーブ」を奪われるという失態を報告。その相手こそ、黒装束に身を固めたクリー軍の将ロナン(リー・ペイス)だ。
 ロナンと悪の黒幕であるサノスとの間には、すでにある取り決めができていた。ロナンが例の「オーブ」を悪の黒幕であるサノスに渡す代わり、サノスはロナ ンの宿敵ザンダー星人を根絶する…というのがその計画。その目算が狂ったロナンではあるが、慌てず騒がず次の一手を打つことにする。
 ロナンの配下にはサノスの養女であるガモーラ(ゾーイ・サルダナ)とネビュラ(カレン・ギラン)がいた。このいずれも手強い猛女二人のうち、ロナンはネ ビュラの方に「オーブ」奪還を任せようとしたわけだ。ところが、それにガモーラが待ったをかける。緑色の皮膚を持つガモーラは、「ここは私の出番」とばか りに「オーブ」奪還に名乗りを上げた。「失敗は許されない」と念を押されても自信満々。かくしてロナンの同意を得て、ガモーラがピーターの後を追うことに なった…。
 その頃、そんなことになっているとはツユ知らず、ピーターは惑星ザンダーの美しい大都会に降り立った。彼が向かったのは、ヨンドゥに「オーブ」入手を頼 んだブローカー(クリストファー・フェアバンク)の店。ヨンドゥ抜きでサシで取引しようと持ちかけるが、その時にうっかりつまらないことを口走ったのがマ ズかった。
 「ロナンって奴がこれをほしがっているらしいが、これって一体何だ?」
 「ロナン」の名前を聞いてビビりまくったブローカーは、ピーターを店から閉め出す。ブローカーをいくら説得しても、まるで取り付くシマがない。そんなわけで、何のことやら分からず困り顔のピーターを待ち構えていたのは…泣く子も黙る暗殺者のガモーラだった。
 たちまち白昼の街中で、「オーブ」を巡る激しい戦いが始まる。ところがピーターと「オーブ」を狙っていたのは、ガモーラだけではなかった。なぜかアライ グマの姿をしたロケット(ブラッドリー・クーパー)と巨大な大木のような植物人間グルート(ヴィン・ディーゼル)の「二人組」も「お宝」情報を得て、彼ら を虎視眈々と狙っていたのだ。お察しの通り、可愛いアライグマの姿に関わらず口を開けば悪口雑言のロケットと、枯れた大木みたいなナリで「私はグルート」 としかしゃべらないグルートの二人は、一緒に宇宙を渡り歩いて来た賞金稼ぎコンビ。今回もカネの臭いを嗅ぎ付けてここザンダー星までやって来た。そんなこ いつらが関わったおかげで、ピーターとガモーラの戦いももつれにもつれる。ガモーラ優勢かと思いきやそこに首を突っ込み、今度はピーターが抜け出すかと思 えばそっちの足を引っぱりで、三つ巴の大乱戦が展開。そんなこんなでジタバタしているうち、結局は全員ガッツリとザンダー星の警察に身柄を拘束されてし まった。
 彼らが連れて行かれたのは、凶悪犯を収容するカイルン宇宙刑務所。ヤバい連中ぞろいのこの刑務所に、さすがのピーターたちも毒気が抜かれる。中でもガ モーラはサノスの養女でロナンの手下と、あちこち恨みを買っている二人の身内とあって立場が悪い。囚人たちの多くはガモーラを殺したいと思っており、その 気持ちを隠そうとしていなかった。
 そんな不穏な動きは、早くも第一夜に表面化する。ふと妙な気配に目が覚めたピーターは、ガモーラが何人かの男たちに取り押さえられているのを目撃する。 彼女を取り押さえさせていたのは、スキンヘッドに全身タトゥーの大男ドラックス(デイブ・バウティスタ)。この男は妻子をロナンに殺されており、その恨み をガモーラにぶつけようとしていたのだった。窮地に陥ったガモーラは、思わず意外な告白を口走る。
 「私はロナンを裏切るために飛び出して来たの!」
 しかし、この段階では何を言っても言い訳にしか聞こえない。その時、ピーターが一触即発の状況に割って入ったのは、一体いかなる心境だったのだろうか? 
 「待て待て! 今そいつを殺しても意味がないぞ!」
 ピーターはなぜか必死にドラックスに捲し立てた。「こいつを生かしておけば、いずれロナンの方から出向いてくる」…と。そんなピーターの説得に、ドラックスはガモーラの殺害を断念。ガモーラは首の皮一枚つながった状態で助かった。
 そんなわけで、何となくツルむことになったやさぐれ者たち。例の「オーブ」を売り飛ばして山分け…ということでピーター、ガモーラ、ロケット、グルート の意見は一致。「脱獄の達人」ロケットの作戦で、一同でこの刑務所から脱出することになる。そうなると、あのドラックスもこの話に乗ってきた。こうして彼 らは、ロケット考案の脱獄計画を実行に移すことになる。
 ところが、ロナンにはすでにガモーラが裏切り者だということがバレていたのだ…。


見た 後での感想

 正直言って、今年ほど僕がこのサイトをやっている意味に疑問を感じた年はなかった
 仕事が忙しくて映画が見れない、映画を見てもその感想が書けない、やっと書いてもその時にはとっくに映画の公開が終わってる…。ある時を境に「映画サイ トなんて自分の備忘録だと思えばいい」…と割り切ったつもりだったが、それにしてもここまで手かせ足かせになってしまうと、サイト運営なんて意味があるん だろうかと思ってしまう。
 正直言ってこれほど時間に限りがあるようになると、何でも映画を見ている訳にはいかなくなる。どうしたって自分の関心のある映画から見ていくことになっ ていく。当然、気乗りのしない映画は、どれほど話題作でも手を出せなくなってくる。そんなわけだから、何と今年のオスカー作品賞受賞作「それでも夜は明ける」(2013)とか、あのディズニー・アニメ空前のヒット作「アナと雪の女王」(2013)も見ていない。あれほどの話題作を見ないなんて映画ファンじゃないと思われるかもしれないが、見たくないものは見たくない。特に後者に関しては、劇場であの有名な主題歌を聞かされるたびに、そのあまりの押し付けがましさにウンザリした。「ワタシはあるがままでいいの!」なんて、別れた女がホザいた偉そうな戯言みたいで聞きたくもないよ(笑)。
 別に僕は映画研究所とか映画博士とかを目指しているわけではないから、もう限りある自分の人生や時間を無駄なことに費やしたくない。そんな話題作、傑 作…などなどよりも、渋谷の映画館でレイトショーで何週間かで終わってしまうSF映画やアクション映画の方が、僕にとっては何十倍も価値があるのだった。
 そんなわけで限られた時間で見たい映画を優先して見るようになると、当然のことながらこのサイトにはみんなが知りたい情報よりも、誰も知らない知りたく もない映画の情報の方が増えてくる。おまけに絶対数も乏しくなってくるし、見たはいいが感想文をなかなかアップできずに賞味期限切れのコンテンツばかりが 増えていく。正直、これでいくら備忘録と言っても、このサイトやってる意味があるかな…と思いたくもなるのだった。
 それは今年に入ってずっと感じていたことなのだが、特に今回ばかりは強烈にそれを感じてしまった。
 さて、ここまで長らく前置きをダラダラ書いて申し訳ない。まず、最初にハッキリ言わせていただこう。
 僕はこの映画がすごく気に入った。面白いと思う。
 本来ならカネやタイコで大いにホメたいところだ。しかしながら、この映画は9月半ばに公開され、今は公開もすでに終わった11月半ば。この映画をホメち ぎった感想やレビューなら掃いて捨てるほど世間に溢れ返っていて、しかも「どこがイイのか」について説明している文章だってとっくに人の目に触れている。 今さら僕がホメたところで、「だから何なんだ?」と言われるのがオチだ。
 それどころか…すでにそうした世間の大好評に反発して、「オレはそんな凡人たちとは違う」と言わんばかりの酷評すら出尽くしている。つまり、もはや僕が 出て行って何か語るような余地は残されてはいないのだ。何を言ったところで、「オマエそんなこと世界で初めて発見したみたいに思ってんの?」とシラジラし た視線にさらされてしまう。正直言って今回ばかりは、僕もこの映画に対して何も語りたくないような気がしてならなかった。
 しかしそれとは矛盾するが、一方で
自分にもこの映画について語りたいことはある」…という気持ちもあるのだ。そんな悶々とした気持ちを抱えながら、別に世間と違うことを言う訳でもないから…と、最初は本サイトの「新作映画1000本ノック」で短く取り上げればいいやと思っていた。
 ところが…不思議なことに気乗りしないで始めたはずなのに、なぜか異様に饒舌になってしまったから不思議だ。そんなわけでまたしても長編感想文に昇格となってしまったわけだ。言っていることは世間と同じなので別に面白くはないだろうが、そんな僕の複雑な心境も察していただき、生暖かい眼差しで読んでいただければ幸いである。

私は如何にして心配するのを止めてこの映画を見る気になったか

 さて、ここでまず一枚の画像を見ていただきたい。
 本来なら著作権やら何やらが面倒臭いので、僕はあまり映画の画像を貼りたくはない。しかし今回は、まずこれを見ていただかないと話にならないのだ。
 まずここに貼り出した画像は、本作「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」の本国ポスターと同じビジュアルだ。僕がこの文章を書いているマックのキーボードの上に劇場パンフレットを立てかけて、スマホで撮影したものである。今回、本作はほとんどこの画像をメイン・ビジュアルとして、全世界的に統一して使用しているようだ。
 僕がこの劇場パンフレットを雑な撮り方で撮影している理由は、前述したような事情によるもの。僕はこの画像をきれいに見せるつもりがない…あくまで個人 での使用である上に映画の画像そのものを何かに利用するつもりはないというアピールである。まぁ、実際にはそんなことをしてもあまり意味がないのだが、一 応念のため…。
 先にも述べたように、僕は最初、本作にまったく食指がそそらなかった。冒頭の文章ではそれはタイトルのせいであるかのように書いていたが、実はそれよりこのビジュアルのせいである部分が大きいかもしれない。まずは、この画像をジックリ見つめていただきたい。
 そしてさらに、下にいくつかの画像を並べさせていただく。こちらも黙ってご覧いただきたい。


   
  


 これらの画像を見ていただければお分かりの通り、SF映画…それもいわゆる「スペース・オペラ」タイプのお話の場合、そのイメージというのはどれも五十歩百歩だ。
 言わずと知れた(1)「スター・ウォーズ」(1977)をひとつの基準というか座標として据えてみると、それはより分かりやすいかもしれない。それから先立つこと30年余の作品が、ジョージ・ルーカスが「スター・ウォーズ」を作る際にヒントにしたという「フラッシュ・ゴードン」シリーズの一作(2)「超人対火星人」(1938)や「バック・ロジャース」シリーズの一作(3)「原子未来戦」(1939)。そして「スター・ウォーズ」で巻き起こったSF映画ブームに便乗した「柳の下のドジョウ」映画群(笑)として、日本ではテレビ放映だけされたイタリア映画(4)「銀河戦争・宇宙巨大戦艦スターシップSOS」(1978)、ロジャー・コーマンが黒澤明にリスペクトした…というか単にパクった(5)「宇宙の七人」(1980)。さらに追加して、メル・ブルックスが「スター・ウォーズ」をパロディ化したコメディ(6)「スペースボール」(1987)。…と、元祖、便乗、パロディも取り混ぜて、スペース・オペラ形式のSF映画のポスターを並べてみた。
 一見していただければお分かりの通り、これらのビジュアルはいずれも似通ったイメージを共有している。 中心に人間のヒーローが仁王立ちして、胸元もあらわなグラマー美女がいる。ロボットや宇宙人もいる。宇宙人はあくまで肌の色が異なる程度の人間タイプのも のがいたり、獣や他の生物の形状に似ているものがいたりする。背景に宇宙空間と宇宙船は欠かせない。むろん彼らは一様に光線銃を構えたり、光線を放つ武器 を所持している。それぞれ個々の作品には欠けている要素やダブっている要素もあるが、ほぼどれも気持ち悪いほど似ているのである。
 これらのビジュアルを見た後で、本作「ガーディアン・オブ・ギャラクシー」のビジュアルをご覧いただきたい。あまりの共通性…というよりその「凡庸さ」に愕然としてしまうだろう。
 もちろん宇宙SFのビジュアルなんてこんなモノと言えば、確かにそうだ。それにしたって…あまりにオリジナリティ皆無過ぎるだろう。これじゃまるでアルゴ(2012)の中でCIAがでっち上げた架空のSF映画みたいだ。
 しかしそれを言ったら…「スター・ウォーズ」だって元祖である「超人対火星人」や「原子未来戦」のビジュアルと大して変わらないじゃないか…という異論 も出てくるだろう。確かにおっしゃる通り。しかし「スター・ウォーズ」はむしろそれらの気分を忠実かつ積極的に再現しようとしているモノであり、それらを 集約し焼き直しただけでなく、当時における最新技術で仕立て直したということが大きい。しかも、それまでゲテモノ、安物、継子扱いだったSF映画を、大型 予算で目抜き通りを堂々と通れる映画に作り直したことが重要なのだ。いわば当時の時点における、それまで日の当たらなかったこのジャンルの一種の「豪華総決算映画」なのである。それは、SF映画がそれまで低俗で幼稚で安物だと決めつけられていたからこそ…冷遇されていたからこそ有効だった、「期間限定」の堂々たる凡庸さだった。
 それ以外の作品のビジュアルが「スター・ウォーズ」と大して変わりないのは、そもそも便乗作品なのだから当たり前。「スペースボール」に至っては、メル・ブルックスがヒッチコック映画をパロディ化した「新・サイコ」(1977)の方法論で「スター・ウォーズ」を茶化した作品である。似ていなければおかしいのだ。
 しかしながら、本作のビジュアルがそのような作品のビジュアルと似たようなモノになってしまっている…というのは、果たしていかがなものだろうか。これ がメル・ブルックスのパロディ映画だったり、イタリアやロジャー・コーマンのパクり映画ならばそれでもいいだろうが、すでに「スター・ウォーズ」第1作公 開から30数年が経過。凡百のスペース・オペラ映画が市場に氾濫しまくった末の現在である。
 おまけに本作は天下のマーベル映画のバリバリの新作だ。いやいや、僕だって昨今のハリウッドのマンガ映画化作品大氾濫は苦々しく思わないでもないが、マーベルの映画は正直言って上手にこしらえてあるのだ。戦時中の「のらくろ」みたいな戦意高揚キャラだったはずのキャプテン・アメリカ/ザ・ファースト・アベンジャー(2011)は、まるでイーストウッド父親たちの星条旗(2006)みたいにアナクロ感を脱臭させている。マイティ・ソー(2011)ではシェイクスピア劇で知られるケネス・ブラナーを監督に起用した。アイアンマン(2008)ではロバート・ダウニー・ジュニアの皮肉っぽいユーモアをうまく活用していたし、マーベルの最近作であるキャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー(2014)では1970年代の政治サスペンスの味わいを引き出した。このようにマーベル映画は、「たかがマンガの映画化のくせに」とにかくそのコンセプトと具体的な作品づくりの手法が素晴らしいのである。
 そんなマーベル映画の最新作が、こんなどこにでもあるスペース・オペラ映画の焼き直しみたいなモノでいいのだろうか。なぜこの作品に限って、そんなひと工夫がなかったのか。
 そもそも「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」=「銀河の守護者たち」というタイトルからして、そんな題名の三文SF小説が腐るほどありそうだ。もし書店の書棚にある創元推理文庫のSFジャンルや早川SF文庫の背表紙を探してみたら、そんなタイトルがゴマンと見つかるような気がする。実際にこの原作マンガがマーベルにあるのだろうが、いかにもつまらなそうなタイトルではないか。凡庸過ぎる。やる気が感じられない。
 キャラクターたちを一人ひとり見ていっても、そんな印象は強まるばかり。主人公はハン・ソロのいただきか? 緑の肌の女はアバター(2009)から持って来たのか(…と思っていたら、本当に「アバター」のゾーイ・サルダナが 演じていてビックリ)? デカい木のお化けはチューバッカを植物にしたのか? 毛がフサフサのケモノというチューバッカの外見は、しゃべるアライグマに 持って来たのか? いやいや、デカい木とチビのアライグマの凸凹コンビで、R2D2とC3POの再現を狙ったのか? 片方が満足にしゃべれないというのも 「それ」くさいではないか。もう一人の半裸の男は「スター・ウォーズ」起源ではないが、最低映画監督エド・ウッド作品に出て来た元プロレスラーのトー・ ジョンソンみたいだ…。
 まったくオリジナリティが感じられないではないか。
 最初の印象だけでは、この作品が魅力的に見える人はそんなにいないのではないだろうか? 少なくとも僕はそうは思えなかった。
 それでもマーベルが映画化したというなら、ひょっとしてアメコミ好きには有名な作品なのかもしれない…と思ったりもしてみた。しかし実はこの原作マンガ、本国でも大して知名度がない作品と言うではないか。だとすると、一体何でこんなのを映画にしたのか? 
 ひょっとすると…マーベルは今までいつも作品をつくればフルスイングでホームラン狙いの作品ばかりだったが、これからは軽いB級ノリの映画もつくるつもりなのだろうか? そんなことを考えてもみたが、キャスティングを見たとたんにそんな考えも失せた。主役たちのうちアライグマのロケットの声にブラッドリー・クーパー、植物人間グルートの声にヴィン・ディーゼルを起用。その他、脇を固める面々に、グレン・クロース、ベニチオ・デル・トロ、ジョン・C・ライリー、ジョシュ・ブローリン…といった豪華な布陣。どう見たって肩の力を抜いた作品とは言いがたい。マーベルの「バッターボックスに立ったらフルスイング」という姿勢は、今回も変わっていないのである。
 しかし、その割には意気込みが感じられない。
 そんなこんなで僕は、この映画を見たいという気が起きなかった。そもそもマーベルのマンガ映画にすべて付き合いたいわけではない。だから「これ」という 口実さえ見つかれば、見ないで済むなら済ませたいと思っていた。だったら、これは「ナシ」だ。僕が映画を見る前に感じる予感からして、「これはパスしてほぼ間違いなかろう」と思っていたのだ。
 だが、僕が事前に得ることが出来たこの映画の情報には、かなり重要な要素が欠けていた。簡単なストーリー概要とメインのビジュアルは伝わっていたが、決定的に「ある要素」が欠落していたのだ。
 この映画の、「音」の情報がなかったのである。

 

 

 

 

 

 

 

こ こからは映画を見てから!

 

 

 

 

 

 



たかが音楽、されど音楽

 ぶっちゃけ白状してしまうと、僕がこの作品を見なくちゃ…と思い始めた時には、僕はすでに本作に1970年代ヴィンテージ・ポップスが流れるということを知っていた。
 そしてそれらの懐メロ・ポップスが、この作品の大きな魅力になっていることも知っていた。いや、目や耳を塞ぎたくとも、イマドキはあちこちから評判が伝 わって来てしまう。出来るだけ情報を入れないようにしていても、多少はどうしたって入って来てしまうのだ。それは仕方がないとして…実際に全編にヴィン テージ・ポップスがガンガン流れる映画だと分かってみると、「それが魅力」であるとされていることに僕は一種の危うさを感じてしまった。
 正直言って、ヴィンテージ・ポップスが流れる映画がキライという訳ではない。むしろ好きな方だと言ってもいいだろう。「アメリカン・グラフィティ」(1973)の素晴らしさは今でも忘れないし、「再会の時」(1983)エンディングに流れたスリー・ドッグ・ナイト「喜びの世界」にはシビれた。ヴィンテージ・ポップスを全編に流すわけでなくても、「フルメタル・ジャケット」(1987)エンディングでストーンズの「黒くぬれ!」が流れた時には衝撃を受けた。やはり既存の曲が画面にバッチリとハマった時には、その破壊力は比類のないものになる。タランティーノ映画などは、毎回それだけでも素晴らしく作品価値を高めているのだ。そういう作戦は決して侮れない。
 だが、どうやら事前の情報では純粋にスペース・オペラ…それも地球とは断ち切られた状況でのお話だと思われる本作に、1970年代ヴィンテージ・ポップスってのはどうなんだろう。それが流れる必然性がないとなると、単に高年齢の連中に対して媚びてるだけではないのか。あるいは「オレってセンスいい」とばかりに、クリエイターが自己満足の「遊び」をしている結果ではないのだろうか。それって何だかなぁ…。
 近年、例えば子供向けのアニメ作品などがオッサン向けの「懐かし要素」を散りばめたりして、こういう年齢層も観客に取り込もうとしていると聞く。まぁ、 商売なんだからそういうこともあるんだろうね。それについては別に責めたりするつもりはないが、オレはその手のやり口には乗りたくない。
 前述の「アメリカン・グラフィティ」やら「再会の時」などに僕が喜んだのも、そこにオッサンの醜悪なノスタルジーがあったからだ…と言われれば、正直言って否定できない。というか、それが間違いなく大きな位置を占めているだろう。音楽はカラダが喜ぶ…というところがあるから、問答無用で、生理的に抵抗できない面があったことは認めないといけない。やっぱりキライにはなれないのだ。
 だが、だからといって…まるで我々オッサンの足下を見るような手口で、目新しいところがどこにもない凡庸極まるスペース・オペラ作品にヴィンテージ・ポップスをベタベタ流して、「オラオラ、オマエらはこれが好きでたまらないんだろ?」みたいに目の前に差し出されるなんてご免被りたい。それって無理矢理媚薬でも嗅がされたあげく、自分の意思とは裏腹に犯されるみたいでたまらなくイヤだ。Vシネに出てくるヤクザの濡れ場かよ。
 それって、前にも何度か言及したことだが…かなり昔、テレビでやっていた武田鉄矢あたりが坂本龍馬を演じた幕末ドラマみたいだ。確か「幕末青春グラフィ ティ」とか銘打っていて…そこに「グラフィティ」と入れちゃうあたりが日本のテレビらしい下品さなのだが…問題なのは、このドラマ全編になぜかサイモン&ガーファンクルの 曲をタレ流したこと。武田鉄矢だから海援隊の歌を流した…というならまだいい。何で幕末の日本で、何でサイモン&ガーファンクルなのか。まったく意味が分 からない。単に画面に曲がシンクロする場面はあるかもしれないが、曲単独で強烈なイメージを有する既存曲を、わざわざドラマに流す意味がないではないか。こういう安易さやデリカシーのなさが、たまらなくイヤなのだ。
 だから今回も…世評の高さにも関わらず、実は少々警戒しながらスクリーンと対峙した。たぶん開巻5分以内に、この映画の勝負はつくだろうとも想定していた。僕は、かなり覚悟してこの映画を見に行ったのだった。
 すると…いやぁ、なるほどこういう手で来たか!
 舞台は1988年の地球から始まる。少年が持っているのは日本が誇るソニーのウォークマンだ! そのどデカいウォークマンにカセットテープを突っ込んで、いきなり流れるのは10CCの往年のヒット曲。「つかみはオッケー」とは、まさにこのことだろう。
 カセットのレーベルには「最強ミックスVOL.1」と手書きの文 字。これには僕ら世代の人間なら、ピンと来ざるを得ないだろう。今日びのようにiPodなどでデジタルデータで音楽を聴くようになるずっと前、誰でも自分 お気に入りの曲を勝手に編集したカセットの1本や2本、作ったことのない人間はいないだろう。特にクルマを持っている奴なら、こうしたテープは必需品。ク ルマで出かける時にはそのクルマの持ち主が作ったテープをほぼ強制的に聞かされるわけだから、そいつのセンスが悪ければ悪夢のドライブと化すことになる (笑)。もうこれだけで、僕らの年代は「あるある」となってしまうわけだ。
 さらにお話が本題に入って、成人になった主人公が曲に合わせて荒廃した惑星を踊りながらホイホイ進んで行くくだりに至っては…なるほどこの後はすべてこ の「最強ミックスVOL.1」からの曲という体裁で、作中にガンガン曲を流して行くんだな…と察しがつく。これは実にうまい作戦だ。
 ここで選曲されている曲も絶妙といえば絶妙で…ヒット曲ではあるのだが、イマドキでも誰でも知っているような曲ではない、ちょっと地味目の曲を選んでいるのが面白い。冒頭からやたらに強烈な印象を放つスキャットから、無茶な邦題がついてしまった「ウガチャカ」なんて曲から、ボーカルのチェリー・カーリーの下着姿の衣装ばかり話題になったランナウェイズ「チェリー・ボム」など、ちょっと意外性のある選曲がなされているのだ。
 その中ではモータウン・ソウルの大ヒット曲であるマーヴィン・ゲイタミー・テレルによる「エイント・ノー・マウンテン・ハイ・イナフ」が比較的知名度が高く、いろいろな映画で使用されてきたもの…ということになるのだろうか。最近でも早熟のアイオワ(2008)なんて作品で使われていて、ちょっと驚かされた記憶がある。しかし魅力に溢れたこの曲は、今までいろいろな映画で使われながらもその魅力に見合った活かされ方をされてこなかった。
 ところが今回は、そこがひと味違う。事件が解決し、ろくでなし札付き揃いの連中がチームとしての意識に目覚めて旅立つ幕切れに流れるこの曲は、曲本来が 持つハイな盛り上がりが見事に活かされている。宇宙船の急上昇とチーム一体となった高揚感という映像・ドラマと組み合わされて、三位一体のエキサイトメントを味合わせてくれるのだ。今までこの曲を使った映画がまったく曲の魅力を活かせていなかっただけに、これは個人的に見ていて嬉しかった。既存曲映画使用のカガミとでも言いたくなる、素晴らしい仕上がりなのである。
 …と書いていくと、これってやっぱり単なるオッサンのノスタルジーじゃないかと言われそうだ。いや、実際そうである。ノスタルジーが快感になっている部分は多分にある。それはまったく否定しない。
 しかしここからが肝心なのだが、この映画のヴィンテージ・ポップス使用は単なるノスタルジー喚起や、ご機嫌な曲を快調に流してイイ気分にさせる「だけ」にはとどまっていない。
 そこには、これらの音楽を使う必然性が存在するのである。

本作をオリジナルたらしめている「批評」感覚

 実はこの映画の中で地球が出てくる場面は、冒頭のわずかのシーンのみ。そのシーンで主人公が持っていたウォークマンと「最強ミックスVOL.1」だけが、彼と地球とをつなぎ止めているものだ。全編に流れるヴィンテージ・ポップスは、彼の地球への望郷の念と亡くなった母親への思慕の思い…を象徴するモノなのである。そしてそれらがヴィンテージ・ポップスだからこそ、僕らも「懐かしさ」というカタチで主人公の思いを共有できる。なかなか巧妙な作戦になっているのだ。
 さらにもっと大事なのは…ヴィンテージ・ポップスと宇宙(スペース・オペラ)というミスマッチ感だ。
 主人公が何かというとこだわるウォークマン…これがiPodなどではないところにご注目いただきたい。宇宙船の中にカセットレコーダーがあるという、不 思議なミスマッチ感。それはちょっと笑ってしまうような…それこそメル・ブルックスの「スペースボール」に際どく接近しかねないくらいの、パロディすれすれのコッケイ味を帯びている。そもそもスペース・オペラ映画に全編ヴィンテージ・ポップスを流すなんて、飲んだ席で話すバカ話みたいにおかしなアイディアだ。
 見方を変えるとそれは…映画にどっぷりのめり込んで見るというより、ちょっとクールに斜に構えた姿勢で見るというか、距離を置いた視点で見るということでもあるかもしれない。「ちょっと笑っちゃうよね」と、作り手が観客に目配せしながら映画を語る…ということだ。
 「笑う」こととか「ユーモア」とは、一種の批評行為なのである。
 それはすでに「スター・ウォーズ」以来ずっと手垢がつきまくったハリウッド製スペース・オペラ映画を、「笑っちゃうよね」と引いて見つめることでもあ る。そのことによって作り手は、もうスペース・オペラ映画なんていっぱい作られすぎていて新鮮味なんてない…と自覚していることを表明している。オリジナリティがないということを分かった上で、あえてやっているのだと明らかにしているのだ。それこそが、本作最大のオリジナリティではないか。凡庸さを愚鈍に繰り返すのではなく、「これって笑っちゃうよね」と違和感を違和感として分かった上で行うのは、もはや「凡庸さ」とは言えないはずだ。
 そしてここで批評されるのは、世に氾濫したスペース・オペラ映画だけではない。
 その巧みな作り手の発想は、ある意味で「スター・トレック」シリーズのパロディ映画ギャラクシー・クエスト(1999)に似たものがあるかもしれない。
 「ギャラクシー・クエスト」は「スター・トレック」そのものと、作品を取り巻くファンや俳優たちなどの状況を大いにからかった映画だ。それだけの映画として見ても十分面白いし楽しめる映画なのだが、この作品は「それ以上」のモノを描こうとしていた。そんな姿勢こそが、
「ギャラクシー・クエスト」という作品をありふれたパロディ映画以上のものにしていたのだ。
 本作も…凡百のスペース・オペラ映画を今作るとしたらどうしたらいいかを熟考した上で作り上げたような、巧みさと知性とセンスを感じる。しかしながらその一方で、本作にも「それ以上」の部分があると言わざるを得ないのだ。
 それは、現在では冷笑とシラケと懐疑的な眼差しを受けるしかない「善良さ」の希求である。
 本作では宇宙の中でも最も怪しげだったり暴れん坊だったりという「やさぐれた連中」が、図らずも何の得にもならない「善行」を行うとともに、不思議な 「チームワーク」や「友情」に結ばれていく様子が描かれている。それは…まるで「少年ジャンプ」のモットーである「友情・努力・勝利」ではないが、娯楽映 画の保守本流というか…アメリカ映画の王道パターンだ。
 だが、その「王道」こそが今日びは難しい
 人心がこれほど荒廃して唯物的で刹那的な考え方が支配的になった今、他愛のない娯楽映画…完全に逃避でしかないハリウッド映画ですら、こうした「善良さ」を無条件で描くのは難しくなって来た。観客も、もう簡単にそれを信じる気にはなれない。シラケわたった視線でアラ探ししたくて仕方がない。砂糖菓子のような甘っちょろい思想とケナすにしても、もはやその砂糖菓子を成立させること自体が困難になってきているのである。
 だから作り手も、一旦は「笑っちゃいますよね」と観客に向かってポーズをとらねばならない。
 そんなことありっこないって分かってますよ…と、そんな「笑い=批評」を挟んで描くのだ。そのフィルターを通さなければ、今の観客は「善良さ」をストレートには受け付けない。
 例えば、深海に潜っていた人間を海上に上げるには、まず減圧する必要がある。強い水圧を受けて来たから、いきなり上に上げたらカラダがそれについていけない。それと同じように、ヘビーな現実に慣れた観客を映画の世界に引っ張り込むには、まず「減圧」させる必要があるのだ
 その「減圧」のためには、ヴィンテージ・ポップスは最高の手段となる。
 何よりその懐かしい音は、人々が今よりちょっとは善良でナイーブだった頃へ僕らを無条件で運んでくれる。それは理屈ではなく生理的なモノだから、何より 効果的なのだ。この映画のヴィンテージ・ポップスは、今ではちょっと大声で言うのも恥ずかしい「善良さ」をうたいあげるために必要なアイテムだったのであ る。
 いやはや…長々とくだらない話を続けて来たが、これで僕のような者でも今改めてこの作品について語る意味があっただろうか(笑)?
 一見、凡庸極まりない映画に見える本作は、こうした理由から実は極めて非凡な作品に仕上がっている…と思えるのである。


 

 

 

 to : Review 2014

 

 to : Classics Index

  

 to : HOME