「キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー」

  Captain America - The Winter Soldier

 (2014/06/09)


 
見 る前の予想
 またまたマーベルのアメコミ映画
 しかし、そうは言っても結構マーベル映画は何だかんだよく出来てる。ホントは「マンガなんて映画化しやがって」とケチをつけたいところだが、いつも目の付け所がうまい。僕も毎回「アメコミ映画なんて」と文句を言いながら、結局見た後に感心させられているようなアリサマだ。
 ところで今回の「キャプテン・アメリカ」は、前作ザ・ファースト・アベンジャー(2011)が戦時中の話だった。
 何だか星条旗が服を着て歩いているような存在である。実際、元のコミックでも戦時中は日本の「のらくろ」みたいな存在だったみたいで、どう見たって超アナクロにしかならないヒーローのはず。ところが、それを実にうまく今風の映画に焼き直したのが、「ザ・ファースト・アベンジャー」だった。ヘタすれば時代錯誤の右翼キャラになりかねない存在を、見事に今の視点で活かしきっていた。
 その後、現代に蘇ったキャプテン・アメリカは例のマーベル・オールスターズ総出演アベンジャーズ(2012)に参加。そして、いよいよ彼の活躍が前面に出てくる新作として、本作が登場したというわけだ。あくまで第二次大戦中の話だった前作とは、かなり趣向が違うのは間違いない。
 ところが、すでに現代における彼の活躍は「アベンジャーズ」で描かれているので、本作の「売り」が何になるのかが分からない。おまけにもうひとつよく分からないのが、ロバート・レッドフォードの参加だ。
  なぜか本作へのレッドフォードの参加は、あまりあちこちで騒がれていない。宣伝する側も、不思議とこの件にはだんまりを決め込んでいる。しかしこれって、 映画ファン的にはちょっとした「事件」ではないか。あのハリウッドきってのスーパースターであるレッドフォード、自らも監督し政治にも一家言ある知性派の 彼が、事もあろうにマーベルのアメコミ映画に出演とは…いくら老いたりとはいえ「らしく」ない。レッドフォードはなぜこの作品に出演したのか? マーベル側も一体なぜ、レッドフォードに出演を依頼したのだろうか?
 これがどうしても気になって、いても立ってもいられず劇場に飛び込んだ次第。

あら すじ

 早朝のワシントンD.C.。
 リンカーン記念館リフレクティングプールの周囲を、黙々とジョギングする男…サム・ウィルソン(アンソニー・マッキー)。ところが彼がえっちらおっちら走っている横を、「失礼!」と声をかけてスゴイ勢いで追い抜いていく男がいる。その男はプール周辺をあっと言う間に一周して、すぐにまた「失礼!」とサムを追い抜いていく。あまりの勢いに呆れ返ったサムはその男に声をかけ、二人は休憩して会話を交わし始めた。
 驚異的な勢いで走るその男の名は、スティーブ・ロジャース(クリス・エバンス)。何を隠そう「キャプテン・アメリカ」その人だ。彼は第二次大戦の英雄だったが、訳あって長い眠りの後に現代に蘇った。そのせいか、スティーブはなかなか現代になじめない。何か分からないことや知れなかったことがあると、「スター・ウォーズ」や「ロッキー」といった単語がびっしり書いてある手帳に新しい言葉を書き足している。そんなスティーブの姿を、サムは好ましく思って見つめていた。
 するとそこに、一台の車が突っ込んで来る。乗っているのはブラックウィドウことナターシャ・ロマノフ(スカーレット・ヨハンソン)だ。彼女は二人に挨拶すると、用事がある…とスティーブをクルマに乗せて去っていく。スティーブもナターシャも、国際平和維持組織「S.H.I.E.L.D.」の一員として働いているのだ。
 さて舞台変わって、スティーブとナターシャは「S.H.I.E.L.D.」隊員たちと輸送機の中。「S.H.I.E.L.D.」の所有する船がインド洋上で海賊に乗っ取られて、スティーブたちが船の奪還に駆り出されたわけ。
 いよいよ船の近くまで来ると、まずスティーブがキャプテン・アメリカの出で立ちで盾だけを持って飛行機から飛び降りる。彼にはパラシュートが必要ないのだ。そしてナターシャや他の「S.H.I.E.L.D.」隊員が後に続く。
 まず単身で船に乗り込んだキャプテン・アメリカことスティーブは、見張りの海賊を次々撃退。後からやって来たナターシャや「S.H.I.E.L.D.」隊員たちも、海賊たちを倒していく。
 ところがスティーブは、その時に奇妙な光景を目にした。彼や「S.H.I.E.L.D.」隊員たちが人質解放のために奮戦している最中。ナターシャが一人その中から離れていくではないか。不審に思ったスティーブが彼女の後を追うと、ナターシャは船内のコンピュータからデータをダウンロードしている最中。スティーブにその現場を見られたナターシャは、「しまった」という感じでいたずらっぽい表情を見せた。
 しかしデータを奪取するや否や、海賊の一人が爆弾を投げつけて、それどころではなくなってしまう。そして、そんなゴタゴタはあったものの、彼らは船の奪回に成功する。
 場面再び変わって、ここはワシントンD.C.にある「S.H.I.E.L.D.」本部。無事に帰還したスティーブは、長官ニック・フューリー(サミュエル・L・ジャクソン)と対峙する。ナターシャが船からデータを入手するという、謎の行動の説明を求めたのだ。
 憮然としたスティーブの表情に言い逃れできないと悟ったフューリーは、彼を伴ってエレベーターで「S.H.I.E.L.D.」の地下へとやって来る。そこでは、ある秘密のプロジェクトが進行中だった。巨大な空中空母を、極秘裏に3機も建造中だったのだ。
 それらの計画は「プロジェクト・インサイト」と呼ばれていた。テロ攻撃を防ぐために、これらの空中空母を飛ばして空から監視するという計画。それだけではない。偵察衛星やコンピュータとつないで、テロを未然に防ごうというものだ。
 しかしこれを聞いたスティーブは、心中穏やかではないものを感じていた。それは平和を守るというには、あまりにも過剰で強圧的ではないのか。しかし、フューリーは「計画はすでに進行中」とつれない。これにはさすがに、にわかに承伏できないスティーブではあった。
 第二次大戦中、「自由と民主主義」のために立ち上がったキャプテン・アメリカことスティーブ。行きがかり上、「S.H.I.E.L.D.」に入ることになったものの、正直言っていまだ自分の戦う意義がしかとは見いだせないでいた。そこに来て、この得体の知れない計画…。
  スティーブはスミソニアン博物館で開かれている「キャプテン・アメリカ展」をお忍びで見に行き、かつての自分の戦いを回想する。スティーブの親友で、不慮 の戦士を遂げたバッキー・バーンズ(セバスチャン・スタン)のことも思い出した。そして昔「いい仲」になった女性で、今は年老いて病いの床に伏せているペ ギー・カーター(ヘイリー・アトウェル)のことも思い出した。
 オレは「自由」のために戦ったんだ、こんな事のために戦ったわけじゃない…。スティーブの胸中でさまざまな疑念が渦巻く。
  その頃「S.H.I.E.L.D.」本部では、フューリーが例の船から入手したデータを使って、「S.H.I.E.L.D.」のコンピュータ内のある情報 にアクセスしようとしていた。ところが長官のフューリーでさえも、コンピュータは「アクセス不可」と告げてくる。この情報は一体何なのか。
 フューリーはその足で、議員たちとネット会議を行っている「S.H.I.E.L.D.」高官アレクサンダー・ピアース(ロバート・レッドフォード)に会いに行く。
 例の「プロジェクト・インサイト」について語り始めたフューリーは、この計画がまだ時期尚早だと主張してピアースに延期を求めた。最初は渋い顔をしていたピアースだが、そこは旧知のフューリーの頼み。快く延期を了承して、その場は別れる二人だった。
  ところがその直後、フューリーがクルマで街を走りながら腹心のマリア・ヒル(コビー・スマルダーズ)と連絡をとっていると、謎のパトカーが接近してくる。 案の定、彼らは暗殺集団だった。街の目抜き通りで何台ものパトカーに襲撃され、ハイテクを施したクルマもあちこち機能不全となり絶体絶命。おまけに、突如 どこからともなく謎の長髪の男が現れ、フューリーの乗ったクルマを爆破するではないか。この謎の暗殺者、実はその名をウィンター・ソルジャーと呼ばれる男だが、果たしてその正体は…。
 夜になって、自宅アパートに帰ってくるスティーブ。洗濯するために出てきたちょっと気になる美人のお隣さん(エミリー・ヴァンキャンプ)と言葉を交わして部屋に戻ってきた彼は、何者かが忍び込んだ気配に緊張する。
 それは、負傷しながら命からがら逃げ出してきたフューリーだった。
 ところがいきなり銃撃されて、弾丸をくらうフューリー。彼は意識を失う前に、スティーブに「誰も信じるな」と告げて例のデータの入ったUSBメモリーを 渡す。さらに次の瞬間、さきほどの隣人女性が銃を構えて部屋に飛び込んできた。彼女はスティーブを護衛するために「S.H.I.E.L.D.」から派遣さ れてきた隊員だったのだ。スティーブは急いで襲撃者を追うが、敵の逃げ足は速い。追いつく間もなく、すでに夜の街に消え失せていた。
 こうして病院に運ばれるフューリーだが、スティーブやナターシャ、マリア・ヒルの目の前で死亡。さすがに一同に沈痛な空気が流れる。事態はますます深刻な状況になってきた。
 しかも「S.H.I.E.L.D.」本部に出向いたスティーブは、エレベーター内で「S.H.I.E.L.D.」隊員たちが自分を狙っていることに気づいた。
 下の階へと下りていくエレベーターに、各フロアから一人また一人と乗り込んでくる「S.H.I.E.L.D.」隊員。刻一刻と緊張がはしるのが分かる。一体「S.H.I.E.L.D.」の中で何が起きているのだ?
 果たしてスティーブはこの狭い空間の中で「敵」となった「S.H.I.E.L.D.」隊員たちの襲撃をかわし、無事に脱出することができるのか? そして「プロジェクト・インサイト」を阻止することができるのだろうか…?

見た 後での感想

 いやぁ、ちょっとビックリした
 こんな映画とはまったく思わなかったから、実はちょっとどころかかなり驚いてしまった。
 ポスターやチラシの絵柄は、キャプテン・アメリカとブラックウィドウとニック・フューリー。まぁ、これは想定内だ。アイアンマン2(2010)で初登場したブラックウィドウは、「アベンジャーズ」を通過してこっちに移籍したのかな…などと漠然と考えてはいたが、まぁそれはどうってこともない。
 そのポスター=チラシの三人の背景には、あと二人ぐらい小さく人物が描いてあるが、それは何だか分からない。ただ、上空には巨大な空中空母みたいなモノが浮かんでいるの で、またまた「アベンジャーズ」系のSFスペクタクル・アクションになるのかな…と思っていたのだ。その場合、敵は異次元とか宇宙から来るのだろうか?  どっちにしてもよくあるパターンであまりピンと来ないな…と、当初はそんな風に思っていたわけだ。ところがどっこい、これがねぇ…。
 ズバリと言おう。マーベルにはまたまた裏切られてしまった。「いい意味」で、だ。
 映画ファンとしては「いいかげんハリウッドもマンガに頼るのをやめて欲しい」と言いたいのだが、マーベル映画はケナしたくてもケナさせてくれない。本当に腹が立つよ(笑)。
 では僕は、本作のどこに「いい意味で裏切られた」のか?

今の時代には難しいヒーロー

 そもそも冒頭にも述べたように、僕は映画版「キャプテン・アメリカ」にはあまり期待してなかった
 先にも「のらくろ」とか言ったが、それはあながち間違いじゃない。マンガとしては、かつて戦意高揚的な意味合いで誕生したはずだ。「歩く星条旗」という出で立ちが、それを物語っている。そんなキャラをイマドキ映画化するなんて、結構恥ずかしいしズレている。映画化もこれだけはやめときゃよかったのに…と思ったものだ。
 ところがマーベルはしたたかだった。前作「ザ・ファースト・アベンジャー」は時代背景こそ第二次大戦だったが、キャプテン・アメリカは当初米軍のプロパガンダ要員…チンドン屋みたいな存在として登場させられる。クリント・イーストウッド「父親たちの星条旗」(2006)みたいな趣向で出てくるのだ。これには驚いた。
 そんな「戦争プロパガンダ」に対する皮肉な視点を通過してからのヒーロー化だから、主人公の存在は一旦脱臭されたような感じでアナクロ感がない。ちゃんと「これはプロパガンダですよ」と名言して、それから真のヒーローにするという段階を踏んでいるからうまいのだ。これはビックリした。クセモノ脚本家コンビ、クリストファー・マルクソスティーブン・マクフィーリーのお手柄だろう。奇しくもこの二人が前後して手がけたナルニア国物語/第1章 ライオンと魔女(2005)の冒頭が、「ザ・ファースト・アベンジャー」とまったく同じに主人公が軍隊に志願してはねつけられるというエピソードだったのも偶然ではあるまい。ともかく、こういうやり方があるんだ…と、舌を巻く出来栄えだった。
 しかしその第一作の終盤で、主人公は現代に来てしまった。さらにド派手なスペクタクル・ショーの「アベンジャーズ」を通過しての続編。これってどうなんだろうと僕が思ったのも仕方がない。
 前作はアナクロ臭をうまく脱臭することに成功したが、それも済んで舞台も現代に移った本作では、実は主人公ってただの怪力ヒーローでしかないんじゃないか。これからどんな宇宙人や異次元のモンスターが出てきても、「彼」でなければならない活躍ってあり得ないんじゃないだろうか。
 もはや彼は「米軍の広告塔」でもないし、彼が守らねばならない自由主義陣営の危機もない。いや、あるだろうけど、それを映画にしちゃったら生臭くて見ていられない。それでは氷漬けになって真空パックされた、主人公の無菌状態みたいなイノセンスは活かされない。これでどうやって、「キャプテン・アメリカ」の映画を作るのか?
 そのカギは意外な人物が持っていた。ロバート・レッドフォードである。

1970年代アメリカ映画を体現するレッドフォード
 ポスターに描かれていた大げさな空中空母から、さてはまた宇宙か異次元からの敵と戦うのかな…と思っていたが、実は本作の敵ではそんな荒唐無稽なモノではなかった。
 ズバリと言ってしまえば「内なる敵」とでも呼ぶべきだろうか。敵は自らの中にいた。
 ここまでマーベル・ヒーローを少しずつ結びつけて、「アベンジャーズ」で一気に集合させた観がある組織「S.H.I.E.L.D.」は、その名目のごとく平和維持のための組織だと思っていた。何しろ元はマンガ。「正義の味方」を集めている組織なんだから「正義」に決まっている。実際そのために設立されたのだろうし、本作の時点でもその目的は変わっていないはずだが、その実態は…まぁ、今回はこういうお話にまで発展してきているのである。
 これって、何となく現実の機関や組織…C.I.A.だとかN.S.C.だとかと同じ臭いがしてくるではないか。
 どちらも国家と国民の利益を守るために設立された組織の割には、その悪名ばかりが轟いている。何となく「組織」という言葉の持つ胡散臭さや危険さの方が、イメージ的に勝っている。
 「S.H.I.E.L.D.」も、そんな実在組織みたいな雰囲気が漂って来ているのである。
 そして、こうした公の機関や組織による陰謀、いわゆる国家による陰謀が、アメリカ映画の中で繰り返し描かれていた時代が確かにあった。
 1970年代のアメリカ映画が、まさにそんな時代だったのである。
 1960年代後半から1970年代はじめに一気に燃え広がったアメリカン・ニューシネマの機運は、発火するのも早かったが沈静化も早かった。代わって「ゴッドファーザー」(1972) あたりからエンターテインメント性の高いアメリカ映画が復権してきたが、それは以前の「明るく楽しい」ハリウッド映画とは、ひと味もふた味も異なるもの だった。そもそも「ゴッドファーザー」自体がそれまでアンタッチャブルだったマフィアの実態に迫るものだったことからも、その性質が何となく伺えるだろ う。基本的には既存の権威・権力に対する懐疑や抗議、政治的な疑念に満ちたモノで、社会全体に漂う「陰謀を疑う気分」を反映した作品が次々と発表されたのだ。
 例を挙げてみれば…ウォーレン・ビーティ主演、アラン・J・パクラ監督の「パララックス・ビュー」(1974)、ロバート・レッドフォードダスティン・ホフマン主演、アラン・J・パクラ監督の「大統領の陰謀(1976)、ロバート・レッドフォードフェイ・ダナウェイ主演、シドニー・ポラック監督の「コンドル」(1975)、バート・ランカスター、リチャード・ウィドマーク主演、ロバート・アルドリッチ監督の「合衆国最後の日」(1977)、バート・ランカスター、ロバート・ライアン主演、デビッド・ミラー監督の「ダラスの熱い日」(1973)…などが挙げられるだろう。これらは直接そういう傾向が前面に出た作品だが、これら以外にも選挙戦の実態に迫ったロバート・レッドフォード主演、マイケル・リッチー監督の「候補者ビル・マッケイ」(1972)などもあり、「陰謀」がナチス残党によるモノまで広義に解釈すれば、ダスティン・ホフマン、ローレンス・オリビエ主演、ジョン・シュレシンジャー監督のマラソンマン(1976)、グレゴリー・ペック、ローレンス・オリビエ主演、フランクリン・J・シャフナー監督の「ブラジルから来た少年」(1978)…なんてものまで入ってくるかもしれない。つまり、「我々一般人があずかり知らぬところで、公や巨大な組織は得体の知れないことを企んでいる」…という、穏やかならぬ政治的メッセージを持った作品群なのだ。
 ただし、それらが高尚な「政治映画」「メッセージ映画」として作られたのだったら、いつの時代にもあったものだろう。注目すべきは、これらがあくまで「娯楽映画」「大衆映画」としてハリウッドから発信されたものだったということだ。
 おそらくはこれらの作品が作られるに至る発端というかヒントは、コスタ=ガブラスによる政治映画「Z」(1969)がアカデミー外国語映画賞を受賞したことに端を発しているのではないかと思っているが、もちろんそれだけではないのは明らかだ。
 例えばディノ・デ・ラウレンティスキングコング(1976)リメイクですら、ジェフ・ブリッジス演じる主人公は長髪・ヒゲで「反体制派」。またジェット・ローラー・コースター(1977) なんて単なるサスペンス映画でも、やたらに上司に噛みついて文句ばかり言う男が主人公である。ここに幾多のベトナム戦争後遺症映画まで加えたら、当時の映 画で権威・権力を疑うムードを伴ってないものなどないのではないだろうか。「この手のジャンル」の映画は今ではほとんどオリバー・ストーンが孤軍奮闘していて、勢い余って「妄想癖」に取り憑かれちゃっているようなところがあるが、この時代は「こっちの方」が当たり前だった。エライ奴らは信じられない、何か企んでいるに決まっている、信じたらひどい目に遭わされる、とりあえず厳しい目で見ておいた方がいい…という気分が確かにあった。そもそも1970年代は時代の気分からして、こういう映画を量産するような下地があったように思う。
 それは言うまでもなく、ベトナム戦争の長期化・激化に伴ってアメリカ国内で反戦運動が起きていたことと無縁ではないだろう。そしてそれを決定的にしたのが、1972年のウォーターゲート事件とそれに伴う1974年のニクソン大統領辞任だろう。
  僕ら日本人は、政治家なんて悪いことしていて当たり前、特に権力に近いヤツほど汚いものだと昔から普通に考えている。いやいや、最近の若い人などは権力者 を両手放しで礼賛ヨイショする人たちも少なくないみたいで唖然とさせられることも多いが、少なくとも僕らが物心ついた頃はずっとそう思ってきたように思 う。しかしアメリカの人たちはその点、少なくとも1960年代前半ぐらいまでは、かなりナイーブだったみたいなのだ。だから、「事と場合によってはアメリ カの頂点に立つ人物が手を汚してしまう」…という事実は、アメリカの国民にとっては物凄く衝撃的な出来事だったのかもしれない。それがこうした「我々一般人があずかり知らぬところで、公や巨大な組織は得体の知れないことを企んでいる」という映画を量産する引き金になったように思う。
  実際はこういう気分っていうのは、日本とアメリカ、あるいはウォーターゲートやベトナム戦争があるなしは関係ない。実は権力というものは腐敗しやすい傾向 があり、それらは常に検証され続けなければならないはずなのだが…まぁ、この時代は「そんな気分」が大衆文化の権化ハリウッドまでも浸透しきった希有な時 代だったのだろう。
 そして、「そんな気分」に満ちたアメリカ映画に最も多く出演したのが、先に僕が挙げた作品群を見るまでもなく、ロバート・レッドフォードというスターだったのだ。そんな彼がウォーターゲート事件を追及する新聞記者を「大統領の陰謀」で演じたのは、まさに必然だったかもしれない。また、今改めて考えてみると…レッドフォードの人気を決定的なモノにした「華麗なるギャツビー」(1974)が…その作品的な出来栄えはともかくとして…「アメリカの夢のダークサイドによってのし上がって滅んでいく男」を描いたものだったことも、極めて象徴的だったのかもしれない。ディカプリオ版ギャツビーがリーマンショックと格差社会の現代に生み出されたように、レッドフォード版ギャツビーもまた時代の産物だったのだ。
 そんなレッドフォードが本作「ウィンター・ソルジャー」に参加したのは、単なる偶然かにぎやかしなのだろうか?



レッドフォードが本作に持ち込んだ「あの気分」
  国粋主義的アナクロ・ヒーローになってもおかしくない設定のキャプテン・アメリカを、アクロバティックなカタチで見事救い出した第1作「ザ・ファースト・ アベンジャー」。しかしそんなキャプテン・アメリカを現代に持ってきたら、「彼」でなければならない必然性がなくなる。それどころか、「時代錯誤」な存在 である彼の活かし方に困ってしまうに違いない…。先にも述べたように、僕がこの「キャプテン・アメリカ」名義の第2作「ウィンター・ソルジャー」に対して 持っていた先入観は、正直言ってそんな風にあまり芳しいものではなかった
 だからなのか、他のマーベル・ヒーロー映画とは違って、ポスターはブラックウィドウ、ニック・フューリー長官との三枚看板扱い。彼単独でなく他のキャラも集めての、ミニ「アベンジャーズ」扱いでお茶を濁すのだろうか…と思っていた。
 ところが、そうではなかった。
 むしろ、他のマーベル映画よりもずっと野心的な作品として出来上がっていたのだから、映画ってものは分からない。今回ばかりは本当に驚いてしまった。
  キャプテン・アメリカことスティーブ・ロジャースは、自分たちが属する平和維持機関「S.H.I.E.L.D.」がヤバいプロジェクトに片足突っ込んでい ることを知る。それは強力な抑止力で、テロの恐怖を未然に抑え付ける計画だ。これを知ったスティーブは、初めて「S.H.I.E.L.D.」の方針に反対 する。「自分はこんなことのために戦ってきたんじゃない!」
  平和維持のために人々を上空から厳しく監視するというこの計画、一見もっともらしく正しいことのように見えるかもしれない。しかしスティーブは、これに不 信感を抱く。「やりすぎだ」と抗議する。「自由」のために戦ってきたスティーブにとって、これは「自由」に対する抑圧にしか思えなかったからだ…。
 これは、なかなか斬新ではないか。
 元々が「歩く星条旗」。国粋主義ヒーロー、体制べったりヒーローになりかねない設定。しかし本作では、彼の「自由」のために戦うヒーローというコンセプトを逆手にとって、「自由」を抑圧する体制に対して反逆するヒーローという荒技を繰り出した。元々なりかねなかった国粋主義ヒーローとは真逆…180度違う極北の位置に、キャプテン・アメリカを持って行ってしまったのだ。
 これは前作よりもうまい!
 おそらくは前作同様今回も脚本に関わっている、クリストファー・マルクソとスティーブン・マクフィーリーの作戦勝ちということになるのだろうが、これはなかなか出てくる発想ではない。確かにこれならキャプテン・アメリカが出てくる必然性もある。キャプテン・アメリカだからこそ、この視点が生きてくるのだ。
  ところが事態はキャプテン・アメリカが思っている以上に深刻で、くだんの計画は監視どころか先制攻撃…事前にコンピュータに個人情報をインプットして、不 穏分子の傾向がある人物を一気に抹殺してしまおうというとんでもないモノであることが分かってくる。そしてこの危険性に気づいたフューリー長官やキャプテ ン・アメリカを抹殺しようと、「S.H.I.E.L.D.」から刺客が送り出されてくる。今回の敵は宇宙人でも異次元の怪物でもない。身内…平和を維持す るための組織であるはずの「S.H.I.E.L.D.」そのものなのである。
 最終的には「S.H.I.E.L.D.」内に、前作「ザ・ファースト・アベンジャー」に出てきたナチスの先鋭組織「ヒドラ」が潜伏していた…という設定になって幾分「中和」はされるのだが、敵は自分が属する国家の方だった… という設定は結構ヤバイ。しかも、テロ防止の名の下に国民を監視する…みたいな話は、もうすでに現実世界でも水面下で進行中だ。ニュースなどでもチラチラ そんな話が出ていたりする。「あくまで荒唐無稽な話」と笑い飛ばせないからこそ、そのヤバさはかなり深刻なのである。今回の「キャプテン・アメリカ」、ま るでチンドン屋さんみたいなその出で立ちとは裏腹に、まったくシャレにならない設定なのだ。
 そんな本作が「1970年代アメリカ映画」的な雰囲気を帯びてくるのは、必然と言ってもいい。まさに「我々一般人があずかり知らぬところで、公や巨大な組織は得体の知れないことを企んでいる」…という設定なのである。それが現実を反映していてシャレにならない点も、まさに「1970年代アメリカ映画」的だ。
 ロバート・レッドフォードは、そんな「1970年代アメリカ映画」のアイコンとして今回起用されているのだ。
 特に本作の設定は、あの当時、レッドフォードがフェイ・ダナウェイと共演した「コンドル」の 内容に酷似しているかもしれない。CIAの下部組織が何者かに襲われて全滅。たまたまその時には不在で命拾いした末端職員が、CIA内部で起きている陰謀 に立ち向かう…というお話。何となく本作と一脈通じる内容であることがお分かりいただけるだろう。その生き延びた末端職員の役がレッドフォードだ。本作 「ウィンターソルジャー」では、「コンドル」を代表とするような「あの時代」の政治的映画群を象徴する存在として、レッドフォードが起用されているように 思えるのだ。
 逆にそうでも考えなければ、とてもじゃないが今回のレッドフォード起用は説明できない。例えばスーパーマン(1978)にマーロン・ブランドジーン・ハックマンが出演した時のように、アメコミ映画にありがちな「大物スター」起用の一環と言ってしまえば、そう言えなくもないかもしれない。しかしレッドフォードが「脇役」として映画に登場するのは、実はアニメ「シャーロットのおくりもの」(2006)の声の出演という例外を除けば、おそらく遠すぎた橋(1977)のゲスト出演以来ではないのか。歳をとったから「一線を退いた」役柄を選んだにしては、つい最近、全編たった一人で出ずっぱりのオール・イズ・ロスト/最後の手紙(2013) に出たばかり。少なくとも本人はバリバリ現役感満点だ。そもそも近年は監督作ですら主演しちゃうレッドフォードが脇に回るというのは、極めて異例のことな のである。さらにレッドフォードがアメコミどころかSF映画…特殊効果を多用する映画に出演するというのも、彼としては初めてのこと。どう考えてもこれ は、何か特別な意図があってのことと考えないと理屈が合わないだろう。
 本作はレッドフォードを得ることによって、「1970年代アメリカ映画」に多作されていた政治的サスペンスの臭いを充満させているのである。

 

 

 

 

 

 

 

こ こからは映画を見てから!

 

 

 

 

 

 

 

本作に秘めたレッドフォードの野心
 また、逆にレッドフォードにとっても、本作出演には「それなりの意図」があったに違いない。
 先日このサイトにアップしたオール・イズ・ロスト/最後の手紙」感想文にも書いたが、近年のレッドフォードはかなり微妙な状況にあった。簡単に言うと作品的に恵まれなかったのだが、それらの大半は自らの監督作品だったので単に「ツイてなかった」とは言えない。
 それらの監督主演作はいわゆる政治的メッセージを含むものだったのだが、それらがあまりちゃんとこなれていなかった。お客さんを楽しませる前に性急に主張をぶつけるような、半ナマみたいな出来上がりの作品ばかり。しかも若い世代に対して鬱憤を晴らすみたいな作りになっていたから、なおさら情けない出来栄えに見えてしまった。ジイサンもモウロクしたなとしか思えなかった。言いたいメッセージが立派だとしても、これでは誰も耳を貸さないのである。
 ところが前作「オール・イズ・ロスト/最後の手紙」に出演して、レッドフォードは変わった
  この作品、久々の自らの監督作以外の出演作で、それだけでも意気込みが感じられようというもの。しかも全編レッドフォードただ一人しか出てこないし、セリ フもほとんどないという野心作。本来、レッドフォードほどの大物スターが、こんな冒険をすること自体異例だ。だがこの作品、実に素晴らしい出来栄えだった のである。
 作品は功成り名を遂げて、名実ともに「立派」な男である主人公が、ヨットで遭難してサバイバルする話。主人公は余裕綽々でサバイバル を始めるのだが、徐々に事態は悪化。最後にはまったく余裕もなくなって、初めて彼自身の中にあった傲慢さに気づく…というもの。どうしたってレッドフォー ド自身を彷彿とさせる内容で、この役をよく演じたな…とビックリさせられる内容だった。
 この出演によって、レッドフォード自身にも何らかの変化が起きたのではないか。
  そもそもレッドフォードが「自分のための企画」「自分が主役の企画」以外の映画に出て客演するということ自体が、以前では考えられない。しかもマーベルの アメコミ映画、SFXが主体の映画だ。レッドフォード自身は「SFXを使った映画に出演したかった」と今回の出演の動機を語っていたが、それはどう考えて も本音ではあるまい。レッドフォードの出演場面は、本作の中では大したSFXを使っていない場面だ。本当にSFXの現場を知りたかったのなら、本作に出演 するはずがない。
 そもそもアメコミ映画など、従来なら「幼稚でガキ臭い」と一顧だにしなかったのではないか。どうして本作に限って出演を決めたのか。
 それは、本作の趣旨に賛同したからではないか。
  テロ防止の名の下に国民への監視が公然と行われていく。それに対して、これといった異議も唱えられなくなってきている。かねてより政治にも深い関心がある レッドフォードとしては、当然これらに対しても何か言いたかったはずだ。しかし近年の政治メッセージ映画は、いずれも不発。言いたい気持ちだけが空回りし て、若い世代へのお説教にしかなっていなかった。
 すべてを持っていてあまりにパワフル、しかも伝説的な存在のレッドフォードが一方的にメッセージをぶつけてくると、それは「長老」からの叱責にしか見えない。レッドフォードはその「傲慢さ」に気づいたのではないだろうか。
 だからそれまでレッドフォードが叱って来たような、「若い世代」が見るようなアメコミ映画に あえて出る。あくまで自分が主役な映画では、こういう企画はあり得ない。全編一人で出ずっぱりの前作「オール・イズ・ロスト/最後の手紙」とは極北に位置 するような作品に見えて、おそらくその出演意図には共通するものがあったはずだ。今回の出演は、これはこれでレッドフォードにとって野心的な試みなのであ る。
 しかもお説教にさせないために、彼は脇に回って作品を支える。それどころか…何とそのキャリアで初の「悪役」を演じるのだ!
 これを野心的と言わず何が野心的か。レッドフォードは気づいたのだ。今や若い世代にとって、自分こそが高圧的で傲慢な「敵」なのだと。「オール・イズ・ロスト/最後の手紙」で学んだことは、まさにそこだった。
 同じハリウッドのトップスターでも、トム・クルーズなら悪役も演じられるだろう。否、すでに演じてきた。しかしロバート・レッドフォードは、むしろ知性的で誠実なのが売り物だった。彼が悪役を演じるとしたら、これはちょっとしたハリウッドの「事件」なのだ。
 本作の側からしても、レッドフォードが悪役を演じることで得るモノがある。
  ここでレッドフォードが演じるアレクサンダー・ピアースという男は、「悪役」ではあるが絵に描いたような「悪人」ではない。登場して間もなくのフューリー 長官とのやりとりに、それが伺えるのだ。元々は穏健派だったらしきピアースという男は、かつて自分の娘が人質にとられた時でも、最初は強行的に解決するこ とは考えずに説得を試みようとしていた。結果的にはその命令を無視したフューリーによる強攻策が成功。ピアースはそれまでの考えを変えた…と語られる。「生温いことではダメだ」と、一度思い知らされた男なのだ。それが誠実だったピアースを、闇の側へと押しやってしまう…。これはどんなに誠実で知的な人でも、誤った選択をしてしまうという「例え」にもなっているではないか。
 そもそもピアースという男は、外見からして知的で誠実な人物に見える。まぁ、ロバート・レッドフォードがやっているのだから当然だ(笑)。
 そして現代の「巨悪」というものは、実は一見、誠実そうに見えるからこそコワイのではないか?
 国家が安全の名の下に企む陰謀は、おそらく一般の国民には無害に見えるように進行していくはずだ。それどころか、その「意図」や「出発点」はいいことずくめに見えることばかりかもしれない。だからこそ恐ろしいのだとこの映画は言っている。その怖さを体現するかたちで、ロバート・レッドフォードが起用されているのである。これはなかなかスゴいキャスティングではないか。
 レッドフォードもその期待に応えて、誠実でにこやかだからこそドス黒い「怖さ」を見せてくれる。ウィンターソルジャーと一緒にいるところを家政婦に見られて、「やれやれ」という顔をしながら一発で殺してしまうあたりの凄みなどなかなかのものだ。これはこれで、役者としてのレッドフォードの新生面ではないか。
 単純に娯楽映画としても、キャプテン・アメリカのアクションが基本的に肉弾戦として描かれていたり、それこそ1970年代の香りがするカーアクションが展開していたり…と、この手の映画にしては異例なほどアナログな雰囲気を漂わせて嬉しくなる。どこまでも娯楽映画というものを分かっているのだ。
 今回の監督にあたったテレビ出身のアンソニー&ジョー・ルッソ兄弟、なかなかやるではないか。ちょっと感心してしまった。
 そしてキャプテン・アメリカの現代における活かし方といい、1970年代アメリカ映画のムードの導入といい…こんな単純娯楽映画でありながら、ちゃんと目的と表現に必然性があって一致しているところが素晴らしいのである。

おまけ:ジェニー・アガター大活躍
 そんなわけで1970年代ムードが充満する本作。実はもう一人、1970年代映画ファンには嬉しい人物が参加していた。
 その名はジェニー・アガター
 元々は「美しき冒険旅行」(1971)で注目を浴びた子役上がり。しばらくその姿を見ないと思っていたら、何とハリウッドからSF映画「2300年未来への旅」(1976)でスクリーン復帰。その後、ジョン・スタージェス監督の戦争映画「鷲は舞いおりた」(1976)、シドニー・ルメット「エクウス」(1977)、さらにジョン・ランディス「狼男アメリカン」(1981)と立て続けに出演していった。
 とにかく目が大きくて涼しげ。ツンと上を向いた鼻もご愛敬。おまけに清純派なのに脱ぎっぷりもいい(笑)。この当時、やはりハリウッドで狂い咲きしたジュヌビエーブ・ビュジョルドとどこか共通する「チンクシャ顔」で、何とも可愛らしかった印象がある。
 ただ、残念ながらこれといった決定打がなく、いつの間にか出演作も来なくなった。久しぶりに見たやわらかい手(2007)では老けたオバチャンになっていて、ガッカリした覚えがある。
 ところが本作では、結構いいところを見せて活躍してくれるのである。
  彼女の役柄は、レッドフォードとネット会議をしている議員たちの一人。最初に画面に出てきた時にはチラッとだけだし、ホログラム映像みたいな処理をされて いたので「アレッ?」と思ったがしかと確認できなかった。ところが本当の活躍は映画の後半、実際に「S.H.I.E.L.D.」本部にやって来てピアース たちに人質にとられてしまう彼女は、突然「S.H.I.E.L.D.」隊員たち相手に大暴れを繰り広げるのだ。実はすべてはスカーレット・ヨハンソンのブラックウィドウによる変装でした…というオチはつくものの、バッタバッタと敵をなぎ倒す胸のすく活躍を見せてくれるのである。アガターのアクションなんて初めて見たから、ムチャクチャに嬉しくなった。
 レッドフォード起用が最大の見どころである本作。しかし、このジェニー・アガターの活躍にもちょっと注目していただければ…と、オールド・ファンとしては一言いいたくなるのである。

 

 

 

 

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