「エージェント:ライアン」

  Jack Ryan : Shadow Recruit

 (2014/05/19)


 
見 る前の予想
 ジャック・ライアンもの…というと、トム・クランシーの小説の映画化でかつて何作か制作されたのを覚えている。
 まぁ、簡単に言えばスパイものなのだが、主人公のジャック・ライアンは戦うヒーローでなくて学究肌の事務方という感じ。最初の「レッド・オクトーバーを追え!」(1990)ではアレック・ボールドウィンが演じていたが、次の「パトリオット・ゲーム」(1992)、「今そこにある危機」(1994)ではハリソン・フォードが連続主演。これでジャック・ライアンものは「決まり」なのかと思いきや、何となくシリーズは一旦打ち止めみたいなムードになった。
 では、これでオシマイかと思いきや、いきなり忽然とトータル・フィアーズ(2002)で復活。その時にはベン・アフレックがライアン役で登場。流行の「ビギニング」もので、ジャック・ライアンの「若き日」を演じるという趣向だった。
 では、それらのジャック・ライアンものが面白かったのか?
  見た時はそれなりに楽しんだと思うのだが、作品としての記憶はほとんど残っていない。最後の「トータル・フィアーズ」だけは米本土核攻撃という思い切った 内容になっているので好印象が残っているが、それ以外は「よくあるCIAもの」みたいな印象しかなかった。ズバリ言って特に好きな映画ではない…と言えば、お分かりいただけるだろうか。
 そんなシリーズが、さらに10年以上経過してまたまた復活するとは。
 今度のライアン役は、スター・トレック(2009)でカーク船長の「若き日」を演じていて「ビギニング」ものはお手の物のクリス・パイン。つまり、今回もまたまた「ビギニング」ものである。
 あれれ?…「トータル・フィアーズ」がすでに「ビギニング」じゃなかっただろうか? アレよりもっと「ビギニング」なのか?
 そして今回注目は…そのライアン役パインを囲んで、キーラ・ナイトレイ、ケビン・コスナー、さらには珍しやケネス・ブラナーといった重量級のキャスティングが組まれていること。特にブラナーが昔から好きな僕としては、ここは見ずにはいられないところだ。
 そんなわけで、僕は公開が終わる寸前に慌てて劇場に滑り込んだ。感想文がこんなに遅れたことについては、何とぞご勘弁いただきたい。

あら すじ

 2011年9月11日、ロンドン。大学の経済学部のキャンパスで、ベンチで居眠りこいてる若者がいた。
 彼の名はジャック・ライアン(クリス・パイン)。そんな彼が、周囲の騒然とした雰囲気に目が覚めてしまう。一体何が起きたのか? 大学校内のテレビの周囲には、大勢の学生が群がっていた。そのテレビを見たライアンは、思わず我が目を疑う。それは、母国のニューヨーク、ワールド・トレード・センターのビルがテロ攻撃を受けている映像だった。これが後年、ライアンに強烈な影響を与えることになる。
 2003年、ライアンは軍に参加してアフガニスタンにいた。同僚兵士たちとヘリに乗り、他愛のない会話。だがライアンは、せっかくの自分の知識や情報が上官たちに活かしてもらえないことを残念がっていた。ところがいきなりヘリが爆発! 敵の攻撃でヘリが撃墜されたのだ。ライアンは瀕死の重傷を受けながら、同僚兵士たちを救出して自ら脱出していた。
 しかしかなりの深傷で歩けなくなる危険が迫っていたライアンは、アメリカ本土の国防省医療センターへ。ここで治療を受けているライアンは、キャシー(キーラ・ナイトレイ)という女医の指導により苦しいリハビリを繰り返していた。
 あまりのつらさに投げ出したくなるライアンだったが、女医と言ってもまだ医大生のキャシーの魅力で何とかもっていたようなもの。そして義足を付けている復員軍人の姿を見ると、ライアンもさすがに投げた態度はとっていられなかった。
 ところが、こうしてキャシーの励ましによってリハビリを続けるライアンの姿を、上のフロアからじっと見つめている男がいた。その男の名はトーマス・ハーパー海軍中佐(ケビン・コスナー)。
 それから間もなく、ハーパーは軍服に身を固めてライアンの前に姿を現した。実はライアンも、ハーパーが自分を観察していることを知っていた。そんなハーパーは、ライアンの過去の論文やアフガニスタンで上官に却下された情報など、どこで知ったのかアレコレと言及し始める。
 彼はCIAだったのだ…。
 やがてキャシーは「ライアンが歩けるようになったらデートしよう」という約束を残して、その施設を去った。
 そんなこんなで、ついにはジョギングできるまでに回復したライアン。そこに再びあのハーパーが現れた。そしてハーパーは、なぜかライアンに「大学に復学して、経済学の博士号をとって欲しい」と頼む。
 オモテ向きはウォール街で証券アナリストとして働き、世界経済の怪しいカネの流れを察知してCIAに知らせる仕事をして欲しいというのが、ハーパーの依頼だったのだ…。
 それから10年。ニューヨーク、ウォール街に優雅な自転車通勤をするライアンの姿があった。彼は仮の職場である投資銀行に出勤。普通に働いている傍ら、世界の経済活動を秘かに監視していた。
 そんな時、ロシアのチェレヴィン・グループという企業の口座に怪しい動きを察知するライアン。
 早速、CIAの連絡員と映画館で接触するライアンだが、連絡員はライアンに「ハーパーは君にロシアへ行ってもらいたいと思っている」と告げる。自分は単なる分析官でしかないと思っているライアンは、このメッセージに困惑を覚えるのだった。
 そんなこんなで自分のアパートに戻ってくるライアン。アパートでは同棲中のキャシーが待っていた。ところが彼女はライアンの上着のポケットに映画館の半券を発見。映画を見に行ったなんて話は聞いてない。思わず浮気を疑わずにはいられないキャシー。
  さて、その頃…ここはロシア、モスクワ。例のチェレヴィン・グループの総帥であるヴィクトル・チェレヴィン(ケネス・ブラナー)が、医師を呼んで注射を 打ってもらうところ。しかし鼻息荒いチェレヴィンの様子にビビったか、医師は注射に失敗。荒れ狂うチェレヴィンは医師をタコ殴りにした。そこに狙い定めた かのように、一本の電話がかかって来る。
 深い森の中に出向いたチェレヴィンは、やって来た黒塗りのクルマと落ち合う。クルマに乗っているのは、ロシアの内務大臣ソローキン(ミハイル・バリシニコフ)だ。二人は何やら極秘の計画を話し合っていたが、ソローキンはチェレヴィンに、「何があっても政府は関知していない」と念を押して去っていった…。
 一方、ニューヨークではライアンが上司にモスクワ出張を申し出る。ところがモスクワ出張と聞いて、キャシーが自分も行きたいと騒ぎ出す。結局、ライアンが何だかんだと押し切られ、パリで落ち合う算段となった。
 こうして一路モスクワへと飛んだライアン。空港に出迎えたのは、チェレビンのボディガード(ノンソー・アノジー)。クルマでホテルまで送ってもらうが、ボディガードは念のため部屋まで同行すると言う。
 ところが部屋に入ると、窓ガラスに銃を構えたボディガードの姿が映るではないか。
 こいつ、オレを殺る気だ…!

見た後での感想

 元々それまでのジャック・ライアンものに多くを期待してなかった僕は、アクション映画ならどこかの職人監督がやるんだろう…と、本作の監督が 誰かということにも関心を抱いていなかった。だからウカツなことに監督が誰だかノーチェックで、映画を見る直前に劇場パンフレットを買って驚いた。
 何と今回悪役として出演しているケネス・ブラナーその人が、監督も行っているではないか。
 クリス・パインを囲む出演者に、ケビン・コスナー、キーラ・ナイトレイ、ケネス・ブラナーという実力派俳優たちが揃っていることも興味深かったが、そのうちブラナーが監督も兼ねているとは正直驚いた。
 なぜならブラナーはかつて「ローレンス・オリビエの再来」として売り出した人だし、映画監督としてもシェイクスピア劇の映画化で知られているからだ。
 それが、どういう風の吹き回しか純粋ハリウッド娯楽映画。それもスパイ映画、おまけにジャック・ライアンものとは。一体どんな心境の変化なのだ?
 ローレンス・オリビエやシェイクスピアはどこいった?

シェイクスピアとハリウッドを愛するケネス・ブラナー

 僕がケネス・ブラナーをスクリーンで見たのは、実は彼のスクリーン・デビューからということになる。
 ジャクリーン・ビセット主演のちょっとエロい映画「ハイシーズン」(1987)という作品だ。確かベルナルド・ベルトルッチの当時の嫁さんクレア・ペプローが監督した作品だったと思うが、内容はほとんど記憶にない。当然のことながら、ブラナーなんて存在も気に留めなかった。ただ本国の演劇界では、おそらくすでにシェイクスピア役者としてその名は轟いていたのだろう。次に見たのはパット・オコナー監督の「ひと月の夏」(1987)で、これはそれなりに大きな役だったんだろうと思うが、主役のコリン・ファースしか記憶にない。
 ケネス・ブラナーが初めて映画で注目を集めたのは、監督・脚本・主演を務めた「ヘンリー五世」(1989)でのこと。つまり、本人のホームグラウンドであるシェイクスピアの映画化によって…である。
 オリビエの再来とうたわれた若き天才の初のシェイクスピア映画は、ハリウッドでも大評判。 確かオスカーでもいくつか候補に挙がっていたように思う。ただ、僕はこの作品をリアルタイムでスクリーンで見ていない。オリビエの再来によるシェイクスピ ア映画って聞いただけで、「神棚に上がっちゃってる映画」という印象が強かった。だから僕にとってケネス・ブラナーも「ミニシアター」「アートシアター」 の人というふうに思えたわけだ。
 ところがしばらくして、ハリウッド・メジャー系の作品として気になる作品が上陸した。輪廻転生とヒッチコックの「めまい」が合体したようなサスペンス映画「愛と死の間で」(1991)。それだけ聞けば、ごくありふれたハリウッド娯楽映画としか思えない。問題はその作品、例のケネス・ブラナーが監督主演しているという点だ。
 おそらくは「ヘンリー五世」の成功によって、ハリウッドから招かれたということなのであろう。それはよく分かるのだが、なぜそんな人がこんな純粋娯楽映画を作ることになったのか。もっと史劇とか舞台劇の映画化とか、こういう人にふさわしい題材があるではないか。周囲をアンディ・ガルシアとかロビン・ウィリアムズ、ドイツのハンナ・シグラなどと盤石の布陣で固めているから、なおさら不思議な気がする。正直、娯楽映画としてあまり面白かったとは思えないが、ブラナーのハリウッド・デビューがヒッチコック・スタイルの作品だったということが、僕の脳裏に強烈な印象を残したのである。
 だがその後で、僕がブラナーに強烈なシンパシーを感じる作品が登場する。またまたシェイクスピアの映画化「から騒ぎ」(1993)だ。
 ただし今回の作品、シェイクスピアの映画化とは言っても、「ヘンリー五世」とは大違い。毎度お馴染み当時の嫁さんエマ・トンプソンはともかく、この頃は売り出し中の若手だったロバート・ショーン・レナードキアヌ・リーブス、「バットマン」(1989)でメジャー化した直後のマイケル・キートン、さらにデンゼル・ワシントンという強力なキャスト(ついでに言うと、まだ有名になる前のケイト・ベッキンセールも出演していた)。というか、完全にシェイクスピア映画をハリウッド映画として作る気マンマンな発想だったのだ。
 オープニングはエマ・トンプソンによる詩の朗読。その朗読しているフレーズがそのまま文字として漆黒のスクリーンにレイアウトされていく感じは、この「から騒ぎ」のほんのちょっと前に公開されたスパイク・リーの恋愛映画「ジャングル・フィーバー」(1991)で、オープニングのスティービー・ワンダーの歌の歌詞がスクリーンに文字として置かれる趣向と酷似している。さらに馬に乗ってデンゼル・ワシントン、ケネス・ブラナー、キアヌ・リーブスらが彼方からやってくるショットは、まるで「荒野の七人」(1960)などの西部劇映画を彷彿とさせる。万事がそんな調子で、出来る限りシェイクスピア原作のカビ臭さを落として敷居を低くし、現代の娯楽映画として見せようと工夫をこらしているあたりが素晴らしかった。僕もこの時点で、ケネス・ブラナーがすっかり気に入ったのだった。
 次いで日本に上陸した「ピーターズ・フレンズ」(1992)は、公開順が逆で「から騒ぎ」に先立つ作品。これが当時いくつか公開されていた「旧友の再会もの」だったのも嬉しかった。明らかに、ローレンス・カスダン「再会の時」(1983)、ジョン・セイルズ「セコーカス・セブン」(1980)を意識した作品なのである。
 ここから、僕はブラナーに夢中になった。
 ブラナーもまた、ハリウッドを意識しまくった活動を続けた。ロバート・デニーロを迎え、自ら監督・主演で作った「フランケンシュタイン」(1994)、ローレンス・フィッシュバーンと共演で出演者に徹したシェイクスピア劇「オセロ」(1995)、何とビリー・クリスタル、ジャック・レモン、チャールトン・ヘストン、ロビン・ウィリアムズなどのキラ星のごときスターを並べての監督・主演作ハムレット(1996)、ロバート・ダウニー・ジュニアダリル・ハンナらと共にロバート・アルトマンに呼ばれて撮ったジョン・グリシャム原作の法廷サスペンス「相続人」(1997)、そしてウディ・アレン風の男をウディ・アレンに起用されて演じたセレブリティ(1998)、「メン・イン・ブラック」同様のノリの西部劇コメディでイカれた悪役を演じた「ワイルド・ワイルド・ウエスト」(1999)、やはりシェイクスピア劇をバスビー・バークレー風演出も盛り込んだミュージカル映画に仕立てた監督・主演作恋の骨折り損(1999)まで、いかにもこの人「らしい」快進撃ぶりだった。
 特にブラナーが作るシェイクスピア映画には、一体どうやってこういう題材を今風に作るつもりなのか?…と毎回ワクワクさせられた。思いっきり娯楽商業映画のスタイルに振り切りながら、実は「神棚に持ち上げられすぎたシェイクスピアをどうやったら一般のお客に楽しんでもらえるのか」と いう課題に真摯に取り組んだ、最高に野心的な試みになっているから好きだったのだ。もっともらしいアート映画なら、正直言って高校の映研にいるガキでも デッチ上げられる。放っておいてもどこかの映画サロンの利口ヅラしたい連中が勝手に持ち上げてくれる。みんなが見たい映画に作るということの方が、ずっと 難しいのである。これが分かっていないバカな映画ファンがあまりに多いからイヤになるが、大衆的な娯楽映画をキッチリ作るのは本当に難しいことなのだ。

壁に当たったブラナーの方法論

 ところがそんな彼の活動も、この「恋の骨折り損」で何となく一段落ついちゃった感じになる。
 ハリー・ポッターと秘密の部屋(2002)での客演やらトム・クルーズ映画でナチスの軍服に身を包んだワルキューレ(2008)など、彼らしい仕事もポツリポツリと点在してはいるが、それよりこの時期のブラナーの映画出演といえば「悪役」裸足の1500マイル(2002)、パイレーツ・ロック(2009)など、「それ」専門のイメージすらあった。
 彼の真骨頂であるはずのシェイクスピア映画も、21世紀に入ってからは「開店休業」。首を長くして待ち望んだ久々の監督作「魔笛」(2006)は、モーツァルトのオペラを第一次大戦下のヨーロッパに舞台を移した映画化。映画ファンもマスコミも大絶賛。
 正直言って、僕は見に行かなかった。失望した。
  それは確かに映画ファンもマスコミもホメるだろう。公開しているのも、「良質な作品」を上映することで知られたミニシアターだ。「立派な映画」なのであ る。見ていると頭が良くなりそうな映画なのである。少なくとも、これを見に行っている自分は「立派で教養がある人物」だと思えるような映画。つまりは「敷居の高い映画」なのだ。
 オマエ、そんな映画を作る男じゃなかったんじゃないの?
 神棚に上がっているモノを、「そんな大したもんじゃないんだよ」って僕らの目の前に差し出してくれるのが、ケネス・ブラナーって男じゃなかったのかよ。
 ミニシアターとかカンベンしてくれ。オマエまで利口ヅラするバカどもの仲間入りかよ。本当に本当に、本当に心底失望してしまった。ガッカリだ。
 ただ、こうした彼の「心境の変化」も、何となく理解できないわけじゃなかった。それは彼の現時点での最後のシェイクスピア映画「恋の骨折り損」に秘密があるような気がする。
  この作品、唯一僕がこのサイトを立ち上げた後で公開されたブラナーのシェイクスピア映画だ。だから僕も張り切って感想文を書いた。その張り切りようは、読 んでいただければ分かる。しかしそれと同時に、映画を見て感想文を書いている僕の、いささかの当惑ぶりも、そこにはハッキリ出ているような気がする。
 ぶっちゃけ言うと、「恋の骨折り損」は「傑作」ではなかった
  頑張っているし、楽しい映画にしようしなければと努力している。ある程度それが成功している部分もないわけではない。しかしイイ娯楽映画特有の、文句な し、スコ〜ンと抜けた楽しさ面白さは、残念ながらなかったと言わざるを得ないのだ。むしろ、途中ところどころで露呈する、すきま風のような寒々とした箇所の方が目立ってしまった。
 おそらくケネス・ブラナーは、ショックだったのではないだろうか。
 ケネス・ブラナーはたぶんハリウッド映画が好きだったろうし、それと同時にシェイクスピアも好きだったんだろう。それらがどうして結びつかないのかと考えて、何とかしたいと頑張って来たのだと思う。しかし、それにも限界があった。頭でこさえた「楽しさ」は、本来それを持っている人には敵わない。ブラナーはそこに気づいてしまったのではないだろうか。
 これは考えすぎかもしれないが、この時期のブラナー出演作に「悪役」や「愚か者」の役が多かったのは、何となくそんな自分に対する「罰」のようにも見えるのだった。英国演劇界の若きプリンス、オリビエ二世としてエスタブリッシュに取り込まれた自分を、鬱陶しい存在と思っていたのかもしれない。演じていた「悪役」は、明らかに体制側に属する人間ばかりだったのである。
 第一次大戦下に舞台を移したくらいで、基本的には敷居の高さを変えられたとは思えない「魔笛」映画化も、そういう諦めの産物ではなかっただろうか。
 また、プライベートのことには我々は立ち入れないのでここで言及すべきかためらったが、良き共演者でもあった愛妻エマ・トンプソンと1995年10月に離婚したことも、このあたりの彼のキャリアに暗い影を投げかけている気がする。実はエマ・トンプソンは、1993年3月の第65回アカデミー賞授賞式で主演女優賞を獲得。さらに離婚後の1996年の第68回アカデミー賞でも、「いつか晴れた日に」(1995)で脚本賞ま でとっている。それに対してケネス・ブラナーは、何度かのノミネートがあるだけで受賞はゼロだ。こう言っては何だが、ブラナーはそれまで妻トンプソンに対 して、いくらかは「自分は格上」との自負があったのではないか。「そんな気はなかった」かもしれないが、それも自分が「上」で余裕があるうちだけだったか もしれない。ハリウッド好きなら切望しているであろうアカデミー賞で、(現在であれ過去であれ)妻に役者としても作り手としても水をあけられる自分を、「若き天才児」であったブラナーは果たしてどう感じていたであろうか。そんなこと気にしてなどいないように見えて、実は結構ダメージを受けていたのではないだろうか。

「オリビエ」にヒントを求めた?ブラナー

 そしてこの時期、実はもうひとつ興味深い「ケネス・ブラナー作品」が公開されている。それはスルース(2007)だ。
 この作品、かつてローレンス・オリビエマイケル・ケインの主演で映画化された心理サスペンスの傑作「探偵/スルース」(1972)のリメイク作品。オリジナル版ではオリビエが演じた推理作家役に今度は「大御所」となったケインが扮し、かつてケインが演じた若手俳優役にジュード・ロウが扮する…という「配役の妙」で話題になった。その監督に、ブラナーが出演はナシであたることになったわけだ。
  元々が戯曲の映画化だけに、本来が舞台人であるブラナーが演出してもまったくおかしくはない。そういう意味では「らしい」と言えば「らしい」映画のはずな のだが、それまでのブラナーの監督としてのフィルモグラフィーからすると、実はちょっと違和感が残る題材。シェイクスピアもなければハリウッドの臭いもし ない。一体なぜブラナーは、この作品の演出を引き受けたのか?
 そのヒントとなるのが、「オリビエ」というキーワードである。
 前々から何度も言及しているがごとく、ブラナーはその初期の活躍の時期から、盛んに「ローレンス・オリビエの再来」と モテはやされた。それはシェイクスピア劇がホームグラウンドであったこともそうだが、華やかなスター性や才気煥発なあたりもオリビエを連想させたからだろ う。ただ、それはあくまで単なるキャッチフレーズみたいなもの。本人も「第2のオリビエ」なんて言われて嬉しいわけもないだろう。このクラスの人なら、オレは「第1のケネス・ブラナー」だ…ぐらいの気持ちとプライドは持っているはずなのである。
 そんなブラナーが、かつての出演作のリメイクとはいえ、シェイクスピア劇でもないのに「オリビエ」とあえて接点を持とうとするとは…。僕はそのあたりの因縁を面白く感じながら、何となく不思議な気持ちにもなっていたのだ。
 ところがブラナーは、その後またまた「オリビエ」に急接近を試みる
 それはマリリン・モンローの「王子と踊子」出演秘話を映画化したマリリン7日間の恋(2011)への出演だ。何とここでのブラナーは、ローレンス・オリビエその人を演じているのである。
  シェイクスピア劇から叩き上げて映画に進出、颯爽とハリウッドに殴り込もうという名優中の名優オリビエと、いかにもハリウッドらしいセクシー女優モン ロー。オリビエの企画・演出・共演というかたちでロンドンで制作される映画に、単身ハリウッドから参加することになったモンロー。オリビエに懇願されての 出演とはいえ、いわば敵地に乗り込むかたちである。モンローは女優としての実力を評価されたいと願っての出演だが、そこはそれ、残念ながらそんな地力には 乏しい。片や彼女を迎えるイギリス映画演劇人たちは、ガチガチの演劇スキルで固まっている人々ばかりだ。ちょうど私生活が暗礁に乗り上げつつあったタイミ ングの悪さもあって、モンローは精神的に追い詰められていく。オリビエはそんなモンローの無茶苦茶ぶりに、大いに苛立たされることになるのだ。
  コンディションの悪さと緊張、メンタルの弱さもあって、NGを連発するモンロー。いつもキッチリとテイクをこなすオリビエは、監督も兼任だけに苦虫をかみ つぶす思い。現場も崩壊一歩手前みたいな状況だ。しかしラッシュ試写を見つめるオリビエの表情は、そんな撮影現場での苛立ちから一変した。
 何だかんだ言って「映画スター」としてのモンローは、オリビエの一枚も二枚も上をいくオーラを持っていたのである。
  演技メソッドだのスキルだのという、理屈もクソもへったくれもない。そんなことを要求されたこともやってきたこともなかった、セクシーなハリウッドスター のマリリン・モンロー。しかしフィルムに焼き付けられスクリーンに映し出された彼女は、明らかにオリビエのアクティングを凌駕していた。問答無用の銀幕上 の魅力という点では、オリビエは彼女の敵ではないのである。その現実を目の当たりにして、オリビエはただ愕然となるばかり…。
 実際にこの時期の オリビエが映画に野心を燃やし、ハリウッド・スターを目指していたかどうかは定かではない。しかし自らのプロダクションを興して、ハリウッドからモンロー を呼んでまでの映画制作には、少なからずそうしたスケベ根性もあっただろう。ところがその後もオリビエはハリウッド映画に出てはいたものの、自らがハリ ウッドにドップリ浸かっての映画づくりはしなかったような気がする。それは、この時の経験が少なからず影響していたからではないだろうか。
 オリビエは自らの限界を悟ったのではないか?
 そしてケネス・ブラナーもまた、「オリビエ」を通じてそんな彼の状況を追体験していたような観があった。それまでは「オリビエの再来」などと言われても、大して真に受けることもなかったかもしれない。しかし、それまでの彼の試みが壁にブチ当たった時、「先人」はどうだったのだろう?…と「オリビエ」にそのヒントを探し求めたということは、大いにあり得るのではないか。僕はブラナーのこの映画への出演は、非常に象徴的な意味を持っていたような気がしている。
 それが証拠に、映画人としてのブラナーはこれと前後して、再びアクティブな活動を再開する。マイティ・ソー(2011)の演出である。
  もちろんブラナーは、今までも自作にハリウッドへの憧れを焼き付けてきた。「ヘンリー五世」で成功してハリウッドに招かれると、早速ヒッチコック風サスペ ンス映画を撮った。自らのシェイクスピア映画で、さまざまなハリウッド娯楽映画の残像をチラつかせた。だからハリウッドのメジャー映画で、娯楽大作を撮っ たっておかしくはないだろう。
 いやぁ、それにしたってマーベルのアメコミ・ヒーロー映画の演出とは!
 僕も昨今のアメコミ映画の氾濫にはウンザリしていて、マーベル映画も事あるごとにケナしてやろうと叩く気マンマンだ。しかしマーベルの映画は、しゃくなことにどれもこれも企画がうまいのである。特に「マイティ・ソー」とブラナーの取り合わせには、正直驚いた。
  もっともソーの世界は、父と子、兄と弟の葛藤がドロドロしている王家の物語だから、実はシェイクスピア劇とそう遠くはないところに位置している。だから、 それを元々ハリウッド映画大好きのブラナーが手がけても、ピッタリ来こそすれ違和感などあるわけがない。これは企画したヤツがセンスいいと言わざるを得な い。イギリス出身アンソニー・ホプキンスの重厚さも相まって、実に「らしい」出来映えになっているのだ。
 そして後の半分はマーベルらしいCGと特撮の世界だが、その「いかにもハリウッド大作」的な世界もキッチリ撮っていて、ブラナーなんて知らない一般観客にも違和感を感じさせない出来栄えになっていた。やるとは思っていたが、ブラナーここまでやれるとは
 それに続いての本作の監督・出演…しばらく鳴りを潜めていたブラナーの「再始動」をファンに期待させてくれるではないか。


あえて「引く」ことの大切さ

 というわけで、見る前は正直特にこれといった期待もなしに劇場に入った僕だったが、ブラナーが監督も務めると知って興味津々。俄然前のめりで見ることになった本作。結果から申し上げよう。
 面白い!
 今までのジャック・ライアンものについては、前述したように正直言って「トータル・フィアーズ」以外はどれもこれもあまり面白いとは思わなかった。特にハリソン・フォードの出た2作については、何だかスパイ映画がサラリーマンものになっちゃったような印象が強い。ハリソン・フォードという役者のつまらなさが、そのまま作品に反映しちゃった感じ。退屈はしないんだけど、別に好きな映画じゃないというのが正直なところだったわけだ。
 しかし本作は、娯楽大作としてイキイキしている。
 クリス・パインは「スタトレ」でカーク船長を演じている時とあんまり変わりない感じ(笑)でヤンチャぶりを発揮しているが、これは想定内。この人はこういう愛嬌が取り柄だから、これはこれでいいのである。少なくとも、仏頂面のサラリーマン然としたハリソン・フォードよりは全然いい。
 そして久々に見た観がするキーラ・ナイトレイだが、まだ若い割に過剰に持ち上げられて「大女優」みたいな扱いになっちゃってた彼女が、ちゃんと年相応に「小娘」感満載で出てきたのも嬉しかった。
 ケビン・コスナーも、最近出てくると「過去の人」的な扱いでショボくれて枯れちゃった印象が強かったのだが、こちらも「年相応」の重量感を持たせてもらって、久しぶりに「良い役」をもらった感じ。近年どうしても不遇な感じがしていたから、彼の扱いがいいのに嬉しくなった。
 このように、主演者たちはみないつも以上にイキイキと使ってもらっている印象がある。これはやっぱりブラナーの役者としての資質がプラスに働いているのではないだろうか。役者だから役者の気持ちが分かる、役者の活かしどころが分かるのだ。
 そして過去のシェイクスピア映画化でもそうだったように、既成概念で固まりがちなところを、うまく解きほぐしてイキイキさせるのがうまいのかもしれない。だから若くしてステレオタイプ化しそうになっていたナイトレイが、久々に瑞々しくて可愛く撮れていた。ジジイ扱いだったコスナーが、頼りがいのある渋い男に生まれ変わっていた。これはさすがの演出ではないだろうか。
 もっと驚いたのはアクション・サスペンスの演出で、近年の「ボーンなんとか」あたりの作品の影響でやたらスピードアップしているハリウッド・アクションにも対応。アクションだけでなく、物語の進行ぶりまでがスピーディーなのだ。イマドキのアクション映画のリズムに、ちゃんと自分を合わせているのである。これは正直ビックリした。
  おそらくCGなどを駆使した「マイティ・ソー」を思う存分撮らせてもらって、ブラナーは「オレでもやれる!」という自信を久しぶりに掴んだのではないだろ うか。とても、どこからか連れて来られてハリウッド映画を撮らされている感じではない。近年のハリウッド娯楽映画の流れを、完全に掴んで撮っている感じな のだ。やってくれるではないか。
 正直言って、現在のロシアがアメリカ転覆のためにこんなことをやるのかいな…という点では、ちょっと違和感がな いわけではない。最近のクリミアでの動きなどを見たとしても、物語の設定にはいささかズレてる感じが拭えないでもない。しかしサスペンス・アクション映画 としてはなかなかの出来栄えだと思うし、何より主演者を活かしきった演出手腕は大したものだと言わざるを得ない。
 ついでに言えば、ブラナー本人が演じている悪役もボリュームたっぷりで見応えがある。それも近年、彼が演じていた「体制べったり」悪役みたいな元気のなさは微塵もない。ある意味で人間的魅力やパワーさえ感じさせる、余裕綽々の悪役ぶりなのだ。何だか本人の演技もイキイキしているではないか。
 やはりブラナーは、例の「オリビエ」体験から何かを掴んだのではないか?
 それが何か?…は、しかとは分からない。しかし、これだけは分かる。自分はアンサンブル演技の後方に下がってみんなを活かしながら、結果的に自分もキラリと光らせる方法を見い出したとは言えないか。
  演出にしても自分の「思い」をにじませながら、それらは一旦引っ込めて作品そのものの持ち味を活かして作ることに専念している。「マイティ・ソー」をあく までマーベルらしく、アメコミ大作らしく撮った経験が生きている。やはり今回の「エージェント:ライアン」の演出起用は、「マイティ・ソー」を通過したか らこそ実現したものなのだろう。
 復活したケネス・ブラナーは、あえて「引く」ことの大切さを身につけたように思えるのである。


 

 

 

 

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