「ダラス・バイヤーズクラブ」

  Dallas Buyers Club

 (2014/04/28)


 
見る前の予想
 この映画に主演したマシュー・マコノヒーが今年のアカデミー主演男優賞の大本命とされていて、実際にも受賞した作品。
 まぁ、世間的にはこの一言ですべては言い尽くしたような気もするが、アカデミー賞云々がなくても僕としては見たくて見たくて仕方なかった。
 何しろ昨今のマシュー・マコノヒーはノッている。いつ頃からだろ う。とにかくここ2〜3年の出演作の充実ぶりったらない。演技が冴えてることもあるが、何よりスターとしての華もある。それでいて、結構危ない橋を渡るよ うな役柄や作品に出たがったりもする。まず、彼の出ている映画を見ればハズレなしだ。多くの人が今回のマコノヒーをオスカー大本命と見たのも、無理のない ところだ。
 そして、もうひとつ。この主人公がエイズを発症して、そこからドラマが始まるという点も大いに気になった。
 実は僕は今から20年ほど前に、自分の仕事上でエイズと深く関わる機会があったのだ。その時には自分なりにいろいろ調べもした。だから未だにエイズについては多少なりとも関心があるし、世間的にはすっかり下火になったようになっちゃっているけど、決して危機が過ぎ去った訳でないことも分かっている。
 映画好きとしては映画で扱われたエイズについても調べてみたことがあり、当サイトの中のコンテンツエイズと映画はそうした調べものの産物でもある。
 まぁ、そんな堅いことは抜きにしても、マシュー・マコノヒーの最新主演作として映画好きとしては絶対見たい作品なのだ。そんなわけで、僕は忙しい時間を割いて映画館に駆け込んだというわけだ。


あらすじ

 1985年、ダラス。熱気みなぎるロデオ会場の一角で、いかにも西部男丸出しのロン・ウッドルーフ(マシュー・マコノヒー)が、服を着たまま女を相手にそそくさとコトをイタしている。
 いかにもマッチョな男らしい、野卑な行い。しかしワイルドな行為にふけるワイルドな男にしては、イタしている当のロンがやたら咳き込んでいるのがどうも妙だ。そういえば、やけに頬もこけている。顔色も悪い。
 それでも仲間うちを集めては、これから始まるロデオで一勝負を持ちかける。そんな仲間たちとのやりとりの最中、ロンは映画俳優ロック・ハドソンの新聞記事に目をとめる。ハドソンは、自分がエイズ感染者であるとカミングアウトしたのだ。ハドソンにもエイズにも大した関心はないロンだったが、テキサス男としてはこう言わねば男がすたるところだろう。「何で大スターなのに、ホモになんかなるんだ」
 いよいよロンがデカく賭けた勝負が始まる。これから牛に乗ろうという知人に、ロンは大金を賭けていたのだ。「よぅし、頼むぞ。オマエならできる」
 しかしロンの激励も空しく、その知人はあっという間に振り落とされた。ヤバイと気づいたロンは、慌ててロデオ会場から逃げ出す。案の定、賭けた連中がみんなカンカンになって追いかけてきた。
 必死に逃げるロンは、友人の警官タッカー(スティーヴ・ザーン)の姿を見つけて地獄に仏。逮捕してオレを保護してくれと頼み込むが、タッカーは相手にし ない。業を煮やしたロンはタッカーを殴ったため、めでたくその場で御用となり追っ手から逃れることができた。これには友人といえどもタッカーも呆れる。
 そんなこんなで、何とかロンはわが家のトレーラーハウスに帰ってきた。やれやれと一息ついたロン。ところが彼は、なぜかそのまま意識を失って倒れる。一体、彼に何が起きているのか。
 翌朝、ロンは何もなかったように仕事に出かける。彼の本業は電気工だ。ダチで同僚のTJ(ケヴィン・ランキン)らと現場で気楽に働く日々。ところが、そ の日は不幸にも事故が起きた。作業員のひとりが足を挟まれて重傷を負っていたのだ。その作業員が不法労働者だったためみんなは救急車を呼ぶのをためらって いたが、ロンは「早く医者を呼べ!」と叫ぶと、機械を止めるべく配電盤に飛びついた。しかしロンが配電盤に触れるや否やバチッと激しく火花が散り、彼は一 瞬にして意識を失うのであった。
 気づいたら、彼は病室にいた
 元々、病院は性に合わない。その場にあった菓子でももらってトンズラをここうとした矢先、病室に医師のセヴァード(デニス・オヘア)とイヴ(ジェニ ファー・ガーナー)が入ってきた。奇妙だったのは、二人の医師がマスクで完全防備していたことだ。それでも適当に話を合わせて、サッサと病院をオサラバし ようと思っていたら…。
 「あなたはHIV陽性であるという結果が出ました」
 HIV…エイズにかかっているというのだ。それはロンにとって、どうにも承服しかねる話だった。何より、マッチョなオレはホモじゃない。それは何かの間違いだ、と激しく否定する。だが、セヴァードとイブの話はまだ序の口だった。何と二人は、ロンが「あと30日の命」と言い放つのだった。
 自分が同性愛者と言われたと思うだけでも我慢ならないのに、今度は余命30日。冗談じゃない! ロンはキレた。キレて診断書をその場にまき散らし、医師二人の制止を振り切って病院を飛び出した。
 こうして医師の警告にも関わらず、またまたダチのTJとともにヤクをキメ、酒をかっくらい、商売女と遊びまくるロン。しかし、なぜか商売女に最後の一線だけは手を出せない。今ひとつスッキリしない。
 TJには自分へのエイズ診断や余命30日先刻を「バカげてる!」と笑い飛ばすロンだったが、内心気にならないわけではなかった。 それが証拠に柄にもなく図書館にやって来て、エイズ関連の情報を漁りまくる。エイズにかかるのは同性愛者だけでなく異性愛者でもなり得る。注射でも感染す る。セックスの時にコンドームで避妊しない者には感染の可能性がある…。覚えがあるなんてもんじゃない。もう目を背けることが出来なくなったロンは、思わ ず天を仰いで叫ぶのだった。「クソーッ!」
 何とか助かる道はあるのか。
 あると言えば、ある。ちょうどAZTという薬がエイズに対する延命効果があると言われ、病院でも実験が開始され始めたのだった。ロンは病院に舞い戻り、セヴァードに面会を申し込むが不在。たまたま通りかかったイヴが話しかけてくるが、ロンは彼女を看護師だと勘違いして相手にしない。しかし、イヴは大人しく引き下がるタマではなかった。バシッとロンをたしなめると、後で部屋に話に来いと告げる。その意外なまでの鼻っ柱の強さに、ちょっと彼女を見直したロンだった。「やるね、気に入ったぜ」
 イヴと面会したロンは、一夜漬けとはいえ驚くほどのエイズ知識を披露。彼女にAZTを処方してくれと迫る。しかしこの薬はまだ認められた訳でなく、自由に処方することなんてできない。結局、なすすべもないと知るや、失望して病院を後にするロンだった。
 もう希望はないのか。
 呆然としてストリップバーで座っていたロンは、そこに見知った顔を見つけた。それは病院で掃除などをやっている用務員の顔だ。ロンは用務員に近づき、単刀直入に話す。ロンは彼にAZTの横流しを頼んだのだ。
 こうして病院の裏側で、ゴミ捨てに出てきた用務員から金と引き替えにAZTを受け取るロン。薬を手に入れたロンはせわしなく一錠二錠と口に放り込むと、それをビールで流し込むことも忘れない。ついでにヤクもキメた。全然懲りてない。
 そんなことをやっていたからだろうか、全然元気になんかならない。それでもクスリさえ飲んでりゃ平気…と例の用務員とやりとりしていたが、ある日、用務員が取引を断ってくる。病院のチェックが厳しくなってきたから、これ以上横流し出来ないというのだ。その代わりに彼はメキシコにいる医師の連絡先を メモして渡してくるが、気が短いロンは早速キレる。しかし病んだカラダの悲しさ、ブン殴ろうとして逆にスッ転んでしまったから情けない。結局また病院に収 容され、血液検査でAZT摂取がバレるというオマケつきだ。しかしロンはいくら医師たちに聞かれても、入手経路は吐かないというスジだけは一本通した。そ の一点だけは、ヤクザな男に唯一残った心意気。
 そんなロンと同じ病室になったのは、やはりエイズが発症しているオカマちゃんのレイヨン(ジャレッド・レトー)。彼というか彼女というか…レイヨンはフ レンドリーにロンに接するのだが、典型的テキサス・マッチョのロンは「寄るな触るな」とすげない態度。それでも病室での退屈さが耐え難いロンは、いつしか レイヨン相手に嫌々ポーカーを始めるのだった。
 それでも、このロンがいつまでも大人しくしているわけがない。早速、病院を無許可で抜け出すと、わが家であるトレーラーハウスに戻ってきた。ところがトレーラーハウスには、赤いペンキで「ホモ野郎」などと落書きがされているではないか。もはやここも彼が落ち着ける場所ではない。追い詰められたロンはホコリまみれのクルマに乗り込んで、一路国境を越えてメキシコへ。クスリを手に入れるため、あの用務員がくれたメモに書かれた医師の元へと向かうのだったが…。

僕とエイズとの関わりとは

 エイズについて、仕事上でいろいろ関わりを持つ機会があったということは、この感想文冒頭でも触れた通りだ。
 当時、僕はある印刷会社の企画室というところに籍を置いて、コピーライターの真似事をしていた。ここは印刷会社ではあったが、自称「代理店業も兼ねてい る印刷屋」でもあった。そんなわけでこの会社は、クライアントにいろいろな仕事の提案を行ったりしていた。客のほとんどは民間ではなくお役所で、当時の建 設省(今でいう国土交通省)がメイン。だが、それ以外にもさまざまな区役所などに出入りしていた。
 その中で浮上してきたのが、エイズの啓発活動に関わる仕事だった。
 エイズ検査を受けるように訴えたり、感染者に対する無用の不安を取り除くように病気の実態を紹介したり…そうしたことを、イベントやポスター、チラシなどでアピールしていく訳だが、その印刷物などを制作するのが我々の仕事。
 さまざまな区役所から仕事をとってきたり、提案をしたりするのは営業マンの仕事で、僕は若い女性コピーライターとデザイナーの二人と組んで、それらの提案を形にすることになったわけだ。
 ただし、一連の仕事が始まる前に営業マンから釘を刺された。この仕事はかなり厄介ですよ…と。
 コトがセックスに関わることが多い話だ。どうしたって「コンドームを使え」というような話が出てくる。しかしあまりにアケスケにセックスを扱うと、相手 が役所だから教育委員会やら教師の組合やらが騒ぎ出す。そして当時はすでに血友病患者の薬害エイズ問題が騒がれていたが…これにズバリと触れると、当時ま だ薬害エイズに対する責任を認めていなかった厚生省を刺激する。また、言葉の使い方ひとつ間違えると、感染者の支持団体やら、児童福祉に関わる団体やら、 女性団体やら、あるいはそれこそ同性愛者の人々の権利を守る団体やらが、束になって抗議をしてくる可能性がある。それより何より、HIV感染者ならびに発 病した人たちに対する、不要な偏見や迫害を助長する可能性がある。最初は、これはさすがにヤバイことになったと思ったよ。そんなこんなの必要に迫られて、 一緒に仕事をする女性二人と共にエイズの一夜漬け勉強を始めたわけだ。
 そこで分かったことと言えば、エイズの蔓延の仕方なり、感染者の置かれた状況ってのは、その国ならではの事情を如実に反映する…ということだった。
 一例を挙げよう。例えばルーマニアの場合、かつての独裁者チェウシェスクの政権下では無茶な人口増加政策が推し進められ、結果的に身よりのない子供たち が溢れてしまった。さらに、この子供たちに手っ取り早く栄養をとらせるために輸血を奨励したため、これが子供たちに高確率のエイズ感染をもたらしてしまっ た。いろいろとお話を端折ってしまったので舌足らずではあるが、簡単に言うとそんな無茶苦茶なことが起きたのだ。あるいは東南アジアの国々では男尊女卑が 普通だったため、妻帯者が平気で売春婦を買って感染、そのまま妻を感染させてしまうというケースが多い。セックスの際に男がコンドームの使用をイヤがり、 妻がそれを突っぱねることが出来ないからだ。また、別の国では貧しい人々の間で麻薬中毒がはびこり、彼らが貧しさ故に注射針を使い回しすることでエイズが 蔓延してしまった。
 それは日本だって人ごとではない。そもそも薬害エイズだって、日本という国に前々から巣くっていた役人や学者たちの「官僚主義」が、事態を極限まで悪化 させてしまった事例だ。日頃から人々を見下すクセが染みついた「役人」と「医者」という忌まわしい権威が、エイズ蔓延の温床となったのだ。また、子供が見 ることの出来るコンビニの書棚にすらヘアヌード満載のエロ本が平気で並んでいるような国のくせに、変にセックス絡みの話は陰湿にフタをする。そういう国民 性が、エイズを取り巻く状況をさらに悪化させてきたところはあった。
 また、先に述べたように、何だかんだとあっちこっち上下左右の圧力団体が揚げ足取ってくるような点もそうだ。「エイズ撲滅」という言葉を使うと「エイズに感染した人を撲滅する」みたいだからけしからん…などと真顔で抗議してくる連中もいたというから何をか言わんや。ほとんど言葉狩り。そいつらの方がビョーキだ。
 かと思うと、セックスを媒介にして感染するケースがあまりに多かったこともあって、エイズ問題の啓発が時代錯誤で歪んだ「純潔教育」みたいなモノに利用 されかねない状況もあった。「右」も「左」も、タチの悪さでは変わりはない。結局、こういう連中には、実際にエイズで苦しんでいる人を助けようなんて気は サラサラなかった。それはイマドキの沖縄の基地とか原発のケースと同じ。「右」も「左」も、単にテメエの主義主張に都合良く利用したいだけなのだ。「翼」の付いた奴にはロクな奴がいない。
 だから、エイズは我々の社会の縮図なのである。
 そしてエイズという病いの実態があまりに知られていないことが、無用の恐怖を煽っているところもあった。
 何しろ最初は何だか分からない、得体の知れない病気というところから始まっている。ゲイの人しかかからないという間違った認識がはびこったのも、致し方ないところがあったのだ。そして現在のところ、感染した場合にはそれを完治することは出来ない。そこに、最後には死に至る病気であるというイメージがあまりに刷り込まれてしまったので、感染した人々が不当に忌み嫌われるようなことになってしまった。
 実際には、エイズほど感染しにくい病気はあまりない。唾液や血液、 精液などの体液を通じて感染するが、例えば感染した人がくしゃみをしたからといって、空中に飛び散った唾液から感染するなんてことはまずない。それより風 邪の心配でもした方がいい(笑)。HIVは極めて弱いウイルスであり、例えば握手したり肩を抱いたりして触れたりするくらいでは感染しない。普通に日常生 活を送っている限りは、感染するような場面はそうそうないのである。そういうことが案外知られていなかった。
 そういう事が分かってくる前と後では、我々の取り組み方も明らかに違って来た。それからほぼ2年間だったろうか、我々はかなり前のめりに取り組んでいた ように思う。ただ、残念ながらそれらはチャリティで行った訳ではなく、我々も商売でやっていたのは間違いない。だから、立派なことばかり言うわけにはいか ない。さらに、それらは会社にとって決して大きな売り上げに貢献する訳でもなかったから、長い時間をかけて仕事をしていた僕らは、社内であからさまに冷た い扱いを受けたこともあった。同じ職場の女デザイナーから「私たちはあなた方みたいな“ビッグプロジェクト”をやらせてもらっている訳じゃないので」とい う、かなりひねくれた皮肉を浴びた記憶もある。まさか、エイズ啓発活動に関する仕事をやっている僕らまで「迫害」されるとは思わなかったよ。
 こうしたエイズとの縁は、僕がこの会社を辞めたことによって自然と消えてしまったが、その時に作った資料などは手元に残った。本サイトにアップした「エイズと映画」というコンテンツは、この時の資料を基に作成したものだ。僕なりに、このサイトにそうした刻印を残したかったということもある。
 イマドキの日本ではもうエイズの話など誰も見向きもしないが、それはエイズの危機が去ったということを意味するわけではない。実際は、みんな一頃よりエイズに対する危機感を失ってしまったため、感染したにも関わらずそれを知らずに潜伏している可能性が高い。ある意味で、以前より危険度は増しているかもしれない
 しかし、そんなことを言っている僕自身が、すっかりこの数年エイズのことを忘れきっていたのだ。本作「ダラス・バイヤーズクラブ」は、そんなエイズとの関わりを10数年ぶりで僕に思い出させてくれたのだった。

正統派が災いしていたマシュー・マコノヒー

 本作は何より、マシュー・マコノヒーがアカデミー主演男優賞を獲得した映画…として記憶されるであろうことは、まず間違いないだろう。
 毎年オスカーの結果については、アレコレ取りざたされるものだ。本当は誰が取るはずだったとか、誰が取るに値しないとか。正直言ってオスカー取ったら実力があるというほど物事単純ではないから、別に誰が取ろうが取るまいがどうでもいい。しかし今年に限って言えば、まずは圧倒的にマシュー・マコノヒーの受賞が確定的だった。授賞式の前から、すでにそんなムードが濃厚だった。
 何しろ昨今のマコノヒー、他を圧するようなオーラが漂っていた。それは例えば、オスカー・レースを共に戦ったライバル作品ウルフ・オブ・ウォールストリート(2013)を見ても明らかだ。いや、何も本作のマコノヒーと「ウルフ」のデカプーを比べて、マコノヒーがうまいとかそんなことを言っているわけではない。実はマコノヒーは、「ウルフ」にもちょっぴりではあるが出演している。ところがその出演場面は極めて少ないながらも、観客に与える印象はあまりに強烈。さすがのインパクトの違いを見せつけられるのだ。これから先はどうか分からないが、少なくとも今年に限ってはマコノヒーを凌ぐ男性スターはいない…そう思わせてしまうほどの、それはインパクトだった。
 しかしながらマコノヒー、今までも順婦満帆だったかと言えば必ずしもそういうわけではなかった
 僕ら外国映画ファンでも、海の向こうの役者さんの動向は何もかも分かるわけではない。今みたいにインターネットが発達している時代じゃない頃は、なおさ ら情報が手に入らなかった。それでも多少はいろいろな作品でチラチラ顔を見るようになって、「あれ、あいつ目立って来たな」と思い始めたらド〜ンと主役と して起用…みたいに、大概はある程度段階を踏んで「スター」になっていくものだ。ところが、マシュー・マコノヒーは違った。
 向こうの芸能界に昔から詳しかった人やら向こうで映画を見ていた人なんかは違うのかもしれないが、少なくとも僕の場合、マシュー・マコノヒーっていう役者はいきなり「評決のとき」(1996)で主役として躍り出た人という印象だ。
 「評決のとき」という作品自体は、ジョン・グリシャム原作の法廷サスペンスの映画化。黒人問題を扱った作品で、サンドラ・ブロック、サミュエル・L・ジャクソン、ケビン・スペイシーら蒼々たる顔ぶれが揃っていた。ところが、なぜかこれらの大物スターと対等な位置づけで、見たこともないマシュー・マコノヒーなる役者が鎮座しているではないか。いきなりスター・クラスの扱い。それが僕にとっての、マシュー・マコノヒーとの出会いだった。
 ジョン・グリシャムといえばイマドキはすっかり名前を聞かなくなったが、当時は法廷サスペンスの名手ということで、小説が次々映画化されていた。それも、トム・クルーズザ・ファーム/法律事務所(1993)、デンゼル・ワシントンジュリア・ロバーツ「ペリカン文書」(1993)、スーザン・サランドントミー・リー・ジョーンズ「依頼人」(1994)など、スターを前面に立てての映画化がほとんど。ジョン・グリシャム映画といえば「スター映画」というイメージだった。だからいきなりのマコノヒー起用が、物凄く異質に感じられたわけだ。
 もっと異質に感じられたのが、この作品におけるマコノヒーの役どころ。先に挙げた蒼々たるメンバーの中でも、明らかにマコノヒーが中心…実質上の主演なのだ。どうしてこんないきなりの抜擢がなされたのか。
 実際のところ、この作品のマコノヒーは輝いてはいた。昔ならイザ知らず、長身で甘いマスクのハンサム俳優というスケールの大きい「王道」スターは、昨今のハリウッドでは極めて異例。見ていた僕も、「久々にハリウッド・スターらしいスター」という印象を持ったのだった。
 そう思ったのは僕だけではないらしく、その後、スピルバーグ「アミスタッド」(1997)やロバート・ゼメキス「コンタクト」(1997)に連続で主役起用され、ハリウッド保守本流のスターとして定着。長期安定コースに入ったもの…と思われた。
 しかし残念ながら、彼の主演作はいずれも大成功には至らなかったように思う。しかもイマドキ珍しい「王道」「正統派」と見える個性が、時代とはそぐわなかったのかもしれない。エドtv(1999)、U-571(2000)など作品は決して悪くないのに、スターとしてのマコノヒー自身はどんどん地味な存在になっていってしまった。起死回生の奇策としてツルツル頭のオッサンに変身したサラマンダー(2002)も、「異色作」というカテゴリーの域を出ない結果。ラブコメの10日間で男を上手にフル方法(2003)もアドベンチャー・アクションのサハラ/死の砂漠を脱出せよ(2005)も悪くはないがチマッとした仕上がりだ。結局今のご時世では、マシュー・マコノヒーみたいな甘くて長身の二枚目ってのは「没個性」扱いされてしまうのだろうか。僕はいつの間にか、マコノヒーのことをもう「過去の人」扱いしていたのだった。
 ところがどっこい、マコノヒーはそれで終わらなかったから大したものだ。
 それはまず、リンカーン弁護士(2011) の堂々たる主演から始まったと見るべきなんだろうか。燃費悪そうなどデカいアメ車、リンカーン・コンチネンタルが事務所代わり。合法非合法スレスレに、清 濁併せのむ大人の余裕。「偽悪者」を装いつつ弱気を助け強きをくじくその男、誰が呼んだか「リンカーン弁護士」…とまぁ、往年の芥川隆行のナレーション風 に書いてしまったが(笑)、それくらい胸のすく活躍ぶり。ちょっと悪っぽい感じが、本来の甘いマスクと相まって大人の風格に見えてくる。つまりは、良い感 じにトシをとったのである。まるで「動く標的」(1966)におけるポール・ニューマンのような惚れ惚れする男っぷり。これはついに当たり役を発掘したなと言いたくなる素晴らしさだった。
 そしてこれと機を同じくして、マコノヒーの快進撃が始まった。それは意外なことに、「王道」「正統派」から程遠い役柄ばかり。そして、テキサス州生まれでいわばアメリカの「ローカル」である、自らの出身を活かした役づくりが「隠し味」となった。ブラックコメディともドラマともカテゴライズし難い奇妙な殺人劇バーニー/みんなが愛した殺人者(2011)でのイカれた地方検事役、リー・ダニエルズのむせかえるようなサスペンスペーパーボーイ/真夏の引力(2012)での知的な新聞記者と思いきや、実は…という意表を突いた役、ジェフ・ダニエルズ監督「MUD/マッド」(2013)での子供たちに強烈な影響を与える逃亡犯役…。西部、南部の違いはあれど、いずれもアメリカの「ローカル」の保守性、閉鎖性、泥臭さをカリカチュアライズしたような役柄だ。
 そして…僕はアメリカ英語にさほど詳しい訳ではないのでよく分からないのだが…マシュー・マコノヒー自身の台詞回しや発音に、何とも言えない独特の味わいがあることも見逃せない。それがテキサスなまりなのかどうなのか判断つかないが、特に最近の彼の演技において独特な味を高める役割を果たしているようなのだ。
 前述の「ウルフ・オブ・ウォールストリート」の小さい役も、そんな彼ならではの圧巻のパフォーマンスになっている。元々持っていた「王道」「正統派」としてのスケール感に、かなりクセの強い個性が備わってきた。こうなれば鬼に金棒。
 まさにそんな「絶頂期」に、本作の役柄がドンピシャで巡ってきたという感じと言ったら分かっていただけるだろうか。

イマドキ映画に流れる西部劇の心意気

 ロデオの試合を横目で見ながら、カウボーイハットをかぶったまま女を後ろから激しく突いている主人公…このオープニングで、すべては雄弁に説明されている。生粋の西部男にしてマッチョ。テキサス野郎の面目躍如だ。
 このマッチョ指向というやつは、往々にして歪んだ男性中心主義を生む。映画の最初の頃に出てくる、野郎どもとツルむ主人公の姿はまさに「それ」だ。女を セックスの手段として見下し、弱さを持つ相手を「女々しい」と見下し、時に罵倒し排除する。男らしいが故に、オレはそういう連中が我慢ならねえんだよ…。
 しかし、本当の男らしさってそんなものなんだろうか?
 この映画では、主人公が絶望的な状況に陥ってそれを身を以て体験し、ひとつずつ学んでいく過程が描かれる。
 僕がこの作品を見ていて非常に面白く感じたのは、この映画がエイズ問題についてのシリアスな映画というより、アメリカ映画伝統のある映画ジャンルに忠実に作られているというところだ。
 ハッキリ言ってしまおう。ズバリ、西部劇なのである。
 確かにオモテ向きは…というか実際の話、自堕落な生活をしていたマッチョ野郎がエイズに感染するというお話自体は今風な話だし、何よりこれって「実話」らしい。しかし、そこで描かれているものは何を隠そう、紛れもなくアメリカ映画伝統の「西部劇」なのだ。
 昔、テレビで放映されていた石原プロ制作のアクション・ドラマ「西部警察」は「コンクリート・ウエスタン」というのがうたい文句だったが、本作はさしず め「パンデミック・ウエスタン」、あるいは「メディカル・ウエスタン」とでも言うべきだろうか。銃弾の代わりに薬物が飛び交う「メディシン・ウエスタン」 と言ってもいい(笑)。
 強大で理不尽な権力を振り回す連中に街は支配され、苦しんでいる弱者たちは為す術もない。そこに、たった一人立ち向かっていくカウボーイハットの男。これが西部劇でなくて何だろう。最近の例で言えば、イーストウッド「許されざる者」(1992)とどこが違うのか。まぁ、「許されざる者」については本来の「西部劇」へのアンチテーゼ的側面や「変奏曲」的な趣が大きいので、ちょっとこれを引き合いに出すのは話が違ってしまうかもしれない。しかしこのシュチュエーションが「いかにも」西部劇的な設定の典型をなしていることは、誰が見たって間違いないのではないだろうか。
 そのひとつの例を挙げれば、お話の後半で主人公の片腕となる女装のエイズ感染者レイヨンとの関係がある。最初でこそマッチョぶっていた主人公は彼(彼女)をすげなくあしらっているが、途中から同志・相棒として尊重するようになる。
 特にそれが顕著なのが物語の中盤、スーパーマーケットで主人公と偶然再会した昔のダチが、たまたま一緒にいたレイヨンをあからさまに侮蔑する場面だ。これに怒った主人公は昔のダチを羽交い締めにすると、無理矢理レイヨンに握手させる。「相手に敬意を持って接しろ」と告げるのだ。
 それはまるで、先に挙げた「許されざる者」のエンディングで、街を去っていくイーストウッドが「娼婦を大事に扱え! さもなきゃ全員ブチ殺すぞ!」と大声を上げるのに似ている。あるいは駅馬車(1939)で、ジョン・ウェイン演じる主人公が他の連中から見下されている酒場の商売女クレア・トレバーを唯一「レディ」として扱っているあたり…を彷彿とさせる。そもそも、この「駅馬車」のトレバーにしろリオ・ブラボー(1959)のアンジー・ディキンソンにしろ、「訳ありの酒場女」は西部劇につきもの。札付きのズベ公、アバズレ、海千山千の女に見えて、実は胸の内には汚れちまった哀しみと「隠された純情」を持っているのがお約束。それが女装のニューハーフというのがいかにも「21世紀バージョン」だが(笑)、ちゃんと西部劇のセオリーには適っているのである。これはもう偶然とは言えないだろう。そのレイヨンを演じるジャレッド・レトーも、その「ハスッパ」感をうまく出してる「分かってる」好演ぶりだった。
 だから、主人公が終始カウボーイハットを手放さないのは偶然なんかじゃない。むしろ「この映画は西部劇ですよ」と観客に暗号を伝えている重要なアイコンなのである。そしてFDAやら製薬会社やら医者どものような「権威」に刃向かって、「個人」で戦いを挑むことをヒロイズムとしてうたいあげている。弱きを助け強きをくじく、まさに西部劇の王道。ここが何より痛快ではないか。
 監督のジャン=マルク・ヴァレはカナダの出身らしいが、例えばスウェーデン出身のニールス・アルゼン・オプレブがアメリカで撮ったデッドマン・ダウン(2013)に西部劇スピリットが脈々と流れていたように、イマドキはむしろ海外から招かれた映画人の方が、アメリカ映画のかつての美点を大切に扱っているように感じられる。
 そして、観客である僕もまた、この作品に流れる意外なまでの西部劇テイストを心ゆくまで堪能させてもらったのである。

チラつくクロサワ「生きる」の残像

 映画が始まってすぐ、主人公はまさに晴天の霹靂で医師から自らの病気を告げられる。それはエイズがまだ得体の知らない病気であった当時なら、まさに「死刑宣告」に等しいことだっただろう。この時代には、「エイズ」感染はイコール「死」を意味していたのである。
 ところが主人公はこれを境に、自らの生き方を目覚ましく変えていく
 それまでの主人公はマッチョぶったチンピラで、宵越しの金は持たねえ的な生活を繰り返していた。トレーラーハウスに住むお気楽な暮らし。ギャンブルに女 に酒のドラッグという申し分ない自堕落な毎日だ。人生の目標もなければ向上心もない。ダチも、どいつもこいつも似たようなマッチョぶったお下劣野郎ばかり だ。
 だが自らの病気を自覚するや、彼は予想外の行動に出る。こんな男が図書館に行って、ありったけのエイズ知識を付けてくる。実際に物語の後半あたりになると、その知識は医師たちと互角にやり合えるほどになっている。そして必要な薬が手に入らないと知るや、いっぱしのビジネスマンのように世界を駆け巡るのだ。
 さらに他人に対する態度も変わっていく。女と言えばセックスの対象でしかなく、マジメに接する相手でもない。ゲイに対する情け容赦ない態度は、テキサス のマッチョとしては当然と思っていただろう。しかしエイズを通過した彼は、ゲイのレイヨンを相棒として認めた。さらに自分に共感してくれた女医に対して も、紳士として接するまでに変わるのだ。
 そもそもトレーラーハウス住まいが、後半からちゃんと建物に住むようになるではないか。文字通り「地に足のついた」生活をするようになるのである。
 なぜか彼は死を意識したとたんに、よりイキイキと生き始める。それまでの投げやりな人生と対照的に、目的意識と向上心を持って生き始めるのである。
 そんな映画、確か昔どこかで見た覚えはないだろうか?
 もう大体みなさんはお察しのことだろう。僕がいつも持ち出す大好きな映画作家、わが日本が誇る黒澤明の傑作「生きる」(1952)だ。
 ただ、僕は本作を実際に見るまで、「生きる」のことなんか全く考えていなかった。この映画の自堕落マッチョ男マシュー・マコノヒーと「生きる」の実直で面白みに欠ける小役人の志村喬には、共通点なんかまったく見いだせないように思える。この両者をつなげる発想など、持ちようもなかったのだ。では、どうしてそう思ったのか?
 それは、劇中のある「描写」がキッカケだった。
 本作の中で主人公の症状が悪化する場面が何回か出てくるが、その都度、同じような演出が行われているのだ。それは「現実音のカット」だ。
 体調の悪化や苦痛などは、観客が目で見て感じる映画というメディアでは極めて描きにくい事例だといえる。そこで本作では、主人公の病状が悪化するたびに、現実音をカット。さらに、耳障りなキーンという高音をサウンドトラックに刻み込んでいる。とにかくリアルな日常を表現する「現実音をカット」することで、ただならぬ事態が起きていることを伝えているのだ。
 僕はこの場面を見て、即座に
黒澤明の「生きる」を思い出していた。実は「生きる」のある場面が、この描写を連想させる演出を行っているのである。
 ただし「生きる」では、志村喬の病状が悪化した場面で「
現実音カット」の演出が行われていた訳ではない。映画の冒頭近く…主人公が医者から診察を受けた後で「大したことがない」ように説明を受けたものの、その口調からどうやら「深刻な病状」であると察してしまった場面の後。カットが変わったとたんに、一切の現実音がカットされてしまう。呆然とした主人公がクルマに轢かれそうになった瞬間、パッと街の喧騒のノイズが映画に戻ってくるが、それまでは一切の音が映画から消え失せてしまうのだ。主人公の受けた衝撃の大きさを、見事に表現した演出だ。
 だから両者で行われていることは微妙にズレているのだが、どちらも「現実音のカット」という一点では共通した演出を行っている。普通に流れているノイズをカットすることで、画面を見ているだけの僕らに本来分かり得ない主人公の状況を生々しく伝えているのである。だから僕は本作の「現実音カット」の場面を見て、すぐに「生きる」の同様の場面を想起したのだ。
 そうは言っても…僕はどんな映画を語るにもいちいち黒澤作品を引っ張ってくるので、おそらくここの感想文をお読みの方は「また始まった」と思われるかも しれない。だから僕がここで共通点を挙げたとしても、どうせこじつけにしか思ってもらえないかもしれない。それを承知で書かせていただくとすれば、やはり 現代において、病いによる「死」を宣告されたところから始まる新たな人生…というテーマの物語は、どうしたって「生きる」を意識しないでは作れないのではないか
 役所のどうでもいい仕事に埋没していた志村喬演じる「生きる」の主人公は、ガン告知をキッカケに公園の建設に意欲を燃やしていく。その姿は、本作の主人公が自堕落なそれまでの生活をかなぐり捨て、感染者救済のための組織づくりに邁進していく姿に重なってこないだろうか。
 そういえば「生きる」には、こんな場面があった。公園建設に邁進する主人公に、地元ヤクザが因縁をつけてくるのだ。台詞としてあったかどうかは定かでは ないが、「テメエぶっ殺すぞ」とでも言いそうな勢い。しかし、小市民を絵に描いたような志村喬の主人公が、なぜかまったく動じない。それどころか、ヤクザ の方が主人公のあまりの迫力にビビりまくってしまう。そりゃあそうだ、すでに「死ぬのが確定している」奴を「ぶっ殺し」ようがない(笑)。その堂々たる仁 王立ちぶりたるや、まるで無法者たちに一人で立ち向かう保安官のようではなかったか。そう、ここでもまた「西部劇」だ。
 そもそも黒澤明という人は、アメリカのジョン・フォードを師と仰いだことで有名な映画作家だ。そしてそのジョン・フォードが得意としていたジャンルが、何より「駅馬車」などをはじめとする西部劇だった…。
 だとすると、本作が「西部劇」というスタイルをとったことには、やはり映画としての必然があるのではないか。
 僕にはどうしてもそれが偶然とは思えないのである。

 

 

 

 

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