新作映画1000本ノック 2013年8月

Knocking on Movie Heven's Door


こ のページの作品
「バーニー/みんなが愛した殺人者」 「3人のアンヌ」 「エンド・オブ・ホワイトハウス」 「華麗なるギャツビー」(レオナルド・ディカプリオ主演)

 

「バーニー/みんなが愛した殺人者」

 Bernie

Date:2013 / 08/ 19

みるまえ

  巷ではまったく話題になっていないが、あのジャック・ブラックの新作。正直言ってジャック・ブラック主演作というだけなら、今の僕ならそんなに食指をそそ らなかっただろう。一時期はノリにノッていたコメディアンの彼だが、近年はすっかりそれがマンネリ化。劇中で必ず披露するクラシック・ロックの名曲の絶唱 も、いいかげんもう聞き飽きた。「ガリバー旅行記」 (2010)などは無惨そのものの出来栄えだったではないか。しかし本作は、何とジャック・ブラックが殺人犯の役。しかも、にも関わらず田舎町の人々に愛 され、同情されるような人物の役。しかもしかも、これが実話だというから驚きだ。ジャック・ブラックが演じるならコメディ仕立てなのだろうが、そうは言っ てもあくまで実話なのである。そうなると、無闇にオチャラケる訳にもいくまい。予告編やチラシに出てくる彼の顔はコミカルでおどけた表情だが、だからと 言っていつものような傍若無人ぶりを見せつける役ではないようだ。そうなると、従来のジャック・ブラック映画とは一線を画する異色作に仕上がっている可能 性もある。そんなわけで大いに気になった僕としては、公開初日に劇場に向かったのである。

ないよう

  大学の葬儀学の臨時講師として呼ばれたのは、現在、実際に葬儀社で働いているバーニー・ティーディ(ジャック・ブラック)だ。彼はこの大学の出身で、講義 を受講した後輩たちの前で「身に余る光栄」と挨拶。この講義のために特別に提供された遺体を使って、「おくりびと」としての自らの仕事ぶりを披露する。そ れは、独特の美学と哲学を持ったプロの仕事。時に開きそうになるまぶたや口を瞬間接着剤で閉じるという荒療治も行いながらも、あくまで厳粛な弔いを遂行す るという目的のために、献身的に努力する。そんなバーニーの仕事ぶりを目の当たりにして、彼の姿勢の誠実さを疑う者は誰もいない…。バーニーがこの町にふ らりとやって来たのは、何年か前のこと。それまでの彼の経歴は明らかではないが、現在も彼を雇っていた葬儀屋の主人は彼の人柄を疑っていない。とにかく仕 事熱心で誠実。しかも、新たな工夫を加えていくことを惜しまない。葬儀を進行したり讃美歌を歌ったり棺桶のセールスまで全力投球で、雇い主も顧客もニコニ コになること請け合いの人物がこのバーニーなのだ。しかも、市民活動にも熱心に参加。町の美化活動に率先して協力するだけでなく、地域ラジオの出演やら地 域の演劇部のミュージカルを演出かつ出演。骨身を惜しまぬ献身ぶりが町の住人たちの心をつかみ、これまた現在でも彼を悪く言う者はいないくらい。そう、彼 の「犯行」が明るみになった今に至っても…。そんな彼が問題の老女マージョリー(シャーリー・マクレーン)と出会ったのも、葬儀でのこと。町一番の金持ち であるまージョリーの夫が亡くなり、その葬儀をバーニーが取り仕切ってからのことだ。彼はいつもの習慣として、葬儀を行った遺族に対するアフターケアも怠 らない。慰めの言葉とプレゼントを携えて、バーニーはマージョリーの屋敷へと足を運ぶ。いつもと違うのは、このマージョリーが町一番の金持ちというだけで なく、町一番の性格の悪さで知られていたことだ。だからバーニーは、せっかく訪れたマージョリーの屋敷に入れてもらえない。しかし、そうなったらなったで メゲることのないバーニー。毎日足繁く通ったあげく、結局熱意を通じさせてしまった。こうなると、マージョリーの態度は豹変。一旦受け入れると一気に仲良 しになってしまう。一緒に世界旅行まで行くような仲になってしまうまで、いくらも時間はかからなかった。もちろん、すべてマージョリーの払いだ。当然、も はや葬儀屋で働いているわけにいかない。彼女の身の回りの世話をすることになり、銀行預金の管理まで任されることになる。ところが好事魔多し。マージョ リーの独占欲もますます大きくなり、しょっちゅう携帯一本で呼び出しが入る。ちょっとレスポンスが遅れれば、マージョリーのカミナリが落ちるアリサマ。市 民活動もままならない拘束ぶりに、さすがにバーニーの心はどんどん追い詰められてしまう。事件はこうして起きた。それはマージョリーの屋敷のガレージでの こと。頭が錯乱状態になったバーニーは、たまたまそこにあったライフルで彼女を後ろから撃ち殺してしまったのだ。撃った後で、ふと我に返ったバーニーは動 転。とりあえず、ガレージ内にあるアイスボックスにマージョリーの遺体を隠すことにする。こうして何とかマージョリーが死んでいないふりをしながら、毎日 を過ごしていくバーニー。彼はマージョリーの財産管理を任されているのをいいことに、その金を使って善行を施していくが…。

みたあと

 映画本編を見る直前に気づいたのだが、この作品の監督はジャック・ブラックの出世作「スクール・オブ・ロック」 (2003)の監督リチャード・リンクレイターではないか。この作品ってコメディなのかシリアスなのかつかみどころがなかったのだが、ますますこれで分か らなくなってしまった。こうして映画は始まったのだが、開巻まもなく満面の笑みを浮かべたジャック・ブラックが登場。クルマを運転しながら神様っぽい歌を 歌い始めたのには爆笑。何だ、やっぱり今回も歌うのかよ(笑)。結局、今回もジャック・ブラックはジャック・ブラックではないか。
ここからは映画を見てから!

こうすれば
 しかし、どう見てもコメディっぽく
芝居がかったコ テコテの芝居にしか見えないジャック・ブラックの演技に対して、映画自体のフォーマットは必ずしもそうはなっていない。実は本作のスタイルは、単にドラマ を時系列に沿って物語っているものではない。物語の端々で「証言者」が登場し、それぞれコメントしていく形式のもの。それもどうやら、俳優ではなく実際に この町の住人である素人の「それ」のようなのである(その中には劇中にも登場してくる人もいるのだが、どうやら素人の町の人を「本人」として起用している らしい)。分かりやすく言うなら、ウォーレン・ベイティ監督主演の「レッズ」(1981)みたいな構成をとっていると言うべきだろうか。ともかくその手法 を見る限り、セミ・ドキュメンタリー的なスタイルをとっているように思えるのである。しかしジャック・ブラックはどう見てもコメディ「演技」をしているよ うに見える。これって一体どういう訳なんだろう? さらに一体バーニーはなぜマージョリーを殺したのか? 彼は果たして善人か悪人かということにも、映画 は答えていないかのように見える。いや、見た目のストーリー展開だけ見ると、彼は決して悪人じゃないと言いたげだ。これって本当にそれでいいのだろうか?  そんなことを作者たちは言いたいのだろうか? さらに、役者としては「超大物」であるシャーリー・マクレーンを、えらくもったいない使い方で起用してい ること。そもそも出番が映画の前半しかないし、その役というのが単に主人公を追い詰めるというだけの人物。重要人物っちゃあ重要人物とも言えるが、キャラ クターが外側から上っ面で描かれているだけで、従来彼女が演じてきた役のように掘り下げられてはいない。せっかくマクレーンのような大女優を持ってきなが ら、「脇役」扱いってのはあまりにつまらなくはないだろうか。なぜ、わざわざ彼女のようなギャラの高い女優を持ってきたのか?

みどころ
  見た後で正直当惑してしまった作品だが、見てしばらくするうちにいろいろ気づいてくる点もある。まず、問題のシャーリー・マクレーンの起用。この老婆は町 でえらく評判の悪い人物で、主人公バーニーが悪くない…と周囲から言われている根拠もその多くはこの老婆が「殺されても仕方ないほどイヤな人物」だったか ら。しかし、それをシャーリー・マクレーンが演じているとなると、ちょっと話は違ってくる。素晴らしいコメディエンヌとして知られているマクレーンは、い かに役柄として意地悪な人物を演じようとも、今まで積み重ねられたスター・イメージから悪人に見えない。どこか好感の持てる人物に見えてしまうのだ。そん なマクレーンをあえて起用したというなら、作者はこの老婆を町の人々が言う通りに「イヤな人物」として描く気がないということではないか。そう考え始める と、例のジャック・ブラックの演技も別の意味に見えてくる。映画の証言者の部分はドキュメンタリーで、お話の上ではあくまで町の人々の言い分通りに主人公 は「善人」という言動のまま描かれている。しかし演じているジャック・ブラックは芝居っ気たっぷり。つまりこれは、彼の「善人ぶり」も、実は「芝居」って ことじゃないのか。もっとズバリ言えば、どんな「真実」も見ようによっては玉虫色に見えてくるってことを言いたいのではないのだろうか。そういう意味では 最初は失敗作に思えたこの映画も、なかなか興味深い作品に思えてくる。世の中、真実は見た目通りじゃないし、聞いた通りでもない。それは僕自身が、生きて いく中で実際に手に入れた真理だ。この映画は、そんな人生や世の中の真理に非常に近いものを感じさせてくれる。エンディングで実際のバーニーが牢の中にい る姿まで出てくるが、それを見ると人間というものの不思議さを感じずにはいられないのだ。

さいごのひとこ と

 デブの婚活女詐欺師を思い出した。


 

「3人のアンヌ」

 In Another Country

Date:2013 / 08/ 19

みるまえ

  韓国映画の中でも異彩を放つホン・サンスの映画については、僕もこのサイトの中で何度も何度もベタホメしてきたと思う。そんなホン・サンス映画の特徴は一 言で言えば「韓国のエリック・ロメール」。最近のこの人の映画はエリック・ロメール風という言葉ではくくれない魅力が出てきたのだが、それでもこの枕詞が いまだにこの人にはつきまとう。昨年は特に、「よく知りもしないくせに」(2008)、「ハハハ」(2010)、「教授とわたし、そして映画」(2010)、「次の朝は他人」 (2011)…というこの人の近作4本を見ることができた。その時に、近々公開されるホン・サンスの新作が何とフランス女優イザベル・ユペール主演の作品 だということを知り、ビックリすると同時に大いに期待もしたのだった。その作品がついに日本に上陸するとなれば、これは真っ先に劇場に行かねばならない。 例によって感想文は遅れに遅れたが、それはまたまた僕の怠慢によるものである。

ないよう

  海辺のペンションのベランダで、オバチャン(ユン・ヨジョン)と娘のウォンジュ(チョン・ユミ)が何やらダベっている。どうも金銭トラブルに関する話題の ようだ。ひとしきりダベった後で、映画作家志望らしいウォンジュは部屋に戻ってシナリオを書き始める。それはアンヌという名のフランス女が出てくるお話 だ。
 青いシャツを着たアンヌ(イザベル・ユペール)は、有名なフランスの女性映画監督。知り合いの映画監督ジョンス(クォン・ヘヒョ)、出産間近で腹の大き な妻クムヒィ(ムン・ソリ)と一緒に、海辺の町モハンを訪れる。宿は、例のペンションだ。宿に落ち着いて、アンヌがベランダでタバコを吸っていると、ジョ ンスが現れて「あの時のキスを覚えてる?」と妙なことを言い始める。そんなこともあったかと思いだしながら、少々困惑気味のアンヌに、ジョンスは「ぼくた ちは友達だ」と言ったりするが、むろん「その気」派満々だ。その後、アンヌが一人で海に行くと、ライフガードの男(ユ・ジュンサン)が海から上がってくる ところに遭遇。アンヌは彼に灯台はどこかと尋ねるが、ひとしきりトンチンカンなやりとりを繰り返したあげく、結局、灯台がどこにあるのかは分からない。だ が、ライフガードは彼女が気に入ったようだ。彼は近くの公園に建ててある自分のテントにアンヌを案内し、ギターを取り出して即興でアンヌに捧げる歌を歌い 始める。夜、アンヌとジョンス夫妻は、ペンションの庭で焼き肉を食い始める。クムヒィがジョンスの酒の飲み過ぎをたしなめたことからケンカになるが、アン ヌには言葉が分からないためチンプンカンプン。そこに、なぜかやって来る例のライフガード。彼はこのペンションでバイトもしているのだ。ライフガードはア ンヌを見るとゴキゲンになって、妙に親しげに話しかける。それがゴキゲン斜めなジョンスにはさらに気に入らない。その翌朝、またジョンスはアンヌに迫る が…。
 赤いワンピースを着たアンヌ(イザベル・ユペール)は、外資系の会社のお偉いさんの妻。夫はたまたま不在のため、アンヌは不倫相手の映画監督スー(ム ン・ソングン)に会おうとモハンのペンションにやってくる。しかし携帯電話で連絡すると、スーは多忙で来られそうもない。仕方なくアンヌは一人で海辺に出 かける。そこに突然、スーがやって来るではないか。スーはアンヌを驚かせたくて、行けないとウソをついていたのだった…。と思っていたらそれは夢で、そこ に現れたのは釣りの客で…と思っていたらそれも夢で、アンヌは宿で昼寝をしていたのだ。運悪くそこにスーが到着し、ペンションの部屋に入ろうとするがアン ヌは起きて来ない。仕方なくアンヌの携帯に電話をかけるが、電話に出たのはライフガード(ユ・ジュンサン)だ。どうやら外出の際に携帯をなくして、ライフ ガードに拾われたようなのだ。やがて目が覚めたアンヌとスーは、ライフガードのテントまで出かけて携帯を取り戻す。その後で食堂に入ったスーとアンヌだ が、スーは「ライフガードと親しげに話すな」とアンヌにネチネチ。これにはアンヌもキレるが、そうなるとすぐスーが泣きを入れるという情けなさ…と思って いたらそれも夢で、アンヌはやっぱり昼寝をしていた。スーから「遅くなる」と連絡が入る。アンヌは海辺に向かうと、ライフガードが現れるではないか…。
 緑色のワンピースを着たアンヌ(イザベル・ユペール)は、まだ離婚したばかり。韓国女に夫を奪われてしまったようで、旧知の女性民族学者パク・スク(ユ ン・ヨジョン)とモハンに傷心旅行にやって来る。パク・スクの誘いで近くの寺に参拝したり寺の掃除をしたりするが、一向に気分は晴れない。隣の部屋には映 画監督のジョンス(クォン・ヘヒョ)と妻(ムン・ソリ)が滞在していて、彼らとアンヌの3人はペンションの庭で焼き肉を焼き、かつ食う。ところが翌朝、ベ ランダでタバコを吸っているアンヌをいきなりジョンスが口説いてくるではないか。ジョンスはアンヌを海辺に誘い、「その気」になってきたアンヌも彼のキス に応じようとするが、間一髪で嫉妬深いジョンスの妻に見つかってしまう。「韓国の男ときたら!」と激怒する妻にコテンパンにされるジョンス。それを横目 に、アンヌはパク・スクとその場を逃れるのだった。さて、アンヌが「お坊さんと話したい」と言い出したことから、パク・スクは宿に旧知のお坊さんを呼ぶ。 しかしアンヌのお坊さんの問答は、まったく噛み合わない。アンヌは何を思ったか、お坊さんの持っているモンブランの万年筆をくれと無理難題を言い出す始 末。その後、アンヌは一人で海辺に行き、バッグから取り出した焼酎をガンガン飲む。すると、そこにライフガード(ユ・ジュンサン)が現れるではないか…。

みたあと

  先にもちょっと述べたのだが、最近のホン・サンスは単に「エリック・ロメール風」ではくくれない味わいが出てきた。今回も題材としては海辺のリゾートを舞 台にしたロメール作品「海辺のポーリーヌ」(1983)、「緑の光線」(1985)あたりを想起させないでもないが、仕上がった印象はかなり異なる。ただ し先日連続上映された4作品を見たうえでこれを見ると、ここへ来てホン・サンス作品が「軽み」を獲得してきたような気がしてならない。以前はシリアスな痛 みや結構登場人物たちを意地悪い眼差しで笑っていたりしたホン・サンスだが、ここ2作ぐらいは丸くなったような余裕を感じさせるのだ。ただ、それと同時に 作者としてのホン・サンスが何を言いたかったのか、どういう意図で作ったのか…についてはどんどん読みにくい作品になっている気もする。今回も冒頭のオバ チャンと若い娘の会話などは、正直言ってまったく意味不明。意味を探ることすら意味がないのかもしれない。

みどころ
  というわけで、ここでは作者の意図を探ろうとかそういうことは諦めることにする。単純に、僕が見て楽しんだり感じたことだけ列挙したいと思う。ハッキリ 言って手抜きだ(笑)。いつも文化人としての「映画監督」の偽善やダサさ、男たちの下心満載の愚かさをからかっているホン・サンス。今回はそんな男たちの 愚かさを際立たせる装置として、フランスからイザベル・ユペールを持ってきたのは明白。ところがその結果、見ている側の印象としては「男」全般というよ り、「韓国男」のダメさを強調している印象が強い。今までエリック・ロメール作品よりもホン・サンス作品の方が、登場人物が「東洋人」なだけにイタさも共 感も深い…と思っていたのだが、今回は登場人物たちが「我々」とは微妙に違うと感じさせられたのが本音だ。主観ではあるが、外国人に対するあのズケズケ感 はちょっと日本人にはないもののように思える。その意味もあって、今回は「日本人である僕」にとっては距離を置いて見ることができて、「軽み」のある「笑 える」作品になったのかもしれない。これについては、作品そのものの出来がそうなっているのか、前述のユペール効果なのかは判然としない。ただホン・サン スは「西欧人」に対する「韓国男」のおかしさだけを一方的に見せつけて、分かった風な「知的な態度」を見せる映画作家ではないところが非凡。今回の3つの エピソードの最終話では、ヒロインのユペール自身もかなり「困ったちゃん」な人物として出てくる。西洋女でフランスの大女優のイザベル・ユペールをまった く甘やかしていないのだ(笑)。このあたり、ホン・サンスの「さすが」な部分だと言えるし、ユペールもこの作品にユーモラスな味を持ち込んでいて楽しい。 あとは「教授とわたし、そして映画」の最終エピソードと同じく、今回は「映画作家志望の女の子の書いたシナリオ」という設定による「女目線」のお話になっ ている点も注目すべきかもしれない。それ以外は、同じ人物、同じ設定、同じ場所…の別エピソードを並べて、それらの共通性と共に微妙なズレを出していくと いう、「江原道の力」(1998)以来毎度お馴染みのホン・サンスならではの映画話法。いつも同様、大いに楽しませてもらった。

さいごのひとこ と

 ワールドワイド感ゼロなのがいい(笑)。


 

「エンド・オブ・ホワイトハウス」

 Olympus Has Fallen

Date:2013 / 08/ 19

みるまえ

 何とあのホワイトハウスが占領され、大統領が人質になってしまうというお話。それをたった一人の男が孤立無援で戦って奪還するという展開は、どう見たって「ダイ・ハード」 (1988)。そこに大統領が絡むというのは、チラッと「エアフォース・ワン」(1997)も入っているのか。「9・11」以来、自分たちがやられるとい うことをアメリカ人も実感し始めたからなんだろうが、いよいよホワイトハウスまで…と考えると、妙に感慨深いものがある(笑)。どうせ大味アクションだと 分かっていても、こういう映画がキライじゃない僕としては、チラシや予告編を見ては、ちょいと気になってはいた。ただし、少々ガッカリなのは、主演がジェ ラルド・バトラーという中途半端なスターであること。ファンの方には申し訳ないが、僕にとってこのバトラーっってのは今いちスターとしての安定感が感じら れない。おまけにその後、この手の映画の作り手としては「専門家」とでも言うべきローランド・エメリッヒもホワイトハウスが占領される映画を撮っていると 聞いて、なおさらこの作品を見ようかどうしようか迷ってしまった。しかし、この日たまたま時間が合うのがこの映画だけだったことから、映画館に駆け込んだ 次第。実際には公開直後に見ていたのだが、2か月以上遅れての感想文アップとなってしまった。いやぁ、こんなのばっかりでマズイなぁ。

ないよう

  クリスマスの夜、ベンジャミン・アッシャー大統領(アーロン・エッカート)とファーストレディのマーガレット(アシュレイ・ジャッド)は、アメリカ大統領 の別荘であるキャンプ・デービッドで休暇中。しかししんしんと雪が降るこの夜は、支持者たちのための献金パーティーに出なければならず、二人ともドレス アップして別荘を出ようとしていた。まだ幼い息子コナー(フィンリー・ジェイコブセン)も正装だ。護衛に就くシークレット・サービスの面々もタキシードに 身を固める。そのリーダー格であるマイク・バニング(ジェラルド・バトラー)は大統領一家と軽口をたたき合えるほど信頼を勝ち得ていた。特にマイクが気に 入りのコナーは、大統領のクルマでなくシークレット・サービスのクルマに乗り込む。こうして大統領一行は、何台かのリムジンを連ねてパーティー会場へと出 発した。ところが、途中にある橋に差し掛かった時、大統領の乗ったクルマが激しくスリップ。クルマの前半分が橋から飛び出したところでかろうじて停まると いう事態が発生した。クルマはグラグラ揺れて、何とも不安定な様子。慌てて駆けつけたマイクは、セオリー通りまずは大統領から救出。次にファーストレ ディーを助ける…と大統領に確約した。しかし、状況は彼を待ってはくれなかった。大統領を救出して間もなくクルマがバランスを崩し、ファーストレディーを 乗せたままクルマは谷底へと飲み込まれてしまった。悲嘆の表情の大統領とコナーの前で、マイクはただ呆然と立ちつくすだけだった…。それからしばらく経っ たある朝、マイクはホワイトハウスと目と鼻の先の財務省で、マイクはデスクワークに就いていた。例のあの事件以来、マイクはシークレット・サービスの職か ら降りた。しかし、心の傷はいまだ癒えない。看護師をしている妻リア(ラダ・ミッチェル)とも今ひとつな関係だ。そんなマイクにシークレットサービス長官 リン・ジェイコブス(アンジェラ・バセット)は優しく声をかけるが、そんな言葉もマイクには届いていない。その頃、ホワイトハウスでは、アッシャー大統領 がルース・マクミラン国防長官(メリッサ・レオ)、アラン・トランブル下院議長(モーガン・フリーマン)、チャーリー・ロドリゲス副大統領(フィル・オー スティン)と会っていた。これから始まろうとしている韓国大統領との会談の打ち合わせだ。間もなくホワイトハウスに、イ・テウ韓国大統領(ケオン・シ ム)、側近のカン・ヨンサク(リック・ユーン)らの一行が到着する。ところがそんな折りもおり、ワシントン上空にどこからともなく正体不明のジェット戦闘 機が出現し、迎え撃つ米軍戦闘機2機を撃墜してしまう。当然のことながら、ホワイトハウスではアッシャー大統領はイ・テウ韓国大統領らと避難壕に緊急避難 させられる。その際にアッシャー大統領は息子コナーを探すが、コナーはどこに行ったか分からない。謎のジェット戦闘機は機銃掃射を始め、街はたちまち大パ ニック。それを見ていたマイクはいても立ってもいられず、財務省を飛び出してホワイトハウスへと駆け出す。やがてワシントン記念塔も破壊されるなど、パ ニックは拡大。マイクがホワイトハウス近くにやってくると、ちょうど自爆テロによって防護柵が破壊され、テロリストたちがホワイトハウスの敷地内に侵入す るところではないか。シークレット・サービスたちは果敢に応戦するが、何しろ不意打ちをくらったため次々倒れていく。マイクも銃を持って戦うが、敵の数は とにかく多い。そして軍の応援はまだ到着しそうもなかった。その頃、米国防総省ペンタゴンでは、エドワード・クレッグ将軍(ロバート・フォスター)を中心 に緊急の対策会議が招集され、シークレットサービス長官ジェイコブスが、すでに大統領たちが避難壕で無事にいると報告していた。しかし、実はその目算は甘 かった。韓国大統領の側近カン・ヨンサクは、実はテロリスト集団をのリーダーだったのだ。自ら化けの皮をはいだカン・ヨンサクは、仲間と共に大統領一行を 鎮圧してしまう。しかもシークレットサービスの一員デイヴ・フォーブス(ディラン・マクダーモット)も、カン・サンヨクの仲間であることを明らかにした。 ホワイトハウスの庭での戦闘も激化して、あっという間にシークレット・サービスの死人の山が出来てしまう。こうしてテロリストは、まんまと正面玄関からホ ワイトハウスに侵入した。ペンタゴンではトランブル下院議長が会議の席に連れてこられ、その場で大統領代理に任命される。しかしカン・ヨンサクはそんなペ ンタゴンの人々を意気消沈させるかのように、モニター画面を通じて韓国大統領の公開処刑を見せつけた。もはやホワイトハウスは完全に制圧され、カン・ヨン サクの手下が核兵器をコントロールするべく動いていた。もはや絶体絶命。アメリカ側はまったく手がない。ホワイトハウスに単身乗り込んだ、あのマイク・バ ニングを除いては!

みたあと

  先にも述べたように、僕はジェラルド・バトラーという人をいまだにスターとは認識していない。ファンの人が見たら怒り心頭だろうが、顔も印象薄いしフィル モグラフィーも今ひとつ。代表作って「300」(2007)ぐらいのもんじゃないのか。あとの映画は一生懸命力みかえって頑張ってるけど、いかんせんどれ もこれも映画の出来自体が小粒。それにバトラー自身、タフガイというカテゴリーの典型とでも言うべき没個性ぶり。顔が印象に残らないので、昔アメリカで食 い詰めてマカロニ・ウエスタンに呼ばれたテレビスター…とか言われても、まったく違和感がない。要は彼の出演作だけじゃなくて、彼自身にすごく「小粒」感 があるのだ。こう言っちゃ何だがハリウッド映画のA級大作の主演スターとしては、いささか印象薄過ぎるのである。脇にモーガン・フリーマンやアンジェラ・ バセットなどを配して、オールスター・キャストと言うには少々数も少ないがそれなりのキャスティングを組んでいるのに、肝心の主役の影が薄いってのはどう なのかね。これで主人公の設定が若い奴っていうならまだしも、それなりの働き盛り男盛りという設定だったら、アブラの乗り切ったスターじゃないとマズイの ではないか。監督のアントワン・フークアという人もそこそこの娯楽映画を何本も撮っているけれど、デンゼル・ワシントンがオスカー主演賞をとった「トレー ニングデイ」(2001)以外はかなり印象薄い感じで、正直言って今回の作品はイマイチ「大作感」が伝わって来ない。片やギトギトコテコテ感満載のローラ ンド・エメリッヒによるホワイトハウス映画が控えている中で、大丈夫なのかこれで。

みどころ
  そんなわけで、主役がイマイチ弱いのではないかという懸念がぬぐえないまま見始めたのだが、結論としてはソコソコ面白く見れたというのが正直な感想。それ は実際のこの作品が、実はあまり「超大作」的コロモをまとっていないからではないか。いやいや、ホワイトハウスが占領されるというお話なら「小品」なはず はないのだが、それでもアーロン・エッカートが大統領という時点であまり大作感はないだろう(笑)。そのエッカート大統領とツーカーな元シークレット・ サービスという設定だから、パッとしないバトラーでしっくり来る。こういうバランスって大事だよ(笑)。この作品は等身大の主人公が単身戦う「ダイ・ハー ド」スタイルの作品だが、あくまで作品としての格は「ミニ・ダイ・ハード」どまり。だから、愛想もなくむさ苦しくパッとしないバトラーでいい感じがする。 これ、ホメ言葉です(笑)。アントワン・フークアの演出も、この作品のソコソコ感に合っている。大パニック映画の専門家ローランド・エメリッヒの作品の 「前哨戦」としては、これくらいでいいのかもしれない。それにしても、イマドキのハリウッド映画での「絶対悪」としては、もはや宇宙人か北朝鮮ぐらいしか ないのだなぁ…と妙な感慨にふけってしまった。

さいごのひとこ と

 お久しぶりねのアシュレイ・ジャッドにビックリ。

 

「華麗なるギャツビー」

(レオナルド・ディカプリオ主演)

 The Great Gatsby

Date:2013 / 08/ 05

みるまえ

  あの「華麗なるギャツビー」がリメイクされると聞いて、僕はさすがにビックリした。やはり僕らの世代の映画ファンなら、「ギャツビー」と来ればロバート・ レッドフォード主演の「華麗なるギャツビー」(1974)が頭に浮かぶ。否、あれしかないとさえ思う。だから、リメイクなんてまったく考えていなかった。 イヤだとか許せないとかじゃなくて、単純に想像もできなかったのだ。しかし考えてみると、実は「ギャツビー」は元々はレッドフォードの専売特許じゃなく て、アラン・ラッド主演の「暗黒街の巨頭」(1949)のリメイクだった。さらにその前に、「或る男の一生」(1926)というオリジナル作品もあった。 ならば、今改めてリメイクしたって悪いことはあるまい。まして1974年作品が当時上り調子のトップスター=レッドフォードなら、今のハリウッドのトップ であるレオナルド・ディカプリオ主演でリメイクというのは企画として分かる。おまけにディカプリオとはすでに「ロミオ&ジュリエット」(1996)で組ん で相性もよく、キンキラ豪華な見せ場づくりにも長けているバズ・ラーマン監督での映画化とは! これは素晴らしい企画だ。普通はリメイク企画を高く買えな い僕だが、この作品は素直にうまくやったなと言わざるを得ない。主役も監督もドンピシャにハマってる。おまけにそこにディカプリオの古くからの盟友で、「スパイダーマン」 (2002)でグッとスターのしての格も上がったトビー・マグワイア、「17歳の肖像」(2009)で注目された若手スターのキャリー・マリガンも加わる となれば、これは見なくちゃならない見ないわけにいかない。そういや僕は失敗作と言われた「オーストラリア」(2008)を見逃しちゃったから、あの「ムーラン・ルージュ」(2001)以来10年以上ご無沙汰のバズ・ラーマン作品ということになる。感想文のアップこそ遅れに遅れたが、僕は待ちきれずに公開早々に見に行ったわけだ。

ないよう

  寒々とした雪の療養所に、一人のアルコール中毒の青年が収容されていた。彼の名はニック・キャラウェイ(トビー・マグワイア)。まだ若いのにやつれて疲れ 切った表情は、彼がすでに壮絶な経験をしてきたことを伺わせる。そんな抜け殻のような彼の姿を見かねてか、精神科医のウォルター・パーキンス博士(ジャッ ク・トンプソン)は、彼の経験を書き記してみてはどうか…と持ちかける。それまで何にも関心を持てずやる気のなかったニックだったが、自分の思い出を書き 記しているうちに、昔取った杵柄かどんどん興が乗ってくる。そんなニックが振り返ってみるにつけ、思い出す価値がある人物と思えるのはたった一人、あの ギャツビーという男だけだ…。それは、1922年の春に遡る。アメリカは空前の好景気に沸き、禁酒法時代なのに、いや、禁酒法時代だからこそ、密造・密売 の酒はもてはやされた。この世の快楽という快楽を、皆が争うようにむさぼっていた。本来は真面目な作家志望の青年だったニックも、そんな時代に乗り遅れま いとニューヨークにやって来る。むろん世間のノリからすれば、作家を目指すなんてあり得ない。ニックとてまだ若く野心もあった。彼はウォール街で株の仲買 人として働き始め、世の豊かさのおこぼれにありついた。だから彼は、富の象徴とも言える大邸宅が建ち並ぶ、ロングアイランドのウエスト・エッグという高級 住宅地に一軒家を買い求めたわけだ。もっとも彼の家は、それらの豪邸と比べればちっぽけなあばら家でしかない。それでも彼は、ここで大富豪たちと軒を並べ ていることにささやかな喜びを見いだしていた。それにここに住むということは、彼の親しかった従兄妹デイジー・ブキャナン(キャリー・マリガン)と、その 夫でニックのエール大学学友で、なおかつ名門の出であるトム・ブキャナン(ジョエル・エドガートン)に会える楽しみもあった。案の定、デイジーを訪ねた ニックは大歓迎され、彼女の友人で華やかな女子プロ・ゴルファーのジョーダン・ベイカー(エリザベス・デビッキ)を紹介される。デイジーはニックに彼女を くっつけようと思っているようだ。都会的でシャレたジョーダンは魅力的な女だが、少々ニックには荷が重い気もする。そしてデイジーの夫トムはいささか品が ない男ではあるが、ギラギラして自信満々だ。そんなところに電話がかかり、慌てて部屋を出て行くトム。そんなトムの後ろ姿を見つめながら、デイジーはニッ クに意外なことを告げるのだった。「トムは浮気しているわ」…。明らかにデイジーは幸福そうではなかった。女はバカなほど幸せになれる、娘にはバカに育っ て欲しい…こんなことを真顔で言うデイジーが幸せな訳がないだろう。ニックは複雑な気分にならざるを得ない。そして、デイジーはいわくありげに対岸の灯台 の明かりと、その彼方にある大豪邸を見つめているのだった…。ある日、ニックはトムに誘われてクルマでニューヨークへ向かうことになるが、その途中の殺風 景な町で突然トムはクルマを停めた。そこには小さい自動車整備工場があり、トムが訪ねると貧しく善良だが要領が悪そうなジョージ・ウィルソン(ジェイソ ン・クラーク)という工場主が出てきた。トムは彼に自分の車を売ると前々から約束しているようだが、どうもその約束はなかなか果たされそうもないようだ。 トムは明らかに彼を見下しているのである。しかもトムは、決してジョージに用事があってここに寄った訳ではなかった。二階からけだるそうに降りてきた、い かにも身持ちが悪そうなジョージの妻、マートル(アイラ・フィッシャー)の顔を見に来たのは明らか。この二人のただならぬ間柄は、初めて会ったニックにも ハッキリ分かる。分かっていないのは、哀れな亭主のジョージだけだ。後日、トムがマートルとの逢瀬に使っているニューヨークのアパートにニックも招かれ て、マートルの妹キャサリン(アデレイド・クレメンス)や友人たちも交えての乱痴気騒ぎ。酒とクスリでニックも大いに乱れるが、トムが狂乱のあげくマート ルを殴るのには閉口した。そんなこんなでヨレヨレになって自宅に戻ったニックだが、玄関には一通の封書が届いていた。それはニックの「お隣」となる大富 豪、ギャツビーという男からのパーティーの招待状だ。ギャツビー…それは、ここウエスト・エッグ界隈では屈指の大豪邸を海辺に構え、連日連夜豪華絢爛の パーティーを繰り広げていることで有名な男。そのパーティーには金持ち連中がワンサカと押しかけ、飲めや歌えの大騒ぎを繰り返していた。しかしパーティー にやってきた客たちも含め、人々は誰一人としてギャツビーの正体を知らない。人殺しともドイツのスパイとも言われていたが、それも定かではない。分かって いたのは、ただ「金持ち」ということだけだ。そんなわけで、憧れのギャツビー邸のパーティーに、一張羅を着込んで意気揚々と乗り込むニック。ドヤ顔で招待 状を持参したニックだが、実はパーティーの客は誰一人として招待状などもらっていない。勝手に押しかけている連中ばかり。逆に言えば、ニックがもらった招 待状は、かなり貴重なモノらしい。そんな空前のドンチャン騒ぎの中、ニックはあのジョーダンとバッタリ出くわす。彼女はニックがギャツビーからの招待状を もらっていると知るや、それまでのどこか冷ややかな態度をクルリを翻し、やけに親密に接してくるではないか。「ギャツビーから招待された人物」であること は、どうやらかなりのアドバンテージになるらしい。そんなこんなしているうちに邸の執事が近づいて来て「ギャツビー様がお二人をお呼びです」と言うではな いか。…。やがて執事に導かれてついて行くと、タキシードを着こなした若く魅力的な男(レオナルド・ディカプリオ)が、ニックを見つめてニッコリと微笑み かけた。「私がギャツビーだ」…。

みたあと

  何度も言うように、1970年代映画ファンの僕にとって「ギャツビー」と言えばレッドフォードのギャツビー。この作品を避けては今回の作品も語れない。そ れは、ハリウッドきってのスーパースターであるレッドフォードの実質上の「出世作」。それ以前にも「明日に向かって撃て」(1969)などでスターであっ たレッドフォードだったが、決定的なスーパースターとなったのはこの映画から。いや、正確にはこの映画を「核」とした、当時のハリウッドの「ノスタルジー 映画ブーム」がレッドフォードをスターにした。1970年代半ばのハリウッドには、1920〜30年代を舞台とした映画が氾濫。同じレッドフォードとポー ル・ニューマン主演の「スティング」(1973)、ライアン・オニールとテイタム・オニールの父子共演による「ペーパー・ムーン」(1973)、ウォーレ ン・ビーティとジャック・ニコルソン共演の「おかしなレディ・キラー」(1975)、ジョン・シュレシンジャー監督の「イナゴの日」(1975)、それに ロバート・ワイズによるパニック仕立ての「ヒンデンブルグ」(1975)あたりまで含めて、ノスタルジー溢れる作品群が映画界を席捲した。実はそれらの作 品群が作られたのも、F・スコット・フィツジェラルドの小説「グレート・ギャツビー」が再映画化されることから企画されたようなところがあったわけで、だ からこれらのノスタルジー作品「艦隊」の中の「旗艦」はあくまでレッドフォード主演の「ギャツビー」。レッドフォードはこれに先立つ「スティング」とこの 「ギャツビー」、さらに「華麗なるヒコーキ野郎」(1975)というノスタルジー作品によってスターダムを決定的なものにしたと言える。レッドフォードの 「華麗なるギャツビー」とは、それくらい彼にとっては重要な作品だったのだ。そんなノスタルジー映画の「本命」視されるほどの話題作だったので、制作前か ら話題満載。実は当初この「ギャツビー」は、スティーブ・マックイーン主演で企画されていた。相手役のデイジーには、「ある愛の詩」(1970)で注目さ れた新スターで、当時のパラマウント副社長ロバート・エヴァンスの妻だったアリー・マックグローを予定。ところがそれに先だってマックイーン主演の「ゲッ タウェイ」(1972)にマックグローが出演したところ、この二人が不倫にはしってマックグローとエヴァンスは離婚。そのためパラマウント作品「華麗なる ギャツビー」のキャスティングは、当然のことながら白紙に戻ってしまった。こうして二転三転したあげく、最終的にギャツビー=レッドフォード、デイジー= ミア・ファローで製作されることが決まったのだった。ところが、出来上がった話題作「華麗なるギャツビー」は脚本に当時飛ぶ鳥落とす勢いのフランシス・ フォード・コッポラが起用されたものの、監督は何で起用されたのか分からないイギリスのジャック・クレイトンだったのがどうも腑に落ちなかった。そして実 際の映画を見た印象としても、僕にとっては今ひとつピンと来ない作品だったというのが正直な感想だ。フィツジェラルド原作のダイジェスト版みたいな感じ で、映画的な魅力や驚きが皆無。最もマズイのは、ヒロインのデイジーを演じるミア・ファローがやたら神経質そうで線が細くて魅力に乏しいこと。おまけに レッドフォードとの相性も最悪だった。そして、そもそも主役のレッドフォード本人こそが、ギャツビーという男を演じるのに不向きだった気がする。ギャツ ビーは所詮は上流階級に成り上がった下層の男でしかないのに、レッドフォードは最初から「上品で恵まれた白人」の臭いがプンプン。知的なレッドフォードで はギャツビーの隠しきれない「生まれ育ちの悪さ」「胡散臭さ」が表現できないのだ。そんなわけでヒットもしたしレッドフォードをスーパースターに押し上げ た作品ではあるものの、作品的には決して成功作ではなかったように思う。当然、今回のデカプー版ギャツビーについても、そうしたレッドフォード版の欠点を どうやって埋めるかが課題となってくるわけだ。

こうすれば
  では、結果はどうだったのかをサッサと言ってしまおう。面白い! まず、予想通り、バズ・ラーマンの資質がこの映画に文句なくハマっていた。実は今回の作 品、やっていることは基本的に「ムーラン・ルージュ」と変わらない。ところが、むしろ今回の映画の方が必然性を持っているようにすら見えるのである。 「ムーラン・ルージュ」では主人公のアパートからバ〜ッとカメラが引くとパリの街並みを空から見渡したような絵がCGで描かれ、当時の時代背景を見せてく れた。今回もCGを多用して、デイジーの私邸から海をまたいだ向こう側のギャツビー邸…という位置関係を何度も何度も強調。その他、高級住宅街のウエス ト・エッグからトムの浮気相手の夫が経営する自動車修理工場のある労働者階級の町、そしてその彼方にある大都会ニューヨーク…という位置関係を強調。それ ぞれギャツビーのデイジーに対するつのる想いや、登場人物の置かれた「格差」を視覚的に見る者に焼き付ける。確かに同じようなかたちのCG映像は「ムーラ ン・ルージュ」でも使ってはいたが、これほど物語のテーマに肉薄した使われ方や必然性ある使われ方はしていなかったと思う。同時に、レッドフォード版 「ギャツビー」でもこのあたりの感触は映画から分かりやすく伝わっては来なかった。それを単純明快にズバッと見せてくれるのは、バズ・ラーマンのハッタリ 感があったればこそ。そして連夜の豪華絢爛なパーティーの大風呂敷ぶりや登場人物のバブリーな言動は、それこそ出世作「ダンシング・ヒーロー」 (1992)から「ムーラン・ルージュ」あたりまで一貫した、どこか俗悪で派手ハデ好きのバズ・ラーマンらしいところ。そしてバズ・ラーマンらしいケバケ バしてやり過ぎの騒ぎっぷりだからこそ、その空疎さが一際きわ立つのだ。単刀直入にズバリと言うと、レッドフォード版「ギャツビー」では映画そのものがふ やけた出来だったこともあってピンと来なかったこともあるが、今回の映画化にはちゃんと今作る「必然性」が感じられるのだ。誰だって今回のギャツビーを見 て、バブルやその崩壊後、あるいはリーマンショックやその後の金融危機のことを想起せずにはいられない。レッドフォード版公開の1970年代半ばでは 「ギャツビー」は遠い過去の話だったが、今回の作品はまさに今の問題…バブル、拝金主義、刹那主義、格差社会…などなどを連想させざるを得ないものになっ ているのである。その豪華なパーティーでガンガン流れるのがヒップホップなど今風音楽という手法も…すでに「ムーラン・ルージュ」で試みられたものだが、 今回の作品ではこうした音楽の使い方がもっと別の意味を持ってくる。「これは過去ではなく、今の物語だよ」という作者から観客への目配せのように感じられ るのだ。そしてバズ・ラーマンは、この拝金主義こそがアメリカ社会が根源的に抱えている病理なのだ…と言おうとしている。ブラピも「ジャッキー・コーガン」 (2012)で同様のことをやろうとして失敗していたが、この作品はむしろ見かけ上を軽薄・俗悪でコテコテに仕上げたことで、それを見事に達成してしまっ たのだ。そして、それは元々フィツジェラルドの原作に内包されていたものでもある。つまり、今回の「ギャツビー」は原作の精神に忠実な映画化であると考え るべきなのだ。そもそも、ギャツビー役のディカプリオからしてドンピシャ。ギャツビーは虚勢を張りまくっているが胡散臭く、ええカッコしてるがどこかお里 が知れるような男。知性と気品があると見せたがっているが、それがからっきしない男なのだ。つまり「本来の自分より大きく見せかけたい男」。それこそ「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」(2002)から「J・エドガー」(2011)に至る、ディカプリオの役者としての最良の資質ではないのか。これこそ、まさにお手の物の役どころだ。おまけに臆面もなく自分の自慢話をニックに並べ立てるあたりや、いよいよという時に挑発するトムに対してキレるあたりの異常性など、「シャッターアイランド」 (2010)あたりで見せていたアブない味まで活かされている。もちろんディカプリオがスターとして持っているキラキラぶりも含めて、本当に彼のための役 としか見えない素晴らしさなのだ。巷じゃあまり認められていないように見受けられるが、これはなかなかの名演ではないだろうか。一方、デイジーも内面に抱 える弱さを巧みに表現して、キャリー・マリガンがこちらも好演。ギャツビーの理解者ニックにディカプリオの盟友トビー・マグワイアを配するキャスティング も絶妙だ。今回の「ギャツビー」の映画化は、少なくともレッドフォード版のパッとしない結果を知っている僕からすると数段上の大成功だと思えるのだが、い かがだろうか?

さいごのひとこ と

 デカプーは胡散臭くてナンボ。


 

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