新作映画1000本ノック 2013年5月

Knocking on Movie Heven's Door


こ のページの作品
「L.A.ギャングストーリー」 「ハッシュパピー/バスタブ島の少女」 「ザ・マスター」 「世界にひとつのプレイブック」

 

「L.A.ギャングストーリー」

 Gangster Squad

Date:2013 / 05/ 27

みるまえ

  ちょっと前から劇場で予告編を見かけていた作品。「総天然色」みたいなゴージャスでクラシックな色合いの作品で、派手なギャング物語が展開。顔ぶれはジョ シュ・ブローリン、ライアン・ゴズリングなどこの手のちょいと古風な雰囲気にもピッタリ来る顔ぶれ。お話は街を支配するギャングたちに手段を選ばずに対抗 する警察の「特命班」みたいな内容みたいで、「アンタッチャブル」(1987)のロサンゼルス版のような印象だ。悪のラスボスも「アンタッチャブル」のロ バート・デニーロ演じるカポネを彷彿とさせる感じで、ショーン・ペンがアクの強い芝居を見せている。なかなか面白そうだし顔ぶれも魅力的だが、ひとつ文句 をつければ…何となくすべての要素が「すでに見ちゃった」ような印象であることだろうか。先ほど挙げた「アンタッチャブル」の他に「L.A.コンフィデン シャル」(1997)など…が、すぐに脳裏に浮かんで来る。新鮮さ、ユニークさ、サプライズが皆無な印象なのだ。それでも予告編からは何となくイキの良さ は感じられるだけに、サクッと楽しめるのではないかと劇場に駆けつけた。

ないよう

 1949 年、ここはロサンゼルス。元々はボクサーとしてのし上がったミッキー・コーエン(ショーン・ペン)は、今ではここロサンゼルスでギャングの大ボスとして君 臨している。ロサンゼルスの街を見下ろす小高い山の「ハリウッドサイン」の足下で、コーエンは今まさに手下たちにその無慈悲ぶりを遺憾なく発揮していると ころ。ギャングの「本場」シカゴから派遣されて来たトミー・ルッソ(フランク・グリッロ)という男を縛り上げ、何と2台のクルマで反対側に引っ張り合って 引き裂いてしまうというハチャメチャぶりだ。「シカゴ恐れるに足らず」という強烈アピールである。このように、戦後まもなくのロスは「本場」も手を出せな いコーエンの治外法権と化していた。当然、警察だってコーエンの敵ではない。敵というより、コーエンにズブズブに抱き込まれた連中ばかりの状態だった。そ んなロスの昼下がり、田舎から出てきたばかりのお上りさんの娘が、駅で早くもミッチ・ラシーヌ(ジェームズ・ランドリー・ヘバート)というチャラい男に一 本釣りされている。それも、女優のオーディションが受けられるというベタな手口だ。それを目撃していたのが、たまたまその場で張り込んでいたロス市警の ジョン・オマラ巡査部長(ジョシュ・ブローリン)。同僚は面倒ごとに首を突っ込みたくないので見て見ぬふりをしようとしていたが、熱血漢オマラはそうはい かない。怪しげなビルに連れて行かれた娘を追って、単身このビルに乗り込んだ。案の定、ビルの一室に連れ込まれるや、娘は男たちに襲われる。そこにオマラ が突撃して、ゴロツキどもをブチのめす。こうしてミッチと子分たちを警察署へと連行したオマラだが、令状をとらずに逮捕だから拘留できない。そんなテイタ ラクに、苦虫をかみつぶすしかないオマラだった。しかし例のビルに戻ってきたミッチと手下たちも、実はドヤ顔している場合ではなかった。手入れを受けたと 聞いて、あのコーエン御大がわざわざやって来たのだ。すっかり怯えて言い訳するしかないミッチたち。しかしコーエンは、もはや彼らを責めもしなかった。し かし手入れが入った以上、このビルもミッチたちももう使えない。彼はミッチたちを不問にすると思わせてビルのエレベーターに閉じこめ、ビルに火をつけて始 末するのだった。そんなこんなで渋い顔のオマラを、ロサンゼルス市警察署長パーカー(ニック・ノルティ)がご指名。署長の部屋に呼ばれて不審げな顔のオマ ラに、パーカーは大胆な提案をするのだった。この前の戦争では歴戦の勇士だったオマラ。その彼に新たな「戦争」の指揮を執れというのだ。それは、ロサンゼ ルスを支配するコーエンとの「戦争」だ。バッジをはずして警官としての身分を隠しての戦い。そして、もはや逮捕する必要もなく、容赦なく仕留めてしまって いい。まさに「戦争」。そのためのチームを秘密裏に編成せよとのパーカーの言葉に、悪を憎むオマラが燃えない訳がない。かくしてオマラは、新チーム発足の ための下調べに奔走する。そんな一方で、ロス市警にはオマラとは対照的な生き方をする刑事もいた。人生享楽派の若手ジェリー・ウーターズ巡査部長(ライア ン・ゴズリング)がそれだ。コーエン一派に買収されたりしている悪徳警官でないことでは、オマラと共通するロス市警内での少数派。しかし共通するのはそこ までで、ウーターズの場合にはあまりの腐敗ぶりにシラけきって、人生楽しむに限ると開き直っていた。今日も今日とてナイトクラブで、旧知の情報屋ジャッ ク・ウェイレン(サリバン・ステイプルトン)と一杯やっている。彼らの目の前では、例のコーエンが警察や司法の大物たちを抱き込んでいる真っ最中だ。これ では警察も手も足も出ない。そんな時、ウーターズは一人の「いい女」の存在に気づく。その女は、グレイス・ファラデー(エマ・ストーン)。ウーターズは彼 女に近づこうとするが、ジャックは彼を引き留めようとする。それもそのはず。グレイスはあのコーエンの「女」なのだ。もし手を出したら殺される。しかし、 火がついてしまったものは止まらない。ウーターズは引き留めるジャックを振り切って、たまたま歩いてきたグレイスを呼び止める。それから二人が親しくなる まで、大した時間はかからなかった。さて、パーカーからの命を受けたオマラは、帰宅早々に恋女房のコニー(ミレイユ・イーノス)からキツイお叱りをいただ くことになる。例のミッチの捕物で、顔を腫らしていたからだ。おまけに特命班の編制と聞いて、さすがに心中穏やかでないコニー。オマラの正義感に惹かれて 結婚したコニーではあるが、あまりに危険な行動は彼女も心配なのだ。しかし、「特命班」編成用のファイルを調べるオマラを見ていると、夫の力になりたい彼 女本来の気持ちがムクムクと首をもたげてくる。それと同時に、コニーは第三者だからこそ言える冷静な意見を夫に伝えるのだった。「ここにあるのは、すべて 優秀な警察官ばかり。そんな優秀な人間は、すでにコーエンが買収してるんじゃないの?」…それではオマラがスカウトすべき人材とは、果たしてどんな連中な のだろうか? まずはクラブで悪党を捕らえた、ナイフ投げが得意な黒人警官コールマン・ハリス(アンソニー・マッキー)に白羽の矢が立つ。さらに孤高の拳 銃使いマックス・ケナード巡査(ロバート・パトリック)をスカウト。行きがかり上、ケナード巡査が面倒を見ていたメキシコ人の警官ナヴィダッド・ラミレス 巡査(マイケル・ペーニャ)も仲間に入ることになる。また、異色の人材として電話盗聴に詳しいコンウェイ・キーラー巡査(ジョヴァンニ・リビシ)も加わっ た。さらに強力な助っ人を…とオマラが声をかけたのは、あの遊び人風情のウーターズだった。しかしウーターズは、「何をやっても無駄」とばかりに乗って来 ない。とりあえず当初はこの5人で、「ギャング特命班」を立ち上げることになる。その初仕事は、コーエンのカジノの襲撃だ。裏カジノが行われている街はず れの建物に、勢いよく乗り込んでいく「ギャング特命班」だち。しかしその場に買収されている警官たちが居合わせたことから、一気に形勢逆転。驚いたオマラ たち「ギャング特命班」は撤退を余儀なくされ、まずいことにオマラ、ハリスが警官に捕まってしまう。当然、警官はコーエンとつながっているから、このまま では二人はコーエンに引き渡されて殺される運命だ。一方、クラブではコーエンがある人物と会談中。その男ジャック・ドラグナ(ジョン・ポリト)は、ギャン グ界では訳知りの人物。彼は、シカゴからの使者を殺したコーエンのやり方はまずかったと批判。しかしコーエンはそんな言葉には耳を貸さず、「ロスは俺の宿 命の街だ!」と言い放つのみだ。そんなクラブの外では、あのウーターズが靴磨きの少年ピート(オースティン・エイブラムズ)と他愛のないおしゃべり。ウー ターズはこの少年に何かと目を掛けていて、この夜も彼に自分のクツを磨かせていたのだ。しかし周囲の状況が怪しくなるのを見てとると、少年を押しとどめて 帰らせようとする。そんなウーターズのイヤな予感は的中した。いきなりクラブにクルマで乗り付けた一団が、出てきたジャック・ドラグナを射殺する。その際 に巻き添えをくって、ピート少年も銃弾を浴びてしまうではないか。いつもシラけた表情のウーターズも、これには怒りに燃えざるを得ない。立ち去ろうとする クルマに向けて撃ちまくり、ギャングの一人を仕留めるのだった。さてその頃、留置場で困惑していたオマラとハリスのもとに、助太刀するためケナード、ラミ レスがやって来る。すると、なぜかあのウーターズまでが、オマラとハリスの救出に駆けつけるではないか。こうして最強の6人が揃った「ギャング特命班」 は、その後、着々とコーエン一味を追いつめていくのだが…。

みたあと

  僕も長く映画を見ているが、予告や広告などで事前に得られる情報と実物の映画が寸分たがわぬものであることは極めて少ない。予想外の面白さだったり、実は まったく別物の映画だったり、もちろんガッカリすることも多いのだが、ほぼ予想通りというケースは実はかなり少ないのだ。そして、予想通りということはそ ういうモノを期待して見に行くのだから、さぞや見る側は満足だろう…と思うと、そういう訳でもない。映画ってのはやっぱりどこかにサプライズがないとつま らないから、まったく思った通りの作品でしかなかったら、それはそれで物足りなく感じるものなのだ。で、この作品は…といえば、ストーリー的にも要素的に も、ほぼ予告編にあった通り。こういう風になるんだろうな…と思っていたら、思った通りに話が進行していくから驚いた。ギャングの大ボスってのはこんな感 じのキャラクターだろうと思っていたら、まさにその通り。仲間が一人ぐらい殺されるだろうな…と思ったらその通り。特に「アンタッチャブル」の影響(影響 という言葉が適切かどうかは分からないが)は絶大で、正直言って舞台をロスに移しての「アンタッチャブル」のリメイクと言っていいくらい。まったくユニー クさやオリジナリティの欠片も見つからないくらいの「もうすでにどこかで見ちゃった」感なのである。だから鮮度ゼロの映画と見えるはずなのに…なぜかそう はならない。新鮮でパリパリの新作として、フレッシュな魅力を放っているのである。それって一体なぜなんだろう?
ここからは映画を見てから!

みどころ
  ここまで書いて来て改めて劇場パンフレットを見て驚いたのだが、これって実話が元になっているらしい。こうまで「アンタッチャブル」もどきに出来ているの で、てっきり完全なフィクションかと思った。しかし仮にコーエンというギャングの大ボスがいて「ギャング特命班」があったとしても、この映画の「それ」と 実際とは大きく異なっているだろう。そう思ってしまうぐらい、この映画のすべての設定や要素は、「いかにも」な感じだし「典型」だ。リーダー役のジョ シュ・ブローリンは「いかにも」この手のリーダー役のタイプだし、古風な顔立ちが時代色にマッチしている。ライアン・ゴズリングのチョイ悪な色男ぶりも、 「ラブ・アゲイン」(2011)など の彼を見ていれば「さもありなん」。さらには…劇場パンフを読んだら「アンタッチャブル」のカポネとはイメージを変えたつもりらしいのだが、結果的にキレ やすくヤバいギャングの大ボスという点であのカポネを連想させてしまうショーン・ペンとか、このへんで仲間の誰かがそろそろやられるぞ…というタイミング でやられるとか、そのやられる奴が「アンタッチャブル」もこっちも同じチンチクリンのタイプ(笑)だとか、片やショーン・コネリーに対して「ターミネーター2」 (1991)のロバート・パトリックと役者のタイプは大きく異なるものの、叩き上げで一匹狼の大ベテランという共通するキャラクターを入れているあたりと か、基本的にどこか西部劇テイストを強く感じさせる作りになっているあたりとか…やっぱり全体的に「アンタッチャブル」との類似点はあまりに多い。さらに 出どころは分からないものの…特命班の一人がギャングの大ボスの情婦と通じているという設定も、すでに何かの映画で見たような設定だ。とにかくどこかで見 たような、「既視感」ばかりの映画なのである。ところが、先にも述べたようにそれが鮮度ゼロには見えない。別に傑作だとも思わないが、むしろフレッシュな イキの良さがある。大して面白くもない話なのに、見ていて面白いのだ。しかし、それは一体なぜなのか…。僕はこの作品を見ながら、実はそれをずっと考えて いた。そして、終盤のコーエンが立てこもるホテルに「特命班」が襲撃を仕掛けるくだりを見ていて、不意にその理由が分かったのだ。そうだ、「過剰」なので ある。それがちょっとやそっとではない。かなり過剰、それも何から何まで過剰なのである。ジョシュ・ブローリンのこの手の役の似合いっぷりは、それこそ ディック・トレーシーとか「FBI」とかのアメリカのクラシックな警察モノなら何でもできそうなほど。あまりにハマり過ぎてパロディ寸前なくらいだ。ライ アン・ゴズリングのチョイ悪色男ぶりもしかり。ショーン・ペンのボスもそうだし、その他の面々も「典型」が服着て歩いているぐらいの「典型」だ。それだけ じゃない。セットや衣装にCGも含めて徹底的に時代性を再現しているのだが、再現しすぎて昔の絵はがきみたいで不自然なほど。やりすぎちゃってるのであ る。ナイトクラブも過剰にゴージャスな感じで、全体的に昔のテクニカラーっぽい厚ぼったい色調を再現しているようで、よく見るとこれまた過剰だ。この映画 は時代色を出すにしても、あくまで懐古趣味ではなくイマドキ映画のトゥマッチな感覚でやっているのである。おまけに映画の見せ場としても、冒頭からいきな り八つ裂き場面が出てくるという過剰っぷり。アクション場面の銃弾雨あられ状態も、「スカーフェイス」 (1983)もかくやの過剰さ。イマドキなスローモーションによるノリノリでスタイリッシュな演出。おまけにとどめとして、ジョシュ・ブローリンとショー ン・ペンがわざわざ武器を捨てての一騎打ち。近くの噴水がブッ壊れているという設定にして、擬似的な雨の中の殴り合いという設定だ。「リーサル・ウェポン」一作目(1987)や最近のトム・クルーズ「アウトロー」 (2012)のエンディングと同じ「あれ」なのである。それでもって、このわざとらしいセッティングで展開される殴り合いがまたまた過剰(笑)。全編が一 貫してこんな感じなのだ。そのため、笑わせるつもりはないのだがどこかパロディにスレスレぐらいの感じがあって、見ている者とお話との間に奇妙な距離感が 生じる。そんなちょっとサメた不思議な感覚が、この映画の新しさのような気がするのだ。こう言っているとまったくホメ言葉のようには読めないが(笑)、僕 はこれを映画の「新鮮味」や「新しさ」という意味でホメ言葉として言っている。ストーリーや深みで見せる映画ではない、このどこか新しい感覚で見せる映画 なのだ。残念ながら僕は見逃してしまったが、「ゾンビランド」(2009)がすこぶる好評だったルーベン・フライシャー監督の個性なのだろうか。
こうすれば
 ちょっと残念なのは、「特命班」の最初のカジノ襲撃の杜撰さと仲間がやられるキッカケになってしまう作戦の失敗が、リーダーのオマラが間抜けなせいだと見えてしまいそうなこと。演じているのが「ブッシュ」(2008)などでアホな一面を発揮していたジョシュ・ブローリンだったのがまずかったのか。

さいごのひとこ と

 題名はL.A.アンタッチャブルでも問題なし。

 

「ハッシュパピー/バスタブ島の少女」

 Beast of the Southern Wild

Date:2013 / 05/ 27

みるまえ

  今年のアカデミー賞の候補作が出そろった時、まったく知らない作品が作品賞、監督賞、主演女優賞、脚色賞の候補に上がっていた。それがこの作品だ。有名監 督の作品でもスターが出ているわけでもない上に、何とノミネートされた主演女優が史上最年少の6歳! この作品は一体何なんだ?…と大いに気になったわけ だ。予告を見ると、その幼い少女の視点で描かれたアメリカ南部(?)の風景や生活を描いた映画…であるかのように見えるが、果たしてどうなんだろう。正直 言って、どんな映画なのか分かったようで分からない。今まで長く映画を見てきた経験から言うと、こういう映画は得てしてとてつもなくユニークな傑作である 可能性がある。ならば、1日も早く実物に接したいではないか。ちょうど前日に見た映画に思い切りガッカリさせられたこともあって、僕は「口直し」とばかり に公開されるや否や劇場に駆けつけたわけだ。

ないよう

  バスタブ島は、海に面した大きな川の河口付近に出来た小さな島だ。ここは長く威圧的な堤防で、外界から遮断されたような形になっている。そんな土地柄なの で、バスタブ島にはどこからともなく流れて来た人々が、勝手に作り上げた奇妙な地域社会が形成されていた。まだ6歳の女の子ハッシュパピー(クヮヴェン ジャネ・ウォレス)も、そんな島の住人の一人。飲んだくれてチャランポランな父親ウィンク(ドワイト・ヘンリー)と、ボロボロのキャンピングカーやバラッ クを住処として暮らしている。確かにいい加減で貧しい暮らしではあるが、反面勝手きままで自由そのもの。バスタブ島にはお祭りが世界のどこよりも多くある から楽しい…とハッシュパピーは思っていた。その時には、島の人々は色々な楽器を持ち出して、歌ったり踊ったり大騒ぎ。花火もバンバン上げて、大人も子供 も夜通し楽しむのだ。確かに堤防で閉ざされた場所ではあるが、堤防の向こう側はウンザリするような工場しかない。そんなものからは遮断されていて結構。毎 日朝になると父親ウィンクが鐘を鳴らし、家畜たちに餌をやると同時にハッシュパピーにも鶏を焼いてやる。彼女は自分がかじった鶏肉を、豚や犬にも分けてや るのだった。ハッシュパピーは彼女なりの知恵を持っていて、「自然や生き物、宇宙はすべてそれなりのかたちでうまく収まっている」と理解していた。また、 こんなバスタブ島にもこの島なりの「学校」があり、彼女もそこに通っていた。そこで先生(ジーナ・モンタナ)は、ハッシュパピーたちに自分の脚に描かれた タトゥーを見せる。そこには、有史前に生きていた恐ろしくて残酷な人食いの獣、巨大なバッファローのような「オーロクス」が描かれていた。今もこいつが生 きていたら、ハッシュパピーもこいつのエサになっていたかもしれない。たまたま氷河期がやって来たので、こいつは氷付けになったわけだ。しかし、いずれは 極地の氷も溶ける。氷付けになった「オーロクス」も、氷から解き放たれる時が来るかもしれない。その時には、このバスタブ島も水の中に沈む。その時を見据 えて、子供たちも生き残る術を覚えなくてはならない…と先生は教えてくれたのだった。そんな彼女の暮らしの中でただ一つ何か欠けているように思われるとす れば、それは母親の不在だろうか。ハッシュパピーの母親は彼女がまだ幼い時に、島を出て行ってしまった。ハッシュパピーは遠くに点滅する光を見ては、そこ に母親がいると思っていたのだ。しかしハッシュパピーの母親は、彼女の心の中に生きていた。彼女は「自宅」の食卓のイスに母親の残した服をかけて、毎日そ れに話しかけていたのだ。その時には母親は必ずハッシュパピーに話しかけてくれるし、歌もうたってくれるのだった。そんなある日、いきなり父親のウィンク が忽然と姿を消す。いつもなら夜には戻ってきたのに、一向に戻ってこない。だからハッシュパピーに食事の支度をしてくれる人もいない。何日も父の不在が続 く中、ハッシュパピーはひたすら母との対話で時間をつぶしているのだった。そんな父がいきなり帰って来たが、病院であてがわれた入院用の服を着て何やら様 子がおかしい。ハッシュパピーにも「うるさい!」と当たり散らして、乱暴に振る舞うばかりだ。理不尽な扱いを受けたハッシュパピーは、怒りと当惑でキャン ピングカーに籠城。ちょうど彼女がキャンピングカーのキッチンでコンロを使っていたままだったので火が外に燃え広がってしまうが、怒りで頭がいっぱいの彼 女は段ボール箱に閉じこもったまま出てこない。その頃、ウィンクはようやく火事に気づいて、ハッシュパピーを探しにやって来る。逃げ出した彼女にウィンク が追いつき、荒っぽいやりとりの末にハッシュパピーは「お父さんなんて死んじゃえ!」とウィンクの胸を殴った。するとウィンクの容態が急変。胸を押さえた ままその場に倒れてしまうではないか。その頃には周囲の天候は、嵐の前触れの様相を呈していた。ハッシュパピーは、伝説の獣「オーロクス」を閉じこめてい た氷塊が北極のどこかで崩れ落ちて、今まさに海に流れ出した気配を感じた。慌てて先生のもとに駆けつけたハッシュパピーは、父親が急に倒れたと告げる。先 生はそんな彼女にビンに詰めたクスリをくれた。そのビンを持って父親が倒れた場所に慌てて戻るハッシュパピーだったが、すでにその場には父親はいなかっ た。いよいよ嵐は激しさを増して、島の人々の中には避難しようとする者も少なくなかった。しかし一方で空元気を出して「べらんめえ」とばかりに開き直る連 中もいた。いつの間にか回復したウィンクも、そんな怪気炎をあげる一人。古くからの住人たちと一緒に、「逃げ出す奴は腰抜け」とブチあげるばかりだ。ウィ ンクは何もなかったかのようにハッシュパピーを自宅バラックに連れ帰り、激しくなる一方の嵐の音を聞きながら、彼女に「大丈夫だ」と言い聞かせて眠りに就 くのだった。ところが一夜明けると…周囲の状況は一変していた。ハッシュパピーもウィンクもかろうじて無事だったものの、辺り一面が水浸し。嵐によって浸 水が起こり、バスタブ島は壊滅状態になってしまったのだ…。

みたあと

  実はこの感想文を書くのは、かなりキツかった。実際には全編のほとんどがハッシュパピーという少女のモノローグによって進行しており、それによって一種の おとぎ話やファンタジーのような味わいが生まれているのだ。それが、この作品に他の映画とはひと味違う雰囲気を与えている。この作品を気に入る人も、ある いは気に入らないだろう人も、おそらくこの作品がユニークであることだけは認めざるを得ないはずだ。監督だけでなく脚本や音楽まで手がけた新鋭ベン・ザイ トリンのセンスを、認めざるを得ない。

みどころ
  だが、何よりも評価すべきは、誰の目から見てもこの映画の6歳のヒロイン、ハッシュパピーを演じたクヮヴェンジャネ・ウォレスだろう。チンチクリンの髪 型、いつもランニングシャツみたいな身なりのこの女の子は、世間一般の可愛い子というイメージとは程遠いが、どんな女の子よりも生き生きとしている。 まぁ、他のこの映画の感想やレビューなどでも散々語られているだろうから改めてドヤ顔で書いても仕方ないが、この映画が成功したとすればその最大の要因は 彼女にあることは間違いない。先に述べたベン・ザイトリンの功績についても、その多くはクヮヴェンジャネ・ウォレスを起用したことにあると言うべきだろ う。またそれ以外にも、バスタブ島の風景が本作の大きな魅力になっていることを見逃せない。他のみなさんはどうか知らないが、僕は子供の頃から「島」にあ こがれていた。アーサー・ランサムの小説「ツバメ号とアマゾン号」シリーズなども含めて、「島」が出てくる作品にはどうしても抵抗できないのだ。最近では ウェス・アンダーソンの「ムーンライズ・キングダム」 (2012)にすごく好きになったのも、白状するとそこに描かれている「島」に惹かれたからだ。今回も別にキレイでもなくゴミみたいな建物があちこちに点 在するバスタブ島が、僕には何となくグッと来た。それが水没してしまって一面泥だらけになっても、見ている僕はワクワクしてしまったのだ。主人公のボロ家 も彼女の父親が自動車の車体をベースにこしらえたお手製ボート(笑)も、ガキの「秘密基地」感が満載。僕の中にある小学生の男の子並みの感性に訴えかけて 来られて、それだけで作品の魅力が倍増した。これは作品的な質の問題ではなくて、あくまで僕の個人的な好みの問題ではあるが(笑)。

ここからは映画を見てから!

こうすれば
  ヒロインのクヮヴェンジャネ・ウォレスの魅力、彼女のモノローグ中心の「おとぎ話」的な展開、舞台となるバスタブ島の描写の魅力、さらに「おとぎ話」的な 気分をふくらませてくれる、チープでアナログな特撮で描かれる伝説の獣「オーロクス」の描写…など、あくまで自由気ままな土地であるバスタブ島での生活を リアルに描きながら、6歳の少女の視点から語っているために生まれる「おとぎ話」的味わいが魅力の本作なのだが、それが映画の後半にはいささか興ざめな方 向に向かってしまう。洪水によって壊滅状態になり、衛生状態も最悪となったバスタブ島の住人を、役所の人々が強制的に島から退去処分にする。強制収容され た住人たちは一時避難所に閉じこめられることになるのだが、結局、ハッシュパピーの父親はじめそれに反抗する住人は、その避難所から逃げ出してしまう…。 このあたりが「管理しようとする側」と「自由な人々」との戦い…みたいなニュアンスを微妙に帯びてしまうのが、見ている側としてはガッカリなのだ。そもそ もバスタブ島の住人たちってそれほど高級な連中でも、程度の高いことを考えてる訳でもないだろう(笑)。ただのいいかげんで無責任な連中を必要以上に持ち 上げちゃってるのがシラけるし、「自由を求めて管理社会と戦う」…的に見えちゃう展開が、それまでのこの映画の持つ「おとぎ話」気分を壊している。蛇足と いうか、ヤボなのだ。正直、この島の住人たちの強制収容みたいな部分がなければ、他に例を見ないユニークな作品になったはず。それだけに、何でこんなつま んないモノを入れたんだと残念に思うのだ。

さいごのひとこ と

 これ言わなきゃいいのに。

 

「ザ・マスター」

 The Master

Date:2013 / 05/ 20

みるまえ

  この映画については、先日のアカデミー賞についての話題で知った。何とこの作品、主演男優賞、助演男優賞、助演女優賞の3部門の演技賞に候補を出してい る。今さらアカデミー賞にそれほどの価値を見いだすほどウブじゃないが、それでもこの映画が傑出した印象を与えているのは間違いない。おまけにその演技賞 候補に挙がっているのが、ホアキン・フェニックス、フィリップ・シーモア・ホフマン、エイミー・アダムスの3人と来れば、これはただ事ではないだろう。特 にホアキンは「グラディエーター」(2000),「クイルズ」 (2000)など 一時あれだけ若手演技派として騒がれながら、いつの間にかすっかりご無沙汰になってしまっていた。その名前を忘れかけてたというのが正直なところ。ここへ 来てのいきなりの復活は実に喜ばしいではないか。しかもこの作品、何とポール・トーマス・アンダーソンの新作というから二度ビックリ。「ブギーナイツ」 (1997)、「マグノリア」(1999)と注目すべき作品を連発していた時にはグイグイ来てたが、続く「パンチドランク・ラブ」 (2002)は正直ちょいといただけなかった。その後はすばらく作品が途切れて、こちらも忘れられた存在になりかけていたが、「ゼア・ウィル・ビー・ブ ラッド」(2007) で突然復活。ところがその後またまた沈黙してしまい、本作は5年ぶりの新作となる。特に僕の場合、たまたま「ゼア・ウィル・ビー・ ブラッド」を見逃してしまったので、本作は何と10年ぶりのポール・トーマス・アンダーソン作品ということになる。いやが上にも期待が高まるではないか。 お話は新興宗教の教祖が絡む物語だと伝えられており、そのあたりも大いに興味がわくところではある。しかしなかなか都合が合わずに公開後も劇場に駆けつけ ることが出来ず、上映終了間際に何とか見ることができたというわけだ。

ないよう

  フレディ・クエル(ホアキン・フェニックス)は第二次大戦時に招集された兵士だったが、それが仇となって心を病んでしまっていた。同じように心や体を病ん でしまった兵士たちと海岸で療養を続けているが、そのうつろな気分は直らない。毎日、ココナッツの果汁から自己流で作った酒を飲んだくれて、一人きりで呆 然自失。たまに他の兵士たちのところへ近づいていくかと思えば、誰かが海岸の砂で作った巨大な女体の股間に体を沈めて、激しく腰を動かす始末。軍医の診察 を受けた限りでは、かつて彼の元を去ってしまった女性のことが尾を引いているようにも思えるのだが…。そんな彼もいつか心の病が治癒したと見なされて除 隊、軍の口利きで働くことになる。デパートの売り場の一角を使って、記念写真や証明写真を撮影する仕事だ。最初は仕事も順調、女子店員のマーサ(エイ ミー・ファーガソン)ともいい仲になったりしていたが、そのマーサといざ一戦交える段になったらうまくいかない。これがキッカケかどうかは分からないが、 仕事中に客に絡んで大暴れする始末。結局この仕事場にはいられなくなってしまう。次にフレディが就いた職は、畑での農作業。しかしここでも例の自己流密造 酒を作ってみんなに振る舞ったはいいが、中の一人をアルコール中毒で死なせてしまうテイタラク。「オレのせいじゃない!」と叫びながら、いきり立って怒る 同僚たちを振り切って逃げるしかなかった。こうして、またまた行き場がなくなってしまったフレディ。フラフラと港を歩いていると、ガヤガヤとパーティが行 われている船が停泊されているではないか。行き場のないフレディは、結局、その船に忍び込むしかなかった。そのまま疲れもあって、船室内で眠ってしまうフ レディ。ところが翌朝、フレディは船員に見つかってしまい、船底から階上のオフィスに連れて行かれる羽目になる。そこで彼を待ち構えていたのは、「マス ター」と呼ばれる恰幅のいい男ランカスター・ドッド(フィリップ・シーモア・ホフマン)。しかし「マスター」は、フレディの密航についてはまったく責める つもりはないようだった。それどころか、マスター」はフレディを歓迎し、彼の作った酒をホメて自分のためにも作るように頼んできた。この男「マスター」 は、「ザ・コーズ」という宗教を司る教団指導者だったのだ。今回の航海は、「マスター」の娘エリザベス(アンビル・チルダーズ)の結婚式のために企画され たもの。その花婿は、「ザ・コーズ」信者の一人クラーク(ラミ・マレック)だ。結婚式の列席者として船に乗り込んでいる人々も、すべて「ザ・コーズ」の信 者なのだ。その「ザ・コーズ」の団体を、圧倒的なカリスマで率いているのが「マスター」。そんな「マスター」を、妻のペギー(エイミー・アダムス)が、い つも彼をがっちりとサポートしている。フレディはなぜか「マスター」のお気に入りとなり、この船の中で一行の仲間として受け入れられることになった。そし てある時、フレディは「マスター」による「プロセシング」を受けることになる。それは、人間の精神を解放するための「マスター」の奥義だ。「マスター」が いくつもの質問を繰り返し、被験者のフレディがそれに答えていく。それによって、被験者は徐々に自分の個人的な問題をさらけ出していく。母親が精神病院に いること、恋人だったドリス(マディセン・ベイティ)という娘は戦争から戻ったら彼を待ってはいなかったこと…。「マスター」はフレディの心が病んでいる と気づき、さらに彼にシンパシーを感じるのだった。さて、この「プロセシング」によってフレディはますます「マスター」に親しみを感じ、船が港に着いて一 行が降りた後も、彼らと行動を共にすることにする。それくらい、フレディは「ザ・コーズ」の中に溶け込んでいた。ニューヨークでは「マスター」の教義に疑 問を持っているジャーナリストが、彼に挑発的な発言を投げかける。明らかに嘲笑するようなジャーナリストの発言に、「マスター」は苛立ちを隠せない。する と夜遅く「若い連中」を伴ったフレディは、このジャーナリストの部屋に乗り込んで痛めつけた。これを知った「マスター」は「暴力はいかん」とフレディをた しなめたが、それが自分に対する忠誠心と親しみによるものであることは、「マスター」もちゃんと理解していた。それにフレディも、かつてほど怒りを衝動的 に発散したりはしなくなった。例の「プロセシング」のおかげなのか、徐々にではあるが感情をコントロールできるようになってきたのだ。こうして深い絆で結 ばれた「マスター」とフレディだったが、周囲の彼らを見る目は徐々に変わりつつあった…。

みたあと

  正直言って新興宗教を扱った部分がある…という情報だけしかない状態で見に行ったのだが、その先入観はまったく間違っていた。いや、確かに宗教は出てくる し、それがドラマの大半の部分を占めてはいるが…この映画は新興宗教に関する映画ではない。それは背景にあるとしても、新興宗教の是非を問うとか、その実 態にメスを入れるとかいう映画ではまったくない。むしろそっちの方の描き方は淡々としていて、単に「そういうもの」として描かれているだけでしかない。も ちろん新興宗教のいかがわしさも描かれはするのだが、当初予想していたような、それを告発したり好奇の目で見たりするような内容ではない。本作で描かれて いるのはそんなモノではなくて、ひたすら「二人の男の関係」なのだ。
ここからは映画を見てから!

みどころ
  見始めてすぐに、そういえばポール・トーマス・アンダーソンの映画って、擬似的なモノも含めて「父と子」の関係性の映画だったかなと思い出したりした。 「ブギーナイツ」でのマーク・ウォールバーグ演じる主人公と彼を見いだしたポルノ映画監督バート・レイノルズの関係もそうだし、「マグノリア」に出てきた 人間群像の中でも強烈だったのは、トム・クルーズとジェースン・ロバーズの父子の相克だ。不幸にも見逃してしまった「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」で も、ダニエル・デイ=ルイス扮する主人公の父子の関係が重要な位置づけだったと聞いている。そういう意味では今回の主人公ホアキン・フェニックスと新興宗 教教祖フィリップ・シーモア・ホフマンの関係もまた、疑似「父子」と言えなくもない。たまたま偶然に出会った二人だが、心を病んでいた主人公と新興宗教の 教祖というそれぞれの立ち位置によって、すぐに導く者と導かれる者という間柄になっていく。しかし僕はどんどんお話が進んでいくうちに、ちょっと考えが変 わってきた。疑似「父子」と気づいて「なるほど〜」と思って見ていたし、確かにそういう側面は否定できないのだが、そればっかりでもないだろう…という気 持ちになってきたのである。この二人の関係は、必ずしも疑似「父子」的な云々だけではくくれないなと思い始めたのだ。もっと大きな「人間の出会い」という くくりで考えたいと思ったのである。僕がネットの世界で初めていろいろな人と出会った時、最初に感じたあの戸惑いを思い出した。子供の頃ならいざ知らず、 大人になってから「人と出会う」というのは、結構責任と覚悟が伴う。仕事を通して知り合うのは仕方ないとして、そうでない人間的つながりを持とうとする と、当然楽しいことばかりがあるわけではない。そんな楽しくないことまで引き受けた上ででもオマエは「人と知り合う」のか…という一種の覚悟を要求される のである。そしてひとたび出会ってしまったら、大なり小なり、良くも悪くもお互いがその影響を受けざるを得ない。この映画の主人公は、明らかに教祖からの 影響を受けて変わっていく。ある一面では彼の人間性を本当に解放していくという「良い面」もある。しかし別の一面では、ダークサイドを持っている宗教を守 るために、盲信的な荷担をしてしまったりもする。また、影響は主人公が教祖から一方的に受けるばかりではなく、実は教祖もまた主人公に影響され、依存して いくようにも描かれる。人と人との関係はそんなものだ。それだけでなく、この教祖が妻に依存しながら常にプレッシャーも受け続けていること、教祖が教団を 維持していく中で信者たちの「盲信」ぶりに苛立ちを感じていることも描かれている。だから教祖は、言いたいことを言いやりたいことをやる主人公に惹かれて いたとも思えるのだ。しかし教祖はそれらのプレッシャーにウンザリしながらも、それらから逃れることはできない。彼らとの間も一旦出会ってしまったからに は、そう簡単に切れる訳にはいかない。そんなしがらみもまた、「人と人との関係」にはつきものだ。「人と人」が出会ってしまったら、そんな諸々のことすべ てを引き受けなければならない。その中で人と人とは、お互いに影響を受けたり与えたり、プレッシャーを与えたり与えられたりしていく。つまりは、お互いが 相手に対しての「マスター」であり得る。僕がネットの世界で人と出会って、最初に感じた戸惑いとは、たぶんそういう「厄介さ」までも引き受けられるのか… と思っちゃったからなのだろう。その中で、主人公と教祖とは「ここで会ったが百年目」の間柄となっていくのだが、当然のようにそこには必ずしもハッピーな ことばかりはない。最終的にこの二人はのっぴきならない事情によって、一緒にはいられないことになってしまう。では、結局のところ、「人と人」とは安易に 出会ったりすべきではないのか? それに対してアンダーソンは、おそらく明快に「ノー」と答えているように見える。実際、主人公は一種の女性不信によって 歪んだ性格を形成してしまっていたのだが、映画のラストでは女と結ばれて、意外にも大らかな笑顔を見せている。「人と人」との出会いは、確かに彼の中に何 かを生んだのだ。例え何があろうとも、山ほどの厄介さを抱え込むことがあろうとも、それでも人は人と出会うべき…という、アンダーソンの強いメッセージを 感じさせる幕切れなのである。

さいごのひとこ と

 他人というものは厄介なもの。


 

「世界にひとつのプレイブック」

 Silver Linings Playbook

Date:2013 / 05/ 06

みるまえ

  今年のアカデミー賞で、作品、監督、主演男優、主演女優、助演男優、助演女優…の、いわゆる主要5部門にすべてノミネートされ、そのうち見事に主演女優賞 を受賞したことで、一躍注目された一作。こっちとしてはノー・マークの作品だったから、正直ビックリしたというのが本当のところ。嫁さんに逃げられて精神 的に不安定になった男が、亭主に死なれて会社中の男と寝まくるようになった女と、ひょんなことからダンス・パートナーになって仲良くなっていくお話。脇で ロバート・デニーロがいい味出しているらしい。監督のデビッド・O・ラッセルは「スリー・キングス」(1999)や「ハッカビーズ」(2004)あたりは 大したことがなかったが、「ザ・ファイター」(2010)はなかなか感心する出来栄えだった。今回も期待していいのではないだろうか。そんなわけで、公開 してあまり間もないある日、劇場に駆けつけた次第。感想文がこんなに遅れたのは、単に僕の怠慢のせいである。

ないよう

  無精ヒゲを生やした男パット・ソリターノ(ブラッドリー・クーパー)が、誰か親しい女と話をしている。快活そうに話しかけている彼の前には、しかし誰もい ない。ここは精神病院。パットはそこに収容されている「患者」だ。実は彼は妻に浮気されて逆上し、相手の男をブチのめしたおかげでここに収容されることに なった。しかし、パットはメゲていない。それどころか、病院を出たら妻とやり直せると思いこんでいる。そのため、「妻との再会」を想定して快活そうな話し 方をリハーサルしているのだった。確かに今の彼は、精神的な障害がなくなったかのように見える。そのため裁判所から退院の許可が出て、パットの母親ドロレ ス(ジャッキー・ウィーヴァー)が迎えにやって来た。こうして無事退院することになったパットは、同時に退院を許されたという仲間の患者ダニー(クリス・ タッカー)も一緒に連れて行ってくれとドロレスに頼み込み、三人を乗せたクルマが出発する。ところが早速、ドロレスの携帯に連絡が。実はダニーには退院許 可など下りていなくて、早く戻して欲しいという病院からの連絡だった。そんなこんなでダニーを下ろして再度出発するパットとドロレスだが、「こんなに早く 退院させちゃマズかったのか」と早くも前途に暗雲たれ込めるのであった。ともかく、両親の家に落ち着いたパット。父親のパット・シニア(ロバート・デニー ロ)は息子の退院のことを聞いていなかったので驚くが、すぐに息子を温かく抱きしめて喜んだ。そんなパット・シニアは、現在失職中。スポーツの賭け「ノミ 屋」で何とか稼いでいるような状態で、地元の野球チーム「フィリーズ」とアメフトチーム「イーグルス」の成績に一喜一憂。そもそもこの両チーム、すこぶる 付きに弱いと来ているから見通しは暗い。一方、パットはすぐにでも妻とヨリを戻すつもりだったが、妻は家を売り飛ばして出て行ってしまっていた。おまけに パットの暴力行為のため、彼は妻に接近することを禁止されるという散々な状況だ。でも、それも無理ないかもしれない。パットは帰宅第一夜に早速危ない一面 を見せてしまう。真夜中に両親をわざわざ叩き起こして、妻オススメのヘミングウェイの小説の内容をコキ下ろす始末。とてもじゃないが、まだまだ安定してる とは言いかねる状況だ。そんなパットは、だから退院後も定期的に専門医への通院が義務づけられていた。しかしクリニックに着くや否や、パットはまたまたキ レてしまう。それでも、彼にも同情の余地はある。例の「あの日」に彼がたまたま早く帰宅して、妻と別の男との浮気現場を目撃した時、BGMはパットたちの 結婚式での思い出の歌だった。これにはたまらずパットはその場で逆上、相手の男を半殺しにしてしまったというわけだ。クリニックでキレてしまったのも、問 題のBGMが流れていたからなのだ。それでもモヤモヤをジョギングで「昇華」してスリム体型になれば、また妻とやり直せるはずと思いこんでいるパット。今 日も今日とて近所のジョギングに精を出す。その途中で旧友のロニー(ジョン・オーティス)とバッタリ出会ったパットは、彼から夕食の招待を受ける。こうし て訪れたロニーの家では、ロニーの妻ヴェロニカ(ジュリア・スタイルズ)が彼を歓迎した。しかし、この夜にパットが一緒に食卓を囲むことになる相手は、ロ ニー夫妻だけではなかった。実はヴェロニカは、自分の妹ティファニー・マクスウェル(ジェニファー・ローレンス)をこの場に呼んでいたのだ。ティファニー は最近若くして夫を亡くしており、その悲しみから不安定な状態になっていた。そこで、ここでパットと知り合いになって立ち直ってくれれば…という、ロニー 夫妻の思惑があったわけだ。ところがやって来たティファニーは、そんなしおらしい女性ではなかった。どこか挑発的でズケズケとモノを言う彼女に、パットは 終始圧倒される。それと同時に、彼女にどこか共感めいたモノも感じるのだった…。

みたあと

  まだまだ肝心のダンスの件が出てこない段階で、ストーリーを切り上げてしまった。この後、パットとティファニーはどんどん親しくなるが、そこにはパットな りの思惑も。ティファニーはパットの妻とつながりがあることから、彼女に手紙を渡してもらいたいと考えていたのだ。かくしてティファニーはその交換条件と して、パットにダンス・パートナーになってもらいたいと頼む。ティファニーは近々開かれるダンス大会に出場しようと思っていた…というような展開になって いく。それはともかく…映画の開巻まもなく、僕はかなり当惑してしまったことを白状しなくてはならない。僕はこの感想文の冒頭に書いた見る前の印象の中 で、この映画の主人公を「嫁さんに逃げられて精神的に不安定になった男」だと書いた。おそらく不器用で要領の悪い男が、深く傷ついて落ち込んでいるような 状態だろう…と、僕は勝手に思っていた。人生の失敗を味わった人物が立ち直るというのがハリウッド映画の王道だったし、実際、見る前の事前情報としてはそ の程度のことしか分からなかったからでもある。ところが実物の映画を見てみると、その第一印象はかなり変わらざるを得なくなった。この主人公、「嫁さんに 逃げられて精神的に不安定」なんてもんじゃない。言葉の使い方がすごく難しいので言い方によってはある種の人たちを怒らせかねないのだが、この主人公、単 に「精神的に不安定」ではなく明らかに「心が病んで」いる。映画のパンフレットには「双極性障害」と書いてあり、その病気がどんなものなのか僕は残念なが ら分かっていないが、少なくともこの主人公、世間的な意味で「心が健康な状態」ではない。こんなことを言ったらそういう病気の人々を差別しちゃってること になるかもしれないが、この映画で見る限りはかなりヤバイ状態に見えるのである。この段階で、不器用で傷つきやすい市井の人々によるラブストーリー…とい う事前の予想は、大幅に変更を余儀なくされることになった。
ここからは映画を見てから!

みどころ
  そんな主人公が夜中に自宅でいきなり「結婚式のビデオを見たい!」をあちこち探し始めて荒れ狂う場面で、レッド・ツェッペリンの曲がガンガン流れ出すあた りでは、あまりに選曲がピタッと決まっていたので爆笑してしまった。いきなりギターがジャカジャカとかき鳴らされるや否や、主人公も荒れに荒れるという ピッタリぶりなのだ。これは傑作と言わざるを得ない。そしてこんな周囲から見たら困った男である主人公を、それでも共感できる範囲の男として演じきったブ ラッドリー・クーパーも素晴らしい。普通あれほどヘンだったら、なかなか共感しづらいものだ。よく観客が感情移入できる人物に演じたものである。これは素 直にホメるべきだろう。そしてアカデミー主演女優賞をとったジェニファー・ローレンス。大胆不敵なズケズケした芝居を見せてくれてこちらも素晴らしいが、 これで今年23歳というのだから驚き。ある意味では年齢不詳の感じもあって、見事なものだ。ただし、この人もひとつ間違うと、若くしてオスカーをもらった あまりにその後不遇になってしまったマリサ・トメイみたいになりかねない気がする。そこがちょっと気になるところだ。

こう すれば
  そんな訳で、主役二人の芝居がよくてコンビネーションも抜群。脇の役者も充実。いいことづくめの作品と言いたいところだが、気になるところがない訳でもな い。前半の傷ついた二人が少しずつお互いの距離を縮めていく慎重さに比べて、後半はちょっと話の運びが性急かつ雑な気がするのだ。例えば二人はダンス大会 出場のためにダンス・レッスンを繰り返すことになるのだが、そのプロセスが意外にあまり具体的に描かれていない。だから、いつの間にかちゃんと踊れてい る…という風に見えてしまう。しかし二人はこのダンス・レッスンでどんどんお互いの心を近づけていったはずなのだから、ここでの細かい描写やエピソードは 映画に必要だったのではないだろうか。これに限らず後半は展開が結構あちこち雑だ。だから、いきなりヒロインが主人公の父親に対して、自分たちのダンスの 結果を賭けの対象にしろと言い出すくだりにも、見ている僕らは「???」となってしまう。本来ならここをもっとふくらませるべきだったはずだと思うので、 とても残念に感じてしまうのだ。

おまけ
  しかし、実はそんなことは大したことではない。先にも書いたように、僕はこの映画を見る前には主人公がここまで「心が病んでいる」とは思っていなかった。 だから主人公が劇中でいきなり奇異な言動を見せ始めるや、ちょっとした軽い衝撃を味わったわけだ。しかし、その段階に至っても…それはあくまで「人ごと」 に過ぎなかったから、僕にとってはまだ大したことではなかった。問題は、見ている間にこの主人公の「おかしさ」や「イキっぷり」に、僕が何となく思い当た るフシを感じ始めた点である。何だか分からないけどすぐキレる。普通に話しているうちに、だんだん興奮してキレてしまう。自分としては至って普通な状態 で、人に対しても普通に接しているつもりなのに、なぜか周囲がドン引きしている。何かを思いついたり刺激を受けたりしたら、真夜中だろうが何だろうがお構 いなしに興奮してしまう。確かにある、そんなことをしていた覚えがどこかにある。考えてみれば次から次へと職場を変え、何だかんだと文句をつけて辞めてい た時期があった。あるいは今だって、「何かがおかしい」と思えば声を上げて抗議をするようにしている。しかし、それって本当はどうだったんだろう? その 都度、自分からすればしかるべき理由があったはずだが、果たして周囲から見たら僕はどうだったんだろう。完全にイカれてるようにしか見えなかったんじゃな いだろうか? 主人公がおかしなキレっぷりを見せていくたびに、この程度のことならオレもどこかでやってたんじゃないか…と、そればかり気になった。以 前、「ブラック・スワン」(2010)の錯乱状態になるヒロインの言動に、異常に「既視感」を感じた僕だが、あれ以来のヤバイ感じ。最近では各方面で文句なしに絶賛されているケン・ローチの「天使の分け前」(2012)の良さがまったく理解できないのもそうなんだが、僕はどこか本当におかしいのではないだろうか? だから今までの人生がうまくいかなかったんじゃないだろうか? 正直言って、かなり不安になってきている。

さいごのひとこ と

 最後は物語なんかどうでもよくなっていた。


 

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