新作映画1000本ノック 2013年4月

Knocking on Movie Heven's Door


こ のページの作品
「ヒッチコック」 「ある海辺の詩人/小さなヴェニスで」 「ジャンゴ/繋がれざる者」 「キャビン」 「オズ/はじまりの戦い」 「ゼロ・ダーク・サーティ」

 

「ヒッチコック」

 Hitchcock

Date:2013 / 04/ 29

みるまえ

  何とアンソニー・ホプキンスがあのヒッチコックを演じる…という話は、かなり早い段階の海外ニュースで知っていたと思う。何だかんだ言って芸達者のホプキ ンスだ。その彼がヒッチコックを演じるなら期待できるだろう。おまけに妻のアルマ役はこれまた演技派のヘレン・ミレンだ。この二人の激突も見ものに違いな い。しかし僕は、この企画に一抹の不安を抱いていた。そもそも僕は、昨今のハリウッド製伝記映画の「そっくりショー」的な傾向を少々意地悪な目で見てい た。そりゃ芝居のうまい役者とハリウッドの特殊メイク技術を持ってすれば、歴史的人物でも有名人でもバッチリ似せることはできるだろう。特にここ20年ば かり、ハリウッド映画が取り上げる著名人たちがどれも動く映像で残されている人物ばかりなので、その容貌がみんなの脳裏に焼き付けられていて「似せる」こ とが不可避になっているという事情はあるだろう。しかし出来上がった映画はと言うと、映画の作り手も演じる側も「似せる」ことで全力を使い果たし、一体何 を言いたいのか分からないってことが少なくなかった。「マーガレット・サッチャー/鉄の女の涙」 (2011)なんかがそれだ。「似てた」ってことでオスカー主演賞とかをとって話題にはなるけど、何年か経ったっらどんな映画か誰も覚えていなかったりす る。これって映画として「主客転倒」とは言えないだろうか。例えばロブ・コーエン監督の「ドラゴン/ブルース・リー物語」(1993)なんて、主演俳優は 正直言ってブルース・リーに全く似ていない。あれほど全世界に知られた人物なのに、ビックリするくらい似ていないのだ。しかし映画は、暗いオブセッション に追い立てられ生き急ぐように生きた一人の男の生涯を、感動的に描いて忘れがたい。似てる似てないは関係ない。むしろ全然似てないブルース・リー役者が、 いつの間にか「その人」に見えてくるところがスゴイ。映画って本来はそういうものだろう。最近のハリウッドの傾向は、やっぱりおかしいのである。そしてア ンソニー・ホプキンスで「そっくりさん」映画というと、実はちょっとイヤな前例がある。それはオリバー・ストーン監督の「ニクソン」(1995)。もちろ んホプキンスがあの元・米大統領ニクソンを演じる作品だ。しかし、これが何とも微妙なんだよねぇ。正直言って「似てない」。一生懸命似せようとしている し、一瞬そう見せることに成功している瞬間もあるのだが「似てない」。しかし、先の「ドラゴン/ブルース・リー物語」ではないが、「似てない」ことは問題 ではない。そうではなくて、観客も「似ている」と思って見ようと一生懸命にさせられちゃうような「痛さ」が充満していたのが問題なのだ。結局、そっちに力 が入りすぎってことなんだろう。肝心の映画としての出来もイマイチだったが、実はそれはこの「似せよう」とする努力の空回りのせいではないかと思うのだ。 あの芸達者ホプキンスにして、こういう失敗もあるのである。そんなこんなで不安があるところに、映画オタクにはすでに語り尽くされていて、一般の人にはあ の顔以外なじみが薄いヒッチコックのエピソードが、果たして過不足なく映画になるのかどうか…という不安もある。一般の人の知っているレベルのヒッチコッ ク物語では映画ファンからバカにされるだろうし、映画オタク向けにマニアックに作ったら単なるマスターベーションになってしまう。これってどう考えてもサ ジ加減が難しいのではないだろうか。そんなわけで見る前は不安が一杯。正直うまくいかないんじゃないかと思っていたわけだ。

ないよう

  アメリカの田舎町。一軒の家の前で、エド・ゲイン(マイケル・ウィンコット)とヘンリー・ゲイン(フランク・コリソン)の兄弟がたき火を前に立ち話。エド はヘンリーにこの地に留まるように説得。しかしヘンリーは、頑として家を出て行くと言い張るばかり。すると突然、エドがシャベルでヘンリーの後頭部を直撃 するではないか。さよう、このエド・ゲインこそ、かの有名な連続猟奇殺人者のエド・ゲインである。すばやくカメラがパンすると、そこにはでっぷりとしたあ の有名な人物…アルフレッド・ヒッチコック(アンソニー・ホプキンス)が、ニコリともせずに立ってしゃべり出した。それによると、警察はエド・ゲインのウ ソを信じて、まんまとヘンリーは事故で処理されてしまった…とのこと。この時に警察が真相に迫っていれば、その後のエド・ゲインによる連続殺人は起こらな かったものを…。ここで舞台は、1959年のハリウッドへと移る。ヒッチコックのデラックスな娯楽大作「北北西に進路を取れ」のプレミアショーの会場は、 華やかな雰囲気に包まれていた。多くの野次馬たちとマスコミ関係者に囲まれ、ひどくご満悦のヒッチ御大。観客の反応に驚かれましたか…と訊かれても、映画 企画中から悲鳴や笑い声はもう聞こえていた…と答える余裕綽々ぶり。相変わらずの巨匠健在を強烈に印象づけた。しかし一方で、もう「いい歳」のヒッチはマ スコミたちに「引退は?」などと聞かれて内心憮然。妻アルマ・レヴィル(ヘレン・ミレン)に「もうオレはトシかな?」と弱気なところを見せながらも、何か スゴイ企画を実現したいという野心もメラメラ。パラマウント・スタジオにあるアルフレッド・ヒッチコック・プロダクションズの事務所に出勤してくると、秘 書ペギー・ロバートソン(トニ・コレット)に映画化の可能性がある企画を尋ねる。しかし、出てきた企画といえば…。私が「アンネの日記」? 冗談だろ。 「007/カジノ・ロワイヤル」? スパイものはもうたくさんだよ…。どれもこれも今ひとつな企画に、ヒッチはまったくやる気にならない。一方、彼の妻ア ルマは、友人の脚本家ウィットフィールド・クック(ダニー・ヒューストン)とランチ。魅力的な男であるクックは、自分の作品に手を入れて欲しいとアルマに 頼み込む。その頃、ヒッチはペギーからある一冊の本について知らされる。それはロバート・ブロックという作家の小説「サイコ」。連続殺人鬼エド・ゲインの 事件をヒントに書かれた、猟奇的な殺人ものだ。これにピンと来たヒッチは、早速「サイコ」の本を入手して読み始める。すると、グイグイと引き込まれて読み 進んでしまうではないか。そんなヒッチにアルマはクックの作品を見せるが、彼はまったく関心がなさそうだ。そんなこんなで一気に「サイコ」を読破したヒッ チは、真夜中というのにアルマを叩き起こして一場面を読ませる。アルマの感想は、単なる「安手のホラー」だ。しかしヒッチは「一流の映画作家が撮れば、そ れは傑作になる」と主張する。そう、次の企画はこの「サイコ」だ。こうして翌朝の朝食時から、ヒッチとアルマは意見を交換し合う。さらにヒッチは、秘書の ペギーに「サイコ」の本を全部買い占めるように命じる。この映画の結末を、観客に明かしたくないからだ。親しいマスコミ関係者を招いてパーティーを開いた 際にも、この「サイコ」を猛烈にアピール。しかしその評判は芳しくない。みんな悪趣味だと思っていたのだ。しかし嫌がっていても見ずにはいられないはず… とヒッチはあくまで強気。それでもエージェントのルー・ワッサーマン(マイケル・スタールバーグ)も難しいと言い、パラマウント社長バーニー・バラバン (リチャード・ポートナウ)も出資はしたくないと言い出すや、さすがのヒッチも追い込まれて来た。それでもあくまで新作は「サイコ」だと言い張るヒッチ に、長年の支援者ワッサーマンは支援を約束。かくしてヒッチは、自らの退路を断つことを決意。アルマに自宅を抵当に入れて、自己資金で「サイコ」を製作す ることを告げた。そのヒッチのただならぬ覚悟に、アルマも今までに増して彼を応援することを決心する。こうして…どこか危ない印象が本作にはピッタリと起 用された脚本家のジョゼフ・ステファーノ(ラルフ・マッチオ)や、ノーマン・ベイツ役のアンソニー・パーキンス(ジェームズ・ダーシー)、マリオン・クレ イン役のジャネット・リー(スカーレット・ヨハンソン)など、スタッフやキャストが次々決まっていくが、一番の見せ場であるシャワー・ルームでの殺人場面 はアメリカの映倫で問題視された。ムッとして人を食った受け答えをするヒッチに、検閲官ジェフリー・シャーロック(カートウッド・スミス)はこのままだと 米国内のどこの映画館でも上映できないと脅しにかかる。絶体絶命のピンチだ。しかしヒッチには、やがてもっと大きなピンチが襲いかかってくる。それは妻の アルマが、仕事を口実に近づいてくる例の脚本家クックに、徐々に惹かれているらしいことだった…。

みたあと

  ヒッチコックはあまりに有名な映画監督で、必ず自分の作品にワン・ショットだけゲスト出演していたことや、テレビ・シリーズの「ヒッチコック劇場」の冒頭 に解説で出演していたことなどから、イマドキのスピルバーグやタランティーノみたいな「スターよりも一般に知られている監督」のハシリだと言えるかもしれ ない。そしてトリュフォーによる長時間インタビュー本が出版されていたりするように、映画マニアにも深く研究されるようなマニアックな面も持っている映画 作家だ。つまり映画の「ヒッチコック伝」は、一般ウケを狙うのかそれとも映画マニア向けなのか、非常にそのさじ加減が難しい題材だとも言える。どう見たっ て商業映画だし、アンソニー・ホプキンスやヘレン・ミレン、スカーレット・ヨハンソンなどの人気スターを起用しているし、ヒッチのフィルモグラフィーでも 一般的知名度が最も高い「サイコ」 (1960)制作秘話に焦点を絞っているあたりからして、この映画が一般の人々にアピールしようとしているのは明白。しかしこの映画が一般にウケるために は、単に有名なエピソードをつないで心温まる話にすりゃいい…ってな、「普通」の映画のウケ要素だけではうまくはいかないだろう。いくら一般的知名度がピ カイチとはいえ「映画作家」の伝記映画を作る以上は、映画ファンにアピールするある種のマニアックさが必要になる。そういうオタク的な面白味があって初め て、一般層にもアピールができるというものだ。そういう意味で今回の作品を見ていくと…一流スターを実在人物に起用して一般アピールをしつつも、それらの スターの配役ぶりが実に「適材適所」で、映画ファン的にもそれなりにナットクがいく…というように、何とか際どいバランスを保って話を盛り上げていってい る感じ。正直言ってうまくやったなと思わずにいられない。

ここからは映画を見てから!

みどころ

  とにかくアンソニー・ホプキンスが「ニクソン」とは違って、「そっくりショー」にしようと苦闘せずに済んでいるのが大きい。あの時には演技的にも試行錯誤 している感じがヒシヒシと画面から伝わって見るのがツラかったが、今回は「似せる」のは特殊メイクに任せて、あとはユーモアたっぷりに演じることに専念し ているようだ。それが結果的にいい効果を上げている。一般アピール要素としてのメインのお話としては、これは実際の話なのかどうかは知らないが…ヒッチと 妻アルマとの心のすれ違いから、それを脱しての夫唱婦随の「サイコ」完成劇へと持って行くハリウッド映画王道の「夫婦愛情物語」。その周囲にはヒッチが ヴェラ・マイルズの楽屋をのぞき穴からのぞくという、映画ファンならどこかで伝え聞いていたヒッチの変態性を散りばめながら、観客に嫌悪感を抱かせる程度 には持って行かない程の良さもある。そういえば1980年代以降のこの手の伝記映画の場合、そこで取り上げられる人物本人の持つ一種のオブセッションみた いなものが隠しテーマとして出てくる。例えば前述した「ドラゴン/ブルース・リー物語」では本人が若い頃から鎧武者のような怪物の悪夢を見るし、飛行機事 故で死んだロックスターの「リッチー・ヴァレンスを描いた「ラ・バンバ」(1987)でも主人公が飛行機事故の夢をデジャ・ブのように見る場面が繰り返し 出てくる。本作でヒッチのダークサイドを代弁するのは、実在の猟奇殺人鬼で「サイコ」のモデルともなったエド・ゲインというのがシャレている。確かにヒッ チは相当おかしな人だったことはいろいろ伝えられているので、そういう面を出さなければ生ぬるく偽善的な作品と思われかねない。しかしぞれを全面的に出し ていったらとても好きになれる人物にはならず、一般ウケする映画にはならないだろう。エド・ゲインを本人のオブセッションとして登場させるというアイディ アは、この相矛盾する二つの要素を結びつける妙案として、実にうまい方法だ。正直言ってちょっと感心した。マニア的にはテレビシリーズ「アウター・リミッ ツ」のメイン・クリエイターであった脚本家ジョゼフ・ステファーノとかソウル・バスなどが出てきて嬉しくなったりしたが、それよりもそのステファーノ役に オリジナル版「ベスト・キッド」 (1984)のカラテ少年ラルフ・マッチオが久々に元気な姿を見せてくれたのには驚いた。チョイ役だし、どこかアブない役だったことが悲しいが、それでも 生きていてくれたのには感激。他にも1960年代当時の撮影所の雰囲気も楽しめるし、すでにどこかで読んだり聞いたりした覚えはあるが、「サイコ」制作の 裏事情についてちゃんと映像で見せてもらえれば、それはそれでまた別の感慨もわく。頭で分かっていたことではあるが…「サイコ」がその後、「キャリー」(1976)や「殺しのドレス」(1980) のブライアン・デパーマみたいなフォロワーを生んだ一方で、「13日の金曜日」(1980)みたいな安手のホラー映画の量産に手を貸したのも明らかだ。そ ういったことも含めて、「サイコ」の公開当時の革新性、いかにヒッチのような巨匠が制作するには大胆な企画だったかが伺えて、とても興味深かった。分かっ ていることでもこうして改めて形にして見せられると、またこちらの受け取り方も違うのである。そんな本作のヤマ場を…「サイコ」試写会場の客席から抜け出 したヒッチが、あの有名なシャワールーム場面でバーナード・ハーマンの音楽に合わせて「踊りまくる」かたちで表現したのはうまい。あの場面を変に再現して 見せるようなことより、ずっとノリにノッてるヒッチを感じさせる絶妙な場面。そのボディ・アクションを嬉々として演じたアンソニー・ホプキンスも、まさに 至芸と言える。「ターミナル」 (2004)の脚本を手がけ、30年以上続けながら芽が出ないヘビメタ・バンドを追ったドキュメンタリー映画「アンヴィル!夢を諦めきれない男たち」 (2009)を作ったサーシャ・ガヴァシは、一体どうしてこの作品の監督に起用されたか分からないが結果的には大正解だったと思う。ヒッチコックの伝記と して映画ファンにとって完璧に文句ない出来栄えかどうかは微妙なところだろうが、一般の人たちも楽しめる作品として考えればこのあたりが許容範囲内ではな いだろうか。そのバランス感覚が絶妙なのである。

おまけ

 「衰え」を周囲から指摘されていたヒッチが、当時は「邪道」とされるような作品をあえて制作しようと思い詰める気持ちは、実 際に「何かを作る」仕事の末席を濁しつつ「いいトシ」こいてきた僕にとって、決して人ごとではない。冒険心や大胆さ、知らず知らずに陥っている固定観念や ルーティン・ワークからの脱却は、ある程度の年齢になると容易ではないのだ。おまけに目が見えなくなるとか忍耐力が欠けてくるとか、肉体的な衰えも隠しき れなくなる。そういう意味では、僕にとっては本作は、前述した一般ウケかマニア向けか…という中での絶妙なバランス感覚のことより、すごく個人的でタイム リーなテーマを見せてくれた映画であることの方が重要だったかもしれない。

さいごのひとこ と

 ヒッチよりラルフ・マッチオが気になった。

 

「ある海辺の詩人/小さなヴェニスで」

 Io Sono Li (Shun Li and the Poet)

Date:2013 / 04/ 29

みるまえ

  理由は分からないのだが、僕はこの映画のチラシを映画館で見た時から、何となく心惹かれていた。イタリアの港町にいつの間にか流れ着いていた東欧の男と、 これまた「事情」があって流れ着いた中国人の女が、心を通わせる物語。この中国女を、近年話題の中国の監督ジャ・ジャンクーの作品に出ていた女優が演じて いるというが、肝心のジャ・ジャンクー映画を僕がほとんど見ていないために、そのありがたみが分からない。監督の名も聞いたことない奴だ。しかし、そもそ もイタリア映画なんて近年マトモに日本に入ってきてないのだから、僕が知らないのも当たり前だ。ともかく、なぜか見たくなっていたのだから仕方ない。とこ ろが、ある祭日にその日に見る映画を調べていたら、もうとっくにこの映画が公開になっているではないか。そんなわけで、慌てて銀座までこの映画を見に行っ たというわけだ。

ないよう

  水に浮かぶのは、ろうそくの火が灯された紙製の蓮の花。何やら中国の詩が朗読され、幻想的な雰囲気が漂う。紙製の蓮の花を水に浮かべているのは、中国人の 女シュン・リー(チャオ・タオ)。彼女は狭い風呂場のバスタブで、古くからの習慣を再現しようとしているのだ。しかしそんな努力も、風呂場に乗り込んでき た男のダミ声でブチ壊し。風呂場の隣の部屋では男たちが麻雀をしていて、とてもじゃないが古き良き風習を守るような風情ではない。シュン・リーは仕方な く、日常の雑事へと戻っていく。そんな彼女は、ローマの縫製工場で働くたくさんの中国人たちの一人。彼女は故国に幼い一人息子を残してこの地に働きに来て いるが、そこには何やらいわくがありそうだ。ともかく彼女は多額の借金を返すまで働かねばならず、それまでは息子とも会えない。いつか息子をイタリアに呼 び寄せ一緒に暮らす日を楽しみに、連日ひたすらミシンを動かし続ける。そんなある日、シュン・リーは雇い主に呼び出され、別の職場に異動することを告げら れる。そう言われたらイヤとは言えない。そんなわけで、シュン・リーは見たことも聞いたこともない小さな町で、それまでやったこともない仕事をやらされる 羽目になった。こうして長旅の末、その町にたどり着いたシュン・リー。彼女が任されるのは、その町の酒場の切り盛りらしい。彼女と同室になった若い女性 は、シュン・リーの心細さを癒す存在にはとてもなり得ないような素っ気なさだ。そんなシュン・リーがやって来た町は、キオッジャという小さな漁師町。町の 中には運河があり、古い町並みが建ち並ぶその様子から「小さなヴェニス」と呼ばれる。彼女はその町にある「パラディーゾ」(天国)という名の小さな酒場 だ。朝からカウンターの中に入って店の準備を始める彼女の前に、ずっと前からこの店に通ってきた常連たちが集まってくる。例えば、漁師を引退して先々に不 安を感じているコッペ(マルコ・パオリーニ)やかつての職業がそのままアダ名となった「弁護士」(ロベルト・シトラン)、彼らとは距離を置いて自分の相棒 と一緒にやってくる、粗野で下品な男デヴィス(ジュゼッペ・バッティストン)…そして言葉遊びが得意なため「詩人」と呼ばれる、旧ユーゴからやって来ても う長い初老の男べーピ(ラデ・シェルベッジア)。特にベーピは不慣れなシュン・リーに代わって、彼女の前でお好みの「プルーン入りコーヒー」をつくってみ せた。そんなお馴染みのメンツが毎日毎日、同じようにテーブルについて、飲んだりしゃべったりする憩いの場だったのだ。そんなベーピは、今は一人で暮らし ながら細々と漁師で生計を立てているが、息子夫婦は自分たちとの同居を望んでいる様子。しかし気ままな暮らしが性に合っているベーピは、頑として息子の呼 びかけを拒んでいるだった。そんなある日、たまたま閉店後まで残ってしまったベーピは、たまたま店じまいをしているシュン・リーと二人きりになる。偶然の いたずらから、二人はお互いの故郷や家族のことを話し始めた。シュン・リーの故郷はここキオッジャと同じく港町で、彼女の父は漁師をしていたという。そん な彼女の話に、ベーピは何となく異邦人同士の共感を感じ始めていたのだろうか。その日を境にしてベーピはシュン・リーに対して親しげな態度をとるようにな り、二人はお互い徐々に打ち解けていく。ある日、シュン・リーは自分の父親や息子の写真を見せ、いつか息子を呼び寄せたいという夢を語った。そして彼女の 故郷には、灯籠に火を灯して川に浮かべるお祭りがあるという話も…。それを聞いたベーピは、キオッジャに潮が満ちて床上まで水に浸かった時、浸水した「パ ラディーゾ」の店内で小さなろうそくに火を灯し、水面に浮かべてみせたのだった。こうして二人の心は徐々に寄り添っていったのだが…。

みたあと

  何となく気になっていたので、大して期待もせずにフラリと見に行った映画だったが、結果的にはそれが良かったのだろうか。まさに、そういう見方がピッタリ の映画。晴れがましさとか派手さは全くない。しかも話題作でもなさそうだし…もしかすると傑作ですらないのかもしれない。それほど「飛び抜けた」ところは 微塵もない作品なのだが、その「ささやか」な佇まいこそがこの映画の非凡なところなのだ。我々だってステーキや天ぷらばかり食べていたら胸焼けしちゃうだ ろう。そんな時にちょっとつまんでみたお新香や佃煮には、一服の清涼剤のような嬉しい味わいを感じてしまう。この映画は、ちょうどそんな感じの作品だ。メ イン・ディッシュの華やかさはないが、箸休めとして何物にも代え難い味がある作品なのである。

ここからは映画を見てから!

みどころ

  そうは言っても、地味な作品なりにキャストは豪華。主役の二人、前述のジャ・ジャンクー映画の主演女優チャオ・タオと旧ユーゴ出身のラデ・シェルベッジア という顔合わせは、イタリア映画の枠を軽く飛び越えている。特にラデ・シェルベッジアは「ビフォア・ザ・レイン」(1996)で初めて見かけてから、「アイズ・ワイド・シャット」(1999)、「M:I-2」(2000)、「スペースカウボーイ」 (2000)など、主にアメリカ映画の脇役として活躍していたが、今回久々にその本領を発揮したような気がする。これを見ちゃうと、ここ最近の彼の出演作 はもったいない使われ方だったなと思わざるを得ない。そのくらい、この映画の彼は素晴らしいのである。ただし、出来栄えはあくまでも先に述べたように実に ささやかな作品。その最も大きい要因としては、舞台となるキオッジャという漁師町の風景が挙げられるのではないだろうか。確かにその景色は「小さなヴェニ ス」なのだが、正確にいうとヴェニスが小さくなっただけでなく、どこか煤けて古びてショボくなったような感じ。こちらも元のヴェニスにある「晴れがまし さ」がない。だから全編がひなびた雰囲気になっているのだ。お話自体も、ごくごくちっちゃくてささやかなもの。異邦人の二人がちょっとずつ心を寄せ合う が、ちょっとしたことから離ればなれにならざるを得なくなるというだけの話。ただ、それだけのお話だ。そこに多少なりとも「よそ者排除」とか「中国人排 斥」みたいなニュアンスは入り込むが、映画はあくまで「社会派」的な視点でそれをけたたましく取り上げたりしない。この慎ましさや冷静さが、見ていてとて も好ましい。主人公の旧ユーゴから来た男は、唯一の財産が海の中にポツンと立った作業用のボロ小屋。ラストにはヒロインの中国女がそこにやって来るのだ が、この終盤の光景が実に心にしみる。何とも忘れがたい味わいがあるのだ。さらに先ほどのような安易な「社会派」的メッセージを放り込んだりしないことに 加えて、例えばヒロインを雇っている(というより、借金で半ば奴隷状態にコキ使っている)中国人組織のエグい存在をちゃんとチラつかせていて、観客が「ム ラ社会って排他的でイヤね」と一方的にこの漁師町のコミュニティを見下すような方向には持って行っていないのも賢明だ。またヒロインを借金奴隷状態から救 い出すのが主人公の旧ユーゴ男ではない…としていることもうまい。これがアメリカ映画だったら、おそらく彼の遺言的なかたちでヒロインを救出させて、美談 として盛り上げているだろう。しかしこの映画では、彼はヒロインの救出とは無関係だ。そんな晴れがましさですら、注意深く排除されているのである。これを 実にさりげなく力まずにやってのけるのだから…これまでドキュメンタリーを手がけてきたというアンドレア・セグレ、なかなか大した男ではないか。徹底的に 派手で強烈な要素をはずしていく手腕は、まさしくただ者ではないと言えるだろう。

さいごのひとこ と

 イタリアンでもアッサリ味があるんだね。

 

「ジャンゴ/繋がれざる者」

 Django Unchained

Date:2013 / 04/ 29

みるまえ

 タランティーノが新作としてマカロニ・ウエスタン的な西部劇を製作するというニュースは、かなり前から知っていたし楽しみにしていた。考えてみれば前作「イングロリアス・バスターズ」(2009)ではマカロニ娯楽映画みたいなモノを狙っていたし、元々、「キル・ビルVol.1」(2003)、「同Vol.2」 (2004)あたりからエンニオ・モリコーネなどのマカロニ・ウエスタン音楽を鳴らしていた。だから、タランティーノがマカロニ・ウエスタン的西部劇を作 るのは時間の問題だと僕は思っていたのだ。子供の頃からテレビで西部劇を浴びるほど見てきた僕としては、タランティーノが西部劇をやるというだけで狂喜乱 舞。それもマカロニ風味とは…マカロニ・ウエスタンに熱狂的ファンも多数いるなかで僕なんかが「好き」だというのはおこがましいのだろうが、1960年代 の映画にシンパシーを持っている僕としてはどうしたって期待が高まる。「ジャンゴ」というタイトルからして、かつてフランコ・ネロが演じた「アレ」が原型 としてあるんだろう。しかも今回の映画が黒人ガンマンの話として作られているという点からして、単なるマカロニ・ウエスタンではなく、「ジャッキー・ブラ ウン」(1997)でタランティーノが模倣した1970年代初頭の黒人アクション映画の味も加えているのだろう。ますます期待は高まるではないか。そして 「イングロリアス・バスターズ」にブラピを起用したように、今回もレオナルド・ディカプリオを起用するという豪華版でもある。西部劇にドイツ人のクリスト フ・ヴァルツの起用は不思議な気がするが、「イングロリアス・バスターズ」でタランティーノのお気に入りとなったのだろうか。マカロニっぽくヨーロッパ・ テイストを導入しようというわけか。まぁ、そんなわけで…今まで以上に大きな期待を抱いて、僕は劇場へと駆けつけたわけだ。

ないよう

 1858 年、米国のテキサス。遙かな荒野をクサリにつながれて足取りも重く歩いている男たちの集団があった。彼らは黒人奴隷という「売り物」として、二人の奴隷商 人の白人男に運ばれていくところだ。昼には灼熱の荒野は、夜はグッと冷え込む。そんな状況でもほとんど裸同然で歩かされている黒人たち。そんな一行を、奇 妙な人物が呼び止めた。巨大な「歯」のオブジェを天井に乗せた馬車に乗り、飄々とした物腰で語るその人物は、ドイツ系の元歯科医キング・シュルツ(クリス トフ・ヴァルツ)。彼は粗野な奴隷商人たちに恭しく一礼すると、ある黒人奴隷を探していると告げた。彼はブリトル三兄弟という連中を探しており、彼らのこ とを見知っている黒人奴隷を探しているのだ。すると、奴隷たちの中の一人の男が名乗りを挙げた。その男、名前をジャンゴ・フリーマン(ジェイミー・フォッ クス)という。シュルツはジャンゴがブリトル三兄弟を知っていることもさることながら、彼のどこか知性のある態度も気に入った。しかし粗野な奴隷商人たち は、逆にそれが気に入らなかったようだ。シュルツの申し出を断っただけでなく、ジャンゴにも危害を加えようとしたからいけない。表情ひとつ変えずにシュル ツは奴隷商人の一人を射殺。もう一人の脚を撃って歩けなくした。こうしてシュルツは問答無用でジャンゴをもらい受けたが、紳士である彼は動けなくなってい る奴隷商人にカネを払うことを忘れない。そしてジャンゴに同行を求めるとともに、他の奴隷たちを自由の身にした。こうしてシュルツとジャンゴはその場を立 ち去ったが、その後、脚を撃たれた奴隷商人がどのような運命を辿ったかについては、ここであえて言及するまでもないだろう。さて、ある町に立ち寄ったシュ ルツとジャンゴは、そこの酒場へと乗り込む。しかし、酒場は黒人禁制の場所。酒場の主人も文句を言い出すが、シュルツはまったく動じない。怒った主人は外 に飛び出して保安官を呼びに行くが、シュルツは相変わらず蛙の面に小便だ。この堂々たる態度にさすがのジャンゴも唖然呆然。しかしシュルツは自分で注いだ ビールを一杯やりながら、ジャンゴに自分の事情を説明する。シュルツはかつては歯医者だったが、今は賞金稼ぎとして食っていた。高額賞金が懸かったブリト ル三兄弟を追っているが、その顔が分からないのでジャンゴが必要だったのだ。そんなこんなしているうちに、酒場に保安官が登場。ところがシュルツは顔色ひ とつ変えず、その保安官を撃ち殺してしまうではないか。これにはさすがにジャンゴも驚いた。ところがシュルツはそんなことはまったく気にとめず、ジャンゴ にブリトル三兄弟捜索の手助けをしてくれるように依頼。もし見つけられたらジャンゴに自由を与えるとともに、賞金の分け前と馬も与えると語る。それはもち ろん、ジャンゴは一も二もない。ただしこの絶体絶命の状況だ。シュルツは一体どう打開するつもりなのか。酒場の周囲は、いつの間にか連邦保安官率いる多く の銃を持った男たちに包囲されていた。するとシュルツはおもむろに、連邦保安官に対して衝撃の事実を告げる。何と先ほど撃ち殺した保安官は、指名手配され ていたならず者だったというのだ。シュルツはその裏付けとして、指名手配書を差し出した。これには酒場を包囲していた男たちも唖然呆然。こうしてシュルツ とジャンゴは、堂々とこの町から出て行くことができたのだった。次に二人がやって来たのは、大きな農園だ。ジャンゴはシュルツの従者としてやたら洒落た衣 装に身を包んで乗り込む。シュルツが農園の主人スペンサー・“ビッグダディ”・ベネット(ドン・ジョンソン)に「カネになる話」を持ちかけるふりをして、 その間にジャンゴがこの農園の敷地内で例のブリトル三兄弟の顔を確認するという算段だ。農園の奴隷女に連れられて敷地内を見学していたジャンゴは、早速、 その片隅で三兄弟を見つけた。彼らはちょうど奴隷女を縛り上げて、ムチ打とうとしているところ。そんな三兄弟の姿を見たジャンゴの脳裏に、彼の苦しい過去 がよみがえる。実はジャンゴはかつて奴隷仲間のブルームヒルダ・フォン・シャフト(ケリー・ワシントン)という女と結婚したが引き裂かれそうになり、脱走 しようとして捕まった。その時に彼らをいたぶったのが、このブリトル三兄弟というわけだ。それを思い出したら、もう居ても立ってもいられない。ジャンゴは まず一人を射殺し、もう一人をムチ打ってから撃ち殺す。この大騒ぎに慌ててシュルツとベネットたちが駆けつけるが、残り一人のブリトル兄弟は馬で逃走を 図っているところ。シュルツはそれが目指す獲物とジャンゴに聞き、遠くから銃で狙撃して仕留めた。この「客」による狼藉にベネットは怒り心頭だが、シュル ツがお尋ね者の殺害は法で認められていると告げるや何もすることができない。こうして、無事にブリトル三兄弟を仕留めたシュルツとジャンゴであったが…。 その夜、ベネット率いる白人の男たちが、白い頭巾をかぶって馬に乗って集まってくる。彼らはベネットの指示により、シュルツとジャンゴを殺そうとやって来 たわけだ。連中は野原の真ん中に停めてあるシュルツの馬車を取り囲み、二人をなぶり者にしようと襲いかかった。しかし、なぜか馬車は無人。それもそのは ず、シュルツもジャンゴもそれを見越して、離れた場所から見張っていたのだ。おまけにシュルツが馬車を狙撃すると、仕掛けてあった火薬が爆発。この時点 で、連中の大半が死んだ。生き残ったベネットは慌てて逃げ出すが、それをジャンゴが遠くからぴたりと仕留めるのだった。こうして所期の目的を遂げたシュル ツとジャンゴだったが、ここまで絶妙のコンビネーションでやって来た二人は離れがたくなっていた。その一方で、ジャンゴにはひとつの目標が見えてきた。そ れはどこかに売り飛ばされた妻ブルームヒルダの行方を探し出し、カネを払って身請けしてやることだ。そんなジャンゴに、シュルツはある提案を持ちかけた。 ジャンゴがこの冬の間もシュルツの仕事の手伝いをしてくれるなら、次にシュルツがブルームヒルダ探しの手伝いをしようと言うのだ。願ってもない申し出に、 ジャンゴは引き続きシュルツと手を組むことにした。こうしてひと冬を稼ぎまくった後、二人はブルームヒルダ探しに南部へと向かう。どうやらブルームヒルダ は若き大地主カルヴァン・キャンディ(レオナルド・ディカプリオ)の経営する「キャンディランド」という大農場に売られたらしいのだ。このカルヴァンとい う男、自分のお楽しみのために屈強な奴隷同士を戦わせて殺し合いをさせるのが趣味。そのための「マンディンゴ」と呼ばれる戦闘用の奴隷を育成してもいる。 そこでカルヴァンを警戒させないためにも、シュルツがカルヴァンから「マンディンゴ」を買いたがっている人物に扮し、ジャンゴが「マンディンゴ」に詳しい 目利きの部下という設定で乗り込むことにする。こうして問題の「キャンディランド」へと向かった二人だったが…。

みたあと

  開巻まもなく、いきなりあの本家ジャンゴこと「続・荒野の用心棒」(1966)の主題歌が流れて、毒々しい真っ赤なタイトルが出てくるというあたりで、問 答無用にシビれざるを得ない。あの「ジャッキー・ブラウン」のオープニングを見た時にも似た、映画ファンとしては抵抗できない快感を感じてしまう。他にも ウエスタンで雪の場面が出てくるくだりが「殺しが静かにやって来る」(1968)を思わせたり、途中で元祖「ジャンゴ」のフランコ・ネロが出てきたり…こ ういう快感って本来は映画オタクの閉じた快感なんで良いことには思えないのだが、身体が無条件に気持ちいいんだから仕方がない。そういえば伝え聞くところ によると、あのスパイク・リーが黒人奴隷受難の歴史を面白おかしくマカロニ・ウエスタンなんかに仕立てやがって…と噛みついてきたとのことだが、正直言っ てまた言ってるのかとウンザリする。スパイク・リーがいつも黒人問題のスポークスマンみたいに出しゃばってくるのもいかがなものかと思うが、「マカロニ・ ウエスタンなんか」という言い草も気に入らないではないか。偉そうにガタガタぬかしてる前に作品で堂々勝負しろと言いたいが、ともかく面白おかしい「マカ ロニ・ウエスタン」だからこそ言えることもあるではないか。こいつ本当に映画が好きなのかねぇ。まぁ、そんなわけで、僕としてはタランティーノならではの センスで大好きな西部劇…それも今は滅びてしまったマカロニ・ウエスタンをやってくれるというだけで嬉しい。特にオープニングには両手放しで嬉しくなっ た。しかも僕が中学時代に名画座で見た、クリント・イーストウッドとシャーリー・マクレーン主演の「真昼の死闘」(1970)の懐かしいテーマ曲が流れて くるに至っては…もう狂喜乱舞しないわけにはいかない。この時点で、僕はこの作品にすっかりのめり込んでしまった。

ここからは映画を見てから!

みどころ

  最初この西部劇に、何でクリストフ・ヴァルツなんてドイツ人を起用したんだろうと疑問に感じていたのだが、映画が始まっちゃうとそんなものは吹っ飛ぶ。と にかくこの映画前半部分でのヴァルツが素晴らしいのである。何とも人を食ったキャラクターでカッコイイ。痛快そのもの。オスカーをとったのもうなづける。 ただ見た後でふと気づいたのだけれど、ドイツ人ヴァルツの起用にはタランティーノとしてはそれなりに理由があったのかもしれない。実はこのサイトの「なつかしの東京12チャンネル駄菓子屋映画」で取り上げているのだが、かつて僕はテレビで「ビッグ・ワイルド/The Cry of the Black Wolves」 (1976・未公開)という、雪のアラスカを舞台にしたマカロニ・ウエスタン風の不思議なドイツ映画を見たことがある。監督はハラルト・ラインルという、当然のことながら聞いたこと のない名前。ところがその後、2001年から2002年に東京国立近代美術館フィルムセンターで開かれた「イタリア映画大回顧」の記念パンフレットを読ん でいたら、このハラルト・ラインルの名前が出てきたから驚いた。何とこのラインルという人物、マカロニ・ウエスタンの祖「荒野の用心棒」(1964)より も先に、西ドイツでヨーロッパ製西部劇を撮りまくっていた人物だというのだ。映画マニアたるタランティーノなら、このラインルによるドイツ製ウエスタンを 知っていた可能性が高い。ならばタランティーノはヴァルツの起用によって、マカロニにとどまらずヨーロッパ製西部劇全体に対して敬意を表しているという風 にも言えるだろう。おまけにそのヴァルツ演じる人物が終始人種差別には賛同しない男として描かれているあたりも、何とも含蓄に富んだ設定である。タラン ティーノは最もアメリカらしい「西部劇」という形式をとりつつ、その西部劇のイミテーションでしかないマカロニ(ヨーロッパ)・ウエスタンのスタイルで、 アメリカの恥部である奴隷問題を描いている。その中で常に奴隷制度を冷笑的に見ているキャラクターを演じているのが、非アメリカ人俳優というのはなかなか 巧妙な作戦ではないか。これをアメリカの白人男優が演じたら、「人ごと」みたいでシラジラしく見えかねない。それこそスパイク・リーの餌食にされかねない だけに、さすがのバランス感覚と言わざるを得ない。実は映画の舞台は後半から南部に移り、西部劇というよりは「マンディンゴ」(1975)のような黒人奴 隷残酷史ドラマの様相を呈してくる。この「マンディンゴ」は大プロデューサーのディノ・デ・ラウレンティスによる作品だが、この人はイタリアからやって来 た人だけあって「キングコング」リメイ ク(1976)にすらアメリカ文明批判を入れちゃうところがあった。また時代もアメリカ人が自分たちの社会に疑いを持った1970年代とあって、こうした 懐疑的な作品が大いにウケたのだ。「マンディンゴ」自体は正直言って露悪趣味でスキャンダラスな題材が売りの作品だったと思うが、一応「社会派」的な大義 名分がを持った問題作として公開された。つまり後半でこっちの世界にシフトしたということは、明らかに映画が前半のマカロニ的なお楽しみから、一転して 「社会派」的なニュアンスを持つことを意味する。ここで今回のキャスティングの目玉であるレオナルド・ディカプリオが登場。緊迫の度合いが一気に増すこと になるわけだが、何とディカプリオは驚くほど呆気なく画面から退場。彼が最大の悪役としてラストまで引っ張るものと思っていただけに、見ている者は軽い衝 撃を受けることになる。このあたりは「イングロリアス・バスターズ」でのティル・シュヴァイガーやダイアン・クルーガーのあっさりとした退場と同様の作戦 ではあるが、やっぱりうまい。そして本作の最大の「悪」を単純に白人ではなく、サミュエル・L・ジャクソン扮する「黒人なのに黒人を虐げる奴」に設定した あたりは、タランティーノならではの非凡な着想だ。白人が黒人を虐げたことに対して、今度は逆に黒人が白人を叩きのめす…「だけ」では、実はやっているこ とは何ら変わらない。「白」が「黒」を劣っていると見なすのも、「黒」が「白」を悪と見なすのも、基本的には変わりはしないのである。問題は肌の色とか旗 の絵柄とかイデオロギーの看板とかではなく、やっていることそのものではないか…というのは、なかなか気づけそうで気づかない盲点なのだ。それだけでも、 この作品は凡百の黒人問題映画…いや、あまたある社会派告発映画とは一線を画しているのである。

こうすれば

 ただし、映画として言うことなし…かといえば、そうでもない。実は この作品、マカロニ・ウエスタン気分の前半部分は痛快無比なのだが、後半のディカプリオの農園に舞台が移ると、いきなりテンポが悪くなる。もちろん緊迫し た場面が続く面白さはそれなりにあるのだが、どうしたってあのいいリズムは失われる。これを言っては贅沢だ「ないものねだり」だとは分かっていても、 ちょっと「長すぎ」感は免れなかった気がする。あまりに前半が軽快、痛快だっただけに、そこが残念と言えば残念な点だ。あと、これはこの映画と関係はない が、タランティーノがD・W・グリフィスの「国民の創生」(1915)をコキ下ろしていることについて。ここは僕もタランティーノに賛同して、さぞかし “「ジャンゴ」ブラボー!「国民の創生」なんてクソ!”…とかコキ下ろせば世間的にはめでたしめでたしなんだろう。しかしながら、どうも僕は天の邪鬼だか らそうは言えないんだよなこれが。確かに僕も「国民の創生」を見た時には「ありゃりゃ」と複雑な気持ちになったし、大いにイヤな気分にもなった。だが、こ れが映画史に残る作品であることも残念ながら事実。レニ・リーフェンシュタールの「意志の勝利」 (1935)がその後のロック・コンサート映画の原型となったように、今日の目で見て内容的に少なからず問題があろうとも、映画技法的に無視すべき作品で ないことは間違いない。そしてそれとは別に…タランティーノがこの作品をコキ下ろすのは彼がアメリカ人であるという一点においてまだ理解ができるとして も、21世紀に生きている日本人である僕らが、まるで火の見櫓に上がったような状態でグリフィスをコキ下ろすってのは果たしてどうなんだろう。そうすれば 確かに自分が善人や賢い人にでもなったような気分にはなるだろうが、同国人でも同時代人でも黒人でも白人でもない僕らが、分かっちゃった気になって安易に 偉そうに断罪しちゃっていいのかどうか。ちょっと僕にはそこんとこが判断できない。そんなことを言っちゃったらマズイし、怒られちゃうのかもしれないけれ ど。

さいごのひとこ と

 オレたち黄色に本当のところが分かるのか。

 

「キャビン」

 The Cabin in the Woods

Date:2013 / 04/ 15

みるまえ

  この映画のチラシを映画館で見た時には、森の中で若者たちが次々と殺されるという「13日の金曜日」(1980)タイプのありきたりな殺人鬼ホラーものだ ろうと思った。しかし、その絵柄がちょっと気になる。何だか登場人物がそれぞれ透明の四角い箱みたいなモノに閉じこめられているような絵柄。単にイメージ としての絵柄なんだろうか、それともそういう場面が出てくるのだろうか。そう言えば昔、カナダの「キューブ」(1997)というSFホラーが話題になった ことがあった。ある日突然、自分たちがナゾの立方体の中に閉じこめられたことに気づき、そこから脱出しようとして一人また一人と殺されていく話だ。ひょっ として「キャビン」という森の中の小屋を意味するタイトルとは裏腹に、トンデモ系のSFなんだろうか。よくよく見るとチラシの宣伝コピーは、「あなたの想 像力なんて、たかがしれている」とあるではないか。こういうコピーは大抵コケ脅しに決まっているのだが、確かにこの映画は凡百の殺人鬼ホラーとは違うよう だ。その手のホラー映画なら「クライモリ」(2003)などの楽しめる作品もあったものの、ほとんど僕は関心がないのでスルーしてきた。でも、この映画は 「化ける」可能性がありそうだ。そんなわけで公開直後、映画館に駆けつけてみた次第。

ないよう

  ここはどこかの研究施設だろうか。この施設で働く同僚同士であるゲイリー・シッターソン(リチャード・ジェンキンス)とスティーブ・ハドリー(ブラッド リー・ウィットフォード)は、同じく同僚の女性ウェンディ・リン(エイミー・アッカー)と他愛のない話題をやりとりしながら、いつものように自分たちの仕 事場へと向かうところ。この巨大な施設では、世界各地で同時に巨大なプロジェクトが進行していた。しかし、それらの試みはすでに各地で失敗に終わってお り、最後に残ったのは日本とここアメリカ。つまり、ここからゲイリーとスティーブ、ウェンディの腕の見せ所というわけだ…。さて、舞台は変わって、ここは 大学のそばの学生街。その街に建つアパートの一室で、デイナ・ポーク(クリステン・コノリー)とジュールス・ラウデン(アンナ・ハッチソン)という二人の 女子大生が、荷造りしながらおしゃべりしていた。イケイケ姉ちゃんのジュールズに対してデイナはちょっと奥手。つい最近も教授に想いを寄せながら、残念な 結果に終わったようだ。そんなデイナをけしかけようと、ジュールズとそのマッチョな恋人カート・ヴォーン(クリス・ヘムズワース)は秘策を練っていた。仲 間内で出かける週末の小旅行に、デイナとうまくくっつけられそうなナイスガイを用意しようというわけだ。今、デイナたちが荷造りしているのは、その小旅行 の準備。何でもカートがいとこから借りたという小さな山小屋に、仲間たちで泊まろうというお楽しみだ。メンバーはデイナ、ジュールズ、カートに、デイナと くっつけられようとしていた真面目青年のホールデン・マクリー(ジェシー・ウィリアムズ)、そして最後に現れたマリファナ常習者の変わり者マーティ・ミカ ルスキー(フラン・クランツ)。ゴキゲンなバカ学生5人は、クルマでいざ山小屋へと出発した。しかしそんな彼らのクルマの出発を見届け、どこかへ報告して いるナゾの人物が…。さて、5人の乗ったクルマは途中の山道で、寂れたガソリンスタンドに寄る。しかし、人影は見あたらない。さては無人かと思いきや、い きなり不気味な男(ティム・デザーン)が現れるではないか。さらに気味の悪いことに、この男は一行の目的地を聞くや否や、邪悪な場所だから行くなと言い出 す。しかしこの男がついついジュールズを侮辱するような言葉を吐いてしまったことから、売り言葉に買い言葉。ついついこの男をコケにしまくって、5人はガ ソリンスタンドを立ち去ってしまう。しかし、これは何かの前兆だったのだろうか。やがて5人を乗せたクルマは岩山にくりぬかれたトンネルを抜けていくが、 その脇でひらりと空を舞っていた鳥が突然焼け焦げた様子を彼らは目にしていなかった…。そんなこんなしているうちに、5人は問題の山小屋にやって来る。周 囲は鬱蒼とした森に囲まれ、雰囲気は満点。大いにハシャギまくる5人はそれぞれ自分の部屋を決めて、荷物を運び込んだ。そのうちホールデンが入った部屋に は、壁に何とも薄気味悪い絵が掛けてある。何やら残酷でグロテスクな絵柄で、見ているだけで気が滅入りそうだ。さすがにウンザリしたホールデンはこの絵を はずしたが、すると…何とそこには隣室のデイナの姿が見えるではないか。どうやらこの絵の下はマジックミラーになっていて、デイナからは単なる鏡に見えて いるようなのだ。しかも、ちょうど彼女の着替えシーン。ついつい見入ってしまったホールデンだったが、ええい、ままよ。彼は隣の部屋に声をかけて、デイナ にこの事実を伝えた。ホールデンの呼びかけに集まって来た一同は、この小屋の気持ちの悪い仕掛けに唖然。何となくイヤ〜な予感を感じてはいたが、まだ本当 に自分たちの身に迫っているモノには気づいていなかった。そして、紳士的な対応をしてくれたホールデンに、デイナが好意的な感情を抱いたのは言うまでもな い。それから一同は、小屋のすぐそばの湖で泳いで大騒ぎ。やがて陽も落ちて小屋に戻った彼らは、そこでくだらないゲームを始めようとする。しかしそんな5 人の一部始終を、研究施設のゲイリーやスティーブ、そして新入りの警備員トゥルーマン(ブライアン・ホワイト)たちがモニターからじっと見つめているの だった…。

みたあと

  このあたりまでのことは予告編にも出てきているし、「あなたの想像力なんて、たかが知れている」という挑発的な宣伝コピーやら、古びた山小屋が舞台の映画 らしからぬ絵柄がチラシにもチラついていたので、この映画を見る観客の大半はこれが「ありきたりの殺戮ホラー映画」ではないと分かっているはずだ。しかし それにしたって…ネット上には「俺はこんな展開は読めていた」と偉そうにドヤ顔で言ってる奴もいるが…大抵の人が見始めた段階でも「こんな映画」だとは想 像つかなかったに違いない。何しろ冒頭場面からなぜかどこかの研究施設が出てきて、そこの職員たちが日常会話を交わしているという意表を突いた展開。まっ たく関係のない人々が突然人工的な空間に閉じ込められ、理不尽かつ危機的な状況に陥る…という設定に、やっぱり前述の「キューブ」みたいな一種のSFホラーなのか…と一瞬思ったりもした。しかし見ているうちに、そういう内容とも違うようだと分かってく る。そもそも、一体どこの誰が何のためにこんなプロジェクトを実行しているのか? 僕は「これからどうなるのだろう?」とワクワクして、思わず嬉しくなっ てしまった。正直こちとらは別にホラーを特別好きって訳じゃない。これが「13日の金曜日」タイプのありきたりな殺人鬼ホラーだったら、わざわざ見に行く こともなかったろう。だから、こういう意表を突いた展開は望むところだ。もっとやれ!!

ここからは映画を見てから!

みどころ

  この作品のことについては雑誌やらネット上ですでにイヤというほど語られているだろうから、あまり改めて言うこともない。これが世の中に氾濫する「ありき たりなホラー映画」の一種の批評やパロディになっているのは、おそらく誰しもが認めるところだろう。そういう意味では、オーソドックスなホラー映画のカタ チをとりながらもホラー映画というジャンルのパロディや風刺を行っていた、「スクリーム」三部作(1996〜2000)とどこか相通じるものを感じる。た だしこちらの作品は、ハッタリのかませ方、突き抜け方が尋常ではない。それが勢い余って、もはやホラーなどというジャンルすら飛び越えてしまうのだ。特に うまいのが、メインの山小屋側ではそれこそ「ありきたりのホラー映画」的なストーリーが展開しているのに、それとパラレルで研究施設での場面が展開してい くという点。研究施設の連中はモニターでいたぶられ殺される若者たちを傍観者として観察し、時にはその「殺され方」に関して賭けを行ったりしている。いよ いよ若者たちの全滅が決定的となった時には、一同でシャンパンを空けて大騒ぎという始末。この研究施設の場面は、「新入り」でこういう状況に慣れてない警 備員の視点から描かれているため、余計にシニカルな描き方になっている。この異なる二つのエピソードが交互に描かれることから、何とも皮肉でズレた笑いが にじみ出てくるのである。そんなわけで…実はこの「キャビン」という映画、決してホラー映画なんかじゃない。むしろコメディと言っていいほど、全編に笑い が炸裂する映画なのである。そして途中からやられっぱなしの若者たちが反撃に転じるや、お話はさらにとんでもない方向へと発展していく。地下の研究施設で のてんやわんやの展開は、残酷でグロテスクながらも大爆笑という不思議な味わいのクライマックス。そこで研究施設側の連中がバンバンやられても、それまで 彼らは高みの見物を決め込んで若者たちを「傍観」していたのだから、僕らにとっては爽快な気分になりこそすれ不快な気分になろうはずもない。結末にしたっ て、「全世界のため」という大義名分があろうとも、僕らから見れば「助けてくれた人を裏切る」ようなマネをしたわけだから自業自得。だからエンディングは 非常にペシミスティックな結論であると言うこともできるのだが、見ている僕らとしてはスカッと笑い飛ばすことができる。独創的な発想の素晴らしさもさるこ とながら、このあたりのバランス感覚も何とも絶妙なのだ。おまけにこの終盤でいきなり意表を突く大物スターが登場するに至っては、もう劇場内は大爆笑!  このスター、最近は「宇宙人ポール」(2011)など同様の登場が多く、SF、ホラー、ファンタジー系映画のアイコンとでも言うべき登場の仕方で、この キャスティングからして「分かってる」としか言いようがない。いやぁ、もう僕も嬉しくなった。ただし念のために付け加えると、ひょっとして僕が特にホラー 映画ファンというわけではないからこれほど楽しんだのかもしれないことは、ここで付け加えておく必要があるかもしれない。これが純粋なホラー映画ファン だった場合には、いろいろと気に入らない点があるのかもしれないのだ。だが、ともかく僕個人の感想としては、このセンスの良さにひたすら脱帽だ。誰が何と 言おうとも面白いのである。一体どんな奴がこの映画を作ったのかと思えば、監督が「クローバーフィールド/HAKAISHA」(2008)のドリュー・ゴ ダード、製作が「アベンジャーズ」(2012)の監督を手がけたジョス・ウェドンで、脚本もこの二人が書いている。「クローバーフィールド /HAKAISHA」もセンスの良さが際立ってたし、「アベンジャーズ」だって大味大作に見えて、あのエンディングに挿入されていたオマケ・カットの脱力 感は凄かった(笑)。そういう意味では、この映画は全面的にセンスの勝利だと言ってもいい。終盤の大風呂敷の広げっぷりといい、僕は大いに楽しんだ。

さいごのひとこ と

 ラストの大スターはまさに真打ち登場。

 

「オズ/はじまりの戦い」

 Oz - the Great and Powerful

Date:2013 / 04/ 01

みるまえ

  最初にこの映画のチラシや予告編を目にした時には、「アリス・イン・ワンダーランド」(2010)の路線ふたたび…って感じの企画だと思った。ディズニー だし、クセの強いファンタジー系の映画作家を起用しているし、古典的ファンタジー作品の焼き直し的映画だし…この2本の映画はおそらく同じような発想で制 作されているはず。で、僕は正直言ってまったく見たい気がしなかった。そもそも「アリス」の時にはティム・バートンついにネタが尽きてきたなと思っていた し、欧米のファンタジー系の映画作家が「困った時の頼みの綱」的に「不思議の国のアリス」を題材に使うのは常套手段なので、正直「またかよ」と思っていた のだ。そんなわけで、僕は大好きな3D作品だというのに、ティム・バートン版「アリス」は見ないで済ませてしまった。後で知人に聞いたら、やっぱり見ない で正解みたいな映画だったようだ(笑)。で、今回のサム・ライミの「オズ」である。かの有名なMGM作品「オズの魔法使」(1939)というか、その原作 の前日譚…ビギニングもの。ライミは「スパイダーマン」シリーズの新作から降ろされての本作登板という「いわく付き」の作品。いち早く見に行った人からは 「大したことない」という評判を聞いていて、僕もすっかりパスする気満々になっていた。ところが、別の知人からは「面白い!」とまったく異なる評価が聞こ えてきた。おまけに最初に酷評した知人は、この作品を3Dではなく通常版で見たというではないか。ひょっとしてこの作品、3Dで見て初めて真価を発揮する 作品なのだろうか。こうなると居ても立ってもいられない。映画マニア、映画ファン的にはバカにされるのかもしれないが、恥ずかしながら僕は昔から3D映画 好き。まぁ、映画芸術原理主義者たちはこういうテクノロジーをバカにするけど、そもそも映画って媒体自体がテクノロジーの産物だ。というより、見世物小屋 で見せるようなインチキ臭いシロモノなのである。そういうのをバカにするくらいなら、最初から映画なんか見れなくなるではないか。…閑話休題。というわけ で僕は、映画の出来の良し悪しをハッキリさせるために、遅ればせながらこの映画を見に行ったわけだ。

ないよう

 1905 年のカンザス。原っぱにテントを張って、しがないサーカス一座の興業が行われている。その喧噪の中に、オスカー・ゾロアスターまたの名を「オズ」という奇 術師(ジェームズ・フランコ)もいた。彼はこれから始まるマジックショーのために急遽助手に起用した若い娘に、さまざまな手順を教えようとしていたとこ ろ。ただし手順の説明よりも、田舎の素朴さ丸出しの娘を口説くほうに熱が入っている様子。祖母の形見と称する小さなオルゴールの小箱を彼女にプレゼント し、今にもキスしようとしたところ…ズカズカと割って入ったのは、オズの長年のパートナーにしてマネージャーのフランク(ザック・ブラフ)。ついついうっ かりしていたが、そろそろ「偉大にして強大なるオズ」による驚異のショーの開演というわけだ。衣装もボロだし客の入りもショボいが、一旦幕が開いたら仕事 キッチリのオズは、今日もカンザスの素朴なお客達を魅了した。しかし、観客の足の不自由なお嬢さんがオズのマジックを信じ込んだあまり、「私にも奇跡を起 こして!」とばかり足を治してくれと言い始めたことからケチがついた。かくして散々な幕切れとなったショーの後は、オズはいつも献身的なフランクに当たり 散らすばかり。ところが、そんなオズに突然の来客。それは長いつきあいになる恋人のアニー(ミシェル・ウィリアムズ)だった。彼女との久々の再会を喜ぶオ ズだったが、アニーはそんな彼に冷水を浴びせるような発言をする。何と彼女は、別の男からプロポーズされたのだというのだ。「どうしたらいい?」と聞いて くるアニーは、当然オズからの求婚を待っている。しかし…カネにもセコいし他人への思いやりもない、やっている仕事も胡散臭いと何拍子も揃ってしまってい る現在のオズに、彼女の人生を左右する資格がないことぐらい本人が一番よく分かっている。いつかはエジソンのように偉大な人物に…という野望を抱き、「フ ツーの人」で終わりたくないと願うオズは、今さらもうここで退くわけにはいかない。しかも現実には、彼はその「フツーの人」にすら遠く及ばない状況なの だ。苦渋の選択ながら、アニーに「彼と幸せにな」と告げるより他はないオズだった。しかもそんな折りもおり、サーカスの怪力男がカンカンに怒って近づいて 来るのが見えるではないか。オズは例によって女への手癖の悪さを発揮。運悪くそれが怪力男にバレてしまったらしい。こうなるとオズは脇目もふらず一目散 に、その場をスタコラ立ち去るしかない。運良くその場にあった気球に乗り込んだオズは、間一髪怪力男の追跡を振り切ることができた。しかしオズがラッキー と喜んだのもつかの間、目の前には特大級の竜巻が急接近。あっという間に気球は竜巻に吸い込まれ、凄まじいスピードでモミクチャにされることになる。そん な超現実的な体験を経て、いつしかオズを乗せた気球の周囲は静けさを取り戻し始めた。オズがふと気づいてみると、気球は彼が今まで見たこともない、カラフ ルで不可思議な世界へと迷い込んでいたのである…。

みたあと

  もう予告編から分かっていたことだが、オープニングの地上の場面はモノクロ・スタンダード(ただしすでに3D効果は始まっていて、フレームの外に飛び出す ような絶妙な効果が楽しめる)。そして主人公が気球ごと竜巻に巻き込まれて別世界へと連れ去られると、画面はいきなりワイドスクリーンに広がってカラー 化。これはかつての「オズの魔法使」での展開を踏襲したもので、すでに分かっていても嬉しい趣向だ。しかも3D効果も抜群。「アバター」(2009)以来 ハリウッド映画で氾濫した3D映画の中でも、「トランスフォーマー/ダークサイド・ムーン」(2011)、「サンクタム」(2010)、「ヒューゴの不思 議な発明」(2011)、「ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日」(2012)などは屈指の出来栄えだったが、本作の3D効果もそれらに負けずと も劣らない。正直言ってこの映画を3Dで見ないと、その面白味はかなり減退すると言わざるを得ないだろう。そんなことを言うとまたまた映画芸術原理主義者 に怒られそう(笑)だが、実際にこの作品はそうなのである。そんな3D効果を堪能させてくれるという点で、本作は予想通り僕を楽しませてくれた。この点で は「想定内」。また、サム・ライミ作品にいわゆる「クセの強さ」を求めている人が見たら、おそらく判で押したように「ディズニーのせいでアク抜きされ ちゃったな」ってな「いかにも」な反応が返ってくるのかもしれないが、僕は別にそんなモノを求めてもいないので気にはならなかった。そもそも、「ディズ ニーだからアクが抜けた」とも思わなかったが…。そんなことよりも、本作がまったく想定外の点で楽しませてくれたことに、僕は大いに驚かされたのである。

ここからは映画を見てから!

みどころ

  映画のイントロ部分にあたるモノクロ地上場面で、主人公のオズは正直言っていいかげんな男でしかない。自分ではそれなりの大物になりたいと思っていて、い つかはなれるはずと思ってきたが、現実がまったく伴っていない。それを認めたくないものだから、現実に目をつぶってしまう。あるいは「まだまだこれから」 と思いこんでいる。「これから」と思い続けて現実から目を背け続けたあげく、あまりに長い時間を浪費してしまって今さら引き返せなくなっているのだ。おま けに…せっかく恋人が訪ねて来て自分に縁談が持ち上がったことを知らせても、それを覆させることができない。いくら現実から目を背けて自分の気持ちはダマ せても、恋人までダマすことはできない。いや、自分がクズであることから完全に目を背けることは出来ないのだ。そんな主人公を見ていて、僕は最近漠然と思 い始めているアレコレをついつい連想してしまった。そう、僕は今までずっと自分の現実から目を背けて、ここまでバカな人生を歩んで来てしまった。結果的に 僕はいまだに何の結果も残せていないし、これからも残せるアテがまったくないのだ。主人公が気球で竜巻に巻き込まれながら死にそうになって、思わず「オレ はまだ何も成し遂げていない!」と嘆くのはシャレにならない。この作品を見てこんな気分になるとは思いもよらなかったが、この主人公は…少なくとも映画の 前半部分では…完全に今の僕自身と変わりない。それを第三者的にズバリと見せられたみたいで、正直ツラくなってしまったのだ。これはまったく想定外だっ た。映画ではその後、主人公は改心したり目覚めたりしてハッピーエンドがやって来るが、当然のことながら僕自身は竜巻にも巻き込まれないしオズの国にも行 けない。だから映画みたいな幕切れにはならない。何とも苦い苦い思いしか残らないのでえある。僕もいつまでも夢みたいなことを考えていなければねぇ…もう ちょっとマシな、人としても意味のある人生を送れたんじゃないだろうか。今さら取り返しがつかないと分かってはいても、何とかならなかったのかと悔しく なった。映画を見ながら、僕はまったく別な自分のことばかり考えてしまったよ。そんな気分がどんよりした僕が映画の後半になってパッと明るい気分になった のは、別に主人公がいいところを見せて救われたからではない(笑)。ウソにウソを重ねたものの、周囲の人々には自分が無能で無力なことがモロバレ。味方陣 営にはまったく戦力はなく、まさに一触即発状態なのに悪い魔女たちの軍勢を止める術もない。万事窮すな状況でまたぞろトンズラをこくつもりになりかけた主 人公が、瀬戸物の女の子の言葉をヒントに起死回生の名案を思いつくのだが、それというのが…自分がそれまで持っていたインチキ手品のネタの数々。そのイカ サマのネタを大げさにブチかますと同時に、主人公が尊敬する偉人エジソンの「新技術」を駆使した大パフォーマンス。それは…まさに「映画」そのものではな いか! マーティン・スコセッシが3Dに挑戦した「ヒューゴの不思議な発明」はジョルジュ・メリエスに捧げた映画賛歌だが、こちらはエジソンというわけ。 そもそも映画づくりそのものが壮大なウソっぱちみたいなものなので、この映画の主人公オズのインチキのノウハウがそのまま映画みたいなもの。煙がもくもく 立ちこめる中に巨大なオズの顔面が映し出されるという、まるで「イングロリアス・バスターズ」(2009)からいただいてきたような趣向も楽しめる。そん な「インチキ=映画」という屈折した映画愛を見せている点に加え、それをどこか見世物小屋的ないかがわしさを持った「3D」で作っているあたりが、いかに もサム・ライミらしくて嬉しいのである。もうひとつサム・ライミらしさを挙げるとすれば、「ブラック・スワン」(2010)で注目のミラ・クニスが演じる 「西の魔女」セオドラがそれ。彼女は本来善良な魔女なのに、心の隙を姉にうまく利用されていかにもな悪い魔女へと変貌してしまう。そのあたり、ライミが 作ってきた「スパイダーマン」シリーズの悪役キャラ設定と共通しているテイストが感じられて興味深かった。それゆえ、僕はこの作品でサム・ライミが「ディ ズニーにアクを抜かれた」とは思えないのである。

さいごのひとこ と

 インチキこそ上等じゃねえかという映画。

 

「ゼロ・ダーク・サーティ」

 Zero Dark Thirty

Date:2013 / 04/ 01

みるまえ

 この映画の存在を知ったのは、オスカー・レースもあれこれ取りざたされるようになった頃のことだ。あの「ハート・ロッカー」 (2008)で女性で史上初のオスカー監督賞受賞者となったキャスリン・ビグローが、新作をひっさげてオスカー・レースに帰ってくる。その作品は、何とあ のオサマ・ビンラディン暗殺計画に関わるお話だ。まぁ、あの「ハート・ロッカー」の監督ならやりそうな題材だ。いかにもピッタリと言えよう。大抵の人な ら、きっとそう思うに違いない。しかし僕個人の気持ちは、必ずしもそうではなかった。だってそれまでビグローって、かつての夫であったジェームズ・キャメ ロンの女版みたいな、女には珍しいアクション専門監督だったはず。別に問題作専門でもないし、イラクとか湾岸とか「そっち」系を得意としていたわけでもな い。だから正直なところビグローの新作がビンラディン暗殺話と聞いて、また「そっち」かよと思ってしまった。まぁ、味をしめたなって感じ。そのせいかどう か分からないが、この映画はアメリカ本国でも物議を醸しているらしい。そりゃそうだ。オサマ・ビンラディン暗殺のやり方そのものからして、いろいろ微妙な 問題を含んでいる。それを映画にしたなら、当然そんな論議は起きるはずだろう。それに対して作り手は、行われたことの意味を肯定も否定もせずに、ただ単に 映画にしただけだと強弁しているようだ。しかし、それって通用する言い訳なんだろうか。そんな僕も結局この作品を無視することができず、公開からしばらく 経ってから劇場に駆けつけた次第。

ないよう

 2001 年9月11日に起きたニューヨーク・ツインタワービルへの攻撃をはじめとする同時多発テロは、アメリカ社会に空前絶後の衝撃を与えた。その日から、その首 謀者であるオサマ・ビンラディンに対する、アメリカの厳しい追求が始まった…。そして2003年、中東の某所。殺風景で真っ暗な建物の中に、ヒゲもじゃの ダニエル(ジェイソン・クラーク)に連れられて一人の若い女性が入ってくる。その女性の名はマヤ(ジェシカ・チャステイン)。緊張した面持ちの彼女の前 で、ダニエルはこれからアマールという男(レダ・カテブ)を拷問にかけるところだ。目的は、あのオサマ・ビンラディンに関する情報の入手。しかしダニエル の手口のあまりの凄惨さに、マヤはさすがに正視に耐えない。これからの仕事について、漠然とした不安を抱かずにいられないマヤだった。マヤはビンラディン の情報を入手するために投入されたCIA情報分析官で、イスラマバードの在パキスタン米国大使館での任務に就いたばかり。ダニエルはマヤがこの仕事に耐え られるのか不安に思うが、CIAのイスラマバード局長ジョセフ・ブラッドリー(カイル・チャンドラー)は、「彼女はかなり冷徹な人物と聞いている」と告げ るのだった。しかし激しい尋問と拷問を繰り返しても、アマールは口を割らない。そんなこんなしているうちに、サウジアラビアでアルカイダによるテロ勃発。 一計を案じたマヤは、ダニエルにあるアイディアを持ちかける。アマールが拷問によって意識朦朧となったあげく自白した…というウソをついて、追求を緩めた り食事を与えたりしてみることにしたのだ。すると緊張の糸が切れたアマールは、ビンラディンの側近である「アブ・アフメド」という人物の名を明かすではな いか。この名前を頼りにポーランドの捕虜収容所に渡ったマヤは、「アブ・アフメド」が重要人物である確証を得る。しかしそんなマヤに、ブラッドリーは「本 名も居場所も分からない情報など意味がない」とにべもない。やがてロンドンでも爆弾テロが起こり、一方で有力者が逮捕されたりと一進一退の日々が続く。挙 げ句の果てに、同僚のジェシカ(ジェニファー・イーリー)とイスラマバード市内の外国人御用達のホテルで食事していたマヤは、自ら爆弾テロに遭遇する羽目 になったりもした。そんな折りもおり、捕虜への拷問が問題化したため、オバマ大統領は拷問を禁止することを発表。現場の手詰まり感は一層強まる。ところが そんな時、マヤの同僚ジェシカに朗報が飛び込む。アルカイダの有力者のある医師が、カネと引き替えなら寝返るというのだ。落ち合う場所として決定したの は、アフガニスタンにあるアメリカの基地。喜び勇んだジェシカとそのスタッフは、荒野の真ん中にある基地で、この医師が到着するのをじっと待っていた。イ スラマバードで留守を預かるマヤは、メールによってジェシカとやりとり。延々と待たされながら基地の遙か彼方からクルマが走ってくるのを見つけたジェシカ は、マヤに「彼が来た」と嬉々としてメールを打った。マヤもまた「やったね!」と彼女に励ましのメールを送信。ジェシカからの続報を心待ちにした。しかし 待てど暮らせど、ジェシカからの続報は送られて来なかった。基地内にクルマでやって来た問題の医師は、その周囲を取り巻いたジェシカたちCIAスタッフた ちを巻き添えに、自爆テロを実行したのだった…。

みたあと

  先にも述べたように、キャスリン・ビグローが「ハートロッカー」に次いでこの作品を発表することを聞いた時、正直あまりいい気分はしなかった。本来、ビグ ローって人は「女だてらにアクション派」が売り(この表現は「女性差別だ」と文句を言われそうだが、あえてそう言わせてもらった)で、別にオリバー・ス トーンみたいに「社会派」だったわけではない。なのに「ハートロッカー」で大成功を収めると、すかさず次は「ビンラディン暗殺」とまるで「中東戦争モノ」 の専門家モドキってのはいかがなものだろうか。「好評につき第二弾!」ってことなのかよ(笑)。おまけに今回は「ビンラディンを追いつめたのが女だっ た!」…みたいな話で、「女の視点」からの映画づくりみたいな雰囲気もそこはかとなく漂う。この人はそんなフェミニズムっぽいつまんないことから遠い人 だったと思ってたのに、何だかオスカーとったら「いかにも」な感じになっちゃったなぁ…と、本作を見る前にはかなりゲンナリしていたのだった。おまけにア メリカによるビンラディン殺し自体についても、「9・11」以後のアメリカの独善丸出しぶりを見てきた側からすると、そうそう正当化できるものなんだろう かと疑問がわき上がる。それを批判するにしても肯定するにしても、あまりに実際の事件が起きてから映画化までが短すぎやしないだろうか。…など、など、な ど…と、この映画に関してはどうもネガティブな気分にしかなってこない。その一方で「あの」ビグローがビンラディン暗殺を映画化したと来れば、どうしたっ て見たくなる「野次馬根性」が僕にあるのも確かだ。見る側にこれだけの葛藤があるだけに、作る側のビグローがそうしたさまざまな立場の人間たちのさまざま な思惑含みの視点にさらされるのは致し方ない。それをビグローは、分かりすぎるほど分かっているのだろう。前置きはほとんどなく、映画の冒頭で「9・ 11」がありました…というお約束の「記号」として、その時の報道やら通信などの音響効果だけで「それ」を提示し、あとはいきなり何の説明もなしにヒロイ ンのマヤと我々観客を中東の「某所」に放り込む。そんな我々の目の前に展開するのは、悪名高いアメリカによる被疑者への「拷問」だ。単刀直入、ダイレクト に。このへんの「ズバリ」と踏み込むズケズケ感は、映画としてのあり方には賛否両論あると思うが、よけいなことを言わず問答無用で見せて「さすが」と思わ ざるを得ない。この力業ぶりこそが、まさにビグローらしさなのだ。

みどころ?・こうすれば?
  ここまで僕が書いてきたことを読んでいただければお分かりになるかと思うが、作っている側もスレスレのところを渡っているが、見る側もなかなかに錯綜した 心理に陥らされる。自分の立ち位置がどこなのかを、その都度再確認させられるような映画(僕の場合は見ている時だけでなく、こうやって感想文を書いて何ら かの「発信」を行っているのだから、その「立ち位置」の再確認は2倍になる)なのだ。映画としては極めてシンプル。学校出たてでいきなりCIAの最前線に 放り出されたヒロインが、プロとしてビンラディン追跡に関わることになる。最初は凄惨な拷問に目を伏せてしまうようなガラスのハートだった彼女も、いつの 間にかそれが日常になれば「慣れ」が生じる。ましてその後、自分が爆弾テロに遭遇したり、同僚の女性がテロの犠牲になったりする経験を経過すれば、彼女の ためらいはまったくなくなっていく。特に同僚女性の死が彼女にとっての「最後の一押し」になって、ヒロインは執念でビンラディンの居場所を突き止める。こ うして急襲作戦が実行されてビンラディンは仕留められるが、それを知って中東を後にするヒロインは、なぜか漠然とした虚無感に襲われるのであった…という お話。これって作り手がガチガチのビバ・アメリカ主義者か、逆にイスラム原理主義者にシンパシーを持っている人でなければ、「こうなるしかないようなぁ」 という話の落としどころだ。正直、そこにビックリするものは何もない。ヒロインの「イノセンスの喪失」をテーマに、それを「ビンラディン暗殺」という味付 けでリアリティと説得力を持たせた作品と言っていい。そもそも映画って何かの「例え話」だから、この映画は「ビンラディン暗殺の真相」ってマスコミ向けの 「売り文句」とは別に、本来はこの一人の若い女性の「イノセンスの喪失」こそが実際のテーマと言うべきなのだ。そう…これがそこらの「普通の映画」だった 場合には…。しかし元になる事件が起きてからまだほとぼりも冷めない現時点で、当事国の一方であるアメリカから発信しているということが、この映画を「単 なる例え話」に終わらせてくれない。先に僕が述べた、ヒロインの「イノセンスの喪失」ってだけで済ませてもらえない。映画以前の、あれやこれやで引っか かって来ちゃう要素が多すぎるのだ。まず、ビンラディンを暗殺しちゃうということがどうなのか。もちろんあんなムチャなことをやって多数の人々を殺した罪 は逃れられないが、かといって、その「罪人」を一方的に強引に始末するって「あり」なのか。見る側の立場によっては、ビンラディンが「罪人」であることす ら否定したくなる人々もいるだろう。もうその時点で、この映画は玉虫色に見えてくる。しかもそれって、この映画の「作品としての評価」以前の問題だ。それ でもラストの虚無的なヒロインの表情を見せつけられれば、人によって立場によっては「いい人ぶってるんじゃねえよ」とか「やられた方はたまったもんじゃね えよ」などと言いたくなってくる向きもあるだろう。それにはさらに、「やられても仕方のないことをやったからだろう」とかぶせてくる向きもあるだろう。も うこうなるとキリのない話で、映画の論議だか何だか分からなくなってしまうのだ。おまけにもうひとつ、それまで別に社会派な作品を発表してきたわけでもな いキャスリン・ビグローが、オスカー受賞「ハートロッカー」に次いでまたまた中東の戦争ネタかよ…って、少々ゲスの勘ぐり的な見方が出来ちゃう危うさもあ る。本来はそれなりにほとぼりが冷めて落ち着いてから映画化するのに、なぜ待てなかったんだい(そんなに早くカネにしたかったのか)?…的な意地悪な気分 にもなって来る。映画の成立動機ですら、何となく不純なモノに感じられてしまうのだ。また、映画の制作側はマスコミからの「拷問を肯定しているのか?」と いう追求にアレコレ反論しているが、それも僕には苦しい言い訳に聞こえてしまう。映画としてそれが起きたのは「事実」なので避けずに描いた…というのは分 かるのだが、描いたことによって結果的に「そういうことも場合によってはアリ」というメッセージを発信したことになりはしないか。いろいろな意味で、ヤバ イ題材だし誤解を招きかねないネタなのだ。しかも僕がここに長々と並べたさまざまな問題点は、すべて映画の作品としての出来「以前」の問題でしかない。映 画の出来栄えには、実は僕はまだ一言も触れていない。そういう一切合切は映画とは関係ないので触れないで語ろうと思っても、そうは出来ないし許されない題 材ではあるのだ。さらに、「ビンラディン暗殺の真相が見たくないか?」と言われれば、そりゃあ「見たい」と言わざるを得ない。そんなこんなで見る側の性根 の部分も問われる、ひどくタチの悪い映画でもある。実際、映画の終盤のヤマ場となるビンラディン暗殺作戦のくだりは、僕のそんな下世話な期待に十分応えて くれる。さすが元々は「アクション派」ビグローだけに、すでに起きてしまったことと分かっていても手に汗握る大見せ場だ。しかしビックリしたのだが、僕は ビンラディンって砂漠の洞穴みたいなところに隠れていたのかと思いきや、東京でいうと小田急線や京王線沿線みたいな郊外の住宅地…これは東京在住者じゃな いと分からないかもしれないが、府中とか調布とか八王子みたいな街…の大きな邸宅の中に隠れていたんだねぇ。そこにステルス・ヘリ2機で米軍精鋭部隊が乗 り込んで行って、有無を言わさずにターゲットを女子供の目の前でブチ殺す。住宅地のど真ん中でやっちゃう。これを見せられちゃうと、正直言ってビンラディ ン暗殺について肯定的な気分でいることはかなり難しい。じゃあ、それがビグローのメッセージなのか…と言えば、必ずしもそうではないだろう。そういう意味 で、この映画は評価が極めて難しい映画なのだ。この感想文でも、僕はこの映画をほとんど「いい」とも「悪い」とも評価していないと白状せざるを得ない。 ぶっちゃけ言うと後味はすごく悪いしイヤ〜な気分にもなるが、確かに「面白さ」があることは否定できない。だから、なおさらこの映画に対する態度の取り方 が難しい。実際の映画化にあたってもかなりの困難があっただろうが、そういう意味では現在のキャスリン・ビグローその人の心境は、この映画のヒロインであ るマヤのラストの虚無的な気分と同じなんじゃないだろうか。果たしてビグローが作るべき映画だったのか、少なくとも「今」やるべき映画だったんだろうか… いろいろな意味で考えさせられてしまった。

さいごのひとこ と

 感想は聞かないで。


 

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