「鑑定士と顔のない依頼人」

  La migliore offerta (The Best Offer)

 (2013/12/30)



見る 前の予想

 あの「ニュー・シネマ・パラダイス」(1989)で一躍世界的な監督になったジュゼッペ・トルナトーレの最新作がやって来た。
 ヴィスコンティやパゾリーニ、フェリーニ、アントニオーニがこの世を去り、ベルトルッチですらカラダの自由がきかなくなったイマドキのイタリア映画界で は、国際的大舞台で商業的にも通用する映画監督はこの人ぐらい。もちろん国内にはそれなりに力のある映画作家もいるのだろうし、映画祭常連の監督 もいるのだろうが、ハリウッドにまでその名が轟く「商業的成功」を手にした人といえば、この人ぐらいのものではないか。
 とはいえ、実はここ最近、僕はトルナトーレ作品にあまり関心がなかった。というか、むしろ嫌悪感を抱いていたというのが正しい。それというのも、僕はこの男の映画に正直辟易させられていたからだ。
 海の上のピアニスト(1999)あたりを見ても分かるように、この男の映画は妙に不健康なモノを感じさせる。自分だけの狭〜い世界に閉じこもってる その感じも不健康なら、それを無理矢理自己全面肯定の方向に持っていってる感じも不健康。それは、ちまたではえらく評判の良かったマレーナ (2000)を見て確信となった。女に対する「想い」が独りよがりでテメエ勝手、なおかつ陰湿で卑怯…。なのにエンニオ・モリコーネのムードたっぷりの口 当たりのいい音楽でくるんで、「男の女に対する思慕の情」であるかのように見せかける。おまけに許し難いのは、それを観客…特に男の観客に向かって、 「男ってみんなこうだよな? オマエもオレと同じだろ?」とばかりに共感を押しつけてくること。思わず、オマエと一緒にするなと言いたくなる。
 そう考えてみれば、そもそも「傑作」視されて大ヒットした出世作「ニュー・シネマ・パラダイス」自体が、モリコーネの音楽で観客を無理矢理泣かそうとす る押しつけがましい映画ではなかったか。映画ファン誰もが持つ「映画への想い」を利用して、「なっ? オマエもそうだろ?」と慣れ慣れしくにじり寄ってく る手口もまったく同じ。何とも気持ちの悪い男なのだ。もう一つ例にとれば、「映画」と「女」というこいつの2大アイテムが揃った「明日を夢見て」 (1995)。これこそ偽善もいいとこ…の気持ち悪い作品もあったっけ。
 そう気がついてしまうとスッカリ新作など見る気を失って、「題名のない子守唄」(2006)や「シチリア!シチリア!」(2009)といった近作が日本で公開されても劇場に足を運ぶ気にはなれなかった。何だかタイトル見ただけでいかにもヤバそうだし(笑)。
 その延長でいくと、今回もトルナトーレの新作など無視したいところ。しかし今回は、何とジェフリー・ラッシュ、ジム・スタージェス、ドナルド・サザーラ ンド…とメジャーどころの俳優がズラリ。これでは無視しようにも無視できない。おまけに今回の作品、どうやらナゾめいた設定でミステリーが展開されている らしい。これなら毎度お馴染みベタついた、「なっ、オレの気持ち分かるだろ?」的な押しつけがましさも少ないのではないか。
 そんなわけで久しぶりのトルナトーレ作品を見に、年末の劇場へと駆けつけたわけだ。

あら すじ

 美術鑑定士のヴァージル・オールドマン(ジェフリー・ラッシュ)は、その道でも一流の審美眼を持った人物だ。だから初老の域に達した現在、第一人者として確固たる地位を築いている。
 今日も今日とて、主を失った屋敷に遺族からの頼みで赴き、そこに遺された数多い美術品や家具を品定めしている。むろん、遺族たちはヴァージルに全幅の信 頼を置いているのは間違いない。その日も、たまたま焼け焦げた絵画の断片を発見。周囲は大したモノではないと思っていたが、ヴァージルだけはこの品になみ なみならぬ興味を抱いているようだ。
 そんなヴァージルの主な仕事は、美術品オークションでの「仕切り」。会場にやって来たいずれ目利きの客たち、そして電話で参加してくる大金持ちなどの交通整理も鮮やか。名調子ともいうべき口上で、競りを円滑かつドラマティックに進める。
 そんな中、ヴァージルが時折まなざしを投げかける人物が、会場にひとりだけ潜んでいた。その男はヴァージルの昔なじみの画家ビリー(ドナルド・サザーラ ンド)。老いた今でも絵描きとしては大成できなかったビリーだが、なぜかヴァージルとは長いつきあいで彼に「協力」を惜しまない。
 大きな声では言えないが、ビリーはこっそりヴァージルと組んでいた。ヴァージルが「これは」と思う逸品を、破格の安値で競り落とす手伝いをしているの だ。ビリーは時折、自身の才能を高く買ってはくれなかったヴァージルに恨み言をこぼしはするが、二人の「友情」は変わらない。今日も今日とて、ヴァージル が目をつけた名品を落として「し損じなし」だ。
 しかしビリー以外のヴァージルの対人関係というと、これは極めてお寒い。例のビリーをのぞけば、頻繁に顔を合わせる人物は自分のスケジュールをマネージメントする秘書のオッサンだけ。
 行きつけの高級レストランでは上客として手厚くサービスされるものの、食卓はいつも一人きり。それもそのはず、ボーリング全盛時代の「マイ・ボール」みた いにグラスもお皿もネーム入り。両手には手袋をして完全防備という出で立ち。徹頭徹尾、他人と触れたくない関わりたくないオーラが漂っている。
 そんなヴァージルに店側の最高のサービスとして、誕生日のサプライズ・メニューとしてバースデイ・ケーキが提供される。しかしヴァージルは表情をこわばら せ、ケーキに灯されたロウソクの火が消えるまで、ただただ呆然と見つめるのみ。給仕たちは何が気に入らないのかとハラハラして見つめていたが、最後に勇気 をふるってヴァージルに正面切って尋ねた。すると、ヴァージルは憮然としていわく。
 「今日は誕生日でなく、その一日前だ」
 そんな細かいことを気にするヴァージルの神経質さを問うべきか、はたまた上客として特別扱いしてくれる店ですら彼の誕生日をちゃんと覚えてくれていない哀れさを同情するべきか。ここはヴァージルを取り巻く人間関係の、あまりの希薄さを記憶にとどめておくべきだろう。
 こんな細かく神経質な奴だから周囲に人がいないのか、人と関わらないからこんな性格になってしまったのか。それでも豊かさを悠々自適で楽しめる今の生活に、ヴァージルは大いに満足していた。
 そんなある日のこと、ヴァージルの事務所に一本の電話が入る。それは、ある女からの鑑定の依頼だった。その女の名はクレア(シルヴィア・ホークス)。資産家である両親の屋敷に遺された、数多くの美術品や家具を査定して欲しいとの依頼だった。
 本来だったら直接お客の電話をとることのないヴァージルだったが、たまたま受話器をとったのは誕生日ゆえの気まぐれ。「一見さんお断り」をモットーとするヴァージルがこの見知らぬ客の話を聞こうとしたのも、好奇心ゆえのことだった。
 とりあえずその屋敷を訪れる期日を指定され、当日、自ら屋敷へと赴くヴァージル。その古い屋敷は、街の中にポツンと取り残されるように建っていた。
 しかし屋敷前で待っていても誰も現れる気配はなく、門は固く閉ざされたまま。わざわざ自らのモットーを返上してまで「来てやった」ヴァージルはメンツ丸つぶれで、怒り心頭でその場を立ち去った。
 その後、ヴァージルに当のクレアから謝罪の電話が入る。怒りのあまり冷淡な対応をするヴァージルだったが、そこでクレアは涙ながらに言い訳をした。 いわく、交通事故に遭って連絡がとれなかった云々…。かなり苦しい言い訳だったものの、相手が自分を「第一人者」として重要視していることは分かった。そ のせいか、気むずかしいヴァージルにしては珍しく、今回限りとクレアの謝罪を受け入れることにした。
 そんな訳で改めて期日を指定されて、再度例のお屋敷へ。しかし、またしてもそのクレアという女は来ない。そんな苛立ちを隠せないヴァージルの前に、一人のオッサンが現れる。
 彼はこの屋敷の使用人フレッド(フィリップ・ジャクソン)。クレアに言いつかって、ヴァージルを招き入れるためにやって来たと言う。
 仕方なくフレッドと共に屋敷に入ったヴァージルは、そこにある美術品や家具類を見て歩くが、地下室でとある「モノ」を見つけて目を留める。それはヴァー ジルの苛立ちを思わず忘れさせてくれる「逸品」だった。結局、クレアにはまた会えずじまいだったが、ヴァージルはここまでの成り行きで屋敷の「仕事」に取り かかることになっていた。
 さて、屋敷の下見を終えたヴァージルは、街のとある修理屋へと足を運ぶ
 先にヴァージルの人間関係の希薄さについて語ったが、実はそんなヴァージルにはもう一人親しくしている人物がいた。それが、この店で働く機械修理工の若者ロバート(ジム・スタージェス)。おそろしく手先の器用なロバートには、修理できない機械などない。
 そんな彼の元に、ヴァージルはある「モノ」を持ち込んだ。それはヴァージルが例の屋敷の地下室で見つけた「逸品」…恐ろしくさび付いた精密な歯車の塊 だった。実はこれ、時代モノの機械人形の断片らしいのだ。
 このパーツが完璧に揃えば、どれほどの価値があるだろう。ロバートは修理工の冷徹な目で、他の パーツも手に入れば完璧に再現できると豪語した。そうなると、あの屋敷での「仕事」にも別の意味合いが出て来ようというもの。
 こうしてヴァージルは、本来ならば気乗りしなかったであろう査定の仕事を、ついつい引き受けることになったのだが…。

見た 後での感想

 「マレーナ」であれほどイヤになったトルナトーレなのに性懲りもなく新作を見に行ってしまった理由は、今まで以上に豪華な配役と、本作がミステリータッチの作品だと聞いていたから…というのは、先に述べた通りだ。
 実はトルナトーレ、「映画への愛」とか「女への(一方的で押しつけがましい)情」とかいった情感ズブズブの映画の他に、ちょっと変わった作品も手がけて いた。それは、ジェラール・ドパルデューと珍しやロマン・ポランスキーが俳優として主演する「記憶の扉」(1994)というサスペンス映画だ。
 ある嵐の晩に、警察署長ポランスキーの尋問を受ける作家ドパルデュー。ドパルデューにはある殺人の嫌疑がかけられており、ポランスキーの尋問によって徐 々に失われていた記憶がよみがえってくる…。ラストには「いかにもトルナトーレらしい」あざとい「オチ」が待っているが、なかなか興味深い作品ではあっ た。その「オチ」もアメリカの某大ヒット作と共通する大ネタなのだが、その作品に先立つこと数年。こちらの方がずっと先に出来ている。元々があの「イイ子 ぶり」とか「自己完全肯定」を押しつけて来なければ、映画の語り口のうまさには定評のあるトルナトーレだ。圧倒的に面白い映画は作れる人物なのである。
 だから、今回の豪華キャストでミステリータッチと来れば、かなり面白い映画に出来ているのではないか…。僕はそんな期待を胸に、劇場へと足を運んだわけだ。
 そんな見る前の僕の期待は、裏切られることはなかった。結論から言うと、今回のトルナトーレは従来とどこか違っていた。
 面白い。
 見ていてグイグイ引き込まれる。ミステリータッチだから面白いのか? 確かにそれはあるだろう。ナゾがナゾを呼ぶからワクワクする。途中で怪しげな人物 なども出てくるし、見ているうちに「このお話はどう決着させるつもりなんだろう?」とどうしたって気になる。マトモに考えれば、どうやったって無理がある設定・ 展開だ。「これは一体どういう終わり方をするんだ?」と、見ている側は大いに気になる。そのあたりのドキドキもあって、ついつい引き込まれてしまうことも あるだろう。やっぱりミステリータッチのトルナトーレって正解だったのか。
 しかし、
これは本当にいつものトルナトーレと違うのか?

従来作品との共通性と一線を画する点
 ミステリータッチ、ナゾめいた展開、そして衝撃的な「オチ」…。
 一見この作品(と、旧作「記憶の扉」)は、これまでの情感ズブズブで偽善っぽくて、女とか映画とかに対する「愛」をムキ出しにする押しつけがましいトル ナトーレ作品とは一線を画しているように思える。だから僕も今までのトルナトーレ作品のように、嫌悪感を感じることなく見れたのだろう。
 しかしよくよく考えてみると、この作品も実は典型的な「トルナトーレ作品的アイテム」を含んでいるのだ。
 「ニュー・シネマ・パラダイス」の後年に映画監督となる映画好きの男の子、あるいは「明日を夢見て」の旅から旅の映写技師…このあたりは「映画愛」を全 面に出してトルナトーレがオノレを託した主人公像ということになるのだろうが、「海の上のピアニスト」の主人公である「ピアニスト」、「記憶の扉」の主人 公である「作家」あたりまでを考慮に入れると、どこか「クリエイティブ」な仕事をする人物という範疇までそれを広げた方がよさそうだ。だとすると、今回の 主人公の「鑑定士」もまた、並外れた審美眼と美術に対する知識を有しているという点において、一種の「クリエイティブ」な職業と言えなくもない。そこに何 らかの「価値」を見いだしていく行為は、確かに「創造的」な行為かもしれないのだ。
 しかも映画の中盤から、この主人公は奇妙な行動に出る。訳あって姿を見せないヒロインに心惹かれて、物陰に隠れてその姿を見ようとしたり、何とか彼女の 歓心を得ようとしたりする。どう考えても、「マレーナ」の主人公である少年と五十歩百歩ではないだろうか。あの少年はガキのくせに陰湿で卑怯で我慢がなら なかったが、実は今回のジェフリー・ラッシュの鑑定士と大してやってることは変わりないのだ。
 そもそもこのラッシュ演じる主人公が、友人知人の類がほとんどいない人物であることも、トルナトーレの「いつものパターン」。従来はここまで偏屈では なかったが、これを「内気」と解釈すればこれまた「マレーナ」の少年の延長線上だ。女に手を出せず、童貞を守ってきたことからしてバッチリ重なる。もちろん船から 一歩も出られない「海の上のピアニスト」も同様だろう。
 さらに最後の「オチ」。
 今回の映画は、まさにこの「オチ」が最大の売りみたいな雰囲気だ。実際、映画もある程度進んでいくと「こうなるんじゃないか」と思えてきながら、見ているこちらは主人公に感情移入し始めているから、ラストはかなり衝撃的ではある。
 実はトルナトーレの映画は、いつもエンディングの「オチ」が売りである。
 例えば「ニュー・シネマ・パラダイス」の有名な「アレ」も、「オチ」と言っていいだろう。「海の上のピアニスト」だって「マレーナ」だって「オチ」だ。 サスペンス映画の体裁をとる「記憶の扉」が「オチ」で終わるのは言うまでもない。それ以外の作品でも、怖かったり衝撃を受けたりはしないまでも、何らかの 「オチ」があることだけは共通している。
 あざとい「オチ」はトルナトーレ作品の「印」と言ってもいい。
 それはまるで、一時氾濫した韓流映画群でサスペンスから恋愛モノに至るどの作品にも入っていた、ラストの「衝撃のエンディング」みたいだ。あるいは、かつてのクリストファー・ノーラン作品も彷彿とさせる。
 むろん僕は、映画においてラストに「どんでん返し」があったり「オチ」があることを、一概に否定する訳ではない。それを言ったらヒッチコックなどまで否定しなくちゃならなくなる。面白い映画のために面白い「オチ」が入るのは歓迎だ。
 僕がトルナトーレや韓流やかつてのクリストファー・ノーランの「オチ」がイヤだった理由は、結局それってお客を楽しませるとか作品を充実させるとかいう ためにやっているのではなくて、「こんな凄いオチを作れるオレってエラい」と観客にアピールしたいだけの、エゴイスティックな態度がどこかに感じられるからだったの だ。要するに、映画への愛や観客への愛があるわけでなくて、徹頭徹尾、自分への歪んだ自己愛しか感じられないからなのである。
 どこの誰だって、年寄りや上司の自慢話など聞きたい奴はいないだろう。トルナトーレ以下こういう映画を作る連中は、それなりにテクがあるから多くの人たちを誤魔化せているものの、実はやっぱり愚劣な自己愛を押しつけているように思えたのである。
 閑話休題。こうして見ていくと、本作は従来のトルナトーレ作品と一線を画すると思いきや、むしろ共通する要素ばっかりな気になってくる。そして共通する 要素だらけだとすると、何で今回だけ嫌悪感を感じずに、「面白い」と思ったのかが分からない。どこも違わないのに、どうして今回だけは違うと思えたのか。
 いや、実はやっぱり違う。たった一点だが、従来の彼の作品とは明らかに異なる点が認められるのだ。
 それは、本作の主人公の人間像に見られる。

 

 

 


 

 

 

 

こ こからは映画を見てから!

 

 

 

 

 

 

 

 



トルナトーレ作品に初めて見られた「成熟」
 ジェフリー・ラッシュ演じる主人公のプライベートは、極端に偏屈で歪んでいる。
 まるでジャック・ニコルソンが主演した「恋愛小説家」(1997)の主人公のように、「マイ食器」をレストランに用意するほどの潔癖症。そして「一見さんお断り」的な、京都の店みたいな偉そうな態度…。
 それは単に神経質というよりも「他人を避けている」というに等しい。もっと言うと、他人に自分の領域の中にズカズカと踏み込んで来られることを好まな い…いやいや、もっとズバリと言うと、他人に傷つけられることを恐れているとは言えまいか。他人に尊大な態度をするのは、傷つきやすさと臆病さ「ゆえ」の ことではないだろうか。
 これが、例えば「マレーナ」の少年と同系列の人物像であるというのは、すでに語った通りだ。ただし大きく違っている点がある。
 「マレーナ」の少年はあくまで純粋で子供らしいと描かれている。やっていることはむっつりスケベで陰湿で卑怯。僕なんかに言わせると心底イヤな奴なのだ が、作り手はそんな少年の心根を「純粋さ」「少年らしさ」と見せかけようとしている。そして世界中の観客のうちかなり多くの人たちを、まんまと丸め込むこ とに成功している。そのくらいのテクニックを、トルナトーレは持っているのだ。おまけにエンニオ・モリコーネの音楽があれば鬼に金棒。
 否、少なくともトルナトーレは、本気でこれを「純粋」で「少年らしい」と思い込んでいる形跡がある。この少年の在りようをネガティブにとらえてなくて、むしろ心の底から肯定的に共感を持って見つめているようなのだ。なぜだろう?
 それは、彼はトルナトーレ自身だから。
 自分のことというものは、どうしたって甘く見てしまうものだ。そして出来れば肯定したい。それって人情というものだろう。「マレーナ」の主人公がヒロイ ンに対して一見ウジウジしたことをやったりズルいことをやったりしたとしても、分かってやって欲しい。なぜなら、それは純粋な少年らしい憧れの産物なのだ から。内気でシャイな心ゆえだから。そして、それはいつまで経っても少年の心をどこかに持っている、男たちすべてに共通するものなのだから。それをこのオ レ、ジュゼッペ・トルナトーレは強く言いたい。なぜオレがそれをこれほどの確信を持って主張できるかというと、それはオレ自身だからなのだ!
 オエ〜、気持ち悪りぃ!
 女の方々には、自分の亭主や恋人がこんな事を言い出したら、すぐに別れた方がいいと言いたい(笑)。どんだけ自分に甘いんだよ。どんだけ自分の主張を押しつけるんだよ。おまけに、そんな自分にまったく疑いを持たないのが、気持ち悪さを助長している。
 そして、ここまで自分を甘やかすというのは、ちょっと作家=クリエイターとしてどうかと思うよ。
 女に対する屈折した態度、徹底的な自己正当化…それってホ・ジノ春の日は過ぎゆく(2001)にも共通する困った点だと思うが、本来は映画「作 家」が全世界に堂々と語っていいことじゃないように思う。映画「作家」なら、もっと人間に対する厳しい目を持った方がいいんじゃないの? もっと言うと、 酒の席で親しい奴に言ってもドン引きされそうなことだと思うけどね(笑)。
 だって…オレって内気でシャイでナイーブだから、世間の荒波にも出て行けないし、女の前に正面切って出られない。だから、多少男として卑怯でズルいことをしたとしても、女に対する憧れゆえだから大目に見てね!…なんて。
  こんな事を大手を振って言っている奴が…例え少年でもウンザリするところへきて、いい年こいたオッサンだったら気持ち悪くて仕方がないだろう。オマエ頭がおかしいんじゃねえのか?…と言われてもしょうがないと思うべきだ。
 僕がトルナトーレ作品で最もイヤだった点は、この自己正当化の部分だった。気持ちが悪くて仕方なかった。
 内気で生き方が下手で、人との関わりがうまく持てない人間像なんて、映画史的にもゴマンとあるし世間にもいくらでもある。正直言えば、僕だって世間ズレはいまだにできていなくて常に居心地の悪さを感じている。だから、そこは彼の気持ちが分からないでもない。
 ただ、「だからオレは純粋」と開き直るのは違うだろう。内気やディスコミュニケーションは自慢になんかならない。少なくとも、克服する努力ぐらいしろよと言いたくなる。恥ずかしいと思えと言いたい。ふざけんな、甘ったれんじゃねえ。
 内気で他者との関係をうまくとれない、特に女とうまく接することの出来ない「クリエイティブ」志向の強い男…とは、間違いなくトルナトーレの自画像 だ。まぁ、自分をそう定義するのは自由だし、実際にそういうところもあるのだろう。そういう人間がいたっておかしくはない。しかし、それを大手を振って人に大声で主張したあげく、開き直るだけで なく共感を周囲に強要し、さらに美化しようとするのは何とも気色悪い。だから僕はついていけなかったし、否定したくなってしまった。
 それってここ数年のNHK「紅白歌合戦」の雰囲気にも似ている。毎年毎年「歌の力がどうしたこうした」とかテーマを打ち出して来てるけど、いつも似たよ うなテーマで改めて打ち出すまでもない。おまけに一番愚劣なのは、「歌の力」だの「歌のありがたみ」なんぞというものは歌を聴いている我々一般大衆が感じ ることであって、歌い手のオマエらが「ありがたいんだぞ」と偉そうにこちらに向かって言ってくることじゃねえだろう。歌番組を作って放送する側が、上意下 達みたいに伝えてくることじゃないだろう。それってすごく恥ずかしいことだと気づかないのか。それほどみんなバカなんだろうか。
 またまた脱線してしまった。つまり、従来のトルナトーレ作品に描かれた人間像ってのは、そんなお恥ずかしい勘違いに満ちていた。オレってシャイで傷つき やすいんです〜って自分で言ってるバカ。それを、抜群の演出力と話術(とモリコーネの音楽)で力づくで説得してしまっていたというのが実情だった。
 しかし今回、トルナトーレはようやく…そして決定的に、そんな自分の「分身」たる主人公に客観的で妥当な評価を下しているのだ。
 決定的に、キモい。
 映画が始まってすぐのキャラクター紹介の段階で、ジェフリー・ラッシュが演じる主人公がどのような人物かが事細かに描かれる。そこで見えてくるのは、正直言って好きになれない人物像だ。
 偏屈で神経質、他人に対して不寛容で傲慢。それはレストランで「マイ食器」を使ったり手袋を手放さなかったりしている段階で、もはや「異常」の域に達し ている。一見「孤高の人物」と見えなくもないが、知人・友人もごくわずか。女に至っては顔を真正面から見ることができない。上客扱いされているはずのレス トランで、満足に自分の誕生日を覚えてもらっていない時点で、相当にミジメではないか。いかに好かれていないか、心からは歓迎されていないかが分かる。
 そもそもこの男の役名は、「ヴァージル・オールドマン」。意訳すれば「いいトシこいて童貞」だ(笑)。完全にコッケイな人物として描かれている。これがトルナトーレ自身を託したキャラクターならば、完全に「自虐」とでも言うべき設定だろう。
 それこそが、トルナトーレの成熟とは言えないか。
 テメエの欠点を必死に言い訳したり開き直ったり美化したり、あるいは顔を真っ赤にして反論するというのは、実は自分がまだ「それ」真っただ中にいるからではないだろうか。余裕がないから開き直ったり反論する。人間とはそういうものだろう。
 しかしトルナトーレは今回その欠点を直視し、欠点を欠点として初めて認めた
 僕は直近の前2作を見ていないのでそれらについては分からないが、少なくとも本作ではそのように作っていた。苦笑気味に困った人間像をそのまま紹介し、あえて突き放す描き方をした。そうする余裕が出てきた。
 オレはモテなくてキモい。
 ヘンにカッコつけずにズバリとそう言えたから、この作品は見ていて恥ずかしい気持ちがしてこない。むしろ見ているこちらが、そうした「不出来」なところ も持っている主人公に素直に共感できる。その胸中を思いやって見ることができる。これは大きな進歩だ。とてもじゃないが「童貞」には出来ない(笑)。
 正直言って今回、脚本上は少々無理のある設定もある。例えば主人公を「ハメる」ためとはいえ、あの時代モノの機械人形の部品をどこから調達してきたの か。人一倍鋭い鑑定眼を持っている彼には、生半可なまがいものなど通用しまい。だとすると、相当の費用と手間を注ぎ込んでこれを調達しなくてはならない。 初期投資がデカ過ぎる。
 おまけにこの「企て」の展開すべてが、主人公が女にどう反応するかにかかっている…というのも、あまりにリスキー過ぎるのだ。想定外の展開になったらど うするつもりだったのだ。それに対して注ぎ込んだ、金と労力のデカさが釣り合わない。いかに色恋沙汰の専門家であるロバート(ジム・スタージェス)を擁し ているとはいえ、どう考えても無理がある。まぁ、ハッキリ言ってラストの「オチ」を用意したいがための力業の設定なので、かなり不自然になってしまってい るのだ。
 それでも今回、そんな不自然さを見過ごす気になったのは、この作品の持つ「ふっ切れた」素直さに惹かれたからに他ならない。何より主人公を妙に「粉飾決算」よろしく飾り立てなかったのがよかった。
 彼自身が自らを直視するようになって初めて、こちらもその人間像をストレートに受け取れるようになったのである。

 

 

 


 

 

 

 

こ こからは絶対に映画を見てから!

 

 

 

 

 

 

 

 



動き出した主人公の中の歯車
 そんなわけでミステリータッチの恋愛映画として、なかなか楽しませてくれる本作。オークション場面でのジェフリー・ラッシュの名調子も僕らの目と耳を楽しませてくれて、そういう意味でも娯楽映画としてよく出来ている。
 そんな本作の「オチ」とエンディングは、おそらく見ている人によってその解釈や評価が真っ二つに分かれるところだろう。
 もうご覧になった方はお分かりのように、「女は苦手」の主人公はまんまと罠にハメられ、屋敷の主たる姿を見せない女に惹かれていく。姿が見えない、見せ られない事情がある…。恋愛には、秘密とか不幸といったスパイスが必要だ。本来なら心を許さない主人公も、訳アリ女には惹きつけられてしまう。さらに状況 を打開するドラマティックな展開もあり、二人の間柄は一気に縮まった。
 それがあのような結果になったことについては、みなさんが画面で目撃した通りだ。問題はその後。
 まるで最終回の「あしたのジョー」みたいに真っ白に燃え尽きてしまった観がある主人公は、心労が祟って倒れてしまう。しばらく腑抜けになっていた主人公だったが、何とかリハビリによって回復し、外出して日常生活を営めるまでになった。
 そんな本作の本当のエンディングは。主人公がとあるカフェを訪れる場面である。
 例の「ここで会ったが百年目」の女が、かつて主人公に語っていた身の上話。そこに出てきたカフェに、彼はふらりと姿を現すのだ。そこは例の機械人形を彷 彿とさせるような、歯車やネジなどメカニズムに満ちた「からくりカフェ」。主人公がそこでアテもなく例の女を待っているところで、本作は幕となる。まぁ、 見る人によって見方が大きく変わるエンディングではある。
 中には、いまだに例の女を忘れられないでいる主人公の「悲惨」を描いたエンディング…と解釈する人もいる。まぁ、それはそれでアリだろう。
 あのトシであんな目に遭って、失ったモノも大きくて、もう人生をやり直すこともできないし誰も信用することが出来なくなって可哀相…というのも一理ある。
 しかし僕は、これはハッピーエンドだと確信している
 絶対安全安心の防壁で周囲を囲み、無菌状態の人生を続けているというのは、確かに主人公としては最も心安らぐ状況ではあるだろう。そのままでいることに、彼もその時は何ら疑問は感じていなかったはずだ。
 一方、ここでは「女」が象徴する他者や外界は、何から何までが不快だ。
  自分の思い通りにならないし、自分を振り回す。裏切りもするしウソもつく。ウンコも小便もするし屁もこくしその他にもありとあらゆる汚れを垂れ流すが、そ んなことはおくびにも出さない。そのくせ、隙あればそんな汚らしいアレコレをこちらになすりつけようとする。下手すりゃ痛い目にも遭わされる。根性も悪く てテメエの非を絶対に認めない。人に頭を下げさせながら自分の頭は絶対に下げない。そして人のカネをジャンジャン使わせる。人につま らない話を延々聞かせるくせに、こちらの話はまったく聞かない。こちらが手を上げられないことをいいことに、徹頭徹尾ナメた態度をとる。どうしようもなく 100パー セントのクズだ。断言するが、忌々しくて不潔で不快な存在でしかない。
 だが、女とは、他者とは…そして世間とは、そういうものなのだ。
 人間の生きている世界は、そういう混沌の中にある。それは忌々しくて不潔で不快だとも言えるが、一方で活気に溢れ魅力的でダイナミックだ。まさに清濁併せ呑む世界。そこに参加していない人生は、人生とは言えない。生きているとは言い難い。
 主人公はそれを垣間見ただけでなく、
すでに体験してしまった。それを味わってしまった以上、もう後戻りは出来ないのである。
 そして主人公は、他の誰にも共有できない、ある「実感」を手に入れてしまった。
 それは女から手に入れた「愛」の実感だ。
 主人公には、強い確信がある。確かに女との関係は虚構から始まり、虚構の上に築かれたモノだったろう。だからその「出し物」が終われば消える、それだけのモノだったに過ぎないのかもしれない。
 しかし主人公は、そこで何があってもどうしても消せない「愛の痕跡」を、わずかながらに嗅ぎ取っていたのではないか。例え偽りから生まれたことでも、そ こに一瞬でも「真実」が生まれることはあるのではないか。それは日頃「色恋沙汰の専門家」を豪語する例のロバートでも、あずかり知らないことなのではない だろうか。人生は必ずしもゼロ・ワン信号だけのデジタルでは出来ていない。それこそ歯車や機械仕掛けみたいな、古臭いアナログで出来ている。黒か白かで割 り切ることなど不可能だ。
 繊細な感覚と審美眼の持ち主である主人公なら、それを見逃すはずはないだろう。
 恥ずかしながら、実はこの僕にもそんなアレコレの記憶がある。すでにヴァージル・オールドマン(笑)ではなかったものの、女出入りに慣れていた訳でもないし 大してイイ思いをした訳でもない。それが、まさに「これぞ理想像」と思えた女と出会ったのが運の尽き。珍しいほど入れ込んで口説き落としたのが、まさか地 獄の一丁目とは気づかなかった。貯金はすべて底を尽き、とにかくひどい目にあったとしか言いようのない結末を迎えて、正直相当なダメージを被った。
 しかし、例え一瞬でもそこには真実があったと、僕は断言して憚らない。
 さすがにこの映画の主人公ヴァージルのようにあの女を待とうとは思わないし、正直待ちたくない(笑)。それどころか、二度と会いたいとも思わない。終 わったことだと自分も腑に落ちてはいるが、自分の身に起きたことそのものは、決して「なかった方がよかった」とは思わない。否、あれはあってよかった。良 い経験をしたと思う。アレがないとあったとでは、人生大きく違っていたと思う。
 ヴァージルもまた、そうだったと言えるのではないか。
 裏切られた、すべてを失った、踏みにじられた。確かに実際そうだろう。しかし、その代わり、他に代え難い経験をした。絶対の防壁から踏み出して、広い世 界へと足を踏み入れることができた。何より、他の誰にも理解できないだろうが、彼だけには分かる「愛の確信」を手に入れた。
 彼の中にある歯車は、「からくりカフェ」のメカニズムのように今まさに動き出した。そのことが何より重要じゃないかと僕には思えるのだ。



 

 

 

 to : Review 2013

 

 to : Classics Index

  

 to : HOME