「ハンナ・アーレント」

  Hannah Arendt

 (2013/12/23)



「紅」勝て「白」勝てじゃないだろう
 これを言っちゃマズイかと思っていたのだが、実は僕が前々から疑問に感じていることがひとつある。
 それは、人間って正しいとか間違っているとかって判断を、本当に出来るんだろうか…ってことだ。
  例えば、これは前にもこのサイトのどこかの感想文でちょっと語っていたことかと思うのだが、僕が子どもの頃に北海道に行った時の話。母親に連れられて、大 勢の大人たちとアイスクリーム工場に見学に行った時のことだ。工場見学の最後にそこで作ったアイスが出てきて、食べていた大人はみんな一様に「さすが北海 道、アイスも牛乳たっぷりでうまい」と喜んだ。しかし僕はパッケージを見て、それが乳脂肪分が大して高くない、今なら「ラクトアイス」に分類されるべきア イスだと知っていた。そこで自分で食べているのに、その舌の感覚で判断していない。「北海道」=「牛乳」=「アイスがうまい」…という回路が成立してしまう。その時から僕は、人の判断なんていいかげんなモノだと思っている。
  人が言う意見ほどアテにならないモノはない。バブル期に素人の女子高生たちにモニターさせて、「女の子のナマの意見を反映させた」とドヤ顔で商品開発して いた企業があったが、そんなバカげた話もないのだ。そんなコトをやっているなら、会社とか経営者とか辞めちゃった方がいいと思う。あんたそれでもプロか よ。
 しかも「人は正しく判断が出来るかどうか」…という問題の中には、「人は本当にフェアになれるかどうか」…ってことも含まれる。いやいや、そもそもそんな「判断をしている自分」が果たして「正しく判断できてるかどうか」…それを分かるかどうかすら怪しい。僕が経験してきた中では、この世で最もいいかげんなのが人間という生き物なのだ。
  そんなことを言ってるオマエは正しい判断ができるのか…と言われればまことに心許ない。いや、できないと思う。しかし、世の中これだけみんな自信たっぷり に「自分の意見」を発言している人がいるけれど、実際にはそれらが本当に「自分の意見」なのかということすら怪しいように思える。最大の問題はここだ。
 ここから先はデリケートな問題なので、出来るだけ政治問題化しない(笑)ように語りたいとは思う。最近の事で何か分かりやすい例を挙げてみると、とたんに話題がヤバくなる(笑)のだが、何か具体的な例を挙げないとうまく言えない。
 じゃあ…例えば「原発」の是非についての問題だ。これはヤバイ(笑)。しかし、いろいろ考えてもこれくらいしか思い浮かばないのでカンベンしていただきたい。
 ここでは僕は、原発がイイ悪いについて一言もいうつもりはない。なので、この文章がそういう事を言うためのものではないとハッキリ言わせていただきたい。僕が言いたいのは、人の「意見」「判断」の危うさ、いいかげんさ…についての話である。
 政治がかった話をする時、人ってのは大抵が何らかの意見や考え方のグループに所属している。あるいは、所属させられてしまっている。それらの位置づけを上下左右で語るとまた場が荒れそう(笑)なので、ここでは「紅白歌合戦」や運動会になぞらえて仮に「紅組」「白組」と例えてみようか。おっと、ちなみにここでの「色分け」はそれらの思想を象徴する色とも無関係だ。フーッ、危ない危ない…(笑)。
  「原発」がイイ悪い、「原発」を存続させるべき廃止するべき…ってのは、エネルギー問題をどうしようかって話のはずだ。あるいは環境問題や人の生存権の問 題、防災上の問題かもしれない。また、産業やら経済の問題、景気が低迷している日本をどうしようかって問題でもある。大抵どっちかの話をする人間はそれ以 外の切り口を軽視するが、これらはそれぞれすべて重要な問題だ。実は、どっちが立派とか偉いとか大事とは一言ではいえない。
 ところがこの問題に対するイエス・ノーは、なぜかそれを主張する人の政治的立場によってキレイに色分けされてしまう。 「原発」は必要だと主張すると、それがほぼすべて政治的な立場で…仮にここでレッテル貼りをさせてもらえば…例えば「紅組」に属する人に、そして逆に「原 発」を廃止すべきと主張する人たちは政治的に「白組」の人…という風に自動的になってしまう。実際に主張している人たちも、嬉々としてそのカテゴライズに 従っているようなのだ。
 「紅組」「白組」って回りくどく言っているから分かりにくくて申し訳ないが、これらの「組」の人たちは、他の問題についても同じ「組」の中で大体みんな共通する意見を持っている。 例えば「紅組」に属する人たちは、憲法を改正すべし…とか、隣国たちに大きく反発していたりとか、自分たちの国は正しくて昔から良いことしかしていない… とか。逆に「白組」に属する人たちは、憲法を死守せよ…とか、隣国たちの言い分はすべて問答無用で受け入れるべし…とか、自分たちの国がすべて悪くて何か ら何まで謝罪しなくてはならない…とか。ここは駆け足で説明せざるを得ないので乱暴に言ってしまったが、大体がそんな風に極端で取り付くシマもない感じに 「一枚岩」に見える。その是非についてはともかく、なぜかいろいろな問題についての考え方に対しても、「組」の中では概ね一致している。しかし、これってちょっとおかしいのではないか
  元の話に戻ると…「原発」やるべしの根拠は、いろいろあるだろう。代替エネルギーが見つけられない、原発がなくなると経済減速につながりかねない…。一 方、やめたいという根拠も、地震国で危険過ぎるとか放射能がコワイとか…まぁ、それぞれ双方にそう思うに足る正当な理由があるわけだ。
 しかし、それと「紅組」「白組」とは別だろう。まるでこれって、オレは「紅組」に属するから「必要」、「白組」だから「廃止」って言ってるみたいだ。本当は国のエネルギーをどうしよう…とか、地震国としての安全をどうしよう…とか、そういう話ではないか。だったら逆にオレは「紅組」だけど廃止、ワタシは「白組」だけど必要って人がいてもいいはず。しかし…ごくわずかならどこかにいるのかもしれないが…そういう事を言う人はほとんどいないし、少なくとも僕は知らない。たぶん誰に聞いてもそうなんじゃないか。本来は、自分は思想的・政治的に「紅」「白」のどちらに属するなんてことと、それに賛成・反対することは関係ないはずなのに、何でそこで意見がキレイに割れるのか。
 だから、ついつい思ってしまう。それって本当に自分の「意見」なのか…と。
 結局、本当に「考えている」人って、自分も含めてこの世にいるんだろうかって思ってしまう。「これがオレの意見」ってドヤ顔でご開陳している人でも、それって「借り物」の意見でしかないってことの方が多いのではないだろうか。しかももっと恐ろしいことに…しょせん「借り物」でしかないのに、心から「オレの」オリジナルの意見だと思い込んでいるんじゃないか。そのことに疑問すら持っていないんじゃないだろうか。
  世の中いろいろ意見が二分される問題があるけれど、それらの意見が「紅」「白」の中でバラバラになることはほとんどない。なぜかみんな気持ち悪いほど「一 枚岩」のようにそれぞれの「組」の中では一致してしまう。本当はそれぞれの問題って、子どもがいるとか高齢者だとかどこに住んでいるとか社会的地位だと か…依って立つところが違う人々の間で受け止め方や考え方が違ってもおかしくないはずではないか。そこまで「紅」「白」に忠義立てしなくちゃならんのか ね。これは政党などに参加している人でなくて、ネットあたりで発言しているそこらの人でもそうなっちゃう。
 それって「考えて出した結論」のようで、実は「紅」「白」に参加した時点で自分の頭で考えるのをやめちゃっているんじゃないだろうか
 実際には、世の中には意見はあるが黙っている人が大勢いるような気もする。なぜその人たちが声を挙げようとしないかというと、声を挙げたとたんに「紅」「白」の色づけをされちゃいそうだからじゃないのか。
 必ず「紅」「白」に入らなきゃいけないのか、「紅」「白」以外の意見を言っちゃいけないのか。仮に「紅」「白」に入っていたとしても、その中の意見で賛同できないものがあったらそこだけはずれちゃいけないのか…。
 本当は「紅組」「白組」でなく、「オレ組」「ワタシ組」でなきゃいけないんじゃないのか。

見る 前の予想

 マルガレーテ・フォン・トロッタ監督の「ローザ・ルクセンブルク」(1986)は大好きな映画だ。
 何で見に行ったのかは今となっては定かではないが、当時は話題になった映画は片っ端から見ていたのかもしれない。それにしたって「女性」の社会主義者の生涯を描いた映画で、上映は岩波ホール…という「鬼門」ばかり(笑)。共演者のひとりダニエル・オルブリフスキに惹かれて見に行ったのだろうか。見てから何しろ30年近くが経過しているから、さすがにディティールの記憶はすっ飛んでいる。
 しかし、「フェミニズム」なんてチンケなシロモノとは無縁な、ビフテキ食ったようなスケール感に圧倒されたことは覚えている。それでいて、力業だけでない瑞々しさ。主人公を演じるバルバラ・スコヴァの堂々として華のある演技も素晴らしかった。
 そんなマルガレーテ・フォン・トロッタ監督とバルバラ・スコヴァのコンビ作が、久々にやって来る。
  今度の主人公は女性哲学者。ナチ戦犯の裁判に関する傍聴記を発表したところ「ナチ擁護」だと非難され、それでも自説を曲げなかったという人のお話。これに ついてはどこかで聞いたような気もするが…という程度で、非常に無知で情けない自分をさらけ出さない訳にはいかない。しかし題材的には、あのスケールでっかいマルガレーテ・フォン・トロッタの話術が堪能できる予感がする。
 相当な評判で劇場が混雑しているとは聞いていたが、封切りからかなり経ってようやくスクリーンと対峙することができた。

あら すじ

 真っ暗な田舎の夜道を、バスから降りて一人で歩いている男がいる。
 そこに一台のトラックが走ってきて、男の前で停車。降りてきた連中が歩いていた男を拉致して、あっという間にトラックは走り去って行ってしまった…。
 さて、舞台変わって時は1960年、場所はニューヨーク。ドイツ出身の女性哲学者ハンナ・アーレント(バルバラ・スコヴァ)は、夫のハインリヒ(アクセル・ミルベルク)と共にアパートで本に囲まれて暮らしていた。
  気の置けない作家の友人メアリー・マッカーシー(ジャネット・マクティア)や秘書のような立場で協力してくれる若い友人ロッテ・ケーラー(ユリア・イェン チ)たちとの楽しい語らい。夫のハインリヒが他の女と怪しいんじゃないか…とかいう話もカラカラと笑い飛ばすハンナは、彼としっかり愛情を育んでいる自信 もあった。
 そんな中、ナチス親衛隊将校で数百万人ものユダヤ人を収容所へ移送した責任者アドルフ・アイヒマンが、南米で逮捕されてイスラエルで裁判にかけられるとの報を知るハンナ。彼女は思わず、その裁判を傍聴を希望する。
 そりゃあそうだろう。ドイツ出身のユダヤ人で、自身も収容所に送り込まれて九死に一生を得たハンナだ。このテーマに興味を持たないはずがない。
 しかし夫のハインリヒは、これに何となくイヤな予感を抱く。それでもハンナは夫の心配をよそに、着々と自分の売り込みにかかっていた。
 これに飛びついたのが、かねてから彼女の信奉者だった「ニューヨーカー」誌編集長のウィリアム・ショーン(ニコラス・ウッドソン)。彼は編集者フランシス・ウェルズ(ミーガン・ケイ)の危惧をよそに、ハンナにレポート原稿を依頼することにする。
 こうなると、夫のハインリヒが止めてもハンナは止まらない。
  しかし、親しくしている友人たちとのパーティーでこの話題が出てくるや、たちまち一触即発。ドイツ語が分からないアメリカ人の友人たちを放ったらかして、 旧知の哲学者ハンス・ヨナス(ウルリッヒ・ノイエテン)と夫ハインリヒとの間で派手な論戦が始まる始末。彼らユダヤ人の知識人にとって、ナチやその戦犯た ちというのはいろいろデリケートな問題なのだ。
 早くも行く手に暗雲たれ込めるムードが濃厚だったが、ハンナはあくまで意気軒昂。張り切ってアイヒマン裁判に臨む気満々だった。
 こうして1961年、念願の裁判に立ち会うべくイスラエルの地に降り立つハンナ。ここで彼女を迎えたのは、これまた旧知のクルト・ブルーメンフェルト(ミヒャエル・デーゲン)。二人は久々の再会を喜び合った。
 さて、間もなく世界が注目する中、裁判が始まる。ガラスのブースの中で通訳を聞くためのヘッドフォンをつけたアイヒマンは、証言者たちの厳しい発言に対して、淡々と自分の立場を語っていく。
 そのやりとりは、どこか決定的にかみ合っていない。
 裁判の進行を見つめていたハンナは、だんだん複雑な心境になっていく。本来なら「世紀の悪党」、あるいは悪魔か怪物かと言われていた人物だ。それが何とも凡庸な小役人にしか見えない人物だったとは。裁判の合間にクルトやその友人たちと語らうハンナは、そのあたりの違和感を率直に語る。
 「アイヒマン本人は単に命令に従ったに過ぎない…」
 しかしそんなハンナの感想は、アイヒマンとナチスがもたらした災厄に苦しめられてきたクルトたちにとって、とても受け入れられる内容ではなかった。当然、その友人たちの集いも大揉めするが、そんなことでひるむハンナではない。
 しかしそんな仲間内での揉め事は、その後、ハンナに襲いかかってくる凄まじいトラブルのまだほんの序章に過ぎなかった…。

見た 後での感想

 マルガレーテ・フォン・トロッタ監督の旧作「ローザ・ルクセンブルク」も政治的な内容を持っていたが、前述したようにあくまでドラマとして面白かったと記憶している。
 共演者にアンジェイ・ワイダ映画でお馴染みダニエル・オルブリフスキが出ていたこともあって、スター映画の華やかさもあった。決して頭デッカチで理屈っぽいメッセージのみの映画ではなかったのだ。僕にとってあの作品は、あくまで「面白い」映画だった。
 その「ローザ〜」の主演者だったバルバラ・スコヴァが今回も主役と来れば、もう見るしかない。そんなわけでスクリーンと対峙した今回の作品。その第一印象は…正直言って、僕にとっては「ローザ〜」の時とはいささか違っていたと認めざるを得ない。
  「ローザ〜」の時も題材は決してとっつきやすいものではなかったのだろうが、僕はそもそもローザ・ルクセンブルクなる女性の存在を知らなかったし、知らな くても問題なかった。また、ローザを取り巻く政治的状況なども、まったく知らなくて問題なかった。むしろ、知らなかったから純粋にドラマとして楽しめたく らいだ。第一、僕は社会主義者に対するシンパシーもない。それでもまったく問題なかった。
 それと比べると、今回は「知らなくて、かえって楽しめた」という状況とはちょっと違う。
 僕は恥ずかしながらハンナ・アーレントなる哲学者のことは知らなかったし、彼女がナチ戦犯の裁判に絡んでその評価を一変させてしまったことも知らなかった。ついでに言うと、このアーレントなる女性が、高名な哲学者ハイデカーと不倫関係にあったことも知らなかった。
 それ自体は、正直言ってこの作品を見るうえでまったく支障とはならなかったし、見ていれば何となく前後の事情が分かってくるから問題なかった。
 しかしこの作品に出てくるようなナチ戦犯を巡る事情は、「ローザ〜」の時とは違って「まったく知らないし分からない」という状況ではあり得ない。 ナチスが犯した罪、戦後ナチの残党が捕まって裁判を受けたこと、それに対するユダヤ人を中心とした人々の反応…については、若干なりとも知っているし想像 もつく。そして、この映画はハンナ・アーレントという人物の人となりについて語る映画ではあるが、それと同時に、ナチの犯罪をどう考えるのか、それに対して主人公がどう対処したのか…ということも同じくらい大きなポイントになっているのだ。このあたり、僕にとっては「ローザ〜」とは作品と対峙する時の心構えが違っていた。
 そんな本作だが、僕が見た時点では公開からある程度日にちが経っていたので、もう何らかのかたちで僕の周辺には作品の評価が伝わって来ていた。
 むろん絶賛の嵐
 その内容はどのようなものかというと、大体がどれもこれも同じようなものだ。いわく、圧倒的な「空気」の中で、自分の意見を貫くことがいかに大変か。そして結局の結論は、「例えどんなことがあろうとも、正しいと思うことを貫くべきだと思いました、マル」… みたいなところだ。いや、まったく素晴らしい。そうしかならないだろう。そういう意見になるべきだし、ならなきゃいけない。「親孝行すべき」とか「人は殺 しちゃいけない」というのと同じくらい、そういう意見にならなきゃいけないような、そういうレールが最初から敷かれているような感想だ。
 実際、みんなそういう映画だと思って見に行くんだろうし、これらは映画を見る前でも、見なくても書けそうな感想だ。
 しかし、この映画って果たして本当にそうなんだろうか。


 

 

 


 

 

 

 

こ こからは映画を見てから!

 

 

 

 

 

 

 

 



必ずしも立派な人とは言い難いヒロイン
 じゃあ、オマエはこの映画を見てどう思ったんだ?…と聞かれると、実は僕も言葉に詰まる。
 正直、まさに先に挙げたような感想と、同様なことしか頭に浮かばなかったからだ。まぁ、正直そう言うしかないわな。
 それに、ここでハンナ・アーレントが提示している問題は、僕も前々から内心思っていたようなことだ。特に日本のように「空気を読む」ことを求められる社会では、その「空気」の風向きや勢いで人の意見や世論が決まっていきかねない。この問題は決して人ごとではないのだ。
 僕は結局、昨年末に会社を辞めることになったが、その最後の2年間などは僕自身が「場を乱しているヤツ」呼ばわりされそうな雰囲気だった。
  場の勢いや「空気」から、異議が唱えられない。どう考えてもヘンなのだが、それに異議を唱えたらそこにはいられなくなる状況が、しばしば生じてくるから不 思議だ。それは最終的には会社の業績不振につながりかねないのに、そこで口をつぐむことの方が「正しい」状況が生まれてしまう。まぁ、ズバリ言ってしまえ ば、適切な判断ができない人間や自分の個人感情だけで動く人間が管理側にまわったせいで、意志決定がおかしくなってしまう。日本が戦争に負けた時っての は、こういう状況だったんだろうなと容易に想像できる。でも、そういうことは割と身近にいっぱいあるのだ。この映画で描かれているアーレントの主張も、そういうことの延長線上にあるはずだ。
 そんなわけで、情けないことに僕もまた「例えどんなことがあろうとも、正しいと思うことを貫くべきだと思いました、マル」…みたいな、小学生の読書感想文みたいな結論しか提示できない。だからまことに申し訳ないことに、目新しいことは何一つ言えない。そんな中で、僕なりに気づいたことをいくつか挙げていくと…。
 そのひとつは…実にくだらないことなのだが、実際にハンナ・アーレントみたいな人が身近にいたとしたら、たまらないだろうなってことだ(笑)。
  本当にまったく「空気」なんて読まない。日頃、「空気を読む」ことを強要してくる世の中にウンザリしている僕ではあるが、ここまで「読まない」オバサンが いたら確かにこれはこれで閉口するだろう。確かに言ってることは正しいんだろうが、正しければ何やってもいいのかっていうと、そうじゃあないはずだ。
 特にこの人の困った点は、異論に対してせせら笑ってバカにした対応をすると ころ。この人は利口な人なのだろうが、あからさまに相手を見下したり侮辱したりするのはどういうことなんだろう。あれでは角が立ちまくりで人を説得などで きないだろう。それとも、どこか「虚勢を張る」ようなところがあったのだろうか。ともかく人間的なキャパシティが広いとは到底言えない。自分の知り合い だったら、明らかに困った人なのである(笑)。
 この映画を見終わった時点で、「意見を貫くのは大切」という大方の感想には僕も同意するが、「意見を貫いた」アーレントの全人格を「立派な人」と受け取るかというと、少なくともこの映画を見る限りではそうは思えないのだ。
 というか、マルガレーテ・フォン・トロッタも彼女を「立派な人」とは描いていないように思う。
  劇中ではこのアーレントと哲学者ハイデカーとの不倫関係がチラリと触れられているが、そこに出てくるハイデカーが恐ろしく魅力のない男で、結果、二人の不 倫関係も何となく貧寒としたイメージに見える。まぁ、ご立派なことには描かれていないのだ。これは、意識的にそう描かれているはずである。
 で、これこそがマルガレーテ・フォン・トロッタなりのリアリティだと思うのだ。
 立派な意見、そしてそれを唱えた立派な人…となったら、それはそれでスジが通るかもしれないが、面白くも何ともない。まして血の通ったリアリティなど望むべくもない。むしろ何となく胡散臭く思えてしまうだろう。
 だからマルガレーテ・フォン・トロッタは、あえてアーレントの困った点も 描いたのではないだろうか。立派な点は彼女の意見を前面に押し出せばおのずから描かれるし、そもそも大女優バルバラ・スコヴァが演じる時点で彼女の魅力的 な部分も見えてくるはず。だからマルガレーテ・フォン・トロッタは、こうした彼女のネガティブな部分も避けずに描いたのではないか。
 また、こう も言えるのではないか。この映画で描かれているアーレントの言い分とはこうだ。アイヒマンのやったことは、結果的に邪悪で恐ろしいことだった。だからと 言って、アイヒマンが悪魔で根っからの悪党かというと、必ずしもそうではない…。彼女はこのように、まるでテレビ時代劇「水戸黄門」の悪役を扱うような 「紋切り型」の発想を否定した。ならば、そういうアーレントを描く本作が、アーレントのやったことは立派だからアーレント自身も立派です…みたいな「水戸黄門」的発想で彼女自身を描いたらブチ壊しではないか。
 マルガレーテ・フォン・トロッタはそこで、彼女なりの「自分の意見」、オリジナルな意見を貫いたのではないか。

根底に流れるアメリカへの思い
 もうひとつ僕が印象的だったのは、この映画で描かれた「アメリカ」だ。
 実は本作、冒頭にアイヒマンが拉致・連行される場面が入っているが、それを取り除くと、映画の最初と最後にまるでブックエンドのようにマンハッタンの夜景が映し出される構成になっている。それが、いかにも外国人にとっての憧れのニューヨーク、憧れのアメリカ…を思わせるような景色なのだ。
 そういえば本作のヤマ場は、辞職を迫られ窮地に追い込まれたアーレントが大学の講堂で一席ぶつくだりだ。その結果、聴衆の心を掴んだアーレントは、一発大逆転で名誉回復することになる。ここでのアーレントの丁々発止の大演説の様子は、例えばチャプリンの「独裁者」(1940)や昔のフランク・キャプラ作品、数々のハリウッドの法廷ドラマなどのヤマ場を想起させる。最近の作品で言えば、「セント・オブ・ウーマン/夢の香り」(1992)の終盤でアル・パチーノが奮う熱弁などにもイメージ的には近い。つまりは、この大演説をぶって喝采を浴び、窮地から脱する…というパターンこそ、アメリカ映画の典型的な黄金パターンなのだ。マルガレーテ・フォン・トロッタがこの形式を本作に導入したのは、意識的なことではないのか。
 しかも劇中では、アーレントが若者たちからの質問を受けて、アメリカという国を「パラダイス」だ…と発言している。イマドキの我々からするとあまりに肯定的に過ぎるアメリカ観ではあるが、本作ではそれがずっと根底に流れているようなのだ。
 考えてみるとマルガレーテ・フォン・トロッタと同じドイツ人のローランド・エメリッヒは、近作ホワイトハウス・ダウン(2013) などでも分かるように、その作品にアメリカの理想に対してかなり前向きなイメージを刻印してきた。さすがにフォン・トロッタとエメリッヒでは作家的なポジ ションからいっても落差が激しすぎる(笑)ので例えるのはいかがなものかとは思うが、ナチスを抱えた敗戦国という負い目を持ったドイツの映画作家として、アメリカに対する眼差しにどこか似たような部分が生まれて来ないとも限らない。これは極めて興味深い現象だと、僕には思えてならないのだ。

 

 

 

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