「マン・オブ・スティール」

  Man of Steel

 (2012/11/25)



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 何とあの「スーパーマン」が再起動すると聞いて、複雑な気持ちだったのは僕だけじゃなかったはず。
 何しろリチャード・ドナーが作り上げたスーパーマン(1978)とスーパーマンII/冒険編(1980)がすでにある(後者はリチャード・レスター監督名義だが、実質上はドナー作品だというのは周知の事実)。そしてつい最近、ブライアン・シンガーによってスーパーマン・リターンズ(2006)まで作られたばかりではないか。何でまた懲りずに「スーパーマン」…。
 この「リターンズ」、ドナー監督作品を大いに楽しんだファンとしては、なかなか嬉しい作りになっていた。完全な駄作であるスーパーマンIII/電子の要塞(1983)、スーパーマン4/最強の敵(1987)を無視して、シリーズ最高傑作「スーパーマンII/冒険編」の続編として制作。冒頭にはあのジョン・ウィリアムズの音楽を大音響で流してくれたので、僕などは歓喜の涙にむせんだものだ。
 ただし、作品自体は後半から著しく失速。妙に深刻な話になって気勢が上がらない出来映えとなってしまった。それでもドナー作品にリスペクトしてくれたという点で、憎めない作品ではあったのだが…。
 そこに乗り込んできた新「スーパーマン」の作り手はというと、バットマン・ビギンズ(2005)で新「バットマン」三部作を成功させたクリストファー・ノーランだと聞くから穏やかではない。
 確かに新「バットマン」三部作を成功させたノーランだから…と、制作会社のワーナーが全幅の信頼を置くのも分からないでもない。しかしノーランといえばダークナイト(2008)でいたずらにシリアス路線を敷いたあげく、バカな信者を作ってこの手のアメコミ映画に辛気くさい雰囲気を蔓延させた張本人。「哲学的な内容」「善と悪との戦い」「モラルが云々」… そりゃ大変結構だが、それをわざわざアメコミ映画でやんなきゃならないの? おまけにそういう指向を見せたら「いいことやってる」みたいな風潮になってし まって、映画としてどうなんだということとは別のところでモテはやされるイヤ〜な空気になってしまった。こういうのって反論しづらいから、信じ込む人も多 い。実にタチが悪いのである。
 実際のところ、話を深刻にすれば作品として高級になるなんて発想は、一番ストーリーテラーとしてはダメなことなんだけどね。悲劇にしちゃって終わらせるなんて、実はバカでも出来ることなのだ。
 そんな「ダークナイト」のノーランが、またまた「スーパーマン」を台無しにするのか。X-メン(2000)でアメコミ映画は慣れているはずのブライアン・シンガーですら難しかったことを、このノーランがいじくり回して大丈夫なのか。そんなわけで当初、新「スーパーマン」構想のニュースを聞いた時には、イヤな予感しか感じられなかった。
 しかしその後、ノーランも問題点に気づいたのか、微妙に軌道修正させたダークナイト・ライジング(2012)を発表。さらにノーラン自身は監督でなくプロデュースに回り、監督は「300」(2006)のザック・スナイダーが担当すると聞いて、僕もちょっとだけ考えが変わった。
 スナイダーって人、実はすでにコミック原作の映画化は担当していて、そのウォッチメン(2009)は最初の10分間は間違いなく傑作だった。続くエンジェル・ウォーズ(2011)も面白いっちゃ面白い。絵づくりも語り口も面白い。ハッタリ感が強すぎるものの、そのグイグイな感じキライじゃない。
 しかし「ウォッチメン」は途中から変な方向に映画が曲がっていっちゃうし、「エンジェル・ウォーズ」はそもそもイビツな映画だった。スナイダーは面白いモノを持ってはいるが、やや難アリの監督だったのだ。そこが不安っていやあ不安か。
 それでもノーランというお目付役がいれば、うまいこといくんじゃないか? ヤバさも多分に感じられるが、いくらかは期待もできるのではないか? そんなわけで期待と不安が相半ばする感じだ。
 そんなこんなで固唾を飲んで見守っている中、劇場で予告編がかかり始める。すると…やっぱりどんより暗い感じなのだ。そもそも新スーパーマンを演じる役者が暗い。クリストファー・リーブや「リターンズ」に出ていたブランドン・ラウスにあった品や天真爛漫さがない。何だかホアキン・フェニックスを育ちをよくしたみたいというか、若い頃のクリス・サランドンみたいな感じで、それだけでも不安になってくる。クリス・サランドンなんて「リップスティック」(1976)の強姦野郎だからね(笑)。スーパーマンのコスチュームも何だかスピード社の水着(笑)みたいな材質で、妙に黒ずんでいるのが気になる。そもそもスーパーマンじゃなくて「マン・オブ・スティール」なんて言ってる時点で「ダークナイト」みたいでヤバイ感じ。大丈夫なのか、この新スーパーマンは?
 それでも、海の向こうから聞こえてくる評判は大絶賛。どうやらノーラン=スナイダーのコンビは賭けに勝ったようだ。でも、あの「ダークナイト」だって世評は大絶賛だったから、まったくアテにはならないけどなぁ。
そんなわけで不安で胸一杯になりながらも、とりあえず3D効果だけ楽しめればいいか…と夏休みの劇場へと足を運んだ次第。その感想文がこんなに遅くなったのは…云々はもういいでしょう。

あら すじ

 ここは地球から遠く離れた、高度な文明を誇る惑星クリプトン。
 この惑星の政治に関わる執行官であり、かつ優秀な科学者でもあるジョー=エル(ラッセル・クロウ)とララ・ロー=ヴァン(アイェレット・ゾラー)の夫婦 に、元気な男の赤ちゃんが生まれる。カル=エルと名付けられたこの子の誕生によって、ジョー=エルが練っていたある計画は、漠然としたものから確固たるも のへ変わった。
 そんな決意を胸に秘めて、ジョー=エルは、議会に惑星崩壊の危機を伝える。長年にわたって天然資源を使い尽くした結果、惑星の中心核が不安定になってし まったのだ。しかし、議会は動こうとせずにジョー=エルの意見を退ける。ジョー=エルもまた、もはや議会に何の期待もしていなかった。
 そんな中、やはり議会の怠慢ぶりに業を煮やしたゾッド将軍(マイケル・シャノン)は、有志を募ってクーデターを起こす。ゾッド将軍は志を同じくする者と してジョー=エルに協力を求めるが、もちろんジョー=エルは独善的な彼らに賛同する訳もない。反抗的な態度をとったジョー=エルは捕らえられてしまうが、 すぐに混乱に乗じてその場を脱出した。ジョー=エルはこんな日が来ることを予見し、すでにしかるべき手を打っていたのだ。
 彼は大混乱の中をこの惑星の乗り物である翼竜に乗って逃げ回り、この惑星の赤ん坊の誕生を管理する「ジェネシス・チェンバー」へとたどり着く。この時 代、クリプトンでは赤ん坊の誕生がすべてコントロールされたものになっていた。カル=エルはクリプトンでは久々の…そしておそらく最後の、自然出産による 赤ん坊だったのだ。液体で満たされた「ジェネシス・チェンバー」の中を泳いでいったジョー=エルは、そこから「コデックス」という物体を回収して戻ってく る。「コデックス」とは、クリプトン人の遺伝子データがすべて記録されたものだ。
 こうして妻のララ・ロー=ヴァンの待つ自宅へと戻ってきたジョー=エルは、赤ん坊のカル=エルを乗せた小型宇宙船に例の「コデックス」と小さなキーを入 れて発射準備を進める。ジョー=エルの計画とはこれだった。せめて息子とクリプトン人のデータだけでもこの惑星を脱出させ、まだ若い惑星に送り込もうとい うわけだ。
 しかしまさに発射という時、怒り狂ったゾッド将軍たちがジョー=エルの家に乗り込んで来る。たちまち始まるジョー=エルとゾッド将軍との死闘。その結 果、ジョー=エルはゾッド将軍の手によって殺害されるが、カル=エルを乗せた小型宇宙船は、妻ララ・ロー=ヴァンの手によって無事に発射される。直後に ゾッド将軍一味も捕らえられ、異次元のファントムゾーンに送り込まれる囚われの刑に処されることとなった。
 しかし、当の惑星クリプトン自体も間もなく崩壊。宇宙に放った息子カル=エルの身を案じながら、母親のララ・ロー=ヴァンは惑星クリプトンと運命を共にした。
 そして惑星クリプトン崩壊のエネルギーがファントムゾーンを破壊。そこに閉じこめられていたゾッド将軍一味を解き放つことになってしまう。一方、宇宙空間に放たれたカル=エルの小型宇宙船は、遙か彼方のある惑星目がけて飛翔していった…。
 それから幾年月。ここは惑星クリプトンから何十光年も離れた、豊かな自然に満ちた惑星・地球。寒々とした北の海を行く漁船に乗り込み、一人の青年が黙々 と働いていた。その名はクラーク・ケント(ヘンリー・カビル)。どこか孤独な陰を感じさせる彼は、火災に襲われた油田掘削施設に漁師たちと向かう。何とク ラークは単身で掘削施設に乗り込んで、閉じこめられた人々を救出。まさに超人的な活躍だ。しかも、倒れかけた施設の建物を一人で支えるという信じがたい怪 力ぶり。しかしついに建物は自重で崩れ落ち、その下敷きとなってクラークは海中へと姿を消した。
 こうして意識を失ったクラークは、海を漂って流されていく。そんな彼の脳裏に、幼い頃の記憶がよみがえる。クラークが育ったのは、アメリカはカンザス州 スモールヴィルという田舎町。ジョナサン(ケビン・コスナー)とマーサ(ダイアン・レイン)夫妻の息子として、幼い頃から大事に育てられてきた。
 しかしクラークは、幼少の頃からどこか風変わりな子供だった…。

アメコミ映画のフォーマットを作ったドナー版
 何でもリメイク、シリーズ化はやりのハリウッドではあるが、特にアメコミ映画に関しては、そのサイクルが極端に短いように思える。
 何しろすぐにリメイクされる。否、先にも述べたように「再起動」とでも言おうか。一度映画にしたものを一旦リセットしてまた再出発させるというケースが、異常に多いのである。
 例えば「バットマン」(1989)はさんざシリーズ化された後に、先に挙げた「バットマン・ビギンズ」ですぐに「再起動」された。あるいは一度はハルク(2003)として映画化されたものが、大して間も空いてないうちにインクレディブル・ハルク(2008)として焼き直されてしまう。さらに、つい最近もスパイダーマン(2002)がアメイジング・スパイダーマン(2012) として生まれ変わるなど…ハリウッドはアメコミ映画を取っ替え引っ替え作りたいがために、どのシリーズも行き詰まると一旦チャラにして焼き直してしまう。 いくらリメイクばやりのハリウッドといえども、さすがにこりゃやりすぎだろうと言いたくなるほどの頻度で、「再起動」を繰り返しているのだ。
 そういう昨今のハリウッド、ことにアメコミ映画の現状からすれば、今回「スーパーマン」を「マン・オブ・スティール」として焼き直すのは、何ら不思議に 感じられることはない。確かに不思議ではないのだが…正直言って諸手を挙げて賛成という気にはなれない。それというのも、この「マン・オブ・スティール」 に先立つリチャード・ドナー版「スーパーマン」が、アメコミ映画群の中でも一際特別なポジションを得ている映画だからである。
 それは、アメコミ映画の「ひな型」だ。
 実はドナー版「スーパーマン」以前もアメコミ映画は存在していた。しかしそれらはすべて子供だましのシロモノで、稚拙で拙速に作られた映画ばかりだった。大がかりな大作娯楽映画として作られたアメコミ映画、何より大人の一般観客向けに作られたアメコミ映画は、ドナー版「スーパーマン」が初めてだったのだ。それ故、この作品は重要な位置を占めることになる。
 今では考えられないことだろうが、「所詮はマンガ」であるが故の幼稚なストーリーをいかに大人の観客にも見るに耐えるものにするか、滑稽で突飛なマンガ の設定をいかにリアリズム重視である一般映画に馴染ませるか、単純かつ極端にはしりがちなマンガのキャラクターをいかに説得力ある人物像に描き込むか…このさじ加減が微妙に難しい。ここをないがしろにしてしまったら、バカバカしくて安っぽい作品になってしまう。少なくとも大金を投じて大スターが出る娯楽大作にはなり得ない。それまでのアメコミ映画は完全に子供向けの安物だったから良かったが、「スーパーマン」は「スター・ウォーズ」(1977)によって始まったSF映画ブームの渦中に登場した作品だ。しかもマーロン・ブランド、ジーン・ハックマンと いった大スターが大挙出演する作品である。そんなお安い出来栄えには出来ない。さりとて、長年にわたって愛されてきたアメコミ原作のイメージを、ないがし ろにすることも許されない。そのイメージを無視したような作り方は、アメコミ・ファンの反発を招きかねない。それゆえ、演出や脚本に微妙なバランス感覚が 要求されたのである。
 ドナー版「スーパーマン」の場合では、ちょっとイマドキではアナクロにも思える理想主義的ヒーロー像やクラーク・ケントとの一人二役というマンガっぽい滑稽さは、往年のハリウッド主流派であるフランク・キャプラ映画のスタイルに変換。いささか突飛で極端なドラマトゥルギーは、ギリシャ神話やシェイクスピア劇風 のスタイルに移植して、これも映画の世界に違和感なく移し替えられた。こうしたいくつもの「変換」によって、アメコミの世界を無理なく大人の一般観客が見 る娯楽映画へと「翻訳」することが出来たのだ。蛇足として一言付け加えるなら、このドナー版「スーパーマン」の「変換」法をうまく応用したのが、ハリウッ ド映画ファンにしてシェイクスピア劇で知られるケネス・ブラナー監督のマイティ・ソー(2011)だと僕は思っている。
 このように「スーパーマン」で確立された方法論は、以後のアメコミ映画にも多大な影響を与えることになった。ストーリーや人物の描き方だけではなく、メイン・キャラクターは新人かそれに準ずる若手を配して周囲をベテラン名優やビッグスターで固めるアラビアのロレンス(1962)スタイルのキャスティングなどはすべてこの「スーパーマン」の影響が大きい。その後のアメコミ映画のすべての「原型」がこの時点で確立したと言っても過言ではないのだ。故にリチャード・ドナーの功績は偉大なのである。
 以後、何だかんだ言っても大なり小なりリチャード・ドナー・スタイルを踏襲したアメコミ映画が作られていくのだが、そこに一石を投じて微妙に軌道修正を試みた作品が登場する。それがクリストファー・ノーランが作った「バットマン」の新しい三部作だ。
 その一作目「バットマン・ビギンズ」ではまだ明らかではなかったが、二作目「ダークナイト」でその傾向は顕著なモノとなる。過度にリアリズムを強調したかのような作風(とは言っても、実はあくまでアメコミならではの単純さはそのままだったのだが)は、一見それまでのアメコミ映画とは一線を画したような印象を与えた。例えて言えば、ヒーローものをシドニー・ルメット映画風のスタイルで撮った…という感じだろうか。
 今回の新「スーパーマン」は、そんなクリストファー・ノーランの「イズム」の下に制作されている。しかし、自らの胸にデカい「S」を付けて空を飛ぶおめでたいヒーローを、一体どうやったらリアリズムで描けるというのだ。どう考えたって両立しっこない。
 僕が今作の企画を耳にした時、どうしても疑念しか抱けなかった理由は、まさにそこにあるのである。

見た 後での感想

 映画が始まるや否や、惑星クリプトンが登場。これはリチャード・ドナー版「スーパーマン」と同じだ。
 まぁ、原作が同じなのだから当然の話だが、基本的にはドナー版「スーパーマン」「スーパーマンII/冒険編」の時と同じ物語を、一本の映画でやってしまうカタチに なっている。クリプトン崩壊の後、地球に渡ったカル=エルがクラーク・ケントという地球人として育てられ、やがてスーパーマンとしての力に目覚める…とい う展開についても、多少時間の流れを分断したり逆転させたりする工夫は施されているものの、ベーシックな部分はドナー版と変わらない。まぁ、ここらあたり は変わりようがないのだ。
 その中で…ドナー版ではグレン・フォードが演じていたクラークの養父役を、何とケビン・コスナーが演じているのは感慨深かった。キャスティングとしてはまさにドンピシャで、西部劇にも通じる古き良きアメリカ臭が濃厚。アメリカの田舎のお父さんなら、すでにフィールド・オブ・ドリームス(1989)で演じている。あの男が年を取ったらこうなりそう。しかしそうは言ってもついこの前まで主役をバンバン張った男盛りのヒーロー役者だったはずだけに、この「枯れっぷり」には驚いた。一方のダイアン・レインも良い味出しているんだが、こちらもすさまじい老け方で唖然呆然。これ絶対に実際よりメイクで老けさせているはずだが、ご本人よくこれを演じたねぇ。
 その他にも、ドナー版ではマーゴット・キダー、「リターンズ」ではケイト・ボスワースと「いかにも」な女優たちが演じてきたロイス・レイン役に、今回大売り出し中のエイミー・アダムスが起用されたのがお楽しみ。正直言って、今この役をやるなら「旬」の彼女しかいないだろう。
 そんなわけで、舞台が地球に移って来てからも相も変わらぬ「スーパーマン」物語であることは変わりないように見える。
 しかし、よ〜く見ると…実は語り口は大きく変わっている。この作品は思った通り、「マンガの映画化」というスタンスとは異なる。ドナー版「スーパーマン」にあったような、ユーモアやバカバカしさはどこかに消えてなくなっている。やはりクリストファー・ノーランが絡んだ以上、この作品も「ダークナイト」化は避けられなかったか。やっぱりこの作品も、観客に大上段から振りかぶったような大げささで、ことさらに過剰な深刻さと暗いムードを振りまく「ダーク」な作品となってしまっているのか。

 

 

 


 

 

 

 

こ こからは映画を見てから!

 

 

 

 

 

 

 

 



「違いが大きい」ダークさ、シリアスさ
 先にも語ったように、物語の展開は基本的にドナー版「スーパーマン」と変わりないとは書いたものの、実は微妙な部分での相違は少なくない。
 例の惑星クリプトンの滅亡が描かれた後、画面にカル=エルことスーパーマンが出てくるのは、いきなり成人になってから。それも無精ヒゲを生やして漁船で黙々と働いているという姿だ。
 その表情は天真爛漫な「スーパーマン」の「それ」ではなく、苦渋に満ちた孤独の陰を漂わせた男の顔。いきなり「違い」を印象づけられる展開だ。時系列に沿って子供時代から青年〜成人へと辿っていくのではなく、一気に成人になって自分の進路に惑う姿を見せていくことで、今回の「スーパーマン」は以前のものとは違うと強烈にアピールしているのである。
 さらにそこから逆に子供時代にさかのぼり、さらに再び成人時代との間を行ったり来たりすることで、スーパーマン=クラーク・ケントがそのような孤独感を形成するに至った理由を探っていくという構成。つまり本作は、超人の活躍ぶりを講談調に語っていくものではない。「鋼鉄の男」がいかに周囲と自分との違いを自覚し、孤独感を募らせていったかを探っていく物語なのだ。
 だから「スーパーマン」の物語なのに、一向に痛快な気分にはならない。あの景気の良いジョン・ウィリアムズの音楽が鳴らないわけだ。この映画にはあの晴れがましさが似つかわしくないのである。
 カル=エルことスーパーマンは最初から自分の能力を持て余しており、学校でも「見えすぎ」「聞こえすぎ」な状態でパニック症状を起こす。父親からは能力 を発揮するなとひたすら止められる。能力を発揮せざるを得ない状況に追い込まれると、ロクな目に遭わない。何ともスッキリしない展開なのだ。
 しかし実際のところ超人がこの世に本当に存在したら、そうは天真爛漫にやってはいけないのではないか。
 そんなことを考えながら見ていたら、僕はふとまったく別の作品のことを思い出した。それは今では悪名高いM・ナイト・シャマランの長編第3作アンブレイカブル(2000)。ブルース・ウィリス演じる列車事故で一人生き残った男が、そこから自分が不死身の「超人」であることを悟るという作品だ。
 まさに「マン・オブ・スティール」。あの作品も陰々滅々としたタッチでヒーローを描いて、シャマランが前作シックス・センス(1999)で築いた信頼を一気に破壊。その後、「シャマランと言えばトンデモ監督」というレッテルを、彼自身にベッタリと貼ってしまった忌まわしい作品だ。しかしアレも今考えると、「もしヒーローが実際にいたら」という目の付け所はそんなに悪くないのではないか。それをあまりにももったいつけたハッタリ感で描いてしまったために、観客から総スカンをくらってしまったのだろう。まぁ、それにしたってアレはさすがに大げさ過ぎて、インチキ臭い手口に見えたけどね。
 実は「ダークナイト」のクリストファー・ノーランに僕が感じた反発も、それとどこか通じるものがあった。大げさ、ハッタリ、インチキ臭さ…大したことでもないくせに、大上段から振りかぶったような偉そうな語り口がイヤだったのだ。
 それでは今回の「マン・オブ・スティール」はどうか。確かに今回もハッタリの大御所ノーランが一枚かんでいて、監督はこれまたハッタリ命の「300」を撮ったザック・スナイダー。こりゃクサくてクサくて見ていられないはずではないか。しかし、今回の作品はなぜかそうはなっていない。不思議なことに、その大げささが鼻につく作品には仕上がっていない。おまけに「ダークナイト」にあったような「シリアスな話にしとけば作品が立派になったような気がする」的な態度も今回は見られないのだ。
 「ダークナイト」的なアプローチとは、「作品内容を高めたいという純粋な目的でシリアスにしている訳ではなく、シリアスのためのシリアス、深刻のための深刻…になってしまっているような作り手の姿勢」を意味する。手段が目的化してしまっているのである。そして結局それというのは、「こんな“たかがアメコミ映画”をこれほどシリアスで深淵な内容にしてしまったオレってエライ」 と作り手が言うことを目的にしているとしか思えない。作品に貢献していないシリアスさだし、作品と題材、そして観客、さらには映画というメディアそのもの に対する「愛」が感じられないシリアスさだ。自分しか愛していない「歪んで肥大した自己愛」の産物でしかない。また、見る側も大半の人々はちょっとシリア スになっていると「内容が深い」と喜んでしまいがちだが、その単純さ・お手軽さもイヤだった。作り手・観客双方に見られた、あの勘違いっぷりがダメだっ た。
 しかし今回の作品は、手段が目的化していない。この違いは大きい。そこが「ダークナイト」的作品づくりと一線を画している部分だ。
 実はこの「スーパーマン」という題材、他のアメコミ・ヒーローを代表する存在ながら、その中でも際だった特質がある。それはヒーローの底抜けの「善良性」「純粋性」だ。心に後ろ暗い部分がなく、純粋な善意と正義感で行動する。正直言って、大人向けドラマとして描くには、もっとも難しい点がここだ。気は優しくて力持ち…ってのは昭和マンガの主人公ならいいが、一般観客が見る映画としては著しく人間味や説得力を欠いた存在なのだ。だからこの描き方を間違うと、映画は一気にバカバカしくなる
 ドナー版「スーパーマン」では、ここを古典的で上品で、しかもちょっと浮世離れしたフランク・キャプラ作品のテイストで味付けして乗り切った。おっとり とした味も、キャプラ作品のパロディ的なテイストと見れば不自然とは見えない。さらにそこに至る前段のクリプトン場面は、ギリシャ神話みたいなスタイルを 持ち込んだ。つまりスーパーマンことカル=エルは神々の子、現人神なのだ。
 今回の作品は、こうした「スーパーマン」設定の持つリアリティのなさを、どうやって一般的な大人向け映画で説得力あるものに変えるか…という試みの「もうひとつ」のバージョンである。そのために「スーパーマン」のお約束である、周囲の人にはメガネひとつの違いでしかない「スーパーマン=クラーク・ケントの変身」という設定を捨てている。これは従来からの「スーパーマン」ドラマの中では初めてのことではないだろうか。今後これに続編が出来たらどうなるかは分からないが、少なくとも今回作り手はこの重要な要素を捨てても、あえて「説得力」をとっているのだ。
 そして、作り手はこの「説得力」のためにもっと大きな決断を行った。
 普通のドラマの場合、ただ「善良」であるだけでは見ていてちっとも共感できない。山田洋次作品などが、時としてシラジラしく見えてしまうのもそのせいだ。僕らは自分の心の奥底を知っているし、そこに「悪」や「弱さ」が必ず住んでいることも知っている。
 だから「超人」であることの戸惑いと葛藤を見せて、我々凡人にも共感できるようにした。ここが本作最大の特徴だ。本作のダークさ、シリアスさには理由がある。それは主人公の
戸惑いと葛藤を見せるためのスパイスだ。そうでなければいけない必然性があるのである。
 そしてクリストファー・ノーラン=ザック・スナイダー両者の持ち味である「ハッタリ感」は、こうしたダークさ、シリアスさを大げさに持ち出すためでなく、むしろスーパーマンが持っている破天荒なスーパーパワーの表現…つまり「マン・オブ・スティール」ぶりを描くことに最大限注がれた。そしてスーパーマンの「マン・オブ・スティール」ぶりが派手で強烈に描かれれば描かれるほど、凡人のありようから剥離してしまう。カッコよくて爽快な大活躍ではなく、途方もなく恐ろしい破壊を生む力にしか見えない。それは例えば、「仮に人間の味方側であっても怪獣はしょせん怪獣でしかない」という「ガメラ3/邪神<イリス>覚醒」(1999)の設定にも似ている。ゆえに「地球にひとりぼっち」であるカル=エルの孤独や苦悩もクッキリと際立つのである。
 今回の「スーパーマン」がダークでシリアスなのには、ちゃんとそれなりの必然性がある。だからこそ、そのダークさ、シリアスさを好感を持って受け止められるのである。


 

 

 

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