「パシフィック・リム」

  Pacific Rim

 (2012/10/14)



見る 前の予想

 デビルズ・バックボーン(2001)やヘルボーイ(2004)、そしてパンズ・ラビリンス(2006)などなど、いつも凝りに凝った映像でいい感じに僕好みの作品を作ってくれるギレルモ・デル・トロが、今回は何とハリウッド大作として日本のロボット・アニメと特撮怪獣映画に大きな影響を受けた作品を作った!
 当然このニュースは知っていたし、この作品であの「名子役」として知られる芦田愛菜が「衝撃のハリウッド・デビュー!」ということでも話題になっていた。それがこの夏、3D大作として満を持して日本上陸。
 そうなれば、ハリウッド大作好きで3D映画好き、そもそもギレルモ・デル・トロの監督作が好き。そして何よりSF映画好きの僕なら、さぞかし飛びついて 興奮して大騒ぎするはず…と、この感想文を読んでいるみなさんならお思いになったことだろう。しかし…確かに楽しみだし興味もあったが、実は僕は他のSF 映画並みに楽しみにはしていたものの、決してそれ以上に特別な期待を持っていたわけではなかった。
 その理由は、実は簡単なことだ。
 この映画は先にも述べたように日本のロボット・アニメと特撮怪獣映画に大きな影響を受けた作品であることは明らかで、それらにはこの日本を筆頭に熱いシ ンパシーを持つマニアたちがウジャウジャいる。そういう連中はもういいトシこいた大人で、彼らが大人になってふんだんな金が使えるようになったからこうい う映画が制作され、多くの観客が押しかけるわけだ。ついでに関連商品のオモチャも買ってくれるのだろう。
 もちろん僕もそういう大人たちのひとり…と言いたいところだが、実はそこがちょっとだけ違う。僕は確かに子供の頃からSFが好きだったし、マンガも好き だった。しかし他の子供たちほど「日本の怪獣映画」に夢中になってはいなかった。僕はその頃、テレビでアメリカのSFシリーズ「アウター・リミッツ」などに夢中になっていたのだ。おまけに僕が小学生の子供だった頃はロボット・アニメと言えばせいぜい「鉄腕アトム」「鉄人28号」が関の山で、しかも「アトム」はともかく「鉄人」の方はサッパリ興味が湧かなかった。見ていなかった訳ではないのに、今では全く思い出せないほど印象が薄いのだ。その後の「マジンガーZ」「ガンダム」だなんて代物も年齢が年齢なのでまったく見ていないし、「エヴァンゲリオン」なんてのもやたら高尚な評判が胡散臭くて興味なし。ああいった、身の丈を考えずに自分を高級に見せたがる輩は、どうも昔から虫が好かないのでね(笑)。そんなわけで、僕はこの映画が狙っているターゲットにジャスト・ミートしているように見えて、実は微妙にズレているのだった。
 おまけに申し訳ないけど、日本の怪獣映画とかロボット・アニメあたりのマニアの排他的な雰囲気、押しつけがましくて暑苦しくて原理主義的な嫌らしさがど うにも受け付けない。好きだと言う方はホントにごめんなさい。でも、ダメなものはダメなのだ。日本映画ファンというだけでうるさそう(笑)なのに、そこに 特撮とアニメが乗っかってくれば、もう鼻持ちならない臭いがプンプンだ。だからそういう連中が大挙して押しかけてくる上に、おそらく連中が気にいればウン ザリするまでの大絶賛、気に入らなければハタで聞いていても怒りが沸点に達しそうな大酷評をやらかしてくるだろうことを考えると、この映画の公開が楽しみ とは正直あまり思えなかった。
 おまけにホメるにしてもケナすにしても、一般の映画ファンからすればどうでもいいようなくっだらないことでワーワー言うんだろうな(笑)…と思えて、ますますウンザリ。…などとボロクソに言ってしまっては申し訳ないものの、そう思ってしまったのも正直な話。そんなわけで、僕はちょっと下がった位置から、距離を置いて見るような気持ちでこの映画の公開を待っていたわけだ。
 しかし、そうは言っても決してキライなジャンルの作品ではない。だから公開されるや否や結局、初日に映画館へとすっ飛んでいったわけだ。その感想文がこれほど遅れたわけは…な〜んてことは、今まで死ぬほど何回もここで言い訳を繰り返してきたから、もうここでは言うまい。

あら すじ

 子供の頃から、地球を侵略する怪物たちは宇宙からやってくるものと思い込んでいた。それがまさか太平洋の真ん中、海底にできた裂け目から現れるとは…。
 2013年、突如海から現れた全長100mを越す巨大生命は、サンフランシスコをはじめ太平洋岸の3都市を襲った。これらの「カイジュウ」と呼ばれる巨 大生物には既存の兵器や装備ではなかなか歯が立たず、人類は苦戦の果てに何とか倒すことができた。しかし、それはまだ前触れに過ぎなかった。
 間もなく新たなカイジュウが出現し、さらに被害は拡大した。存亡の危機に直面した人類は、環太平洋諸国を中心に英知と総力を結集し「環太平洋防衛軍(PPDC)」を結成。カイジュウたちを倒すべく「イェーガー計画」を始動させる。
 イェーガー、それは巨大な人型の戦闘兵器。早い話が巨大ロボットだ。ただし、そこに人間が乗り込み、脳を直接イェーガーに接続して動かす仕掛けになって いる。それも、一人で操縦するにはあまりに脳への負担が重いため、二人の人間が左脳右脳をそれぞれ分担して担当するようになった。当然、左右の体の動きを シンクロさせるのは至難の業で、そのためイェーガーのパイロットは信頼し合っている二人組、親子、兄弟、夫婦…といった連中が起用されることが多かった。
 こうしたイェーガーの登場によって、カイジュウたちは次々退治されるようになる。そんな中、イェーガーを操縦するパイロットたちもヒーローとなって、マスコミなどでもて囃されることになる。
 まだ若いローリー(チャーリー・ハナム)もまた、兄のヤンシー(ディエゴ・クラテンホフ)とともにイェーガーに乗り込む戦士の一人だった。
 今日も今日とて現れたカイジュウを仕留めるため、イェーガーの頭部コックピットに乗り込むローリーとヤンシー。海に現れたカイジュウに対して戦いを仕掛 けたローリーたちのイェーガーは、余裕でこれを仕留めたはずだった。ところが死んだと思ったカイジュウは生きていた。一瞬の隙に形勢が逆転。アッという間 にカイジュウに頭部をえぐられ、兄ヤンシーは空中へとつまみ上げられて殺されてしまう。やがて雪の降る酷寒の海岸にやっとの思いでたどり着いたイェーガー から、血だらけのローリーが降りてくるのだった…。
 それから幾年月。あのローリーとヤンシーの敗北が転換点となったか、カイジュウたちは徐々に進化を遂げてパワーアップ。イェーガーはいつの間にか劣勢に 回るようになる。そんな中、人類はイェーガーによるカイジュウ撃破という作戦自体の見直しを図ることになり、「イェーガー計画」を中止して太平洋沿岸の都 市を強大な防護壁で覆う作戦に大きく方向転換を図ろうとしていた。
 兄を失い傷心のローリーもまた、この防護壁建設の労働者として働いていた。
 しかしそんな人類をあざ笑うかのように早速カイジュウが出現。カイジュウから都市を守るはずの防護壁を破壊されるのを目の当たりにしてしまうと、かつてのカイジュウ退治の意欲を封印してしまったはずのローリーも防護壁建設を空しく感じざるを得ない。
 そんなローリーのもとに突如やって来たのは、PPDC司令官スタッカー(イドリス・エルバ)。何とスタッカーはローリーに、再びイェーガーに乗り込んで カイジュウと戦うよう説得しに来たのだった。兄の死によるトラウマから完全にイェーガーに乗ることを諦めたつもりだったローリーだが、スタッカーの言葉に 昔の意欲がよみがえる。
 実はスタッカーは終了されたはずの「イェーガー計画」をひそかに再開させることを画策し、秘密裏にかつての強豪イェーガー乗りたちを集めていた。ローリーもその一員としてスカウトされたのだ。
 こうしてスタッカーに連れられて香港の秘密基地にやって来たローリーを迎えたのは、イェーガーの整備にあたっている日本人女性の森マコ(菊地凛子)。こ の秘密基地には、ハーク(マックス・マーティーニ)とチャック(ロブ・カジンスキー)のハンセン親子によって操縦されるオーストラリアの「ストライカー・ エウレカ」、タン三兄弟によって操縦される中国の「クリムゾン・タイフーン」、アレクシスとサーシャのカイダノフスキー夫妻によって操縦されるロシアの 「チェルノ・アルファ」…といった、かつてのPPDCに君臨していた強豪スター・イェーガーたちが集結していた。
 そして、さらにもう一台…ローリーが兄ヤンシーと共に操縦していた、アメリカが誇る豪腕イェーガー「ジプシー・デンジャー」が、ローリーが戻ってくるのを今や遅しと待ち受けていたのだった…。

見た 後での感想

 まず最初にぶっちゃけた話をしよう。僕はこの映画をどう見たのか?
 面白い!
 何がどう面白いかと聞かれても困ってしまう類の映画ってのが、世の中にはマレに存在しているが、この作品がまさにその一本。正直言って、この感想文自体も「面白い」と一言だけ言って終わらせてもいいくらいだ。そこにアレコレ理屈を並べても仕方ない気がする。
 否、していた
 僕も最初はこの映画を見て、大半の人々がこの映画を評する時に言うようなことを思っていた。いわく、日本の特撮怪獣映画とロボット・アニメを実写で大がかりに作ったらこうなった…というような作品。確かに企画からしてそうだろうし、出来上がりもまさにそんなような作品。「日本の特撮怪獣映画とロボット・アニメを実写で大がかりに作った」という言葉に何らウソ偽りも間違いもない。
 怪獣をそのままストレートに「カイジュウ」と呼ばせるあたりのセンスや、何かというと日本が登場してくるあたり、ギレルモ・デル・トロが本気で「特撮怪 獣映画」「ロボット・アニメ」という日本が誇る2大ジャンルに敬意を表していることが分かる。怪獣に対して何かの技を繰り出す際に、いちいち操縦している パイロットが「なんとかパ〜ンチ!」みたいなかけ声をかけたり大見得切ったりするあたりのコテコテ感も、こういう日本のジャンルものを意識していることを 伺わせる。でなければ、基本的にあんなリアリズムからかけ離れたことはやりっこない。
 だが、もしそればっかりだったとしたら、僕は果たしてこんなにこの映画を楽しめただろうか
 僕はこの感想文の冒頭にクドクドと書いたように、このジャンルの周辺に漂う空気がどうにも苦手だ。マンガも特撮映画もキライじゃないし僕も日本人だ。子 供の頃からこういうジャンルのものは理屈抜きで触れてきているし、憎からぬ思いを抱いてもいる。それでも、どこか僕はこの手のジャンルのマニアとはなじめ ない気がしていた。そして…それはどうも、このジャンルそのものにまつわる「何か」に僕がどこか疑念を抱いていたから…のようなのだ。
 奇妙に思うのは、この作品に「影響を与えた」とされる日本の特撮怪獣映画とロボット・アニメのファンがこの作品を見て大絶賛しつつも、あれこれと細かい ところに注文があるみたいなところ。ネット上でもベタホメと並んで「ここがもうちょっと」などと言っている人は多いし、実際に僕の身近にいるこの手のジャ ンルのファンが「残念」などと言っているのを聞いてもいる。まぁ、そのどこか「上から目線」なモノの言い方(笑)はともかくとして、彼らはこうした作品が 出来たことを大喜びしながらも、細かいところに対してはアレコレ言いたい人も少なからずいるみたいなのだ。
 その逆に、僕はアレコレ言いたい点は特にはない。「こういう映画なんだろうな」と思いながら楽しんだ。大好きなギレルモ・デル・トロ作品らしさを感じつ つ、SF映画好きで日本人でもある僕の心の琴線にも触れるところが多々あり、思わず嬉しくなってしまったりもした。だからこの感想文の冒頭にも述べたよう に、僕と日本の特撮怪獣映画とロボット・アニメのファンたちとは、反応がどこかシンクロしながらも反対に微妙にズレている部分があるみたいなのである。
 その理由は何なのか?
 そしてその「シンクロ」と「ズレ」とは、ひょっとしたら僕が長年「日本映画」に感じてきた「違和感」に関わることなのかもしれないのだ。

 

 

 


 

 

 

 

こ こからは映画を見てから!

 

 

 

 

 

 

 

 



日本映画にまつわる「暗黙の了解」
  人工衛星から沈みゆく日本列島をとらえた映像とおぼしきショットが何カ所か挿入されるんだけど、その引き裂かれて分断される日本列島の模型の裂け目に、ポ コポコとかわいくドライアイスの煙が上がってるんだよな。そりゃあないだろう? 日本列島の模型自体は人工衛星からの写真を元にリアルにつくったと豪語し てたけど、そこに洋菓子についてるようなドライアイスの煙がポコポコ。もう、トホホなわけ。大体、衛星からの映像だとするなら、ビデオか何かに写せばいい のにフィルムでじか撮り。何でかなぁ。
 それと、海外に日本人が移住していったということを表現するのに、海外ロケできなかったのか外国の絵ハガキどアップにして使ってるんだよ。これやるくらいなら、こんなシーンやめちゃえばいいのに。
 結局感想としては、この映画は日本映画 にしては凄かったけど、やっぱり日本映画はダサいからもう見に行くのよそうということになる。でもさぁ、ハッキリ言って普通の神経の人間ならそう思うよ。 あのころの日本映画の問題点ってすぐお金のなさを言うけど、そうじゃなくて意地悪く言えばセンスのなさじゃないか?

 長々と引用させていただき、まことに申し訳ない。前述の文章は、うちのサイトの初期にアップした邦画に夢中!洋画ファンに捧げる日本映画入門というちょっとイタいタイトルを持つ特集に、僕自身が寄稿したある舶来映画愛好家の懺悔録と いう文章の一節を抜粋したもの。タイトルを見ていただければお察しの方はお察しの通り、「生粋の邦画ファン」からすれば「知ったかぶり」だの「無知」だの という罵倒が10も20も浮かんでこようという拙い内容。さすがに今の僕なら、こんな地雷みたいな特集や文章は発表しまい。でも、当時はバカだったんだ な。
 それはともかく、冒頭の文章って何のことを言っているのかといえば、最近の樋口真嗣監督によるリメイクではなく森谷司郎監督によるオリジナル日本沈没(1973)について気になっていた点を述べている。念のために言えば、僕はこの森谷司郎版「日本沈没」を結構気に入っている。気に入ってはいるが、「それでも気になる」という点をここで述べた訳だ。
 こんな事を言われたら、邦画ファンの方々は怒り心頭かもしれない。いや、間違いなく激怒ものだろう(笑)。しかし、前述のような問題は僕にとっては何の誇張もない。率直で正直な感想なのだ。
 当時、僕はこうした邦画の残念な点を、「お金がない」からだと思っていた。いや、大半の人がそうだろう。あるいは前述の抜粋部分にも書いてあるように、「センスがない」からだとも思っていた。確かに両方とも正しいに違いない。しかしそんなこと以外にも、邦画にまつわる違和感は数多くあった。わざとらしい演技、不自然な演出、理屈に合ってない脚本。どこかがおかしい…。実は邦画って根本的に、何か「他の国々の映画たちとどこか異なる部分が作り手と観客側双方にあるんじゃないか」と思えてもきたのである。
 それはどこで気づいたかと言うと…実はある「能」の舞台を見ていた時にフト思いついたのだ。
 僕はかつて、ちょっと「能」に関心を持って東京能楽堂に何度か足を運んでみたことがある。とは言っても、別に向学心があったわけでもなければ、特に知識 も何もなかった。何も分からないなりに、「どんなもんなんだろう?」と興味を持っただけだ。特に高尚な意図があったわけではない。
 そんなこんなで僕が能楽堂に何度か通っていた時に見た演目で、ちょっと興味を惹くものがあった。
 能楽堂に行くと、その日に演じられる演目の内容を簡単に解説したチラシみたいなモノをくれる。僕のような門外漢や無知な人間でも楽しめるように、あらすじを簡単に書いたチラシだ。その日の演目の内容はどんなモノかといえば、どうやら怪物が襲ってくる話らしい。巨大な怪物が現れ、立派なお屋敷の屋根に乗って大暴れするような場面が出てくると書いてあった。そんな場面を、能舞台でどのように見せるのか大いに興味がわいたわけだ。
 実際にその場面はどのように演じられたかといえば、演者が般若みたいなお面をかぶって登場。透けて見えるような白くて薄いヴェール状のものを羽織りなが ら、平べったい木製の台の上に上がり、テンポよくドンドドンッとばかりに足を踏み鳴らして首を激しく回してみせた。場面としてはまさに怪獣が巨大ビルにま たがって咆吼するような場面ながら、極端に単純化か抽象化することで舞踊のように見せているわけだ。それは、一種「優雅」なものにまで昇華しているようにも見えた。
 僕はこの場面を見た時、それまで日本の怪獣映画、特撮映画に対して抱いていた「違和感」の本質が分かった気がした。
 先に挙げた「日本沈没」の件ではないが、僕は日本の特撮怪獣映画に大きな違和感を抱いていた。そこには巨大生物としてのリアリティがない。人型の着ぐるみにしか見えないし、おもにミニチュアによる特撮もライティングからカメラ・アングルに至るまでリアルに見せようという工夫が足らない。いや、見せようという気さえないように思える。後年、樋口真嗣が特撮を手がけた平成「ガメラ」三部作はミニチュア特撮でのリアリティを限界まで推し進めた観があったが、これは例外中の例外。一般的な日本の特撮映画・怪獣映画には作り手と観客による馴れ合いというか甘えみたいなモノがあって、お金がなくてチャチでも仕方ない、大目に見てやろう見てやらねば…的な一種の「共犯関係」が成立しているように思えた。
 だから僕としては、逆に外国映画でのモンスターを「人型でないケモノ」であると どこか見下した言い方で語っているこの手のファンを見るにつけ、「何を開きなおっているんだ」とどこかシラケた眼差しで見てしまっていた。まだ生温く応援 したいだけなら分かるが、そこまで言っては贔屓の引き倒しではないか。ダメはダメ、手抜きは手抜きと言わなきゃダメだろう。
 しかし、例の「能」の舞台表現を考えた場合、僕がこのように考えていたのはちょっと違っていたのではないかと改めて思わされたりもしたのである。つまり、日本の怪獣映画の不自然さとは一種の「伝統芸能」みたいなモノではないか…と。
 先に挙げた能の舞台では、本来なら化け物の姿で出てこなければならないのに、般若の面と薄物だけで済ませてしまう。本当なら大きなお屋敷のセットを建設 するべきところを、単なる木製の台を置いて良しとしてしまう。それだけで、「巨大な化け物がお屋敷の屋根に乗って暴れている」ということにしてしまう。そ れは良く言えば徹底的な抽象表現化とも言えるし、悪く言えば作り手と観客の間の「共犯関係」であるとも言える。つまり、日本の怪獣映画もまた「これ」ではないのか。
 それと同時に…前述の「日本沈没」ではないが、こうした「伝統芸能」化は特撮映画・怪獣映画のみならず日本映画全般にも言えることだったんじゃないかとさえ思えるのだ。演技も演出も脚本も技術的な見せ方までも、何でこんなにチャチなんだ、何でこんなに不自然なんだ。僕は日本映画を見るたびにそう思っていたが、それって先の「能」みたいな日本の「伝統芸能」的発想が自然と映画の世界に移植された結果ではないのか。
 だから「日本映画」というものは、本来が記録性から始まっていてリアリティを重視するハリウッドを中心とした世界の映画の流れの中で異質なモノなのではないか。
 実はこれはいくらでも例外があって、抽象表現ならヨーロッパのアート系の映画などもいくらでもあるし、例えば香港の剣戟映画でワイヤーを使ってフワーッ と人が飛ぶ描写なども一種の「伝統芸能」的表現だと言える。だから必ずしも日本映画が飛び抜けて異質であるというのは乱暴な言い方なのだが、少なくとも一 般的な大衆娯楽映画の広範囲な部分に渡って、作り手と観客の間で「これはこう見るべきものなのだ」という「お約束」が 成立しているというのは、どう考えても欧米映画と比較すると異質なことのように思える。しかも、失礼ながら表現・技術が稚拙・未熟で未発達、なおかつ劣悪 な条件下で制作されている発展途上国の映画ならまだしも、ある程度の教養と洗練と生活水準を持った人たちがある程度の技術と機材と資金を使って作っている 映画としては、これはあまりにも奇妙だ。
 記録性とリアリティを基本に形成されているハリウッド中心の映画セオリーから考えて、日本映画(特に特撮怪獣映画)は、極めて異質なモノではなかったかと思えるのだ。
 ここまで来ると、みなさんいろいろ異論反論あるかと思える。僕もそれらを論破できるほど、豊富な知識と教養を持っているわけではない。かなり無茶な言い方をしているとは承知しているが、もう少しだけ僕の言い分を黙って聞いていていただきたい。
 そんなわけでさらに論を進めると、僕は自分が大好きな黒澤明の映画 が、そんな日本映画の中でむしろ異端だったのかもしれないと改めて考えてしまった。黒澤明もまたリアリズム追求の作家だ。いや、元々が画家だからデフォル メしたり単純化することはするのだが、それでも映画のフレームの中でのリアリティを求めてはいた。だから殺陣なども確実に仕留めるための方法を考えたり、 時代考証などにも凝りまくったりしていたのだ。それでいて「用心棒」(1961)の中で拳銃を出したりマフラーを出したりもしたのだが、それも映画ならではのウソとリアリティの追求を行ったからだろう。少なくとも、作り手と観客が「暗黙の了解」の中で「お約束」を共有するような、そういう映画のあり方は求めていなかった。
 というか、黒澤明はリアリズムの作家であるというよりも、リアリティと抽象表現の境界に立っていた人だったというべきかもしれない。黒澤とて「蜘蛛巣城」(1957)、「隠し砦の三悪人」(1958)、「乱」(1985) などであれほど「能」を意識した表現を行ったりしているのだ。「暗黙の了解」的な抽象表現をしたくない訳ではないだろう。しかも本来は、リアルな現実を紙 やカンヴァスの上に無理矢理定着させることを仕事とする「画家」だ。そして絵画というものは、例えそれが写実主義の描き方であったとしても、「絵」にしよ うとした瞬間からリアルからはずれていくものだ。だから黒澤は、どこかで間違いなく
抽象表現をも指向していたはずなのだ。
 しかし、それの出し方が違っていたと言うべきだろうか。日本的な「暗黙の了解」かつ抽象的な表現を、世界映画の世界のリアリティと何とか折り合いをつけようとした。黒澤映画がいち早く海外で、特にハリウッドで評価された理由は、たぶんそこにあるのではないだろうか。
 それは別の意味でも検証することができて…ここからは確か評論家の白井佳夫氏がどこかで言っていたことの受け売りでしかないのでお恥ずかしいのだが、カラー映画化したとたんに黒澤映画が弱体化したことと も関係しているような気がする。モノクロ映画ならば自然と映像そのものがブラック&ホワイトという単純化・抽象化した表現となる。その中で黒澤は出来る限 りのリアリティを追求して、自らの中にある抽象表現とリアリティとの折り合いをつけていたのかもしれない。しかしカラー化したとたん、そんなバランスが崩 れてしまう。そうなると、黒澤映画はそれまで持っていた自然な雰囲気が一変して、妙に不自然に見えるようになってしまう。黒澤自身は色が不自然だとなかな かカラー化に踏み切らなかったが、実際には問題はそこではなかった。晩年の黒澤作品がどこかわざとらしく感じられたのも、そういうことかもしれないのだ。
 閑話休題。何だか壮大なお話になってしまって恐縮だし、未消化のままみなさんの前にドバッと出してしまったみたいで申し訳ないのだが、僕はこの問題が、日本で映画を作ったり見たりすることの根底に常に横たわっていることではないかと思っている。たまたま今回がこうした題材なので、あえて矛盾やホコロビはそのままにして提示してみた次第だ。


この映画の非凡な点とは?
 で、今回の作品「パシフィック・リム」である。
 今回のこの作品は当代の才人ギレルモ・デル・トロが、日本のこうし たジャンル映画への溢れる愛情を注ぎ込んで作った映画だ。しかし同時に彼は、いまやハリウッドで映画を作り続けるしたたかな商売人でもあり、世界中の観客 を楽しませ続けるショウマンでもある。そんな彼が、一定数しかいない「暗黙の了解」を分かってくれる観客のため「だけ」に、映画を作るわけがない。
 だから、ミニチュアでなくCGだ。カイジュウは着ぐるみ感よりも気色の悪い生物感を大切にした。何から何まで「日本式」にしても、一部の観客が喜ぶだけで大半の客はついていけない。本来が大衆娯楽映画というものは、それではいけないのだ。
 しかしながらデル・トロは、モンスターをあえて「カイジュウ」と呼ばせた。そして何より、技を繰り出す際に、いちいちパイロットが「なんとかパ〜ンチ!」みたいなかけ声をかけたり大見得切ったりする場面をこしらえた。これこそリアリティとは異質の感覚だ。
 ギレルモ・デル・トロは黒澤明とはまた別の意味で、日本的な「暗黙の了解」かつ抽象的な表現を、世界映画の世界のリアリティと何とか折り合いをつけようとした。そこがこの映画の非凡なところなのだ。単にオタク趣味を勘違いして押しつけてきたスピード・レーサー(2008)のウォシャウスキー兄弟あたりと、ギレルモ・デル・トロが違うところはその点だ。
 これからの映画は、こういうセンスこそが大事なのかもしれない。
 日本のテレビに出ていた時にはこまっしゃくれてわざとらしくて辟易させられていた芦田愛菜が、ハリウッド映画というステージに立ったら意外なほどにシックリきて自然だったことも含め、この作品の提起した「日本映画と海外映画」の違和感と関係性の問題は、決して小さいものではないように僕には思えるのである。

 

 

 

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