「トゥ・ザ・ワンダー」

  To the Wonder

 (2012/09/02)



見る 前の予想

 テレンス・マリックと言えば、伝説の映画作家である。
 何しろ寡作家である。「天国の日々」(1978)と次の作品シン・レッド・ライン(1998)との間には20年もの年月が経っている。その間、どこで何をやっていたのか分からなかったこともあり(実際にはパリで教壇に立っていたらしい)、すっかり「伝説化」。神聖にして侵すべからざる映画作家となってしまった。
 だから「シン・レッド・ライン」での復帰時には、ハリウッドスターが大挙して総出演。しかし、こちとら天の邪鬼な映画ファンときてるので、それらキラ星のごときオールスターキャストも、何となくパチンコ屋の新装開店祝いの花輪が並んでいるみたいな気がした(笑)。熱狂的にほめてる人も多いので大きな声では言えないが、作品自体も僕は今ひとつピンとこなかったのだった。
 しかしそこからははずみがついたのか、マリックはその後はもうちょっとマシな頻度で作品を発表。そして僕もマリック映画への理解が増したのか、その後に発表された作品はかなり面白く見ることができたのだった。
 しかし…それにしても、前作ツリー・オブ・ライフ(2011)の衝撃たるや!
 あれは何と言えばいいのだろうか。最初はチラシや予告編から、主人公が子供時代を振り返って、高圧的だった父親との関係とそれによって形成されてしまっ た自分の人生を検証していくような作品…と勝手に思っていた。確かにそれは間違いではなかったのだが…あの映画が上映されている時の劇場内のざわめきを、 僕は忘れることができない。そこで描かれていたものが、親から子へ、さらに生き物から生き物へと「生」のバトンがつながれていくことを語っている…と今な ら冷静に考えられるが、パッと見でそう思える人はなかなかいないだろう。詳しい内容についてはこの作品未見の方もいらっしゃるのでちょっと語れないが、とにかくビックリしたとしか言いようがない。
 ただ、こちとらいろいろな映画を見てちょっとやそっとの刺激には慣れてしまっていたから、いい意味でそういう既成概念を裏切ってくれたことに好感が持てた。それにその「ビックリ」は決して思いつきやハッタリ、コケ脅しの類ではなかった。だからむしろ、僕にとっては素直に「すごい」と思えるものだったと言える。
 さぁ、こうなるとマリックの新作が気になる。次はどこまでやってくれるのか? マリちゃんのどこまでやるの(笑)?
 そんな僕の期待を知ってか知らずか、マリックの新作は意外なまでな早さでやってきた。男女の恋愛とその移ろいについての話だという。
 まぁ、そうは言ってもマリックのことだ。ただの恋愛映画には終わるまい。今度は宇宙人でも出てくるのか、天変地異でも起きるのか。絶対何かやらかしているに違いない(笑)。元々がトンデモ映画が好きな僕は、勝手に盛り上がってしまった。
 唯一、気になるのは今回のキャスト。何とベン・アフレックの主演である。ヒロインのオルガ・キュリレンコは、ウクライナ女優ながら007/慰めの報酬(2009)以降はガンガン欧米映画に露出してきた人で、この起用には何の不思議もない。しかしアフレックは…アルゴ(2012)で奇跡的復活を遂げて「上げ潮」の人だが、マリック作品に起用されるようなイメージの人ではない。脇を固めるレイチェル・マクアダムスハビエル・バルデムはまぁいいとして、アフレック主演ってのはどうなのだ。僕はアフレックが嫌いな訳ではなく、むしろかつては贔屓にしていたこともあったが、マリック作品の主演男優に最適とはあまり思えない。
 ところがウカウカしているうちに、この作品あっという間に打ち切りではないか。僕は慌てて映画館へと足を運んだのだった。

あら すじ

 列車の中で一人の女性の顔を写しているビデオ映像。女性の名はマリーナ(オルガ・キュリレンコ)。ビデオを撮影しているのはアメリカ男性ニー ル(ベン・アフレック)。二人は恋に落ちたばかりで、列車の客車の中で片時も離れない。ずっとふざけ合っているうちに、列車はパリに到着した。
 パリは恋の都だ。
 どこに行くにも一緒。モンサンミシェルの海辺を歩いた日のことは、きっと一生忘れないだろう。二人の関係はさらに深まる。当然、ニールは結婚を意識し始めた。
 マリーナには幼い娘タチアナ(タチアナ・シラン)がいた。ニールは彼女に「アメリカに行くか?」と尋ねる。するとタチアナは、「アメリカ、行きたい!行きたい!」と大はしゃぎだ。
 こうしてやって来たアメリカ。オクラホマ州バートルズビルの町。田舎の小さな町で、周囲にはどこまでも原野が広がっている。ここにやって来た時、マリー ナとタチアナは大はしゃぎだった。特にタチアナは、スーパーに並ぶ商品の圧倒的な数に大喜びだ。感極まってタチアナは叫ぶ。「パパになってくれてもいい よ!」
 だが、楽しい時間はそんなに長く続かない。マリーナはどこか周囲と溶け込めない自分を感じている。もっと深刻なのはタチアナで、彼女は学校のクラスメートになじめない。
 一方、ニールには現実の生活がすぐに襲いかかってくる。この地で環境調査員として働く彼は、地元の工場が生み出す環境汚染に顔をしかめざるを得ない。そ れは当然ここに住む人々にも関わることなのだが、ニールの調査活動は地域住民からも必ずしも歓迎されていない。彼の表情に苦渋の色が増してくる。
 そんなバートルズビルの町に、カトリックの神父クインターナ(ハビエル・バルデム)もいた。
 地元の信徒たちに誠実に接する神父に、信頼を寄せる住人は多い。クインターナ自身も献身的に人々の助けになろうとしていた。しかし、いかんせん現実の問 題は大きすぎる。貧困、犯罪、災難…あまりに災いは多く、苦しみは深い。とても彼だけでは手に負えない。いくら祈ったところで助けになどならないことは、 神に仕える彼であっても明白に思える。神はなぜ応えてくれないのか、そもそも本当に神はいるのか…クインターナの苦悩の日々は続く。
 ニールの家では、マリーナとタチアナに当初の喜びがなくなっていた。中でもタチアナはニールに「父親ヅラしないで!」と毒づき、「フランスに帰りたい」とごねる。結局、二人の滞在ビザが切れることもあり、マリーナとタチアナはフランスに帰国することになった。
 そんな時だった、ニールの前にジェーン(レイチェル・マクアダムス)が現れたのは。
 彼女はニールと旧知の仲だった。偶然に病院に行った時に再会した二人は、それから急速に親しさを増していく。そうなれば、お互い古くから知った間柄だ。おまけにアメリカ人でこの町も長い。かゆいところに手も届こうというものだ。
 ジェーンは夫と別れ、心にキズを負っていた。そんなこともあって「後一歩」を踏み出すのをためらっていたニールも、結局は彼女と一線を越えてしまう。
 しかしその頃、パリのマリーナはタチアナに去られ、仕事も決まらずに徐々に追いつめられていたのだった…。

見た 後での感想

 まずは最初にぶっちゃけたことを言わねばなるまい。
 残念ながら、今回の作品には宇宙人も天変地異もなかった。期待していたトンデモ映画ではなかったのだ。身構えていた僕がバカだった(笑)。
 映画の内容は極めてマトモ(笑)。男女の気持ちの移ろいを退いた視点で見つめる恋愛映画で、全編、チャイコフスキーなどのクラシックが流れるというあま りに正攻法な作り。いや、これが正攻法かと言えば異論もあるかもしれないが、少なくともひと目見て「ヤバイ!」と思われる内容ではない。
 まずは「退いた視点」で見つめる恋愛映画と書かせてもらったが、まさにその印象が濃厚。カメラも登場人物に肉薄しない引き気味の構図だし、セリフもまるで遠くから聞こえて来るようなオフ気味のサウンド・デザイン。一見、観客の感情移入を拒むような作りだ。
 よくよく見てみると映像は一貫して広角レンズで撮影されているようで、だから常に画面の端が歪んでいる。これが映画にどんな効果を与えているかについては人によってご意見おありだろうが、僕は現実に今起こっていることというより、追憶や回想のような効果を与えているように思った。つまりは、これもちょっと「退いた」印象である。
 おまけに本作がベン・アフレック主人公を中心とした恋愛映画だと思って見ると、冒頭からオルガ・キュリレンコのナレーションが入るし、途中で「もう一人 の女」レイチェル・マクアダムスのナレーションも入る。それでいて、アフレックのナレーションもほんのわずか、申し訳程度に入っているからなおさら分から ない。おまけにアフレックを巡る恋愛模様とはすれ違い的に登場して必ずしも深く関わって来ない、ハビエル・バルデムの神父のエピソードにもそれなりに尺を 割いている。つまり、誰の視点で描かれているかが大きく混乱しているのだ。
 まぁ、一般の娯楽映画ならば「主人公」はいても「語り手」は第三者だ。例えばダイ・ハード(1988)の主人公は誰が見てもブルース・ウィリス扮するジョン・マクレーンだが、「語り手」は誰かと言えば「ムムム」と答えに窮するだろう。映画とは元々「第三者」的な視点で物語を語るメディアだから、もし「語り手」を強いて挙げるなら脚本家か監督ということになる。あるいは華麗なるギャツビー(2013)みたいにニック・キャラウェイ(トビー・マグワイア)という「語り手」キャラが劇中に登場したりすることもあるが、基本的に映画ってのは「第三者」的な視点の話法だ。
 だったら、本作の視点の混乱は別に問題ないじゃないか…と言われそうだが、そこが何とも言い難い。例えばマリックの前作「ツリー・オブ・ライフ」のブラッド・ピット出演場面がそうであったように、本作は全編が回想のような「退いた視点」で語られている。もしこれを本当に「回想」と見なしていいならば、やはり単一の誰かの視点によるお話でないとおかしくなってしまう。「回想」とは極めてパーソナルなものだからだ。だとすると、オルガ・キュリレンコやレイチェル・マクアダムスのナレーションが入ってくるのは、電話の「混線」みたいな「聞こえて来ちゃった」ような情報、あるいは主人公が「そう思っているんだろうなぁ」と想定しているような情報と考えてみてはどうだろう。
 つまり僕は…ここまでお読みの方ならお察しの通り、この映画はあくまでベン・アフレックが主人公で、アフレックの視点によって語られているべき作品だと思っている。
 確かに別のキャラクターのナレーションが入ったり、別の人物のエピソードが語られたりはしているが、あくまでアフレックによるアフレックの物語。別キャ ラの語りや要素が入ってくるのは、物語に広がりをもたらすためか、あるいは何らかの「偽装」ではないかと思えるのである。
 どうして僕がそう確信を持ったかと言えば、映画の構図に強烈なある種の傾向が見いだされたからだ。しかも、これってかなり特殊な傾向であると言っていい。そして、それは映画が始まって1分程度で、僕にもしかと意識できるくらいに徹底されていた。
 それは、ベン・アフレックの顔…特に目を写していないことである。
 4人の主要キャストのうちで最もスター・バリューがある俳優は、言うまでもなくベン・アフレックである。だから通常ならばベン・アフレックが主演であ り、主人公である可能性が高い。もちろんバットマン役のマイケル・キートンよりも敵役ジャック・ニコルソンの方がスター・バリューが高くビリングも上であ る「バットマン」(1989)みたいなケースもあるが、通常だったら このキャスティングならばベン・アフレックが「看板スター」なはずだ。そして、通常ならば「看板スター」であるはずのアフレックを意識的に写さないような カメラワークはしない。もちろん一筋縄でいかないテレンス・マリックがそんな世俗的な発想で映画を撮ることはないかもしれないが、単に顔を写す必要もない 役に高額ギャラを必要とする俳優は起用しないだろう。マリック映画だからと安いギャラで出てくれたとしても、写さなくてもいい役にわざわざ彼を起用する意 味がないのだ。
 しかしこの映画では、冒頭からアフレックがあまり写らない
 まず出てくるのはビデオカメラのファインダーを通したオルガ・キュリレンコの顔であり、聞こえるのも彼女のナレーションだ。アフレックが画面に写るの は、あくまでオルガ・キュリレンコをビデオで撮影している姿で、それは引きの絵でしかない。その後も終始、画面はオルガ・キュリレンコがメインで写り、ア フレックはまったく写ってないわけではないが、アップではない。あるいは後ろ姿だったり、離れた位置に立っていたりする。
 もっと面白いのは、アフレックがオルガ・キュリレンコと抱き合っているショットの画面だ。カメラのフレームはキュリレンコの頭の位置を上端として切ってしまっていて、背が高くて身長差のあるアフレックの顔が画面からはみ出して写らない構図となっている。時折、少し顔が見える瞬間はあっても、目はまったく写らない。我々はキャスティングを知っているし、所々わずかながら顔が見えているのでそれがアフレックと分かっているのだが、その場面だけ見れば相手が誰だか特定できないように撮影しているみたいだ。
 それ以外の場面でも、アフレックは遠い位置に配置されたり後ろ姿だったり、あるいは逆光で暗くつぶれて顔が見えなかったりと、スターとしては異例なほど 顔が出てこない。単独で出てくる場面でも引きの構図が主になっていて、セリフもほとんどない。とにかく意識してそうしないと絶対こうはならないと思われる ほどに、アフレックの顔は写っていないのである。
 ならば僕が先ほど述べた「あくまでアフレックによるアフレックの物語」というのは、むしろ逆なんじゃないかと皆さんは思われるかもしれない。わざわざアフレックが写らないようにしているのに、なぜアフレックがメインで主人公の物語なんだ? 普通だったらそう思われるだろう。
 しかし、アフレックは先にも述べたように、キャストの中で最もスターバリューがある知名度の高い俳優である。それをわざわざ目立たなくして撮影するとし たら、何か特別な理由があるとしか思えない。元から目立たせないつもりの役だから目立たなく撮った…では、説明がつかないのだ。
 そして、僕があまりにも顔を写されないアフレックを、この作品の主人公であり「一人称」で語っている人物と見なすのには、ちゃんとそれなりの根拠もある。女と抱き合っている際も顔や目をトリミングされてしまうアフレックの姿に、僕は「非常に似ている別の何か」を連想したからなのだ。
 では、その「非常に似ている別の何か」とは、一体何なのか?

なぜアフレックの顔は隠されたのか?
 藪から棒で申し訳ないが、ここを読んでいらっしゃるみなさんは大人の方ばかりだと僕は思っている。そしてもし本当に大人の方ばかりならば、当然のことながらみなさんは少なくともアダルトビデオの1本や2本はご覧になったことがあるだろう…とも思っている。
 いくら品行方正でお上品な方であっても、イマドキのこういうご時世ならイヤでもどこかに目に入ってしまうもの。女性でもお年を召した方でも、買ったこと 借りたことはないと言う人でも、目にしたことぐらいはあるに違いない…と、ここで僕は勝手に決めつけさせていただく(笑)。
 で、ここからは「みんなアダルトビデオぐらい見たことがある」…という前提の下に話を進めさせていただくが、当然のことながらそれらは何らかの例外を除いて、ほとんどの場合が男が満足するために見るものとなっている。
 男の満足のために作られている訳だから、「そのビデオを見るであろう男」が自分の好みの女の子(顔やスタイルや髪型や、あるいは年格好に至るまで)を、 まるで自分の好きな流儀でセックスしているように見られる仕掛けになっている。そのビデオに出てくる女の子を、そのビデオに出てくるように…まぁ、イタし たいという、その願望を満たせるように作ってあるというのが大前提となるわけだ。
 もちろん「自分の嫁さんや彼女が他人にされているのを見て興奮」とか、世の中いろんな趣味の奴がいる。それらをいちいち変態とか異常とか言い出したらこ の世に正常な人間はいなくなるとは思うものの、まぁ平均的なところで考えるなら、まずは「自分」の好みの女の子のあられもない姿が見たいから、そして「自 分」も出来ればその女の子とイタしたいと思っているから、そういうビデオを見るはずだろう。だからアダルトビデオの作り手たちは、大多数の作品について大 体同じような手法を自然と用いている。
 それは、男優の顔をあまり写さないという手法だ。
 自分の好きな女が、他の男にやられている場面など見たいわけがない(そういう趣味の奴はいるだろうが、ビデオを見るであろう圧倒的多数ではない)。まし て、それが性的パワーやテクニックにおいてビデオを見ている男たちより格段に優れているであろうアダルトビデオ男優ならば、なおのことだろう。そんなわけ だから、男優の顔を余り写さないアングルをとる…ということは大いにあり得る。
 また、見たいのは好きな女の子の顔であり身体だから、それをたっぷり見せるアングルから撮影して、結果として自然と男があまり写らなくなるということもあり得る。
 しかしそんなことより…実はその女の子とイタしているのは自分であるという妄想にひたりたくて、 こうしたビデオを見るという需要がほとんどだろう。だとすると、自分がその女の子とイタしているような撮影アングル…がベターであるということになって、 自然と男優のすぐ後ろ、あるいは男優の真横で男優の顔の向きとほぼ同じアングルから撮影するということになる。つまり、それは結果的に男優の顔が写りにく いポジションというわけだ。
 そして、何より自分がその女の子とイタしている妄想に浸りたいなら、そこに実際にその女の子を抱いている男優の生々しい顔は邪魔だ。だからどうしたって、カメラは男優の顔を極力写さないアングルとなってしまう。
 例えば、カメラが組んずほぐれつの男女を第三者的な視点で撮影しているにも関わらず、男優が女優に対して何か挑発的なことを口走った時、女優が男優の方 ではなしになぜか「カメラ目線」でその言葉に返答する場面がしばしばある。このように女優が男優の問いかけに「カメラ目線」で返答する場面が出てくるの は、「ビデオを見ている人が女優を相手している」ような錯覚を与えた いという理由からだ。女優はコトをイタしている男優相手でなく、カメラ=「見ているあなた」に話しかけているのである。そして「あなた」は男優の肉体に成 り代わって、抜群の体力・持続力と卓抜したテクニックで女優の肉体を責め立てている気分になる。そうした一種の「憑依」状態を創り出すべく、このような奇妙な演出が行われているのだ。
 こうした仕組みは、いわゆる「ハメ撮り」ビデオと呼ばれるアダルトビデオでさらに徹底してくる。男優が女優とセックスしながら、その模様を自分でビデオ 撮影するのだ。その撮影アングルは、「見ているあなた」が実際に女優とセックスする機会がもしあったら、肉眼で目撃できるであろう光景に限りなく近くな る。
 つまりここで男優の顔を見せないようにするという工夫は、男優の存在感を消すためというより、男優と
見ているあなた」との同一感を創出するためにある。第三者的視点で撮影されているのに、あくまで「一人称」的映像と思わせるための手法なのである。
 さぁ、長々とアダルトビデオに関するくだらない講釈をたれてしまって申し訳ない(笑)。そもそもが、誰にとっても分かり切った話ではあった。しかし分かり切っているからこそ、あえてクドクド語らなければならなかったことでもある。ここからが本題だ。
 テレンス・マリックは今回、なぜか「主演」のベン・アフレックの顔を徹底的に隠す方向で撮影した。しかし、それはアフレックの顔がキライだからでも、彼 と分からせたくないからでもない。なぜならマリック作品はスターから大人気で、誰でも選び放題なはずなのにあえてアフレックを選んでいるからだ。そしてア フレックは有名なハリウッドスターで、我々はすでに映画を見る前に彼が出ていることを知っている。にも関わらず彼の顔を一貫して隠しているとしたら、何か 特別な理由があるはずだ。ここまで僕が長々と挙げてきたアダルトビデオの例を思い起こしてみれば、みなさんにはすでにお分かりだろう。
 この物語全体がアフレックのものであり、見ている僕らにもアフレックと同一化して見てもらいたいと作者が考えている…ということが。
 先にも述べたように、確かにオルガ・キュリレンコやレイチェル・マクアダムスのナレーションばかり入ってくるし、ハビエル・バルデムの神父のエピソード も挟まってきて話法は常に混乱している。しかしアフレックを徹底的に写さない手法から見ると、どうやら作者はこのアフレックこそが本作の主人公であり、か つ観客に感情移入してもらいたい人物と見なしているようだ。そしてもっと突っ込んだ意見を言わせていただくならば、おそらくは作者自身を託したようなキャラクターでもあると思う。
 もっとハッキリ言っちゃおうか? アフレックのキャラクターは、おそらくテレンス・マリック個人の経験や思いを反映したもの。この映画自体が一種の「私小説」的作品とは言えないだろうか。
 その理由は、大きく挙げると3つ。まず1つ目は、先に述べたような「観客=主演男優」となるAV的効果を狙っていること。2つ目は、これもこの文章の最 初の頃に述べたように「回想」のように感じられる広角レンズの映像で撮影されていること。「回想」ということは、「私」の見た目という主観が強調された映 像だということだ。そこに写っているものは「第三者」的な視点ではなく、極めてパーソナルな映像なのである。
 そして、忘れていけないことは理由の3つ目。ベン・アフレックが自ら「映画監督」を務める俳優であるということだ。
 僕は本作の主演にアフレックが起用された時、何でアフレックなんだろう?…と違和感を抱いた。マリック映画の主演者のイメージではないと思ったからだ。それはあくまで僕の主観かもしれないが、正直な感想でもあった。ところが、「彼は映画監督でもある」という要素をそこに加えてみると、突然それがしっくりと来るから不思議だ。
 例えば…もし僕が映画監督で自分のパーソナルな体験や思いを映画にするならば、主演俳優にも自分とどこか共通する要素のある人物を求めるだろう。例えば黒澤明初期の作品「素晴らしき日曜日」(1947)の主演俳優・沼崎勲は、当時の黒澤明に酷似した外見をしていたし、服装も似させられていた。加えて言えば、それは後年の黒澤が自身のメッセージを仮託して描いた「夢」(1990)における、寺尾聰の容貌とも酷似している。あるいはフランソワ・トリュフォーの自伝的作品群「アントワーヌ・ドワネル」シリーズの主演俳優ジャン=ピエール・レオが、トリュフォーと兄弟か親子と見られるほどに容貌が酷似していったことも、この手の例としては有名かもしれない。
 テレンス・マリックとベン・アフレックの容貌が似ているかどうか僕は知らないが、仮にマリックの容貌が映画の主役にするにはいささか難アリのものだった(笑)とするならば、せめて自分と何らかの接点や共通点を持った俳優を起用したいと願うのではないか。だとすると、この物語設定にピッタリの年齢と背格好で「監督経験」を持っていることから、ベン・アフレックが起用されたということは大いにあり得ると思う。マリックが「私映画」を制作するならば、その主役は当然「映画監督」でなければならないのである。
 ところが不自然なことに…マリックは前述のさまざまな事情からアフレックに自分を仮託した「私映画」として本作を撮っているはずなのに、そうは見られないような「不協和音」とでも言うべき要素を 映画に持ち込んでいる。先ほどから何度も繰り返して挙げてきたように、オルガ・キュリレンコやレイチェル・マクアダムスのナレーションやハビエル・バルデ ムの神父のエピソードを突っ込んで来るし、そもそもここでのアフレックの仕事は映画監督ではなく環境保護に関わる調査員だ。もしこの作品が「私映画」なら ば、なぜマリックはこんな矛盾する要素を持ち込んだのだろうか?
 ひとつには、「私」的な作品のスケールの小ささをマリックが良しとしなかったのではないか…ということが考えられる。日本の「私小説」と一緒にしてはどうかとは思うが、そもそも「私」的要素の強い作品は、どうしてもスケールの大きさに欠ける。同じアカデミー作品賞受賞作品でも、「アニー・ホール」(1977)と「タイタニック」(1997)を比べればそのスケール感の違いは一目瞭然だろう。むろんどっちが良くてどっちが悪いというわけではないが、テレンス・マリックはそのフィルモグラフィーから見て、スケールの大きい作風を好むのではないか。
 もうひとつの理由としては…前述の理由と少々ダブるのだが、この個人的な題材をどうにかして「人類普遍のテーマ」として見せたいという、作家的な欲求が勝った結果かもしれない。言ってしまえば…恋している間は夢見心地だが、いざ生活の一環となってしまったら夢も覚める… という身もフタもないお話。でも、当事者(テレンス・マリック自身)としては自分が実体験して痛感した大真面目に深刻なテーマなわけだから、出来ればこの マリック個人がズシンと味わった重さをそのまま真空パックして、その重さに見合ったスケール感ある作品にしたい。「オレはキツかった」という実感の割に は、「私映画」というスタイルは作品的に軽くなりすぎる。そうじゃなくて、「人間」とか「人生」といった巨大テーマに据えて描きたい。例えばそこにハビエル・バルデムの「神」の問題を突っ込んだり、アフレックが環境保護の調査員だったりする理由は、そこにあるのだろう。
 人生や人間をシリアスに受け止めて考えるなら、西欧の人間としては「神」を素通りできない。さらに「フランスではうまくいったものがアメリカに来たらダメになっちゃった」ってことは、人間の心の問題は「人間の周囲にある空気や場所、人間関係や社会的ポジション、気候風土も合わせた大きな意味での“環境”」に深く影響されるのではないかという考察にもたどり着くのかもしれない。まぁ、これも平たく言っちゃったら「旅先マジック」(笑)と一言で片づけられるっちゃあそうなんだが、マリック御大としてはこれも大真面目に語りたいところなんだろう。その「志」だけは、僕にも何となく分かるのだ。
 ところがそれらの要素が揃いも揃って、こう言っちゃ何だが薄っぺらくて通り一遍の描き方に とどまっている。そのあたりも、「神」や「環境」という要素が作品的には「後付け」で付加されたものであることを証明しているのではないか。どう見ても腹 の底から実感して描いているものではなく、頭で考えついてこしらえたモノでしかないからだ。キツイ言い方をすれば作品の「格」を上げたいがための追加パー ツというか、好意的に見ればマリックには真剣にいろいろ考察したい問題だったとも言えるだろう。特にアフレックの調査員がほとんど何をやっているのか分か らない仕事ぶりなのは、前作「ツリー・オブ・ライフ」でのショーン・ペンの建築家の仕事に全くリアリティがなかったの に似ている。ハビエル・バルデムの神父だって、いいトシこいて「神はどうして応えてくれないんだ?」なんて、中学生の童貞坊やじゃあるまいしあまりに陳腐 な悩みだ。そんなことを言っている奴が、この年齢で神父やってるとは思えねえよ(笑)。作品の「格」を上げるために要素として盛り込んではみたものの、そ の実態がまったく分かっていないし、本当に描きたい要素でもないから投げやりな描写に終わってしまっているのである。
 そして3つ目としては…これまた前述の2つの理由とダブってしまうのだが、やっぱりマリックとしてはどうしてもこの個人的体験を「人ごと」ではなく「観客自身にも切実に思えること」として受け止めて欲しかったのではないだろうか。マリックと思われる人物がマリックが経験したらしい境遇に陥る…という話では、見ている側にとってはどうやっても「対岸の火事」。「どうやらマリック氏はツラかったようだ」でしかない。そうではなくて、マリックはあくまで「自分のこと」として受け止めて欲しかったのではないか。
 なぜマリックがそう思ったのか…については、自分の身に置き換えても何となく分かる。ご本人の心のキズが深かったからこそ、その深さを彼が感じたその「深さのまま」観客に追体験して欲しいと願う。作品としてのカサの大きさと大げささは、彼の心のキズの深さに比例しているのである。
 そういう意味では、例に挙げては失礼かもしれないが…そして、どちらにとって失礼なのかも分からないが(笑)、韓国のホ・ジノ監督が自らの失恋トラウマをウジウジと描いた春の日は過ぎゆく(2001)にも似ているかもしれない。ただし、ホ・ジノの場合は自分の「こうありたかった」「こう見られたい」という願望が露骨に出過ぎて醜悪だったし、そういう願望を作品的に昇華させる「芸」に欠けていた。そういう意味では、これだけ洗練して気品のある作品に仕立てたテレンス・マリックはさすがである。
 確かにさすがではあるが…このお話が「フランスではうまくいったものがアメリカに来たらダメになっちゃった」というよくあるパターンであること以上に、そもそも「色恋沙汰というものは大抵がありふれたもの」で しかない。他人の恋愛ってのは、そんなものを聞かされる他人の我々としては適当に「はいはい」と相づちを打つしかないお話なのである。だから結論だって、 最初からとっくに見えている。アフレックとキュリレンコの仲がうまくいかないことなんて、「そりゃそうだろうね」と言うしかない事例なのである。
 しかし当事者にとっては、「恋愛はどれも重大で特別なこと」なのだ。その「いかに重大で特別か」という所以を、どうにかして観客に分かってもらいたい。テレンス・マリックは本気でそう思っていたのではないか。なぜなら、「オレは本当にツラかった」から。
 言っていることは極めて凡庸。しかし、そんな彼なりの本気が確実に伝わってくるだけでも、この作品には見る価値があると思うのである。

 

 

 

 

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