「天使の分け前」

  The Angels' Share

 (2012/05/06)



見る 前の予想

 イギリスのケン・ローチの作品は、特に近年、ほとんど毎 年のように日本に新作がやって来るようになった。しかしちょうどその頃に僕の仕事がどんどん忙しくなって、巡り合わせの悪さから彼の作品を見逃すことが多 くなってしまったのは残念至極。
 ケン・ローチ作品と言えばいわゆる「社会派」作品にカテゴライズさ れるんだろうし、実際にイギリスの社会的「弱者」を主人公にした作品が多いのだが、何 よりその作品は「面白い」から僕は以前から大好きだった。一番最初に「リフ・ラフ」(1991) を見た時、そして今はなきシネヴィヴァン六本木「ケス」 (1969)などの初期作品を見た時の衝撃は、今でも忘れることができない。最近でも「やさしくキスをして」(2004)なん かは実に素晴らしかった。
 そんなケン・ローチの新作がやって来る。しかも今回嬉しいのは、どうやらハッピー な作品らしいこと。
 こんなことを言ったら硬骨漢のローチに怒られそうだが、正直言って最近の僕は登場人物が痛めつけられるような映画は見ていてツライ。自分自身も順風満帆 の人生を送っているわけではないから、ツライ映画は見ていてキツイのだ。それに明日へのチケット(2005) の中の短編とかエリックを探して (2009)などのハッピー・エンディングのローチ作品は、後味も最高だし見ていて楽しい。何より「痛快」だ。もちろんローチのハッピー・エンディング映 画は単にハリウッド作品みたいにハッピーな訳じゃなく、それなりにピリッと辛口効かせてスジを通して見せてくれる。
 世間での評判を見ると、どうやら今回の作品もかなり「痛快」な出来栄えのようだ。これは見逃したくない。作品が公開されている銀座テアトルシネマも、ちょうど閉館間際で一回足を運んでおきたかった。
 そんなわけで、雨がしとしとと降る中を劇場へと駆け込んだわけだ。

あら すじ

 真夜中の駅のプラットホーム。スキンヘッドにど近眼メガネの若者アルバート(ガリー・メイトランド)が、酔っぱらって線路に落ちそうなほどフ ラフラに歩いている。
 駅員のアナウンスがアルバートに激しく注意するが、彼はまるで聞いちゃいない。案の定、ホームから落っこちて、そこに列車が入ってくる。何とか間一髪で ホームによじ登れたからいいようなものの、このムチャな行為は大目に見られる訳ではない。
 しかもアルバートのこんな行為は、これが初めてではなかったのだ。裁判所はそんなアルバートに、社会奉仕活動を行って罪を償うように命じる。
 この日、同じように裁判所で社会奉仕を言い渡された若者は、ライノ(ウィリアム・ルアン)、モー(ジャスミン・リギンズ)…そしてケンカによって捕まっ たロビー(ポール・ブラニガン)がいた。中でもロビーはかなりの「札付き」らしく、刑務所行きから逃れて社会奉仕を言い渡されたとたん、傍聴席にいたチン ピラどもが激高して席を立つ。
 そんなロビーが刑務所行きを免れたのは、彼の恋人レオニー(シヴォーン・ライリー)のおかげ。彼女のお腹には二人の愛の結晶が育っており、そのためにも 刑務所送りではなく更正を…との温情判決となったのだ。
 だからレオニーは、もうこんな事はコリゴリとばかりにロビーに念押し。ロビーも生まれてくる子のために、ここで何とか更正をと決意も新た。
 しかし、乱闘の相手は親の代からの因縁の宿敵。裁判所を出てきたロビーに「覚えていろよ」とばかりにガン飛ばしてきた。これでは先々が思いやられるばか りだ。
 そんな「札付き」連中が社会奉仕活動を行う初日、集合場所で一同の点呼をとるのは現場指導者のハリー(ジョン・ヘンショー)。初日早々、遅刻してきたア ルバートも何とかオーケーということで、ハリー運転のマイクロバスは一同を乗せて作業現場へ。
 今日の作業はある建物の室内塗装。慣れぬ手つきで壁の塗料カスをはがしていた一同だが、そんな時にハリーの携帯に連絡が入る。何とロビーの赤ん坊が生ま れたと言うのだ。慌ててハリーのクルマで、ロビーは病院に駆けつける。
 しかし途中で花を手に入れて颯爽と病室にやって来たところが、待ちかまえていたレオニーの親族の若者たちに取り押さえられる。ハリーは押さえつけられ、 ロビーは階段の踊り場へと連れ出されてタコ殴り。レオニーの親族たちは、彼女の夫としてロビーを歓迎している訳ではない。血だらけになって怒りに身を震わ せるロビーだったが、ここで手を出したらオシマイ。何とかロビーを押さえつけて、必死になだめるしかないハリーだった。
 仕方なく病院から引き上げ、ひとまずハリーの家へ。殴られた傷にクスリを塗り、レオニーの携帯に「おめでとう」メールを送る。そしてハリーは、意気消沈 するロビーにとっておきの酒を振る舞った。「ここぞ」という時にハリーがとっておいた、年代もののスコッチ・ウイスキー。それはウイスキー・マニアだった ハリーの、ロビーへのせめてもの心づくしだ。
 さて、赤ん坊が生まれてしばらくしたある日、ロビーはレオニーを連れて気の進まない「お勤め」に引っ張り出される。それは、自分がかつて傷つけた被害者 とその家族との面談だ。
 たまたまガールフレンドを連れてクルマでやって来た被害者を、ちょうどラリッていたロビーが気まぐれでブチのめした。ガールフレンドの見ている前で半殺 しの目にあった被害者は片目が見えなくなり、心身ともに傷を負って外出もままならなくなった。もちろんガールフレンドとも別れた。そんなすべてを失ってし まった被害者と、恋人と生まれたばかりの子供を連れたロビー。さすがにこれには申し訳ない気持ちで一杯にならざるを得ない。この被害者一家と別れた後、レ オニーと子供に「二度と人を傷つけない」と誓うロビーだった。
 そんなロビーは一緒に社会奉仕活動を行うワル仲間とともに、ハリーに誘われて「遠足」に出かけることになる。それはハリーの好きなウイスキーの醸造所を 見学する旅だ。
 そこでウイスキーの製造工程を事細かに見せてもらい、ロビーはウイスキーに興味津々。先日のハリーの家でのウイスキーとの出会いもあって、見学の最後の 「きき酒」にも真剣だ。
 そんなこんなで平和に生きていこうと決意していたロビーだが、思った通りにいけば苦労はいらない。周囲はそんな彼を放っておいてはくれそうもなかっ た…。

見た 後での感想

 いつもながらケン・ローチ監督は、社会の底辺で貧しく恵まれない環境で 生きている人々にシンパシーを抱いて作品作りをしている。彼らは時とし て好ましからぬ行動に出てしまうこともあるが、それでもローチは彼らにシンパシーを抱き続ける。彼らがそんな行動に出てしまうのは、そうせざるを得ない事 情があるからだ…というのがその理由である。
 それは確かにそうだろう。今までのケン・ローチの作品ではそのあたりが説得力を持って描かれていたから、僕は大いにナットクしていた。今回も当然そのへ んはぬかりなくやってくれるはず…と思って、僕は安心して見ていたわけだ。
 ところが今回の作品では、僕としては冒頭からちょっとした違和感が…。
 メガネのスキンヘッド野郎アルバートが酔っぱらってホームでヨロヨロして、危うく電車にひき殺されそうになる。まぁ、正直言ってハタ迷惑な野郎なのだ。 本作の「お笑い担当」という設定らしいのだが、あまりに愚かすぎて笑えない。ハタ迷惑が少々度を超している。これでこいつがひき殺されれば、こいつ自身は 自業自得だとしても死体を片づけなければならない駅員は気の毒。ダイヤは乱れて被害は甚大だろう。本当にこのバカのおかげでいい迷惑なのである。
 まぁ、もちろんそんな堅いことを言うなよというのがこの映画を見る うえでのお約束なんだろうし、それをアレコレ言い出すのは心が狭いと 言われそうだ。彼のキャラクターは「道化者」で、こ こは「笑ってください」というのがお約束。大らかに見逃すのが大人の 鑑賞法というものだろう。だから、僕もそうしてスルーした。それで最 後まで済んでいれば、おそ らく映画を見終わる頃にはそんなことも忘れていたはずだ。
 ところがその後、僕が冒頭から感じた「違和感」は実はホンモノだっ た…ということを、イヤというほど気づかされることになる。
 いや、酔っぱらってホームから落ちるなんて大したことじゃない。それよりもっと見逃しがたい点が、映画の後半に出てくるのだ。

圧倒的支持を得ているケン・ローチ作品だが

 さて、まずはどこから言えばいいのだろう。
 なにしろ天下の巨匠ケン・ローチだ。彼の映画は作品的出来栄えもさることながら、そこに描かれている題材の志の高さ、モラル的な高潔さに高い評価が与え られてもいる。だからそんなケン・ローチ作品に、物言いするなんざおこがましい。僕なんて映画もよく分かっていないし映画作りをしたこともないし、しかも 社会に対する深い洞察も持っていないしヌクヌク生きてきて大して厳しい人生経験もしていない、おまけに社会的弱者に対しての配慮や施しや支援などをロクに やってきたこともない輩が、文句を言うなんて百年早い。
 だからありがたく黙って映画を見させてもらえ…というなら、僕は何も言う資格はない。おっしゃる通り、僕は何の信念も経験も深い洞察力も人間的価値も権 威や資格もな い男だ。映画祭で多数の賞をとり、批評家から絶賛されているローチに、文句を言うなんてチャンチャラおかしいと言われても仕方がない。
 しかし僕も一応チケットをお金を出して買って、貴重な自分の時間を2時間も使ってこの映画を見ているのだ。気に入る気に入らないぐらいは言わせてもらう資格があるだろう。言ってもバチは 当たらないはずだ。
 それにしても、さすが天下のケン・ローチ。ネット上をちょっと見渡してみたが、ほぼ全面的にどれもこれも肯定評ばかり。絶賛の嵐である。「痛快」なんだ そうである。そこに意義を唱える奴は頭が悪いとでも言われそうな、圧倒的な好評ぶりだ。
 これで一言いわせてもらうのは、かなり勇気が要る。ぶっちゃけ、オマエは映画を見る目がないんだよと言われかねない。おまけに相手は社会正義みたいなモノを錦の御旗につけている。タチの悪いのは、むしろこちらの 方だ。ここは何も言わないのが大人の対応というものだろう。
 しかし…もしここで何も言わなければ、僕が今までコケにした映画たちに申し訳が立たない。マイケル・ベイなら叩くけど、相手が「ケン・ローチ様」だから 引き下がったというのは卑怯ではないか。
 ケン・ローチが描いているのは社会的弱者だが、ケン・ローチ自身は映画界ではもは や弱者ではあり得ない。だから、やはりキッチリと言うべきことは言わな くちゃおかしい。それが適切で正しい意見かどうかは僕には分からないが、僕がこう感じたというのは本当のことなのだから。
 ここは僕の個人サイトでお金のためにやっている訳ではない。だから、ウソをついたところで仕方がない。僕が感じた本当の気持ちぐらい言わせてもらいたい のだ。

 

 

 


 

 

 

 

こ こからは映画を見てから!

 

 

 

 

 

 

 

 


天使は「やらかし者」にしか分け前 くれないの?
 僕がこの作品に抱いた「違和感」は大きく挙げるとたったひとつ。それは主人公ロビーが人生をやり直すためにとった手段が、「盗み」によるものだったことだ。
 それを言ったら、「盗み」が肯定されてハッピーエンドになる作品なんて世の中ざらにある…と言う方がいるかもしれない。「おしゃれ泥棒」(1966)と かオー シャンズ11(2001)とかもそうだし、他にもゴマンとあるだろう。そこでは主人公たちは何ら良心の呵責を覚えず、犯罪の成功 も肯定的に描か れている。だから、本作だって全然問題ないだろう…って言われるかもしれない。
 しかし、それらの作品はそもそもコメディだし、盗みがゲーム感覚で描かれている。そもそも盗まれる相手も「盗まれて当然」という設定がキッチリされてい るか、盗まれても誰も傷つかない設定になっている。それより何より、そもそも主人公が悪事を働かなくてはいけないような設定があるか、少なくとも「真人 間」になることを固く誓わなくちゃならない人物ではないはずだ。それらの作品群は、決してそんな映画ではないのである。
 しかしケン・ローチ作品は、そんな「ゲーム感覚」で盗みを描く映画ではあり得ない。いくらハッピーエンドの作品であっても、その基本はあくまでリアリズ ムなのだ。「オーシャンズ」のジョージ・クルーニーやブラピをリアルな人間像だと思う奴はいないだろうが、本作をはじめとするケン・ローチ作品の主人公 は、社会に現実に生きている人々を反映しているのである。
 それが証拠に、本作では観客が主人公を肯定できるギリギリの線まで、主人公の「悪事」を暴き立てている。映画の前半部分に、主人公がクスリをやって暴れた時に半殺しの目に遭わせた被害者が出てくるのだ。
 前述のストーリー紹介でも書いたように、被害者は片目が見えなくなり、心身ともに傷を負って外出もままならなくなった。だから仕事にも就けなくなった し、ガールフレンドとも別れた。それに対して、恋人と生まれたばかりの子供を連れて、刑務所にも入らない五体満足の主人公…という構図は、僕らが主人公に 共感できるかできないかのギリギリのところだろう。実は映画を見ている時は、もっと主人公を「いい人」に描くこともできたのにここまでやるなんてさすがリ アリズムのケン・ローチだ…と僕は感心すらしていたのだ。
 しかし、この後がいけない。
 今までの因縁で本人がつけ狙われているだけでなく、おそらくこのままでは妻や子まで危害が加えられかねないのに、立ち直るための仕事もカネもない。出直 すコネもツテもない。しかも、札付きのワルを拾ってくれる物好きもいない。そこで主人公は思い切った手段に出るのだが、それが「盗み」…犯罪であるっての はいかがなものだろうか。
 もちろん、そうなるにはそうなる理由もある。彼には学歴もコネも技術も財産もない。こうしなけりゃ浮かび上がれない。他にどうすりゃいいのさ?…と、こ の作品を気に入った方には怒られてしまうかもしれない。そんなケチ臭いことでガタガタ言うなんて、心が狭いと非難されてしまうかもしれない。杓子定規で頭 が固いと言われるかもしれない。弱者に対する思いやりがないとも、社会が分かっていない甘ちゃんだとも言われそうだ(実際、それに近いことは今までいろん な連中から言われてきた。言った連中がそんなに社会を知り尽くした奴らだったかどうかは知らないが)。大目に見てやんなよ…というのが、この映画のケン・ ローチ側の言い分なんだろう。なるほど、ご説ごもっとも。
 しかし、この男は「更生」を誓った人間である。さんざ「若気の至 り」で一人の男をブチのめして、それに対した反省した人間である。そして我が子に対し て、「もう決してしない」と決意した人物である。そんな人物が立ち直るための手だて として「犯罪」を行うのはどうなんだろう。どこかおかしくないか。
 子供には「もう誰も傷つけない」と誓っただけで、「盗みをしない」とは言ってない…ってことなんだろうか。そんないいかげんなもんなのかい、この男の決 意や誓いって。それともアレコレと悪事を山ほど働いた奴なら、今さら盗みぐらいなら屁みたいなもんで、大したことないし不問ってことなのか ね。オレあたりが盗み を働いたら速攻捕まって罪人扱いなんだけど。その時に例えどんな理由があろうとも、決して誰もオレのために「大目に見ろ」なんて言ってくれないと思うよ。
 ケン・ローチはさすがに手練れの人だけあって、主人公が盗みに至るまでのやむにやまれぬ事情だけでなく、盗んでも「罪」じゃない、大したことじゃない…って観客が感じられるような仕掛 けをあちこちにこしらえている。
 まずはタイトルの「天使の分け前」がそれだ。酒ってそもそも若干量 なら元々蒸発してしまうものなのだ、ここで少しぐらい減ってもどうってことないだろ う。そして酒を競りで落とした奴らなんて、どうせカネがうなってる連中でしかない。また、自分が何かを「奪われた」なんて気づきもしていない。おまけに主 人公の鋭敏な感覚と比べて、モノの価値なんて本当は分かっていないような愚鈍極まりない奴だ。そのお酒をチョイと拝借したってどこに問題があるのだ。それ に、高名なウイスキー評論家だって、不正をしてでもこの酒を手に入れようとしていたではないか。ウイスキーを知り尽くしていて、地位も財産も築いた人物で すらそうなのだから、カネとコネとチャンスがすぐにも必要な主人公がそれを利用して何が悪いのだ。おまけに作戦成功した後でも間抜けな仲間のおかげで、盗 んだ酒の半分を失ってしまう残念な結果になった。つまり「すべて」を得られたわけじゃないんから、まぁこれくらいいいじゃないかってこともあるんだろう。 とにかく、ありとあらゆる手段を講じて、この主人公の犯罪が悪くない、どうってこと ない、許されるべき、この程度ならいいだろう、許さないなんて鬼だ…ってな調子で、繰り返し 繰り返し観客の頭に刷り込んでいく
 しかし何がどうあっても、「更正」を誓った人間が自らの立ち直りに際して「犯罪」を犯しちゃうってのは、理屈に合わない気がする。しかも、ただの「更 正」じゃない。子供も出来てもう独り身ではない、これからはちゃんとしなくちゃならん、だから立ち直らねば…という前提があっての「これ」。「真人間にな る」と決意したうえでの「これ」である。こいつこれからだって何か問題が起きたら、すぐに「こっち」の方向にいっちゃうんじゃないのか。もう懲りた、今ま ではいけなかった、これからは悪さをしない、だから立ち直るために最後に…って結局 また犯罪をやっちまうってどうなの? それとも、それを許してあげない のは人として優しさがないって言われちゃうんだろうか。あるいは、こんなウイスキーが盗まれたって誰も困らないっておっしゃるだろうか。
 いや、別に僕は「レ・ミゼラブル」のジャン・ヴァルジャンだって見逃すな…っ ていうような、冷血非情なことを言いたいんじゃない。だけどこいつは、悪の道か ら立ち直ろうとしている男なんだよ。それなのに「立ち直るために最後に一稼ぎ」っ て、こいつの真面目な決意とやらが疑われはしないか?
 お話としてムチャであったとしても、ケン・ローチは映画作家として何とかして他の 方法で主人公を救い出すことは出来なかったのか。これじゃ、弱者はいざ となったら何やってもいいんだってことになる。何か暴動でも起こった時に、貧乏人が商店をブッ壊してどんどん略奪しちゃうことを容認するようなものだ。そ れってアリなんだろうか?
 もちろん、たかが「金持ち」の「道楽」みたいなウイスキーで、別にこれがなくちゃ生きていけないわけでもないんだから、「生きるか死ぬか」がかかった人 間ならそんなもん盗んだっていいって発想なんだろう。そういう考え方はあまり好きじゃないが、そういう言い方も成立しないわけではない。
 しかし主人公はそんなウイスキーの味や香りの感覚を磨いて、今後それで身を立てて いこうと考えている設定だ。 その主人公がそんなもんは「金持ち」の「道 楽」…っていうのなら、それは大きな矛盾ではないのか。というか、これからその仕事に就くにあたっての「心構え」が疑われちゃうのではないのか。「その程 度の仕事」と思って、割り切って生業にするつもりなんだろうか。主人公はそんな「どうでもいい」はずのウイスキーの味と香りに、ちゃんとした「価値」を見 いだしている はずではないのか。
 それとも、そこに価値を見いだしているからこそ、カネがあるだけでモノの価値も分からない落札者の手から、ちゃんと評価ができる人物の手にこっそり渡し てやる…という大義名分で盗んだというのか。だとすると、今度はその盗み方が気になってくる。
 主人公は、そんなウイスキーの価値が分かる者の端くれだと自認している。だからこそ盗んだんだという言い分も成り立たないでもない。しかし、その盗み方 のあまりに稚拙なこと。何度も何度も栓を開けるのもよくないだろうし、そこにビニールチューブを突っ込んで、口で息を吸い込んで酒を吸い出 すのもマズイだ ろう。おまけに酒を注ぎ込んだのは、ジュースか何かのビンだ。こいつらチューブもビンもちゃんと洗っているのか。洗ったところで、こいつらが洗ったくらい で味や香りは保てるのか。
 いいウイスキーは、おそらく価値の分かる人からすればある種の芸術品に 等しいだろう。年代物だったら、あるいは考古学的価値みたいな貴重さ があるのかも しれない。それを、仮にもウイスキーの価値が分かる…分かろうとしている主人公が、こんな雑に扱っちゃっていいのだろうか。それで、価値の分からない奴か ら分かる奴に渡してやるって論理が通用するのかどうか。そのあたりの雑な扱いそのも のが、僕には気になって仕方なかった。
 いや、だってこれファンタジーだから…って言うなら、前半部分の過剰なまでなリアリズムはどう説明するのだ。そこは大目に見ろよ…は通じない。社会派的 なテーマ云々の前に、今までケン・ローチってそのあたりの心配りはちゃんとしていた気 がするんだが、これってどうなんだろう。
 実はかつてケン・ローチは「レイニング・ストーンズ」(1993) という作品で、やはり追いつめられた主人公が決定的な罪を犯しながら、結局それを不問 にしてハッピーエンドにしてしまうという荒技をやらかしていた。しかも、その時に主人公が犯した罪の重さときたら、今回の「酒をチョロまかす」なんてこと より何十倍も深刻なモノだった。それこそ、シャレにならない重罪を犯 していたのである。
 しかし、その時には主人公が罪を犯す当の相手が、主人公を苦しめている元凶で根っ からの悪人だった。主人公もどうしようもない状況と巡り合わせでその「罪」を犯すことになってしまった。映画はそのあたりのことも、キッチ リと描いていた。だから、「罪」もギリギリで肯定できたという記憶がある。
 しかし、今回の主人公はこの犯罪を犯す相手の醸造元にひどい目に遭わされているわけではないし、やられる側の落札した奴も「金持ち」で「酒の価値が分か らない」ということ以外には責められる点はない。報復されたり天誅を下されたりしな きゃならない人々ではない。また、主人公はこの酒の価値は分かりすぎる ほど分かっていて、これからそれで食べていこうとさえ思っている人間だ。こんな酒どうでもいいとは思っていない。やっていることの重大さは、十分承知して いなきゃならないはずだ。ならば、これはちょっと違うんじゃないのか。
 それでも、主人公は絶体絶命でこのままでは浮かび上がれないのだから、盗みぐらい大目に見ろ…というのなら、彼がこれまでに犯した罪の重さを考えてほし い。親の因果で泥沼にはまってそこから出られない、だから彼自身に罪はないと言うのなら、単なるこいつの「若気の至り」で片目をつぶされ恋人を失い人生台 無しにされた被害者はどうなる。主人公にとっては「若気の至り」で済むかもしれないが、やられた方は何の落ち度もない。なのに、被害者はボコボコに痛めつ けられ取り返しのつかない結果となってしまった。それでいて…主人公は嫁がいて子供がいて、おまけに「天使の分け前」とやらでカネも掴んで仕事も手に入れ た。片や被害者はすべてを失ったままで何ら救済されていない。何で被害者は何一つ悪 いことをしていないのにひどい目に遭わされたあげく、天使はこれっぽっちも「分け前」を くれないの? これじゃ、どう考えても間尺に合わないではないか。これを見てどうやったら「痛快」になれるというのか?
 被害者がこうなった以上オマエも不幸になれとは言わないまでも、せめて這い上がるならそれなりの覚悟が必要ではないか。それなりに努力すべきではないの か。それなりの代償は支払うべきではないのか。少なくとも、すべきことは「犯罪」で はないだろう。それをホイホイ調子よく、再び犯罪で稼いだカネで出直しなんて、ムシが良すぎはしないか。それなり にツライ思いもしてると描かれてはいるが、結果的にはうまく立ち回ってトクしてるようにしか見えない。
 僕はどちらかというと、今までの人生を「やる側」ではなく「やられる側」として生 きてきた人間だ。だからこの場合でも、主人公より被害者側に肩入れして しまう。そう考えると、とてもじゃないが大目に見てやれとは思えないのだ。というか、こいつ本当に反省しているのか?…と疑問がわいてくる。おまけに主人 公の嫁ま でこいつがクルマ買ってきたらホイホイ喜んじゃって、どこからカネを調達してきたか考えもしない。それともこの嫁も、パクられさえしなければいいって思っ てるのか? 嫁からしてこれだからこいつまったく反省なんてしてるはずない。これじゃあこの夫婦、またちょっと生活に困ったら「盗み」ってことになりはし ないか?
 本作は世間では「痛快」な作品と言われているようだが、それってど うなんだろう。本当にこれが「痛快」なのか。「痛快」ってこういうのを言うのか。その 「痛快」って僕にとっては、不愉快で醜悪で愚劣極まりないテレビ番組「痛快!ビッグ ダディ」の「痛快」ぐらいの意味にしか思えない。
 こんな安易な甘やかしを「社会的弱者」とやらにしてしまう、ケン・ローチの考え方に同意しかねるのだ。これは僕の人生観の問題だ。
 正直言って、今回はそんな本作に圧倒的な支持が寄せられているのを 見て、自分の映画の見方が正しいかどうかグラついた。それ以上に、僕の物事に対する善 悪の判断が正しいかどうか怪しくなってしまった。
世間の大半の人々がコレでいいと言うのだ。僕 が単純に心が狭いのかもしれない。頭が固いのかもしれない。映画が分かっていないのかもしれない。オマ エがヌルい人生を歩んで来たからだよと言われれば、確かにその通りだ。オマエが分かってないんだよと言われれば、まったく返す言葉がない。
 それに…オレの人生も今までうまくいってこなかったことを考えると、こうまで激しくみなさんの意見とかけ離れた感想を抱いてしまうのなら、僕の頭の方に 問題があるんじゃないかとも疑ってみたほうがいいのかもしれない。
それは僕も今までの人生で痛感している。
 それでも、これだけは僕には容認できない。例えどんな理由があろうとも、「や らかした奴」の方を優先して「分け前」を与えるような天使ならば、むしろそんなものいない方がいいと思えるのである。

 

 

 

 

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