「クラウドアトラス」

  Cloud Atlas

 (2012/04/15)



見る 前の予想

 この映画について一番最初に知ったのは、何年か前の海外ニュースだっただろうか。
 あのマトリックス(1999)のウォシャウスキー兄弟(兄は性転換したので正確には姉弟)とラン・ローラ・ラン(1998)のトム・ティクバが手を組んで作る大作。6つの時代の物語が錯綜する構成…と聞いて、こりゃ面白そうだと思ったことを覚えている。
 その後もポツリポツリと続報が入ってきたが、その内容はさらに驚くべきものになっていた。何とトム・ハンクス、ハル・ベリー、ヒュー・グラントなどなど の豪華絢爛のキャストが名を連ねる。いやぁ、スゴイ。確かにスゴイ。こんな名前を聞いたら映画ファンなら素直に喜ぶべきなんだろうが、しかし、ちょいと 引っかからないでもなかったのだった。
 ウォシャウスキー兄弟やトム・ティクバとトム・ハンクス…正直言ってどう考えても食い合わせが悪そうな顔合わせ。おまけにトム・ハンクスとハル・ベリー とヒュー・グラントである。まぁ、確かに豪華は豪華なんだが、ビッグ・ネームを揃えりゃいいってもんじゃない。横に並べた時のバランスの悪さはいかがなも のだろうか。ただただ有名スターをそろえてみました的な、何ともセンスのない、趣味の悪そうな選択には思えないだろうか。
 おまけにさらなる続報で、そこにスーザン・サランドンやらヒューゴ・ウィービング、ジム・ブロードベントが参加したという情報がはいる。それどころか、 韓国のペ・ドゥナまでが参加したというではないか。ペ・ドゥナは好きな女優だし、彼女の映画も好きだ。しかしウォシャウスキーにティクバにトム・ハンクス にペ・ドゥナ? どうなんだろうこれって。すきやきもグラタンもハンバーグも天津丼もビビンバも好きだとして、並べて食ったらうまいと思うか(笑)?
 それに、ペ・ドゥナのハリウッド・デビューはめでたいとして、彼女のような東洋のローカル・スターのハリウッド進出としては、この作品はあまりに晴れが ましすぎる。あんなに素晴らしかった猟奇的な彼女(2001)のチョン・ジヒョンも、「世界デビュー」の触れ込みで出たラスト・ブラッド (2008)は結構インチキ臭い香港・フランス合作作品だった。それがここんとこパッとしなかったペ・ドゥナに、いきなりこんなデカいステージ。これって ホントに実現するんだろうか。
 そうそう、実現するんだろうかってところが正直なところだったのだ。
 大体が、6つの時代の物語が錯綜するって構成からして、ハリウッド映画として成立しがたいものがある。単純・明快をモットーとするハリウッドで、大金投 じて作る映画としてこの構成は難しいんじゃないか。おまけにこれだけのスター並べて、こいつらがいつ降りるだの何だのとゴネるか分からない。この企画、い つ流れたっておかしくないではないか。
 おまけにこの時点で分かったことだが、何とこの作品、ウォシャウスキー姉弟とトム・ティクバが、どっちかがプロデュースでどっちかが監督…ではなく、全 員監督としてがぶり四つに組むというではないか。最近でこそタヴィアーニにコーエン、このウォシャウスキーと兄弟監督が続出しているので、そういう監督の あり方も「あり」かと思えるようになってきたが、いくら何でもそこにもう一人入っての3人共同監督…おまけにそれがまったくクセのない職人監督ならまだし も、クセ大ありのトム・ティクバってのはどうなんだろう? こんな3人体制で、果たしてちゃんと映画って作れるのか? そもそもトム・ティクバとハリウッ ドって大丈夫なのか?
 考えれば考えるほど、不安材料ばかり見えてくる。いい映画が出来るのかどうかという、映画の質的なレベルではない。完成するのか実現するのかという「それ以前」のレベルの不安なのである。
 それでも何と映画は完成してしまったから、僕は驚いた。おまけにトム・ティクバもウォシャウスキーもトム・ハンクスもハル・ベリーも、ペ・ドゥナでさえ降りていないし降ろされていない。ほとんど奇跡のような状態で完成して、こうして海を越えて日本までやって来た。
 で、そんなわけで僕は「完成した」ことだけで感無量だったので、正直言って出来栄えについては期待していなかった。おそらく3人監督体制なんてムチャだ ろうし、この監督・この題材に「アメリカの国民的スター」トム・ハンクスってムチャだろうし、トム・ハンクスとハル・ベリー、ヒュー・グラント、いわんや ペ・ドゥナとの良好なコンビネーションなんて望むべくもないだろう。おまけに6つのストーリーが交錯するなんて、複雑な構成の作品だ。それを事もあろう に、「単細胞」「大味」がモットーのハリウッドで製作しようというのだ。出来ただけでも良しとしなくちゃな。でなきゃバチが当たる。
 ただ、僕はいくつものエピソードが平行したり錯綜したりして進行する映画が無条件に大好き。だからこの映画も、出来栄え以前の部分で楽しみにしていた。あとは「豪華キャスト」を適当に楽しめばいいさ。
 そんなわけで僕は、この作品を何と初日に見に行ったわけだ。実はここだけの話、この映画ってすぐにコケそうだと心配していたこともあって、初日に見に行ったわけだが…(笑)。

あら すじ

 遙かな未来、時は西暦2346年。
 顔に深い傷跡を刻まれた片目の老人ザックリー(トム・ハンクス)が、たき火の明かりを前に静かに語り出す。頭上には満天の星空。悠久の時を超えたさまざ まな人間たちの物語が、風によって運ばれて聞こえてくる。ザックリーはそうつぶやいてから、長い長い物語を語り始めた…。
 1849年、南太平洋のチャタム諸島。
 アメリカからやって来た若き法律家アダム・ユーイング(ジム・スタージェス)は、初老の浜辺を掘っているドクター・ヘンリー・グース(トム・ハンクス) と出会う。彼が掘っているのは、かつての原住民の残飯捨て場。彼らには食人の習慣があったらしく、この場所から数多くの人間の歯が掘り出される。ドク ター・グースはその歯を使って、入れ歯の材料にするつもりだ。ドクター・グースはここで彼なりの持論を語る。「つまり世の中、弱肉強食ってわけですな」
 アダムはこの地にいるホロックス牧師(ヒュー・グラント)から奴隷に関する契約書に署名をもらうためにやって来た。しかし彼自身は、奴隷に関して正面 切って考えたことはない。だから、農場で罰としてオトゥアという奴隷(デヴィッド・ギヤスィ)が痛めつけられるのを見て、思わず気絶してしまうアリサマ だ。そんなアダムを、ドクター・グースは虫の毒にやられたと診断してクスリを処方。アダムとドクター・グースは、大きな帆船に乗ってサンフランシスコに戻 ることになった。ところが、アダムの容態は一向に良くなろうとしない。そんなアダムのもとに、例のオトゥアという奴隷が現れた。オトゥアはこの船に密航し ていたのだ…。
 1936年、スコットランド。
 ロバート・フロビシャーという若者(ベン・ウィショー)が、拳銃を手にしてバスタブに横たわる。彼は、自殺は根性のない奴がやるものと言う意見には賛成できないと思っている。自殺をするにも勇気が要るのだ。そもそも、彼はどうしてこのような事態に追い込まれたのか。
 それに先立つこと数ヶ月、フロビシャーは彼の同性の愛人ルーファス・シックススミス(ジェームズ・ダーシー)とホテルの部屋でベッドに入っていた。そこ に、ホテルの人間が押しかけてくる。慌てて飛び起きるフロビシャーは窓から抜け出して、ホテルを脱出。彼の立ち回り先は、有名な作曲家のビビアン・エアズ (ジム・ブロードベント)の屋敷だ。作曲家として大成することを夢見るフロビシャーは、彼の元で修行をしたいと思っていたのだ。今は引退状態のエアズだ が、フロビシャーはこの男を深く尊敬していた。しかし気むずかしいエアズは、押しかけてきたフロビシャーに邪険に当たる。それでもエアズの若い妻ジョカス タ(ハル・ベリー)の計らいでピアノを弾かせてもらい、その美しい音色にエアズも弟子入りを許すことにする。そのうち見事な採譜でエアズの信頼を勝ち得る フロビシャーは、自らの作品「クラウド アトラス六重奏」を作曲。しかしエアズは、それを自分の夢の中で聞いた曲だと言うのだった…。
 1973年、サンフランシスコ。
 女性ジャーナリストのルイサ・レイ(ハル・ベリー)は、あるビルのエレベーターの中で年老いた紳士ルーファス・シックススミス(ジェームズ・ダーシー) と一緒になる。ところが突然エレベーターが停止。長い時間を二人きりで過ごす羽目になった二人はいろいろ打ち解けて話し始めるが、そのうちルーファスが 「君にある情報を渡したら、責任を持って報じてもらえるか」とルイサに尋ねてくる。しかしちょうどエレベーターが動き出したため、その話はそこでオシマイ になった。ルイサと別れたルーファスは、空港で飛行機に乗ろうとするが欠航のため断念。仕方なくホテルの一室をとったルーファスは、そこからルイサに「渡 したい情報がある」と電話を入れた。ところがその直後、殺し屋ビル・スモーク(ヒューゴ・ウィービング)がルーファスを射殺。ルイサはその後にホテルに到 着して、無惨なルーファスの姿を発見する。一体ルーファスは、何のために殺されなければならなかったのか。
 ルイサはそのナゾを解くために、ルーファスが働いていた原発へと出かけることにする。表向きは原発への取材ということで入館し、原発責任者のロイド・ フックス(ヒュー・グラント)と会う。この男、テッカテカの権力志向丸出しの男だが、ルイサの取材に協力を約束。警備員のチーフであるジョー・ネピア (キース・デヴィッド)を紹介するとともに、彼女を案内するための研究員を探しに行く。その待たされている間に、ルイサはルーファスのオフィスに侵入。何 かないかとあちこち探し始めた折りもおり、研究員のアイザック・サックス(トム・ハンクス)に見つかってしまう。しかし絶体絶命の彼女のことを、サックス はなぜかフックスに報告しなかった。そのままサックスは、ルイサに原発内を案内することになる。施設を紹介しながら「君とは初めて会った気がしない」と語 るサックスは、ルイサにとんでもないことを告白し始めた。この原発には致命的な欠陥があっていつか事故を起こすようになっており、石油産業を守るために フックスたちがその事実を隠しているというのだ…。
 2012年、ロンドン。
 しがない編集者のティモシー・カベンディッシュ(ジム・ブロードベント)は、豪華な文壇のパーティーへとやって来た。しかしそこに、あまり歓迎したくな い人物が一人。彼の下で「顔面パンチ」なる小説でデビューしたヤクザな作家、ダーモット・ホギンズ(トム・ハンクス)だ。ティモシーはこのギボンズという 作家がとにかくキレやすいので、出来るだけ近づかないようにしていた。しかし、この日は何やら様子がおかしい。同じパーティーに出席していた批評家に、何 やらケンカを売っているではないか。実はこの批評家は「顔面パンチ」を酷評していた男のようで、よせばいいのにギボンズの売り言葉に買い言葉で返してい た。するとギボンズはこの批評家の胸ぐらをつかんで引きずり回すと、あっという間にビルのベランダから外に放り投げてしまった。放り出された批評家はひと たまりもなく、遙か下の歩道に叩き付けられて絶命。ギボンズはその場で逮捕されるという、とんでもない展開となった。しかし、これが話題を呼んで「顔面パ ンチ」はバカ売れ。ティモシーに莫大な収益をもたらすことになる。ところが好事魔多し。ゴキゲンのティモシーの元にギボンズの仲間連中が押しかけ、「顔面 パンチ」の収益をよこせと怒鳴り込んで来る。それも、明日すぐに。しかし、そんなに速く現金を調達できるわけもない。焦り狂ったティモシーは、長年疎遠 だった兄デンホルム(ヒュー・グラント)を頼って訪れる。しかしかつてティモシーに妻ジョージェット(ベン・ウィショー)を寝取られたデンホルムは、彼を よく思うはずもない。それでも泣きついて「助けてくれ」と泣きつくティモシーに、デンホルムは「隠れ家」としてのホテルを紹介するのだった。こうして一路 そのホテルを目指すティモシーは、途中でかつての初恋の人アーシュラ(スーザン・サランドン)の家に立ち寄る。彼女と結ばれていたら…と思っても、今は後 の祭り。ティモシーは彼女に声を掛けることもなく、その場を立ち去るのだった。こうして真夜中に問題のホテルに着いたティモシーは、フロントで台帳にサイ ンを済ませて部屋へ。ところが翌朝、目が覚めてみると、やたらゴツい女看護師ノークス(ヒューゴ・ウィービング)がティモシーの荷物を勝手にいじっている ではないか。怒ったティモシーが抗議しても、謝るどころか逆に平手打ちをくらわすノークス。怒り狂ってホテルを出ようとフロントにやって来たティモシー は、そこで愕然とする事実を知ることになる。ここはホテルではなく老人施設で、一度入ったら勝手に出られないのだ…。
 2144年、ネオ・ソウル。
 ソンミ451(ペ・ドゥナ)は看守たちに連れられ、取調室へとやって来る。彼女は重大な政治犯として、この収容所に閉じこめられていた。彼女は取調官(ジェームズ・ダーシー)に、捕らえられるに至った事情を語り始める。
 ソンミ451は人工的に作り出されたクローン人間。他のクローン女性たちと共に、カフェの店員として働いていた。毎日毎日、強制的に目覚めさせられ、食 料を与えられ、カフェでひたすら働かされて、また眠る日々。彼女たちの首には金属製の輪がはめられており、この場から逃げることはできない。そんなある 日、ソンミ451は一人だけいつもより早く目覚めてしまう。見ると、同僚のユナ939(ジョウ・シュン)も床にいなかった。胸騒ぎがして、店の中へと入っ ていくソンミ451。何とユナ939は、店の管理者であるリー師(ヒュー・グラント)に抱かれていた。やがてリー師が居眠りをすると、ユナ939はソンミ 451に客の落とし物である携帯映写機を見せる。そこには「ティモシー・カベンディッシュの大災難」という古い映画の断片が収録されており、主演俳優(ト ム・ハンクス)が「私から自由を奪うなど許せない!」と叫んでいた。それが、ソンミ451がユナ939と初めて分かち合った小さな秘密だった。
 そんなある日、ユナ939が客から無礼な振る舞いをされて逆上、その客に襲いかかり店から脱出を試みるという事件が起きる。しかし彼女はソンミ451の 目の前でリー師によって殺され、あとは何事もなかったかのように片付けられてしまった。これにはさすがにやりきれない思いをするソンミ451。それから何 日かして、ソンミ451はまた夜中に目覚めてしまう。不思議に思って店の中に入ってみると、そこにはリー師が死体となって倒れていた。そして、見知らぬ若 い男も…。驚くソンミ451に、その男ヘジュ・チャン(ジム・スタージェス)は、「君を連れ出してあげる」と告げるのだった…。
 2321年、文明崩壊後のハワイ。
 すっかり原始時代の生活に戻った人々の中に、羊飼いの男ザックリー(トム・ハンクス)もいた。彼はある日、義弟のアダム(ジム・スタージェス)とその息 子と共に森林へと入って、たまたま人食いのコナ族の一団に遭遇。たまたま物陰に隠れたザックリーを残して、二人はコナ族の酋長(ヒュー・グラント)たちに 惨殺されてしまう。ザックリーは彼らを助けようと思ったが、彼の脳裏にはオールド・ジョージー(ヒューゴ・ウィービング)が現れ、「オマエだけ助かれ!」 とそそのかす。結局ザックリーは、アダムたちを見捨てることになってしまった。しかしザックリーの妹ローズ(ジョウ・シュン)は、そんな彼を責めずに励ま すのだった。
 そんなある日、島に超近代的な船が到着する。それは地球上にいまだ残る先進民族の人々だった。その中の一人メロニム(ハル・ベリー)はザックリーたちの 家に宿泊することになるが、ザックリーはそれを好ましく思わなかった。高い技術力を持つメロニムたちを、彼は全く信用していなかったからだ。思い迷うザッ クリーは、村の祈祷師アベス(スーザン・サランドン)にお告げを聞きに行く。彼女は人々が女神と信じるソンミのお告げを伝えるが、それは謎めいたメッセー ジだった。そんなザックリーの思惑も知らず、自分に協力してくれと頼むメロニム。彼女は島の高い山へと登るつもりだった。しかしその山は、昔から呪われて いるといわれのある山。ザックリーは到底協力できるわけもない。ところがそんなザックリーの姪が、誤って踏んだカサゴの毒で死にかかる。これに困り果てた ザックリーは、すべてのわだかまりを捨ててメロニムに頼み込むのだった。「姪の命を助けてくれたら、私が山まで案内しよう」…。


見た 後での感想

 この映画を見始めた時、僕は唐突に以前見たまったく別の映画の一場面を思い出した。
 たき火を前にして、老人が物語を語り始める。その頭上には星空が広がっていて…というこの冒頭場面、それはまるでジョン・カーペンター「ザ・フォッ グ」(1980)のオープニングではないか。実際にはそこから始まる映画そのものはまったく別モノではあったが、大好きな作品との共通点を見いだしたせい か、そこから僕はこの映画の世界にグイグイ引き込まれていた。どちらの映画の冒頭も、実に魅力的なオープニングだ。
 この西暦2346年にあたる冒頭部分を除いて、本作は時代背景も場所も異なる6つのエピソードが、全編を通して平行した状態で描かれていく。この構想 に、僕はまず惹かれてしまった。僕は多くの登場人物が出たり入ったりする群像劇が好きだし、複数のエピソードが平行して描かれる作品には、昔から無条件で 惹かれるところがあるのだ。
 複数エピソードが交錯する構成と言えば、あの傑作「ナッシュビル」(1975)をはじめとするロバート・アルトマンの十八番だったし、パリ、ベルリン、 モスクワ、ニューヨークのパフォーマーたちのエピソードを追いかけていくクロード・ルルーシュ愛と哀しみのボレロ(1981)や、アメリカのある都 会を舞台にした人間群像劇であるジョン・セイルズ「希望の街」(1991)やポール・トーマス・アンダーソンマグノリア(1999)、アメリカ〜 メキシコを結ぶ麻薬ルートに関わる人々を描いたスティーブン・ソダーバーグトラフィック(2000)、ロサンゼルスのさまざまな社会階層の人々の衝 突を描くポール・ハギスクラッシュ(2005)…などなどといった作品がすぐに脳裏に浮かぶ。近年ではメキシコのアレハンドロ・ゴンザレス・イニャ リトゥがこの手の作品を得意としていて、出世作であるアモーレス・ペロス(2000)をはじめとして、バベル(2006)ではアメリカ〜メキシ コ、モロッコ、日本を舞台に4つのエピソードをわずかな時制のズレを生じさせながら描いた。
 しかし今回の作品では、時代と場所がまったく異なる6つのエピソードを描いているというのがミソ。その意味では、この手の映画の「元祖」とでもいうべき D・W・グリフィス畢生の大作「イントレランス」(1916)が最も構成としては近いかもしれない。古代バビロンの崩壊、キリストの受難、中世の聖バーソ ロミューの虐殺、現代の貧しい男女の愛…の4つのエピソードを、オムニバス映画の手法ではなくほぼ平行に描くという大胆な発想。しかもそれをサイレント映 画で実行したという無謀とも言える試みを、この「映画揺籃期」ともいえる時代に「超大作」として実現してしまったという点で、「イントレランス」は本作に 最も近い作品と言えるかもしれない。ここまで野心的な構成の作品は、わずかにアメリカン・グラフィティ2(1979)が存在するくらいで他にはあまり 例を見ない。その意味で本作「クラウドアトラス」は、グリフィスの「イントレランス」直系の作品と断言できる。
 さらに前述の「イントレランス」も同様なのだが、「クラウドアトラス」はその構成上、歴史劇、サスペンス映画、ブラック・コメディ、SF映画…など、さ まざまな映画ジャンルの要素が融合した作品にもなっている。つまり、僕がこのサイトでも何度も語ってきた「ジャンル越境映画」として仕上がってもいるの だ。
 最近の例では、ジャコ・ヴァン・ドルメルミスター・ノーバディ(2009)が最も強烈な例ということになるだろうか。あるいはテレンス・マリックツリー・オブ・ライフ(2011)を挙げるべきだろうか。他にもその「ミスター・ノーバディ」の感想文で指摘したように、ベルトラン・ブリエ「メル シー・ラ・ヴィ」(1991)、デビッド・フィンチャーファイト・クラブ(1999)、ウォン・カーウァイ2046(2004)ダーレン・ア ロノフスキーファウンテン/永遠につづく愛(2006)…などの作品も挙げることができるが、やはり異ジャンルの融合はなかなか難しいようでこれら すべてが成功作とは残念ながら言い難い
 また厳密な意味ではこれらの作品とは異なるかもしれないが、それぞれが別の小宇宙となっている何層もの夢のレイヤーを行き来する構成を持っている点で、クリストファー・ノーランインセプション(2010)もこの中に加えていいかもしれない。
 複数エピソードの平行進行、そしてジャンル越境…いずれも野心的で大胆な試みで、実験的であるが故にリスキーな企画であるとも言える。おまけにこれらの 作品はどれも制作費がべらぼうにかかるので、ますます危険度が増してしまう。だからこそ100年以上にも及ぶ映画の歴史の中でも、その数は限られたものに とどまってしまうのだろう。それくらい、ヤバイ構成なのだ。
 本作はそこに加えて、3人の監督の共同作業というムチャもやらかしている(笑)。リスキーにも程があると言いたくもなるが、同時にその結果がどうなったのか…映画ファンとしては大いに気になるところだったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

こ こからは映画を見てから!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本作から連想される「日本産」の二つの作品

 時代も舞台もテイストも異なる6つのエピソードが並列で描かれる無茶な構成、異例の3人体制で現場を仕切った監督、いずれも知名度も実績も抜 群ながら今ひとつ食い合わせが悪いように見えるキャスト…と、どこをとってもリスキー過ぎて不安になる本作。果たしてその結果はというと…。
 ズバリ言って、これは大成功だったのではないだろうか
 人によって意見はそれぞれあるだろうから異論は認めるにしても、これはやっぱりうまくやったなと言わざるを得ない。何よりこの野心的な企画を、実験作レ ベルでなくて大衆娯楽作品としてちゃんと成立させているところに感心した。見る者に敷居の高さを感じさせない、愛すべき作品に仕上がっているのである。
 映画としては、予想通り「イントレランス」が最も近い作品だと言えるだろう。まったく何の脈絡もないように見える、時代も場所も異なる複数エピソードが 平行で描かれる。だが6つのエピソードを交錯するごとに、あるテーマが浮かび上がってくるという仕掛けだ。「イントレランス」では題名通り「不寛容」とい うテーマが浮かび上がった。そして本作では、常に他者を抑圧しようとする人間の業と、それにも増して自由になろうとする人間の本能…つまり「支配と抵抗」 についてのお話だ。
 まぁ、正直言ってそれらについて深い考察が行われるわけではない。同様のテーマを扱っていたウォシャウスキー姉弟(当時は兄弟だったが)の「マトリック ス」三部作最終編「マトリックス・レボリューションズ(2003)の凡庸な結論を思えば、あらかた想像はつくだろう。残念ながら今回の映画でも、それに ついて深い掘り下げやユニークな視点があろうはずがない。
 しかしながら、そもそもこの作品はそんな「掘り下げ」をしようという作品ではないのだ。
 多彩な人々が登場し、6つの異なる時代・場所でのエピソードが展開。そこで描かれるものは、歴史劇であったりSFであったり、サスペンスやコメディで あったりする。これらがひとつの「作品」というくくりに収められていること自体にめまいがしそうだ。そして、それらの異なるテイストのエピソードが交錯し ながら進む作品だからこそ、毎度毎度懲りもしないで他者を抑圧しようとする人間の悪しき業と、抑えても抑えてもそれをはね返して自由になろうとする人間の 本能が、観客にある種の感慨を持って伝わってくる。この感慨は、こうした長いスパンの時代や社会の展望や、多彩でさまざまな人々の物語の積み重ねなしには 感じ取れない。だから決して深みのある「掘り下げ」はないが、一種の「壁画」でも眺めるように「広がり」で感じられる映画になっているのだ。
 こういう映画は映画サロンの小難しい論議が好きな人々には向かないだろうが、僕のような人間にはご馳走だ。なぜなら、これこそが「映画」だからである。
 そもそもさまざまな時間と空間の物語が次から次へと錯綜するなんて、映画というメディアでなければ描けない。僕はこの映画の原作小説を読んではいないの だが、映画の劇場パンフレットに書いてある解説によれば、原作は途中まではそれぞれ独立したエピソードとして書かれているようである。映画のように、チャ カチャカとパラレル状態で行き来する構成ではないらしい。
 複数エピソードの平行進行、ジャンル越境…という変則的な話法の作品は、映画でしかできない、まさに映画ならではのスタイルを持った作品なのだ。
 ただし僕はこの作品を見ていて、日本が生んだ「映画ではない別のメディアの作品」を二つほど思い浮かべていた。
 ひとつは、学生時代に友だちから借りて読んだ小松左京のSF小説「果しなき流れの果に」だ。
 イントロは恐竜が闊歩する時代の地球。そして舞台は現代に移り、不思議な砂時計が発見された古墳に調査に向かった研究者たちが、行方不明になったり変死 を遂げたりするという事件を皮切りに、時代は恐竜時代から地球の終焉間もない時代まで、場所は地球にとどまらず太陽系外の宇宙まで…と、時空を超えた壮大 なスケールの物語が展開する。中には小松左京最大のヒット作である「日本沈没」の原型となったであろうエピソードもチラリと出てきたりするが、とにかくあ まりにあまりな物語の間口の広さに、読んだ当時はとにかく頭が破裂しそうなほど圧倒された覚えがある。こんな作品がすでに1966年の時点で書かれていた ことだけでもビックリだったが、とにかく僕にとっては小松左京といえば「日本沈没」でも「復活の日」でもなく、この「果しなき流れの果に」という強烈なイ メージが焼き付けられた作品だ。
 ただし、いくつものエピソードが並列して描かれるわけでもなく、舞台や背景となる時代や空間の振り幅がやたらにデカいという点ぐらいしか共通点はない。 しかしながら、普通のドラマで描かれる範囲の時代や背景から、地球の終焉とか文明の衰退という並外れた範囲までレンジを広げたその構想には、どこか一脈通 じるものを感じさせられた。同様のことは「ミスター・ノーバディ」や「ツリー・オブ・ライフ」を見た時にも頭の隅をよぎったが、映画を見ていて今回ほど 「果しなき流れの果に」を思い起こされたことはなかったのだ。
 ただ、この「果しなき流れの果に」については単に僕がついつい「連想した」ぐらいにとどまる話だろうが、今回の映画を見て想起したもうひとつの作品につ いては、ちょっとそれだけとも思えない。その作品とは、手塚治虫がライフワークとして死の直前まで断続的に描いていた超大作マンガ「火の鳥」だ。
 こちらも特にいくつものエピソードが並列して描かれる構成はとらないが、何より「黎明編」「未来編」「ヤマト編」などなどといったいくつもの独立した物 語に分かれており、それらがヤマタイ国の時代の日本、死滅しかかっている地球の地下都市…などをはじめとした壮大なスケールで描かれる。作品が発表された 順番ではほぼ過去〜未来〜過去〜未来…というふうにパラレルで描かれていって最終的には「現代」に到達する予定だったらしいが、そこまでいく前に作者が亡 くなってしまって今となっては分からない。いわゆる手塚「通」、マンガ「通」の辛口な皆様(笑)からはアレコレ批判もあるようなのだが、僕は素直にこのど デカい構想に感心した。いや、僕が最初に読んだのは高校の頃だったから、読後とてつもないショックを受けた記憶がある。
 そんな僕は今回の作品を見た時、すぐに「火の鳥」を連想したのだった。いや、「単なる連想」だけではない。むしろ、ひょっとしたら「火の鳥」が本作に何らかの影響をもたらしているのではないかとさえ思ったのだ。
 そうした根拠のひとつは、もちろん前述したような壮大なスケールにある。確かに多彩な時代と舞台に分かれた独立した物語群による「火の鳥」と、6つの物 語が並列して行ったり来たりする本作とでは、構成がまったく異なる。しかしながらそのボリューム感は、「火の鳥」全編を1本の映画に圧縮したらこうなるの では…と思わせる点が少なからずある。文明崩壊後の地球にまで大風呂敷を広げたあたり、「火の鳥」の物語同士の激しい振れ幅と一脈通じるところがあるの だ。
 しかし本作と「火の鳥」は、もっと別の点で大きな共通性を持っている。それは、それぞれ異なる時代、異なる場所でのエピソードに、共通するキャラクター=役者を起用しているということだ。
 例えば「火の鳥」の「未来編」では、「バンパイヤ」以降悪役に転じた手塚治虫お馴染みのキャラクターであるロックが登場する。そしてこのロックは、手塚 の死によって描かれることのなかったエピソード、日中戦争を背景にした「大地編」に再登場する予定だったという。そもそも手塚治虫は「ブラック・ジャッ ク」などの作品で、アセチレン・ランプやらハム・エッグなど自作の既存キャラクターを脇役やゲストとして登場させるスター・システムで作品を描いていた。 だからこれだけのことなら、手塚作品として別に不思議なことはない。しかし「火の鳥」の場合には、ほぼ全編にわたって猿田あるいは猿田彦という名の鼻の大 きなキャラクターが出てくるのが特徴だ。この人物はそれぞれの時代で何らかの業を背負いながら生きていて、それぞれが子孫であったり生まれ変わりであった りしていることが示唆されているのだ。
 これはそのまま、本作の配役に反映されていないだろうか。
 例えば本作のトム・ハンクスである。冒頭の老人(これは後に文明崩壊後の世界に住む羊飼いの男ザックリーと分かる)に始まり、1849年の強欲なドク ター・ヘンリー・グース、1936年スコットランドの一癖ある安ホテルの主人、1973年サンフランシスコの原発研究員アイザック・サックス、2012年 ロンドンのヤクザ作家ダーモット・ホギンズ、2144年ネオ・ソウルの場面では古い映画の主演俳優…と八面六臂の大活躍。彼に限らず主要キャストは全員、 役柄をとっかえひっかえしてほぼすべてのエピソードに顔を出しているのだ。しかもその役柄はしばしば俳優の人種・性別すら超越しているあたり、監督のひと りが実際に性転換を果たしたラナ・ウォシャウスキーであることを考えると極めて「らしい」趣向であるとも言える。それらはしばしばあまりに凝ったメイクで あるため、エンディング・タイトル場面で初めて「あれって彼(彼女)が演じたの?」とビックリしちゃうものも少なくなかったのはご愛敬。…というか、そこ まで見事に化けちゃうとわざわざそのスター当人にやらせる意味があったのか(笑)?…という意地悪な疑問も感じてしまうのだが、ともかく同じ俳優がさまざ まな役柄でほぼすべてのエピソードに顔を出すという発想は、少なくとも今までの他の映画にはなかったものだ。せいぜいあったとしても、それはルルーシュの 「愛と哀しみのボレロ」のように同一俳優で親子役を演じさせるような場合でしかなかった。ひとつの作品の中で同じ役者をまったく異なる時代の異なる役に起 用するというのは、確かに異例であることに間違いないのだ。
 そして、この同じ俳優が別の時代に別の役で登場してくる…という趣向は、東洋人である我々にとってはどうしたって「輪廻転生」を連想させる。我々にとっ ては馴染みのある考え方だが、これってやっぱり欧米の映画としてはかなり異例なのではないか。オカルト・ジャンルの作品でもなければ、あまり他の映画では 見ない発想だ。時代も空間も超える壮大なスケールに「輪廻転生」と来る点が、僕にはどうしても「火の鳥」を発想の原点にしているように思えたわけだ。
 しかもウォシャウスキー姉弟は、すでにタツノコプロの日本製アニメ「マッハGO!GO!GO!」を原作にスピード・レーサー(2008)を作るとい う「前例」がある。ならば、手塚治虫と「火の鳥」を知っていた可能性はかなり大きいだろう。そういった意味で、僕は本作は「火の鳥」に影響を受けていると 思ったわけだ。「クラウドアトラス」原作小説でもこのあたりは当然描けてないだろうから間違いなくこれは映画のオリジナルであり、故に「火の鳥」の影響を受けた可能性あり…言ってもいいだろう。

「劇団」的アンサンブル演技とコメディ・テイスト
 この文章の最初から何度も強調して来た「時代も舞台もテイストも異なる6つのエピソードが並列する」という点は、確かに本作の最大の特徴だ。
 しかも、それらの「並列」ぶりはハンパではない。凄まじく細かい刻みかた、場面転換の仕方で切り替わっていく。
 例えば近年話題になった「バベル」などでも、それぞれのエピソードへの転換は、少なくともシークエンス(場面)ごとの単位で切り替わる。人物Aと人物B が出会って会話をする…とか、人物Aが人物Bに見つかって逃げ出し、何とか逃げおおせてホッとする…とか、その程度の「お話の塊」程度にはつながった状態 になっている。それは、あまり細かく刻んでお話を転換してしまうと、観客がついていけなくなってしまうからだ。この点を考えると、カラーの色調や音楽など で場面転換を印象づけることなどができなかったD・W・グリフィスの「イントレランス」が、いかに困難を克服した大胆な企画だったかと思わされるのだが… 何と本作ではエピソード同士の刻み方は他の同種の作品よりももっと細かく激しい。もちろんシークエンスごとに切っていく従来通りの部分も少なくないが、場 合によってはカット単位ぐらいの細かさで話が切り替わる箇所もある
 特に冒頭などは、見ている僕らに設定も人物も分かっていない段階で、バンバンと場面を切り替えていくから驚いた。当然、僕らは最初見ていて大いにまごつ く。こりゃどうなっているんだと当惑してしまうのだ。この冒頭部分以外でも、本作の場面転換は総じて細かい。これは相当の自信がなければできない手法だ。 正直これは驚かされた。複数エピソードが交錯する映画は数多くあれど、ここまで細かくバラして行ったり来たりするものは皆無なのではないだろうか。
 しかし、本作の「映画」としての最大のお楽しみは、そんな場面転換や話法の大胆さなどではないのかもしれない。実は最高に興味深く面白いのは、その配役の妙なのである。
 先にも触れたように、同じ役者がエピソードごとに別の役に挑戦。その都度、役柄は大きく変わって、中には人種や性別まで超越する役まで演じる役者までい る。逆に言うと、主要キャストがほぼすべてのエピソードに何らかの役で出てくるということでもある。これって、何かの劇団がいつも同じ役者たちで演目を変 えて上演しているのに似てはいないか
 だからトム・ハンクス、ハル・ベリーなんてキンキラなスターが出てくるのに、「彼らの映画」という感じがしない。しかも、どのエピソードにおいても役者たちは みんな実に楽しそうだ。あるエピソードでは悪役を演じ、またあるエピソードでは善玉を演じる。あるいは主役を演じる一方でワン・シーンのみのチョイ役出演 をやったりする。そこでは、スター・バリューと役の大小は無関係だ。これは俳優としては役者冥利に尽きるのではないだろうか。
 そのせいか、本作はかなりの超大作にも関わらず、映画全体にどことなく「手作り」なムードが漂っている。何より出演者・作り手が楽しんでやっている雰囲 気が感じられるのだ。だから冒頭にも述べたようなトム・ハンクス、ハル・ベリー、ヒュー・グラント…なんて、知名度だけで選んだいたいな「食い合わせの悪 そうなキャスティング」が、意外にそれぞれ馴染んで違和感を感じさせない。それは「劇団」みたいなこぢんまりとした「手作り」な感じが、アンサンブル・ キャストの一体感を形成しているからではないだろうか。
 では、その「食い合わせの悪そうなキャスティング」は、一体いかなる意図で配役されたのか。
 例えばヒューゴ・ウィービングなら「マトリックス」絡みでウォシャウスキー姉弟が、ベン・ウィショーならパフューム/ある人殺しの物語(2006) がらみでトム・ティクバが、それぞれ連れてきたんだな…と想像がつく。しかしトム・ハンクスやハル・ベリー、ヒュー・グラントあたりは、どう考えてもこれ らの監督たちの好みとは思えない。そもそもヒュー・グラントに関して言えば、ここ10年以上というものロマンティック・コメディでC調男しか演じていない ではないか。どう考えてもこの作品に向いているとは思えない。一体なぜ、こんなメンツが起用されたのだろうか。
 ここからは憶測でしかないので妄想と受け取っていただいてもいいのだが、配役されたスターたちの多くが、実は近年、あまり本来の持ち味を活かせなくなっていた人たち…であることが関係しているかもしれない。
 例えばハル・ベリーチョコレート(2001)でアカデミー主演女優賞を獲得して将来を大いに嘱望されたものの、その後はスターとしての華やかさで も演技者としての充実でも、あまり成果を上げられていないように見える。ヒュー・グラントノッティング・ヒルの恋人(1999)あたりから卓抜した ロマンティック・コメディの達人となったものの、その後は同じような役のバリエーションばかりで演技者としては硬直化。そのロマコメでも最近ではキャラク ターがすっかり形骸化して、「噂のモーガン夫妻(2009)あたりでは無残な結果にしかなっていない。韓国のペ・ドゥナほえる犬は噛まない (2000)で出てきた時には驚異的な新人として注目されたが、途中から彼女を活かせる企画に恵まれなくなってしまった。彼女を見いだしたポン・ジュノに 再度起用されたグエムル/漢江の怪物(2006)においても、当初の鮮烈さは望むべくもなかった。正直言って、今回の彼女のハリウッド・デビューはも はや「手遅れ」だったんじゃないかと思ったくらいだ。そして中国のジョウ・シュンにしても、ふたりの人魚(2000)であれだけ鮮烈な登場をした割には、その後、めざましい作品には恵まれていないように思える。そもそも今回のキャストの中でも筆頭に挙げられるビッグ・スターのトム・ハンクスですら…いまや興行 的にも知名度的にも「国民的スター」なんだろうが、「偉く」なってからの作品はここ最近の天使と悪魔(2009)にしてもものすごくうるさくて、ありえないほ ど近い(2011)にしても、この人の本領を発揮した作品とは言い難い。役者としての意欲は、ひょっとしてモーション・キャプチャーを駆使したポー ラー・エクスプレス」(2004)とか、トイ・ストーリー3(2010)の声の出演の方で発散しているかのような雰囲気さえ見受けられるのである。
 こんなわけで、主要キャストの中でもスター・バリューの高い人(ペ・ドゥナを除くが)は、みんな近年その本領を活かした作品に巡り会っていない人たちば かりが揃えられているように見える。そんな俳優としての「本領発揮」に飢えているであろう人たちを集めて、「劇団」のようなアンサンブル演技と普段あまり 見せない意欲的で多彩な演技を引き出したところが、今回のキャスティングのミソではないか。いかに畏れ多い大スターであっても最近自分を活かせてないと 感じている役者なら、チャンスを与えられれば意欲的に取り組むはず…だからである。
 さらにもっと突っ込んで見てみると…今回のキャストの大半の人々が本来がコメディアンであったり軽妙演技に長けている人である点も、起用の大きな要因だったように思われる。
 本来、今回のような壮大なテーマを描く場合には、例に挙げては申し訳ないがダークナイト(2008)みたいに深刻な顔つきで重々しく描くのが最もあ りがちなことだろう。しかし本作の主要キャストではトム・ハンクス、ヒュー・グラント、ジム・ブロードベント、スーザン・サランドン、そしてペ・ドゥナな ど、いずれもコメディ演技が達者で知られている俳優が多数を占めている。これは一体どうしてだろうか?
 さらに今回の6つのエピソードの中でも、「2012年・ロンドン」の挿話はハッキリとコメディとして描かれているのだ。ジム・ブロードベントもトム・ハ ンクスも、これをコメディとして演じていることは間違いない。これは、この手の作品としては極めて異例と言わなくてはならないだろう。そもそも「支配と抵 抗」の人類史を描く語り口として、老人ホームに閉じ込められた年寄りたちの脱出作戦というコミカルな題材は、あまり例を見ないものではないか。他の「支配 と抵抗」エピソードと比べて、いかにも軽すぎる話ではないのか。これは一体なぜだろうか?
 また、見ようによっては同一俳優による複数キャラクターの演じ分けは、例えばエディ・マーフィー「ナッティ・プロフェッサー/クランプ教授の場合」(1996)などのようなコメディ作品における「それ」をも連想させるではないか。
 ここからは今までに増して妄想の域を出ない話になってしまうのだが、あえて僕なりの意見を言わせていただくなら…本来、複数エピソードが並列で進行する というような映画作品の場合、どうしても映画づくりの発想が「構成」ありきのものになってしまいがちだ。映画を構成する要素はいくつもあるが、こ の手のスタイルの作品は複雑なパズルを組み立てるような過程を踏まずにいられないため、「構成」重視にならざるを得ないのだ。しかしその結果、どうしても 映画の内容が硬直化して、柔軟性のないものになりがちでもある。簡単に言うと、血の通っていない作品になってしまう恐れが十二分にあるわけだ。
 ウォシャウスキー姉弟とトム・ディクバは、それを恐れたのではないか。
 構成重視なためにただでさえ柔軟性が乏しい作品になりそうなところを、テーマはさらに重苦しい「支配と抵抗」の人類史。これを全編重厚で深刻でクソ真面目な調 子で描いていったら、確かに狙いは高邁なものかもしれないが、見ていて面白いものにはなるまい。おまけに「抑圧とそれに対する抵抗」を描きたい作品なのに 映画自体が抑圧的で重苦しかったら、まったくシャレにならない。何のために映画を作っているのか分からなくなる。
 だからこそそこに、人間らしくフレンドリーで血の通った要素を多く取り入れようと思ったのではないか。
 ビッグ・スターの起用はそもそも、大衆娯楽映画としての馴染みやすさを得ようとしたところから始まっているのだろう。そしてそこにコメディ・テイストの 多い俳優を多用したり作中にコメディ要素を盛り込んだりしているのも、さらには意欲的に演技する場を欲しているであろう俳優たちを集めて「劇団」方式で手 作り風なアンサンブル演技を引き出したのも、すべては作品全体を血の通ったものにしたかったからではないだろうか。作品構造のシャープさ、作品内容の深さ や先鋭さをある程度鈍らせても、それは絶対に必要な要素だったのではないか。
 今回の作品が他の大胆な構成の作品群と一線を画して、どこか愛すべき作品として仕上がっているのは、実はそんな点に秘密があるのではないかと思えるのである。

 

 

 

 

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