「ライフ・オブ・パイ

   /トラと漂流した227日」

  Life of Pie

 (2012/02/11)


  

見る 前の予想

 この作品のことを知ったのは、オスカー・レースが話題になる直前のことだ。
 トラと一緒に海を漂流する羽目になった青年の物語。およそ単調でシンドそうな物語になりそうだ。特にこれといった俳優も出ている気配もないし、あまり興味がわきそうにないな…とさりげなく無視しようかと思いきや、何と監督にあのアン・リーの名前があるではないか。
  今さらアン・リーがどんなジャンルの映画を撮っても不思議じゃないので、この作品の監督として名前が出てきてもおかしくはない。しかし、さすがに「青年と トラの大海原漂流」なんて作品が、事もあろうに「3D」映画として作られていると聞いたらビックリするだろう。宇宙からの侵略者とアメコミ・ヒーローたち との戦いやら、鍾乳洞の探検やら、巨大生物が闊歩する謎の島の話、あるいは神話の世界をアクション映画として製作したもの…などは、「3D」映画として製 作されても何ら驚きはしないだろう。しかし、「トラと青年」が大海原を漂流する話を「3D」映画にすると聞いたら、さすがに誰でも「えっ?」と耳を疑うの ではないか。
 大スケールのアクション映画でもスペクタクル映画でもない、SFでもファンタジーでもない、言ってしまえばこぢんまりとしたお話で ある。しかも、「アン・リー」が「3D」だって? そんなテクノロジーほど、アン・リー作品とそぐわないモノはないという印象がある。しかもこの作品っ て、自然を中心に据えたリアルな作品という第一印象がある。一体この作品ってどんな出来栄えなんだろう?
 毎回毎回それまでの期待やら先入観をいい意味で裏切ってくれるアン・リーだが、さすがに今回ばかりは「彼らしからぬ」作品と言うべきではないのか。
 そんなことを思っていたら、何とスピルバーグの「リンカーン」とオスカー・レースを争う存在になっているとは。そんなこんなで、一体どんな作品なのか興味はふくらむばかり。いても立ってもいられず、僕は公開まもなく劇場に駆けつけた次第。

 

あら すじ

 象やフラミンゴ、サル…その他にもたくさんの動物たち。そこは動物園なのだろうか。それぞれが個性的な動物たちの表情は、見ようによっては人間たちの「それ」にもどことなく似ている…。
 「ぜひパイの物語を聞いたほうがいい…と言われてやって来たんですよ」と、ヤン・マーテル(レイフ・スポール)は語った。
  舞台は移って、ここはカナダはモントリオールの住宅の一室。ヤンはインド出身のパイ・パテルという男(イルファン・カーン)と話をしているところだ。作家 であるヤンは創作に行き詰まり困り果てていたところ、たまたまこのパイという男がドラマティックな経験をしてきたことを聞きつけ、一縷の望みとばかりパイ の自宅を訪ねてきたというわけだ。それを聞いたパイは初対面にもかかわらず、イヤな顔ひとつせずにヤンに自分の物語を語り始めた。それは、パイがまだ祖国 のインドに住んでいた時代に始まる。
 そもそもは、パイという彼の名前の由来から。パイの古くからの知り合いのおじ
さんママジ(エリー・ アルーフ)は水泳が大好き。このおじさんの特訓のおかげで、パイは泳ぎが上手になった。おじさんは世界中どこでもプールで泳いだが、中でも一番のお気に入 りは、パリの「ピシン・モリトール」というプールだった。パイの本名はそれにちなんで、ピシン・モリトール・パテルと名付けられた。
 しかしパイ と同年代のガキどもに、パリなどフランス語だのの教養などあるはずがない。むしろガキどもの共通語は「うんこ」だの「ちんこ」だのの野卑な言葉。せっかく のエレガントな「ピシン」という名前も、くそガキどもからは「おしっこ(ピッシング)」と同意語として認識され、毎度毎度しつこく馬鹿にされることにな る。こういうイヤなことになると、しつこいくらいクドクドやるのもガキの特徴だ。
 それにウンザリしたパイは自分で名前を「パイ」と改めることに 決めて、自己紹介の時に「自分の名は円周率と同じ“パイ”です」と言うことにした。しかし、それでも不十分だと思ったパイは、学校で円周率の数字を暗記し て黒板いっぱいになるまで書き続けるパフォーマンスを披露。自力で自らの名前を「パイ」であると認めさせたのだった。
 そんなパイが幼い頃から入 れ込んだのが宗教だ。元々はヒンズー教で育ったパイは、いたずらで教会に忍び込んだ時に出会った牧師(アンドレア・ディ・ステファノ)の影響でキリスト教 に目覚め、次にイスラム教にも傾倒。根っから合理主義者の父親サントッシュ(アディル・フセイン)はそんなパイに否定的だったが、母親ジータ(タブー)の おかげで何とか大目に見てもらえることになり、最終的に三つの宗教を信じることになる。
 パイとその後、重要な関わりを持つことになるベンガル虎のリチャード・パーカーとの出会いも、ちょうどそのころのことだった。
 この虎にリチャード・パーカーというふざけた名前が付いたのは、書類上のミスによるものだった。パイの父サントッシュは植物園の敷地に動物園を作り、それを経営して生計を立てていた。そこに飼われていたのが、リチャード・パーカーだ。
  宗教的な影響もあって、生きとし生けるものすべて仲良くなれると思いこんでいたパイは、このリチャード・パーカーとも仲良くなれると信じていた。そこであ る日、鉄格子ごしに生肉のエサをやろうとする。兄のラヴィ(モハド・アッバース・カリーリ)は止めたが、パイは全く言うことを聞かない。慌てたラヴィは父 サントッシュを呼びに行き、間一髪でパイの無茶を阻止することが出来た。事態を重く見たサントッシュは、鉄格子ごしにヤギを縛る。そしてあえてパイの目の 前で、リチャード・パーカーが無惨にヤギを襲う姿を見せたのだった。この瞬間、パイは虎を仲良くなれるなどという甘っちょろい考えを捨てた。
 さらにお年頃になったパイ(スラージ・シャルマ)は、ダンス教室の手伝いをしていて美しい娘アナンディ(シュラヴァンティ・シャイナート)に夢中になる。若い二人はあっという間に仲良くなるが、その頃、パイの人生は転機を迎えようとしていた。
  市の支援が打ち切られて動物園を維持できなくなることから、サントッシュが一家のカナダ移住を決めたのだった。しかし、動物園をカナダで開くことはできな い。一家の財産はこの動物たちしかいないので、カナダまで連れて行って売り払うことになる。これまでの生活基盤が覆され、せっかく仲良くなったアナンディ とも別れなければならないパイはショックを受けるが、今さらどうすることもできない。
 一家は日本の貨物船に乗り、カナダに向けて出航する。ふる さとインドを離れる一家の気持ちは暗い。おまけに船の生活も楽しいものではない。一家が食堂へやって来てヒンズー教徒の菜食主義者用の食事を頼むと、粗野 なフランス人のコック(ジェラール・ドパルデュー)はまるで言うことをきかない。肉の入った食べ物を押しつけたあげく、一家に侮辱の言葉を浴びせる始末 だ。これにはサントッシュも憤るが、周囲の者たちに止められる。日本人の船員が「肉汁スープだけなら大丈夫じゃないか」と好意で取りなしてくれるが、当然 のことながらそんな訳にもいかない。仕方なく一家は、動物たちのためにバナナで飢えをしのぐことになる、
 そんなある夜のこと、パイは船室が激し く揺れたために目を覚ます。激しい風雨で海は大シケ。船も前後左右に大きく揺れている。しかしパイは、そんな状況が楽しくてしょうがない。家族たちが疲れ てグッスリ寝入っているのを横目に、パイは船室を抜け出して甲板へと出かけていった。
 波は船の周囲から、切り立った山のように押し寄せてくる。 船はそんな波と波の間でモミクチャにされ、甲板のパイはしっかり立っていられないほど。最初はエキサイトして大騒ぎしていたパイだが、船員たちまで動揺し ているただならぬ気配に気づく。慌てて船室に戻ろうとした時には、もう遅かった。船はどんどん浸水して、とても船室に戻れる状況ではない。貨物室から逃げ 出した動物が泳いだりして、パイは奥に進めない。仕方なく甲板に戻ったパイは、船員に押さえつけられて救命ボートに乗せられる。「家族を助けて」と懇願す るパイだが、そんなことをしている余裕はない。おまけにそのボート目がけてシマウマが突っ込んで来たから、ボートはかぶせたカバーを完全にはずす間もな く、ひとたまりもなく海へと落ちてしまった。こうしてパイとシマウマを乗せたボートは、どんどん船から離れていってしまう。
 慌てたパイが何とか ボートを戻そうとしても、この荒れた海の状況ではどうにもならない。それでも何とかオールを突き出したら、何と事もあろうに虎のリチャード・パーカーがそ れに捕まってしまうではないか。パイは何とか放そうとするがリチャード・パーカーはしがみついて離れない。それどころかどんどんボートに乗ってくるではな いか。カバーがまだ半分ほど張ってあるボートの上では、逃げも隠れもできない。行き場を失ったパイは、慌ててボートから海中に落ちてしまう。
 海中に潜ったパイは、まだ照明を灯しながら沈んでいく船の姿を目撃する。家族を助けられなかった無念に、胸が張り裂けそうな思いのパイ。
 波間で葉っぱのように弄ばれるボートの船首に、パイは必死の思いでしがみつく。虎のリチャード・パーカーもシマウマも、もはやどうなったか分からない。そのうちパイは、しがみついたまま眠りに落ちるのだった。
  翌朝、パイはボートの船首にしがみついたまま目を覚ます。リチャード・パーカーは海に振り落とされたのか、ボートの中に姿が見えない。シマウマはボートに 突っ込んだ際に脚を折っていたようで、すっかり弱った状態だ。パイはさらに漂流していたオランウータンとハイエナを救出。さながらこのボートは、ノアの箱 船めいたものになっていった。
 しかし、箱船気分もつかの間。元々がどう猛なハイエナが、ボートの中に緊張感を作り出した。ハイエナは弱っている シマウマを襲い、オランウータンにも危害を加えてくる。パイは必死に叫んで止めようとするが、ハイエナが彼の言うことなど聞くはずもない。彼の見ている前 でオランウータンもなすすべもなく食われてしまうのかと思いきや…。
 突如、虎のリチャード・パーカーが飛び出してくる!
 いまだ半分ほどカバーが張ったままだったボートの、そのカバーの中にリチャード・パーカーが隠れていたのだ。リチャード・パーカーは激しく吠えると、それまで我が物顔で暴れていたハイエナを一撃。愕然とするパイの目の前で、ハイエナの亡骸を食い始めた。
 パイはそんなリチャード・パーカーを横目に、ボートの船首に再びしがみつくことになるのだが…。

 

見た 後での感想

 ボートにト ラと一対一で、大海原を延々漂流する物語。確かにこれで長編劇映画をもたせようというのはかなりツラそう。いかに名手アン・リーだとしても、普通に考えれ ばかなりキツイのでは…と正直懸念していたのは事実。で、実物の映画を見ての結論から先に言わせてもらうと…。
 面白い!
 さすがにどんなジャンルの作品も見事にこなし、しかもちゃんと作家としての個性をそこに打ち出していくアン・リーならでは。これまで見たこともない、実にユニークな作品になっている。
  まず、個人的にはアン・リーが3Dをどう活用するかが最大の関心事だったのだが、これは想像以上に素晴らしい仕上がり。オープニング・タイトルの動物園の ショットから、早くも抜群の3D効果を発揮している。船が沈没する大嵐の場面も迫力の映像だし、お話が単調になりそうな漂流場面についても、トビウオの大 群がやって来るエピソードとかクジラが飛び出すエピソードなど、美しい映像の連発。何より見て楽しめる場面が次から次へと現れて飽きさせない。こういう言 い方をしたらよくないのかもしれないが、ドラマ的なことよりもまず目を喜ばせるという点で、この映画は見る者を楽しませてくれるのである。本当に堪能させ てもらった。
 その上で改めて驚かされたのは、本作におけるCG場面の比重の大きさ。確かに前述のトビウオやクジラの場面を見れば、どう考えても これがライブ・アクション撮影でないことぐらい分かる。しかし本編の大半を占めるトラの映像が、かなりの部分でCGだったということを知ってビックリ。確 かにどう猛なトラを水上のボートで人間と共演させるというのは、いかに調教を施しても困難だったことは想像に難くない。しかしそれにしたって、あんなに自 然な映像をCGでつくれるなんて驚きだ。昨今、CGで出来ないことはない…と思わされては来たが、今回は「まさかここまで」と驚嘆させられてしまう。使い 手のセンスという点もあるのだろうが、その自然な溶け込み方に脱帽である。
 ただ、「調教が大変だ」という理由でCGを選択したというと、何とな く違和感をおぼえる方もいらっしゃるかもしれない。完全主義の巨匠監督などは、調教が困難だろうと何だろうと、実物主義でリアルに撮りたいと頑張りそうな 気もする。あの名手アン・リーが「CGに逃げる」ような「安易」な道はとるなんて「らしくない」のではないか…などと何となく言いたくもなるではないか。
  しかし改めて考えてみると、この文章の冒頭で僕は「そんなテクノロジーほど、アン・リーにそぐわないものはない」などと述べてはいたが、実際には彼はすで にグリーン・デスティニー(2000)、ハルク(2003)と、CGなどの特撮テクニックを多用した作品を発表している。意外にもこの手の映像 は、アン・リー必ずしも不得意ではないのだ。こういう自然を中心にした題材に使った…という点がむしろ「意外」だったのである。
 もっとビックリしたのが、本編の大部分を占める海上の場面を、アン・リーの「地元」台湾にプールをつくって撮影したという点だ。
  確かに自然が中心となる作品だからと言って、すべてロケ撮影しなくてはならない訳ではない。特に海での撮影はさまざまな制約やリスクを伴うので、制作コス トの面からもプール撮影になるのだろう。おまけに今回はトラが主役の一角を占めていて、おまけに主役は素人である。それでなくても困難さがつきまとう海上 ロケは、制作上何としても避けなければならなかったに違いない。そして、実際に完成した作品を見るとまったく不自然さは感じられなかったから、結果的には 見事な成功である。大したものだ。
 だから今回の映画は自然を相手にしたリアルな作品のように見えて、実はかなりテクノロジーを駆使しファンタ ジー映画の手法を取り入れた作品だとも言えるのだ。アン・リーの作品系譜の中でも、むしろ前述の「グリーン・デスティニー」や「ハルク」に近い作品なので ある。そのあたり、見る前にはまったく想定外だったので、僕は実際の作品に接して改めて驚かされた。意外といえば意外、サプライズといえば確かにサプライ ズだった。
 ただし、「グリーン・デスティニー」や「ハルク」に近いというのは、あくまで「強いて言えば」という前提がつく。毎回作品発表のたびに驚かされるアン・リーだが、やっぱり今回ばかりは本当に「彼らしくない」作品に思えてしまう。
 しかも僕にとってのサプライズは、そうした点だけではなかった。いや、それはむしろサプライズというより「ナゾ」とでも言うべきだろうか。映画を見ているうちに、「???」と思わされる箇所がどんどん目につき始めたのである。

 

 

 

 

 

 

 

ここからは映画を見てから!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

作品中に散りばめられたいくつかの「違和感」

 実はこの映画を見るにあたって、僕がちょっと楽しみにしていたのが、本作にフランス映画界の重量級スターであるジェラール・ドパルデューが出演しているという事実だ。
  今回の作品の主人公はインド人の青年で、彼がトラと漂流する話と聞いていた。だからそこに自分がよく知っている俳優が出演しているなんてことは、これっ ぽっちも期待できないと思っていたのだ。ところがポスターを見たら、そこにジェラール・ドパルデューの名前が記されているではないか。これは僕にとって ちょっとした朗報だったのだ。
 ジャラール・ドパルデューといえば、僕が映画を頻繁に見始めた頃からずっと、フランス映画のエース級のスターとし て君臨してきた男だ。トリュフォーの「終電車」(1980)、ベルトルッチの「1900年」(1976)、ワイダの「ダントン」(1982)と名だたる名 匠の作品に出まくり、一世一代の当たり役とも言える「シラノ・ド・ベルジュラック」(1990)ではアカデミー主演男優賞にもノミネート。「グリーン・ カード」(1990)ではついにアメリカ映画にも進出した国際派。その個性的な風貌や演技は好みが分かれるところだろうが、僕は断然彼を支持する側だ。
  そんなドパルデューが、予想もしてなかった本作に出演しているというのだ。最近ちょっと見かけなくなったと思っていたところだから、スクリーンでの久々の 再会が楽しみになった。映画が映画だから主役級ではないだろうが、少なくともこれほどの大物をわざわざ出しているのだ。かなり重要な役どころに違いない。
 すると…出てくるには出てきたのだが、このフランスきっての大スターが貨物船のコック役。後で調べてもちゃんとした役名すらない。「コック」という役だ。
 さらにそのキャラクターも、主人公たち一家に人種的偏見丸出しで接する無教養、無礼、粗野この上ない男。ハッキリ言ってイヤな男の役だ。しかも船の食堂で暴言を吐いて、すぐに画面から退場してしまう。
  それでも僕は、劇中で改心して主人公と力を合わせたりする場面があるかと思っていた。すると嵐の場面になって、主人公が船員たちからボートに乗せられよう とした時、確かにあのドパルデューも同じボートに乗り込もうとしているではないか! なるほど、やっぱり途中までは一緒に漂流するのか…。
 ところが、それもつかの間。ボートが海面に転落して流され始めると、いつの間にかドパルデューはボートの上から消えてしまう。ボートが落ちた拍子に海に投げ出されたのか、とにかくボートから消えてしまうのだ。これには正直驚いてしまった。
 それでもこのドパルデューは生き延びていて、最後に主人公と再会するんじゃないのか、あるいは海のどこかで再会するのか…と思って、僕は気長に待っていた。しかし画面から消えたドパルデューは、いつまで経っても戻ってこない…。
  ただし白状すると…実は本作を見ている間、僕はそんなにドパルデューのことばかり考えていたわけではない(笑)。いつの間にかドパルデューのことなど忘れ ていた。しかし映画が終わって、いろいろ余韻に浸っていたりあれこれ考えているうちに、僕は不意に気づいてしまったのだ。「あれれ? ドパルデューが最後 まで出てこなかったぞ?」
 そうなのである。フランスが誇る名優にして大スター、ジェラール・ドパルデューをわざわざ起用しながら、その出番は実 質わずか1シーンのみ。あとは出ているか出ていないか分からないくらいの、ボートに乗り移る場面。それもすぐに消えてしまうような出番だから、実は僕も本 当に彼がその場面に出ていたのかどうか心許ないくらいだ。実際、ボートに乗り移る場面に出ていたかどうか、見終わった今となったら僕の記憶は非常にあやふ やだ。ともかく、何とももったいない使い方なのである。
 しかも演じた役は、どうにも好きになれないキャラクター。正直言って、大スターの彼が演 じなければならない役ではない。フランス人の役だといっても、演じられる脇役俳優は掃いて捨てるほどいる。フランスでは近々高額所得者の税率を上げるとの ことだが、それに抗議の声をあげてベルギーに移住したのがこのドパルデューだった。そんな高額ギャラを受け取るスーパースターを、何でこんな小さくてつま んない役どころに起用したのか。予算的にも無駄にしかなってないではないか。
 おまけに劇場パンフレットを読んだら、もっと奇妙なことが分かって きた。そこにはアン・リーのインタビューが掲載されていたが、それによればこの映画の作家ヤン・マーテルの役は、本来はトビー・マグワイアで撮影されてい たというのだ。ところが世界的には無名の俳優たちの中にたった一人国際的な知名度のあるマグワイアでは画面の中で浮きまくったらしく、最終段階で降板と なったらしい。代わりにこの役を演じたのは、もうひとりのシェイクスピア(2011)で教養のない小悪党のシェイクスピア役を演じたレイフ・スポール だ。
 しかし、ここで考えていただきたい。知名度のない俳優たちの中に大スターを置いたら浮くというのなら、なぜ貨物船のコックなんて小さな役にわざわざフランスの大スター、ドパルデューを持ってきたのか。
  確かにトビー・マグワイアと比べれば、ドパルデューのアメリカでの知名度は大したものではない。そして本作は、あくまでアメリカ資本の映画だ。だからドパ ルデューは、ここでアン・リーが言う「国際的な知名度のある俳優」のうちに入らないという考え方もあるだろう。しかしドパルデューはマグワイアと比べれば アメリカでの知名度が低いものの、オスカー候補にもなり何作かのアメリカ映画に主演もしていて、他のフランス人俳優たちと比べればまだアメリカでの認知度 は比較的高い俳優だ。逆に言うと、もっとアメリカで知られていないフランス俳優がゴマンといる。ならば、ここでわざわざドパルデューを持ってくる意味がま すます分からなくなるではないか。こんな小さくて好感も持てない役どころに、どうしてギャラも高く観客に強烈な印象を与えるフランスの大スターを持ってこ なければならないのか。どう考えても、スジが通らないではないか。
 しかしながらこのジェラール・ドパルデューを巡る件などは、本作に感じた「違和感」のほんの一端に過ぎない。実はもっと大きな違和感や引っかかりが、この映画には出てくるのである。それは物語も後半に入って出てくる、主人公たちが奇妙な島に流れ着くエピソードだ。
  そこは最初から異質な印象を与えるエピソードで、視覚的にも「別世界」のようなユニークなビジュアルとなっている。見た目も奇妙なミーアキャットが、ウ ジャウジャと群れをなしている島。一見してヴェルナー・ヘルツォーク作品によく出てくる、小さなサルやカニやらがウジャウジャ出てくるような描写を思い出 してしまった。しかしヘルツォーク作品での「それ」は、あくまで無秩序な「群れ」の持つ得体の知れなさを表現したものだ。こちらの「それ」は、むしろ見た 目や動きなどに過剰な統一感やら均一感のある、リアリティのない不自然な「群れ」なのである。
 しかも、その島自体の有り様も奇妙だ。「砂漠にオ アシス」とばかりに主人公は島でくつろぐのだが、夜になって異変に気づく。澄んだ淡水を湛えていた泉の水は、生き物を溶かし尽くす強烈な酸に一変。かつて ここに流れ着いたであろう不幸な漂流者の歯が、花びらの内側からひょっこり出てくる。ここは「人喰いの島」なのだ。
 主人公のモノローグで「信じ てもらえるかどうかは分からないが」などと先手必勝で言われてしまうため、見ている側としては何とも言えなくなってしまう。しかしそうは言っても、そもそ も島の設定自体にリアリティがない。あまり大きくなさそうな島の上にあんな淡水の泉がいくつもポコポコ湧いているのもおかしいが、その水が夜になると強烈 な酸に変わってしまうってのは、もはや完全に本当の話とは思えない。例えばテリー・ギリアム「バロン」(1989)みたいな、一種の「ホラ話」めいて見 えてくるのだ。
 映画を見ている間、僕はこの島のエピソードを、漂流中に見た幻想か妄想ではないかと思ったりもした。他の場面がそれなりのリアリティを持っているのに、この場面だけが異様に現実味がなくて浮いているからだ。一体何でこんなエピソードを入れたのだろうか?
 いや、そもそも…リアリティのない「ファンタジー」的な部分は、映画全体の中でこの島のエピソードだけなのだろうか?

実は漂流記のほぼ全編が「ファンタジー」
 実はこの作品、終盤近くになって実に奇妙なエピソードを語り始める。
  先ほど、僕は「人喰いの島」のエピソードについても「奇妙である」と語ったが、「奇妙さ」でいったらこちらの方が遙かに上。この映画のレビューもそろそろ あちこちで見かけるようになってきたので、実はここから僕が話すこともすでにありふれたことになっているのかもしれないのだが…この映画には「単に男の子 とトラが漂流する話」とは思えなくなる部分が、どんなにニブい観客でも気づくレベルで存在しているのだ。それはまるで、まるで何かおいしいものを食べてい たらジャリッと奥歯で小さい石のかけらでも噛んでしまったかのような感覚を、見ている者に感じさせてしまうような部分なのである。
 そんな奇妙なエピソードは、主人公が助かった直後、病院で静養中に日本から船会社の社員が訪ねてくるくだりで出てくる。
 船の沈没原因が分からない船会社社員たちは主人公を問い詰めるが、その結果、例のトラとの漂流の話を聞かされて困惑。納得してくれない船会社社員たちのために、主人公は改めて「別バージョン」の話をする。その「別バージョン」の話というのが、実に忌まわしいものなのだ。
  そこでの登場人物は、トラや動物たちではない。主人公一家に食堂で親しげに話しかけた船員と例のコック、そして主人公の母主人公自身だ。彼らは命からが らボートで脱出できたものの、当然のことながら飢えに苦しむ。そのあげくコックがケガが悪化した船員の脚を切断して、それを喰ってしまう。さらに他の人間 を喰おうと大荒れするコックと主人公が対立して…といった具合で、こちらの「別バージョン」の話はそれまで語られていた「本編」と比べて陰々滅々たる内 容。そのくせ対照的な陰惨な内容に見えながら、実は人間を動物に置き換えるとなにげに「本編」と重なってくる展開にもなっているから何とも奇妙な気分に なってくる。
 おまけに、そんなこちらの気持ちを見透かすように、聞き手である作家がバカ丁寧に説明をするのだ。「ハイエナがコック、シマウマが船員、オランウータンがお母さん、そしてトラがあなたですよね…」
 確かにそうだ。ここまで映画を見てきた僕らも、そうだろうなとしか思えない。だとすると、これは一体どちらのバージョンが本当の話なのかということになってくる。その後に続く作家と大人になった主人公のやりとりが、これまた微妙なのだ。
 「あなたはどちらの話がいいと思いますか?」
 この台詞、実際の人間が出てくる新バージョンの話が、必ずしも「船会社社員たちのためにでっち上げられた」とは限らない…ということを暗示しているように聞こえるである。
  おまけに、その「新バージョン」の話を船会社の社員たちに語っている主人公の映像が、ともかく尋常な雰囲気ではない。そこでは主人公は号泣し、混乱しなが ら、事の次第を語っているのである。果たしてこれが、船会社社員のために「作り話」をしている様子に見えるだろうか。いやいや、むしろこの「新バージョ ン」のほうこそ、主人公の身に起きた本当の話と考えるのが自然ではないか。
 そして、それまで男の子とトラの漂流記として語られてきたこの物語が、ここへ来ていきなりダークな色合いを持ってきたことこそ、この映画の本当に言いたかったことだと思えてくる。
 例えば…それまでのトラとの漂流記は、実は陰惨この上ない「実話」を自分の心の中から抹消し、あるいは純化・美化するための「脳内」体験談だったのではないだろうか。つまりは、それは一種の「ファンタジー」だ。
 そう考えてみると、すべてはつじつまが合ってくる
  漂流中に出てくるエピソードの数々…トビウオの大群やらクジラのジャンプの場面をご覧いただきたい。これらの場面はいずれも「現実に存在しうること」では あるが、ビジュアル的にはかなりファンタジー的に描かれている。CGによって描かれている(描かざるを得なかったとも言えるが)せいか、いかにもファンタ ジーめいて見えるのである。
 それどころか、そもそもトラと「一対一」で大海原を漂流なんて出来るのだろうか。そんな奇想天外な話をリアリティを 持って語るのがこの物語だが、考えようによってはこの物語自体の方がよっぽど「ファンタジー」ではないのか。原作にしたって、実話から作られたものでもな いのである。
 そう考えると、この作品が「CG」を多用した「3D作品」として描かれていることも、単に表現上の制約によるものとは言えないかも しれない。最初からこの作品がホビット/思いがけない冒険(2012)みたいな作品だと考えれば、しごく当然なことなのだ。トラをほとんどCGで作っ ちゃったことも、単に調教が難しいからではないかもしれないのである。
 聞くところによると、本作はアン・リーが監督に決定する前に、何とM・ナ イト・シャマランアルフォンソ・キュアロン、さらにジャン=ピエール・ジュネを起用する話があったらしい。シャマランはインドつながり(笑)かという気 もしないでもないが、これらの顔ぶれを見ると、いずれもSFXやCGを多用したファンタジー映画の作り手であることが分かる。つまり最初の段階から、この 映画は「ファンタジー」として企画された可能性が高い。だとすると、トラとの漂流はすべてファンタジーであると考えた方がスジが通る。
 逆に、船 のコックの役にジェラール・ドパルデューなんて大物を持ってきたことも、これで頷ける。実際に顔を出すのはほんのわずかの場面。だからそれだけの場面で、 強烈な印象を残す俳優が必要だったのだ。あの粗野で野蛮で乱暴な、まさに「肉食」なキャラクターを問答無用で観客の脳裏に焼き付けるために、ドパルデュー の肉体と個性が必要だったのである。そんなドパルデューがいつの間にか乗り移ったボートから消えるのも、まさに必然だ。
 そうなると…主人公の脳 が一種の「代償機能」を果たして、悲惨な現実の代わりに壮大な「ファンタジー」の記憶を植え付けてくれたのかもしれない…という推論が成り立つ。そう考え るとすべてが納得できるし、理屈も合う。素晴らしい冒険談に一点暗いシミのようなダークサイドが刻印されてしまうが、人間というものの不思議さを感じさせ る趣向と考えるべきなのかもしれない。
 しかし…またついつい思ってしまうのだ…単純にそれでいいのだろうか?

アン・リー作品に一貫する「主旋律」
 本筋と思われていたトラとの漂流談が実は虚構のファンタジーで、本当は陰々滅々たる人間同士の葛藤があった…。
 確かにさまざまな事情から考えると、そう考えればつじつまが合う本作。しかし、それだけではどうにもスッキリ来ない。
  何より気になるのは、例の作家がまるで三歳児に噛んで含めて言うように語っちゃうところ。暗示で止めておいても十分見ている者には伝わるのに、「ハイエナ がコック、シマウマが船員、オランウータンがお母さん、そしてトラがあなたですよね…」などと、クドクドと説明しちゃうあたりが妙なのだ。
 これ はつまり、作り手が「トラとの漂流談はファンタジーなんですよ…なんてことは当たり前のことで、それをさもこの映画の“結論”みたいに思ってほしくない」 ということではないのか。そのために、観客がそれを大発見みたいに思う前に先周りして、すべてを分かり切っていることとして種明かししているとは言えない だろうか。言いたいことは「それ」じゃない。アン・リーは、「そんなことはこの映画で最も大事なことではない」と観客に提示しているのである。
 それでは、アン・リーが本当に言いたかったことは何なのか?
 僕はそのヒントが、主人公のファンタジーの中で人間が動物に例えられていた点にあるように思われる。
  コックがハイエナであることを初めとして、実際の登場人物を動物に例えて物語った主人公。それが、人間も所詮は動物である…ということを意味しているとい うことは、割と簡単に想像がつくと思う。特にコックは他の人間の足を切断して食ってしまうなど、文字通りケダモノとしてのおぞましさを発揮する。しかしト ラになぞらえた主人公も、そんなコックに対抗するためにナイフを振り回すようになるのだ。彼らも含めて、生きるか死ぬかの場面では人間などケダモノにしか ならないのかもしれない。
 それはしかし、必ずしもネガティブな意味合いだけではない。
 人間が本来持っている「動物」としての本能が、 苦しい漂流の間、主人公を生かしてくれたとも言える。「ファンタジー」中でも主人公は、トラがいなかったら生き延びていられなかったと言っている。ここで のトラは、「動物」としての人間が持つ「生命力」の象徴だと考えるべきだろう。
 僕はこのあたりのことを考えていた時、本作とはまったく縁もゆか りもない、ある単純な娯楽映画のことを思い出していた。それは、シルベスター・スタローンの大ヒット・シリーズ「ロッキー3」(1982)だ。この作品で は成功によってスポイルされてしまった主人公ロッキーが闘志を取り戻すべく奮闘するのだが、その過程でハングリー精神の象徴として何度も口に出されるの が、主題歌タイトルにもなった「アイ・オブ・ザ・タイガー」だ。そう、「トラの目」を取り戻せと語られる。僕はこれを冗談では言っていない。まさに「ト ラ」こそが、野生や動物的本能の象徴なのである。
 そんな本作で、「獣性」の象徴であるトラが漂流中に主人公と「同居」しているのは、いかなる理由からだろうか。
 「新バージョン」のお話では、主人公はトラに例えられていた。しかし元々の漂流談では、その主人公とは別にトラが存在しているのだ。これはどういうことなのだろう? 
 本作では話が本題に入る前に、やれ主人公の名前の由来だとか宗教を三つも信じているだとか、本題とどう関わりを持つのか分からないエピソードが延々と続く。見ている間は「これって何なのだろう?」と不思議に思っていたが、実はこれが重要なのだ。
  思い起こしていただきたい。主人公は自らの不名誉な呼び名を改めるべく、自分は「パイ」であると宣言して、いきなり円周率を黒板に並べ始める。次にヒン ズー教徒である彼がキリスト教に開眼し、さらにはイスラム教にもハマる過程を語っている。そして、次の主人公の人生遍歴は、若い娘との恋だ。「学問」も 「哲学」も「愛情」も、人間だけが持てる要素だ。これは「獣性」に対して人間的要素の代表例として挙げられているはずである。
 そんな主人公が自 らを動物に例えたトラと同居しているという状況は、まさしく「獣性」と「人間性」との間で引き裂かれている状況を表していないか。漂流の間、主人公は「動 物」としての生命力を引き出されながら、あくまで「人間」として生きようとする。漂流生活が苦しかったのは飢えや乾きだけではなく、そうした葛藤の中に あったからではないのか。
 トラが象徴する「生命力」は、主人公が生きるためのパワーだ。それが彼を生き延びさせもしたし、あくまで「人間」とし て生きたい彼を苦しめもした。そんな主人公とトラが何とか海岸にたどり着いて助かった時、ジャングルへと消えていったトラが主人公を一顧だにせず去って いったことに、主人公は激しいショックを受けたと告白している。それは彼が人間社会に復帰できたことによって、彼の中からそんな力強い「生命力」が失われ た…と感じたからではないだろうか。その時、彼はもう「人間性」と「獣性」とのせめぎ合いに苦しまなくても済むと感じながら、それに一抹の寂しさを感じて もいるのである。
 理性や優しさを持っている人間を、ケダモノのレベルに落としてしまう「動物性」。しかしその「動物性」は、一方で人間を生き延 びさせる「生命力」の源でもある。その矛盾しながらも切っても切れないネガティブ・ポジティブ要素こそが、ここでアン・リーが描きたかったことではないの か。
 考えてみれば、アン・リーはこれまでも作品の中で、相反する要素に引き裂かれる人間を描いてきた。
 例えばラスト、コーション (2007)では、対日協力者をスパイするヒロインが彼への愛情を抱いてしまうという、あってはならないことが起きる。しかし、そもそもヒロインの仲間た ちが本当に「仲間」で、敵がヒロイン個人にとって本当に「敵」なのか…といえば、実際のところどうなのだろう。またアン・リーの作品群をさかのぼっていけ ば、マッチョな男世界の住人であるカウボーイ二人が、図らずも同性愛に足を踏み入れてしまうブロークバック・マウンテン(2005)も、そうした相反 する要素に引き裂かれる人間の物語だと言えるだろう。そういう内容とまったく関係ないように見える「ハルク」(2003)にしたって、主人公の理性を凌駕 してしまう強大なパワーが、彼をヒーローにもしてくれる。とりあえず思いついた作品だけ挙げてみても、アン・リーはこういうアンビバレンツな要素に引き裂 かれる人間に興味があるようなのだ。
 あるいは本作で描かれているものを、「人間」としては露わには出来ないが、それなしには生きていけない「獣性」…と考えるならばどうだろう。
  人には隠しておかなければならないが、自分を駆り立てて抑えることができない衝動…という範囲まで解釈を広げれば、これはアン・リー作品の中でよく見かけ る風景になっていく。先に挙げた3作だけでなく、何も知らない両親の手前、偽装結婚をしようとするゲイの男性を描いた初期作品の「ウェディング・バンケッ ト」(1993)や、ごく普通の二つの家族が複雑に絡んだ不倫関係によってねじれていく「アイス・ストーム」(1997)などもその範疇に入ってくる。い や、単に僕が気づいていないだけで、まだまだ他にもあるかもしれない。そんな彼の作品に一貫した「主旋律」が、今回も間違いなく奏でられているのである。
 まぁ、あんまり理が勝ちすぎると、面白いものも面白くなくなる。映画なんてあまり理屈で考えない方がいいくらいだ。ましてこの映画は、3DやCGによるビジュアルだけで、十分元をとれるほど楽しい作品だ。だからあまりゴチャゴチャ言うのは野暮なのかもしれない。
 それでも終盤に意外なほどのダークサイドを感じさせるこの作品は、一見、アン・リー作品らしからぬ作品に見えながら、実は何よりもアン・リー作品そのものの特徴を持っているのである。

 

 

 

 

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