新作映画1000本ノック 2012年11月

Knocking on Movie Heven's Door


このページの作品

「リンカーン/秘密の書」 「鍵泥棒のメソッド」 「みんなで一緒に暮らしたら」 「ライク・サムワン・イン・ラブ 」 「最強のふたり」 「最終目的地」 「ウェイバック/脱出6500km」

 

「リンカーン/秘密の書」

 Abraham Lincoln : Vampire Hunter

Date:2012 / 11 / 26

みるまえ

 この作品の予告編を見た時には、すぐに内容が分かった。かつてのアメリカ大統領リンカーンが、実は秘かにヴァンパイア・ハンターとして活躍していたというお話だ。同時期に前後して公開される「推理作家ポー最期の5日間」(2012)みたいな、実在人物を使ったフィクション。早い話が「暴れん坊将軍」みたいなものだ(笑)。偶然にもこれまた同時期にはリンカーン暗殺に関わるロバート・レッドフォード監督の「声をかくす人」(2011)も公開されているが、そちらがあくまでシリアスなタッチで歴史の裏側ドラマを描こうとするのなら、こちらは何しろ「暴れん坊将軍」(笑)だから荒唐無稽。派手なアクションとスペクタクルで見せようというわけだ≠ィまけに3Dと来る。Bまぁ、ヴァンパイア仕立てで描いたリンカーンの「若き日の大冒険」みたいな話だろう。プロデュースにあのティム・バートンが加わっているのも注目だが、もっと気になったのは、ロシアで「ナイト・ウォッチ」(2004)を大ヒットさせた後、いつの間にかちゃっかりハリウッドに渡って「ウォンテッド」(2008)なんて映画を撮っていたティムール・ベクマンベトフが監督だということ。ロシア出身の監督が撮るリンカーン映画! しかもヴァンパイアが出てくる(笑)。もうそれ自体が冗談としか思えない。正直「ナイト・ウォッチ」は意欲余って空回りなところが気になったものの、今回の監督ぶりはどんな具合か確かめてみたくて劇場へと駆けつけたわけだ。

ないよう

 アメリカの偉大な大統領として知られるエイブラハム・リンカーン。彼が大統領を務めた頃のホワイトハウスは、現在では想像も出来ないほど鬱蒼とした緑に囲まれた場所だった。そしてリンカーンに隠されたもうひとつの顔があったことも、現在では想像が出来ないかもしれない。この物語は彼が秘かに書き留めた分厚い日記に基づいたものである。そんなリンカーンのもうひとつの顔は、大統領としてホワイトハウスの主となる遙か昔、彼が少年時代のある日に遡る。ある日、父親トーマス(ジョゼフ・マウル)や母ナンシー(ロビン・マクリーヴィー)と河の桟橋にいた少年リンカーンは、幼なじみである黒人少年ウィル・ジョンソンがムチ打たれるのを目撃する。南部と違ってここ北部ではそれほど黒人差別は激しくなかったが、それでも虐げられていたのに変わりはない。それを見ていたリンカーンは止めようとするが、父トーマスはそんなリンカーンに「手を出すな」と押さえ付けた。しかし持ち前の正義感が強いリンカーンは止まらない。自分の斧を持ってウィルが痛めつけられているところに駆けつけ、彼もまた一緒にムチ打たれるハメになってしまう。こうなると父母も黙ってはいられない。トーマスは子供たちをムチ打つ男を川に投げ込んで助け出したが、男の使用人である地元の大立者ジャック・バーツ(マートン・ソーカス)は、そんなトーマスに仕事の解雇と今までの借金の返済を言い渡す。力無く「返せるアテがない」と答えたトーマスに、バーツは「それでは別のモノで返してもらわなくてはな」と不気味に返すのだった。その言葉は、すぐに現実のものとなる。夜中に奇妙な気配を感じたリンカーン少年は、自分たちの家の中に何者かが侵入したことに気付く。かと思うと、それはいつの間にか母親ナンシーの枕元に忍び寄っていた。リンカーンが見たその人物の正体は、あの大立者ジャック・バーツではないか! そして翌日から、母親の体調はいきなり悪化。リンカーンには、それがあのバーツの仕業であることが分かっていた。やがて母親は奇妙な死を遂げて、その数年後には父親も後を追うように死亡。その後、逞しく成長した青年リンカーン(ベンジャミン・ウォーカー)ではあるが、彼は片時も母親の仇をとることを忘れたことはなかった。しかし、復讐を実際に実現するのはなかなか度胸が要る。そんなわけで酒場のカウンターでウイスキーをあおっていた彼は、酒の力を借りて長年の目的を果たそうと思っていたのだった。そんなリンカーンの胸の内を見透かすように、彼に声をかけてきた男が一人。「そんな酒の飲み方をしているところを見ると、女でも口説こうとしてるのか? それとも人殺しでもしようとしてるのか?」…図星を突かれてギョッとした拍子に、隠し持っていた拳銃を取り落としてしまうリンカーン。彼に声をかけてきたのは、ヘンリー・スタージス(ドミニク・クーパー)という男。彼はどうやらリンカーンの思惑などお見通しのようだ。しかしリンカーンはそんなヘンリーと別れて、夜道を一人で例の桟橋へと向かう。あのバーツは、彼のボスであるらしいアダム(ルーファス・シーウェル)やヴァドマ(エリン・ワッソン)という女が舟で立ち去るのを見送っていたところ。いずれも何となく胡散臭い連中ばかりだ。リンカーンはバーツが一人になったところで彼の前に立ちはだかる。ところが意に反して、バーツは余裕綽々。彼に銃弾を浴びせても、まるでこたえている気配がない。逆に劣勢に追い込まれたリンカーンは、慌てて桟橋にある小屋に立てこもる始末だ。何とか拳銃にもう一発弾丸を込めて、襲い掛かってきたバーツの目玉を撃ち抜くリンカーン。今度こそ奴を仕留めたとホッとしたリンカーンだが、ちょっと目を離した隙に奴の死体は姿を消すではないか。あっと驚いたリンカーンの目の前に、目玉に弾丸をくらったままのバーツが仁王立ち。この男、何発弾丸を受けても死なないのか。たちまち追い込まれたリンカーンに、いきなり人相を替えて牙を剥きだしたバーツが襲い掛かる。ところが次の瞬間、バーツの首根っこが何者かにつかまれ、思いっ切り高くぶん投げられてしまう。唖然呆然としたまま意識を失っていくリンカーンの前に現れたのは、先ほど酒場で声をかけてきたヘンリーだった…。

ここからは映画を見てから!

みたあと

 この後、ヘンリーによる特訓を経てリンカーンは本格的にヴァンパイア・ハンターとしてデビュー。闇の仕掛人として夜な夜な彼らを殺していくことになる。一方で雑貨屋の主人スピード(ジミ・シンプソン)や再会したウィル・ジョンソン(アンソニー・マッキー)との交友や、美しいお嬢さんメアリー(メアリー・エリザベス・ウィンステッド)との恋愛なども出てくる。そういう意味では映画を見る前に予想していたように、これはリンカーンの「若き日の大冒険」物語になっているわけだ。ところが映画は途中からそれではとどまらず、大統領になってからのリンカーンまで描き始めるではないか。これは正直予想していなかったのでビックリ。まさか「エアフォース・ワン」(1997)とか「インデペンデント・デイ」(1996)じゃあるまいし、実在の人物でホントに「戦う大統領」をやっちゃうとは思わなかった。これは予想以上に「暴れん坊将軍」的な展開だ(笑)。そういや「エアフォース・ワン」の監督はドイツ人のヴォルフガング・ペーターゼンだし、「インデペンデンス・デイ」の監督はこれまたドイツ人のローランド・エメリッヒ。こんなムチャをやってしまうのも、監督がアメリカ人ではない(実際にはロシア人ではなくてカザフスタン出身らしいが)ベクマンベトフだからなんだろうか。

みどころ

 ところがこの映画、意外に時代考証とか美術などがリアルでキッチリやっているから驚く。だから「暴れん坊将軍」的荒唐無稽アクションだと決め付けて見ていると、意外に風格があるのに気付かされるのだ。当然のことながらリンカーンが大統領になった後のことまで描くとなると、奴隷制廃止とか南北戦争のことまで描かなくてはならなくなる。そのあたりの描き方にも、一切手抜きがないのだ。しかも奇妙なことに…リンカーンがそのような政策をとるに至った理由にヴァンパイアの撲滅を置いてみると、無理がないどころか思いのほかしっくり来てしまうから不思議だ。つまりヴァンパイア要素が加わってはいるが、割と本気で作ったアメリカ政治裏面史というかリンカーン秘話となっているのである。おまけにリンカーンを演じるベンジャミン・ウォーカーがかなり雰囲気を出しているから、ますますリアリティが増す。リンカーンが実は裏でヴァンパイア退治をしていたってだけのアイディアは大したものではないが、「ダーク・シャドウ」(2012)の脚本も書いているセス・グレアム=スミスの原作・脚本はこのお話に必然性を与えて一本スジを通している。これは予想外の収穫だった。

こうすれば

 しかし大変残念なのだが、肝心のベクマンベトフの演出がいただけない。「マトリックス」(1999)以降に氾濫した類のCGを織り込んだ大アクションが、あまりに過度に大げさなのでマンガみたいに見えるのだ。正直言ってCGでどんなに派手なアクションをやられても、見ているこっちとしては今さら衝撃も感激もない。そりゃCGだから出来て当たり前ってなもんである。おまけにあまりにマンガチックなスーパーマン的大暴れなので、いささか幼稚に見えてしまう。せっかくお話がそれなりのスケールで作り上げてあるのに、アクションが上滑りしてアホらしく見えてしまうのである。おまけに語り口まであまりトットコとテンポが良すぎ。特に後半のリンカーンが大統領になってからのお話の間引き具合は、この映画のスケール感を著しく損なっている。もうちょっとゆったり腰を据えた語り方は出来なかったのだろうか。せっかくの素材がブチ壊しだ。そういえば「ナイト・ウォッチ」の時もこうだったんだよなぁ。スケール大きい話になりそうなのに、チャッチャカと語り口が軽すぎ安っぽすぎ。おまけにアクションもチャカチャカせわしなくてショボい話に見えてしまっていた。こいつさえもう少し落ち着いた語り口で作ってくれたら、もう少し何とかなっていたものを。ラストは現代にまで下って、再びバーのカウンターにヘンリー(ドミニク・クーパー)が登場という粋な幕切れ。広がりと余韻のあるエンディングとなっているのに、まったく残念で仕方がない。あのチャカチャカCGアクションは何とかならないもんだろうか。

さいごのひとこと

 せっかくの素材が粗製濫造で残念。

 

「鍵泥棒のメソッド」

 Key of Life

Date:2012 / 11 / 26

みるまえ

 元来、僕はみなさんご存知の通り、日本映画をあまり見ない男だ。だが、そんな僕が新作が出たら必ず見たいと思っている日本映画の作り手が、たった一人だけいる。それが内田けんじ監督だ。この人の劇場映画デビュー作「運命じゃない人」(2005)については、当初ほとんどその存在を知らないし、見たいと思っているわけもなかった。ところが何かの偶然で見ることになって、その面白さに仰天。何より「日本映画らしからぬ」(この部分、意義を唱える向きも少なくないだろうが、あえて強く言いたい)論理的で乾いた構成の脚本に、大いに驚嘆させられた記憶がある。そして、「運命じゃない人」の記憶が薄れ始めた頃にやっと発表された第2作「アフタースクール」(2008)では、さらにスケールアップしてさらに面白さが増したからますますビックリ。これは大変な映画作家だと本気でフォローする気になった。しかし、またしても内田監督は沈黙。またまたこちらもその存在をいい加減忘れかけてたが、ここへ来てようやく最新作が登場だ。しかも主演には堺雅人、香川照之、広末涼子…とキャスティングもさらにメジャー化(これについては好みもあるだろうから、あまり深い意味はない)。どこかのミニシアター…ではなく、堂々各地のシネコンにて上映の運びとなった。過去2作とも抜群の面白さでハズシなしの内田監督。今回も絶対に見ないわけにいかない。感想文アップは大幅に遅れたが、本作は公開直後に劇場へと駆けつけたわけだ。

ないよう

 几帳面そうに書き込まれた手帳のページに「たいへんよくできました」のハンコが押される。ハンコを押したのは、地味と几帳面が服着て歩いているような雑誌「VIP」編集長の水嶋香苗(広末涼子)。彼女は周りにいる編集者たちの労をねぎらいつつ、早くも次号のスケジュールを配り始める。さらにあくまでさりげない様子で、一同がアッと驚くことを宣言した。「ところで…プライベートなことなんですが、私、結婚することにしました」…。さらに周囲がたまげたのは、そのお相手がまだ決まっていないということ。そんな香苗の言う相手の条件は「健康で、努力家の方であれば」。香苗は相手探しの協力を彼らに依頼するとともに、結婚のスケジュールを一ヶ月後と設定する…。そんなある夜、住宅街に高級車が静かに停まっている。車内にたたずむコンドウ(香川照之)が、カーステレオで流れる荘厳なクラシックに聴き惚れる。ところが建物から一人の男が出てくるのを見ると、手早く雨ガッパや手袋、マスクなどを身につけたうえ、ナイフを持って外に出た。コンドウはいきなり男に近付いていくと、ナイフで何度か男を刺す。ぐったりした男の身体をクルマのトランクに押し込めると、コンドウは血まみれのレインコートなどを手早く脱いでゴミ箱に捨て、クルマに乗りこんだ。その一連の動きには、まったく無駄がない。こうして走り去っていくコンドウのクルマを、チンピラの藤本(ウダタカキ)が唖然と見守っていた…。それからしばらく経った頃、汚いアパートの一室で物凄い物音がする。まったく売れる見込みのない貧乏役者の桜井武史(堺雅人)が首吊り自殺を図ったが、ひもをかけた電球が重みに耐えきれず落ちてしまったのだ。あまりに情けなくて涙目。部屋の中にはゴミが散乱しているが、サイフを見ても金がない。タバコすらない。たったひとつ手元にあるのは銭湯の入浴券のみ。仕方なく彼は、昼間から銭湯に出掛けることにする…。その頃、例のコンドウのクルマは渋滞にハマって立ち往生。彼は手首に例の返り血がわずかながら付着しているのに気付き、思わずウンザリする。そんなコンドウの目に、銭湯の煙突が飛び込んでくる…。何の運命のいたずらか、銭湯のロッカーで隣り合わせになるコンドウと桜井。桜井はコンドウのデカい札入れに思わず注目したが、何食わぬ顔で浴室に入っていった。浴室は結構混み合っている。桜井は横の男が置いた石鹸を失敬しようとするが、気付かれて取り落としてしまった。するとその石鹸はあちらからこちらへ。巡り巡って浴室に入ってきたコンドウの足下へと滑り込んでいく。ツルッと滑ったコンドウはそのまま宙に浮いて転倒。そのまま浴室の床に大の字に寝そべってしまった。どうも倒れた時に頭を強打したらしく意識不明。倒れたコンドウの周囲を人々が取り囲む中、桜井はたまたま足下に転がってきたコンドウのロッカーの鍵をコワゴワと拾う。そして桜井は自分の鍵をコンドウの手元に置くと、そそくさとロッカーを開いて、コンドウの衣類を取り出した。こうしてコンドウは、桜井の衣類とともに救急車で病院へとかつぎ込まれる。一方、コンドウのスーツを身につけた桜井は、コンドウの高級車を近くの駐車場で発見。おっかなびっくり乗りこんでエンジンをかけた…。こうしてコンドウになりすました桜井は、コンドウの金を勝手に使って、今まで踏み倒してきた知人への借金の返済を始める。そんな中にはかつての恋人もいた。久し振りに会った彼女は、結婚間近で引っ越し作業の真っ最中。返された昔の写真には、笑顔の桜井と恋人の姿があった。それらを見ながら、桜井は号泣せずにはいられない。そんな桜井はコンドウの持ち物を返すため、コッソリと彼の病室にやって来る。ところが、たまたま意識を取り戻したコンドウに捕まってしまった。どうやらコンドウは、頭を打って記憶を失ってしまったらしい。桜井は彼と銭湯で偶然に出会ったことを告げると慌てて病室を飛び出し、コンドウの持ち物を返しそびれてしまった。そんなコンドウは病院で自分が桜井という男であること、天涯孤独の身であること、所持金もほとんどなく古いアパートに住んでいることを聞かされて唖然呆然。とりあえずそんな自分の境遇を、几帳面にノートにひとつひとつ書き留めていく。てっきり自分は売れない役者だと思い込んだコンドウは、すでに桜井の予定に入っていたエキストラ出演などをこなしていくうちに、元々凝り性な性分が妙なかたちで開花。ますます演技にのめり込んでいく。そんなコンドウとたまたま病院で知り合った香苗は、生活を再構築しようとするコンドウに惹かれてどんどん彼に深入りしていくことになる。一方、コンドウになり代わった桜井は、彼のマンションで拳銃を発見。さらに偶然かかってきた電話をとったことから、自分がヤバイ世界に片足突っ込んだことに気付くのだった…。

みたあと

 先にも述べたように、内田監督といえば以前の2作で見る限り、まずは巧みな構成による「脚本」ありき…の観がある。僕はそれを「論理的で乾いた構成」と先ほどは書いたが、徹底的にロジカルでスジの通らないところがない…というのは、残念ながら日本映画では稀な美点であるように思う。そして時制や主観を微妙にズラし、伏線を張り巡らせることによって、観客を見事にドンデン返しへと持ち込む力業も凄かった。今回も脚本の妙は健在で、設定の見事さや伏線の巧みな張り方も健在。そういう意味ではまたまたお馴染みの内田作品…と言えるのだが、実は前2作とはどこか微妙に違っているところも感じられるのだ。

ここからは映画を見てから!

みどころ

 まず今回、最大に違っている点を言えば、十八番だった時制や主観を微妙にズラすという手法を使っていないことだろう。これまでは毎回これで観客はうまく「ダマされていた」のだが、なぜか今回はこれを封印。その結果、スタイルとしてはいわゆる「普通の」映画に近付いたかたちになっている。しかし、従来のように見事な「ダマし」がなくなったからといって、内田作品が凡庸な映画になったかと言えばこれについては「否」。ドンデン返しはほとんどない作品ではあるが、先にも述べたように伏線の見事さは今回も健在。相変わらず観客は巧みに作品世界に誘導されていくのだ。しかも今回、時制や主観のズラしを回避したためか、それぞれの主要キャラクターに素直に感情移入する度合いが増したようにも思える。今回は技巧に走ることを最低限に抑えた結果、主要登場人物3人それぞれのキャラクターの妙を味わう映画となっているのだ。特に面白いのは「殺し屋」コンドウの完全主義が、役者に転じた後も最大限に活かされること。実はこの点については、最小限ではあるが本作に残された「ダマし」も加わって、絶妙な効果を挙げているのだが…。ともかく日本映画界で当代きっての売れっ子、香川照之の絶妙な演技のおかげで、状況の激変に応じてガラリと変わったコンドウのキャラクターと、変わったようで共通する部分の両方を描き出すのに成功している。これは見事としか言いようがない。広末涼子もなかなか適役好演なのだが、役柄のせいもあるが見た目のパサパサ感が少々気になった。また、内田監督の前作「アフタースクール」に続いての堺雅人の軽妙なマヌケさも捨てがたい。圧巻だったのはこのダメ役者の桜井が、コンドウ救出のため一世一代の大芝居を打つくだり。それまでのヘボ役者ぶり、度胸のなさを払拭するような見事な「殺し屋」演技によって、本作の「人は必ずやりなおせる」というテーマが力強く打ち出されていく。この典型的ダメ男桜井でさえもラストにキチンと「救済」されるあたりが、内田作品の律儀さであり見事さだ。イマドキはハリウッド作品でもおろそかにされるストーリーテリングの妙が、内田作品ではいまだに脈々と生きているのだ。前述したように伏線の見事さは今回も磨きがかかっていて、映画の初めの頃に桜井がおっかなびっくりコンドウのクルマに接した時にいきなり防犯アラーム音が鳴って笑わせるが、それは最後の最後まで活かされ、「胸キュン」の効果音としてまるで風呂敷の最後のひとしばりのようにキッチリ使われているのに思わずうなってしまった。

さいごのひとこと

 見終わったら、また次の作品が待ち遠しくなる。

 

「みんなで一緒に暮らしたら」

 Et si on vivait tous ensemble ? (Aii Together)

Date:2012 / 11 / 12

みるまえ

 この作品のことは劇場に置いてあるチラシで知った。ジェーン・フォンダが何と40年ぶりにフランス映画に出演というのが売り。何と40年ぶり…というのは、おそらくロジェ・バディムと結婚していた頃にフランス映画にチョコチョコ出ていたから、それ以来ってことだろうか。「バーバレラ」(1967)とかそのへんの作品…そういやイブ・モンタンとゴダールの映画にも出ていたことがあったな。まぁ、その頃以来ってことなんだろう。だが、それより何よりジェーン・フォンダが映画に出ること自体が久方ぶりってことにならないか? たぶんここ10年ぐらいスクリーンでその顔を見ていない気がするのだが…。ワークアウトのビデオとかCNNの親玉との結婚とか、アレコレ話題には事欠かなかったはずなのに、いつの間にかパタッと世間からその姿を消していたのだった。そして、そんな久々の出演作がどうした理由でフランス映画になったのかも気になる。ロバート・デニーロがいきなり「昼下がり、ローマの恋」(2011)でイタリア映画に挑戦したのも不思議だったが、今回のジェーン・フォンダはどうした風の吹き回しだろうか? お話はジイサンバアサンたちが共同生活を営むようになるようなものらしいが、正直言ってそんなのはどうでもいい(笑)。長年の映画ファンとしては、あの…ここだけの話、どこか「上から目線」のキャラクターだったジェーン・フォンダが、どうして今ごろヒッソリとフランス映画に舞い戻ってきたのかが気になるのだ。

ないよう

 パリの郊外に暮らす、友人同士の年老いた男女たち。そのうちの一人ジャンヌ(ジェーン・フォンダ)は、医者の診断から戻ったところ。実はCTスキャンの結果、思わしくない事実が発覚。しかし彼女はそのCTの画像を破り捨て、夫のアルベール(ピエール・リシャール)にも何食わぬ顔をしている。そのアルベールは、最近どうも物忘れがひどすぎるようだ。この日は気の置けない友人たちの集い。仲間内のクロード(クロード・リッシュ)の75歳の誕生日を祝いに、社会活動に熱心なジャン(ギイ・ブドス)と心理学者アニー(ジェラルディン・チャップリン)の家にジャンヌとアルベールの夫婦もやって来た。この5人は、かれこれ40年来の仲間だ。会話ははずみ、クロードも大いにハシャいだが、実は彼は心臓発作以来少々神経質になっていた。そんなパーティーの最後に思わずジャンが「みんなで一緒に暮らさないか」と発言するが、一気に座がシラけてお開き。みんなが帰った後で妻のアニーに「冗談じゃないわ」とダメ押しされる始末だ。元々カンシャク持ちのジャンはこれで堪忍袋の緒がブチッと切れるが、アニーがそんな時の収め方を承知しているのは言うまでもない。そんなある日、アルベールが転倒して大ケガするという事件が起きる。大柄な愛犬オスカルは、もはやアルベールの手に余る存在になっていた。これを重く見た彼の娘はオスカルを保健所に預けてしまうが、大事にしていた愛犬の不在にアルベールはションボリ。見かねたクロードとジャンは、勝手に保健所からオスカルを奪還してしまう。一時は娘の言うことに耳を貸したジャンヌも、犬の世話係としてドイツ青年ディルク(ダニエル・ブリュール)を雇うことで、オスカルを手放さないことを決意する。一方、独身のクロードは今では売春婦との遊びが唯一の生き甲斐。ところがイソイソと美女のアパートに行く途中で持病の心臓発作が起きた。こうして病院に担ぎ込まれたクロードは、彼の息子によって老人施設に入れられてしまう。心配してお見舞いに訪れたジャンヌ、アルベール、ジャン、アニーの4人は、すっかりショボくれてしまったクロードに唖然呆然だ。特に血の気の多いジャンは、こんな状況に我慢がならない。「こんな場所で友だちを死なせられるか!」と全員でクロードを施設から奪還してしまった。さぁ、こうなるとジャンが提案していた「みんなで一緒に暮らす」というプランが現実味を帯びてくる。特に自分の寿命を知ったジャンヌにとっては、日々記憶を失いつつあるアルベールを一人遺してこの世を去るのが忍びなかった。こうして各人の思惑は合致し、ドイツ青年ディルクまで引っ張り込んでの、ジャンとアニーの家での共同生活がスタートすることになる。しかし、長年の友人同士と言えどもやっぱり他人。おまけにいいかげんあちこちガタが来ている彼らの共同生活は、当初思っていたほどスムーズには進まなかった…。

みたあと

 やっぱりこの映画を見るにあたっては、ジェーン・フォンダの久々の銀幕復帰、久々のフランス映画登場が関心の中心になってしまう。映画としてはアンサンブル・キャストの一員に過ぎないと分かっていても、どうしてもそこが気になるのは仕方ないことだろう。何しろジェーン・フォンダ自身がアメリカ映画界でも特異な位置を占めていた女優さんだ。ヘンリー・フォンダの娘としてデビューして、すぐにフランスのロジェ・バディムにタラし込まれてのフランス・セクシー路線時代、そしてバディムと決別して反戦運動やウーマンリブに没頭する時代、さらにフレッド・ジンネマンの「ジュリア」(1977)で本格的に映画に復帰してからの怒濤の快進撃へと突き進む。僕はまさにこの「ジュリア」以降の彼女をリアル・タイムに見ているのだが、ベトナム反戦メロドラマ「帰郷」(1978)、反原発サスペンス「チャイナ・シンドローム」(1979)、働く女性を支援したコメディ「9時から5時まで」(1980)…と次から次へと話題作を連打。それらはいかにも「女闘士」ジェーン・フォンダらしい問題意識のあるテーマを、ハリウッド映画ならではの娯楽風味でくるんだ作品群ばかり。大半の作品が彼女自身のプロデュースということもあって、彼女の株は大いに上がるばかり。彼女自身は一歩下がったかたちで父親ヘンリー・フォンダに花を持たせた「黄昏」(1981)でこの快進撃は一段落するのだが、一時はまさに「大女優」の風格十分だった。その後、映画よりワークアウト・ビデオの人みたいな印象になっちゃって、たぶん1990年以降は作品がプッツリ途絶えてしまったはず。日本未公開で作品があったのかもしれないが、残念ながら僕はその存在を知らない。ともかく僕が熱心に映画を見始めた頃に、彼女も全盛期を迎えていたわけだ。その頃の彼女の印象を一言でいうと、ともかく「何をやっても正しい人」って感じ。いつも問題意識たっぷりな題材を、娯楽映画としてキッチリ仕上げて来る。しかも商売としてもキッチリ当ててくる。確かにご立派。文句の付けようがない。文句の付けようがないんだけど…何となく押しつけがましくてエラソーなんである(笑)。そう思っていたのは僕一人かもしれないが、正直僕は苦手だった。「帰郷」で大胆なベッドシーンを撮れば、40歳を過ぎていたにも関わらず見事なプロポーションで身体を仕上げてくる。それを後年のワークアウト・ビデオでも活かして稼ぐしっかりぶりだ。しかし立派過ぎて色気は感じなかったなぁ。シェイプアップされすぎでちっともエロくないんだよ。父親ヘンリー・フォンダにイイ役をやらせるべくプロデュースまで買って出た「帰郷」で、見事ヘンリーはオスカー受賞。その授章式に出られなかったヘンリーに代わってオスカー像を受け取った彼女は、テレビに向かって「パパ、やったわよ!」と感動のスピーチをぶつのだが、正直見ていてあざとすぎる気がして辟易。こちとらひねくれ者なのかもしれないが、あの「ドヤ顔」がどうにも鼻につくのだ。どうしてこの人ってこうなんだろうねぇ? 嫌いじゃないし、作品はどれも水準以上なんで見ちゃうけど、彼女そのものはどうも苦手。だったらこの作品も見なきゃいいじゃんと言われてしまいそうだが、長い沈黙を挟んでの復帰…しかもフランス映画での復活と来れば映画ファンなら興味がわく。それに、腐っても「僕の時代」のトップ女優さんだ。関心がないわけではない。そんなわけで見始めたこの作品、いきなり出てきた彼女が相変わらずキレイなのに驚いた。老けてはいるが、あの大輪の美しさは残っていた。圧倒的にスターとしてのメンコが違うのである。いやぁ、さすがとしか言いようがない。

ここからは映画を見てから!

みどころ

 このように、やっぱりスターだったジェーン・フォンダ。それでいて、他のフランスのローカル・スターたちを押しのけて「オレがオレが」という感じに見えないのは、それなりの「年の功」というものだろうか。あの「ドヤ顔」が時の流れで淘汰されて、イイ意味で「薄味」になっているのである。だからいつの間にかジェーン・フォンダばかりを目で追うことがなくなり、自然と映画の物語に入り込んでいけた。そうなってみると、この作品なかなか身につまされる内容を持っているのである。身体にガタが来る、記憶がどんどん飛んでいく、一人で満足な生活が営めなくなっていく。ついこの前に自分の父親が深刻な病気を抱えるようになり、ついには亡くなるという経験をした僕には、シャレにならないエピソードが満載。それだけではない。年老いた母だって年々身体に自信がなくなっているし、いつまでも今の生活が続けられるわけもない。実際、母親はつい先日も医者に脅されて、あれこれと検査を繰り返している。大体、「今のうちに好きなことをやっておいてください」って、どういうつもりで言うんだろうイマドキのヤブ医者は! こいつら全員不治の病になりゃいいとマジで思ったよ(怒)。…閑話休題、それは母親だけではなくて、記憶が怪しくなったり体力が落ちたり、老眼が進んだり無理が利かなくなったり…という衰えは、僕自身でも現に進行中だ。だから映画を見ている途中でも、物語より自分のことが気になって仕方がない。ジェーン・フォンダだけに気を取られないのはいいけれど、映画の物語に没入できたのも最初の頃だけ。途中からは母親のことや自分の老後が心配になってきたのだ。これって正しい映画鑑賞と言えるんだろうか(笑)。映画自体は軽妙な作品に作ろうとしているのだろうが、見ているこっちとしては深刻な気分にかられる。だって、映画の中の主人公たちだって、本当は共同生活をすりゃ問題解決って訳ではない。確かに一時は問題を先送りできるだろうが、老いが止まるわけではない以上、抜本的解決にはなり得ない。それが分かっちゃうから、決してホンワカ・ムードで映画を最後まで見れないのだ。映画のラスト、もう亡くなっているはずのジャンヌをみんなが探して歩く幕切れは、決して楽しいばかりじゃない漠然とした不安感を醸し出していた。なお、ジェーン・フォンダ以外もなかなか豪華キャストで、「エレベーターを降りて左」(1988)などで見たコメディアンのピエール・リシャールがいまだ健在だたのにビックリ。そのほか「グッバイ、レーニン!」(2003)で売り出したダニエル・ブリュールや、「ドクトル・ジバゴ」(1965)などで有名なジェラルディン・チャップリンも出演。特にチャップリンは、先日の東京国際映画祭で見た「インポッシブル」(2012)にワン・シーンだけ登場していたので、今回たっぷり出てきて嬉しかった。それにしてもイマドキは「老人がセックスと関わりがないなんてナンセンス」ということがよく言われるようになったものの、本作で登場人物が何かといえばセックス絡みの言動を連発するのには驚いた。やってもいいんだけど、そればっか(笑)ってのもどうなんだろうね。特にジェーン・フォンダが若いダニエル・ブリュールにシモネタばかり話しかけてくるくだりは、そのドヤ顔も含めて往年の「エラソー」な彼女がチラついておかしかった。

さいごのひとこと

 ジェーン・フォンダのフランス語のうまさに驚き。

 

「ライク・サムワン・イン・ラブ 」

 Like Someone in Love

Date:2012 / 11 / 12

みるまえ

 アッバス・キアロスタミといえば泣く子も黙るイラン映画界の大家。しかし最近では本国の締め付けが厳しくなってか、もっぱら海外で映画製作するハメになっているらしい。アルマンド・オルミやケン・ローチと組んだオムニバス映画「明日へのチケット」(2006)に続いては、何とジュリエット・ビノシュを起用したフランス映画「トスカーナの贋作」(2010)が登場。そして今回は、何と日本を舞台にして日本人のドラマを制作するというではないか。映画が作れればどこへでも行くということなのだろうが、果たして大丈夫なのか? 正直言って期待半分、あとは恐いモノ見たさで劇場に駆けつけた。

ないよう

 オシャレな飲み屋の喧噪の中、女子大生の明子(高梨臨)の携帯に電話が入る。それは彼女の恋人ノリアキからの電話だ。何かと明子を束縛しがちなノリアキは、彼女の行動に疑いを持っているらしい。今もノリアキは、彼女に「店のトイレのタイルの数を報告しろ」とムチャぶりをする。後で店に行って実際に数え、本当かどうか確認するつもりだ。一緒に店にいた明子の友人もこれには苦笑気味。しかし、疑われても仕方がない。明子はデートクラブで働くような女だから。むろん明子はその事をノリアキに隠し通してはいるのだが、それでなくても疑り深く独占欲の強いノリアキは、何やら薄々感づいているようだ。電話が終わるやデートクラブの経営者(でんでん)から「これからある客のところへ行ってほしい」と頼まれるが、明子は「おばあちゃんが田舎から出てきているから」…などと言って嫌がる。しかし経営者は以前も訳の分からぬ私用を理由に大事な仕事をスッポかされたことがあるため、今回はまったく明子に譲歩しない。しかもその「客」は、経営者にとってかなり大事なお客のようだ。こうして無理矢理タクシーに乗せられた明子は、夜の街の中をいずこかへと連れて行かれる。車中、明子は自分の携帯に残された留守電を聞く。すると彼女の祖母からのメッセージが、次から次へと出てくるではないか。最初は、久し振りに会いたいという連絡、さらに駅で待っているという連絡、駅で待っていても来ないので外に出るという連絡、さらに駅の近くのソバ屋で待つという連絡、結局ソバ屋にも来なかったので、また駅の前で待つという連絡、電車の都合があるので11時までしか待てないという連絡、ギリギリだがもうちょっとだけ待ってみるという連絡…。可愛い孫娘を案ずる優しい祖母のメッセージを聞いているうちに泣けてきた明子は、タクシーの運転手に駅まで行って欲しいと頼む。駅前の約束の場所でグルグル回ってもらう明子は、そこに祖母がじっと立っているのを見つけた。しかし、結局は声をかけずじまいで、駅を離れてしまうのだった。それからどれくらい走っただろうか、都会の喧噪から遠く離れた町に辿り着く。運転手が道を尋ねに入った居酒屋に、その「客」はいた。こうして居酒屋の上のマンションの一室へとやって来る明子。問題の「客」は80歳を過ぎた恰幅のよい紳士タカシ(奥野匡)。大学の教授を勤め、著書もあるような立派な身分の男だ。ワインや食事を用意して待っている、教養の高い男。先ほどまでグッタリしていた明子は、タカシととりとめもない会話を始める。どうやらこの明子は、タカシのかつての妻のどことなく似ているらしい。そんなこんなしているうちに、明子はタカシが用意した食事には目もくれず、勝手に寝室のベッドに横になってしまう。当惑したタカシは、ベッドの明子を見つめるのだった…。翌朝、タカシは愛車ボルボに明子を乗せて、彼女が通う都内の大学へと走る。ところが大学前で明子を下ろしたとたん、例の恋人ノリアキ(加瀬亮)が出てくるではないか。ノリアキは彼女が来るのをここで見張っていたようで、いきなり彼女に突っかかると大モメ。明子は何とかそれを振りきって構内に入っていったが、ノリアキは憤懣やるかたないようだ。高ぶった感情がなかなか醒めないノリアキは、クルマから心配そうに見つめていたタカシに改めて気付く。意を決してズカズカとクルマに近付いてきたノリアキは、タカシに声をかけるのだった。「あの、ちょっといいスか?」…。

みたあと

 正直言って近年のキアロスタミの映画は、あまり楽しい映画体験とは言い難い。もうかなり前になるが、イランで撮った劇映画としては一番最後のものになるらしい「桜桃の味」(1996)の退屈さったらなかった。やたら「死ぬ死ぬ」ウダウダ言っている男のタワゴトを、延々聞かせられてウンザリ。「巨匠」キアロスタミはひたすらホメなきゃいけない人なんだろうが、ハッキリ言ってくだらない映画としか思えなかった。その後もビデオ作品などを撮っていたようなのだが、残念ながらこの「桜桃の味」ショックがデカくて見る気がしなかったというのが本音。久々に見たのがこの前の「トスカーナの贋作」というわけだ。これも退屈こそしなかったし興味深い映画だったものの、決して愉快な映画体験とは言い難い。むしろ不愉快と言っていいが、それは僕が実生活で知っている「女のイヤ〜な部分」(笑)をリアルに映画で描いていたからでもあった。だから映画としては「うまい」と言うべきなんだろう。何とも食えない男だ。そんなキアロスタミが、日本を舞台に映画を撮る。果たしておかしな日本を描いたりしないのだろうかと不安になったが、これが意外なほど違和感がない。ドキュメンタリーのようなナマナマしさも健在だ。むしろ大スターのジュリエット・ビノシュを使った前作のほうが、まだ作り物感があったような気がする。僕が日本人であるせいか、今回のリアルさはハンパじゃない。冒頭からストーカー臭プンプンの恋人に迫られるヒロイン登場。しかし会話を聞いているだけで、こいつ自身もウソをつきまくっているんだろうな…と感じられるあたりが何とも巧みだ。始まってほんの何十秒かで、かなり微妙な状況設定と主人公のキャラがハッキリ観客に提示されるあたり、ポッと出の映画作家には出来ない芸当だ。そしてヒロインがタクシーに乗せられ、彼女が携帯に残された祖母のメッセージを聞くに至って、僕はまたまた「トスカーナの贋作」を見たときと同じく、何とも不快な気分に陥っていったのだった。

みどころ

 僕は約束を守らない人間がキライだ。人に待ちぼうけをくわせるような人間がキライだ。スッぽかされることで相手がどれだけ無駄なことをさせられたり、時間をロスしたりするかを想像できないような人間がキライだ。自分さえよければいい人間がキライだ。そういうことを平気でする人間の神経が分からない。こういう連中は老若男女問わず生きている資格がないとさえ思っている。だから、この冒頭の携帯電話のメッセージの場面は僕の不快感を頂点まで持っていってしまった。確かに「約束」はしていないし、勝手に押し掛けたのかもしれないが、孫娘を心配して出てきてくれた。せっかく時間をやりくりして、お金を使って東京まで出てきたおばあちゃん。その時間と金を無駄にさせただけではない。朝からじ〜〜〜っと待っていることのツラさを、このクソ娘は分かっているのか。「客」のところに行くことになったから会えないなんて詭弁だ。朝からいくらでもチャンスがあったではないか。一応、タクシーから待っている祖母を見つめて涙するとか、「いい人アピール」しているあたりが余計にウザい。アタシも会いたいけど会えないのよ…と言いたいのだろうが、声ぐらいかけりゃいいじゃねえかと言いたくもなる。あまりに腹が立って劇場の椅子を蹴りたくなるほど。もうこの時点で、僕はこのヒロインにひとっかけらの共感も持てなくなった。おまけに「客」の前ではさっきまでのフテ腐れたやる気のなさが一変。一応、会話だけは調子を合わせて媚びまくるいやらしさ。映画の前半部分では、僕は終始苛立っていて「映画鑑賞」どころではなかった(笑)。ただ、これだけイラッと来るってことは、これはこれでリアルな人物造形ってことなんだろう。こういう女確かにいるよ。そして今回の作品も、「トスカーナの贋作」同様に虚実入り乱れているところが作品のキモだ。先ほども言ったように、ヒロインは恋人に自分を偽っている。そんなヒロインが「客」の前で見せる媚びも、これはこれで偽りだろう。お話としてはこの後、ヒロインの恋人ノリアキが登場し、勝手に「客」のタカシをヒロインの祖父と思い込むあたりがこの「虚実ないまぜ」の頂点ということになるわけだが、実はそれがこの作品の眼目ではないような気がする。そもそも、タカシだって積極的にウソをついたわけではない。行き掛かり上そうなってしまっただけだ。むしろ、ノリアキが勝手に「祖父」だと思い込んだところに原因がある。人が「真実を見ようとしない」ことが、すべての発端なのだ。ノリアキは同僚にヒロインが風俗で働いていることを指摘されるが、言うことを聞かずに彼を殴る。その後にはやっぱり彼女を疑っているくせに、その「事実」を信じたくない。また、どう見ても無理があるとしか思えないのに、「やっぱ結婚するしかないっしょ」と決めてかかっている。相手の気持ちなど考えていない。状況が見えていない…いや、見たくないのである。一方、タカシはヒロインと「一夜を明かした」後、彼女を「明子」と呼び捨てにしたりして妙に馴れ馴れしく「保護者」然とした態度になる。しかし置かれた立場を考えてみれば、それはタカシが自分に都合良く抱いた妄想に過ぎないだろう。そしてヒロインはデートクラブの経営者に「おばあちゃんが上京している」などと言い訳をするが、経営者はそれを信じていない。正直言って見ている僕もそれを信じていなかったが、後でそれが真実だと分かる仕掛けになっている。もっと言えば…待ちぼうけさせられるヒロインの祖母も、風俗チラシに孫娘が写っていたのを見たくせに、それが本人だとは信じない。結局、人は自分に都合のイイことしか見ようとしない。見たくない真実には目を背けてしまうのだ。そして唯一全体が見えているはずのヒロインは、終始曖昧な態度をとり続けている。彼女はいつも自分に都合のいいポジションにいるつもりなのだろうが、それが事態を悪化させているとは気付かない。いや、自分でもどうしたいのか分かっていないのだろうか。ある意味で、またまたキアロスタミの女性への悪意が全開で露出したみたいな設定である(笑)。結局、彼女もこの状況の悪化ぶりを見て見ぬふりをしている、現実を直視していないという点で他の人物たちと同じなのだ。そんなわけで、映画を見ていてずっといろいろなことを考えさせられてしまった。とりとめもない感想になって申し訳ないが、本当にこれが見た感想だから仕方がない。僕もまた、この映画を自分になりの見方でしか見れないのである。

さいごのひとこと

 食わずじまいのスープが気になる。

 

「最強のふたり」

 Intouchables (Untouchable)

Date:2012 / 11 / 05

みるまえ

 この映画の予告編は、かなり前から劇場で目にしていた。フランスで爆発的大ヒット。白人で中年で富豪の身障者が貧民街出身で粗野な黒人青年と偶然知り合うことで、お互いが世にも稀な友情を育むことになる…というお話。黒人青年の芝居から、どうやらこれは軽妙なコメディとして描かれているらしいと分かる。コメディと来れば、シチュエーション・コメディの最も典型的なフォーマットのひとつがカルチャー・ギャップもの。全く対照的な存在同士をぶつけて、そのギャップや化学反応を見るというドラマ設定だ。そのギャップは激しければ激しいだけ面白いわけで、お互いがそれぞれの極北に位置している関係性が望ましいわけだ。そういう意味では、この映画はなかなか面白い映画になっていそうだ。実際、予告も良い感じだし、大ヒットしているわけだからそうなんだろう。おまけに「感動作」だとガンガン宣伝もしている。ただ…そう言われちゃうと腰が退けちゃうのも事実。金持ち白人男と黒人貧民青年の友情、おまけにハンディキャップ付きと来ると、出来すぎ、やりすぎな感じで身構えてしまう。そんな出来栄えにはなっていまいと思っても、「偽善」な映画になっていたらどうしようと思ってしまう。しかもこの映画が日本で公開されるや、これまた大ヒットしているではないか。もしこの映画を見て「感動」できなかったら、何だか人でなしみたいな気がしてイヤだ(笑)。どうもこういう映画は居心地悪いんだよなぁ。そんなわけで、公開されてもなかなか見ることができなかった。結局、見るのが11月までずれ込んでしまったというわけだ。

ないよう

 夜のパリの街を、一台の高級スポーツカーが爆走している。運転しているのは威勢のいい黒人の若者ドリス(オマール・シー)、隣の助手席には上品そうな中年紳士フィリップ(フランソワ・クリュゼ)が座っている。彼らを乗せたスポーツカーは周囲のクルマをゴボウ抜きし、制限速度など無視してすっ飛ばす。やがて当然の事ながら、後ろからパトカーがサイレンを鳴らしてやって来た。フィリップは「さぁて、どうする?」とお手並み拝見という表情でドリスを見るが、ドリスは「任せとけ」と言わんばかりにスピードを上げる一方だ。こうして一旦はパトカーの猛追を振りきったものの、次の瞬間には別のパトカーが前方に立ちふさがった。結局、スポーツカーは2台のパトカーに挟まれて立ち往生するハメになる。パトカーから降りてきた警官たちに、身柄を拘束されるドリス。しかし別の警官がフィリップをクルマから降ろそうとすると、ドリスはいきなり大きな声を張り上げた。「彼は降りられないんだ!」…その通り。彼は自力ではクルマから降りられない。スポーツカーの後部座席には、折り畳んだ車椅子が乗せてあった。「何でスピード違反してたと思う? 彼を病院に連れて行く途中なんだ!」…想定外の展開に、一気に動転する警官たち。おまけにフィリップが口からヨダレを垂らし始めると、警官たちは慌てて二人の車をパトカーで先導すると言い出した。警官たちがバタバタとパトカーに戻っていくのを見計らって、ドリスはニヤリと笑いながらフィリップのヨダレをふき取った。「どこから垂らしたんだ、汚ねえな」「私が君を助けたんだぞ」…そんな憎まれ口を叩きながらもニヤニヤ笑う二人。やがてパトカーに先導されながら、二人を乗せたスポーツカーは悠然と高速道路を突っ走った。車中の二人は、アース・ウィンド&ファイアの「セプテンバー」を聞きながらノリノリだ…。そんな二人の出会いは、ある朝に遡る。その朝、お城のようなフィリップの邸宅には、数多くの介護人志願者が集まり、面接の順番を今や遅しと待っていた。そんな中にたった一人、黒人青年ドリスの姿は異彩を放っていた。面接は延々と続き、さまざまな人々がフィリップと秘書マガリー(オドレイ・フルーロ)の前に登場する。「人間が好き」「身障者の力になりたい」「役に立ちたい」…と、まぁ何ともご立派なお題目が次々と並ぶが、彼らを見るフィリップの表情はすぐれない。やがてもう待ちきれないとばかりに部屋に乱入してきたのが、問題のドリスというわけだ。「推薦は?」「クール&ザ・ギャングがオススメだ」「知らないな」「あんた音楽のセンスねえな」…と、まぁ何とも歯に衣着せぬやりとり。しかしドリスは、フィリップやマガリーの辛辣な視線にも一歩も退かない。それどころか、「オレを不採用にしろ」とまくし立てるアリサマだ。彼は「面接に行った」という証明が欲しいだけだったのだ。それさえあれば、失業手当てがもらえる。ところがフィリップもマガリーも、そんなドリスの願いには応えなかった。その代わり、書類を渡すから明日来いというばかり。仕方なくスゴスゴ引き揚げるドリスだった。そんなドリスの家は、貧しい人々が多く住む街はずれの団地街にある。久々に帰宅した彼を待っていたのは、たくさんの弟や妹たち。あまりにゴチャゴチャといるために、満足に風呂にも入れないくらいだ。中にはヤバい連中とツルむ弟もいて、ドリスとしても心配にならざるを得ない。そんなドリスが待っていると、夜遅くに病院で働いている母親が帰ってくる。しかし疲れて帰ってきた母親は、半年も勝手に家を空けていたドリスを快く迎えるはずもない。いつの間にかフィリップ邸からくすねた卵の置物を手みやげに歓心を買おうとするが、母の怒りは収まらない。こうしてドリスは家を叩き出され、寒空の下をウロウロするハメになったのだった。さて、そんな翌日のこと、ドリスは不採用の証明をもらうため、再びフィリップ邸に赴く。ところが屋敷に着いてみると、どうも様子がおかしい。屋敷全体を仕切るイヴォンヌ(アンヌ・ル・ニ)やらフィリップの身の回りの世話を行うマルセル(クロティルド・モレ)が、屋敷全体のことなどを懇切丁寧にドリスに教え始めたのだ。何とドリスは不採用通知をもらいに来たのに、なぜか採用されてしまったのである。当惑するばかりのドリスではあったが、あてがわれた豪華な個室や浴室に感激。ちょうど家を追い出されたという偶然も追い風になった。だが、何よりフィリップがこう告げたことも、ドリスの天の邪鬼な性格に火を付けたかもしれない。「今までの介護人はみんな一週間で辞めた。君は何日続くかな?」…。こうしてドリスの介護人としての生活が始まったが、元よりこの男が自分のペースを崩すはずもない。フィリップをマッサージしたり車椅子に乗せたりする手つきはかなり危なっかしいが、本人まったく悪びれない。フィリップの携帯が着信すると、手で持てない彼にそのまま差し出すドリス。フィリップにメシを食わせる時でも、ついついマガリーの大きな尻に見とれてしまう始末だ。だが、外出の時にワゴン車の後方に車椅子ごと乗せるやり方に「馬みたいだぜ」と文句を言うと、横にある高級スポーツカーに乗り換えて助手席に座らせるなど、彼ならではの思いやりも見せる。フィリップも久々に聞くスポーツカーのエンジン音に、思わずニッコリだ。しかしそんなフィリップに不安を訴えたり忠告したりする周囲の者もいる。ドリスの素性を調べて、彼がかつて窃盗で捕まったことを教えに来たりもした。しかしフィリップは、そんな輩にこう答えるのだった。「彼は私に同情していない。そこがいいいんだよ」…。

みたあと

 イヤな予感を持っていながらも、もし映画として成功しているならばイントロから「つかみはオッケー」なはず…と思っていたら、まさに大当たり。冒頭からズカズカっと二人の関係性を分かりやすく表現したエピソードが登場。しかもクルマの疾走感に、ご機嫌なアース・ウィンド&ファイアの「セプテンバー」が流れる

オープニング・クレジットと来る。いや〜、これは実にイカしてる。実はこの「セプテンバー」という曲は映画と相性が良くて、これまでも「ナイトミュージアム」(2007)や「バベル」(2006)、そしてフランスのコメディ「ディスコ」(2008)などで使われ、常に素晴らしい効果をもたらしてきた。しかし今回は、それらに勝るとも劣らない。そしてついついウキウキ身体が動いてしまうこの曲が、本作の性格を如実に表している。この映画は理屈じゃない、生理的な部分で観客に訴えかけてくる作品なのだ。もっとズバリと言うと、見ていて気持ちのいい映画なのである。

みどころ

 正直言って、この作品にケチをつけようと思えばつけられるんだろう。貧民出身の黒人青年の描写が甘いとか、この二人の間にある階級差をキレイごとで描いているとか、気に入らない奴は気に入らないだろう。そういう人は見るなとしか言いようがない。これはいわゆる「良心作」ではない、ウェルメイドなコメディ映画なのである。そして最後までコメディであることを貫いている。そこの潔さに感心させられた。今でこそ「ハリウッド映画」と言えば粗悪品の代名詞だが、かつては「ハリウッド映画」とは良質な娯楽作品のことを指していた。いまやその伝統は世界各国の映画に伝えられ、守られている。この作品はその典型だ。フランス映画というと頭でっかちでくすぶった作品のイメージばかりが湧いてくるし、ましてフランスの娯楽映画といえば切れ味悪くて泥臭いという印象が強い。ところがこの作品は、絶好調時のハリウッド映画並みにテンポがよく乾いている。その最も大きな要因は、ドリスを演じているオマール・シー。彼が黒人であるということが大きいだろう。黒人ならではの気持ちの良いタンカのような台詞回し、しなやかでスピーディーな身のこなしが、この映画をカラッと爽やかに仕上げている。これがグズついていたりメリハリ利いていなかったりしたら、たぶんこうはいかなかっただろう。この話は実話らしいのだが、ドリスの役柄は本来黒人ではなかったらしい。そんなオマール・シー起用も含めて、脚本・監督のエリック・トレダノとオリヴィエ・ナカシュのコンビのお手柄だ。忘れがたいのは、フィリップの誕生会の終盤でドリスがまたまたアース・ウィンド&ファイアの「ブギ・ワンダーランド」で踊りまくるくだり。久々にアースのこの曲を聴いて、まだガキだった学生時代にこの曲で問答無用に盛り上がった頃を思い出した。女の子とイイことあるんじゃないかとか、いろいろワクワクウキウキしていたあの頃。この曲には、そんな興奮がいっぱい詰まっている。おそらくニコニコ顔で見つめていたフィリップも、そんなワクワク感をこの曲に嗅ぎ取っていたんじゃないか。そんな「理屈」でなく「感覚」や「生理」で理解させてしまうようなところが、この映画には確実に存在しているのだ。アースの曲が持つ「高揚感」をうまく映画に活用したのが、本作の最大の勝因ではないだろうか。

さいごのひとこと

 昔のディスコに行きたくなった。

 

「最終目的地」

 The City of Your Final Destination

Date:2012 / 11 / 05

みるまえ

 ジェームズ・アイヴォリーの映画といえば、端正で上品なちょっと昔のイギリスのお話を描いた映画…という印象が強い。実際、お上品な紅茶みたいな映画が多いし、日本では特に「眺めのいい部屋」(1986)から本格的紹介されたこともあってそんなイメージが強い。それは決して間違いじゃないのだが、そんなアイヴォリーが実はアメリカ人だというから、世の中は分からないものだ。近年は必ずしも過去のイギリスを描いてばかりではなくなったものの、相変わらず端正で上品なことに変わりはない。そんなアイヴォリーの新作が、何ともヒッソリと日本上陸だ。もっとも「新作」とはいっても2009年の作品。一頃猛威を奮ったミニシアター・ブームも去ってしまうと、こういう作品は受け皿がなかなかないのかもしれない。それでも僕は、この作品を秘かに心待ちにしていた。前作「上海の伯爵夫人」(2005)でイイ味を出していた真田広之が、再びアイヴォリー作品に起用されているからだ。取り囲んでいる共演者たちも、アンソニー・ホプキンス、ローラ・リニー、シャルロット・ゲンズブールと豪華絢爛。これは見なければ…と劇場に駆けつけた次第。

ないよう

 森の中にある底なし沼のような「流砂」に、思わず足を取られてしまった男。もがいた末に脱げた長靴は、そのまま流砂の中に飲み込まれてしまった。長靴をとられた男の名はオマー(オマー・メトワリー)。彼は大学の文学部博士課程の学生で、いずれは教授になりたいと思っていた。そのために、たった一作の小説を書いた後で自殺した幻の作家ユルス・グントの伝記を執筆して、それを博士課程の課題として提出しようと思っていた。しかし伝記執筆の許可を得ようと、現在は南米ウルグアイに住んでいるグントの遺族たちに出した手紙の返事は「ノー」。何しろグントの兄、グントの未亡人、さらにはグントの愛人といった連中の込み入った事情もあって、色好い返事が出ないに違いない。そんな事情を知ったオマーの恋人ディアドリ(アレクサンドラ・マリア・ララ)は、オマーを「諦めるな」と焚きつける。直接、遺族の元に行って訴えてみれば、状況も打開できるのではないかというのが彼女の考えだ。そんな簡単にいくもんかと思うオマーだが、伝記が書けなければ博士課程はとれない。そうなれば大学にもいれないし職を得るアテもない。その弱みをズケズケとディアドリに指摘されれば、「ごもっとも」と言わざるを得ないのだ。仕方なくウルグアイまで乗りこむことにするが、そこにまで一緒に行こうとするディアドリ。しかし何かと押しつけがましいディアドリに一緒に来られちゃ、オマーの気が休まらない。第一、オマーはもうガキじゃないのだ。先ほどの「流砂」に足を取られて身動きできなかったアリサマに自分の置かれたズブズブの状況を思いうかべたオマーは、何とか彼女を振りきってウルグアイへと旅立つ。そこは辺鄙な田舎で、遺族たちが住んでいる屋敷は近所の者なら誰もが知っている場所だった。そこに行くためにはスクールバスに同乗しなくてはならなかったが、幸運なことにそのバスの中にたまたまグントの愛人の娘が乗っていた。そんなわけで遺族たちが住む屋敷まで辿り着いたオマーだが、当然、いきなりの訪問客にみんなが歓迎ムードというわけではなかった。たまたま出てきたグントの愛人アーデン(シャルロット・ゲンズブール)は暖かく迎え入れたものの、グントの未亡人キャロライン(ローラ・リニー)は迷惑としか思っていなかった。しかし来てしまったものは仕方がない。しかもこの屋敷は、来たらおいそれと帰れる場所にはないのだ。こうしてオマーは招かれざる客として、この屋敷に泊まり込むことになる。想像以上に、この家族たちの人間関係は複雑かつ微妙なものだった。離れに住むグントの兄アダム(アンソニー・ホプキンス)は、日本人の愛人ピート(真田広之)と永年来暮らしている。彼はどうやら高圧的なキャロラインが少々苦手らしい。アーデンは娘と一緒にキャロラインと同居しているが、それは他に居場所がないからで、アーデンはどこかキャロラインに気兼ねしながら暮らしていた。オマーは人なつこそうな顔でこうした人々の中に入っていく。まず親しくなったのは、どこか寂しそうな表情のアーデンだった。そんなアーデンの様子を、複雑な表情で見つめるキャロライン。さらにアダムに呼ばれたオマーは、彼から意外な意見を聞かされる。何と彼は伝記執筆に賛成だといい、その代わりオマーにある「取り引き」を申し出るのだった…。

みたあと

 正直言ってこれまでのジェームズ・アイヴォリー作品には、この感想文の冒頭にも書いたように「端正で上品なちょっと昔のイギリスのお話」って印象が濃厚だった。良くも悪くも「お上品」「イギリス」ってのが、アイヴォリー作品の身上だったわけだ。ここ最近のアイヴォリー作品はかつてほど厳格に「昔のイギリスのお話」って限られていなくなってきたので、徐々にこういう印象からは逸脱していったものの、それでもこうした印象は頑として残っていたような気がする。ところが何となく、今回の作品にはそうした印象が希薄だ。むろん今回もアイヴォリー作品らしさは健在なので、今回の作品だって「端正で上品」であることに変わりはない。しかし以前だったらその「端正で上品」なテイストが、いささか窮屈で堅苦しいような印象までいっていた気がする。そんなアイヴォリー作品特有の堅苦しさが、本作に至っては極めて薄い感じがするのだ。

みどころ

 映画が始まってすぐに実質主人公のオマーが南米ウルグアイに渡って、以後は映画はほとんどすべてこのウルグアイで展開する。これが映画全体に与えた影響が大きい。非常に大ざっぱな印象で申しわけないのだが、南米の風土が持つ、イイ意味大らか、悪く言えば大ざっぱな気質が作品に大きな影響を与えているようなのだ。だから映画全体もゆったりとさりげなく、しかもユル〜く進行していく。かつてのアイヴォリー作品にありがちだった、控えめだがヒリッとした肌触りがここにはない。そんなユル〜くヌル〜い状況の中で、宙ぶらりんになったままの人々のドラマが展開する。幻の作家グントの未亡人キャロラインは、この地から脱出したい願望を持ちながらもお金がないためにどうすることもできない。その未亡人の屋敷に身を寄せているグントの愛人アーデンは、まだ若いうちに娘を身ごもったためこの家に頼ってやって来て、いまだに気兼ねしながら居心地悪そうに暮らしている。グントの兄アダムは愛人ピートと長年の恋人関係を続けているが、まだ若いピートの行く末を考えて暗澹とした思いに駆られている。みんな「どうにかしなきゃ」「どうにかしたい」と思っていながら、どうすることもできずにこの場所でどんよりと留まっている感じなのだ。この作品全体に流れる「ユルさ」「ヌルさ」「停滞感」が極めて特徴的だ。そして僕は、そんな「ユルさ」「ヌルさ」「停滞感」が結構嫌いじゃない(笑)。いつものアイヴォリー作品にあるキチキチッとした感じより、このイイ意味での「だらしなさ」がとても気に入った。それはどこか「人間味」とか「親しみやすさ」を持った「だらしなさ」「いいかげんさ」だ。そこに外部から「異物」であるオマーがやって来て、人々の間に徐々に「化学反応」が起きてくるあたりが見どころだ。実はオマー自身が高圧的な恋人に頭から押さえ付けられていて、自分でも気付かないまま、それから解放されたくてここに逃げてきた印象がある。彼もまた「どうにかしなきゃ」「どうにかしたい」と思っていながら、どうすることもできずにいた人間なのだ。そんな「停滞感」溢れる登場人物たちによる物語は、ご想像の通りにドラマティックな展開などはない。せいぜいオマーがハシゴから落ちてケガするくらいのものだ。そこには別に大きなドラマがあるわけじゃないのに、彼らが映画の最後にはそれぞれの解決を見る結末は微笑ましく、幸福感にあふれている。このあっけらかんとした大らかな幸福感もまた、今までのアイヴォリー作品にはあまり見かけられなかったモノのような気がする。本作の日本での話題はやはり「上海の伯爵夫人」に続く真田広之のアイヴォリー作品再登板だろうが、映画全体と同様に彼自身もさりげなくて驚いた。「ラッシュアワー3」(2007)、「サンシャイン2057」(2007)、「スピード・レーサー」(2008)など海外作品ばかり好んで出演している、いつもの「ドヤ顔」の彼とはまったく違う。いつもこうでいてくれればいいのにねぇ。それにしても実質主人公のオマーが中東系、アンソニー・ホプキンスがイギリス、ローラ・リニーがアメリカ、シャルロット・ゲンズブールがフランス、真田広之が日本ときて、そこに「オフィシャル・ストーリー」(1985)や「瞳は静かに」(2009)のアルゼンチン出身ノーマ・アレアンドロや、「ヒトラー/最期の12日間」(2004)のドイツ出身アレクサンドラ・マリア・ララまで含めて、まるで国連みたいなキャスティングには驚かされるばかり。これっておそらくは意識してのキャスティングだろうと思うのだが、何か国際政治に対するメタファーみたいなモノがあるのだろうか。残念ながら僕の頭ではそこまで思いを巡らすことができなかったが、何となくこのわざとらしいまでの国際的キャスティングが気になるのだ。

さいごのひとこと

 このくらいさりげない真田広之を見たい。

 

「ウェイバック/脱出6500km」

 The Way Back

Date:2012 / 11 / 05

みるまえ

 ピーター・ウィアーといえば、かつてはオーストラリア出身監督の出世頭として知られていた人。「ピクニックatハンギング・ロック」(1975)や「ザ・ラスト・ウェーブ」(1977)みたいないかにもアートシアター系風な作品でキャリアをスタートさせながら、「刑事ジョン・ブック/目撃者」(1985)の大ヒット以降はハリウッドのメイン・ストリームを歩み続ける印象があった。ところがそんな順調な歩みは、「マスター・アンド・コマンダー」(2003)を最後にいつの間にかプッツリ途絶えていたのだ。だから僕もついつい、ピーター・ウィアーの存在を忘れかけていた。そんなピーター・ウィアーの新作が、まるで誰にも知らせる気がないみたいにヒッソリと、速攻ビデオ化必至の劇場として知られる銀座の某映画館で公開されるではないか。しかもエド・ハリスにコリン・ファレル、そして「ラブリー・ボーン」(2009)の主役を張ったシアーシャ・ローナンまで出てくる豪華版だ。なのに、何でこんな地味な公開なのか分からない。これは見るしかないと、僕は公開間もなく劇場に駆けつけた次第。感想文アップがここまで遅れた理由は、単に僕の怠慢である。

ないよう

 陰湿な取調室で、若いポーランド男のヤヌシュ(ジム・スタージェス)がソ連将校(ザハリー・バハロフ)に執拗に尋問されている。彼は政治犯としての罪を認めろと責め立てられているが、やってもいない罪で裁かれる覚えはないと突っぱねる。ところがその取調室に一人の女が連れてこられるや、ヤヌシュの表情は一変。その女はヤヌシュの妻(サリー・エドワーズ)で、見るからに弱り切っていた。「女房はオマエの罪を証言したぞ」…妻が何をされたのか察したヤヌシュは激しい憤りを感じるが、どうすることもできない。妻が退出させられるや否やソ連将校は再び「罪を認めろ」と迫るが、ヤヌシュは頑として罪を認めることを拒むのだった。こうしてヤヌシュは20年の懲役を宣告され、シベリアの捕虜収容所へと連れて行かれた。厳寒の地シベリアの捕虜収容所には有罪冤罪含めて多数の囚人が収容され、悪天候の下、木材の伐採などの苛酷な労働に駆り出されていた。食事の配給時には、粗末で少ない食べ物に長蛇の列ができる。運悪く食事を食べ損なった老囚人などもいるが、誰もそんな奴に構っていない。気にしているのは新入りのヤヌシュだけだ。彼は持ち前の正義感と優しさから、自分の食事をこの老囚人に分け与える。すると一人の中年囚人が彼に近付いて、ぶっきらぼうにつぶやくのだった。「そんな優しさはここでは命取りだ」…その無愛想な男は、アメリカから地下鉄建設のためにやって来た技師スミス(エド・ハリス)。彼はアメリカから高給で招かれ、息子とともにソ連を訪れた。しかしこうして捕らえられ、息子は殺されてしまった。以来、信じているのは自分だけだ。そんなヤヌシュにも囚人仲間ができる。それは元俳優のカバロフ(マーク・ストロング)だ。カバロフはヤヌシュにこの収容所の流儀や暮らし方を伝授する。そんなカバロフに、ヤヌシュはどうすればこの収容所から脱走できるか?…とストレートな質問をぶつける。彼はどうしてもここで朽ち果てる訳にはいかなかった。最初は滅相もないとはねつけるカバロフ。そもそもこの収容所は、脱出できるような場所ではない。どこまでも厳寒の地が広がり、例え収容所の敷地から抜け出せても途中で息絶えるに決まっている。しかししまいには、カバロフから脱走計画を持ちかけてきた。それは、バイカル湖を通り過ぎてモンゴルまで南下するというものだ。そういう計画さえあれば、元々、方位などを読みとるのは得意なヤヌシュ。出来ない計画ではないとますますその気になった。二人は実行の日が来るまで、ひたすら食料を備蓄することにした。そのうちヤヌシュには脱走の仲間ができてきた。ポーランド人トマシュ(アレクサンドル・ポトチェアン)とカジク(セバスチャン・アーツェンドウスキ)、ラトビアの聖職者ヴォス(グスタフ・スカルスガルド)、ユーゴスラビア人の会計士ゾラン(ドラゴス・ブクル)がそのメンバーだ。しかし収容所の生活は苛酷で、決して毎日心が安まる暇がない。囚人たちの中には明らかに荒くれ者もいて、中でも無類の乱暴者ヴァルカ(コリン・ファレル)は平気で同房の囚人をナイフで刺し殺したりする。また、栄養事情が悪く年中寒いうえに劣悪な労働を強いられるため、健康を害する者も後を絶たない。実はトマシュ以外の他のメンバーたちには黙っていたが、カジクは収容所生活のうち目が見えなくなっていた。そんなある日、ヤヌシュにあのスミスが近付いてくる。孤立しているスミスがヤヌシュに接近した理由は、やはり脱走計画だった。彼はどうやら本気でヤヌシュが脱走するらしいと聞きつけて、自分もそこに参加させろと迫ったのだった。そしてスミスは、カバロフの意外な正体についてヤヌシュに告げる。それによると、カバロフは新入りが来るたびに「実行する気もない」脱走計画を持ちかけ、夢を持たせるのだという。スミスはヤヌシュにこう付け加えた。「奴をアテにしてたら逃げられないぞ」…そんなある日、激しい悪天候に紛れて、脱走がついに決行された。悪天候は追っ手を足留めさせる効果があり、雪で足跡が消される利点がある。確かに逃げるには厳しい条件だが、こういう時しかチャンスはない。こうして逃げ出したのはヤヌシュの他に、スミス、ゾラン、ヴォス、トマシュ、カジクといった面々。あのカバロフは同行しないことになった。そして土壇場になって、事もあろうにあの悪党ヴァルカまでが強引に参加。実はヴァルカは所内で何かと「オイタ」が過ぎて、借金がかさんで悪党の顔役どもに睨まれていたのだ。彼にとっても、いわばやむにやまれぬ行動だった。ヤヌシュとてこんな厄介者を連れて行きたくはないが、ヘタに騒がれたら元も子もなくなる。仕方なく、この悪党を引き受けることになったわけだ。こうして厳寒の森林をひたすら逃げる一同。しかし、ここで早くも犠牲者が…目が見えなくなっていたカジクが一同からはぐれ、翌朝、帰らぬ人となって発見されたのだ…。

みどころ

 考えてみるとピーター・ウィアーは、常に主人公を非日常的な状況に置いた物語を語ってきた。それは初期の「ピクニックatハンギング・ロック」や「ザ・ラスト・ウェーブ」をはじめとして、戦火に巻き込まれる青春群像劇「誓い」(1981)、インドネシアの政変に巻き込まれた特派員を描く「危険な年」(1982)、禁欲的なアーミッシュの世界に放り込まれる大都会の刑事を描いた「刑事ジョン・ブック/目撃者」などに至っても一貫していた。決して「苛酷な状況」ではないものの、保守的な学校に乗りこんだ革新的教師のお話「いまを生きる」(1989)や、異邦人としてニューヨークでアメリカ女と疑似結婚生活を送るフランス男のお話「グリーン・カード」(1990)ですら「非日常」の物語だった。そういう意味では、冒頭からエンディングまで延々と非日常の世界が続く本作は、いかにもピーター・ウィアーの真骨頂と言えるだろう。そして、実は雪と氷の世界を描いた映画と砂漠を描いた映画の両方が大好きな僕としては、極寒から酷暑へ、さらにまた極寒へ…とどちらの世界も堪能できる本作はまさにご馳走(笑)。僕にとっては理屈抜きで好きになれる題材だった。ただし、強烈なお話でありコリン・ファレルやエド・ハリスなど有名俳優も顔を揃えている作品ながら、お話としては先ほども述べたように極めて地味。大爆発や戦闘が描かれるわけではなく、キツイ状況下でひたすら歩いているだけと来るのだから、登場人物だけでなく僕みたいな酔狂な奴でない観客にもかなりの忍耐を強いる映画なのかもしれない(僕自身は前述の理由から大いに楽しんで、まったく退屈を覚えなかったのだが)。しかしスケールのデカさは破格のモノだけに、見ている間は「ガッツリと映画を見た!」という充足感を感じる。そして黙々とひたすら歩く主人公たちが、まるで巡礼の旅のように見えてくることも印象に残った。主人公たちが歩いていることが脱走のための「手段」というより、まるで「目的」そのものになったかのように見えてくる。そういう意味で…もちろん比較にならない厳しさなのは確かではあるが、先日見た「星の旅人たち」(2010) とどこか相通じるモノを感じる。さらに興味深いのは主人公ヤヌシュのキャラクターで、平凡でお人好しな男のように見えるが、こと今回の脱走に関しては終始一貫まったく妥協しない。最初からこんな収容所にくすぶっている気はないし、最初に一緒に計画を建てていた元役者の男が頼りにならなそうだと知るや、割と早い段階でこの男をアッサリ諦めているように見える。脱出の途中でも淡々としてはいるが執念は人一倍。モンゴルからインドまで行程が一気に伸びても、共産主義体制から逃げだすという当初の目的は一切曲げない。最後の頃にはラクをできるチャンスもあったのに、春まで待たずに再び寒空に出て行ってしまう。考えてみるとこの主人公は、冒頭の場面で妻に不利な証言をされて実刑が確定したにも関わらず、最後まで自分から罪は認めない。自分が納得できないことはしないという点で、最初から一切の妥協をしない男なのだ。他の連中はスゴんで見たりシニカルな発言をしたり、ウソをついたり弱音を吐いたりしているが、主人公は一切そういうことはしない。ただ淡々とお人好しで優しい男ぶりを見せていながら、実はこの男は完全に一歩も退かない男なのだ。演じるジム・スタージェスは「アクロス・ザ・ユニバース」(2007)や「ワン・デイ/23年のラブストーリー」(2010)に出ていた役者で、残念ながら僕はこれらの作品を見ていないがどっちかと言えば強烈な個性を感じさせない俳優だ。しかしクセのなさが、今回はプラスに働いた。平凡を絵に描いた男の一念こそが、強固な政治体制やら犯罪者のコワモテぶり、皮肉屋のシニカルさにも勝るのだということを見事に演じきっている。たぶんこのあたりが、今回ピーター・ウィアーが最も語りたかったことではないだろうか。他の役者たちに言及すれば、シアーシャ・ローナンは今回も子役らしからぬ巧みな演技派ぶり。何を考えているのか分からない得体の知れなさまで感じさせて、まだ若いのに大したものだ。クセモノのエド・ハリスは相変わらずのうまさだが、感心したのはコリン・ファレル。今年も「スター」として「フライトナイト/恐怖の夜」(2011)や「トータル・リコール」(2012)といった娯楽大作に出ていながら、こんな地味な作品にもキッチリと爪痕を残しているのには感心した。まったく同情の余地がない極悪非道の悪党ではあるが、そんな悪党にも人間味があるということをちゃんと演じていた。彼がどうしても祖国ロシアを捨てきれずに居残る場面の余韻は、何とも心に染みた。まったく話題にならないままだったのが、つくづくいもったいない作品だ。

さいごのひとこと

 本当の意味での「大作」がこれだ。

 

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