新作映画1000本ノック 2012年10月

Knocking on Movie Heven's Door


このページの作品

「ヴァージニア」 「アベンジャーズ」 「リンカーン弁護士」 「4:44/地球最期の日」 「崖っぷちの男」

 

「ヴァージニア」

 Twixt

Date:2012 / 10 / 29

みるまえ

 フランシス・コッポラ…といえば僕らが若い頃こそ花形監督の代表選手だったが、イマドキの若い映画ファンにとっては「???」な存在だろう。「ゴッドファーザー」(1972)や「地獄の黙示録」(1979)の頃こそ第一線の人だったが、そういう意味での現役感があったのはせいぜい「ゴッドファーザーPART III」(1990)あたりまでだろうか。「レインメーカー」(1997)以降は長く沈黙することになり、そのうちに娘のソフィア・コッポラが脚光を浴びたこともあって、近年ではすっかり「ソフィアのお父さん」というイメージでしかなくなってしまった。完全に「あの人は今」状態。そんなコッポラが忽然とスクリーンに帰ってきたのは「コッポラの胡蝶の夢」(2007)でのこと。正直今ひとつピンと来ない作品ではあったが、とりあえず僕としては、自分の時代の代表的映画作家の復帰を歓迎したい気分だった。そして長い沈黙を守っていたにも関わらず、いつの間にか復帰第2作「テトロ/過去を殺した男」(2009)なんて作品も発表されていた。僕はこれにはまったく気付いていなかったため、残念ながら見逃してしまったのだが…。そんなコッポラの新作が、誰にも話題にされずにヒッソリと公開されているではないか。主演のエル・ファニングは娘ソフィアの「SOMEWHERE」(2010)から借りてきたみたいだが、何と吸血鬼が出てくる映画だという。そういや金稼ぎのためとはいえ、コッポラには「ドラキュラ」(1992)なんて作品もあったし、本格的な監督デビュー作「ディメンシャ13」(1963)もホラー映画だった。コッポラは元々このジャンルへの興味が深いようだ。ならば、「コッポラの胡蝶の夢」は面白くなかったものの、これは結構イケるんじゃないか。僕はちょっぴりだけ期待して、劇場へ駆け込んだわけだ。

ないよう

 スワン・バレーは、ごくありふれたつまらない田舎町だった。しかしそこは、呪われた町でもあった。過去にあったあるおぞましい出来事が、この町に暗い影を落としている。川向こうには何やら悪魔崇拝でもしているかのような若い連中が住み着いている。中でも抜きん出てこの町に奇妙な印象を与えているのは、町を見下ろすようにそそり立つ時計塔。何とこの時計塔には時刻盤が7面もあり、それぞれが別々な時を刻んでいるのだ。あとは、かつてエドガー・アラン・ポーが宿泊したことがあったというホテルぐらいが、このショボくれた町の「名物」だろうか。三流のホラー作家ホール・ボルティモア(ヴァル・キルマー)がこの町にやって来たのは、ちょっとした偶然だった。彼はクルマに自著をたくさん積んで町から町へ訪れては、その町の本屋でささやかなサイン会を開いて自著を手売りしていた。スワン・バレーにやって来たのも、手頃な本屋を探すため。しかし生憎と、この町には本屋がなかった。仕方なくいくらかペイパーバックを置いている金物店の軒先を借りて、即席サイン会の会場としたわけだ。しかし、客は来ない。ボルティモア自身が無名作家ということもあるが、そもそもホラー小説に感心がありそうな奴がいない。そんなわけで収穫もなく店じまいしようとしていたその時、町の保安官ボビー・ラグレインジ(ブルース・ダーン)が声をかけてきたのだった。この男、自分も作家志望でボルティモアに興味津々。そして彼に「あんたが絶対興味を持つはず」のモノを見せてやると、気になることを言ってくる。そんなわけでボルティモアは、彼に連れられて保安官事務所までやって来たわけだ。そこには冷蔵コンテナを改造した遺体安置所がしつらえてあって、中には「あんたが絶対興味を持つはず」のモノが横たわっていた。何でもつい先日、町で起きた殺人事件の犠牲者だという。少女だというホトケの顔を見ないかとラグレインジ保安官に誘われたボルティモアは、ビビッて結局見ずじまいに終わる。ましてラグレインジに「この事件をネタに一緒に小説を書こう」と持ちかけられても、どこか一本ネジがはずれているようなこのオッサンと組む気になんかなれない。しかし宿に戻ってパソコンでスカイプを通じてわが家に連絡するや、古女房(ジョアン・ウォーリー)が家計のことで文句タラタラ。仕方なく金の無心のためエージェントに連絡をとると、「売れセン」」でないと困るとクギを刺される始末。正直もう二流ホラーは書きたくないと思っていたし、モーターボートの事故で亡くした娘のためにも、そろそろマトモな小説で身を立てたいと考えていたので、これにはウンザリせざるを得なかった。しかし、背に腹は替えられない。何とかネタはないかと、ボルティモアは町をウロウロ探索する。例のポーが宿泊したというホテルにも行ってみたが、町はずれのそのホテルも今は廃屋。大先輩ポーに敬意を表するぐらいしかやることはなかった。何かしなきゃと焦ってみても空回り。結局、モーテルに戻ってもだらしなく居眠りこいてしまうボルティモアだった…。すると、それは真夜中のマジックだろうか。例の7面ある時計塔のどれかが時を告げて、ボルティモアは何かに誘われるように外に出た。夜の町はずれは、昼間とはまるで違った顔を見せている。そこでボルティモアは、いつの間にか誰かにつけられていることに気付く。それは、えらく顔色の悪い不思議な少女(エル・ファニング)。彼女は自分のことを「V(ヴィー)」と名乗った。彼女はボルティモアに関心を持ったようで、あれこれと他愛もないことを話しかけてくる。そのうち例のポーのホテルにやって来るが、彼女はホテルに入ることを拒んだ。一人ホテルに入ったボルティモアは、そこでホテルの経営者たちと話をする。経営者はボルティモアに、奇妙な話を語り始めた。「ここの床下には12人の子供が埋まっている。もう一人子供がいたが、その子は逃げて地獄へ堕ちた」と…。

みたあと

 冒頭から、コッポラ作品に何かと縁のあるトム・ウェイツによるナレーション、7つの面がある時計塔と奇妙な田舎町、売れない作家…と、面白くなりそうな要素が満載。おまけに保安官役でお久し振りのブルース・ダーン登場と、僕はもうこの映画の最初の数分間ですっかり嬉しくなっていた。コッポラ、小品もなかなかイケるじゃないかと喜んで、その後の展開にワクワクした。すると夢の世界が出てきて、まるでゴスロリとでもいうべき扮装のエル・ファニング登場。意味ありげな設定、意味ありげな人物、意味ありげな言動…いやぁ、面白そうなんだよ。すごく面白そうなんだけど、いつまで経ってもドラマが進展しないのだ。

!!!映画を見てから読んで!!!

こうすれば

 どこから語ればいいんだろう? 実は先ほど書いた「いつまで経ってもドラマが進展しない」という一言で、ほぼこの映画の感想は終わっていると言ってイイ。金のために早く新作に取りかからなくてはならない「現実」と、幽霊や過去のおぞましい事件やエドガー・アラン・ポー(ベン・チャップリン)が出てくる「夢」とが交互に出てくるが、それらに脈絡はまったくない。エドガー・アラン・ポーも何か具体的なことを語るわけでなく、主人公にタワゴトみたいなことをブツブツつぶやくだけ。夢の場面になるとまるでタルコフスキー映画みたいに突然モノクロになったりするが、そこに部分的に着色が施されているのは「ランブルフィッシュ」(1983)で水槽のサカナだけが着色されていたことを思い出させる技法だ。しかし、そこに何か意味があるわけでもない。そんなこんなで正直言ってお話が停滞しっぱなしなので、いいかげん退屈してくるのだ。しかも現実の世界で保安官事務所に安置されている少女の死体と、夢の世界に出てくる明らかに幽霊らしきゴスロリのエル・ファニングが、どうも関連づけられているようで関連ないようにも見える。そもそも大昔のおぞましい集団殺人と、現代の殺人事件との結びつきがまるで描かれていない。お話にまるで一貫性がない。支離滅裂な脚本だなと思っていたら、劇場パンフに載っていたコッポラのインタビューによると、これは元々コッポラが夢で見た話が下敷きだというではないか。道理で全然スジが通らないわけだ。しかし夢は夢、映画は映画だ。夢をそのまま映画にしたって面白いわけがない。これで映画一本をもたせるのはキツイ。出演者も撮影も一流だが、肝心要の演出と脚本が学生映画並みなのだ。面白かったのは、主人公ボルティモアにガミガミ文句を言う妻の役に、ボルティモアを演じるヴァル・キルマーの別れた嫁さんジョアン・ウォーリーを起用しているところぐらいか(笑)。主人公は娘をモーターボート事故で亡くしたトラウマに苦しんでいるが、それって実際にコッポラが息子をモーターボート事故で亡くしていることの反映なのだろう。しかし、それをそっくりそのまま映画でやっても芸がなさ過ぎないか。もうちょっと作品として昇華することは出来なかったのだろうか? コッポラの映画作家としての衰弱は、もはや見るに耐えないレベルにまで来ている気がする。

さいごのひとこと

 エル・ファニングはソフィアに返したほうがいい。

 

「アベンジャーズ」

 The Avengers

Date:2012 / 10 / 15

みるまえ

 マーベルのマンガを原作にした一連の映画には、「またマンガ映画かよ」と正直毎回ウンザリさせられている。こうもヒーローものマンガの映画ばっかり続くのは、正直いって食傷気味なのだ。しかし彼らは相当シタタカなのか、毎回手を変え品を変え監督やキャスティングに趣向を凝らしてくるから、結局何だかんだと楽しまされてしまう。ロバート・ダウニー・ジュニアやらケネス・ブラナーあたりまで引っ張り出されたら、そりゃあ無関心ではいられない。そんなわけで結局はマーベル映画を毎回見せられてしまっている僕だが、実はその都度、映画のエンディングなどにチョコチョコと不思議なエピソードが描かれているのに気付いていた。そこには大体サミュエル・L・ジャクソンが登場してきて、どうやら「シールド」という秘密組織が関係しているらしい。全然バラバラのはずのヒーロー映画の中に、常にチラチラと仕込まれているこれらのエピソードは、どうやらマーベル映画のお話がいつか何らかのカタチで連携するらしいことを想像させた。案の定、こうしたヒーローたちが総登場するオールスターもの「アベンジャーズ」の制作が発表される。そこには「アイアンマン」(2008)からアイアンマン、「キャプテン・アメリカ/ザ・ファースト・アベンジャー」(2011)からキャプテン・アメリカ、「インクレディブル・ハルク」(2008)からハルク、「マイティ・ソー」(2011)からソー、そして「アイアンマン2」(2010)からブラック・ウィドウ…というように、スーパー・ヒーローたちが集まり、一丸となって敵と戦うことになっていた。まぁ、それってちょっと面白い試みだし、アメコミ好きからすると豪華メンバーなのだろう。しかし僕はそれほどアメコミに思い入れも知識もあるわけじゃないし、むしろ毎度毎度マーベル映画が公開されるたびに「またヒーローかよ」と思っていたクチだから、それが束になって出てくる今回の映画はますます食傷気味な気分に拍車がかかる勢い。おまけに「日本よ、これが映画だ」などという上から目線の宣伝コピーにもウンザリした。ホントに「これが映画」なのかよ? そんなわけで何だかスッキリしない気分ではあるが、元来ハリウッド大作はキライじゃない僕だ。グチグチ言いながらも、夏休みの目玉映画として見に行かないわけにはいかなかった。そんなこの感想文がこんなに遅れてしまったのは、他の感想文でも言っているように僕の怠慢ゆえ。お許しいただきたい。

ないよう

 人里離れた秘密組織「シールド」の巨大施設は、真夜中にも関わらず大騒ぎ。何やら緊急事態が発生し、人々が我先に脱出を図っている。そんな人々の流れと逆行するように、施設へとやって来たのが「シールド」長官ニック・フューリー(サミュエル・L・ジャクソン)だ。彼はこの緊急事態を知らされ、慌てて施設に辿り着いたところ。その緊急事態とは、施設がかねてより確保していた不思議な物質「四次元キューブ」が引き起こしたものだった。物理学者のエリック・セルヴィグ博士(ステラン・スカルスガルド)がこのキューブにさまざまな実験を行っていたのだが、突然キューブが激しい反応を起こし始めたのだ。凄まじいパワーを秘めたこのキューブの反応によっては、施設全体が破壊されかねない。しかしセルヴィグ博士もフューリーの副官であるマリア・ヒル(コビー・スマルダーズ)やエージェントのフィル・コールソン(クラーク・グレッグ)も、この状況に為す術もなかった。こうして、ついにキューブはフューリーたちの目の前で激しい反応を起こす。その結果…異次元空間から謎の人物、ロキ(トム・ヒドルストン)がその場に出現した。奇妙な出で立ちのロキに、騒然とする研究室。しかしロキはその不思議なパワーでセルヴィグ博士を意のままに操りだした。さらに、かねてより「シールド」に迎えられていた「超人」の一人、ホークアイことクリント・バートン(ジェレミー・レナー)がロキを迎え撃とうとしたが、逆にこれまた操られるハメになる。その場を翻弄したロキはキューブを手に入れると、手下にしたホークアイとセルヴィグ博士を従えて施設を脱出。慌てて彼らを追いかけたフューリーを振りきって、いずこかへと逃走した。かくなる上は、ついに「あの手」を出すしかない。まずはロシア。ある潜入捜査を行っていたブラック・ウィドウことナターシャ・ロマノフ(スカーレット・ヨハンソン)は、突然捜査を打ち切って別の任務に就くように呼び出される。そして、インドのカルカッタ。そこで草の根の医療活動に没頭しているブルース・バナー博士(マーク・ラファロ)は、子供におびき出されてブラック・ウィドウと顔を合わせることになる。興奮すると巨大な暴れん坊ハルクに変身してしまうバナーは、出来れば面倒事には巻き込まれたくない。しかし、今回ばかりは「シールド」の依頼を断るわけにはいかないようだ。そしてマンハッタンの一等地に落成したばかりのスターク・タワーで、新婚の妻ペッパー・ポッツ(グウィネス・パルトロウ)とくつろぐアイアンマンことトニー・スターク(ロバート・ダウニー・ジュニア)の元にも、コールソンが密命を帯びてやって来る。こちらも渋々ながら、今回の「指令」を受けなければならなくなった。そして最後は…戦中に北氷洋に落下したまま冷凍状態になり、つい最近になって解凍されて蘇ったキャプテン・アメリカことスティーブ・ロジャーズ(クリス・エバンス)。いきなり何十年ものギャップのある現代に放り出されて、鬱屈した気持ちをボクシング・ジムのサンドバッグに叩き付けていたロジャースの元に、特命を携えてフューリーがやって来る。こうしてさまざまな「超人」たちを招集しての「アベンジャーズ」プロジェクトが始動した。元々このプロジェクトはかねてより準備されていたが、スーパーパワーが結集したら手が付けられなくなるのでは…との懸念から塩漬けにされていたのだった。今回は「異常事態」ということでフューリーが押し切ったものの、「シールド」の「黒幕」たちには必ずしも歓迎されていたわけではなかった。そのうち地球にやって来たロキを追って、これまた「神々の国」よりロキの義理の兄であるソー(クリス・ヘムズワース)が飛来してくるのだったが…。

みたあと

 何度も繰り返すが、僕は決してマーベル・コミックの大ファンでも何でもないし、マーベルの映画化作品それぞれを楽しみはしたが、それらが映画の在り方として望ましいモノだとはこれっぽっちも思って来なかった。だからこの作品にも「待ち遠しい」とも「楽しみ」とも思わなかった。しかし僕は元来理屈っぽいシネフィルなんかじゃないから、無責任に楽しめるこの手の作品がキライじゃなかった。おまけに見世物小屋的楽しさも好きだから、3D映画もワクワクするタチだ(何でも最近の若い人たちは字を読むのが苦手なんで字幕映画より吹き替えを好むし、目が疲れるからと3Dも嫌がるそうだ。おや、まあ!)。だから「夏休みの大作」として公開されたこの作品を「見ない」という選択肢はなかった。おまけに僕が興味深かったのは、マーベル側がこの作品を用意するために、えらく回りくどく面倒くさい道のりを経てきたこと。今まで「アイアンマン」、「インクレディブル・ハルク」「マイティ・ソー」「キャプテン・アメリカ/ザ・ファースト・アベンジャー」などの作品を作るたびに、作品のエンディングなどにチラリとサミュエル・L・ジャクソン演じるニック・フューリーやら秘密組織「シールド」の存在をチラつかせていたのだ。それが最終的に「アベンジャーズ」という作品になるとは当初は知らなかったものの、いずれ全部がつながったような世界観を持つ作品を作るんだろうとは思っていたから、アメコミに興味がない僕でもちょっと気になってはいたのだ。それって何かの映画に似ているな…と漠然と考えていたが、今回「アベンジャーズ」公開にあたってもう一度考え直してみたら、あったあったそんな映画。それぞれが独立したエピソードではあるが、それぞれの登場人物がチラリチラリと別のエピソードに顔を出したりして、最終的にそれらの物語がすべてひとつの世界のお話だと分かる連作群…それってポーランドのクシシュトフ・キェシロフスキ監督の「デカローグ」(1988)10話連作やら、「トリコロール」三部作(1993〜1994)と似ているではないか。まぁこんなハリウッド大作、しかもアメコミの映画化なんてシロモノの引き合いにこんな立派な映画を持ち出したら、「名匠キェシロフスキ様に失礼だ!」とシネフィルどもが白目むいてさぞやプンスカ怒るだろうからこれ以上は言わない(笑)。まぁ、でもやってることは同じなんだけどね(笑)。それよりも…冒頭にも申し上げたが、「日本よ、これが映画だ」という大げさな宣伝コピーには多くの方々同様閉口させられた。所詮はマンガの映画のくせに、「これが映画」とドヤ顔して言われたくない。そんなわけで中途半端な期待しか持っていないで見たこの作品、始まるや否やいきなり事件発生…と本題に入ってくれるのは嬉しい。娯楽映画はこうでなくちゃいけない。

こうすれば

 お話はそれほど入り組んだモノでもなく、「マイティ・ソー」の時に主人公と仲違いした義理の弟ロキ(トム・ヒドルストン)が今回の悪玉だということもすぐに了解できる。こうして派手な戦いが次から次へ繰り広げられるという設定だ。あとはマーベルのスター・キャラクターのコンビネーションがお楽しみということになってくるが、実際には彼らの顔合わせによるお楽しみってそんなに多くない。確かに彼らは全員ガッツリ顔を合わせるものの、キャラクター的に真逆なアイアンマン=トニー・スターク(ロバート・ダウニー・ジュニア)とキャプテン・アメリカ=スティーブ・ロジャース(クリス・エバンス)との間ぐらいでしか、コンビネーションによる「うまみ」は生じないのだ。一番の誤算は、最初のうちの対立の構図がいい歳したオトナがバカなことやっているようにしか見えないこと。そもそも対立が力づくの争いになってしまいがちだから、ガキのケンカをスゴイ馬鹿力でやってるみたいで、頭が悪そうにしか見えないのも当たり前だ。そして対立があまりにバカげているから、挫折を経てチームワークが生まれるくだりもイマイチ盛り上がらない。これってもっと面白くなりそうなものなのに、もったいなかったのではないか? さらに…これを言っても仕方ないのかもしれないが、「ハルク」をわざわざ一旦作り直したにも関わらず、エドワード・ノートンに逃げられてしまったのも痛かった。マーク・ラファロは決して悪くないものの、やはり彼が出てきた時の唐突感がハンパなかったよ。しかも、冒頭にいきなりジェームズ・レマー演じるホークアイという弓矢を操る見慣れないキャラが出てきたのにはビックリ。「あいつ誰???」とまごついてしまった。こっちはそれほどアメコミに詳しくないんでねぇ。そういう意味ではわざわざ長い間かかって根回しを続けてきて、ヒーローのオールスター集団を形成してきたのに、その豪華さや有難みが見ているこっちにイマイチ伝わって来なかったのは残念だった。ホントなら、S&Bゴールデン・スペシャル・ウルトラ・フォンドボー・ディナー・カレーというか、ハンバーグ・カレーにウナギの蒲焼きと天ぷらとすき焼きが付いてくるぐらいの豪華さやおトク感がなけりゃならなかったのに。もっとも昔やってた西郷輝彦主演のテレビ時代劇「江戸を斬る」では、主人公・遠山の金さんの嫁さんが紫頭巾で、バックに水戸のご老公がついていて、部下にはねずみ小僧がいたりしたのにも関わらず豪華感ゼロだったが(笑)。しかしこうした豪華感があるかないかということは、アメコミに対する理解があるかないかで仕方がなかったり、僕らがアメリカ人であるかないかで違いが出るのは当たり前かもしれない。そういう意味で…本当に問題なのは、映画全体にわたって拭い去りがたい「既視感」があることかもしれない。早い話がこういう映画、もうすでに何度も見ちゃった気がするのだ。それもごく最近のことだ。宇宙から何者かがやってきて地球の大都市をメチャメチャに攻撃するって、「トランスフォーマー/ダークサイド・ムーン」(2011)だって「世界侵略:ロサンゼルス決戦」(2011)だって、「バトルシップ」(2012)だってやっていた。地球から何らかのエネルギーを放射したり発信したりして、空間に割れ目を生じさせて侵略者たちがやって来るって趣向も、「トランスフォーマー/ダークサイド・ムーン」や「バトルシップ」にあった。巨大なウネウネした空中に浮かぶメカの怪物みたいなやつがビルを破壊していく絵だって、やっぱり「トランスフォーマー/ダークサイド・ムーン」で見たばかりだ。つまりはこんな設定や絵は、もうすでに何本も他の映画で見てきたばかり。だからいくら派手にやってくれたところで、正直改めて感心はしない。確かに他の作品と併せて…アメリカ映画がかくも自国の大都市が侵略者に破壊される様子を描くようになったあたりに、例の「9・11」以来のアメリカ人の意識の変化を感じ取ることは出来る。そういう意味では興味深いと言えなくもないものの、だからといって毎回「これ」ばっかりだったら、僕らはそうそうそのたびに面白がるわけにもいかない。実は「戦いそのものの描き方に鮮度がない」ということの方が、致命的な部分じゃないだろうか。そのせいか、ボケッと見てるぶんには退屈しないが、どうしても「ソコソコ」という域を出ないのだ。

!!!映画を見てから読んで!!!

みどころ

 そんなわけで派手な見せ場もアクションも「それなり」にしか楽しめなかった僕だが、実はこの映画で最高に楽しい瞬間があったことを白状しないわけにはいくまい。それはお話が終わって、エンドクレジットが全部流れた後のこと。戦い終わって疲れた「アベンジャーズ」たちが、みんなでカフェでメシを食っている一幕だ。勇ましく戦ったヒーローたちではあるが、戦いが終わるといいかげん疲れてグッタリ。全員口を開くのもお互い目を合わせるのも億劫って感じで、ボケ〜ッとしている場面がほんの何十秒か画面に映し出されるのだ。この脱力さ加減というかバカバカしさというか、シラ〜ッとした間のおかしさというか、各人の佇まいが実にリアル。本当にヒーローがいて戦いが終わったところだったらこんな感じなんだろうな…と思わされて秀逸。いや〜、これはホントに笑った。「アベンジャーズ」本編よりも何倍もいいセンスしていたよ。ジョス・ウェドン監督を、これだけで評価してもいい。僕にとってはこのラスト・カットだけで、映画全体が十分元をとれたような気がした(笑)。

さいごのひとこと

 これシリーズ化したら飽きそう。

 

「リンカーン弁護士」

 The Lincoln Lawyer

Date:2012 / 10 / 15

みるまえ

 「リンカーン弁護士」。タイトルを最初に耳にした時、ちょっと時代が20〜30年ズレてる感じがした。イマドキの映画のタイトルとは思えない。チラシの宣伝コピー「全米大ヒット」も「ホントかよ?」とちょっと信じられない感じ。主演はマシュー・マコノヒー。全体的に「ソコソコ」な感じだ。そもそもリンカーンというクルマ自体、イマドキのエコなご時世からすれば時代遅れだろう。しかし脇はマリサ・トメイ、ウィリアム・H・メイシーなど結構タマが揃ってる。それに実際のところ、僕自身がイマドキの映画、わけても今のハリウッド映画に満足なんかしちゃいない。こういうちょっと時代遅れな映画のほうが、本来好きな映画だったりする。やっぱり1970年代のアメリカ映画で育ってきたからねぇ。というわけで、最初のロードショーは逃したものの、かなり遅れてのセカンド・ランの上映には何とか間に合った。この感想文はそれからもさらに遅れてのアップということになるから、おそらくもうこの映画は劇場からは姿を消しているかと思う。まことに面目ない。ま、ともかく僕はこの映画を、何となく見逃したくない気分ではあったのだ。

ないよう

 ここは太陽サンサンのロサンゼルス。ハイウェイには省エネ、エコなクルマばかり走っている中、ちょっとばっかりレトロで燃費が悪そうな黒塗りリンカーン・コンチネンタルが走る。その後部座席に座っているのは、弁護士のミック・ハラー(マシュー・マコノヒー)。ハンドルは運転手のアール(ローレンス・メイソン)に任せて、自分は愛車リンカーンの後部座席を事務所代わりに、書類に目を通しながらさまざまな裁判の準備に余念がない。そんなミックのことを、誰が呼んだか「リンカーン弁護士」。そのクライアントはといえば、売春婦やらチンピラやらどいつもこいつも世の中のはみ出し者ばかり。しかもこいつらとの付き合い方もシタタカで、裁判でかかる費用を支払わないヤクの売人には、いくらお仲間のコワモテなバイカー連中が脅そうとも金を払うまでは一歩も退かないタフぶりを発揮する。当然、その報酬は決して安くはないのだ。そんな法曹界の裏街道をひた走るミックに、保釈金立替業者のヴァル・ヴァレンズエラ(ジョン・レグイザモ)が妙にニヤつきながら近付いてくる。金になるデカいヤマへのお誘いだ。無論そういう話はキライじゃない。こういうわけで、大金持ちのボンボンであるルイス・ルーレ(ライアン・フィリップ)の暴行事件の弁護を引き受けるミックだった。こうして古い付き合いの私立探偵フランク(ウィリアム・H・メイシー)を伴い、問題のボンボン、ルイスと対面するミック。場所はルイスの母親メアリー(フランシス・フィッシャー)の顧問弁護士のオフィスだ。するとこのルイス、見るからになかなかの好青年。事件とはクラブで出逢ったジーナという女をルイスが暴行したというものだが、彼に言わせるとすべて濡れ衣だという。ジーナにクラブで誘われて彼女の自宅へと赴いたが後ろから殴られ気絶。気付いた時には捕まっていたというのがルイスの主張だ。ジーナの証言ではルイスがいきなり自宅に押し掛けてきたとのことで、話は180度食い違っている。早速、ルイスの証言に基づきフランクがクラブの防犯カメラの映像を入手してみると、そこには明らかにジーナがルイスを誘っている様子が残っているではないか。ミックはこの映像を証拠に加えさせるように働きかけ、敵の検事テッド・ミントン(ジョシュ・ルーカス)がこれで起訴を取り下げることを期待したが、意に反してミントンは強気。それもそのはず、ミントンは現場から発見されたルイスの血染めのナイフを確保していたのだ。楽勝と思っていたはずが、一転して追いつめられることになったミック。こんな証拠が存在するとは「聞いてねえよ」の一言だ。見た目の好青年ぶりとは裏腹の、ルイスの胡散臭さに不信感を抱いたミックだったが…。

みたあと

 映画がスタートするや、黒塗りの「いかにもアメ車」という感じのリンカーンの車体のあちこちを、なめるように映し出す画面がマルチ・スクリーン(それともスプリット・スクリーンというべきなんだろうか? つまりは分割画面である。)で登場。そこにちょっと悪ぶった主人公のアウトロー弁護士を演じるマシュー・マコノヒーの不敵なツラ構えが出てきて、バックに流れるのはむせ返るようなマーヴィン・ゲイの歌。これこれ、これでんがな(笑)。デカくて低燃費なアメ車といい、最近とんと映画では見かけなくなったマルチ・スクリーンの絵づくりといい、主人公が不敵なアウトローであることといい、懐かしのソウル・ミュージックといい…いずれもイマドキの映画ではなくなってしまった1960年代後半〜1970年代前半のアメリカ映画、それも男性主人公の娯楽映画の典型みたいなアイコン揃いだ。あのご機嫌な昔のアメリカ映画の世界を再現しようって気なことが、イヤってほど伝わってくる。僕は映画が始まってほんの数秒で、これはゴキゲンな映画になると確信した。ホント、こういう映画をオレは見たかったのだ。

みどころ

 主人公は型破りの弁護士。というと、いかにもありがちな感じだが、この男は法の抜け穴を使って依頼人を非合法スレスレな手で救い出したりする。当然、彼を雇う連中もいわくありげな連中ばかり。中にはそんな彼を「犯罪者の片棒担ぎ」扱いする奴もいるが、彼は涼しい顔をしてシレッとしている。したたかさはハンパなくて、彼のリンカーンのために雇われた黒人運転手に「ダンナはストリートでもやっていけるよ」と言われるほどの度胸と知恵の持ち主。しかしすべては金銭づくと見えて、実はとっくの昔に運転免許を再取得していたのに、他に仕事のない運転手を知らん顔して雇い続けたりしている。ヤバイ手は使いながらも、法では救われない人を救おうとする隠れた人情家でもある。つまりは「偽悪者」なのだ。こういう主人公は1970年前後のアメリカ映画にはいっぱいいた。いつの間にか世の中「空気を読む」連中ばかりになって味気ない限りだが、そう思っていたのは僕だけではないらしい。今回、実に不敵でクセのあるヒーローを、意外にもあのマシュー・マコノヒーが好演しているのである。マシュー・マコノヒーといえば、「評決のとき」(1996)あたりからいきなり主演級で登場した不思議なスター。少なくとも、僕はえらく唐突な登場ぶりに驚いた記憶がある。その唐突さから言ったら、「刑事ニコ/法の死角」(1988)でいきなり主演デビューのスティーブン・セガールよりも上かもしれない。普通は徐々に目立ってきてどこかでガン!と出てくるものだが、彼の場合は急に主役というイメージが強い。何か強力なコネでもあるのかと思ったくらいだ。さらに意外だったのは、どのスターも個性派揃いだった1990年代のハリウッドに現れたのに、ビックリするほどクセがなく「正統派」の雰囲気を漂わせていたこと。背が高くガタイもよくハンサム。逞しいが過度にマッチョでもなく知的で甘いマスクでしかも明るく上品で爽やか。しかし昔のハリウッドならまさに王道だが、イマドキこんな「正統派」過ぎるキャラはかえってツラい。だから、そんな男がいきなりポンと出てきたことに、僕はかなりの違和感を感じたのだ。案の定、マコノヒーはその後自らの「正統派」イメージで苦労していたようだ。何に出ても主役でそれなりのスケールを感じさせるものの、いつまで経っても「決定打」にありつけない。「サラマンダー」(2002)でスキンヘッドにヒゲという逞しい男を演じる変化球を投げたのは、そんな焦りの現れだろうか。クセがないしスケール感はあるからラブコメ、サスペンス、戦争映画、SF…と何でもいけるのだが、気の毒なことに「マシュー・マコノヒーでなくちゃ」という役や作品にありつけない。そんなわけで主演作は着実に重ねるものの、この人ならではの地位は今まで築けていなかったように思う。しかし今回のマコノヒーは違った。悪ぶっているが悪じゃない。むろんベタな善人でもない。現実というものを知り尽くして、酸いも甘いも噛みしめた上で世の中のはぐれ者の肩を持つ弁護士だ。もちろん至って現実派だから、いただける相手からはゴッポリいただく。しかし、ここはいいとなったら気前よくサービスもする。いざとなったら手段は選ばないが、過度に熱くはならず余裕綽々。青臭く「正義」なんて言葉は振り回さないが、そこらの自称「正義感」なんぞ裸足で逃げ出すほどの正義の「実践派」でもある。しかも決して眉間にシワなど寄せず、ユーモアを忘れない。昔の嫁さんとの別れたけど別れきれないズブズブな感じも、チョイ悪のイメージを補強しつつ甘さもあってイイ感じ。これこそハンサムなマシュー・マコノヒーでなくちゃ出来ない芸当だ。しかもいつも相手の上をいって自信満々なばかりじゃない。今回は、ツラの皮の厚さじゃ上をいく悪党の金持ちボンボンであるライアン・フィリップが立ちはだかる。自信満々だった主人公が予想外の展開に焦るもう一つの顔を見せるから、観客も彼に一層の共感を寄せる。また捜査の過程でかつての自分の判断が誤りだったことを悟り、反省するあたりの人間味もいい。不貞不貞しくてキレ者であるだけでなく、可愛げもあるのである。愛されるキャラクターにはこれが重要だ。本当にマシュー・マコノヒーがこれほどいいとは思わなかった。この愛すべき不敵さ、反骨と愛嬌のキャラクターは、「動く標的」(1966)で素晴らしい私立探偵ぶりを見せてくれたポール・ニューマンのそれをも彷彿とさせる。マシュー・マコノヒーはひょっとして、亡きポール・ニューマンの後継者たり得るかもしれない。そのくらい、この映画の彼は素晴らしいのである。他にもこの映画には素晴らしい点がいくつもあって、主人公の元妻役のマリサ・トメイも久々にいい役。「ハート・オブ・ウーマン」(2000)、「アルフィー」(2004)、「レスラー」(2008)、「ラブ・アゲイン」(2011)と、出る映画出る映画ずっと幸薄の気の毒な女しかやってこなかった彼女だが、今回やっと幸薄ではないイイ女役を演じていて嬉しくなった。幸薄がこの人のタイプになっちゃ可哀相だ。前述したライアン・フィリップも、普段の好青年ぶりをうまく活かしての悪人ぶりが素晴らしい。その他にもウィリアム・H・メイシー、ジョシュ・ルーカス、ジョン・レグイザモ、マイケル・ペーニャ、フランシス・フィッシャー…とクセモノ役者がズラリ。これはなかなか壮観だ。中でも驚いたのは、主人公を目の仇にしている刑事役で何とまぁお久し振り、「ストリート・オブ・ファイヤー」(1984)でお馴染みマイケル・パレが出てきたことだ。…というより、マイケル・パレというとあの映画でしか見たことがない(笑)。これは予期していなかったからビックリ仰天。まだ役者やってたんだねぇ。パレを見れたことは、僕にとってちょっとしたボーナスだ。その他にも終盤の事件の解決方法の爽快さなどホメる点はいくらでもあって、アレコレ法律上の問題とか証拠がどうのとかゴチャゴチャしたものが関わってきそうな話なのにスッキリ分かりやすくさばいているのはお見事。巧みなストーリー展開にも感心させられるが、それより彫りの深いキャラクター設定が素晴らしい。監督のブラッド・ファーマンは実にお手柄だと言いたいが、やっぱり最高の殊勲者は何と言ってもマコノヒー。焼き直しばかりでウンザリさせられるハリウッドではあるが、この作品はマジメにシリーズ化を考えていただきたい。このキャラは一回限りじゃ惜しい気がするよ。

さいごのひとこと

 続編でもビギニングでもリメイクでもオッケーだ。

 

「4:44/地球最期の日」

 4:44 Last Day on Earth

Date:2012 / 10 / 08

みるまえ

 実は,こんな映画があるとはまったく知らなかった。連休に映画を何見よう?…とネットで調べていたら、ひょっこり出てきたのがこの作品。ちょうどその日に公開。タイトルが「地球最期の日」と来る。それを知ったら、SF好きとしては放っておくことはできない。おまけに主演がウィレム・デフォーとはますます気になる。すっかりその気になった僕だが、唯一ちょっと気になったことがあるとすれば、監督にアベル・フェラーラの名前があったことぐらいだろうか。しかし、フェラーラだってそのフィルモグラフィーにSF作品があったりするのだ。きっちり地球を終焉に向かわせてくれるだろう。ともかく、僕は公開当日に劇場に飛び込んだ。

ないよう

 ニューヨーク。アトリエ兼住まいとなっているアパートの一室で、一人の女が黙々と前衛アートを描いている。その女の名前はスカイ(シャニン・リー)。部屋の中には彼女の相方であるシスコ(ウィレム・デフォー)がつけっぱなしのテレビを見ているわけでもなく、携帯電話の相手がダラダラしゃべっているのを聞いている。何も変わらない日常がそこにはある…テレビは「世界の終わり」を告げているというのに。そう、世界は明日の午前4時44分に終わる。オゾン層の破壊によって世界は破滅すると分かっているのに、人類は今さらどうすることもできない。アル・ゴアは正しかったのだ。テレビは、終末を迎える世界の様子を淡々と映し出している。バチカンのサン・ピエトロ大聖堂の前には、大群衆が詰めかけてひたすら祈っている。しかしそれを除けば、世界は至って平穏そのもの。気持ちの悪いほどいつもと同じ一日が過ぎている。シスコの電話の相手もダラダラとくだらないことをしゃべりながら、警官にスピード違反で捕まったことをグチっていた。まるでいつもと変わらない日常。しかし、それでもどこかがいつもと違っていた。シスコは一心不乱に絵を描いているスカイのところにやって来ると、彼女とそのまま床で抱き合う。それはいつもと変わらぬ愛の営みに見えて、どこか刹那的でもあった。誰もがどうってことない…という顔をしながら、心のどこかにそれはのしかかっているのだ。明日になればすべては終わる。テレビでは果てしなく論議が続いている。友人からはパソコンのスカイプを通じて、お気楽なパーティーの様子が伝えられてくる。でも、誰もが脳裏から「そのこと」を消し去ることができない。アパートの屋上に上がったシスコは、たまたま隣のビルから一人の男が飛び降りるのを目撃して、ついに心の不安を顕わにし始めた…。

みたあと

 映画のオープニングでいきなりインド音楽のシタールの調べが聞こえてきて、一瞬「これはヤバイかも」と思い始めた。やがてお香が焚かれたり小さい仏像が飾られている室内が映し出され、これが芸術家夫婦の部屋だと分かる。このあたりで、僕はますますヤバイと感じ始めていた。何がヤバイって? 何となく安易に東洋思想とかを持ち出す、西欧のエセインテリの頭でっかちなタワゴトを延々聞かされるような予感がしたからだ。もうこの時点で、僕はこの映画に「地球最期の日」をキッチリ見せてくれるSF的要素をキッパリ諦めていた。…というか、実はアベル・フェラーラの名前を監督として見つけていた時、半ばこういう事態は予想してはいたのだ。アベル・フェラーラは、最近ヴェルナー・ヘルツォークが「バッド・ルーテナント」(2009)としてリメイクして話題となったスキャンダラスな刑事映画「バッド・ルーテナント/刑事とドラッグとキリスト」(1992)でちょっと知られるようになった人。それまではまったく日本では無名だったのに、この作品が公開された前後にいきなり「知る人ぞ知る」みたいに持ち上げられて驚いた記憶がある。続いて公開された「スネーク・アイズ」(1993・ニコラス・ケイジ主演、ブライアン・デパーマ監督の作品とは別物)はマドンナとハーベイ・カイテルという異色のキャスティングで目を惹いたが、何だかハンパにアートシアター系の臭いのする作品で退屈そのもの。それが災いしてか、その後は日本ではほとんど消えちゃった存在だった。このあたりを見るとアベル・フェラーラって、「タクシー・ドライバー」(1976)やってた頃のマーティン・スコセッシがそのまま大物にならないで理屈っぽくくすぶっちゃったみたいな感じがする。それでいて結構キャリアは長くて、その中にはマジでSFホラーを撮った「ボディ・スナッチャーズ」(1993)なんて作品もあるのだ。だから僕は今回ちょっとだけ期待したのだが、残念ながら今回はヘンにアートくずれになっちゃった方のフェラーラが前面に出ちゃったようなのだ。

こうすれば

 前述したストーリーを読んでいただければお分かりのように、この映画に「2012」(2009)やら「ノウイング」(2009)などのカタストロフを期待しては間違いだ。もちろん、僕もそんなSFスペクタクルは期待しちゃいなかった。それでももうちょっと何かはあるんじゃないかと思って見ていたが、まだラース・フォン・トリヤーの人類破滅もの「メランコリア」(2011)の方が楽しませてくれた。この映画では、ほとんど部屋の中で男女がグチグチダラダラと過ごしているだけ。ちょっとだけウィレム・デフォーが部屋を抜け出す場面があるが、それでも友だちの家に入り込んでウダウダやってるだけだから変わり映えがしない。何なんだろうね、これは。そもそもウィレム・デフォーのキャラクターに難がありすぎで、隣のビルの飛び降り自殺を見たら急に狼狽して騒ぎ出すわ、スカイプで逃げた前の女房に未練たらたらグチを垂れるわ、それを今の嫁さんに見られて泣かれると「君は分かっていない!」と逆ギレして出ていくわ、ダチの家で仕入れた麻薬に逃避しようとするわ…見ていて情けなくてイヤになる。フェラーラとしては「これが人間というものだ!」とドヤ顔で言いたいのだろうが、「地球の終わり」だっていうのに延々とこんなエピソードばかり見せられるこっちの身にもなってくれ。「地球最期の日になっても人間はやっぱり人間でしかない」…と言いたいことは分かるのだが、少なくないお金と時間を使ってわざわざ言わなきゃならないことじゃないだろう。おまけに主人公の部屋の中には常にテレビやパソコンのスカイプもつけっぱなしという設定で、いろんな人物のいろんなコメントが飛び込んでくるが、それらがアル・ゴアの環境保護のメッセージだとかダライ・ラマのありがたいお話だとかってあたりが噴飯モノ。フェラーラとしては「オレは深い思索を巡らせている」とアピールしているつもりかもしれないが、あまりに「いかにも」な人選なところが残念な限り。かえってフェラーラ自身の底の浅さを露呈させる結果になっているからツライ。これは予算規模から言っても内容から言っても、学生が作る自主制作映画のレベルだろう。いい大人が作る映画じゃない。

さいごのひとこと

 90分もない映画なのに長すぎた。

 

「崖っぷちの男」

 Man on a Ledge

Date:2012 / 10 / 08

みるまえ

 「アバター」(2009)、「タイタンの戦い」(2010)…と主演作相次ぎ、今最もハリウッドでホットなニュー・スターであるサム・ワーシントンの新作。と来れば、またまた3Dとか大仕掛けな大スペクタクルかと思いきや、これは異色のサスペンス映画っぽい。いきなりビルの窓から外に出て、外壁に突き出た縁に立った男のお話。それに気付いた群衆が大騒ぎして警察も駆けつけるが、果たしてこの男の行動の真意は…?ってなお話らしい。面白そうではないか。リメイクやらシリーズやらエピソード1やらマンガ原作モノやら…ってな月並み企画しかないハリウッド映画にしては、えらく新鮮な気がする。何しろコンセプトがハッキリしているのが素晴らしい。実はこの映画、7月に見たものでとっくの昔に公開は終わっている。それを今ごろ感想文アップするのは怠慢以外の何物でもないのだが、とにかく感想文をなかなか書く時間がなかったということでご容赦いただきたい。

ないよう

 ニューヨーク、マンハッタン。活気に溢れるこの街の名門ホテル「ルーズベルト・ホテル」に、一人の男がやって来る。その男ニック・キャシディ(サム・ワーシントン)はこのホテルのフロントでチェックインをして、最上階の眺めのいい部屋にやって来た。ところがこの男、いきなり窓を開けると、部屋から出て外に突き出している出っ張り部分に立つではないか。さてはここから投身自殺を図ろうというのか、それとも何か別のことを企んでいるのか…。ニックはかつてニューヨーク市警の警官だった。ところが、なぜか実業家のデビッド・イングランダー(エド・ハリス)から4千万ドルのダイアモンドを盗んだ罪で逮捕され、刑務所に服役することになったのだ。面会にやって来たかつての同僚で親友のマイク・アッカーマン(アンソニー・マッキー)から父親の具合が芳しくないと聞かされても、どうすることもできない。結局、父親は死んでしまったため、ニックは特別な計らいでその葬儀に参列できることになった。しかしその葬儀の場では、父親の死はニックのせいだと責めるジョーイ(ジェイミー・ベル)と口論になってしまう。そのうち口論はこづき合いになり、こづき合いは本格的な殴り合いに。そして周囲がオロオロしているうちに、ニックは隙を見てまんまとその場を逃げ出してしまった。それもこれも、実はニックの計算だったのだ。彼は逃げた時を考えた準備を済ませていた。こうして偽名のクレジット・カードなどを持ってニューヨークに堂々乗り込み、問題のホテルに投宿したというわけだ。そうこうしているうちに、ホテルの窓の外に立ちつくすニックの姿は、街を行く人々の目にとまり始めた。たちまちホテルの周囲は野次馬でごった返し、ついには警官たちがやって来る。その場の指揮官としてホテルに乗りこんで来たのは、ニューヨーク市警の切れ者ダンテ・マーカス(タイタス・ウェリバー)。マーカスの命を受けて、交渉人ジャック・ドハーティ(エド・バーンズ)が例の部屋に入っていった。早速、窓の外にいるニックに向けて話しかけるドハーティ。しかしニックは彼と交渉することを拒み、リディア・マーサーという女刑事を名指しで指名した。これには少々クサらざるを得ないドハーティ。その頃、アッカーマンは逃げたニックを追っていたが、どこに消えたかその足取りはパッタリ途絶えていたのに愕然。署に戻るとホテルの窓の外に立つ男の話題で持ちきりだったが、アッカーマンはそれがまさかニックだとは気付いていない。さて、ようやく問題のホテルに女刑事リディア・マーサー(エリザベス・バンクス)が到着。しかし彼女を迎えるドハーティらの反応は、なぜか微妙だ。そして彼女自身もこの任務に気乗り薄な様子が見える。そんな状況ではあるが、窓の外に身を乗り出したリディアとニックのやりとりがいよいよ始まった。ところがニューヨーク中の視線がこのホテルに集まっている最中、ホテルの向かい側にあるビルの屋上に、二人の人物が現れた…!

みたあと

 正直な話、ダメな映画やつまらない映画の問題点を挙げるというのは、そんなに難しい話ではない。さらにコキ下ろそうというならもっと簡単だ。クセのある映画や作家性の強いもの、個人的な思い入れのある作品を語ろうというのも、さほど難しいことではあるまい。というか、そういう映画なら語りたくて語りたくて言葉が溢れんばかりに出てくるはずだ。しかし、文字通り「面白い」映画というものは、意外に語るのが難しい。個人的な思い入れとかクセとかがなくて、ただただ娯楽映画としての技術が確かで職人的なうまさを見せているような作品…今回の「崖っぷちの男」みたいな作品を語るというのは、実はかなり難しいことなのである。いや、そういうのを苦にしない人も数多くいるだろうが、僕はなかなか難しいと思っている。現に今、何て書こうか迷っている最中だ。「よくできてる」「面白い」「ハラハラドキドキ」…こんな誰でも言えるバカみたいな言葉しか思い浮かばない。正直言ってこの映画の感想文がこんなにアップが遅れたわけは、この「書きにくさ」によるものである部分が極めて大きい。いやぁ、ホントに何て言っていいのか分からない。分からないにも関わらず何か書かねばならないというなら、まず第一声としてこれだけは書かねばならないだろう。とにかく、面白い!

!!!映画を見てから読んで!!!

みどころ

 まずは「崖っぷちの男」というタイトルそのものが、ズバリ内容を表しているというあたりがお見事だ。そもそも娯楽映画ってのは、ズバッと単純で視覚的なイメージが浮かぶ明快なコンセプトが必要だ。この映画はまず「崖っぷちの男」ってあたりで内容がハッキリクッキリ。しかも面白いのは、間違いなくサスペンス・アクション映画のジャンルに入る作品なのに、その中心はホテルの部屋とその外というたった一個のセットと数人の登場人物だけ…といういわば、舞台的みたいな構造をしていること。もちろん映画を見た方ならご存知のように、映画ではこれだけでなく「別働隊」の動きやら警察サイドの動きなどが並行して進行しており、これらの「静」と「動」との切り替えでダイナミズムを醸し出している。いやぁ、これは何とも欲張りな発想だ。しかもこの映画の脚本は、隅々まで伏線が張り巡らされている。主人公ニックが飛び降り自殺をするんじゃないかと、警察が運んできたデカいクッションまでが活かされるという無駄のなさ。「ダイ・ハード」(1988)以来の緻密な娯楽映画だと言っても過言じゃないほど。デンマーク出身でそれまでドキュメンタリー映画を撮っていたというアンガー・レス監督の演出、これまでテレビ映画中心の活動ぶりだったというパブロ・F・フェンヤヴェシュの脚本…いずれもそれまで聞いたことのない人たちの仕事だが、これがなかなか素晴らしいのである。シリーズ、リメイクばやりのハリウッドで、完全に単独オリジナルの作品ってだけでも珍しくて貴重なのに、これほど質の高い娯楽作を作ってくれるとは嬉しくなる。あまりにキッチリと仕上げてくれているので、実は「面白い」とか「素晴らしい」とか月並みなホメ方しか出来ないのである。また集められた役者たちも派手さこそないものの、それなりに豪華キャスト。サム・ワーシントンは今回あまり動かない役どころだが、そこでも新しい「主役張れるスター」ぶりを遺憾なく発揮していた。この人、当分僕らを楽しませてくれそうだ。そして映画の悪役として出てくるのが、クセモノ役者エド・ハリス。ふてぶてしくて悪い奴ぶりがハンパない。そんなエド・ハリスの牙城に侵入しようというのが主人公の弟役ジェイミー・ベルだから、見ているこっちは目一杯ハラハラするのだ。「リトル・ダンサー」(2000)の彼もすっかり大人になって、近年いろいろオイシイ役にありついているが、今回もイイ味出している。どこか危うくって足りなくって頼りなさげなアンチャンの役で、いつしくじるのかと見ているこっちのテンションは上がりっぱなし。この映画ではキャスティングすら伏線なのである。そんな中で僕が注目したのが、最初にホテルに交渉人として現れたエド・バーンズ。僕がこの人を見るのは久し振りだ。昔は自身が脚本・監督する作品に主演もするというマルチな人材として登場。インディペンデント映画として「マクマレン兄弟」(1995)、「彼女は最高」(1996)などといった作品を発表。スピルバーグの「プライベート・ライアン」(1998)で役者としてメジャー映画に進出したが、それが果たして良かったのか悪かったのか。その後、ロバート・デニーロと共演した「15ミニッツ」(2001)なんてものもあったが、総じてパッとしない感じだったように思う。たまに出てきたかと思えば、映画の冒頭で恋人のキャメロン・ディアズに家から叩き出されて退場してしまう「ホリデイ」(2006)だったりして、何ともしまらない状態が続いていた。それが今回は、さりげなくイイ役を演じていて見事なのである。最初こそ女刑事に「交渉人」としての立場を持って行かれたこともあって、彼女をオチョクったり皮肉ったり、いかにも男社会で生きる食えない警官気質を臭わせて好演。ところが徐々に隠されていた事実が見え隠れしていくうちに、この食えない刑事はさりげなくさりげなく女刑事のバックアップに回っていく。何ともオイシイ役どころなのだ。おまけに彼本来のあの鼻づまりのような声も、いかにも刑事やって長くメシ食ってる男という雰囲気を醸し出すのに一役かっている。紙コップのコーヒーとホットドッグ食っているようなニューヨークの警官臭がして、何とも見事なのである。これをキッカケにして、またエド・バーンズがかつてのような活躍をしてくれれば嬉しい。

さいごのひとこと

 崖っぷちどころか余裕の出来栄え。

 

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