新作映画1000本ノック 2012年9月

Knocking on Movie Heven's Door


このページの作品

「凍える牙」 「ハーフ・デイズ」 「ローマ法王の休日」 「ハングリー・ラビット」 「トータル・リコール」(リメイク版)

 

「凍える牙」

 Howling

Date:2012 / 09 / 24

みるまえ

 昨今、日本と韓国の間では「ある島」の話題で持ちきりだ。まぁ正直な話、ガッカリさせられたりウンザリさせられることばかりだが、だからといって映画まで白い目で見るのはいかがなものか。向こうの国では何をどう思っているかは知らないが、我々は「それはそれ」「これはこれ」と分けられる分別は持ちたい。そんなわけで…こんなタイミングでまたまたソン・ガンホの新作である。僕は昔から韓国映画好きではあったものの、近年の韓流ブームと甘ったるい作品の洪水には正直ついていけない気がしていた。だから最近はフォローしない作品も多くなっていたのだが、この人の作品だけは毎回毎回欠かさずに見ていたのだ。「JSA」(2000)あたりから韓国映画のエースぶりが板に付いてきた感じのこの人は、作品もなかなかに粒揃い。「殺人の追憶」(2003)、「大統領の理髪師」(2004)、「乾き」(2009)、「義兄弟」(2010)などなどと、すべての作品が傑作とは言わないが、まず見てソンはない作品となっていた。…てなことは、毎回ソン・ガンホの作品の感想文を書くたびに繰り返していたことなので、みなさんは耳タコ状態に違いない。前作「青い塩」(2011)も作品の出来は今ひとつだったものの、ソン・ガンホ節は大いに堪能できた。今回だって見ればそれなりに楽しめるはずだ。しかも今回の作品、刑事サスペンスものと来る。チラシを見ると、人体発火事件を発端に連続殺人が起きる話とのこと。人体発火と聞くと台湾の「ダブル・ビジョン」(2002)とかツイ・ハークの近作「王朝の陰謀/判事ディーと人体発火怪奇事件」(2010)が想起されるが、これってホラー仕立てなのか? しかも第2、第3の殺人が起きるが、実行犯は人間ではなくてオオカミとか書いてある。こりゃ一体どういうことだ? 人体発火はどうなっちゃってるの? どんな話なんだかまったく想像がつかない。原作は直木賞をとった日本の作家の小説らしいが、日本の原作が韓国で映画になるのは「オールド・ボーイ」(2004)などでもお馴染みのパターンだし、かつては「積木くずし」なども韓国映画化されたらしいから驚くに当たらない。しかしこれって推理小説らしいってことは、人体発火といってもホラーではなさそうだ。一体どんな話なんだ? そんなこんなで好奇心でいっぱいになりながら、僕は初日に慌てて見に行ったわけだ。

ないよう

 夜のソウル。橋桁のたもとに停車したクルマの中で、携帯から電話している男が一人。ところがその男の腹から突然火が噴いた。驚いた男は何とか火を消そうともがくが、炎は体中に燃え広がる。そばで眠っていたホームレスは驚いて起き出したが、唖然呆然として見ているしかない。翌朝、その事件現場に駆けつけた警察官たちは、事件の不可思議さに驚く。ソ班長(シン・ジョングン)たち殺人課の刑事たちも、ホームレスの「人体が発火した」という証言に当惑するばかりだ。しかし、彼らが当惑したのはそれだけではなかった。その場に、なぜか新米の女刑事が呼ばれていたのだ。彼女の名前はチャ・ウニョン(イ・ナヨン)。しかし基本的に男社会の住人である刑事たちは、女刑事に対していい感情を持っているわけもない。せいぜい冷やかしかからかいの目で見るのがオチだ。そんなウニョンの面倒を見るように命じられたのが、うだつの上がらない中年刑事チョ・サンギル(ソン・ガンホ)。彼はウニョンと組むことを命じられ、迷惑そうな顔を隠そうともしなかった。しかも他の刑事たちからこの「人体発火」事件を押し付けられるかたちになり、さらに機嫌が悪くなった。こんな訳の分からない事件では、無事解決して点数を稼げるアテもない。サッパリ成績が上がらず、最近では昇進も後輩の後塵を拝するアリサマのサンギルは、最初からスッカリやる気をなくしていた。そこにウニョンが妙に空回りなやる気を見せるから、なおさら苦虫噛みつぶした顔にならざるを得ない。実際は女房にも逃げられ、残された子供二人の面倒も持て余している彼としては、仕事どころではないのだ。そんな二人がチンタラ検死官の部屋にやって来たのは、もうかなり遅い時間のこと。待ちきれずに検死官は帰宅してしまい、報告書が残されていただけだった。ところが報告書を読むと、サンギルは俄然やる気になってくる。何と被害者には覚醒剤反応があり、ベルトのバックルには発火させるための仕掛けが施してあったのだ。これはデカいヤマかもしれない。こうなると野心丸出しのサンギルは、他の刑事たちにこの事を他言しないようウニョンに言い放つ。なぜチームプレイをしないのかと尋ねるウニョンに、サンギルは悪びれもせずに「手柄を横取りされたくないから」と断言。結局、彼らは単独捜査を行うことになる。こうして覚醒剤の売人をシメて被害者の身元を確認。サンギルはここで足手まといなウニョンを閉め出して、一人で被害者の連絡先へ乗りこむことにした。ところが一旦追い出されても、ウニョンはそれでおとなしく帰るタマではなかった。売人を手錠でつないだままクルマで移動中のサンギルは、バックミラーに映るバイクの姿に気付いた。何とあのウニョンがバイクに跨って、サンギルのクルマを追跡しているではないか。「面倒臭い女だ!」と苦虫噛みつぶしたサンギルだが、バイクで追ってくるウニョンを追い払う訳にもいかない。こうして二人が辿り着いたのは、被害者が経営していたとおぼしき学習塾が入っているビル。何の変哲もない塾…と思いきや、そこには隠し扉があった。その奥に作ってあるいくつもの個室には妖しげな色の照明とベッドが備えられ、セーラー服やら看護婦の服などが置いてあり…どうやら地下風俗の店だったらしいことは一目瞭然。しかもそこに置かれた写真入り名簿を見ると、みんな十代の女の子のようだ。ということは、被害者はここで十代の女の子をシャブ漬けにして売春させていたってことではないのか。こうなると、サンギルやウニョンが思っていた以上にデカい事件の臭いがする。もはや彼らの手に余る事件になりつつあった。しかしいくらウニョンが応援を呼ぶべきだと主張しても、まるでサンギルは聞く耳を持たない。それどころか、鑑識の情報を一手に独占したままだ。この日も被害者の焼けこげた携帯電話からメモリーカードを入手し、中に残された動画の断片を入手。そこには十代の少女を今まさに抱こうとしている男の背中と、そこに彫られたサソリの入れ墨が写っていた。これは真犯人の手がかりになるのだろうか? ただしサンギルは鑑識の報告のうち、ひとつの奇妙な情報に気をとめていなかった。それは被害者の太股に、何やら犬のような獣に噛まれた跡があったことだった…。そんなある夜、家路を急ぐ男がふと前方に目を留めると、そこにはオオカミのような獣が目を光らせてじっと待ち構えているではないか。そのただならぬ気配に男が気付くや否や、電光石火の素早さで男に飛びかかる獣。獣は男の首筋を噛みちぎると、夜の街をいずこかへ消えていった…。ところがこの被害者の遺体が警察の検死官のもとに届けられた際に、サンギルたちが捜査情報を隠していたことがソ班長たちにバレてしまう。早速、ソ班長たちは例の地下風俗でいろいろ調べモノをしているサンギルとウニョンのもとへやって来て、二人を厳しく罵倒するのだった。いや、ウニョンについては「しぼられる」などという甘っちょろいものではない、陰湿なパワハラ、セクハラのようなイビり方だ。これには、原因をつくったサンギルも気まずい思いをせずにはいられない。さて、最初の人体発火事件と今回の事件だが、オオカミのような獣の噛み跡という点で奇妙な共通点が出来上がる。例のチョンボのせいもあって、陽の当たる派手な捜査ではなく「犬の専門家」への捜査に回されてしまうサンギルとウニョンだったが…。

みたあと

 見る前には「こりゃホラーなのか?」と勝手に思っていた奇妙な人体発火事件だが、前述のストーリーにも書いたように、ベルトに仕掛けを施した殺人事件。それも、連続殺人の最初の1回だけだ。そこから地下の少女売春組織の話へ発展していったあげく、さらにオオカミと犬の交配種であるウルフドッグの存在が前面に出て来る物語はなかなか興味深いが、正直な話、見ていて何となく引っかからないでもない。一方、お目当てのソン・ガンホもパッとしない男の哀愁を漂わせて相変わらずイイ味出してはいるが、こちらも何となくいつものようにはスッキリ楽しめない。映画自体も見ていて退屈しないのだが、どうもどこかがうまくいっていない感じなのだ。これは一体どうしたことだろう。

ここからは映画を見てから!

こうすれば

 見ていてすぐに気になるのは、何と言ってもヒロインである女刑事チャ・ウニョン。演じるイ・ナヨンがいかにも線が細い感じなのが、どうにもいけない。同僚刑事たちに「女なんか使い物にならねえ」とイビられる気の毒な役どころなのだが、実際にもあまりに線が細そうに見えるために、残念なことに見ている僕らですら「こいつじゃ無理じゃないの?」と思えてしまう。同僚たちにそう思われても仕方ないな…という気分にすらなってくるのだ。これが物語の進行にしたがって「ひ弱そうに見えて、実は…」という設定ならまだしも、劇中で犯人にボコボコにされ動けなくなったりする場面が続出。観客までが「何やってるんだよ」と言いたくなってしまう。同僚たちのパワハラ、セクハラ、イジメも度を超してひどいので気分が悪くなるのだが、肝心のヒロインがこれじゃ観客も気持ちよく味方できないし、「不当だ」とストレートに怒れないのだ。おまけに、何か言いたそうで言わないというキャラクターも見ていてイライラ。「文句あるならハッキリ言えよ」と言いたくなってしまう。それが男の横暴さだとフェミニストの方々に怒られてしまいそうだが、映画を見ていると実際にそういう気分になってしまうから仕方がない。これって女の人が見たって、きっとイライラさせられると思うよ。いつも暗くて黙っていてジト〜ッとしているこの女刑事、これだけ重苦しい雰囲気を漂わせているんだから、さぞや壮絶な過去の事情を秘めているのかと思いきや、忙しさのすれ違いから新婚のダンナと別れてしまった…という割とありふれた「過去」しかなさそう。そりゃ本人にとってはトラウマだろうけど、このくらいの経験ならかなり多くの人が経験しているんじゃないだろうか。なのに、何でこんなに終始重苦しい顔をしてジト〜ッとしているのか理解に苦しむ。その一方で、娘を地下売春組織に売り飛ばされて妊娠させられ、性病病みとヤク中で廃人になってしまった男が登場。彼のウルフドッグを使っての復讐の物語が進行するが、事もあろうにヒロインの女刑事ウニョンは、なぜかこのウルフドッグにかなりの感情移入をしてしまう。おそらく映画の作り手としては、「はぐれ者同士」「しいたげられた者同士」の共感みたいなモノを描こうとしているのだろう。しかし、片やウルフドッグ側が背負っているものが本当に壮絶で深刻なのに対して、この女刑事のトラウマはハッキリ言って月並みで人並みなモノでしかないようにしか見えないから、彼女のウルフドッグへの共感はまるっきりの一方的な甘っちょろい勘違いにしか見えない。っていうか、一緒にしたらウルフドッグ様に失礼だよ(笑)。映画の終盤ではそんな彼女にソン・ガンホ演じる相棒が共感していく設定にもなっているが、これじゃいかに名優ソン・ガンホといえども説得力をもってこれを演じることなんて不可能だ。終盤のクライマックスでは走るウルフドッグとそれをバイクで追うヒロイン、さらにそれをクルマで追うソン・ガンホ…という場面が延々続く。その背景には重厚な泣かせの音楽が分厚く流れて、観客に思い入れたっぷりに「泣け、泣け」と言わんばかりだ。しかし見ているこっちにはウルフドッグにもヒロインにもそこまでの感情移入が醸成されていないから、何ともシラジラしいとしか思えない。これじゃ日本のテレビの2時間サスペンスドラマだ。ところが劇場パンフに書いてあるコメントを読むと、原作者はそうは思っていないらしい。これまで2度この小説は日本でテレビドラマ化されたらしいが、それらはロクでもない出来栄えだったとケナしまくり、今回の映画化が初めての成功だと言っている。いやぁ、それって本気で言ってるの? そういえば今回の映画で最初に違和感を感じたのは、人体発火事件からウルフドッグ殺人へのお話のブレかた。結局、あの人体発火って何だったの? あの殺しって必要あったのか? ただ、冒頭を謎めいて派手なモノにしたかっただけじゃないの? 大体、ベルトに仕掛けをつくるなんて殺し方は、まどろっこしくて不自然じゃないのか? そう考えていくと、この映画の展開にあちこちムリがあるのは、そもそも原作にムリがあるからじゃないのか。このお話ってやっぱりおかしいよな。いろいろな意味でユ・ハというこの映画の監督は計算違いしているように思えるが、その責任を全部この人にかぶせるのは気の毒な気がする。たぶん彼の最大の失敗は、原作とヒロインの女優の選択ミスだろう。わざわざ日本からこんな小説借りる必要はなかった。残念な映画である。

さいごのひとこと

 せっかくのソン・ガンホがもったいない。

 

「ハーフ・デイズ」

 Uncertainty

Date:2012 / 09 / 10

みるまえ

 若いカップルがコインで運命を決めた結果、マンハッタンで一日を過ごすことになった場合とブルックリンで過ごすことになった場合の二つの可能性が生まれて、それぞれ異なる運命を辿っていく…。映画館に置いてあったチラシを見たら、何となく面白そうな予感がした。僕は異なるエピソードが平行で進む構成の映画は大好きなのだ。おまけに主演は「(500)日のサマー」(2009)、「50/50(フィフティ・フィフティ)」(2011)で抜群の好感度を見せ、「インセプション」(2010)からはクリストファー・ノーランにも気に入られるようになったジョセフ・ゴードン=レヴィットと来る。これは見ないわけにいかない。その割にヒッソリとした公開ぶりで全然話題が伝わってこないのは気になるが、僕は何とか時間をやりくりして劇場に駆け込んだ。

ないよう

 ブルックリン橋にたたずむ一組のカップル…ボビー(ジョセフ・ゴードン=レヴィット)とケイト(リン・コリンズ)。岐路に立った二人は、ブルックリン橋のど真ん中でコインを投げて運命を決めようとしていた。コインが落ちると、二人は正反対の方向へ全力疾走。ブルックリン側に降りたボビーは、橋のたもとでケイトの運転するクルマに乗りこむ。片やマンハッタン側に降りたケイトは、ボビーの乗ったタクシーに乗りこんだ。こうしてボビーとケイトはそれぞれブルックリン側とマンハッタン側の二組のカップルに分かれて、それぞれ別々の運命を歩んでいく。今日は7月4日の独立記念日だ。ブルックリンの二人は、これからケイトの実家で開かれるパーティーに行くところ。正直いってケイトと母親の折り合いはあまり良くないようで、二人はちょっとしたうんざりモードに入っている。そんな二人はたまたま途中でフラフラしていた迷子のイヌと出会い、道連れにすることになった。一方、マンハッタンの二人はタクシーの中に置き忘れられていた携帯電話を発見。よせばいいのにボビーがその携帯をいじくり、その持ち主とおぼしき電話番号の相手にメッセージを残す。こうして彼らはチャイナタウンへとやって来た。さて、ブルックリンの二人はケイトの実家に到着。ケイトの家族はアルゼンチン系で、母親シルヴィア(アサンプタ・セルナ)はダンサーをやっているケイト自身にも、その恋人でミュージシャンのボビーにも不満を持っている。その一方で叔父ディエゴ(ルイス・アルセーリャ)はボケなのか記憶喪失を患っていたりして、みんなそれぞれ問題ありそうだ。ボビーも何となく居心地が悪そう。マンハッタンの方では、例の携帯にディミトリとかいう男から連絡が入ってきた。調子こいて携帯を渡す算段をするボビーだが、すぐに別の奴から連絡が入ってきて混乱する。やがてクルマで約束した相手らしき男がやって来るが、彼はボビーとケイトの目の前で東洋人の殺し屋(テッド・オーヤマ)に撃たれて倒れてしまう。ビックリした二人は慌てて逃げ出して事なきを得るが、その時、ボビーは厄介な事に思い至る。ボビーはこんなヤバイ相手に、迂闊にも自分の携帯番号を教えていたのだ…。

みたあと

 映画が始まる前に劇場でパンフレットを一読していたら、この作品はゴードン=レヴィットが「(500)日のサマー」、「50/50(フィフティ・フィフティ)」でブレークする前の作品であると書いてあった。これは彼の最新作ではないのか。道理で、まるで話題になっていない地味な作品なわけだ。そして実際の作品を見てみると、さらに合点がいった。監督・脚本・制作を手掛けたデビッド・シーゲルとスコット・マクギーがどんな連中かは知らないが、売れっ子となった現在のゴードン=レヴィットが出るような映画ではない。ハッキリ言ってしまえば、どこか学生の自主制作映画のような素人臭漂う映画なのだ。

こうすれば

 冒頭から「私たちはこれからの道を決めなければ」とか何とか、頭でっかちな台詞をブツブツ。そして肝心の「一組のカップルの運命が二つに分かれる」くだりはどう描くのか…と思ったら、コインを投げてその表裏で決まるというわけでもなく、いきなり二人が別方向に駆け出したからたまげた。そして駆け出して橋を降りたところで、男女それぞれお互いのパートナーと別々に合流するという仕組み。ここまで僕が書いた文章で、みなさんはこの話がどういう展開になっているのかお分かりいただけるだろうか? 二人がブルックリン橋で別れた段階で、もうパラレル・ワールドになっているらしいのだ。これってどうなんだろう? 今回、一組のカップルの二つの運命が見せるお話であると知って、僕は2つの映画を連想した。ひとつはグウィネス・パルトロウ主演、ピーター・ハウィット監督の「スライディング・ドア」(1998)で、これはドアが閉まる寸前に間に合って地下鉄に乗り込めた場合と乗り込めなかった場合の二通りの運命を見せるお話。もうひとつはジャレッド・レト主演、ジャコ・ヴァン・ドルマル監督の「ミスター・ノーバディ」(2009)で、一人の男が人生のさまざまな節目で行った選択のそれぞれの可能性を追っていくお話。本作を見る前にはそのどちらのタイプだろうか…と考えていたのだが、結果的にはそのどちらでもなかった。二つの別々の運命がスタートする発端からして、前述のごとく何だかとてもいいかげんなのだ。橋を降りた二人が、それぞれ別の運命における相手と平然と合流するくだりも、見ているこちらは正直「???」となってしまう。そういうお話のルールだと言われても、そんなこと観客は知るわけない。というか、一体何なのそれって? ちょっとそのあたりの処理が雑なんじゃないだろうか。その後、ブルックリンが「グリーン」、マンハッタンが「イエロー」であると画面に表示されるが、これも何だか意味が分からない。もっとマズイのは、マンハッタンで展開する「イエロー」編の内容。訳の分からない携帯を拾って電話番号に連絡するのもアホだが、そこに自分の携帯番号から服装の特徴までペラペラしゃべるってのはいかがなものか。おまけに、よせばいいのにロシアン・マフィアらしき相手と取り引きしようとする身の程知らずぶり。さらにさらに、取り引きを持ちかけた後でどうやって相手と接触するのか決めてなかったというバカっぽさ。その後でこいつらが危機に陥っても、自業自得としか思えない。それ以降も万事この調子で、脚本のメリハリが全然ないと思ったら、何とほとんどが即興で撮られていたというではないか。なるほど、お話が致命的にダメなわけだ。笑っちゃったのは、撮影を担当したレイン・リーという人物。何と即興大好きのウォン・カーウァイ映画でカメラを勤めていた、クリストファー・ドイルの弟子だとか。手持ちカメラと即興慣れを買われての起用とのことだが、こんな奴を使う時点でダメ映画決定って気がする(笑)。映画としての構成がなっていないのだ。片方のブルックリンを舞台にした「グリーン」編は正直言ってダラダラとホームパーティーが続くお話なので、圧倒的に話としてはマンハッタンの「イエロー」編の方が面白いはず。それなのに即興で撮ったのがアダとなったのか、ちゃんと話を詰めていなかったのが悪いのか、主人公二人の言動がアホ過ぎるし緊迫感も弱い。描写に無駄が多すぎる。おまけに、主人公カップルの男は悪漢に携帯から個人情報を握られているのだから、最初から取り引きもクソもないはずではないか。そのへんの話の詰めの甘さはどうなっているのか。そもそも土台であるパラレル・ワールドの設定からしてテキトーなのだから、最初から話にならないのだ。結末も案の定グダグダな終わりかた。本当にシロウト映画と見たほうがいいのではないだろうか。

みどころ

 これを怪我の功名と言っていいのかどうか分からないが…片方のマンハッタンの「イエロー」編がロシアン・マフィアに追われるヤバイ話なだけに、もう片方のブルックリン「グリーン」編を見ている間も、退屈なホーム・パーティーのダラダラした話がいつヤバイ話になるのか…と気になって仕方なかった。パーティーに銃を持った奴が乱入するとか、拾った犬がとんでもない病気を持っていたとか、何か起きるんじゃないかと思えて無駄にハラハラ(笑)。結局何も起きないまま終わっちゃったが、おかげで退屈な展開を飽きずに見ることができた(笑)。これって狙ってたのかねぇ? また「イエロー」編の途中で主人公たちが映画館で見る映画として、黒澤明の「野良犬」(1949)が出てきたのはビックリで一瞬ちょっと嬉しくなった、しかし、その映画館では「野良犬」と「天国と地獄」(1963)の二本立てを上映している設定らしく、わざわざ黒澤作品の中でも犯罪映画大会にしているあたり、この「イエロー」編の犯罪サスペンス的展開とダブらせているつもりのようだ。これって見ている側に「どうだい?」って目配せでもしているつもりなんだろうか。これならケビン・コスナーとホイットニー・ヒューストン主演の「ボディガード」(1992)の劇中で「用心棒」(1961)をモロに出したベタな趣向の方がまだマシな気がする。そんなどうでもいいところに凝っているあたりがシネフィルじみてて、作り手のシロウト臭さが恥ずかしい。やっぱり学生映画に毛が生えたような出来栄えでしかないな。

さいごのひとこと

 ハーフ・デイズってのもよく分からない題だ。

 

「ローマ法王の休日」

 Habemus Papam (We Have a Pope)

Date:2012 / 09 / 10

みるまえ

 日本のスクリーンではめっきり珍しくなってしまったイタリア映画。それでもフランスのミシェル・ピコリ主演、日本でも知られているナンニ・モレッティ監督という一応ビッグネームの作品だ。チラシや予告編から察するところ、突然ローマ法王に選ばれたダークホースの枢機卿がそのプレッシャーに耐えきれず、ついついバチカンから逃げ出して市井の人々の中に紛れ込み…というお話らしい。なるほど、本当にそういう話なら一種の「ローマの休日」(1953)の変奏曲ともいえるわけで、うまく作ればハリウッドのウェルメイドな娯楽作品のように面白く楽しい映画になるはずだ。日本の配給業者の付けたタイトルもシャレている。ちょっと見てみるか…と軽い気持ちで劇場に向かった僕だが、映画が始まる直前、だしぬけにフトあることに気付いたのだ。ナンニ・モレッティは「息子の部屋」(2001)一本しか見ていないので詳しいわけでもないし偉そうなことも言えないが、果たして「ハリウッドのウェルメイドな娯楽作品のように面白く楽しい映画」なんて撮るような男だっただろうか?

ないよう

 世界各地から信者やら野次馬やらマスコミが押し掛ける中、バチカンでローマ法王の葬儀が厳粛に行われた。そして当然のことながら、「次」の法王が誰か?…が注目される。バチカンには各国の枢機卿たちが集まって、次期法王を決める法王選挙「コンクラーヴェ」が行われていた。そうなると、出てくる名前は大体決まってくる。ところが有力候補の面々の得票数が拮抗していたため、選挙結果は無効となった。礼拝堂を取り巻く群衆は、深いため息をつくのだった。繰り返し行われる投票でも、際だった違いは出てこない。実際のところ、誰も法王になどなりたくないのだ。重すぎる責任と不自由さを考えると、こんな仕事をやりたい人物などいない。だから、投票がなかなかまとまらないのも無理はない。ところが何度かの投票で、いきなり耳慣れない人物の名前が躍り出た。その人物の票はグングン伸びて、結果的に最高の得票数を得た。それは、投票前に「有力候補」たちが何やら話し合った影響が出たのだろうか。その理由は定かではない。ともかくそのダークホースだった枢機卿メルヴィル(ミシェル・ピッコリ)は、面食らった表情のまま万雷の拍手を浴びることになる。何が何だか分からないまま法王に任命され、いきなり法王としてサン・ピエトロ大聖堂のバルコニーから演説するハメになったメルヴィルだが、事ここに至って我に返ったメルヴィルは、突然バカでかい絶叫を発した。「ダメだ、私には無理だ!」…こうしてその場を逃れたメルヴィルは、部屋に閉じこもってウツ状態。バチカン報道官(イエルジー・スチュエル)は集まった群衆にもマスコミにも何とか取り繕ってはいたが、早急に何とかしなくてはならない。新法王が公表されるまでは、枢機卿たちはサン・ピエトロ大聖堂から出られないのだ。困った報道官は有名な精神科医(ナンニ・モレッティ)をバチカン内部に呼んで、メルヴィルの診察をしてもらう。しかし周囲にウヨウヨ枢機卿が見ているうえに、聞けることが限られている不自由な診察が、功を奏するわけもない。しかもメルヴィルの状況が好転するまでは、精神科医も外に出られないこといになってしまった。手詰まり感が濃厚な中、困り切った報道官は思い切った手段に出る。何とメルヴィルに一般人の服を着せて、外の別の精神科医に診せようというわけだ。その女性精神科医(マルゲリータ・ブイ)が最初に呼ばれた精神科医の元妻というのはご愛敬だったが…ともかく物々しい警備を従えて女性精神科医のもとに送り込まれたメルヴィルだったが、これといった収穫もないまま診察は終わった。ところが診察後、ちょっと目を離した隙に、メルヴィルは街中に姿を消してしまったではないか!

みたあと

 先に「ローマの休日」の変奏曲…と言ったが、実際のところ、これまでも「ローマの休日」の変奏曲的作品はいくつか作られてきていた。例えば、夫の不貞に傷付いた推理作家アガサ・クリスティが、失踪してアメリカの新聞記者と出会う…という、ヴァネッサ・レッドグレーブとダスティン・ホフマン主演、マイケル・アプテッド監督の「アガサ/愛の失踪事件」(1979)。そして、あのジュリア・ロバーツとヒュー・グラントの主演で有名な「ノッティング・ヒルの恋人」(1999)も、明らかに「ローマの休日」の変奏曲といえるだろう。そんなわけで、作りようによってはまだまだいろいろやり方がありそうな「ローマの休日」、今度はローマ法王版でいくのか…と発想の見事さに感心して見始めたのだが…。当然のことのように、法王になりたくない主人公がバチカンから街に飛び出して、そこでのカルチャー・ギャップや冒険の数々がお楽しみになるとばかり思っていた僕だが、見始めてすぐにそれは勘違いだったことに気付かざるを得なかった。肝心の主人公が、なかなかバチカンから出てこないのである。

こうすれば

 そもそも、この作品の主人公は笑いを誘ったりしない。ひたすら本気で悩んでしまうばかりなのだ。その様子が、ハタから見て笑っちゃうというわけでもない。何しろ演じているのが深刻な映画が十八番のミシェル・ピコリなのだ。そんな楽しい気分になるわけがないだろう。おまけにピコリはいつまで経ってもバチカンから出てこない。やっとこ脱出したのは、全編の3分の1ぐらいを越えたあたりだろうか。そして脱出した後になっても、笑っちゃうようなエピソードも胸躍る冒険もまったく出てこない。昔の演劇熱が蘇って来て、芝居をやっている連中にくっついていくだけだ。終始パッとしないのである。逆にバチカンに閉じ込められたナンイ・モレッティ演じる精神科医のお話のほうで、時間を持て余した枢機卿たちを使ってのバレーボール世界大会というバカバカしいエピソードが出てきて、このあたりで少々クスッと笑いが起きるくらい。それにしたって、大爆笑とか痛快とかいう雰囲気にはなってこない。そもそもこれは、僕が日本の配給会社の予告編やチラシにダマされた故の結果なのである。これは今年で言うなら、「それでも、愛してる」(2009)以来の詐欺まがいの予告編かもしれない(笑)。しかも「それでも、愛してる」の場合は予想を超えたサプライズがあるから僕としてはオッケーだったけど、こちらはひたすらうなだれてしまうような展開だからタチが悪い。もっとも冒頭にも書いたように、ナンニ・モレッティという男が「ハリウッドのウェルメイドな娯楽作品のように面白く楽しい映画」なんて撮るはずもないのだ。どうしてそれに気付かなかったのか。ただ、そういう先入観がまるでなかったとしても、結局は今の世の中は誰もが確信や自信を持てなくて混沌としている…というような結論になるのだから、目覚ましく面白くなるわけでもないのだが…(笑)。特にキリスト教国である欧米諸国の観客にとっては、これは一種の「問題作」となるのではないだろうか。残念ながら日本の不信心な仏教徒である僕にとっては、どっちに転んでもピンと来ない話だ。正直言って予告編の先入観とキリスト教への刷り込みの乏しさという二つのハンデから、僕にはこの映画をちゃんと評価することができないようだ。

さいごのひとこと

 休日なんてほのぼのしたもんじゃない。

 

「ハングリー・ラビット」

 Seeking Justice

Date:2012 / 09 / 03

みるまえ

 毎年毎年なぜか律儀にやって来るのがニコラス・ケイジの主演作。それらのほとんどがどこかイビツな出来栄えの作品なのだが、中には質の高い作品も混ざっているから侮れない。おまけに出来栄えがイマイチの作品でも、ジャンル的に僕が好きな傾向の作品がほとんどなので、結局出演作のほぼすべてを見ることになってしまう。これって彼のファンだってことになっちゃうのかねぇ(笑)? 今回はどうやら、法で裁けぬ悪を裁く殺人代行組織と関わりを持ってしまった男のお話らしい。実際に見たのはもうかなり前の話だが、多忙のために感想文アップが遅くなってしまった。まことに申しわけない。

ないよう

 それはカフェの店内で録画されたビデオ映像だった。一人の男が何やら内部告発風にヤバイ暴露話をしている。ところが男は突然怯えだして話をやめ、慌てて店から飛び出した。その男は立体駐車場に停めたクルマに乗りこみ、その場をすぐに逃げだそうとしたが…いきなりその彼のクルマに別のクルマがぶつかってくるではないか。完全に怯えきった男を乗せたまま、彼のクルマは立体駐車場から遙か下へと転落していくのだった…。それからまもなくのニューオリンズの街。そこに住む平凡な英語教師のウィル・ジェラード(ニコラス・ケイジ)は、チェリストの妻ローラ・ジェラード(ジャニュアリー・ジョーンズ)と平凡ながら幸せな結婚生活を送っている。ところがある夜のこと、ローラがオーケストラの練習から帰宅しようとすると、ある男がいきなり襲い掛かってきた。そうとは知らぬウィルは、友人のジミー(ハロルド・ペリノー)とチェスに興じている真っ最中。知らせを聞いたウィルが病院に駆けつけると、妻のローラは暴行強姦を受けてアザだらけでベッドに横たわっていた。病院の待合室に一人呆然と座り込むウィル。そんな彼に、見知らぬスキンヘッドの男サイモン(ガイ・ピアース)が近づいて来る。このサイモンという男は、ウィルに思いもかけぬことを提案してくるのだった。「私は正義のために悪人たちを処理する組織の人間だ。こういう事件では警察は頼りにならない。我々に頼んでくれれば、犯人を確実に処罰してやる」…驚くべき提案に驚くウィルだったが、サイモンたちはどうも犯人の目星をすでにつけているようだ。さらにサイモンは「見返りは後で簡単なことをしてくれるだけでいい」と言いだす。最初はそんな提案を断ったウィルだが、それでも内心の動揺は止まらない。結局、サイモンから教わったまま、病院の自販機のお菓子を購入して「GO」サインを出してしまうのだった。すると効果てきめん。その夜のうちに犯人は自宅で殺され、ウィルのもとには犯人殺害の写真と犯人がローラから奪ったネックレスが入った封筒が送られてきた。愕然としながらも一応の満足感にひたったウィルは、すべてを胸の内にしまい込むのだった。それから半年経って…ローラのキズも癒え、夫婦仲も平静に戻ったウィルのもとに、あのサイモンから「見返り」としての協力が依頼される。さすがに警戒したウィルだったが、それは封筒を郵便ポストに投函するだけという大したことのない仕事だったので、渋々ながら引き受けることにした。これで片づいたのなら楽勝…とホッとしたウィルだったが、それはあまりにも甘かった。またまたサイモンがウィルの前に現れ、またしても新たな依頼をしてくるではないか。こうしてサイモンの要求はどんどんエスカレートして…。

みたあと

 「交換殺人」がテーマのサスペンス映画。ニコラス・ケイジ主演作というと玉石混交…というよりどっちかといえば石ばっかり(笑)という感じが強いが、これはそんなケイジ主演作のなかでもちょっと異彩を放っている作品。B級臭漂う「バカ映画」が圧倒的に多い彼の作品群にして、珍しくユーモアやバカっぽさのないシリアスな作品になっているのだ。それが「珍しい」(笑)ってのもどうかと思うのだが、実際に珍しいのだから仕方がない。そして、それだけで他のケイジ主演作と比べて「格上」な感じがしてくるから不思議だ。アメリカでは大コケで批評もボロクソだったらしいが、僕が見た感じだとなかなか悪くない作品に仕上がっているのである。もっとも、僕は「バカっぽい」ケイジ主演作も結構好きなんだけどね(笑)。

みどころ

 平凡な英語教師のくせに、危機また危機を腕っ節と度胸と頭脳で乗り越えていくあたりの展開はかなり強引。しかし、主人公が真綿でどんどん首が絞まっていくように追いつめられていく様子はなかなかだし、グイグイ迫ってくるガイ・ピアースの怖さもスゴイ。見せ場も多くて楽しめるので、見ていて退屈しないのだ。このように、それなりの娯楽作として一応の出来栄えとなった本作。その功労者は、やはり職人でもあるロジャー・ドナルドソンではないだろうか。ニュージーランド出身のドナルドソンは、まったく話題にならなかった日本デビュー作「バウンティ/愛と反乱の航海」(1984)以来のわがご贔屓。その代表作といえば、ケビン・コスナー主演のサスペンス映画「追いつめられて」(1987)だろう。今回も「追いつめられて」ほどの緊迫感はないが、なかなかサスペンスを盛り上げてうまいのである。やっぱり僕はこの監督とは相性がいいようだ。

さいごのひとこと

 必殺仕事人が正義とは限らない。

 

「トータル・リコール」(リメイク版)

 Total Recall

Date:2012 / 09 / 03

みるまえ

 リメイクばやりのハリウッドでは今さらどんな作品がリメイクされても驚きはしないが、ポール・バーホーベン監督、アーノルド・シュワルツェネッガー主演の「トータル・リコール」(1990)がリメイクされようとは…。だって、シュワ主演作がリメイクだよ(笑)。正直言って名作でも傑作でもない。シュワ主演作の中でも、特別に傑出した出来というわけではなかった記憶がある。おまけに、これってまだついこの前の映画じゃないか…と思ったものの、それは僕が歳をとって時間の感覚が薄れてきたからか。実際にはもう22年も前の作品なのだった。それじゃあリメイクしても不思議じゃないかなぁ…。この作品、元々はフィリップ・K・ディックの短編小説の映画化ということだったが、映画はその短編小説からほんの一部(未読ながら、おそらく記憶を書き換えるというアイディアあたりではないか)を借用したものらしい。そりゃバーホーベンとシュワの映画ならそうだろう(笑)。となると、今回はその原作小説に忠実な映画化なのか? それより何より、今回の主演がコリン・ファレルというのが嬉しいじゃないか。娯楽大作からクセのある作家映画、地味な低予算作品まで、何でも出ちゃう腰の軽さ。ハリウッドで主演を張るくせに、どこか否めない安さや小物感(笑)。そんなコリン・ファレルが大好きだ(笑)。ついこの前も「フライトナイト/恐怖の夜」(2011)というリメイク作品で、なかなかの結果を出しているではないか。そんなファレルの「SF大作」というだけで、僕は見る気満々になっていたのだった。

ないよう

 時は2084年。第三次世界大戦で地球は荒廃し、人の住める場所は著しく限られることになった。地球上に残された居住可能地域二つのうち一方の「ブリテン連邦」はヨーロッパに存在し、支配階級が暮らしていた。もう一方のオーストラリアに存在する「コロニー」には労働者階級が暮らし、「ブリテン連邦」に支配されて労働力を供給する立場となっていた。その支配関係の支柱となっているのが、両者を結びつける交通手段である「フォール」。ほぼ地球の反対側に位置する「ブリテン連邦」と「コロニー」を結んで地球を貫通させる穴を開け、両者を往復するシャトル式の超大型エレベーターを建設。これに乗って毎日「コロニー」の人々は「ブリテン連邦」に通勤し、労働力を提供することになっていた。そんな近未来のある日のこと…ダグ・クエイド(コリン・ファレル)は今日も今日とて、毎度お馴染みの夢で目が覚めた。それは彼が何らかの独立運動の闘士として戦っており、同志の女(ジェシカ・ビール)と敵陣から脱出を図るものの失敗する…という夢だ。しかしクエイド自身はしがない「コロニー」の労働者。隣には美しい妻のローリー(ケイト・ベッキンセール)が眠っている。クエイドはここのところ毎日同じ夢でうなされていたが、その理由はまったく分からなかった。そんなこんなでローリーとイイ感じの雰囲気になってきたところで、彼女に出動命令が届く。彼女は捜査官として働いており、ちょうどテロリストによる爆破事件が起きたので呼び出されたのだった。「ブリテン連邦」は「コロニー」を完全に掌握しているとはいっても、それに反抗する一派がいないわけではなかった。そんな抵抗運動のリーダーがマサイアス(ビル・ナイ)という男。このマサイアスはハウザーという協力者とともに、「ブリテン連邦」にさまざまなテロ行為を仕掛けているのだった。しかしダグ自身は平凡な労働者で、朝が来れば同僚で友人のハリー(ボキーム・ウッドバイン)とともに「フォール」に乗って出勤。「フォール」自体は地球のコアを通過する際に無重力状態になる瞬間はちょっと刺激的なものの、その他は通勤電車並みのありふれた日常的な風景に過ぎない。そんなダグが今ちょっと興味を持っているのは、「リコール社」による特別サービス。手っ取り早くいえば、人の脳に人工的な「記憶」を植え付けるサービスだ。働きづめで生活に余裕がない「コロニー」の人々が身近なレジャーとして利用するのが、「リコール社」の人工記憶サービスなのである。このサービスを使えば、どこに出掛けるのも思いのまま。それどころか、まったく別な人生も体験できるという。しかし同僚のハリーに言わせれば、「脳味噌をかき回すようなモノは絶対良くない」とボロクソ。それでも毎日パッとしない人生に飽き飽きしていたダグは、「リコール社」のサービスに興味津々だった。現在、ダグが勤めているのは、警官ロボットを製造する工場。来る日も来る日も単調な組み立て作業だ。主任に呼ばれて「さては昇進か」と喜び勇んで事務所に出向くと、昇進したのは他人で彼はぬか喜び。さすがにクサらざるを得ない。帰宅しても恋女房のローリーはグッスリ就寝中で、ソッチのお楽しみも先送り。ガックリしたダグは混沌とした「コロニー」の繁華街をほっつき歩くうち、ふと例の「リコール社」のラウンジを訪れてみる気になった。そんなわけで「リコール社」のラウンジにやって来たダグは、そこのマクレーンという男(ジョン・チョー)に人工記憶を植え付けてもらうことになる。有名人になった記憶などさまざま体験を勧められたダグは、マクレーンがたまたま口にした「諜報員」の記憶を選ぶことにした。まるで電気椅子みたいなモノモノしい機械仕掛けの椅子に座らされた時には、さすがにイヤな予感がしたダグ。マクレーンは事故を未然に防ぐためと言いながら、ダグ自身の記憶をモニターし始めた。そしていよいよオペレーションが始まろうとした時…突然マクレーンが叫ぶではないか。「クソッ!こいつお上のイヌか?」…慌ててダグに対する作業は中断。一体何が起きたのか?とダグが怪しむ間もなく、今度はいきなりラウンジに武装した警官隊が突っ込んできた。問答無用の発砲に、マクレーンが銃弾に倒れる。むろんダグも度肝を抜かれて唖然とするが、次の瞬間、突入した武装警官たちをバッタバッタと倒していた。さらに警官たちの銃を奪って、残りの警官隊にも応戦。まるで反射神経で動いたような行動にダグ自身がビックリしたものの、なぜか身体が自然に動いて「リコール社」ラウンジからの脱出に成功した。こうして命からがらわが家に辿り着いたダグは、心配して待っていた妻ローリーにしがみつく。テレビでは「リコール社」での出来事を凶悪事件のように伝えていた。何が何だか分からぬダグはローリーを抱きしめながら、一連の事件が自分の仕業であることを告白。ローリーはそんなダグを優しく慰めていたが…いつしかダグの身体に回した腕の力はどんどん増して、身動きできないほどに締め付けられ始めた。事ここに至って様子がおかしいと気付いたダグは、必死にローリーから身をふりほどく。するとあれほど優しかったローリーが、まるで鬼の形相で襲いかかってくるではないか。これは一体どうしたのか。唖然とするダグにローリーは吐き捨てるように語った。「あたしはアンタの女房なんかじゃない。ほんの一ヶ月半前から妻のふりをしていたオトリ捜査官なのよ!」

みたあと

 正直言ってポール・バーホーベン&シュワの「トータル・リコール」がどんな映画だったのか、詳しい内容まではもう覚えていない。ただ、映画が途中から火星を舞台にしていたのと、シュワの目玉が飛び出した(笑)ことだけは覚えていた。そんなうろ覚えの記憶で前作との比較をあえてするなら、まずは最大の相違点は今回の映画に火星が出てこないということだろうか。前作は火星が舞台のお話だったのに、今回の作品は何と火星が影も形も出てこない。では原作小説に忠実なのかと言えば、どうもアクションまたアクションの派手な展開からいってこちらもかなり映画オリジナルと言ってよさそうだ。ただ、主人公に抹消された過去があること、嫁さんが突然豹変して襲いかかってくること(笑)、実は平凡だと思われていた主人公がかなりの凄腕の非凡な男であったこと…は共通している。しかし、この程度の「共通性」しかないのなら、これはもはやリメイクとして制作しなくてもよかったんじゃないだろうか。

こうすれば

 そもそも今回の作品では主人公は「リコール社」による人工記憶植え付けオペレーションを受けるまでには至っておらず、「リコール社」の存在は単に主人公が自分の正体に気付くことになるキッカケを提供しているに過ぎない。そのせいか、過去の記憶が変えられる…という原作ならびに前作の「キモ」の部分が、あまり本作では重要なモノでなくなっているのだ。そうなると、本作はただただ未来社会を舞台にした派手なSF仕立てのアクションに過ぎなくなる。やっぱり先ほど述べたように、別に「トータル・リコール」でなくても良くなってしまうのだ。これって果たしてどうなんだろうか?

みどころ

 それでは本作はつまらないのかと言えば、実は決してそうではない。主人公を演じるコリン・ファレルはいつもの小物感ムンムンなため、しがない労働者役がよく似合う。だから、実はその正体は…という意外性が大きくなるのだ。シュワじゃ最初からスゴイ奴って感じだもんねぇ。これで過去の記憶をいじくる…という「トータル・リコール」本来のテーマが強調されていれば、もっと面白くなったはずなのだが…。アクションは次から次へとテンポよく繰り出されて見どころも豊富。「ブリテン連邦」の大都会でのエアカー・チェイスなどもなかなか迫力がある。このあたりは、「ダイ・ハード4.0」(2007)の監督も勤めたレン・ワイズマンのお手柄だろう。そして何より秀逸なのが、その監督ワイズマン夫人でもあるケイト・ベッキンセールの大活躍。前作ではシャロン・ストーンが演じて彼女の「氷の微笑」(1992)での大ブレークへの足がかりとなった主人公の「妻」役だが、シャロン・ストーンは結構早い段階でやられて退場してしまったのを、今回は最後の最後まで主人公を苦しめる悪夢の「鬼嫁」役にまで発展させてしまった(笑)。ところがこの性悪凶暴オンナぶりが何とも素晴らしいのである。さすがに亭主だけあって女房の活かし方が分かってるというか、「アンダーワールド」(2003)あたりで開花したベッキンセールのダークなアクション・ヒロインとしての味を全面展開。「モーテル」(2007)や「ホワイトアウト」(2009)でもイイ味出していた彼女の魅力が、ここでもサディスティックに爆発しているのだ。小物感が漂ってどこかトホホな味わいのあるコリン・ファレルが相手だから、なおさら彼女の迫力が増しているのである。だから、これが「トータル・リコール」のリメイクとしてはどうかと思うものの、コリン・ファレル、ケイト・ベッキンセールの未来SFアクション映画と考えれば、大いに楽しめて捨てがたい味わいなのである。というか、単純に僕がこの二人とSF映画を好きだということなのかもしれないが(笑)。ついでに言うと、ベッキンセールの女房がコリン・ファレルを抱きしめながらグイグイ締め付けて正体を現すくだりは、おそらく黒澤明の「赤ひげ」(1965)で狂女の香川京子が加山雄三をからめとりながら正体を現す場面がヒントになったのではないかと思うが、いかがだろうか? ここはレン・ワイズマンにぜひとも尋ねたいところだ。

さいごのひとこと

 ベッキンセールの鬼嫁をシリーズ化希望。

 

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