新作映画1000本ノック 2012年6月

Knocking on Movie Heven's Door


このページの作品

「キラー・エリート」(ジェイソン・ステイサム主演) 「王朝の陰謀/判事ディーと人体発火怪奇事件」 「ダーク・シャドウ」 「裏切りのサーカス」 「捜査官X」

 

「キラー・エリート」
(ジェイソン・ステイサム主演)

 Killer Erite

Date:2012 / 06 / 25

みるまえ

 この映画のタイトルを最初に見た時、僕は「えっ?」と驚いてしまった。「キラー・エリート」。まさか、サム・ペキンパーの「キラー・エリート」(1975)のリメイクなのか? 当時「バイオレンス派」の巨匠として名を売っていたペキンパーが、これまた当時売り出していたジェームズ・カーンを起用しての作品。ところがコレがとんでもないトンデモ映画に仕上がって、その後のペキンパーが干される一因となった作品。僕は実際にこの映画を見てはいないが、「失敗作」であることだけは聞いていた。とにかく劇中に忍者軍団が突如現れて大暴れというんだから、マトモな作品ではあるまい。しかし昨今の企画日照りのハリウッドでは、こんな映画ですらリメイクしちゃうのか…と呆れ返った次第。それにしたってそんなペキンパーの失敗作リメイクに、ジェイソン・ステイサム、クライブ・オーウェン、ロバート・デニーロという重量感溢れる顔合わせを持ってくるとは…。そんなことをボンヤリ考えていたら、これって実はペキンパー作品のリメイクでも何でもなくて、まるっきり内容が別のお話らしい。いやいや、お恥ずかしい。まったくの僕の勘違い。そうなればこの顔合わせだ、見ないわけにはいくまい。久々にスカッとするアクション映画を見せてくれそうな気がする。そんなわけで僕は公開早々、映画館に足を運んだわけだ。感想文が遅れたのは例によって例のごとし、僕の怠慢のせいである。

ないよう

 1980年、メキシコの汚れた裏通り。二人のアメリカ人男性が、屋台の安料理を手にして何かを待ち受けていた。その二人とは…ダニー・ブライス(ジェイソン・ステイサム)とハンター(ロバート・デニーロ)。二人はくだらない話をボソボソとしていたが、やがて時間が来たのか、おもむろに「何か」の準備を始める。その仕事とは「暗殺」だ。白バイに先導された黒塗りのクルマが、ダニーやハンターたちが待ち受けている街の一角へと近づいてくる。彼らはそれを待ち伏せして、クルマに乗っているある要人を暗殺するのだ。やがて彼らの目の前にクルマがやって来たところで襲撃開始。護衛の警官たちを蹴散らかした上で、ダニーはおもむろに黒塗りのクルマのドアを開けた。すると…そこには怯えきった目の少年が一人乗っているだけではないか。意表を突かれたダニーは、いつもの沈着冷静さもすっ飛んで唖然茫然。その隙を突かれて、白バイ警官からの銃弾を受けてしまう。我に返ったダニーは、慌ててハンターが運転するクルマに乗り込み辛くも脱出。それでもダニーは、逃走しながらあの少年の目が脳裏から消えることはなかった。これがダニーに「潮時」を悟らせたのか、彼は「仕事」から足を洗ってオーストラリアの辺鄙な田舎へと引っ込んでしまう。近所に住む幼なじみの女性アン・フレイジャー(イヴォンヌ・ストラホフスキー)との再会もあり、すっかり落ち着いた生活を営むようになったダニーだった…。ところがそれから1年したある日、田舎暮らしが板に付いたダニーの元に、突然の便りが届く。封筒に入っていたのは中東はオマーンへの航空券と、かつての盟友ハンターが縛られているポラロイド写真だった。容易ならざる事態であることを悟ったダニーは、それまでの平穏な生活を捨てて一路オマーンへと旅立つ。こうしてオマーンの街へ降り立ったダニーは、エージェント(アドウェール・アキノエ=アグバエ)の出迎えを受ける。このエージェントによれば、ハンターはこのオマーンの地で600万ドルという高額な報酬の仕事を請けたとのこと。しかし、うまい話には裏がある。とてもじゃないが自分の手に余ると知ったハンターは仕事から降りようとして、逆に捕らえられるハメになってしまった。そこでハンターの代わりに仕事を遂行するために、ダニーが呼ばれたというわけだ。ダニーはエージェントのクルマで、ハンターの捕らえられている場所にやって来る。そこはオマーンの首長の一人、シーク・アムル(ロドニー・アフィーフ)の住んでいる建物だ。そこでダニーは、ハンターが迂闊に受けてしまった仕事の内容を聞くことになる。その仕事とは、難病で余命わずかのシーク・アムルの復讐の手助けだった。かつて起きた内戦で、石油利権のためにこの地にやって来たSAS(英国特殊部隊)の3人の隊員に、アムルの4人の息子のうち長男から三男までを殺された。今は引退してイギリスに戻ったこの3人の隊員…ハリス(ラッキー・ヒューム)、クレッグ(グラント・バウラー)、マッキャン(ダニエル・ロバーツ)を殺すこと、その際に彼らの告白をビデオテープに録画し、彼らの死を事故に見せかけることが、今回課せられた任務だ。この復讐が果たされて初めて、シーク・アムルの四男バーハイト(フィラス・ディラーニ)はかつて統治していた地域に戻ることができる。 もしダニーがこの仕事を遂行しなければ、ハンターは処刑されてしまうのだ。そんな話を聞かされた後で、奥の牢獄に監禁されているハンターと再会を果たすダニー。早速、ダニーはハンターと共に脱出を図るが、敵の方が一枚上手。結局捕らえられた末に、四男バーハイト「今のは腕前を見るためのテストだった」などと余裕かまされる始末。これはどうやら自分をおびき出すための罠だったと悟ったダニーだったが、今さら例の任務を回避する術などあろうはずもない。こうしてパリへと飛んだダニーは、かつての仲間であるデイビス(ドミニク・パーセル)、メイアー(エイデン・ヤング)の力を借りることにする。しかしSASの隊員となれば精鋭揃いであり、しかも彼らはそのOB軍団と闇の勢力「フェザー・メン」によって守られている。そんな元SAS隊員を3人も殺すとなると、至難の業と言わざるを得ない。ともかく舞台をイギリスに移した彼らは、ターゲットの3人の身辺を洗い始める。ところがそれは、「フェザー・メン」配下の実行部隊のリーダーであるスパイク・ローガン(クライブ・オーウェン)の知るところとなって…。

みたあと

 正直言ってジェイソン・ステイサムのアクション映画というと、「トランスポーター」(2002)、「アドレナリン」(2006)、「デス・レース」(2008)、「エクスペンダブルズ」(2010)などなど、どちらかと言えばあまり頭の良さそうな映画じゃなくて、腕っぷしばかりのバカ映画が多かったような気がする。これは決してバカにして言っているんではなくて、そういうジェイソン・ステイサム映画を僕も大いに楽しんでいたのだ。そこにこれまた「濃いい」個性のクライブ・オーウェンと来る。そして大御所デニーロまで参戦と来れば、こりゃあ大いに楽しみになるではないか。どれだけ派手にドンパチやらかしてくれるのか、どれほど大暴れしてくれるのかとワクワクせざるを得ない。そもそも、こちとら最近いろいろ疲れているから、頭を使わないで楽しめる映画に飢えているのだ。とにかく大暴れして僕を楽しませて欲しい。

こうすれば

 ところが実際の映画は、僕の期待していたようなものではなかった。お話は実話を元にしたものらしく、傭兵稼業がイヤになって足を洗った男が、またまた昔のしがらみから汚い商売に舞い戻らねばならなくなる話。主人公がイヤイヤ行動しなければならなくなる…というあたりからして気勢が上がらないことおびただしいが、その「仕事」というのも他人の復讐の代理というから爽快感はゼロ。ふんだんにアクションは盛り込まれているし主演スター3人の顔合わせは何だかんだ言って楽しませてくれる。イヤ〜な予感がしたエンディングも、ハードにアンハッピーな幕切れになるかと思いきや大逆転で終わって、見終わって真っ暗な後味にならなかったから良かった。ゲイリー・マッケンドリー監督のハラハラさせる腕前も悪くはない。…そんなわけでそれなりにソツなくできた映画だとは思うのだが、何しろ見る僕の側の期待が「ジェイソン・ステイサムが大暴れして、そこに濃いいクライブ・オーウェンとデニーロが絡むゴキゲンなバカ映画」だったから、あくまでシリアスな作品のスタンスに最後まで馴染めない。実際のところ、上映時間が2時間を切っているのに見ていて「長い」と感じてしまったのだから、これは完全に僕の作品選択のミスだろう。少なくともこの日は、僕はこの作品を見るべきではなかったのだ。理由はよく分からないが、僕はあまり楽しめなかった。これは僕が見たかった作品ではなかったのだろう。そもそも最初にサム・ペキンパー作品のリメイクかと勘違いした時点から、この映画には招かれていなかった気がする。まったく申し訳ない。

さいごのひとこと

 僕はだんだんバカ映画しか受け付けなくなってきた。

 

「王朝の陰謀/判事ディーと人体発火怪奇事件」

 狄仁杰之通天帝国
 (Detective Dee and the Mysery of the Phantom Flame)

Date:2012 / 06 / 25

みるまえ

 1980〜1990年代の香港映画ニューウェーブに関心を持っていた人なら、ツイ・ハークという名前は忘れることができないはずだ。膨大な数の監督・プロデュースを手がけ、娯楽性・商業性と作家性を兼ね備えた作品を生みだしていた彼の異名は、誰が呼んだか「香港のスピルバーグ」。日本での最大の成功作はプロデュース作品「チャイニーズ・ゴースト・ストーリー」(1987)か、はたまたジェット・リーの名声を決定づけた「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ/天地黎明」(1991)か。僕個人としてはひっそりと公開された初期作品「上海ブルース」(1984)が好きだったりするのだが、ともかく当時のツイ・ハークは飛ぶ鳥落とす勢いだったし、向かうところ敵なしといった感じだった。そんな彼がまさかの低迷状態に陥ったのは、やっぱりジョン・ウーの向こうを張ってのハリウッド進出が原因だろうか。むしろジョン・ウーなどよりもっとソツない娯楽性を持っていたツイ・ハークだったから、「オレならもっと成功する」と思うのも無理はない。しかしハリウッド進出は大失敗して、その後、香港に戻ってもかつての調子を取り戻せない。「グリーン・デスティニー」(2000)以降、大量生産された中華チャンバラ大作アクション映画の戦列に加わっての「セブンソード」(2005)などは堂々たる作品だったが、往年の彼らしさとの折り合いがうまくついていない感じで、イマイチ成功していない。リッパな作品ではあったが、正直言ってまだまだ本調子だとは感じられない出来映えだった。そういう意味ですっかり「過去の人」となってしまったどころか、その名前も忘れかけていたツイ・ハークだったが、いきなりまた浮上してくるとは。大スターのアンディ・ラウ主演作でかなりの大作風。しかもアメリカの「TIME」誌選出2011年の映画ベストテンにおいて、「アーティスト」(2011)、「ヒューゴの不思議な発明」(2011)に次いで第3位という高評価。どうやらこれはホンモノだ。お話は宮廷を巡る権謀術数のお話に、何と「人体発火」という奇妙な殺人が出てくる。おまけに巨大な大仏を建立するというスペクタクルもある。何となくバイタリティに溢れていた、ケレン味たっぷりの往年のツイ・ハークっぽい雰囲気が伝わってくるではないか。ツイ・ハークの「復活」をこの目で目撃したい一心で、僕は公開初日に劇場へと駆けつけた。

ないよう

 7世紀の中国・唐の時代。史上初の「女帝」となる則天武后(カリーナ・ラウ)の女帝即位前夜のこと。洛陽の都の皇宮そばには、則天武后の巨大な権力を誇示すべく、そびえ立つような仏塔「通天仏」の建設が急ピッチで進められていた。その日は欧州からの客人を招いており、設計主任がこの客人を自ら案内していた。巨大な「通天仏」のてっぺんまで上って、客人にその素晴らしい眺めを誇らしげに見せていたその時…いきなり設計主任が苦しげな表情を見せるではないか。周囲では何が起こっているのか分からずオタオタする中、もがき苦しむ設計主任のカラダからなぜか煙が巻き起こる。アッという間に設計主任は炎に包まれ、周囲の人々の目の前で灰になってしまったのだ。早速、事件を捜査するために捜査官のシュエとその部下のペイ・ドンライ(ダン・チャオ)が派遣されるが、この奇怪な事件の説明はつかない。現場監督のシャトー(レオン・カーフェイ)は設計主任がまじないのお札を邪険に扱ったからだと説明するが、シュエはそれを一笑に付して自らお札をはがしてしまう。するとどうだ、シュエは先ほどの設計主任と同じく炎に包まれ、一瞬のうちに灰になってしまったではないか。この異常事態…しかも則天武后が自らの権力を誇示するための「通天仏」建設現場での出来事とあって、則天武后とその側近たちは事態を重く見た。そこで則天武后は自らが唯一信じる助言者、国師の助言に耳を傾けることにした。その「助言」は何と獣の口を借りて語られたのだが、それによるとこれらの怪事件は、「明けの星が朝廷を離れて8年も獄につながれているからだ」とのこと。そして、ナゾはこの「明けの星」しか解けないということだった。その明けの星とは…頭脳明晰で武術にも長けていたが、かつて皇帝の死後に権力を掌握した則天武后を非難し、投獄された切れ者ディー・レンチェ(アンディ・ラウ)という男のこと。しかし他に事件を解決できる者がいないとあらば、背に腹は代えられない。ただちに則天武后は、獄中のディーを呼び寄せることにする。一方、獄中のディーはといえば、一足先に奇妙な客たちの訪問を受けていた。正体不明の賊に襲われ牢獄仲間で盲目のリンと戦うハメになっていたのだ。しかし持ち前の機知と腕っ節で敵を撃退。その場にちょうど則天武后から遣わされた側近チンアル(リー・ビンビン)もやってきて、ディーに正式に招聘の命令を伝えた。こうして8年ぶりにシャバに出て、正式に判事として捜査につくことになったディー。その補佐役として、チンアルとペイ・ドンライも行動を共にすることになった。しかしそんなディーの周囲には、前皇帝に仕えていた反・則天武后の琅珊王たち一派など、さまざまなクセモノたちが暗躍。元々の事件の奇怪さもあって、捜査は思いがけない方向へと向かっていくのだった…。

みたあと

 映画が始まってすぐに、7世紀の洛陽の都がスペクタキュラーなCGで再現され、そこに巨大な「通天仏」がそびえ立つ光景で観客を圧倒。単にデカい宇宙船やら大爆発ってなハリウッド的CGスペクタクルにはお腹一杯な僕だが、こういう(ホントかウソかは分からないが)歴史の再現的なCG映像にはワクワクしてしまう。たぶん中国的「白髪三千丈」な大げさ映像なのだろうが、そのハッタリこそが嬉しいのだ。そしていきなり人間が自然発火という力業。イントロからお話にグイグイ引き込まれるダイナミズム。原因不明の「人体発火」というと、アメリカからデビッド・モースを迎えてのチャン・クオフー監督「ダブル・ビジョン」(2002)を思い出すが、この妙にいかがわしいホラー味が嬉しいではないか。このケレン味、ハッタリ感、いかがわしさ、そしてダイナミズムと力業…そうだそうだ。僕はずっとこれを忘れていた。これぞかつての「ミスター香港映画」、ツイ・ハークの持ち味ではないか!

みどころ

 アン・リーの「グリーン・デスティニー」以降、中国語圏の名のある監督たちがこぞって挑戦した中華チャンバラ大作群は、チャン・イーモウやチェン・カイコー、ピーター・チャンからあのジョン・ウーの「レッドクリフ Part I」(2008)、「レッドクリフ Part II/未来への最終決戦」(2009)まで登場するに至って一段落した感がある。もちろんわがツイ・ハークもハリウッドの夢破れた後で参戦したのだが、その作品「セブンソード」が今ひとつだったことは先に書いた通りだ。ハリウッドの他流試合で失敗した彼としては、本拠の中国語映画の中で「本領発揮」したい、他の中国語圏映画の名手たちと肩を並べたところを見せたい…と張り切ったのだろう。それまでのツイ・ハークとはちょっと違った、重厚感ある大作となっていた。ところがその一方で、従来のツイ・ハークっぽい妙にチャカチャカしたところもチラつかせていたため、この両者が水と油となって馴染まなかったわけだ。確かにそれまでのツイ・ハークは、ちょっとチャラ過ぎるところがない訳ではなかった。1980年代あたりの香港映画ニューウェーブの中ではそれが「一丁やったろか!」的なイキの良さやバイタリティにもなっていたのだが、そんな「チャラさ」は時代の流れの中で徐々にそぐわないものになっていた。おまけにハリウッドでの挫折を経験してしまったツイ・ハークとしても、そんな「チャラさ」はもはや天真爛漫に心から発散できるものではなかったはずだ。だからと言って、チャン・イーモウなどのように「巨匠」然として振る舞うのもこの人の持ち味ではあるまい。そんなわけで、どうしても本調子が出せない状態が続いたように思う。僕は見ていなかったが、その前後に発表した作品群もあまり芳しい出来ではなかったようで、長らく停滞を余儀なくされていたようだ。しかし今回の作品では、そんなツイ・ハークが一変した。冒頭から前述のように飛ばす飛ばす。ハッタリもケレン味もたっぷり。しかし時代は幸いなことにCG時代を迎えていて、そんな彼のハッタリをテクノロジーでキッチリ支えてくれた。だから堂々たるスペクタクルとして、今までのツイ・ハークにない安定感がある。逆に言うと、CG映像はこういう人が使ってこそ活きるのかもしれないのだ。もちろん、セットなどのカネのかけ方も以前とは比べものにならない。彼なりのハッタリやケレン味を巨額の資金と進化したCGで堂々と具体化することで、意外なまでの成熟味さえ生まれているのである。そしてもうひとつ特筆すべきは、彼ならではの着眼点のうまさだろうか。この映画の主人公ディー・レンチェとは、どうやら中国語圏ではテレビで人気の有名キャラクターらしい。もっともそこでは太った中年男のキャラのようで、とてもじゃないがアンディ・ラウの役どころではないようだ。それを今回このようなスタイルで映画化したというのは…僕らはこれと非常に似たタイプの映画作品を、つい最近見ているんじゃないか。そう、ロバート・ダウニー・ジュニアが主演したガイ・リッチー監督の「シャーロック・ホームズ」(2009)。世界的にファンがいる超有名キャラクターだが、それまでの神経質そうな思索の人というイメージを、ユーモラスでアクティブなイメージに焼き直した。ついでに言えば、両者とも並はずれた名探偵だ。そして今回の作品も「シャーロック・ホームズ」も、当時の社会風俗や風景をCGを駆使して再現しているのが売り。派手でスペクタキュラーな見せ場がある点でも両者は一致だ。おそらく才人ツイ・ハークは今回の企画に着手するにあたって、この「シャーロック・ホームズ」を大きなヒントにしたのではないだろうか。面白いのは、今回のツイ・ハークのアプローチがどこかピーター・チャンの「捜査官X」(2011)とどこか似ているところ。「捜査官X」は理屈のつかないカンフーの技を理屈づくで推理するミステリー仕立てで作り、そして今回の作品はやはり理屈のつかないホラー風味の怪現象を理屈づくで推理するミステリー仕立てで作っている。かつての香港映画の俊英二人…しかも両者ともハリウッドで挫折した才人が、図らずも同時期に同じようなアプローチの作品を試みるとは。これは偶然でこうなったのだろうか。非常に興味深いところだ。さらにこの作品には、例えば宮廷の権謀術数やら巨大で重厚な「通天仏」の大セットとその崩壊シーンの描き方などにジャン=ジャック・アノー監督の「薔薇の名前」(1986)がチラついたり、ディー・レンチェ一行が「亡者の市」という地下世界に入っていくくだりで「ロード・オブ・ザ・リング」(2001)の中のゴラムなどが出てくる地底世界の場面が彷彿とされたり、ガイ・リッチー版「シャーロック・ホームズ」だけではなくさまざまなヒット映画の残像がチラついている。そのあたりも「パクりも辞さず」のフットワークの軽さで世界を席巻したかつての香港映画ニューウェーブと、その立役者だったツイ・ハークのいい意味での「チャラさ」が思い出されて嬉しかった。これぞ、僕らが大いに楽しませてもらったツイ・ハークだ。いや、そうではない。大人なりの重みさえ伴った、新しい進化したツイ・ハークなのだ。まさにこれぞチョイ悪オヤジだ(笑)! かつての香港映画ニューウェーブに魅了された僕としては、ツイ・ハークの復活は本当に嬉しかったし、この映画を見てこれからのツイ・ハークがすごく楽しみになった。

さいごのひとこと

 懐かしい顔が頑張っているのは嬉しい。

 

「ダーク・シャドウ」

 Dark Shadows

Date:2012 / 06 /11

みるまえ

 現代映画界の名コンビといえばこの二人、ティム・バートンとジョニー・デップにとどめを刺す。元からこの二人の作品は良質だったことに加えて、「パイレーツ・オブ・カリビアン/呪われた海賊たち」(2003)以降はジョニー・デップもビッグスター化したことから、名実共に黄金コンビとなった二人。当然その新たなコンビ作が待たれるところだったが、ついに最新作がやって来た。200年の眠りから覚めたバンパイアと、その末裔の家族たちとの物語。当然の事ながら、ジョニー・デップがそのバンパイアだ。そして200年前のバンパイアと現代とのギャップが笑えるコミカルな風味の作品だという。そいつは面白そうだと思いながら、実はここだけの話、僕は何だか引っかかるモノを感じてもいた。そのモヤモヤの正体を突き止めるため、僕は公開初日に劇場へと乗り込んだ次第。

ないよう

 1760年、ジョシュア(イヴァン・ケイ)とナオミ(スザンナ・カペラロ)のコリンズ夫妻は、イングランドのリバプールから新天地アメリカへと船で出発。コリンズ家はアメリカで新商売として水産業を手がけ、大成功を収めた。これに味を占めたジョシュアは本拠をアメリカに移してさらに事業を拡大。彼が事業を興した街はコリンズポートと名付けられ、完全なコリンズの「城下町」となった。やがて夫妻の間に生まれた息子バーナバス(ジョニー・デップ)は立派な青年に成長。使用人の娘アンジェリーク・ブシャール(エヴァ・グリーン)と関係を持つが、それは所詮は身分違いの情事でしかない。過剰に迫るアンジャリークから心が離れたバーナバスは、ジョゼット・デュプレ(ベラ・ヒースコート)という美しい娘に惹かれて結婚。しかしバーナバスにとって不運なことに、アンジェリークは魔女だった。彼女は呪いと策略を巡らせ、コリンズ夫妻を死に追いやった。さらにバーナバスの妻となったジョゼットを自在に操り、バーナバスの目の前で崖から飛び降り自殺をさせてしまう。悲嘆に暮れたバーナバスも同じ崖から飛び降りるが、気づいてみると死んでいない。おまけに、手の指の爪やら歯の先端が尖り始めるではないか。彼はアンジェリークの呪いでバンパイアに変身させられてしまったのだ。こうしてバンパイアになってしまったバーナバスは、アンジェリークの企みでバンパイアとして街の人々に追われることになってしまう。結局捕らえられたバーナバスは、鎖で縛られた棺桶に閉じこめられたまま、森の中に生き埋めにされるハメになってしまうのだった…。それから幾年月流れた1972年のこと。全速力で走る長距離列車の中に、一人の若い娘ヴィクトリア(ベラ・ヒースコート)が乗っている。ただし彼女の名前ヴィクトリアはどうも偽名のようで、何やら訳アリの感じだ。そんなヴィクトリアがやって来たのは、街の様相が一変したコリンズポート。彼女はヒッチハイクの末、かつてのコリンズ家のお屋敷へとやって来た。しかし屋敷はカタチこそ元のままの威容を見せていたが、見る影もなく寂れたアリサマ。おまけに人けもなくガランとするばかりだった。まず出てきたのは、ロクにしゃべれないダメ管理人ウィリー・ルーミス(ジャッキー・アール・ヘイリー)。実はこの家では娘の家庭教師を住み込みで募集していて、ヴィクトリアはそれに応募してきたのだった。現在のコリンズ家の家長はエリザベス・コリンズ・ストッダード(ミシェル・ファイファー)という女で、彼女は早速ティーンエージャーの娘キャロリン・ストッダード(クロエ・グレース・モレッツ)の部屋にヴィクトリアを案内する。この娘キャロリンが手の付けられない反抗的な娘で、ロックを大音響でかけて部屋に閉じこもっているアリサマ。家庭教師も次々辞めて、今回ヴィクトリアがやって来たという訳だ。その他の屋敷の住人は、エリザベスの軽薄そうな弟ロジャー・コリンズ(ジョニー・リー・ミラー)と、ロジャーの幼い息子デビッド・コリンズ(ガリー・マクグラス)。デビッドの母親は最近海で溺死したばかりで、彼はそのトラウマに取り憑かれている様子。おまけに母親の幽霊を見たと力説するのだが、ヴィクトリアは優しさからか幽霊の存在を否定しない。それというのも…ここだけの話、ヴィクトリア自身にも幽霊の姿が見えるのだった。その夜のこと、眠っている彼女のもとに幽霊がやって来る。それは200年以上前に呪いをかけられ、崖から飛び降りて死んだジョゼットのものだった…。その夜のこと、コリンズポート郊外の森の中でとんでもない事件が起きる。たまたま偶然に工事で地面を掘り起こしていた作業員たちが、土中に奇妙な棺を発見したのだ。鎖でがんじがらめに縛られたそれを、よせばいいのに作業員たちはこじ開けてしまう。すると…突然棺が開いたかと思うと何者かが飛び出して、アッという間に作業員たちが次々と襲われてしまう。そして最後に月光の中に立ちつくしたのは…口元を血しぶきで汚した、あのバーナバスの姿だった…!

みたあと

 映画が始まってしばらくは、200年以上前の前置きエピソードが続く。ここは割とシリアスなタッチの恐怖映画風作り。それが1970年代の本題に移るや、いきなり懐かしのロックやポップスが流れてミスマッチなムードが漂う。実はこの映画はかつての人気テレビシリーズの映画化らしく、1972年とはそのテレビシリーズが終了した時期らしいのだが、あえて時代背景を21世紀の現代にしなかったのが奇妙な効果をあげている。テレビシリーズには笑いの要素はなく大真面目にホラーな物語を展開していたらしいが、この映画版は何しろティム・バートン作品なだけに、どこか奇妙でズレた笑いが漂う。それは主人公バーナバスが200年以上前の人間であることからの価値観のズレから来る笑いだが、実はそこで描かれる「現代」も観客の僕らからすれば過去の1970年代だから、ズレは二重に生じていることになる。すでに僕らからすれば、1970年代の習慣や風俗もズレていてオカシイのだ。そのあたりを、ジョニー・デップが例のオトボケ加減の演技で笑わせてくれるという具合。途中に流れるエルトン・ジョンの「クロコダイル・ロック」とかカーペンターズの「トップ・オブ・ザ・ワールド」とかのオールディーズの名曲も楽しくて、娯楽映画としては申し分ない。怖くてグロくて笑えて楽しい、ティム・バートンらしい作品に仕上がっているのだ。そういや似たような印象の作品が他のティム・バートン作品にあったな…と思ったら、あったあった。マイケル・キートンがトリックスター的な役柄に扮した「ビートルジュース」(1988)があったではないか。アレもゾッとするようなシチュエーションで展開する家族の話で、奇妙だけどどこか笑っちゃうという内容。お話そのものはまったく異なるが、底に流れるテイストは同じような気がする。ただ、それを言ったらティム・バートン作品って、どれもこれも一見ゾッとして奇妙だけどユーモラスな作品ってことになるよな。いやいや、ティム・バートン作品だけじゃなくて、何となくこの映画って他のいろいろな作品を思わせるところはないだろうか? いろいろあったよなぁ、こういうお化け屋敷に迷い込んだ一家を描いたコミカルな作品や、モンスター一家みたいな話。「アダムス・ファミリー」(1991)とか「キャスパー」(1995)だとか…僕が今ここでパッと思い出せないだけで、絶対いろいろあったはずだ。例えばこの映画のクロエ・グレース・モレッツの役柄とかにしたって、昔だったらクリスティーナ・リッチあたりがやっていたような気がする。あるいは先の「ビートルジュース」に出ていたウィノナ・ライダーとか。エヴァ・グリーンの役柄だって、昔だったらこの人って人(例えば前述の「キャスパー」だったらキャシー・モリアーティだとか)がいたような気がする。そんな感じで、この映画のあちこち隅々まですでに見ちゃった感じが漂っていて、他の誰か何かで代用可能な雰囲気に溢れている。何だろう、この全編に漂う既視感は?

こうすれば

 ぶっちゃけ言ってティム・バートン作品(ついでに言えばジョニー・デップとのコンビ作)は、ここ最近マンネリ化の危険性を帯びてきていた気がする。いつもいつもゾッとして奇妙でグロくて、だけど笑っちゃうような作風。時にこれに哀しみの要素が強く加えられることもあるが、基本的にティム・バートン作品ってのはこういう路線で描かれて来た。当然、それらの作品はホラーやファンタジーの要素の強い題材に限られて来て、毎度毎度その繰り返しになっていたのだ。それでも最初の頃はそのままで良かった。ティム・バートンの持っていたオリジナリティーが強烈だったし、それがまだまだ新鮮だったからだ。ジョニー・デップとのコンビ作に限って言えば、「シザーハンズ」(1990)、「エド・ウッド」(1994)、「スリーピー・ホロウ」(1999)あたりがそれだ。思うがままにティム・バートンが好きな世界を作り上げても、まだまだそこに驚きや新しさがあった。ところがこの後、ティム・バートンはちょっとした方向転換を試みる。リ・イマジネーション版「猿の惑星」(2001)や「ビッグ・フィッシュ」(2003)がそれだ。それまでのティム・バートン印の強烈な意匠が影を潜め、個性的ではあったが少々方向性を変えた作品になっていた。実はこのあたりでティム・バートンは、一回り大きい映画作家へと成長したかったのではないかと考えられる。それは同様にクセの強い作風で売り出しながら、いつの間にかスケールの大きい作家に脱皮したデビッド・フィンチャーみたいな方向性を考えていたように思われるのだ。しかし「ビッグ・フィッシュ」はともかく、「猿の惑星」は決して好評とは言い難かった。残念ながらティム・バートンは、作家としての脱皮に成功しなかったようなのだ。そこで彼は、またまた彼の十八番の世界に戻ってくる。盟友ジョニー・デップとのコンビを復活させ、怖い映画ではないものの何とも奇妙な世界を展開し、なぜか笑っちゃうという「チャーリーとチョコレート工場」(2005)を発表したのだ。僕もこれには喜んだし、世間もこれぞティム・バートン作品だと喝采。やはりこれこそが彼の世界だと思ったものだ。しかし怖くて奇妙でなおかつユーモラスというような作品を作るのに格好の題材など、そうそうザラに見つかる訳ではない。彼が「猿の惑星」などで方向転換を試みた理由は、作家的成長以外にそうした題材としての難しさもあったように思われる。その後の彼の作品は、「コープスブライド」(2005)、「スウィーニー・トッド/フリート街の悪魔の理髪師」(2007)とも僕には少々苦しい展開になってきているように思える。「アリス・イン・ワンダーランド」(2010)に至っては、正直見る気も起きなかった。ファンタジー系のジャンルが好きな映画作家ならバカの一つ覚えみたいに手を出す「不思議の国のアリス」に、とうとうティム・バートンも手を出しちゃったのか…と思ってイヤな予感しかしなかったのだ。見ていないのにこう言うのもどうかとは思うが、そこには「案の定」という感じのネタ切れ感が漂っていた。それと同時に…ここ最近のティム・バートン作品(特にデップとのコンビ作)って、かなり既視感が強かった。もう見ちゃった気がするというか、見なくても分かるというか、あるいは似たような作品をすでに見ているというか…そんな手垢のつきまくった月並み感が溢れていたのである。たぶん今度も怖くて奇妙でグロくて、どこかオカシイ映画なのだろう。ジョニー・デップは顔をメイクで塗りまくって、キテレツ演技で登場してくるのだろう。こうなってみると、残念ながらティム・バートン映画はマンネリとしか言いようがない。むろん作家性や個性の強い映画作家の作品は、どれも一貫したものが流れている。だから一見すれば「この人の作品」と分かるような色がついている。しかしながら、それは「もう見ちゃった気がする」という印象を与えることとはイコールではあるまい。そうなってしまっては、それは作家性というよりマンネリと言うべきだ。今回の「ダーク・シャドウ」は今まで増して「ビートルジュース」など他のバートン作品を思わせる要素が強い上に、あろうことかバートン作品に限らない過去のあまたあるホラー仕立てのコメディ映画の残像に溢れている。だから見ていて、クロエ・グレース・モレッツの役柄は昔ならクリスティーナ・リッチやウィノナ・ライダーがやっていただろうなぁ…などと思えて来ちゃうのだ。ティム・バートンの意匠がマンネリになってきただけでなく、彼の意匠そのものが他のさまざまな作品と比べても個性的でなくなって来ちゃってるのである。クセの強い作風ってのはこういう時にツライ。クセが強いからこそ飽きも早く来るだろうし、使える手が限られて来ちゃうのだ。そうなると既存のありふれた手を使わざるを得ない。いやぁ、これって本当にマズイんじゃないだろうか。これが普通に娯楽映画を作っている職人監督の作品だったら、それなりに楽しくて面白い作品に仕上がっていると言ってもいい。しかし、これは腐ってもティム・バートンの作品なのだ。これじゃあさすがにいかんだろう。ティム・バートンはそろそろ、本気で脱皮を考えなければならないんじゃないかと思うのだ。

さいごのひとこと

 キツめのメイクのジョニデは見飽きた。

 

「裏切りのサーカス」

 Tinker Tailor Soldier Spy

Date:2012 / 06 / 11

みるまえ

 今年のオスカーの主演男優賞レースで、ゲイリー・オールドマンの名前と共にクローズアップされたのがこの作品。題名だけ見るとサーカス芸人の映画かと思ってしまうし、何となくゲイリー・オールドマンが道化のメイクをしている様子がイメージされてしまうが、当然ながらそんな映画ではない。1960年代の英国諜報部を舞台にしたお話で、内部のダブルスパイをあぶり出そうというお話。その英国諜報部の通称が「サーカス」と呼ばれているらしいのだ。そして僕が大いに注目させられたのが、これがジョン・ル・カレの小説の映画化であること。ジョン・ル・カレと言えばスパイ小説で知られた有名作家。実はこの人自身がスパイ活動に身を投じていた時期もあったとかで、この人の小説は一種の「実録小説」的な意味合いもあるのだ。おまけに脇にはジョン・ハートやコリン・ファースなどの重厚な英国俳優陣が配置されるなど、見応えも十分な感じ。地味な印象ながら、こういう映画は見ておきたい。冷戦が終わって以降、イマドキ珍しくなったスパイものというのも、大いに食指がそそるところだ。

ないよう

 1973年のこと。ある日の夜も更けた頃、ジム・プリドー(マーク・ストロング)という男が、あるアパートの一室を訪ねる。そこは「サーカス」こと英国諜報部のリーダー、「コントロール」と呼ばれる男(ジョン・ハート)の家だった。実はプリドーは「コントロール」から極秘任務を命じられて、これからハンガリーに向かおうとしていたのだった。その任務とは、ハンガリーの某将軍の亡命に関わるものだった。この将軍は亡命の手助けと引き換えに、「サーカス」内にいるソ連の二重スパイの情報を提供すると言うのだ。「コントロール」は「サーカス」中枢で働く部下たち…パーシー・アレリン(トビー・ジョーンズ)に「鋳掛け屋」、ビル・ヘイドン(コリン・ファース)に「仕立て屋」、ロイ・ブランド(キアラン・ハインズ)に「兵士」、トビー・エスタヘイス(デヴィッド・デンシック)に「貧乏人」、そして「コントロール」の長年の右腕であるジョージ・スマイリー(ゲイリー・オールドマン)に「スパイ」とそれぞれ暗号名をつけて、彼らのうちの誰かが二重スパイ「もぐら」であると断言した。そしてプリドーに将軍の関係者と接触して、「もぐら」に関する情報を手に入れるように命じた。しかしこのミッションは「コントロール」の独断によるものであるため、プリドーの安全を保証するモノは何もなかった。そのため「コントロール」は、「もし非常事態が起きた時には何も語るな」とプリドーにクギを刺すことも忘れてはいなかった。イヤな予感を抱いたままブダペストを訪れるプリドー。そんな予感は不幸にも的中してしまう。ブダペストの街角のカフェで将軍側の人間と接触を図ったプリドーは、周囲の不穏な動きを感じてその場から立ち去ろうとするが、それは一瞬遅かった。プリドーは背中から撃たれて、その場に倒れる。作戦はもちろん失敗。こうした一連の出来事の責任をとって、「コントロール」は「サーカス」を追われることになってしまう。もちろんその片腕だったスマイリーも、不本意ながら「サーカス」を去らねばならなくなった。やがて「コントロール」は、失意の中で病気に倒れて息を引き取ることになる。「サーカス」の新しいリーダーにはアレリンが就任し、ヘイドン、ブラント、エスタヘイスたちを側近にした。こうして何事もなかったように、「サーカス」は「世代交代」を果たした訳だが…。そんなある日、スマイリーは情報局の高官オリバー・レイコン(サイモン・マクバーニー)に呼び出される。そこで彼に命じられたのは、「サーカス」中枢の4人の中から「もぐら」をあぶり出せ…というものだった。スマイリーは「サーカス」の現職員であるピーター・ギラム(ベネディクト・カンバーバッチ)らと組んで、調査を開始することになる。まず彼が接触したのは、つい最近に「サーカス」を辞めさせられたコニー・サックス(キャシー・バーク)。彼女は「サーカス」古参の職員だったが、ソ連大使館のアレクセイ・ポリャコフ(コンスタンチン・ハベンスキー)がその名も高いソ連の大物スパイ「カーラ」の手先であると突き止めたものの、間違った判断だと現「サーカス」幹部たちに決めつけられて辞職に追い込まれたのだった。彼女は「古き良きサーカスは消えてしまった」と憤るが、それを聞くスマイリーの胸の内にも、かつての「サーカス」での懐かしい日々が甦る…。

みたあと

 先にも述べたように、これはジョン・ル・カレの小説の映画化作品だ。しかし、それをしたり顔で語れるほど、僕はジョン・ル・カレの小説を知っているわけではない。今までジョン・ル・カレ原作の映画も「リトル・ドラマー・ガール」(1984)、「テイラー・オブ・パナマ」(2001)、「ナイロビの蜂」(2005)…といろいろ見て来たし、それなりに楽しませてももらった。しかし、正直僕はこれらの作品からは、「ジョン・ル・カレ原作の映画化」としてそれほど強い印象を受けた記憶はない。僕が「ジョン・ル・カレ原作」作品として強烈に記憶しているのは、映画ファンなりたての中学生の頃にテレビで見た「寒い国から帰ったスパイ」(1965)だ。今は亡きリチャード・バートンが演じるイギリスのスパイのお話。製作当時は「007」シリーズ大流行の頃だから、このシビアーでリアルなスパイ映画にはみんなビックリしたかも。とにかくタイトルを地でいくほど全編冷え冷えとした印象で、今でも鮮烈に覚えている作品だ。だから僕にとってジョン・ル・カレ作品の映画化…とは、あくまでこの「寒い国から帰ったスパイ」のような世界観を意味しているわけだ。そして…今回のこの作品には、久々にあの「ジョン・ル・カレ作品」の「寒い国から帰ったスパイ」的なムードが戻ってきたような印象を受けた。もちろん作品のテイストはそれぞれ異なるモノを持っているものの、久々にシビアーでリアルなスパイの世界を描いた映画なのだ。

こうすれば

 お恥ずかしい話だが、僕はこの映画の物語を完全に理解したとは言い難い。いろいろな人物や事件が錯綜し、映画のストーリーの時制も所々ちょっとずつズレていたりするので、正直お話はかなり分かりにくい。だから僕はこの映画のサスペンスにハラハラしたり、スリリングに感じたりするところまでは至っていない。で、実はそれって僕の理解力が乏しかったからだとも言い切れなくて、この映画自体がどこか舌足らずなところを持っているからだという気もするのだ。例えば主人公のスマイリーは、長年一緒にやって来たはずの「コントロール」からも完全には信頼されていなかった。それは物語の冒頭から語られていて、彼らの世界の非情さを見る者に感じさせるのだが、肝心要の主人公スマイリーがそれにショックを受けたり苦いモノを感じたりする描写は、劇中にはなかったように思われる。そういう味付けもちょっとあったらな…と思わされる点なのに、意外とアッサリ片付けられたりしてしまう部分が、他にもいくつか散見されるのだ。この映画はケレン味を排したリアルなタッチが売りの作品だが、それゆえにちょっとアッサリし過ぎているのかなと思わされる点もないわけではないのだ。

みどころ

 しかしこの映画は、必ずしも物語が隅々まで分かったりナゾ解きが理解できなくてもいいような、そんな類の作品ではないかという気もする。むしろ僕はこの映画のスパイたちに共通して漂う、「人間くささ」には感銘を受けた。感情を殺して薄氷を踏むような頭脳戦を行ったり、血で血を洗う殺伐とした戦いを繰り広げている「スパイ」の世界なのに、ここで描かれているのは、まるで僕ら普通人にも共通するような「職場」の世界。それを最も端的に現しているのが、劇中に何度か登場する、かつての英国諜報部のクリスマス・パーティー場面だろうか。こんな職場でもクリスマスぐらいはハメをはずして、みんなで楽しく歌ったり踊ったり。サンタの扮装にレーニンのお面を付けた男が音頭をとって、みんなでソ連の国歌を歌うくだりなんて涙モノ。これはジョークではなくて、彼らにとっては「敵」ソ連こそがそれほど身近な存在だったのだろう。ところが、そんな和気藹々とした職場だったのも今は昔。今ではお互いが信じられないギスギスした時代になってしまった…。実際にはこの映画で言われている「今」もすでに遠い昔になってしまったのだが、ともかくそんな「昔は良かった」的な感慨なら僕らの住んでいる世界にザラにあるし、疑心暗鬼でお互いが信じられない裏切りの世界…などというものも、僕らの職場などに普通に存在する。実際、僕はそうした殺伐とした状況を今から20年近く前に経験したし、実はつい数ヶ月前にも今いる職場で体験したばかりだ。これは「スパイ」などという特別な世界の話ではない。ごくごく当たり前の、社会人たちが共存する「職場」という世界で普通に起きる話であり、そんな「普通さ」が際立っているからこそ、僕らにもピンと来るリアルな話になっているのだ。この「リアルさ」加減は尋常ではない。そういった意味では、「ぼくのエリ 200歳の少女」(2008)で名を挙げたスウェーデン出身のトーマス・アルフレッドソン監督は、かなりジョン・ル・カレの世界を忠実に再現したのではないだろうか。俳優陣もいずれも実力者揃いだが、やっぱりゲイリー・オールドマンが印象に残る。あの超駄作「レイン・フォール/雨の牙」(2008)でヒステリーの中年女みたいにキーキーわめいていたのがウソのように、地味に抑えた演技が心に残るのだ。

さいごのひとこと

 裏切りは「スパイ」でなくても誰でも体験する。

 

「捜査官X」

 武侠 (Dragon/Swordsmen)

Date:2012 / 06 / 11

みるまえ

 この映画のことを知ったのは、映画館でチラシを手に取った時のこと。香港映画か中国映画らしいが、ついたタイトルが「捜査官X」(笑)。何だか「放射能X」(1954)とか「遊星からの物体X」(1982)みたいなSF映画っぽいイメージが漂う。しかしドニー・イェンや金城武が主演のSF映画なんて…まして香港映画界の生んだ才人ピーター・チャン監督が作るSF映画なんて考えられない(それはそれで見たい気もするが)。案の定、これはそんな映画ではない。どうやらミステリー・タッチの作品らしいのだ。しかもドニー・イェンが主演していることでも分かる通り、カンフー・アクションを中心に据えたものらしいということが分かる。しかしピーター・チャンでカンフーってどうなんだろう。ピーター・チャンと言えばかつてはラブ・コメディで鳴らした男。そして、あの恋愛映画の傑作「ラヴソング」(1996)を生んだ男だ。カンフー映画とは無縁だと思っていた人だ。そんな人とカンフーとは結びつきそうもないが、そういえばピーター・チャンは前作「ウォーロード/男たちの誓い」(2007)で中華チャンバラ大作に手を出して、見事に成功させていたのだった。アレだってピーター・チャンらしくないと言えば、確かに「らしくない」。そう考えてみると、本作は明らかに前作「ウォーロード/男たちの誓い」の延長線上にある作品と見なす必要がある。「X」などという謎めいた邦題とともに、そのあたりに興味を持って劇場に駆けつけたわけだ。

ないよう

 1917年、中国雲南省の山奥の村。ここに暮らす紙職人リウ・ジンシー(ドニー・イェン)は、実直だけが取り得のような男だ。村のはずれにある一軒家に妻のアユー(タン・ウェイ)と2人の子供と一緒に暮らしている彼は、温厚で村人からの評判もすこぶるいい。ところがある日、この男に降って湧いたような災難が襲いかかる。たまたま村にフラリとやって来た二人の風来坊が、両替商の店に上がり込んできたのだ。実はこの二人はとんでもない悪党で、両替商からカネを巻き上げようとやって来たわけだが、ちょうどその時にジンシーがこの店に居合わせたから運がない。最初は物陰に隠れて様子見していたジンシーだが、悪党が両替商に襲いかかるや黙ってはいられない。腕に覚えなどあろうはずもないジンシーでもその必死さ無我夢中さが功を奏したか、悪党二人がかりで相手をしても彼を倒せない。それどころかムチャクチャ拳法で敵を攪乱。チョコマカ動きまくっているため、ジンシー目がけて振り下ろしたはずの大ナタがもう片方の悪党の耳をスパッと削いでしまうなど、予想外の展開になったから驚いた。一人は店の中で自滅のようなかたちで命を落とし、もう一人は店の裏にある川に飛び込んでジンシーとボカスカやり合っているうちに、これまた偶然のように致命傷を受けて死んでしまう。後にはポカ〜ンとした表情のジンシーが残り、村はまたまた元通りの静けさを取り戻した。当然のごとく警察が呼ばれ、この一件の現場検証が行われる。その中に、街から派遣された捜査官のシュウ(金城武)がいた。事件を目撃していた周囲の人々の証言やジンシー自身の証言では、彼一人が助かった

のは単なるラッキー。自分の身を守るための正当防衛で、たまたま悪党二人は自滅してしまっただけと見える。しかしシュウには、どうしてもそうは思えない。元々が疑り深い彼は、物事何でも疑ってかかる習慣がある。それにしたって、この状況はいかにも奇妙ではないか。どんなに油断していても、相手は二人でしかも札付きの凶悪犯。おまけに武術の覚えもあった。それなのにいくら「窮鼠猫を噛む」とはいえ、臆病でマジメだけが取り得の男一人で、こいつらをやっつけることなど出来るだろうか。店の中にあるさまざまな痕跡から、シュウはかくあるべき状況を頭の中で再構成していく。しかも川の中で死んだ悪党の目は、異様なまでに充血していた。ムチャクチャに振り回していたジンシーの拳の当たり所が悪くて、たまたま死んでしまったとは思えない。これはしかるべきツボを的確に突いて、確実に死に至らしめようという意図がなければ為しえないことだ。その結果、シュウはジンシーが正当防衛に見せかけながら、相手に致命的打撃を与えていた疑いを持つ。強くて凶悪で武器を持っていた犯罪者二人を、まるで正当防衛のごとくアッという間に制圧できてしまうとは、ジンシーという男どれほどの武術の使い手なのか。しかも、まるで自分は倒せるとは思ってもみなかったような、異常なまでに大人しそうな仮面をかぶっているのはなぜなのか? この男、実は人に言えないような訳アリの男ではないのか? シュウの推理とも妄想ともつかない考えは、巡り巡ってジンシーの過去へと遡っていく。聞けばこのジンシー、元々は10年くらい前にこの村に流れ着いたとのことで、過去のことは何も分からない。その後の彼の実直な人柄から村人たちから認められ、たまたま夫に捨てられたアユーと結ばれてこの村に根を下ろしたものの、その過去は誰も知らない。そんな風に村人やジンシーに尋ねまくり、アレコレつつきまくるシュウがこれほど疑り深くなったのは、過去のある経緯が原因だった。温情をかけてやった犯罪者に裏切られ、毒を盛られて殺されかけたのだ。実はその毒は今でもシュウの体内に残り、彼を苦しめ続けている。それ以来、人間は信じるまいと固く誓ったシュウだったのだ。こうして村人たちを質問責めにしたり、ジンシーの家の夕食に呼ばれてはチクチクネチネチと何か手がかりを引き出そうと迫るシュウ。当然こうした態度は村人の反感を買い、シュウは「ジンシーをいじめるな!」と罵倒されるハメになる。そんなある日、村の飯所で一人ポツンと佇んでいたシュウの元に、唐突にジンシーがやって来る。何と彼は、シュウに「訳アリ」な自分の過去を告白しにやって来たのだ。それは、かつて故郷の地で父親に命じられて殺人を犯し、10年の刑期を勤めてから父親と別れてこの村に流れ着いたというもの。しかし、一見もっともらしく聞こえる告白も、シュウは信用できなかった。そこで彼は同僚(ジャン・ウー)をジンシーの故郷へと派遣し、聞き取り調査を行うことにする。その結果は、まさに驚愕すべきものだった。どうやらジンシーが、中国で最も恐れられている闇の凶悪軍団「七十二地刹」の有力メンバーらしいというのだ!

みたあと

 映画が始まると、いきなり中国の山奥の村が登場。あまりに「X」という邦題と落差がある画面に唖然となる(まぁ、あまり「X」に意味があるとは思っていなかったが…)。この映画、ドニー・イェンが出ているからカンフー・アクション映画だと思ってはいたが、その勘は間違っていなかった。しかし、単なるカンフー・アクション映画ではない。そこに金城武扮する「探偵」が登場するところが、この映画の新味なのだ。彼は事件が起きてから村に現れ、事件の一部始終を現場の状況から推理する。そして、彼が医学や武術などへの知識を総動員して推理する過程を、彼の脳内イメージを見せるかのように映像化して見せていくのが新しいのだ。実際にこれらの推理場面の中には、刺激された体内のツボが作用して、カラダの別の部分に伝達されてダメージを与える様子をCGで表現したような、ジェット・リー主演のアメリカ映画「ロミオ・マスト・ダイ」(2000)に出てきたような人体内部のキテレツ映像も登場する。これにはさすがに笑っちゃったが、金城武の探偵ぶりはまるで金田一耕助とかコロンボみたい。カンフー・プラス・ミステリーってのは確かに新しいジャンルだ。なるほどピーター・チャン、単なるカンフー映画なら彼が作る意味がない。この新鮮味こそが、ピーター・チャンが手がけるカンフー映画たる所以だろう。

みどころ

 ピーター・チャンが彼の最高傑作と言うべき「ラヴソング」を発表した後にハリウッドに渡ったことは、彼のその後のキャリアを大きく左右する出来事だったと思う。そのあたりのことは、「ウィンター・ソング」(2005)感想文あたりにもグダグダと並べてみたが…それまで香港映画界の中では「君さえいれば/金枝玉葉」(1994)などグッと洒落たラブコメを作ってきたピーター・チャンが、欧米(特にハリウッド)映画に並々ならぬ憧れを抱いていたであろうことは想像に難くない。そして「ラヴソング」が欧米でも高い評価を得ていたこと、その「ラヴソング」の中でニューヨーク・ロケを行ってアメリカ映画への憧れを露呈させていたこと、すでにハリウッドで成功した「先駆者」ジョン・ウーを見て「オレならばもっといけるはず」と思ったに違いないこと、中国復帰後の香港の動向が不透明だったこと…などなどから、ピーター・チャンは張り切ってハリウッドを目指したはずだ。しかし、その結果は不本意なモノでしかなかった。かくして失意の彼はしばしの沈黙を経て、映画監督としての「業」を描いた「ウィンター・ソング」で本格復帰。その方向性が「アジア回帰」的なモノだったことは、決して偶然ではない。続く「ウォーロード/男たちの誓い」が彼としては異例の中華チャンバラ大作として仕上がったのも、「グリーン・デスティニー」(2000)、「HERO/英雄」(2002)以降量産された中華チャンバラ大作への「オレだって出来る」的な対抗意識もあっただろうし、自らのルーツたる「中華」へのこだわり故に手がけたとも言えるだろう。ハリウッドへの挫折なしには、それまでどちらかといえばハリウッド志向だった彼がこんな作品を作ることはあり得なかったのだ。それに続く今回の「捜査官X」もまた、彼の「回帰」志向の延長線上にある。中国語圏映画といえば「カンフー」。原題名を「武侠」というこの映画は、まさにその真っ直中に斬り込んだような作品だ。しかし前作「ウォーロード」が単なる中華チャンバラ大作にとどまらず、あのジェット・リーに禁断の愛にもだえる役どころを与えるなどしっかりピーター・チャン印を刻印したように、今回も単なるカンフー映画に仕立てないところがピーター・チャンの面目躍如。まずは、田舎の村に身を隠してひっそり暮らしていた「過去ある男」が、偶然からその捨て去った「過去」に呼び戻されてしまうお話…というあたりが興味深い。ストーリーだけとると、デビッド・クローネンバーグ監督の近作「ヒストリー・オブ・バイオレンス」(2005)を意識したような物語ではないか。これは果たして偶然か、それともピーター・チャン監督本来の欧米映画ファン志向がチラッと顔を見せた結果か、いろいろな点で本作を象徴しているような感じだ。そして前述の、カンフー・プラス・ミステリー趣向。カンフーの技をそれなりに理屈をつけて説明しようとして、さらにそれを映像で見せていくなんて、これまでの中国語圏映画なら決してやりはしないだろう。やはり「アジア回帰」「中華回帰」の方向性をとりながら、ピーター・チャンの根底にある欧米趣味、合理主義志向は健在なのだ。むしろ自分が「中華」をやるならば、こうやらなければ意味がない…とでも言うべき勢い。それがこの映画を、非常にユニークなモノにしている。さらに映画自体を見ていくと…主演者にドニー・イェンと金城武を置いたことも、この作品を成功に導いた。もちろんドニー・イェンは、映画中盤から目が覚めたように武術の達人ぶりを見せつけるあたりで真価を発揮するが、前半のマジメなだけが取り得な男に扮しているくだりでも「タダモノではない」雰囲気がスゴイ。凄みがあって実にいいのである。金城は「レッドクリフ Part I」(2008)、「レッドクリフ Part II/未来への最終決戦」(2009)の諸葛孔明役で見せた「理論派」ぶりと、本来のセリフ回しでの「血の通わなさ」(笑)が活かされた好演ぶり。法律遵守一点張りの融通の利かなさとピッタリとマッチした好演ぶりだ。ちなみに、これはケナしでなくてホメてます(笑)。ドニー・イェンの妻役には、「ラスト、コーション」(2007)のスキャンダラスなヒロインを演じたタン・ウェイ。彼女はあの映画のヒロインの薄幸ぶりやら、その後中国共産党にイジメ抜かれたりしたお気の毒さから、何となく幸薄なイメージがついてしまった。今回も役柄に合いすぎた幸薄ぶりで、控えめな好演。でも、いいかげん明るい彼女が見たい気がする。アッと驚いたのは、映画終盤になって現れる悪役の大ボス、ドニー・イェンの義父にして闇の凶悪軍団「七十二地刹」の首領のキャスティング。ここに、往年のカンフースターの超大物ジミー・ウォングを持ってきたから驚いた。なるほど劇中でドニー・イェンが自らの片腕を切り落とすのは、「片腕ドラゴン」(1972)や「片腕カンフー対空とぶギロチン」(1975)に出たジミー・ウォングのオマージュだったのか! そして登場してきたジミー・ウォングは、とにかく貫禄ありすぎでスゴイ。まるで「地獄の黙示録」(1979)後半に出てくるマーロン・ブランドみたい。頭を剃り下ろして、何とも怖いのである。実際に香港では怖いお兄さんとして通っていて真っ黒らしいが、この怖さは尋常ではない。その最後ぶりまで、まるでエイリアンとかプレデターみたいな意表を突いたモノであることが、このキャラクターのモンスターぶりを際立たせている。また、これほど強いカンフーの使い手を倒すやり方としては、非常に合理的だとも言えるだろう。そんなこんなで、あくまで「ピーター・チャンが作ったカンフー映画」としての独自性に溢れているのがミソなのである。

さいごのひとこと

 独自のレシピで中華づくり。

 

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