新作映画1000本ノック 2012年5月

Knocking on Movie Heven's Door


このページの作品

「女ドラゴンと怒りの未亡人軍団」 「マリリン7日間の恋」 「テイク・シェルター」 「バトルシップ」 「コーマン帝国」 「青い塩」 「マーガレット・サッチャー/鉄の女の涙」

 

「女ドラゴンと怒りの未亡人軍団」

 楊門女將之軍令如山 (Legendary Amazons)

Date:2012 / 05 / 28

みるまえ

 この映画のことは、映画館に置いてあったチラシで知った。どでかく「ジャッキー・チェンに何が起こったのか!」とコピーが打ち出され、ギトギトした絵柄で甲冑に身を包んだ主演のセシリア・チャンの姿がどか〜んと描かれて、タイトルが「女ドラゴンと怒りの未亡人軍団」。「カエル少年失踪殺人事件」(2011)のタイトルにもかなり驚いたが、こちらもかなりなもの。よくよく見るとジャッキー・チェンはどうやらプロデュースだけらしく、デカデカと名前が出ている割には作品にはあまり関係なさそうだ。セシリア・チャンという女優さんも「忘れえぬ想い」(2003)や「PROMISE/プロミス」(2005)などのトップ女優として知られていたが、近年はもっぱらエディソン・チャンに情事の真っ最中を撮らせた「赤裸々写真」流出事件のスキャンダルで有名になってしまった。そんなこともあって「こりゃキワモノ映画か」とてっきり思ってしまったのだが、この映画の英語題名を見て「待てよ?」と思った。「Legendary Amazons」…中国の時代劇に何故「アマゾン」?と思われる向きもあるだろうが、僕はそれよりもかつて「アマゾン」という言葉の入った英語題名の香港映画があったことを思い出した。その作品とは…詳しくは後述するが、往年のショウ・ブラザースが発表した「14アマゾネス/王女の剣」十四女英豪/The 14 Amazons(1972)。残念ながら僕はこの作品を見たことはないものの、一時期1960〜1970年代のショウ・ブラザース作品にひどく凝っていた時期があったので、その題名だけは知っていた。当時の香港の有名女優たちを集めたそれなりの大作らしく、機会があれば見てみたいとは思っていたのだ。…となると、例えばキン・フーの名作「血斗竜門の宿」(1967)がツイ・ハーク製作の「ドラゴン・イン」(1992)としてリメイクされたように、この「女ドラゴンと怒りの未亡人軍団」も「14アマゾネス/王女の剣」のリメイクではないだろうか? その勘は当たりで、チラシの裏面にはバッチリとリメイクである旨が書いてあった。おまけに共演者の中に、あの「大酔侠」(1966)のチェン・ペイペイもいるではないか。この黄金時代のショウ・ブラザース臭がムンムンの作品、僕が見ないわけにはいかない。そんなわけで、僕はいきなり初日に劇場へと駆けつけたわけだ。

ないよう

 時は11世紀、中国は宋の時代。朝廷の政治は乱れ、しかも外からは西夏軍に脅かされるという混乱した状態だった。国境地域では連日の激戦で死屍累々。劣勢の宋軍にとっては消耗戦となっていた。そして、いよいよ敵の総攻撃が開始され、将軍・楊宗保(リッチー・レン)は覚悟を決めて決戦に臨む。獅子奮迅、孤軍奮闘の大活躍ながらいかんせん多勢に無勢。観念した楊宗保は、空に伝書鳩を放つ。その鳩は、遠く離れた楊宗保の自邸に戻ってきた。そこには妻の穆桂英(セシリア・チャン)が夫の留守を守っていたが、伝書鳩が飛来したのを見てがく然とする。その鳩には、一房の髪の毛が結ばれていたからだ。桂英は夫とのなれそめの頃を思い出す。二人が知り合った時、お互いは敵対する者同士だった。宗保は桂英たちの一族を従わせるべく派遣された軍の将として、彼女の前に姿を現したのだ。早速、挨拶代わりのように「お手合わせ」となる二人。しかしなかなかの桂英の手強さに、宗保は彼女を見直し始める。そして桂英は無益な争いを避けるため…との理由で、自分が宗保の妻となることで話をまとめようと提案した。しかしもちろん、桂英自身も宗保に惹かれていたのだ。こうして二人は結ばれ、宗保は桂英の髪を一房もらい、それを二人の愛の証とすると告げたのだった…。その髪の毛の房だけが戻ってきたということは…これが宗保の最後の伝言であることを意味する。それを察した桂英は、その場で泣き崩れるのだった。宗保を生んだ楊一族は、武家の名門として代々朝廷に仕えてきた。それゆえ、楊一族の男たちは次々と戦さで命を落とし、後に大勢の妻たちが遺されることとなっていた。今、この桂英もその中に加わることになってしまうのか…。そんな楊一族は、一族に遺された唯一の男子…宗保の一人息子である文広(シャオ・ミンユー)の誕生日を祝おうと準備を進めていた。オッチョコチョイで威勢だけはいいがまだまだガキの文広は、いつも周囲の手を焼かせる暴れん坊。それでも桂英と義母・柴郡主(リウ・シャオチン)は文広が官吏となることを望んでいたが、一族を率いる柴郡主の義母・余太君(チャン・ペイペイ)は、文広が戦士として育つことを願っていた。そんな晩餐会の最中、朝廷からの使いが飛び込んで来る。彼らが携えてきたのは、宗保の戦死とともに、文広に兵を率いて戦うようにとの朝廷からの勅命だった。しかしこちらが与えられた兵士は1万に対し、敵軍は10万。文広は一族最後の男で、彼がいなくなれば楊一族は絶えてしまう。その事態だけは何としても避けなければならない。こうして楊族の未亡人たちは、文広を守るために一緒に戦地に赴くことを決意。太君を司令官に立てて、早速出発することになった。むろん多勢に無勢で戦うためには戦略も必要。太君は味方軍を五つの小隊に分けて、戦況を有利に展開する作戦を建てた。そこでは五娘(キャシー・チャウ)が斥候を担当し、太君率いる隊が正面から攻撃。蘭秀(大島由加里)と二娘(リー・ジン)率いる小隊はそれぞれ敵の左・右翼を攻撃し、桂英と文広らが率いる小隊は敵背後に待ち伏せ、四娘(アシュレー・ヤン)率いる小隊は敵後方の補給隊を襲撃することになっていたのだが、実際の戦いの場になってみると、そうはうまくはいかない。敵軍が宗保を縛り上げて連れて来て、その場で殺すと宣言するや、実戦経験のない文広はすっかり動揺。父親奪還のために無茶な攻撃を仕掛けようとする。これは実は宗保の替え玉なのは明白なのだが、文広は周囲の忠告など耳に入らない。このままではマズイと判断した母の桂英は、その場で文広を更迭して自分が指揮官に就任。しかし文広はそれでも止まらず、何人かの兵を連れて敵陣へと突っ込んでしまう。こうなると、当初の作戦などはガタガタ。文広を守ろうと後を追った大娘や七娘など、多くの犠牲者が出てしまう。もはや勝利どころの騒ぎでなく、桂英も重傷を負ってしまい、ボロボロになって敗走せざるを得なくなる楊一族の軍だったが…。

みたあと

 まずはこの作品、元ネタの「14アマゾネス/王女の剣」十四女英豪/The 14 Amazonsについて触れなければならないだろう。ショウ・ブラザース華やかなりし1972年の作品で、こちらの作品では今回セシリア・チャンが演じる主人公・桂英を「梁山伯と祝英台」(1963)でスターとなったリン・ポーが演じ、一族最後の男である桂英の息子・文広を「香港ノクターン」(1966)などのリリー・ホーが演じるという布陣。ちなみに、何で男の文広を女優のリリー・ホーが演じているのか疑問に思われる向きもあろうかとは思うが、かつて香港映画には「黄梅調映画」というジャンルがあって、これが早い話がミュージカル映画の一種。それも、しばしば劇中では女優が男を演じるという「宝塚」風の趣向が施されていた。先に桂英役の女優として名前を挙げたリン・ポーも、出世作である「梁山伯と祝英台」では男役を演じて大人気を博していたのだ。「14アマゾネス/王女の剣」は決して「黄梅調映画」ではないが、そのような伝統があったので女優の男役という設定は観客に抵抗なく受け入れられたものと思われる。そして一族の大ボス的な存在である余太君に、当時、「ボナンザ」(1961)や「スパイ大作戦」(1970)などのテレビ・シリーズ出演でハリウッドで活躍していた中国人女優リサ・ルーをわざわざ迎えているあたり、ショウ・ブザラースの力の入れようが伺える。ちなみにこのリサ・ルーは、その後も「ラストエンペラー」(1987)、「ラスト、コーション」(2007)、「2012」(2009)などに出演している「大御所」。そして当時の「14アマゾネス/王女の剣」ポスターなどを眺めてみると、僕にはまったく馴染みがない女優さんたちの顔写真がズラリと「錚々たる顔ぶれ」風に並べられているので、おそらくは相当な豪華キャストだったものと思われる。さらにシンガポールで行われた第19回アジア映画祭ではリリー・ホーが優秀演技賞を獲得、第11回台湾金馬奨でもリサ・ルーが助演女優賞を獲得しているように、質的にも充実した大作だったように思われる。そんな過去の「名作」のリメイクというわけだ。今回もセシリア・チャンを筆頭に、それなりのキャストが揃えられた作品。妙な邦題は気になったものの、そうそう無茶な映画にはなっていないだろうと思っていたのだが…映画が始まってみると、徐々に見ていて「???」が脳裏をよぎり始めるのだった。何でこうなるの?

こうすれば

 すでに予告編などでご覧になっている方もいらっしゃるかもしれないが、出てくる戦術などが何とも奇妙なものばかり。例えば、下の部分にバネを付けた竹馬をはいて、ジャンプしながら敵陣に突っ込んでいく戦術などは、やっぱりかなりヘンだと言わねばならないだろう。元々が中国語圏のチャンバラアクション映画は、ワイヤーなどを使った非現実的な描写が多い。だから今回の映画もそうした「許容範囲内」の描写なのだろうと自分に言い聞かせて見ていたものの、どう考えても不自然すぎる作戦や戦い方が続出。断崖絶壁の向こう側に渡ろうとする際、太君の「橋を作れ!」の号令一下、対岸に渡したロープに兵士たちが捕まって「人間橋梁」をつくるあたりも笑ってしまう。これって向こうの人が見ても、絶対に笑っちゃうはずだろう。前述した堂々たる大作「14アマゾネス/王女の剣」のリメイク作品として、これはちょっとマズイのではないだろうか? 動員されているエキストラの数や作品の見た目や構えからして、明らかにトンデモ映画や異色な作品として作っているとは思えない。なのに、どうしても変な描写が多いから、見ている側としては戸惑ってしまうのである。そういったアクション場面の奇妙さだけではなく、すでに伝書鳩によって夫の死を覚悟していたにも関わらず、晩餐会に現れた使者の知らせで、初めて夫の死を聞かされたように桂英が驚くあたりも何となくヘン。それ以外にも「アレレ?」と思ってしまう描写も数多く、映画が始まってすぐの段階で唐突に回想シーンをブッ込んでくる不器用さなど、とにかく脚本も監督も映画づくりがヘタクソすぎる。特に一族最後の男である文広が、出てくるたびに作戦をブチ壊してしまうアホさ加減にホトホト嫌気がさしてくる。演じるシャオ・ミンユーの顔もあまり頭がよさそうに見えないので、余計イライラさせられてしまう。こうなってくると、ヒロインたちがアクション場面で発する「チャアアアアァァァァ〜〜〜ッ!」という奇声すら耳障りに聞こえてくるから怖い(笑)。エンディングにいつものジャッキー・チェン作品のようにNG集が入っているが、これってそういう映画じゃないだろう。というより、映画全編がNG集みたいなものだから、エンディングのNG集がちっとも面白くないのも困ったものだ。脚本・監督のフランキー・チャンってどんな人かと思ったら、元々は映画音楽の作曲家らしい。何でそんな人が監督をやっちゃったのか。作品としては余太君役に往年の剣戟スターであるチェン・ペイペイを置いてショウ・ブラザースへのオマージュを捧げたり、桂英の義母である柴郡主役に中国映画の巨匠シエ・チン監督の「芙蓉鎮」(1986)のヒロインを演じたリウ・シャオチンを起用するなど、かなり「大作」として本格的に制作した形跡が見られるだけに、この結果はいかにも残念としか言いようがない。もったいない映画だねぇ。

さいごのひとこと

 怒るのは未亡人じゃなくて観客軍団。

 

「マリリン7日間の恋」

 My Week with Marilyn

Date:2012 / 05 / 28

みるまえ

 今年のオスカーでは、「マーガレット・サッチャー/鉄の女の涙」(2011)のメリル・ストリープと並んで、この作品でマリリン・モンローを演じたミシェル・ウィリアムズが主演女優賞候補に挙げられていた。正直言って僕の個人的な気持ちでは、うまいんだろうがサッチャーそっくりショーにすぎなそうなストリープよりは、本作のウィリアムズの方を秘かに応援していた。それはなぜかと言えば、この作品がマリリン・モンローがローレンス・オリビエと競演した「王子と踊子」(1957)の制作裏話だったから。やっぱり映画界のインサイド・ストーリーは、映画ファンとしては興味がわくところなのだ。そしてミシェル・ウィリアムズのモンローぶりは、スチール写真から見ただけでもなかなかなモノ。見た目よりも何より「雰囲気」が「それ」風だ。見る前から「ご立派」だということは想像つくけど観客としてはもうお腹いっぱいなストリープの「そっくり」ぶりより、ミシェル・ウィリアムズのモンロー役には好感が持てる。さらに若き日には「第二のオリビエ」と騒がれていたケネス・ブラナーがそっくりそのままオリビエ役をやるというお楽しみもある。「ハリポタ」を卒業したばかりのエマ・ワトソンやら「007」の「M」ことジュディ・デンチなど共演者もなかなか豪華。そんな訳で楽しみにしていたものの、なかなか映画館に足が運べずに公開も終盤あたりに見に行くことになった。それからさらに感想文アップが遅れたのは、これまた僕の怠慢さゆえ。お許しいただきたい。

ないよう

 ハリウッドのセックス・シンボルとして映画界を席巻していた大スター、マリリン・モンロー(ミシェル・ウィリアムズ)。彼女の魅力と人気はアメリカのみならず、世界各国に轟いていた。1950年代後半のここロンドンの映画館においても、お色気たっぷりのモンロー主演映画をかじりついて見ている青年が一人。その青年コリン・クラーク(エディ・レッドメイン)は名家の四男坊。四男ともなると一族の重圧もあまり関係はなく、一家の変わり種として両親も彼に多くを期待していなかった。それをいいことに、彼自身も自分のやりたいことで生計を建てていこうと、彼なりの人生設計を考えていたのだ。それは彼が大好きな映画の道だ。コリンが狙ったのは名優ローレンス・オリビエが映画製作のために設立した会社、ローレンス・オリビエ・プロダクションズ。何とか面接の機会を得ようとねばり強く待つが、いつまでで経っても彼の面談の順番は来ない。しかし席を外したくなった電話番の女性が彼に声をかけ、いつの間にやら彼が電話番の代役を務めることに。そんなこんなでオフィスの人々に覚えられた彼は、徐々に雑用を言いつけられるようになる。ついにはオフィスにやって来たオリビエ(ケネス・ブラナー)その人の目に留まり、彼の最新作のスタッフに加えてもらうことに。彼が参加することになったのは、何とオリビエの監督・主演でマリリン・モンローが共演する「王子と踊子」なる作品。ようやく映画界への第一歩を踏み出したコリンは、意気揚々とパインウッド撮影所に乗り込む。彼の肩書きは「サード」の助監督、ハッキリ言えば「パシリ」だ。それでもコリンは大満足だったし、出会ったばかりの衣装係の女の子ルーシー(エマ・ワトソン)をチャッカリ口説いてデートしたりする余裕もあった。そしてついに、ヒースロー空港にハリウッドの大スター登場。マリリン・モンローが結婚したばかりの夫、有名な劇作家アーサー・ミラー(ダグレイ・スコット)を伴って降り立った。出迎えたのはオリビエと、その妻でこれまた大女優ヴィヴィアン・リー(ジュリア・オーモンド)。マリリンのスターらしい洒落たコメントが、集まったマスコミ陣を大いに沸き立たせる。こいつはうまくいくに違いないと誰しもが思ったのだが…。撮影を前に行われる台本の読み合わせで、トラブルは早くも襲ってくる。オリビエはじめ英国の錚々たる俳優陣が待ちかまえる中、待てど暮らせどマリリンは来ない。さすがに苛立ち始めたオリビエは、コリンにマリリンの様子を見に行かせる。そんなオリビエの命を受けて控え室へやって来たコリンは、そこで怯えきっているような意外なマリリンの素顔を見ることになる。やがて緊張しきって現れたマリリンの傍らには、奇妙な中年女がピッタリとついていた。彼女の名はポーラ・ストラスバーグ(ゾーイ・ワナメイカー)。なぜ彼女がピッタリとマリリンにくっついているかは、本読みが始まってすぐに分かった。何か演技面で疑問や問題が起こると、マリリンは何でもこのポーラに相談するのだ。これには監督でもあるオリビエは、苦虫をかみつぶすしかない。しかしそんなオリビエを、大御所中の大御所である大女優シビル・ソーンダイク(ジュディ・デンチ)は穏やかに、しかしキッパリとたしなめる。名女優の誉れ高い彼女には、マリリンの抱えている苦悩を察することができたのである。こうして撮影がスタートするが、事態は改善されるどころか悪化。マリリンは毎度のように大幅に遅刻し、元々オリビエとは演技メソッドが違ううえに慣れない環境も災いして、ガチガチに緊張してしまってNG連発。マリリンのビジネス・パートナーであるミルトン・グリーン(ドミニク・クーパー)も、こうなると手も足も出ない。業を煮やしたオリビエは、コリンにマリリンをピッタリとマークして見張るように命じる。こうしてマリリンたちが宿泊するホテルへと潜入したコリンは、暗がりの中でマリリンが夫アーサー・ミラーと言い争い、泣き崩れてしまう姿を目撃してしまう…。

みたあと

 マリリン・モンローに、知られざる恋の一週間があった…ってな話だと思いこんでいた僕だが、実際の映画を見てみてビックリ。実はスキャンダラスな部分など毛ほどもない、節度のあるお話だったのである。確かにこの映画の主人公である青年とモンローはちょっとばっかりハメをはずすものの、決して「一線」を超えたりしていないと描かれる。そして、これは「恋」ですらないとさえ描かれるのである。僕はてっきり「ローマの休日」的なお話だと思いこんでいたから、予想外なお話にちょっと驚いた。ここでのモンローは、精神的に追いつめられたあげく誰かに依存して、気晴らしをせざるを得なかった人という描かれ方をしている。そして一応青年も口説き文句的なセリフを口にすることはするものの、それがどこまで本気だったのかは何とも言えないところだ。そのあたりの抑えた語り口が、この映画に上品な印象を与えている。強烈でインパクトのある作品とは言い難いが、そのあたりがイギリスらしい上品さというかコクになっているのである。

みどころ

 やはりここに集められた名優の数に圧倒される。ケネス・ブラナー、ジュディ・デンチ、ジュリア・オーモンド、デレク・ジャコビといったイギリス勢。そしてモンローその人を演じるミシェル・ウィリアムズ。そのウィリアムズは、顔は全然似ていないのにちゃんとモンローを感じさせる演技に感心した。正直言って、ストリープのサッチャーより好感が持てたよ。さらにかつてのパインウッド撮影所の状況やオリビエの仕事ぶりなど、映画界の舞台裏的なエピソードも興味深く、映画ファンとしては見逃せないところ。オリビエの伝統的な演劇メソッドと、当時のモンローが信奉していたアクターズ・スタジオ風演技メソッドの激突…というテーマも興味深いものの、こちらは具体的に演技の質の違いを見せていく場面がないのでハッキリは描かれない。それでも演劇の分野では第一人者だったオリビエが、映画演技の申し子モンローに手を焼きながらも内心「敵わない」と思っていたらしいあたりを描いているのは、映画ファンとしては感慨深いところだ。自身も「マイティ・ソー」(2011)を監督したりハリウッドでの活動に並々ならぬ野心を持っているらしきケネス・ブラナーだけに、映画にも大いに「色気」を出しているらしいオリビエを演じて、まさに「適役好演」。個人的にはこのブラナーを見ているだけで楽しかった。正直言って前述のように抑制が利いたお話だし語り口であるため、作品のインパクトはいささか欠ける。良かれ悪しかれそれが作品の長所でもあり短所なのだが、僕としてはこの作品の「上品さ」を買ってあげたい。

さいごのひとこと

 さすがボンドの上司だけあってジュディ・デンチ貫禄勝ち。

 

「テイク・シェルター」

 Take Shelter

Date:2012 / 05 / 21

みるまえ

 映画館で一番最初にこの映画のチラシを見つけた時、面白そうな映画に反応する僕の「映画センサー」がピピッと反応した。未曾有の天変地異が襲ってくる悪夢に襲われ始めた男が、何かに取り憑かれたようにシェルターを作り始めるが…というお話。主役も監督も知らない奴だが、これは何となく面白そうな予感。それと同時に、前に似たような映画があったなぁ…と感じてもいた。とにかく絶対に見たいと思っていたので、公開されるとすぐに劇場に駆けつけた次第。

ないよう

 アメリカの地方都市に住むカーティス(マイケル・シャノン)が、家の前に立ちつくして天を見上げている。そこにはドス黒い雲がわき起こっていて、何やら不穏な雰囲気。そのうちポツリポツリと雨が降ってきたが、それはどこかネバり気のある黄色い雨だった…。といったところで呆然とした表情で目を覚ますカーティス。ありがたい、それはどうやら悪夢だったようだ。彼は妻サマンサ(ジェシカ・チャスティン)と耳の不自由な娘ハンナ(トーヴァ・スチュワート)と暮らす平凡な男。石油採掘会社の現場で働く彼には、毎日これといった問題も不満もなかった。しかも、聞こえなかったハンナの耳を聞こえるようにする手術の話もまとまりそうということで、サマンサの表情も明るい。ところがカーティスは、なぜかあの「妙な悪夢」に取り憑かれてしまう。ある時は…激しい雨の中でハンナを乗せてクルマを運転していると、外から狂ったような男が襲ってきてハンナをさらってしまう。またある時は…嵐の中で庭に飼っている愛犬が狂いだし、カーティスの手に噛みついてしまう。しかもその夢のリアリティがハンパじゃない。まるで実際に犬に噛まれたように、しばらく手が痛んでいる始末だ。これが「現実」でないなどと思えるだろうか。さらにマズイことに、悪夢が夜寝ている時だけでなく、昼間起きている時にも見えるようになったこと。こうなると、カーティスにはそれが夢か現実か分からなくなってくる。どの悪夢にも共通するのは、空に気味の悪い雲がわき起こり、激しい風雨が襲ってくること。そして、その雨のせいで、人や動物が凶暴化することだ。こうもそのイメージが抑えようもなく沸いて来るというのは、これは「正夢」ではないのか? さすがにカーティスは不安にならざるを得ない。しかし、彼の不安はそれだけではなかった。ある日、思い立ったように隣町へとクルマを走らせるカーティス。そこには精神病患者のための施設があり、カーティスの母(キャシー・ベイカー)が収容されていた。実は彼の母は統合失調症を患っていて、ずっとこの施設で暮らしていた。カーティスは、自分にもそんな母と同じ症状が出てきたのでは…と怯えたのだった。しかし、久々に母と会っても疑問への答えにはならない。こっそりと精神科の診察を受けてみても、まったく不安は消えない。むしろ悪夢の方がどんどんリアリティーを増していく有様だ。ここまで「実感」を伴う「夢」が、単なる妄想なわけがあり得ない。カーティスの中で、そんな考えがどんどん膨らんでいく。しかしカーティスは、自分の内なる不安を妻のサマンサにうち明けるわけにはいかなかった。そして妻も、カーティスの様子がおかしいと分かってはいても、実際にはどんな不安を抱えているのかは知るよしもなかった。そんなある日、カーティスはクルマで走っているうちに、沿道に売りに出された中古のコンテナーが置いてあるのを見つける。何とカーティスは妻に内緒で銀行で無謀なローンまで組み、このコンテナを購入。友だち付き合いしている会社の同僚デュワート(シア・ウィグハム)の手を借りて、コッソリ会社のショベルカーで庭を掘削。例のコンテナを埋め込んでのシェルターづくりを始めるではないか。これにはさすがに妻サマンサも動揺するが、もはやカーティスは止まらない。しかしそのうち、悪夢の中に例の雨に打たれて凶暴化した同僚デュワートや妻サマンサまで出て来るに至って、カーティスの狂気じみた不安は頂点に達するのだった…。

みたあと

 いや〜、これはかなり怖い。この手の「正夢」か「妄想」かという題材には、オーストラリアでピーター・ウィアーが撮った「ザ・ラスト・ウェーブ」(1977)をはじめ、すでに今までいくつかの異色作品が産まれている。その中でも、この作品は最もシビアでリアリティがある作品ではないだろうか。というのも、この主人公が陥った状況は、僕にとってもどこか「人ごと」とは思えないからだ。僕もどちらかと言うと「動物的なカン」というか「本能」に従って行動を決めているし、実際にそれで人生を随分助けられてもいる。だから僕には、この主人公の気持ちが分かるのだ。実は僕はどうやら悪いことへのカンは鋭いらしく、他の人よりも早く、かなり敏感に察知する。「コレはヤバイ」とか「こいつは怪しい」とかを、割と早い段階で分かってしまうのだ。それはやっぱり、子供の頃からイヤな目にはいっぱい遭ってきているし、ひどい奴にもブチ当たってきたからだろう。だから人一倍、そういうイヤなこと、イヤな人間に対する感度が高くなっているのだ。しかし他の人は必ずしもそれを感じないようで、だから僕が「あいつヤバイぞ」とか言うと、決まって周囲の人間から「どうしてFはあんなイイ人を悪く言うのか」などと非難ごうごう。ところがそれからしばらくして、案の定そいつが食わせ者だったということが発覚する…という繰り返しだった。僕には早いうちから「胡散臭い話は胡散臭く」「悪人は悪人に」見えてしまうのだ。そのうち僕も歳をとって利口になり、そういうヤバイ事柄や人物が分かっていても、他人には言わなくなった。せっかくそういう貴重な情報を教えてやっても、他人は感謝するどころか僕を非難するばかり。後で僕が正しかったと分かっても、一度たりとも謝ってもらったためしすらない。だから他人には、そういう有益な情報は一切与えないことに決めたのである。そんなにヒドイ目に遭いたいなら勝手に遭えばいい。悪いがオレも自分のことを助けるので精一杯だ…。しかしさすがに僕も、この映画の主人公が感じている「予感」ほど最悪な状況を察知したことはないから、果たして自分ならどうしただろうといろいろ考えてしまった。あれほど一見ありえない荒唐無稽な「予感」でも、自分の「カン」を信じることができるかと言えば複雑なところだ。しかし…オレの経験から言うと、やっぱり自分の「動物的カン」を信じるだろうな。なぜなら…それらは他人が何と言おうと今までずっと正しかったし、逆に自分の「カン」に背いて他人の言うことを聞いた時に限って、絶対ヒドイ目に遭ってきたからだ。そんな訳で、悪い予感なら自信がある(笑)僕にとって、この映画は決して人ごとではなかったのである。

みどころ

 先に「人ごと」ではない…と言ったが、「人ごと」とは思えない理由がもうひとつ。主演のマイケル・シャノンの「目」である。映画が進むにつれて、どんどん常軌を逸した言動をエスカレートさせる主人公だが、演じるマイケル・シャノンも目が斜視なせいか、黒目がロンパリになっちゃって「ちょっとイッちゃってる」感じに見える(笑)。これが見る者に「こいつアブないんじゃないの?」と思わせる絶好の味付けになっているのだ。このあたりが、50歳を過ぎた今頃になって子供の頃から斜視だったことが発覚した僕にとって、「人ごと」とは思えない所以なのだ(笑)。それはともかく、僕らは主人公の視点で物語を見ているから、彼がいかに切実に「悪夢」を見ているのかは分かっている。しかしその主人公を演じるマイケル・シャノンがあまりに「怪しさ満点」なので、彼の悪夢が「正夢」なのか「妄想」なのかを見極められずに大いに翻弄されることになるのだ。また、主人公の母親が精神を病んでいるという設定も、前述の「正気と狂気、果たしてどっちか?」という問いを難しくしている。こうして観客の僕らは主人公や主人公の周辺の人物(特に妻)たちと同じように、「果たしてどっちか?」が分からないまま困惑して画面を見続けることになるのだ。いやぁ、これは本当に怖い。脚本・監督のジェフ・ニコルズはどんな人は知らないが、ひょっとして自分も「見え過ぎちゃう」人なのではないか。そのくらい「見え過ぎちゃう」人の苦悩と怖さがリアルなのである。

こうすれば

 というわけで、全編異様な迫力みなぎる作品。正直ケチもつけようがない作品だが、あえて言うならたったひとつ。エンディング・クレジットに流れる歌の歌詞の内容がイマイチ。今回の映画の内容をそのまま歌にしてるのだが、これはちょっと聞いてて(僕ら日本人は字幕なので「読んでて」だが)ヘンだ。歌に辿り着くまでのお話がシビアで迫力があるだけに、そこまでの物語をもう一度クドクドと説明するみたいなこの歌は、少々マヌケな感じの印象を与えてしまう。まるで「馬から落ちて落馬した」と言っているようなもので、これぞ「蛇足」と思われるのだが、いかがだろうか?

さいごのひとこと

 主題歌つけるような映画かね?

 

「バトルシップ」

 Battleship

Date:2012 / 05 / 07

みるまえ

 この映画のことは、浅野忠信が「マイティ・ソー」(2011)出演のためにハリウッドに行った頃のニュースで初めて知った。「マイティ・ソー」でハリウッド映画デビューした浅野が次に出たのがこの映画ということだが、正直言って大した作品じゃないだろうとタカをくくっていた。それが、こんな大作だと知ってビックリ仰天だ。ただ、公開間近になって出てきたチラシなどを見ると、「トランスフォーマー」(2007)のハスブロ制作…と書いてあるではないか。「ハスブロ」ってオモチャ屋だろう。またまたオモチャが「原作」の映画かよ? オモチャ屋やマンガ屋が映画製作に乗り出すんだと、ハリウッドの退行現象はどこまで進むんだとウンザリ。この映画もロクなもんじゃないだろうと思ってしまった。どう考えても「大味」な作品だろう。そうは言っても大作であることは間違いない。配給の東宝東和のことだからどこまでホントか分からないが、「ユニバーサル映画創立100周年記念作品」と銘打たれてもいる。またまた浅野のハリウッド映画出演という話題もある。ちょうど面倒くさい映画を見たくない気分でもあったので、バカ映画だろうと思いながらも劇場へ向かった次第。

ないよう

 ある時、宇宙空間に地球型の惑星が発見される。科学者たちはその惑星に地球からのメッセージ信号を送るプロジェクトを企画し、ハワイに建設された通信施設より信号を発信した。だが鼻高々なプロジェクト・リーダーを横目に、参加した科学者のひとりキャル・ザパタ博士(ハーミッシュ・リンクレーター)は一抹の不安を抱く…。場面変わって、ハワイのとあるバーで一組の兄弟がささやかな祝い事をしていた。兄のストーン・ホッパー(アレクサンダー・スカルスガルド)は海軍の軍人。弟のアレックス・ホッパー(テイラー・キッチュ)は長髪の若者だ。今日はアレックスの誕生日を祝うべく兄ストーンが誘ったものだが、兄としては弟に少々苦言を呈さないわけにはいかない。いくつになってもプラプラして定職に就かない。仕事に就いてもすぐに辞める。根気も忍耐力もゼロで、無鉄砲なトラブルメーカー。しかしそんなそばから、アレックスはちょうど店に入ってきたセクシー美女に気を取られているから話にならない。その美女サマンサ・シェーン(ブルックリン・デッカー)は腹が空いているらしく、チキン・ブリトーが食べたいと口走っていた。そこにすかさず駆け寄ったアレックスは、「5分時間をくれ」と言い残して店を飛び出した。彼が突進したのは近くのスーパーだが、運悪くちょうど閉店するところ。諦めきれない彼はそのスーパーに忍び込み、店内のチキン・ブリトーを暖めて逃げだそうとした。しかし、そうは問屋が卸さない。警察が出動して店から飛び出してきたアレックスを追いかけてくる。結局、ちょうどバーから出てきた兄ストーンと例の美女サマンサの目前で御用という最悪の結果となるが、握りしめたチキン・ブリトーを彼女に手渡して連行されたアレックスは、彼女の心に良くも悪くも爪痕を残すことができた。ただ、兄ストーンは納得できるわけもない。翌日、釈放されたアレックスに、ストーンは溜めに溜めた怒りをブチまける。そもそもアレックスが口説いたサマンサは艦隊の総司令官の娘だったというのだから、ストーンの怒りが収まるわけもない。ストーンはアレックスの胸ぐらをつかんで、有無を言わさず厳しい一言を言い渡した。「オマエを海軍に入れて根性叩き直す! 一切文句はなしだ!」…というわけで、それから幾年月。ハワイのオワフ島沖では、アメリカ海軍主催の「環太平洋合同演習(リムパック)」が行われようとしていた。アメリカの同盟国各国の駆逐艦を集結しての大規模な軍事演習だが、余暇の時間にはそれぞれの国の軍隊がサッカーなどに興じるあたりが「アメリカ流」。この日はちょうど日本の自衛隊とアメリカ海軍のサッカー試合が行われていた。中でも運動量の多さで目を惹くのが、海軍に入って髪をバッサリ切ったアレックス。しかしラフ・プレーの最中に、日本の自衛艦「みょうこう」指揮官ナガタ(浅野忠信)のキックがアレックスの顔面に入るというアクシデントが発生。当然のことながら、キレたアレックスがナガタにガン飛ばしたことは言うまでもない。おまけに、フリーキックも自分がやると言い出したら聞かないアレックス。案の定、残念な結果に終わって周囲も「やっぱりな」と諦め顔だ。海軍に入っても、アレックスの本質は何ら変わっていないのである。それでも例のサマンサとは、その後も順調に付き合いが続いていたアレックス。それどころか、父親である艦隊総司令官のシェーン提督に、いよいよサマンサとの結婚を認めてもらおうという段取りだった。ところが、リムパックの初日からアレックスは遅刻。退役軍人たちが招待された栄えある席で、総司令官シェーン提督(リーアム・ニーソン)の前で早くも醜態をさらすハメになる。おまけにトイレで例のナガタと鉢合わせして、ついつい手が出ちゃったから始末に負えない。アレックスはナガタとシェーン提督の前に連れて行かれてお目玉を食らうだけでなく、兄ストーンから「リムパック後にオマエは解任される」と告げられてしまう。せっかく優秀な資質を持っているのに、アレックスはそれをまったく活かせていないのだった。そんなこんなで演習が始まった。戦略行動士官のアレックスは駆逐艦「ジョン・ポール・ジョーンズ」に乗り込んで参加。その下にはコーラ・レイクス(リアーナ)、オーディ(ジェシー・プレモンス)、ビースト(ジョン・ツイ)らの乗組員がいた。アレックスが乗った「ジョン・ポール・ジョーンズ」は、兄ストーンが艦長を務める「サンプソン」、ナガタが艦長の海上自衛隊「みょうこう」と共に沖合へと出る。ところがその頃、彼らが予想もしていなかった事態が起きていた。5つの物体が宇宙空間から地球に急速接近。大気圏内に突入すると、そのうちのひとつは人工衛星に激突、大破。香港ではビル街に落下して甚大な被害をもたらしていた。では、その残りの物体は…というと、ハワイ沖の海中へと落下していった。やがてアレックスたちの乗った3隻は、海面から顔を出したその物体の一部を発見。国籍不明の船舶として、確認のためにボートで接近を試みる。アレックス、コーラらの乗ったボートは巨大な物体のすぐそばまで近づき、アレックスはその表面に直接手を触れてみた。すると…いきなり物体に何かが起こり、激しく動き出すではないか。危険を感じたアレックスたちはボートを物体から離すが、物体からは激しいエネルギーが放出される。それは強烈なバリアを形勢し、「ジョン・ポール・ジョーンズ」、「サンプソン」、「みょうこう」とハワイ諸島全体を周囲から隔離してしまう。3隻のレーダーはまったく作動しなくなり、バリア外との通信手段も不能。バリアに接近した戦闘機も、バリアと衝突して大破してしまった。さらに威嚇すると、いきなり変形して戦闘態勢に入る巨大な物体。敵対行動と見なして攻撃態勢に入った「サンプソン」だが、巨大な敵戦艦は奇妙な弾丸を発射。被弾した「サンプソン」はアッという間に海の藻屑と消えた。目の前で兄ストーンがやられたアレックスは頭が真っ白。さらに命令系統として自分が残り2隻の中で最高位となったことに気づき、いきなりの指揮官としての重圧にますます動揺する。こうなると毎度お馴染みのアレックス、兄がやられた「仕返し」とばかり、後先考えない総攻撃を命令する。しかし、敵は正面切って戦って敵う相手ではない。たちまち「みょうこう」もボコボコにやられて沈没寸前。さすがに部下の面々に止められて我に返ったアレックスは、攻撃を中止して「みょうこう」乗組員の救助に向かう。しかし、敵との戦力の差はいかんともしがたく、アレックスは茫然とせざるを得ない。一方その頃、軍のセラピストとして働いていたサマンサは、両足を切断して義足となった兵士ミック(グレゴリー・D・ガドソン)のリハビリを担当。傷痍軍人となって自暴自棄となっていたミックの力になろうと、一緒にハワイの山を登っていた。その山の中腹には例のプロジェクトのための通信施設があったが、宇宙人たちはこの通信施設に襲いかかったのだった!

みたあと

 「ハスブロ」製作ということでどんなオモチャが「原作」なのだろうと思っていたら、これって僕がガキの頃にすでにあった「レーダー作戦ゲーム」のことらしい。念のために言わせてもらえば、オレのガキの頃だから当然テレビゲームなんてヌルいシロモノではない。ボードの穴にプラスティックのピンみたいなものを刺して遊ぶような、非常に原始的かつ「男の子」っぽいゲームだったような気がする。本作の中盤に海上のブイのソナーを頼りに敵戦艦を攻撃する場面があるが、その場面こそが「バトルシップ」ゲームからとった部分らしいのだ。当然、本来なら宇宙船も宇宙人も出ないシロモノ。純粋に戦艦や駆逐艦が戦うゲームだ。そのせいかこの作品、一見「宇宙人侵略SF」の形はとっているが、実はかなり本格的な海軍モノ戦争映画として作られていてビックリ。「世界侵略:ロサンゼルス決戦」(2011)などと同じく、宇宙人SFと見せてイマドキ珍しい戦争映画をやろうとしている作品なのである。考えてみるとイマドキは戦争映画を作ろうにも、ヘタに敵をどこかの国に設定できない。第二次大戦モノではなくハイテク兵器を使った戦争映画をやろうとすれば、宇宙人を敵にする他ないのだ。そんなわけで予想外に本格的な「戦争映画」となっている本作、想像通り派手なドンパチが繰り広げられるわけだが、当初の「大味な作品」という予想はちょっと覆った。確かに単純な娯楽作品ではあるが、実はちょっと意外なまでに「楽しめる作品」に出来上がっていたのだ。

みどころ

 オモチャやゲームが「原作」の映画で、カネと特殊効果をふんだんに使ったハリウッド大作。そうくれば、誰しも幼稚で単純で大味な作品だと決めつけるだろう。確かに単純な娯楽大作であることは事実だが、その割には本作は楽しめた…と白状しなくてはならない。何がどうよかったのか…と言えば、単純ではあるがアメリカ娯楽映画の王道を忠実に守った脚本と、そこに描かれているキャラクターが良かったということになるだろうか。最初の頃のテイラー・キッチュ扮する主人公の無茶ぶりには「アホか」と思ってしまったが、この映画は「未熟な主人公が困難の中で成長する」という、ハリウッド映画伝統のストーリーテリングをそのまま踏襲した作品になっているのである。さらにそんな主人公と対立する自衛官の浅野忠信との「共闘」や傷痍軍人としてヤケになっている義足の兵士が立ち直るエピソードなど、脇のキャラクターの「成長」も描かれる。さらに卑怯で臆病と思われた科学者までが最後に名誉挽回のチャンスを与えられるなど、気持ちよく見ていられる内容になっている点もこの脚本のいいところだ。さらには終盤のユーモアすら漂うちょっとしたサプライズ…「ホワイトアウト」(2009)や「RED/レッド」(2010)を手がけたジョン・ホーバーとエリック・ホーバーの脚本家コンビは、この映画をただの物量アクション映画にしていない。娯楽映画としてちゃんと工夫された脚本になっているのである。さらに「ランダウン/ロッキング・イン・アマゾン」(2003)、「キングダム/見えざる敵」(2007)、「ハンコック」(2008)…と持ち味が今ひとつ見えないピーター・バーグ監督も、きっちり見応えある作品に仕上げていて手堅い。素晴らしい傑作だとまでは言わないまでも、お客さんをキッチリ楽しませる映画を作り上げていて感心した。もっと驚いたのは浅野忠信で、「マイティ・ソー」の時にはまだ主人公の「愉快な仲間たち」の一員という程度にとどまっていたが、今回は主人公とサシで渡り合う堂々たる主演級。これほどいい役をもらえているとは驚いた。まぁ、日本の映画ファンである僕らにしてみたら、長髪ヒゲづらでマイナー日本映画ばかり主演していた彼が、これほどの娯楽大作で自衛艦の艦長役を演じていることの方が驚きかもしれない。

さいごのひとこと

 最近のハリウッドじゃオモチャ映画の方がマシ。

 

「コーマン帝国」

 Corman's World - Exploits of a Hollywood Rebel

Date:2012 / 05 /07

みるまえ

 1970年代以降のハリウッド映画を見てきた人間にとって、ロジャー・コーマンという名前を聞いたことがない人はいないだろう。いわゆる低予算、B級映画を連発してきた人物。それと同時に、彼の映画に起用されたり彼の下で育った人々が、その後、続々と有名な映画人になったことでも大いに知られている。あくまでマイナーな映画に関わり続けた人だが、その名は映画好きには大いに轟いていた。だから正直なところ…華やかなハリウッドのメイン・ストリームの外にいた人物と言われてはいるものの、ロジャー・コーマンのことについては実は結構ほとんどのことがオモテに出ていて、それほど裏街道の不遇な人物というわけでもなくなっている…というのが僕個人の感覚だったわけだ。それでも、ロジャー・コーマンについてのドキュメンタリー映画が公開されると聞けば、見ないわけにはいかない。何しろこの人の撮ってきた作品群は、僕の好きな映画ジャンルとかなり被っている。彼の下で育った多くの映画人のコメントも出てくるらしいし、何よりやたら数は多いが決して有名ではないコーマンの作品群を、この映画の中で部分的ではあっても見ることができるかもしれない。そんなわけで、あまり期待しないながらもソコソコ期待を持って、映画館に足を運んだというわけだ。

ないよう

 低予算映画の雄、ロジャー・コーマン。チープで俗っぽい映画を連発。当然、文芸作品や大作などには縁がない。もっぱら殺しや怪物が出てくる映画に専念だ。手早くサッサと撮っていくのが彼の流儀。ちょっとでも余裕が出たら「もう一本!」というのが長年のスタイルなのだ。高齢となった今も現役で、「ディノシャーク」なる怪物映画をメキシコの海岸で撮影中。その映画の、どこかお手軽でチープ感満載な雰囲気もいつもの事だ。そんなコーマンの映画界でのキャリアは長い。低予算映画「Monster from the Ocean Floor」(1954)を初めて製作。海底に一つ目モンスターが現れるチープな怪獣映画である同作には、その後のコーマンのスタイルがすべて現れている。以後、ひたすら低予算でチープな作品を粗製濫造するコーマン。そんな中でコーマンに見出され、その後に一流映画人となった人々は数多い。この作品でもそんな「コーマン学校」の卒業生として、ジャック・ニコルソン、マーティン・スコセッシ、ロン・ハワード、ジョナサン・デミ、ピーター・ボグダノヴィッチ…といった人々が、当時を振り返りながら苦笑しつつ証言する。しかしコーマンは、単に安っぽい映画を多作した男というわけではない。彼が唯一自らの主張を全面に出して制作した「The Intruder」(1962)は、そんな彼のもうひとつの顔を垣間見せてくれる一本。しかし人種差別を糾弾したこの作品は思うような成績を上げることができず、コーマンは再び粗製濫造の低予算映画へと戻っていく。彼はそんな作品群の中に、言いたい主題を潜ませていくという方向に転換したのだ。そうこうしていくうちに、「イージー・ライダー」(1970)の先駆ともいえる「ワイルド・エンジェル」(1966)を発表するなど、映画作家としての嗅覚をフルに発揮。ただし大成功した「イージー・ライダー」そのものを制作するチャンスを手に入れることはできないあたりが、コーマンの限界でもあった。一方で、ベルイマン、トリュフォー、フェリーニ、黒澤などの「非アメリカ」映画を意欲的に紹介するという意外な一面も見せる。そんな彼が終始こだわってきたのは、常に「インディペンデント(独立)」であること。大手の映画会社やプロデューサーなどに介入されるのは我慢がならない。そのくらいなら低予算でショボい作品でも、全部自分でつくるほうを選ぶ。彼の作品には、一貫してそんな彼の独立精神が反映されているのだ。こうしてアメリカ映画界の中で唯一無比のポジションを手に入れてきたロジャー・コーマンは、2009年に「まさか」のアカデミー名誉賞を受賞することになる。それはあえて在野であることを選び、常に反骨の姿勢を貫いてきた「一匹狼」に与えられた、「弟子」たちの賞賛の証でもあった…。

みたあと

 低予算映画をひたすら作り続けてきたマイナー映画の雄…にも関わらず、一般的な映画ファンにも何らかのかたちでその名を知られている希有な存在。考えてみると、単に低予算映画をつくってきた男というだけなら、ロジャー・コーマンはこれほど有名な人物にはなり得なかった。そこには優秀な人材を青田買いしてきた確かな目と、チープな作品とはいえ一貫して「骨」のようなモノが埋め込んできた…という、他の凡百のマイナー作品の作り手とは一線を画する点があったからだ。この映画を見ればそのあたりのことがバッチリ描かれて小気味がいいほどだが…実はここだけの話、そんなことはこの映画を見る前から、すでに誰でも分かっていたんじゃないかとも思える。

こうすれば

 ジャック・ニコルソンはじめ多くの華やかな証言者たちが登場しながら(フランシス・コッポラやジェームズ・キャメロンが出てこないのには、何か訳があるのだろうか?)、そこで語られる内容には何ら意外な新事実はない。映画全体を通して見ていっても、正直驚くようなことは何一つない。全体的に「コーマン伝」としてはバランスよくソツなくまとめられてはいるし、これを見ればロジャー・コーマンという人が一発で分かるようにできてはいる。しかし、まったく驚きがないのだ。ここで描かれているようなことは、この映画を見る前から大体分かっている。そもそもコーマンのドキュメンタリーを見ようって人は、そんなことすべて分かって知った上で見ようと思うだろう。すでに分かり切ったことを描かれても、「なるほどな」とは思うけどそれ以上ではない。これはちょっとどうなんだろう。僕としてはコーマンのいろいろな作品(しかも現在となっては日本では見ることが難しいもの)の断片をたくさん見ることができるのを楽しみにしていたのだが、意外に引用されている作品が少ないから物足りない気持ちになる。「コーマン入門」としてはこれでもいいのだろうが、実際のところどうなんだろうか。

みどころ

 そんなわけでガッカリはしなかったまでも、ちょっと肩すかしだった本作。それでも感動的だったのは、コーマンがアカデミー名誉賞を受けるくだりだろうか。「門下生」たちを従えてオスカーを受ける御大の姿は、見ていてグッと来た。正直言って黒澤明のアカデミー賞受賞よりも嬉しい気持ちになったくらい(笑)。このあたりは「映画」として見ることができてよかった気がする。

さいごのひとこと

 決してゴーマンにはならない男。

 

「青い塩」

 Hindsight

Date:2012 / 05 / 07

みるまえ

 いまや韓国のエース・スター、ソン・ガンホの最新主演作がやって来る。映画館のチラシでそれを知るや、僕は一気に興奮せずにはいられなかった。何しろソン・ガンホのここ何年かの大活躍ぶりと言ったら…。今さら「JSA」(2000)を引き合いに出すのもどうかと思うが、「殺人の追憶」(2003)、「大統領の理髪師」(2004)、「グエムル/漢江の怪物」(2006)、「乾き」(2009)、「義兄弟」(2010)…とどれもこれも素晴らしい充実ぶり。「南極日誌」(2005)や「グッド・バッド・ウィアード」(2008)などのようにたまにハズシてもその意欲は買えるし、何より作品はダメでもソン・ガンホだけは楽しめた。そんな来る映画来る映画どれもこれも面白いソン・ガンホの新作と来れば、見ないでいられる訳がない。韓流映画ブームがとっくの昔に色あせた今でも、ソン・ガンホ様の輝きはまったく失われてはいないのだ。しかも今回は、昔ヤクザの顔役で今は引退してレストラン経営を夢見る男が、自分を狙う暗殺者の若い女と惹かれ合うというお話。このお話でソン・ガンホと来れば面白そうではないか。監督はと言えば、恋愛映画「イルマーレ」(2001)のイ・ヒョンスン。僕にとって「イルマーレ」は微妙な映画だったが、世間的には大好評だったしハリウッド・リメイクまでされた作品だった。ならば、今回もそれなりに期待はできるだろう。僕はワクワクしながら劇場へと足を運んだわけだ。

ないよう

 辺り一面に広がる塩田。そこに一組の男女が立っていた。一人は中年男のユン・ドゥホン(ソン・ガンホ)、もう一人は若い女チョ・セビン(シン・セギョン)。二人はお互い向き合って、ドゥホンはセビンに銃を突きつけられた状態だ。そしてそんな二人を、遠くから銃を照準を構えながら見つめている殺し屋(キム・ミンジュン)。そんな静かな緊張状態は、セビンが銃を発射し、ドゥホンが塩田の水の中に倒れた一瞬で破れた。果たして彼らがここに至るには、どのような経緯があったのだろうか…? それはどこまで遡ればいいのか。ソウルの犯罪組織連合を構成する「チルガク会」の会長マンギルが、クルマにはねられた事件から始めるべきだろうか。病院に駆けつけた配下の「ハンガン組」の面々たちに、瀕死のはずのマンギル会長は「ドゥホンを呼べ!」とうめき声をあげる。ドゥホンはつい先日まで「ハンガン組」の組長だった人物。そして突然組長の座から降りて、堅気の世界に身を転じた男だ。しかし現組長のギョンミン(イ・ジョンヒョク)は、なぜか前組長であったドゥホンを呼ぼうとはしなかった。そして当のドゥホンはといえば、遠く離れた港町プサンで気楽な隠退生活を送っていた。とてもかつて犯罪組織の組長だったとは思えない気さくな中年男ぶりで、街の料理教室に参加。しかし元が無骨な男だから、料理教室でも浮きまくり。早速、その不器用さを料理教室の先生にキツく注意される始末だ。だが、この料理教室で浮きまくっているのは、彼ばかりではなかった。ドゥホンとコンビを組んで教わることになった、何となく陰のある若い娘セビンも、およそ料理を習おうという服装ではない。初日などエプロンさえ持ってこない彼女に、さすがのドゥホンも呆れるばかりだ。しかし腕前の方は、ドゥホンと大違い。あまり上達を見せないドゥホンがセビンの手元を盗み見ていると、「何を見ているの!」とガン飛ばしながらもさりげなくやり方を教えるセビン。こうして、不器用同士の二人はおずおずと知り合っていった。そんなドゥホンのもとに、かつて彼の忠実な部下だったエック(チョン・ジョンミョン)がやって来る。エックの口からマンギル会長の死を知ったドゥホンは、しかし会長の葬儀に駆けつけようとはしなかった。身を退いた彼が再び顔を出しては、場を仕切っているギョンミンには迷惑。そう悟っていたドゥホンは、自宅で静かに会長の死を悼むしかなかった。そんなドゥホンと料理教室で親しくなっていったセビンにも、知られざる一面があった。彼女もまたヤクザの「ヘウンデ組」に使われている身で、料理教室への参加はドゥホンを見張るための口実だったのだ。元々は射撃の選手として将来を期待されていた彼女だったが、コーチのユク(オ・ダルス)の犯した不始末のおかげでヤクザに借りが出来てしまい、こんな不自由な身となってしまったのだ。それでもドゥホンを見張っているうちに、彼の暖かさに親しみを覚えずにはいられないセビンだった。ところが、事態は思わぬことで急変することになる。彼女と一緒に暮らしている根無し草の友人ウンジョンが、「ヘウンデ組」の上前をはねようと出し抜いたつもりがバレてしまい、あわやセビンとウンジョンが報復を受けるハメになったのだ。しかし同時に「ヘウンデ組」にドゥホン暗殺の依頼が来たことで、再度事態は一転。今回の不始末を不問とする代わりに、セビンにドゥホンを殺せと指示が下される。のっぴきならない事態に追い込まれた彼女に、もはや選択の余地はなかった。悩んだセビンはドゥホンに料理教室を辞めることを告げて、彼の前から姿を消そうとする。しかしドゥホンはそんな彼女の送別会をしようと提案し、海辺の店で夕食を共にすることにする。ドゥホンも今ではセビンの事が気になるとともに、彼女が「訳アリ」であることを気づいていたのだ。そんな夕食を終えた時、ドゥホンはいきなり突っ込んで来た車にはねられ、危うく殺されかける。運転していたのはセビンの友人ウンジョンだった。そのまま消えていったセビンとウンジョンだが、ドゥホンは身の回りに起きる不審な出来事に裏があると思い始めた。そこでドゥホンは、かつて身を置いた「チルガク会」の面々を手料理の夕食会に招待するのだった…。

みたあと

 コミカルなオッチャンという印象が強かったが、「乾き」あたりからは二枚目路線もいけるようになってきたソン・ガンホ。今回は全体的にカッコイイ映像の中で、いつになくカッコイイ役柄で登場。これが他の俳優(イ・ビョンホンとか)だったらええカッコ過ぎてシラジラしい感じになっちゃうんだろうけど、そこはソン・ガンホの演技力と元々コミカルな個性が人間味となって、そんな上滑りな感じにはなっていない。娘のように歳の離れた娘との間柄も、かえって生臭くない感じでいい味が出ている。見る前から何となく期待していた通り、ソン・ガンホを好きな人なら確実に楽しめる。いつ見ても思うけど、この人ってホントに役者としてのフトコロが広いのに驚かされる。主演作が来るたび見たいと思わされる役者って、イマドキこの人くらいだもんねぇ。

こうすれば

 しかし残念ながら…この映画がそんなソン・ガンホを活かしきっているかと言えば、そうはなっていない。お互い惹かれ合っていながら、殺し殺される者同士の関係になってしまう…というのっぴきならなさが、設定としてまったく活かされていないのだ。主人公がヒロインに命を狙われており、ヒロインは犯罪組織から主人公を殺すように命令を受けているにも関わらず、映画中盤からお話はグダグダ。体調を崩したヒロインは主人公に助けられ、彼のマンションで暮らすようになってしまう始末。しかも彼と彼女のそんな生活が、何となくコミカルで微笑ましく描かれるようになっていくので、お話の緊張感は雲散霧消。どう考えても犯罪組織がそんなヒロインを容認するとは思えないんだが…。こんな甘っちょろい展開で、この映画のお話自体が失速してしまう。また、結末のカギを握る「弾丸」についての言及も、劇中で語られるセリフが「反則」まがいのミスリードになっており、見ている側としては納得できない。「あれ?それって無理だったんじゃないの?」と言いたくなる。いろんな意味でヌルい映画になってしまっているのだ。せっかくソン・ガンホという逸材を手に入れ、魅力的な設定を作り上げながら、これはちょっと残念としか思えない。ロマンティックな甘いお話が好みのようなイ・ヒョンスン監督としては、緊張感溢れるヤクザ絡みの話などは得意じゃなかったのかもしれない。

さいごのひとこと

 食材はいいのに料理の味はイマイチ。

 

「マーガレット・サッチャー/鉄の女の涙」

 The Iron Lady

Date:2012 / 05 / 07

みるまえ

 メリル・ストリープがサッチャーを演じるというニュースは、かなり前から耳にはしていた。その後、かなり「なりきってた」ストリープの写真が発表されたが、そんなもの見なくたってストリープなら「かなり」やるであろうことは想像がついた。案の定、今年のオスカーでは満を持しての受賞。さすがストリープと言いたいところだが、それはそれでちょっと疑問が残らないでもなかった。昔からキュリー夫人だとかグレン・ミラーだとか伝記映画は盛んに作られてきたが、近年それは、ついこの前まで活躍していた誰もが知っている芸能人やら政治家などの「有名人」にまで波及してきた。そうなると、彼ら有名人ってのは僕らがちょっと前までテレビ映像などで身近に目にしてきた存在だ。ハッキリ言って、似てないと「その人」とは認知しづらい。かくして近年の伝記映画は、人物の内面云々よりまず「そっくり」であるかどうかが問題になってきたように思える。それはそれで見事だとは思うものの、映画としてはどこか不毛な気がしていたのだ。そりゃあ「そっくりショー」で「芝居」じゃないだろう。「似てる」からいいってもんじゃないのではないか? そんなところにストリープのサッチャーだ。そりゃあ似てるだろうが、それっていかがなものだろう。うまいに決まっているストリープにどや顔でサッチャーを演じられても、今ひとつ見たいという気がしてこないのだった。そうは言っても、当代きっての名女優ストリープがサッチャーを演じるなら、映画ファンとしては見ておかなくてはいかんだろう。そんなこんなでオールナイトの映画館に滑り込んだ次第。

ないよう

 街の騒々しい雑貨店に、一人でミルクを買いに来ている老婦人。彼女はトボトボと自宅まで歩いて戻ると、老いた夫とともに朝食の食卓を囲む。彼女の名はマーガレット・サッチャー(メリル・ストリープ)。かつて10年以上に渡って、首相としてイギリスを率いてきた女だ。だが、その首相の座から退いてからすでに久しい。その時、彼女の身の回りの世話をしている側近がキッチンに入ってくるが、そこにはマーガレットただ一人。先ほどまで彼女と語り合っていた、夫デニス(ジム・ブロードベント)の姿はそこにはなかった…。デニスを亡くして早や8年。周囲には彼の遺品をそろそろ整理するよう促されているマーガレットだが、彼女の心の中にはいまだデニスが生きている。というより、彼女には生きているとしか思えない。マーガレットは、いまだに亡き夫デニスと共に暮らしている気なのだ。そんなマーガレットは、イングランド中部の街グランサムの出身。小さな食料雑貨店の娘として生まれた。父親アルフレッド(イアン・グレン)は店を経営しながら市会議員として活動しており、娘時代のマーガレット(アレキサンドラ・ローチ)に絶大な影響を与えた。父が政治演説している姿は、彼女の政治思想の根幹を形作ったといって過言ではない。やがてマーガレット自身も大学卒業後に政治家を志すが、当時の英国社会は「まだ若く」「女性」である彼女が政治に乗り出すことを、必ずしも快く受け入れはしなかった。そんな冷ややかな視線の中で、一人の青年が彼女を暖かい目で見つめていた。彼の名はデニス・サッチャー(ハリー・ロイド)。やがてマーガレットは、下院議員選挙に立候補するが落選。さすがに落胆する彼女のもとへとやって来たデニスは、彼女にいきなりプロポーズする。「食器を洗って一生を終えるつもりはない」と言い放つマーガレットを、デニスは優しく受け入れるのだった。こうして子供にも恵まれ、幸せな家庭を築くマーガレット。しかし、彼女の政治への意欲は片時も静まることはなかった。ついに下院議員に当選したマーガレットは、幼い子供たちを振り切るようにロンドンの政界へ。圧倒的な男社会の中で、彼女はメキメキと頭角を現してくる。やがて時のヒース内閣で教育科学大臣に任命され、男たちの冷笑の中を孤軍奮闘する。さらに不甲斐ない党内の連中にカツを入れたいと、保守党の党首選に出馬を決意。しかしこれは、もし保守党が与党であり続ければ、英国の首相になるということを意味する。「当選しないとは思うが、刺激を与えたいのだ」と語るマーガレットだが、さすがにこれには夫デニスも娘キャロルも複雑な想いを隠そうとはしない。そんなマーガレットだが、党の同僚であるエアリー・ニーヴ(ニコラス・ファレル)らが彼女をバックアップ。髪型からアクセサリー、声の出し方までを変えて党首選に臨むことになる。しかしそんな矢先、盟友のニーヴはIRAの爆弾テロによって爆死。これから長く続くことになる彼女の政治家人生の前途に、わずかながら不吉な予感を残す。しかしマーガレットの奮戦は実を結び、見事に保守党の党首へと躍り出た。さらに1979年には総選挙で勝利して、マーガレットは首相の座に座ることになる。しかし、英国には難問が山積。高い失業率と長く続く不況に人々の怒りは爆発。IRAのテロ攻撃も収まる気配を見せない。首相に就任したマーガレットではあるが、その座は最初から大きく揺さぶられっぱなしだった。さらにそんな彼女に追い打ちをかけるように、とんでもない出来事が襲いかかる。英国領フォークランド諸島に、アルゼンチンが攻撃を仕掛けてきたというのだ…!

みたあと

 サッチャーと言えばレーガン、ゴルバチョフなどと並んで、「僕らが若かった頃」の政治的アイコン。当時の日本では中曽根首相が代表的な政治家ということになるのだろう。これらからゴルバチョフを除いた西側諸国のリーダーたちはいずれも保守的な政治家ということになるのだろうが、個人的な感じではイマドキの「あっち側」な人々よりはまだまだナンボか健全なバランス感覚を持っていたような気がする。何だかんだ言っても、世の中に余裕があったと言うべきだろうか。物事万事世知辛くて何かとギスギスしているイマドキとは、ちょっと違った空気が流れていたように思える。長らく不況とグローバリズムとインターネットが、こんな世の中を作っちゃったんだろうか。とにかく、みんなの怒りの沸点がやたら低くて困ってしまう。…そんな戯れ言はともかく、希代の政治家を主人公にした伝記映画であるならば、当然のことながら政治についての言及をスルーするわけにはいくまい。しかも主に1980年代に活動していた政治家を描くならば、その時代が大きく作品に投影されなければウソだろう。だからそのあたりのことが描かれるに決まっている…と思ってスクリーンと対峙した僕だったのだが、見ていてそれらがほとんど描かれていなかったことに唖然としてしまった。これってちょっとどうなんだろう?

こうすれば

 政治的なエピソードとしては、サッチャーが党首選に出馬するくだりとフォークランド紛争のくだり、さらに彼女が周囲の支持を失って失脚するくだり…の3つの部分がいわゆる「政治的」なエピソードということになるだろうが、それ以外はほとんど政治についての具体的な言及はない。これは一体どういうことなのだろうか? 英国を10年以上に渡って率いてきた政治家の映画に、これほど政治が描かれていないということはどうなんだろう? これが仮にミュージシャンの映画だったら、これでいいと思えるだろうか。絶対におかしいのではないだろうか。すでに「マンマ・ミーア!」(2008)でメリル・ストリープと組んだフィリダ・ロイド監督は「これは政治映画ではない」と発言しているし、僕もどちらかと言えばノンポリな方だから何かというと政治的発言をすればいいとも思わない。しかし政治家の映画を作っておきながら、政治にはまったく目を向けないというのはいかがなものだろう。彼女の人となりと結びついた政治思想や政治の世界の権謀術数、数々の決定の陰にあった苦渋の決断など、そういったモノを描かないで政治家サッチャーを描こうなんて意味がない。さらに彼女の生きた時代の政治が、現在の世界とどのように接点を持っているのかを語らなければ、今わざわざサッチャー伝を描く必要などないではないか。ボケ老人としての彼女を描く時間があったら、そういう事の方を描くべきではないか。実際には見ていないからあまりアレコレ言えないが、「マンマ・ミーア!」あたりの監督ではこんな程度しか描けないのだろうか。「女性としての大変さ」とかの方を描きたかったのだろうが、それって例えば「女たちの太平洋戦争」だとか「女たちの2・26事件」ってな感じの陳腐な日本のテレビドラマみたいな内容にしかなっていないので、少なからずガッカリしたというのが正直なところだ。僕はまったくフェミニズム的な立場に立つ人間ではないが、これって実は「フェミニズム」的に考えてもマズイんじゃないの? 国際政治なども背景にした壮大なスケールの物語になりそうなものなのに、すごくショボい話になってしまっているのが悲しい。

みどころ

 そんなわけで大いに異議ありな映画だが、さすがにサッチャーを演じたメリル・ストリープはうまい。見ている間、彼女がサッチャーであることに一瞬たりとも違和感を感じなかったのだから、やっぱりうまかったと言うべきだろう。しかし先ほども述べたように、政治に触れないで政治家を描くというナンセンスさが、この映画からすべての価値を奪っている。これではストリープの熱演も、単なる「そっくりショー」と同じレベルになってしまう。若い頃に「食器を洗って一生を終えるつもりはない」と勇ましく語ったサッチャーが、映画のエンディングで食器を洗いながら人生のささやかな幸せを感じるあたりはなかなかシャレているが、やっぱり政治にノータッチだった内容が災いして残念な結果になってしまった。たぶん映画の作り手としては、「女性」としてはサッチャーを肯定したかったが、「政治家」としては賛同できなかったため、こんな内容になってしまったのではないか。しかし本人の業績には批判的な目を向けても、人間的に肯定する方法はいくらでもあったはずだと思う。そのへんの作り手の人間洞察力の浅さや政治的なセンスの薄っぺらさが、災いした内容になってしまったように思える。ハッキリと凡作と断定したい。

さいごのひとこと

 涙で鉄が錆びたかな。

 

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