新作映画1000本ノック 2012年4月

Knocking on Movie Heven's Door


このページの作品

「決闘の大地で」 「アポロ18」 「シャーロック・ホームズ/シャドウゲーム」 「おとなのけんか」 「カエル少年失踪殺人事件」 「昼下がり、ローマの恋」 「ヒューゴの不思議な発明」

 

「決闘の大地で」

 The Warrior's Way

Date:2012 / 04 /23

みるまえ

 今でこそ韓国映画は当たり前に公開されるようになったが、ちょっと前まではこんな恵まれた状況ではなかった。その頃からの韓国映画ファンとしては、正直言って「韓流」みたいな呼び名がついてイケメンが出てくるヘナチョコ映画ばっかりになってしまったのは、まったくもって情けない限り。案の定、たちまちブームもしぼんで、作品的にもパッとしないモノばかりになってしまった。今ではソン・ガンホ主演作ぐらいしか見るべきものはなくなってしまった…と思っていたが、どっこいこの男を忘れてはいけない。チャン・ドンゴン。この男も一連のイケメン俳優と一緒にされてはいるが、僕にはなぜか、彼が他の「イケメン」たちとは一線を画しているように思えてならない。「ブラザーフッド」(2004)あたりを見れば分かるように、彼には変にカッコつけたような安っぽさがないのだ。そんなチャン・ドンゴンの異色の新作が、いよいよ日本にやって来る。何と「チャン・ドンゴン鮮烈なるハリウッド・デビュー!」と銘打たれた西部劇仕立ての作品だ。考えてみれば、すでにチョン・ジヒョンやらイ・ビョンホン、RAINなんて連中が欧米市場向けの英語作品に出演している。おまけにチャン・ドンゴンは、すでに「ロスト・メモリーズ」(2001)、「PROMISE/プロミス」(2005)、「マイウェイ/12,000キロの真実」(2011)などで、外国映画出演や海外俳優との共演、外国語による芝居など「他流試合」での経験を積んでいるのだ。 ならば「真打ち」チャン・ドンゴンが、いよいよハリウッドに打って出ないはずがない。西部劇風な作品というのも大いに興味をそそるし、何よりケイト・ボスワースやジェフリー・ラッシュなどという大物欧米俳優たちとの共演とはスゴイではないか。実は内心ちょっとした不安もないわけではなかったが、ともかくこれは見なければ…と初日に劇場に駆けつけた次第。

ないよう

 ある時代、東洋のどこかの国で、その戦士(チャン・ドンゴン)はついに地上最強の戦士と剣を交え、勝利を収めた。長い間この日を待ち望んで来た戦士だったが、いざ自分が地上最強になってみれば、やはり胸に去来するものは空しさだけ。彼が倒した戦士が守っていたのは、乳母車に乗せられていた一人の赤ん坊だった。しかしその赤ん坊は、彼にとって敵一族の姫君。敵に勝った時には、最後の一人まで根絶やしにするのが掟だった。しかし戦士は、なぜかそうはしなかった。彼は赤ん坊を背負って、長い長い旅に出る。それはそれまで彼が属していた、「悲しき笛」を敵に回すことを意味していた。早速、森の中で「悲しき笛」の刺客たちが襲ってきたが、戦士はことごとく倒した。しかし、刺客は絶え間なく送り込まれてくる。彼はこの国にいる限り赤ん坊が安全になることはないと悟り、船に乗って遙かな異国をめざすことにした。さて、かつての知人を訪ねて戦士がやって来たのは、最果ての西部の町「ロード」。何軒かのうらぶれた建物と、作りかけの大観覧車しかない町だ。この町に、子連れの東洋人はいかにも異質だ。彼を好奇の目で出迎えたのは、なぜかこの町に居着いているサーカス団の団長エイトボール(トニー・コックス)。戦士の知人はすでにこの世を去っており、この知人が経営していたクリーニング屋の空き家が残されていただけだった。そんな戦士に、いきなり棒っきれで襲いかかってくる跳ねっ返り美女リン(ケイト・ボスワース)。それはちょっとした勘違いだったが、それ以来、リンはこの戦士の周辺に何かとウロつき回ることになる。またこの町には、常に酔いどれている「訳アリ」のロン(ジェフリー・ラッシュ)という男もいた。こうしてこの町に居着くことになった戦士は、生まれて初めて心の安らぎを得ることになる。リンの手を借りてクリーニングの仕事に精を出し、赤ん坊を育て、花壇を作って草花を育てる。それらは戦士にとって、まったく初めての経験だった。そんな戦士は、リンの過去について、エイトボールから聞くことになる。かつてリンがまだ少女だった頃、この町に大佐(ダニー・ヒューストン)率いる野党軍団が襲ってきた。刃向かう者は容赦なく殺され、人々は為す術もなかった。そんな中、あわや大佐の慰み者にされようとしていたリン。彼女はとっさに油で揚げていたポテトを大佐の顔にブチまけ、必死に外へ脱出。そのリンを、怒り狂った大佐の銃弾が襲った。さらにリンの家族も、すべて大佐によって殺されてしまう。かろうじてリンだけが生死の境をさまよいながらも、何とか生き残ることができたのだ。それ以来、彼女は大佐への復讐を誓い、常にナイフさばきの練習を続けている。しかし、一所懸命に練習しても現実は厳しい。そんなリンの様子を見かねた戦士は、彼女にナイフでの戦いを伝授するのだった。一方、その頃「悲しき笛」の首領(ティ・ロン)とその配下の刺客たちは、戦士を追いかけて船に乗り込んでいた…。

みたあと

 不思議な映画である。映画が始まってすぐは、明らかに昔の東洋の国での出来事で、そこで地上最強の戦士と主人公の対決が描かれる。その際に、敵の顔の下あたりにCGで「地上最強の戦士」云々と文字が出てくるあたり、何となくマンガか冗談のような気分になってくる。しかし主人公チャン・ドンゴンの顔は大真面目だし、作り手も冗談で作っているわけではない。特にチャン・ドンゴンは「孤高の戦士」という役どころだから、終始ストイックで寡黙な人物を演じている。しかしこの冒頭に出てくるCGの文字に代表されるように、この作品には全編に渡ってこうした冗談のような悪趣味感が横溢している。そのため観客は見ている間いつも、奥歯で何かをジャリッと噛んでしまったような違和感というか、耳障りな不協和音みたいなモノを感じさせられてしまう。この映画の舞台は途中から新大陸…アメリカらしき国に移って、そこで西部劇らしきドラマが展開することになる。確かにモニュメント・バレーみたいな風景が広がり、いかにも西部劇らしい荒野の町が出てきたりする。しかしその町には未完成の巨大な観覧車があったり、サーカス団らしき連中がたむろするなど、どこか従来の西部劇らしくないモノがチラついたりもする。だからいつの時代ともどこの場所とも特定されない、ファンタジーとしての「西部劇」が構築されているわけだ。ある意味では近未来を舞台にした「マッドマックス2」(1981)みたいな世界観とも言えるのだが、東洋チャンバラと西部劇の「融合」らしきモノを目指しているこの映画には、最初から妙な違和感が付きまとって離れないのだ。

こうすれば

 多少荒唐無稽でも西部劇気分が出れば、それなりに楽しくなっていくはず。音楽もエンニオ・モリコーネ風に鳴らして気分を出している。そこに日本刀を持った男が出現…と来ても、正直そんなに変な気分にはならない。すでに僕らは西部劇っぽい状況に日本刀を持った男が出てくるという絵を、トム・ローリンの「マスター・ガンファイター」(1975)やルトガー・ハウアーの「ブラインド・フューリー」(1989)で目撃しているから、もはやそんなに違和感はない。しかし、寡黙でストイックで強靱な男という役どころは、果たしてチャン・ドンゴンに合っていたのだろうか? 僕はチャン・ドンゴンの作品をそれほど見ているわけではないが、彼ってどこか純粋でヤボで素朴なイメージがある。それは一種の「愛嬌」のようなものだ。ところがここではコワモテな男をひたすら黙って演じているので、そんな彼のチャームが封じられてしまっている。それゆえ、彼本来の魅力が今ひとつ出せていないように見えるのだ。そんなぎこちなさに加えて英語でしゃべる不自由さがプラスされ、何だか妙にしゃちこばったキャラクターになってしまっている。カッコよく演じようとしているのが、かえって裏目に出てしまっているのだ。韓国映画に出ている時にはそんなカッコよく見せようなどというつまらないことをしなかったので、結果としてカッコよく見えていたのに…。ところがそんなしゃちこばっているばかりの「強い男」にケイト・ボスワースが夢中になっていくみたいな設定だから、見ていて何とも居心地悪い気分になってくる。ズバリ言ってしまうと、パッとしない東洋男にそれなりに見栄えのする白人女性がイチャついているみたいで、すごく無理がある感じがするのである。これが本来の魅力と輝きを持ったチャン・ドンゴンならいざ知らず、なぜか自ら魅力を減殺したような役どころだから残念にも程がある。ケイト・ボスワースが惚れ込んだり、町の人々が一目置くようになるには、いささかパッとしなさすぎるように見えるのだ。これは失敗だったんじゃないだろうか。ただ、この作品にはもっと困った点がある。何だかんだ言って西部劇テイストの作品を目指していたに違いない本作だが、どうしても西部劇の「気分」が出ない。一生懸命それ風に作っているのに、一向に西部劇本来の味が出てこないのだ。それはこの映画の映像を見れば一目瞭然。この作品、実際にはニュージーランドあたりで撮影されているらしいが、どうも外景ロケによって撮影されている箇所はあまりないように見える。光線の加減のせいかもしれないが、ほとんどの場面をスタジオ内で撮影しているように見えるのだ。モニュメントバレーやら荒野の中の町といった景色も、ほとんどがCGとミニチュアの融合によって作り出されたもの。その結果、まるでコッポラの「ワン・フロム・ザ・ハート」(1982)みたいな人工的なイメージが全編に漂い、西部劇本来の開放感やら壮大さがゼロ。むしろ閉塞感ばかりが感じられる結果となってしまった。アクションも、イマドキはやりのひらすらVFXに頼ったようなものばかり。正直言って、アクションに過大にエフェクトやCGを絡めるのは、何でもアリになってしまって面白くないのだ。どっちかと言うとチャン・ドンゴンの魅力が不発だったことより、こっちのエフェクト過多で開放感がないことの方がマズイのではないだろうか。これではそもそも西部劇風なドラマを展開する意味がない。ニューヨーク大学で映画を学んだというイ・スンモなる韓国人の新人監督は、映画を勉強していたのになぜそれが分からなかったのだろうか? もうひとつ不満を並べさせてもらえば、大物ジェフリー・ラッシュを共演に迎えながら、ほとんど見せ場がなかったこと。何でわざわざこんな人を連れてきたのか、まったく理解に苦しむつまらない使い方だった。

みどころ

 そんなわけでかなりガッカリな印象だった「チャン・ドンゴン鮮烈なるハリウッド・デビュー作!」だったが、それでもまだ…どう考えても役が日本人としての設定だったはずなのにも関わらず日本人じゃないと強弁していた「ラスト・ブラッド」(2008)のチョン・ジヒョンやら「G.I.ジョー」(2009)のイ・ビョンホン、「スピード・レーサー」(2008)と「ニンジャ・アサシン」(2010)のRAINといった往生際の悪い連中(セーラー服を着た女子高生やら忍者やらって役どころで、日本人ではないってのは苦しくないか?)と比べれば、最初から時代設定も場所もどこと決めていない「ファンタジー」に出演したチャン・ドンゴンは賢明だったと言える。 確かに日本刀を持ってはいるものの、これだけならまだ許容できる範疇だ。別に僕は向こうの人たちに悪意も敵意も持っていないが、「日本人だけど日本人じゃない」てな政治家みたいな弁解はハタで見ていてあまり気分のいいものではない。日本人を演じるのはマズイというなら最初から演じない選択をしてほしいものだ。このあたりの点を見ても、ヤバイ要素をさりげなく回避しているチャン・ドンゴンという人のセンスを感じる。もうひとつ気に入ったのは、チャン・ドンゴンを追う悪役に往年の香港スター、ティ・ロンを起用したこと。これは見るまで気づかなかった! 一般的には「男たちの挽歌」(1986)への出演が有名だろうが、僕にとっては「英雄十三傑」(1970)などショウ・ブラザース全盛期のスターの一人として強烈な印象がある。出ているとはまったく知らなかったので、これには正直驚いたし嬉しかった。そしてここに香港スターのティ・ロンを起用したことによって、この映画の東洋的要素も香港、韓国、日本といった特定の国籍ではなく、「氾アジア」的なイメージを獲得することになった。だからチャン・ドンゴンが日本刀を持っていても、何ら違和感はないのである。このあたりのセンスは、大いに評価していいと思う。

さいごのひとこと

 ホンモノの大地で撮影して欲しかった。

 

「アポロ18」

 Apollo 18

Date:2012 / 04 / 23

みるまえ

 この映画のことは、チラシを最初に見た時から気になって仕方がなかった。「アポロ18」。一瞬「アポロ13」(1995)かと間違えたが、あの映画を今さら再公開するわけもない。それにアポロ計画って、確か17号で打ち止めになっていたはずではないか。よくよくチラシを読むと、打ち切ったと思われていたアポロ計画に、その後、極秘に打ち上げられた18号が存在した…という話らしい。これを知って、僕は俄然この映画に対して興味を持った。元々アポロ計画にはその後、いくつかの「都市伝説」的なウワサが流れた。一番有名なのが、例の「アポロ11号は月に着陸していなかった」というやつ。そして、17号までで計画が打ちきりになったのには、公言できないような事情があった…というようなものだ。「トランスフォーマー/ダークサイド・ムーン」(2011)の冒頭に出てきたアポロのエピソードも、そんな「都市伝説」的なお話を基にしたものだ。正直言って僕にとっては「トランスフォーマー」の本編よりも、この冒頭数分間の方が見応えがあった。ならば、その「トランスフォーマー」の冒頭を拡大したような今回の作品も、かなりの面白さであることは想像に難くない。しかも今回のこの映画は、ドキュメンタリーの形を借りた劇映画とのこと。…と、いうことは、「食人族」(1981)や「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」(1999)、「クローバーフィールド/HAKAISHA」(2008)、「REC/レック」(2007)などと同じ、疑似ドキュメンタリー形式の映画に違いない。こういう疑似ドキュメンタリー形式の映画って、ちゃんとした映画ファンにはすこぶる評判が悪い。中には「こんなもの映画じゃない」とまで罵る人もいるくらいだが、なぜか僕はこの手のジャンルの作品が好きなんだなぁ(笑)。立派な映画ファンの方々から「邪道!」と言われると、なおさら好きになってしまう。というか、なぜダメなんだか分からない。おまけに僕は「1970年代に旧ソ連が極秘で有人火星探査を極秘で行っていた」などという話が死ぬほど好き。だから、今回の「アポロ18」が気にならない訳がない。そんなわけで、僕は待ちきれずに初日に映画館に飛び込んだ。

ないよう

 1970年、NASAはアポロ計画の中止を発表。NASAによる月探査は、1972年12月のアポロ17号で一応のピリオドが打たれることになった。しかし実際には、1974年12月に3人の宇宙飛行士を乗せたアポロ18号が、極秘で月へと向かっていたのである。最近になって、その時の大量の映像がネットの片隅に秘かにアップされた。この映画は、それらの映像を編集して作り上げられたものである…。乗り込んだ宇宙飛行士は船長のネイト・ウォーカー(ロイド・オーウェン)と、ベン・アンダーソン(ウォーレン・クリスティー)、ジョン・グレイ(ライアン・ロビンス)の3人。先にも述べたように、このミッションは軍事目的のためまったくの極秘とされた。12月25日、船長のネイトとベンが乗った着陸船が司令船から切り離され、着陸船は月面に着陸成功。月面に降りた二人は、国旗を立てたり石を採取したり…というお定まりの行事を行う。その他に行ったのが、地球から持ってきた「PSD5」と呼ばれる装置の設置。国防上の一種のレーダー装置らしいとのことだが、詳細は不明だ。これにスイッチを入れて作動させると、二人のこの日の仕事は無事終了というわけだ。二人は船内に戻ると、眠気も起きないのに無理矢理眠りについた。さて翌朝目覚めた二人は、通信装置から聞こえる妙なノイズ音が気になっていた。さらに不思議なことに、採取してから袋に入れたはずの石が、なぜか床に落ちていたのも気になった。しかし、それ以外は順調。再び船外活動に出ることにする。ところがそこで二人はとんでもないモノを見つけてしまうのだ。それは、地面に残された足跡…明らかに自分たちのモノとは異なる、何者かの足跡が残されていたのだ。その足跡を追って歩いていくと、そこには未知の宇宙船が着陸しているではないか! 何とソ連の月着陸船が、彼らよりも先にこの場所に降りたっていたのだった。しかしその着陸船に乗り込んでみると、中はなぜかメチャクチャになっており、不吉なことに血痕が飛び散っていた。この着陸船で降り立った宇宙飛行士の身に、一体何が起こったのだろうか? その原因を少しでも知るために、着陸船の周囲を探索する二人。危険を冒して気温が低いクレーターの底へと足を踏み入れると、そこにはソ連の宇宙飛行士の死体が横たわっていた。なぜかヘルメットに穴が開いた状態で死んでいた、ソ連の宇宙飛行士。この異常事態に、二人はさすがに動揺せざるを得ない。ところがアポロの着陸船に戻ってみると、もっと驚くべき出来事が二人を襲う。窓の外を覗いてみると、いつの間にかアメリカ国旗が倒され、機材もひっくり返されていたのだ。一体誰がそんなことを? 何が起きたのかを見るために、ネイトが再び宇宙服を身につけて船外へ。ところがそのネイトが、とつぜん叫んで暴れ始めるではないか。「ヘルメットの中に、何かがいる!」…。

みたあと

 見た!面白かった!怖かった!…で終わらせてもいいのだが、ともかく僕は気に入った。いろいろと穴はあちこちに開いているのだが、ともかく最後まで楽しませてくれる。人によってはこの手の作品をバカにするだろうが、僕はこういう作品が好きなのだ。監督のスペイン出身ゴンザロ・ロペス=ギャレゴは知らない人だが、製作のティムール・ベクマンベトフって…何とロシアで評判を読んだホラー・アクション映画「ナイト・ウォッチ」(2004)を撮った男ではないか。あいつ、一体いつの間にアメリカに来ていたんだと思いきや、実は僕は未見だったアンジェリーナ・ジョリー主演「ウォンテッド」(2010)でハリウッドに渡っていたという。そのうちチャッカリと、こんな作品を制作するまでになっていたのだった。映画の内容より、そのベクマンベトフの八面六臂の活躍の方がビックリだ。

みどころ

 この手の映画は一応ドキュメンタリー仕立てなので、どちらかと言えばいわゆるドラマ性は乏しくなる。それでも、同じ宇宙モノの疑似ドキュメンタリー作品である「アルマズ・プロジェクト」(2007) が何が写っているのかサッパリ分からなくて単調だったことと比べると、こちらは格段の面白さ。描かれている要素に大した違いはないのに、こちらはずっと緊張感が途切れない。話の内容としては火星探査を描いたハードなSF映画「レッド プラネット」(2000)にも似たところがあるが、何よりこの映画は緊張感がハンパないのだ。夢物語でない、リアルな宇宙探検の怖さが感じられるのが最大の特長である。何しろ地球から遠く離れていて、つながりはか細い通信手段のみ。救援も何も期待できない。小さく頼りない宇宙船と宇宙服のみが頼りで、その外は過酷で不毛な宇宙空間や月世界が広がっている…という、圧倒的な孤立感が表現できているのが素晴らしい。そこがしっかりしているから、宇宙飛行士たちを襲う「恐怖」の原因が多少荒唐無稽であってもリアルな怖さを味わうことができる。ソ連の月着陸船を発見するくだりなど、見ていて本当にワクワクドキドキしてしまった。そんな孤立感と閉塞状況がちゃんと描かれているから、結局「捨てゴマ」にされてしまう宇宙飛行士たちの姿にどこか哀愁が漂う。素っ気ない疑似ドキュメンタリーの描き方なのに、ドラマティックな悲痛ささえ感じさせられるのだ。エンディング・クレジットの時には時間つなぎのためか、劇中で宇宙飛行士たちがラジカセで流していた懐メロ音楽を改めて流したりしているが、それさえもが曲の明るさとは裏腹の沈痛さを感じさせてしまう。オープニングの打ちあげ前の宇宙飛行士の映像も含めて、裏「ライトスタッフ」的な哀しみがにじみ出るのだ。これは、作り手さえも予測しなかった意外な効果だったのではないだろうか。

!!!映画を見てから読んで!!!

こうすれば

 ただし、この映画は前述するように穴も多い。その最大のモノとしては、宇宙飛行士が誰一人として地球に帰還出来なかったというのに、これらの膨大な映像はどうやって入手されたのか…という根本的な問題がある。手持ち16ミリカメラで撮影されていた部分も多いので、どう考えても無理があるのだ。さらに月の「生物」がどうやって餌を見つけていたのか…というのも大いにナゾ。そんなわけで、かなり無理な部分も多い映画なのだが、何より強烈な緊張感がそれらを無視させてくれる。穴は穴としてどうしようもないが、それらに目をつぶってもいい気にさせてくれるのだ。

さいごのひとこと

 宇宙飛行士はツキがなかったね。

 

「シャーロック・ホームズ/シャドウゲーム」

 Sherlock Holmes - A Game of Shadows

Date:2012 / 04 / 23

みるまえ

 あのシャーロック・ホームズを、ロバート・ダウニー・ジュニアが演じる。しかも監督は「ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ」(1998)のガイ・リッチー。共演のワトソン役にまさかのジュード・ロウ。そんないろいろな意味で意表を突いた顔合わせで、あのあまりに有名な名探偵物語を映画化した「シャーロック・ホームズ」(2009)の続編がやってきた。前作「シャーロック・ホームズ」ではダウニー・ジュニアは奇跡の復活作「アイアンマン」(2008)に次いでのヒットで人気を確実なものにしたし、ガイ・リッチーはホームズなんてやるとは到底思えなかったが、これが意外にハマって好調。ジュード・ロウもダウニー・ジュニアと意外な相性の良さを見せてビックリ。…というわけで、「意外」や「ミスマッチ」に思えた要素がすべてうまく働いての大ヒットとなった。今回はその好評に引き続いての「第2弾」。もはや「意外性」はなくなっての続編となるわけだが、強烈なクセと個性の面々揃いなだけに鮮度がなくなった場合はどうなのかがとても気になる。そんなわけで、出来映えを劇場に確かめに行った次第。感想をアップしたのがこんなに遅くなったのは、例によって例のごとく僕の怠慢である。

ないよう

 1891年、ヨーロッパは何やら不穏な空気に包まれていた。中でもフランスとドイツの関係がこじれていたが、その原因となっていたのが欧州各地で続発する爆弾テロだった。ここロンドンにおいても、何やら怪しげな動きが…あのホームズのかつての恋人にして女悪党のアイリーン・アドラー(レイチェル・マクアダムス)が、小包を持って中華街を歩いている。その後ろから彼女を追う一人の中国人…と思いきや、それはシャーロック・ホームズ(ロバート・ダウニー・ジュニア)。しかし彼女の周囲にいたのはホームズだけではない。アッという間にその取り巻き連中に襲われるホームズだったが、彼がその機転と腕っ節でたちまち窮地を逃れたのは、言うまでもないことだ。アイリーンがやって来たのは、とあるオークション会場。そこで彼女はホフマンシュタール博士(ウォルフ・カーラー)に小包を届け、代わりに一通の手紙を手渡される。そこにやって来たのがまたまたホームズ。実は小包は爆弾だった。彼は手紙を奪い取り、爆弾を何とか処理する。こうしてホフマンシュタール博士は爆死を免れたかと思いきや、外で別の賊に殺されてしまう。さらにその場を逃れたアイリーンは、レストランでジェームズ・モリアーティ教授(ジャレッド・ハリス)と会う。教授こそが一連の不審な事件の首謀者だった。教授は、アイリーンがホームズに想いを寄せていることを指摘。イヤな予感を感じたアイリーンだったが、それに気づいた時には彼女のカラダに紅茶に仕込まれていた毒が回っていた。さて、シャーロック・ホームズの住居を訪ねた盟友ジョン・ワトソン医師(ジュード・ロウ)は、ホームズの部屋が植物で一杯になっているのにビックリ。さらにホームズが葉っぱ模様のスーツを着込んで、その光景にカメレオンのように溶け込んでいたのに二度ビックリ。元々ホームズの変人ぶりには慣れていたつもりだったが、この妙な入れ込み方は度を超していた。しかしホームズが常軌を逸しているのも無理はない。彼は「悪の天才」とも言うべきモリアーティ教授の動きを調べ、その悪事のスケールの大きさに唖然としているのだった。彼の部屋には大きな世界地図が貼られていたが、その地図上のあちこちに赤い糸が張り巡らされていた。それらはすべて、モリアーティ教授の仕業と思われるものだ。一見まったく関連していなそうな殺人事件、テロ攻撃、商売上の買収…欧州各国からはてはインド、中国、アメリカにまで広がる多岐に渡る事件が、すべてモリアーティ教授によるものだとホームズは主張する。しかしワトソンは、そんなことを話しにやって来たわけではない。結婚が迫るワトソンは、独身最後の夜でハメをはずす気満々。その一夜を、ホームズが親友のよしみで仕切ってやることになっていたのだ。というわけで、早速、ホームズとワトソンは、とある「男の社交場」であるクラブへとやって来る。しかしホームズは何も準備をしておらず、期待していたワトソンの旧友たちもまったく招かれていなかった。フテ腐れるワトソンは、仕方なくその場で賭けポーカーに興じる。そしてホームズはそんなワトソンを放ったまま、クラブの怪しげな一角へと歩み寄る。そこにはジプシーの占い師マダム・シムザ・ヘロン(ノオミ・ラパス)がいた。ホームズが奪った例の手紙の宛名は「シム」となっていたが、それはこのシムザのことだったのだ。しかし、彼女がやすやすとホームズに本当のことを話すはずもない。さらに彼女を殺そうとする暗殺者まで出現して、ホームズとクラブ内で大暴れ。何とか暗殺者を撃退したものの、肝心のシムザには逃げられてしまう。ともかくはワトソンの結婚式に間に合わせねば…と馬車に乗って式場へと急ぐホームズとワトソン。疲れて馬車の中でグッスリ眠ってしまう二人だったが、何とか時間に間に合って式場へと到着。ワトソンは無事にメアリー・モースタン(ケリー・ライリー)と結婚式を挙げることができた。長年の盟友との「別れ」となるだけに、さすがにホームズの表情も寂しげだ。一人寂しく結婚式場を去ったホームズは、その足でとある大学へ。そこの研究室にいるジェームズ・モリアーティ教授本人から呼ばれたからだ。こうして初めて対峙した両雄は、お互いをリスペクトしつつ腹を探り合う。しかし話が本題に入るまで、大した時間はかからなかった。モリアーティ教授はアイリーンを殺したことをホームズに告げる。激しい衝撃を受けるホームズに、これ以上あれこれと干渉するようならワトソンとメアリーの新婚夫婦を殺す…と脅しをかける教授。ここまで言われればホームズも退けない。かくして双方宣戦布告となった。だとすると、ワトソンとメアリーの新婚夫婦が危ない! 二人はそんな事とはツユ知らず、駅から寝台車で新婚旅行へと出かけようとしていた…。

みたあと

 いやぁ、面白かった。やっていることは基本的に前作と変わらないのだが、何だかんだ言ってこの映画は楽しい。そしてロバート・ダウニー・ジュニア演じるホームズはかなりの大胆解釈に見えて、実は意外と原作に忠実だったりするのだ。僕も熱心なファンとは言い難いまでも、子供の頃はホームズの小説を夢中になって読んだクチだから結構嬉しかったりする。そのあたりで、ガイ・リッチーの意外な資質が活かされているように思う。前作あれほど大きい存在だったアイリーンが今回始まってすぐに殺されてしまうなど、アッと驚く趣向も満載。今回はホームズ最大の敵モリアーティ教授登場だから、それも当然と言えば当然だろう。

みどころ

 前作同様にホームズとワトソンの凸凹コンビぶりがお楽しみで、演じるダウニー・ジュニアとジュード・ロウの息の合い方も尋常ではない。この二人のおかげで、全体的に「男の子」の「冒険」モノというバカバカしさが漂っているのも素敵だ。この二人の精神年齢が、思い切り低くていいのである(笑)。立派な佇まいを持ってはいるが、基本的にこの映画は敷居の低いバカ映画なのである。そして男の子のバカ映画だからこそ、ガイ・リッチーの出る幕もあるというもの。全編に漂う英国臭といい、一見ミスマッチかと思われたガイ・リッチーだがちゃんと「ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ」の監督として持ち味を発揮できる下地があるのだ。しかも「ロック、ストック〜」からガイ・リッチーの十八番になった、フィルムのランニング・スピードをいじくってスローモーションにしたりする技法も、ここではホームズの「先読み」の思考を映像化する…というかたちで活かされているから嬉しい。一時期巷で大流行し、あちこちのアクション映画でさんざ使われまくってすっかり色あせてしまったこの技法だが、やはり「本家」が使うとひと味違う。そのあたりのガイ・リッチーの自負も透けて見えるあたりが、また楽しいのだ。また、意外に「原作に忠実」という点で言えば、モリアーティ教授との対決場面で「あぁ、なるほど」と思われる趣向が出てきて納得。国際会議が行われるスイスの建物の脇にデカい滝が流れているのも、原作を読んでいた人間としては「こういう仕掛けだったのか」と嬉しくなる。なかなかニクい映画なのだ。

こうすれば

 前回もかなりのスケール感だったが、今回も「大作化」はますます進行。前作はCGを多用したスペクタクル性も、ホームズを取り巻く時代性を見せるためだったから納得できたのだが、今回、フランス、ドイツまで出張するスケールアップぶりは、いささかやりすぎではないだろうか。ホームズというよりジェームズ・ボンドみたい。そして「ナバロンの要塞」にでも出てきそうな巨大な大砲で、森の中を逃げるホームズ一行が砲撃されるくだりも、「大作感」が仇となってか少々大味。例の十八番の手法で超スローモーションになったりしているが、さすがにこの場面ではあまり意味がないし冗漫だ。続編というものはどうしても「増量」してしまうものだが、今後もこのシリーズが続くなら大作化は免れないのだろうか?

さいごのひとこと

 ホームズもワトソンも半ズボンはけよ。

 

「おとなのけんか」

 Carnage

Date:2012 / 04 / 09

みるまえ

 ロマン・ポランスキーの前作「ゴーストライター」(2010)には、僕もホトホト感心してしまった。具体的にどうホメていいのか分からないほど、熟達の芸とでも言うべき語り口。コケ脅かしもテクノロジーの飛び道具も使わないが、年数を重ねた落語家の話芸のように鍛え上げられた見事な話術。それでいて何も高尚な気取ったことをやろうとしている訳でもない。舌を巻くとはまさにこのことだろうと思わされる、文句のつけようのない面白さ。ポランスキーってもはや余人をもって代え難い領域にまで踏み込んだんじゃないかと思わされる、圧倒的な出来映えだったのは間違いない。ところがそんなポランスキーの新作が、早くも日本に上陸。ところが今度は殺しも国際政治も関係ない。何と子供のケンカを巡る二組の夫婦の論争のお話。それも4人の役者が終始顔を突き合わせて、一部屋の中だけで展開するドラマだという。その夫婦を演じるのが、ジョディ・フォスターとジョン・C・ライリー、ケイト・ウィンスレットとクリストフ・ヴァルツだと聞けば、「これは見たい!」と思わない映画ファンはいまい。室内の会話劇となると苦手な向きも少なくないだろうが、あのめくるめく話術のポランスキーなら何の不安もない。これだけの芸達者の役者たちを集めて、今回どれほどやってくれるのか、見る前からすごく楽しみだった。ところが劇場が混んでいてなかなか見れる状態にならず、公開からだいぶ経ってようやく見ることができた次第。

ないよう

 ニューヨークのブルックリン。公園でちょっとした子供たちの小競り合いが起きる。そこでやられた方の子供の両親の元へ、やった方の子供の両親が訪れることになった。いわゆる「和解の話し合い」というわけだ。やられた方の子供の両親は、金物商を営む気のいい男マイケル(ジョン・C・ライリー)と、芸術やアフリカ問題に関心が深く、本まで執筆しているインテリ主婦のペネロペ(ジョディ・フォスター)。やった方の子供の両親は、やり手の弁護士であるアラン(クリストフ・ヴァルツ)と、投資ブローカーをやっているナンシー(ケイト・ウィンスレット)。両方の両親は理性的かつ冷静な話し合いを行い、ペネロペがこの件についての同意書をパソコンに打ち込んだ。その中の記述にペネロペが「“故意に”棒で殴打した」と打ち込むと、アランが「故意に」という記述は適切ではない…と注文を付けたが、それ以外は平穏無事に話し合いは進んで、アランとナンシーの夫婦がそそくさとお暇しようという状況だった。そのまま彼らが大人しく帰ることになれば、何事もなかったのだ。なのに、それはどこから狂ってきたのだろう…。ペネロペがアランとナンシー夫妻に、「お宅の息子さんに反省を…」ってなことをチクリチクリと言っていたのがいけなかったのか。マイケルが子供が飼っていたハムスターを「捨てた」ことを自慢げに言ったのがいけなかったのか。それともアランが終始携帯で仕事先と電話していてそのたびに会話が寸断され、そのあこぎな仕事の内容…クスリの副作用暴露のモミ消し…が一同にあからさまに聞こえていたのがいけなかったのか。この二組の夫婦…4人の大人たちは、いつの間にかお互いのエゴをむき出しにして、罵り、皮肉り、反目し、連帯し、泣きわめき、開き直り、ゲロを吐き、呆然と座り込むのだった…。

みたあと

 こんな程度のストーリー紹介かと思われても、こう書くしか仕方がない。これ以外でやろうとすれば、結局そのまま脚本を引用して書くしかない。たぶんそうだろうとは思っていたが、原作は舞台劇。元々の台本が相当面白いんだろうとは思う。注目すべきは上映時間が1時間半を切っていることで、そのせいもあって引き締まった面白さ。昨今のダラダラ長いだけの映画とは、ひと味もふた味も違うのだ。さらに興味深いのが、劇の流れに時間の省略がないこと。普通、映画というのはどこかをカットして時間をつまみ、冗長さがないように作るものだ。ところがこの映画はイントロとエンディングに入っている公園の子供たちの描写を除いて、舞台がジョディ・フォスターとジョン・C・ライリーの夫婦の家の中になってからは、まったく描写の中に省略がない。映画の中の時間の進行が、そのままドラマの中の時間の進行のようになっている。これはなかなかありそうでない手法だ。

!!!映画を見てから読んで!!!

みどころ

 普通はこのようにまったく省略なしでドラマを作ろうとすると、どこかダラダラとしてしまうもの。しかしこの映画では緊迫感は一瞬たりとも衰えない。それどころか、最初は円満だった4人の関係が、時間の進行によってちょっとずつヒリヒリしたものになっていく。そしてついに力の均衡が破られてからは、4人の感情の吐露はどんどんエスカレートする一方になってしまうのだ。それと同時に、彼らの中で攻守が常に逆転また逆転。連携し合うようになったり反目し合うようになったりするし、その相手もその都度めまぐるしく変わる。夫婦の場合なら、日頃言えなかった不満まで噴出してしまう。…このへんは見る前から予想していたことでもあるし、実際に僕がこのように書いてもちっとも面白そうではないだろうが、実はホントに本当に面白いのだ。この面白さを文にして書けないのがもどかしい。絶対つまんなそうだよな、この感想文を読んでも(笑)。つまらない映画をコキ下ろすのは簡単だが、面白い映画を面白いとホメるのはことほどさように難しい。これは本当に見てもらうしかないのだ。いろんな人がこの映画についてアレコレ書いているだろうが、僕もそれらの人々とそんなに違ったことは書けない。「面白い」としか言いようがない。いくつか気づいたことを挙げるとしたら、ケイト・ウィンスレットのゲロ(笑)が素晴らしい映画のサプライズとして機能していることとか、ジョディー・フォスターその人が「フライトプラン」(2005)などでもチラつかせていた独善性が、ここでも遺憾なく発揮されていることぐらいだろうか。彼女はポランスキーにオチョくられているとしか思えない(笑)。それはともかく…観客を一瞬たりとも退屈させないあたりは、「ゴーストライター」にも通じるポランスキー一流の話術の確かさだと思えるのだ。

おまけ

 この映画を見ていて、4人の主人公たちに「自分」を見てしまう…ってな感想も、正直言ってそこら中に出回っている月並みなモノなんだろう。当初は理性的に冷静に対処しようとしている彼らだが、ちょっとした「ささくれ」みたいな事から感情がこじれて、どんどん収拾が付かなくなる。そこで暴かれていくのは、人間が普段心の中に抱いているエゴであり、他者への感情であり、自分なりの「常識」や「良識」であり、いつもは我慢している本当の本音だ。確かにこれは、僕もいつも思っていることだ。例えば「普通はこうじゃないか?」「普通はこうだよね」…などと人はよく言うが、実はこれらの「普通」は人によって微妙に…時にはまったく違ったりする。「常識」は人の数だけ存在する。以前、僕の知り合いが結婚する際に、「嫁さんとは価値観が同じ」などと言っていたが、そりゃあナンセンスだろう。生まれも育ちも違う、まして女と価値観が同じ訳などないのである。絶対にあり得ない。そんな何から何まで微妙に合わない人間同士がやっていかなきゃならないのは、そりゃあシンドいわな。だから僕は宴会などに出るのがイヤだ。酒の勢いでそんな本音がチラチラ見え隠れし始め、それに気づいてハラハラしたりイヤな気分になるのが耐えられないのである。というか、人間の集団の中にいるのは疲れてイヤだ。他人ってのは、どこまでいってもやっぱり他人でしかないのである。人間はどうしたって分かり合えないものなのだ。そんな事がまたまた思い出されて、映画を見て大笑いしながらも、見た後どんよりしてしまったのも事実。おそらくロマン・ポランスキーも、人間なんてこれっぽっちも信じていないのだろう。そんなポランスキーに、僕は深く共感せざるを得ない。

さいごのひとこと

 気が合う相手は自分だけ。

 

「カエル少年失踪殺人事件」

 Children....

Date:2012 / 04 /02

みるまえ

 この映画のチラシを見た時、僕はそのタイトルに一気に釘付けにされた。「カエル少年失踪殺人事件」。もの凄いタイトルである。そういえばここのところ、奇妙なタイトルの韓国映画がごくごくマイナーに公開されてて、僕の興味をひどく惹いていたのだった。例えば「エイリアン・ビキニの侵略」(2010)だとか「人喰猪、公民館襲撃す」(2009)などのトンデモ感漂う作品群が、なぜかチョコチョコと人の目を盗むかのように公開されていたのである。ところが残念なことに…そういう妙な映画が三度のメシより好きなこの僕は、ことごとくこれらの映画をスルーしてしまった。というより、この手の映画は逃げ足が早く、気づいた時には公開が終わっていたというのがいつものことだったのだ。そこにやって来た「カエル少年失踪殺人事件」。これは見なければならぬ…と必死にチラシを手に取ったわけだ。するとこの妙なタイトルとは裏腹に、作品そのものはシリアスなものらしいと知ってビックリ。何でも、実際にあった子供たちの失踪事件を題材に作られた作品というではないか。「カエル少年」なんてタイトルがユニーク…って思っていたが、失踪した少年たちが「カエルを取りに行く」と言い残していたからだそうで、それがそのまま通り名になっちゃっているようなのだ。ともかくいまだに真相が明らかではない怪事件だそうな。だとすると、今度はこっちが期待するモノがガラッと変わってくる。ナゾめいた集団失踪事件を描いた映画なら、オーストラリアのピーター・ウェアー監督による「ピクニックatハンギングロック」(1975)がある。これも僕は大好きだったから、今回だって大期待だ。おまけに韓国の実話事件モノと来れば、あの傑作「殺人の追憶」(2003)が思い出されるではないか。実際の事件が迷宮入りという点でも、「殺人の追憶」と共通する感じだ。これは面白そうな予感がする。その一方でこの映画の公開がやけにショボくこぢんまりと行われるあたりで、「殺人の追憶」ほどの出来映えでないことも何となく予想できた。しかし、それならそれでいい。この映画の周辺に漂うイヤ〜な感じ…僕がよく言う「田舎の便所」のようなどんより感を味わえれば、僕としてはお釣りが来る。僕は昔から、韓国映画によく見られるどんよりした映画、イヤ〜な感じの映画を好んでいたのだ。みんなはバカにしていたが、「カル」(1999)なんて作品だって喜んで見た。前述の「殺人の追憶」だって、出来映えはリッパだったがそんな「田舎の便所」風味だってたっぷりあった。一昨年の「黒く濁る村」(2010)は結果的に残念な出来映えだったが、前半部分では確かにそのイヤな感じだけは味わえた。韓国映画の猟奇殺人などをテーマにした作品は、独特のヌメッとしたイヤな感じがして見ずにはいられなかったのだ。本来、韓国映画の魅力はイケメンが出てくる甘ったるい映画などではなく、こういう作品だったはずではないか。こういう作品だったら仮に駄作だとしても僕は許せる。そんなわけで、何と公開初日に映画館にやって来たわけだ。

ないよう

 赤い布をスーパーマンのマントのように羽織って、田舎道を駆けていく男の子。時は1991年3月26日、ここはテグ市近郊の田舎町。大人の世界は統一地方選の投票日で沸き立っていたが、子供たちはそんな事どうでもいい。赤い布を背負っていた少年とその友だちの男の子、合計5人が山まで歩き始めたのは、その日の朝のことだった。その頃、例の赤いマントの子ジョンホの母親(キム・ヨジン)は、突然、胸に刺すような痛みを感じる。それは何かの予感だったのだろうか。山に向かった子供たち5人は、そのまま家に戻って来なかった…。もっとも最初5人の失踪は、マトモに「事件」としては取り上げてもらえなかった。5人の両親たちが警察署に訴え出ても、刑事たちは選挙違反の取締などに多忙で構ってくれなかったのだ。結局、いつまでも子供たちが戻って来なかったため、人海戦術とヘリコプターまで動員しての山狩りとなったが効果なし。どんなに探しても5人の姿はおろか、わずかな手がかりも見つけることはできなかった。諦め切れぬ親たちはビラを作ってあちこちに配るが、世間の反応はますます鈍くなっていく。しまいには占い師にまで頼ってみるが、当然それらはすべて徒労に帰した。そんな事件の余韻もすっかり冷め切った1996年のこと。ソウルでは大手テレビ局MBSの腕利きプロデューサーが、華やかな栄光を手に入れていた。彼の名はカン・ジスン(パク・ヨンウ)。彼は感動的なシカのドキュメンタリー番組を製作して、権威ある賞を受賞したのだ。しかし喜びもつかの間、このシカの番組はとんでもないヤラセだとバレて、カン・ジスンはテグの支局へと左遷されてしまうハメになる。しかしカン・ジスン本人としては、地味なドキュメンタリーを面白くしてやったのにと不満しかなかった。そんなカン・ジスンはテグの支局へとやって来て早々、上司のアン部長の取材に顔を出すことになる。それが、例の5人少年失踪事件の捜査現場だった。何と新たな目撃証言が出て、湖の底に5人が沈んでいるというのだ。湖の水をポンプで干しながら、ダイバーが潜っての大がかりな捜査。しかし、その結果は空しかった。その取材終了後にスタッフたちとメシを食いながら、ついついいつもの調子で「そもそもそんな前の事件なんてドラマティックでも何でもない」などと軽口を叩いてしまうカン・ジスン。そんなカン・ジスンに、アン部長は激しい怒りの言葉をぶつけるのだった。「オマエはあの親たちの前で同じことが言えるのか!」…そんなやりとりが刺激となったのか、ある日、カン・ジスンは、会社のビデオ・アーカイブで資料を探していて、ふと5人少年失踪事件の資料映像を見つける。ほんの好奇心からそれらを見始めたカン・ジスンだが、ある大学教授へのインタビューが彼の目に留まった。その教授の名前はファン・ウヒョク(リュ・スンリョン)。カン・ジスンは、早速ファン教授を訪ねて大学へと乗り込む。ファン教授はこの事件が統一地方選の当日に起きたことを重要視していた。当時、事件が起きた地方の選挙戦は混迷しており、ほんの数票の差でも選挙結果を左右する状況だった。そこで教授は少年たちの失踪事件を起こして、両親をはじめ関係者たちが投票に行けなくしようとしたのではないか…と推理していた。さらに教授は、もっと突っ込んだ推理を展開。犯人は少年たちの身近な存在であり…ひょっとすると両親だったかもしれないとさえ言い出したのだ。とんでもない仮説に勢い込むカン・ジスンに、最初こそ慎重だったファン教授もどんどん熱っぽく語り出す。5人の少年が出かけたのは朝8時頃。ところが午前中には、早くもジョンホの母親が子供を探しに出かけたというではないか。いくら何でも早すぎやしないか? しかもファン教授は、とっておきの資料を持ち出してきた。何と事件発生から2か月後、ジョンホから自宅に電話がかかってきたというのだ。しかし、その録音テープがクセモノだ。「母ちゃ〜ん」「ジョンホなの?」…しかし、それから延々と沈黙が続く。もしこれが実の息子の声だというなら、あまりに冷静すぎやしないか? しかも逆探知できるスイッチがあったというのに、彼女はたまたまこれを押し忘れていたという。ますます怪しい…。これに確信を得たカン・ジスンは、捜査担当のパク・ギョンシク刑事(ソン・ドンイル)にこの話をじかにぶつけてみる。最初は相手にしなかったパク刑事だが、カン・ジスンに何度もしつこく訪ねて来られるうちに、徐々にその仮説を無視できなくなってくる。ファン教授も「その気」になって来て、ついにカン・ジスンと二人でジョンホの家を訪問。ジョンホの父(ソン・ジル)と母と初めて対面する。だが母親はただただ呆然。父親が二人にジョンホのアルバムを見せようと席を立った時、ボケたジョンホの祖母がえらい剣幕で二人に何かを訴えようとしているではないか。一体祖母は何を言おうとしているのか? さらにファン教授が家の中をチラ見していると、最近使ったセメントの袋を発見。さらにさらに…ファン教授が最後に家のトイレを借りると、ジョンホの父親は慌てたようにトイレまでついてくるではないか。これでファン教授はすっかり確信を深め、子供たちの遺体はこの家のどこかにあると断言した。そうくれば、カン・ジスンももう指をくわえて待ってはいられない。何かデカい手みやげを持って、早く本社に返り咲きたいと思っていたのだ。こうしてついに警察まで巻き込んでの大捜索が開始。ジョンホの家の周りには警察、報道陣、野次馬がごった返した。もちろん捜査の指揮はパク刑事。その手はずの指導はファン教授。その一挙手一投足を、カン・ジスン率いるテレビ・クルーが固唾を飲んで見守るという構図だ。警察のスタッフは最近セメントを張り直した土間を壊すとともに、トイレの中身をバキュームカーで汲み取り始める。こうしてもの凄い熱気の中を家宅捜索は進んでいくが…結局何も出てこない。焦り狂ったファン教授はフラフラ出てきた祖母に救いを求めるが、この老婆はすでにボケていて、誰に対しても例の不審な態度を見せるのだった。大山鳴動ネズミ一匹。大騒ぎして被害者家族を「犯人」扱いしたあげく、結局は何も出なかった。これでは集まって来た群衆や、被害者家族は黙っていられない。人々の激しい罵声の中、ファン教授はがく然とした表情でクルマで立ち去るしかなかった。当然、カン・ジスンも失意の中で辞表を書くことになる。そんなカン・ジスンのもとにファン教授から電話がかかってくるが、またまた「ジョンホの父親が遺体を埋め直した」…という仮説を熱に浮かされるようにわめくばかり。さすがにカン・ジスンも、もう相手にする気がなくなった…。それから月日が流れて2001年、ジョンホの父はガンで亡くなってしまう。さらにその翌年の2002年9月、テグ市一帯が激しい台風に襲われた。それから数日経ったある日のこと、たまたま付近の山を散策中の二人の男が、5人の少年のものと思われる白骨を発見したではないか!

みたあと

 やっぱりこういう題材の韓国映画を見ると、あの傑作「殺人の追憶」のことが脳裏をよぎる。しかしこれはこれで、なかなかいい味出してるサスペンス映画ではある。調べてみると、実際の「カエル少年」事件もかなり奇々怪々な事件なようで、この映画に出てくるように被害者の両親が犯人に疑われたこともあるようだ。発生当時には国中が大騒ぎになったようで、歌になったり映画になったりもしたらしい。つまり今回の作品は、「カエル少年」の映画化第2弾ということになる。結局、犯人が捕まらないまま時効を迎え、すべてはナゾのままというのも映画の通り。何でも乱れ飛んだウワサの中には近くにあった軍の射撃場で誤射され、証拠隠滅のために殺されて埋められた…という信じられないものもあるらしいが、ついこの前まで独裁政権が牛耳っていたこの国なら、まったくないとは言い切れないところがまた怖い。この国の歴史には闇の部分が多いから、こういう映画の怖さもハンパないのだ。そういえば今回の作品に限らず、韓国映画では警察が無能だったりムチャクチャだったりという設定がやたら多い。日本の警察もいろいろ不祥事が発覚していたりするが、映画などでまず最初から「無能」と決めつけられることはあるまい。このあたりもこういう映画の怖さに、かなりリアリティを増している部分ではあるのだろう。向こうの人にとってはあまり嬉しいことではないだろうが。

!!!映画を見てから読んで!!!

みどころ

 先ほど「殺人の追憶」を引き合いに出したが、この作品も前半部分では結構いいセンいっている。前半ではこの作品の最初のヤマとして、一発当てたいテレビマンと野心満々の大学教授が、被害者の両親を疑っての犯人捜査のくだりが描かれる。これが、実話だと知るとゾッとするほどの怖さがある。それは犯人に陥れられた気の毒な男にとっての怖さ…ではなく、言い出した手前どんどんエスカレートして引っ込みがつかなくなったテレビマンや大学教授にとっての怖さ…だ。というか、一旦思いこみ出したらどんどん止まらなくなってしまう怖さ…と言うべきだろうか。こう言っちゃなんだが、犯人に疑われた両親は確かに怪しさ満点なのだ。しかも、教授一人でそう思っていたところに賛同者まで現れ、勢いに拍車がかかってしまう。テレビマンには「ここで一発大逆転」の悲願までかかっているから、もう冷静には見れなくなっている。人間ってのはどうしたって自分に都合良くしか物事が見れないから、どんどん後戻りできないところまで突き進んでしまうのだ。ところが警察・マスコミ・野次馬に被害者家族たちまで押し掛けた中で、それらがすべて間違いだったとハッキリする場面は…これは当事者だったらたまらんだろうなって迫力がある。教授だってそれまで築いた地位や名声もあっただろうに、社会的ステータスが一瞬にしてパーだ。この教授は後半の遺体発見のくだりにも出て来るが、この期に及んでも「両親犯人説」に取り憑かれている様子が描かれている。僕は破滅に向かって突っ走る人物に興味があるし変な思い込みで大失敗したこともあるから、この教授の人物像がすごく印象に残った。そんなわけでこの映画の前半部分は、圧倒的な迫力で引き込まれてしまうのだ。

こうすれば

 しかし残念ながら、この映画は中盤から調子を崩す。実話がどれくらいでフィクションがどれくらいか分からないのでハッキリとは言えないが、映画は中盤以降、かなりの比率でフィクションが多くなってくるらしいのだ。例のテレビマンは完全に懲りて野心も捨てたようだが、今度は被害者家族たちへの贖罪の意味で事件に興味を抱く。被害者の白骨が発見されて他殺と断定されながら、犯人像はいつまで経ってもハッキリしない。それに業を煮やしたテレビマンは、担当刑事のバックアップを得ながら自ら単独で事件を追い始めるのだ。そもそもそんな重要な情報を警察が部外者に流すのか…という気もするし、例え贖罪の意味ではあっても、テレビマンがまたまた暴走して「捜査」を始めてしまうのはいかがなものか。正式な捜査権もなければ確実な証拠もない。それで犯人を決めつけるのでは、結局最初に間違えた人を犯人に仕立て上げたのとどこが違うのか。劇中では家宅不法侵入まで犯してしまうのだ。失敗の反省がまったく活かされていないように見えてしまう。仮にテレビマンが突き止めたのが真犯人だとして、まったくの無為無策で突撃していったって何になるのだ。仮に真犯人にブチ殺されても、文句も言えないだろう。実際に、この時点ですでに自分の家族が危険にさらされているのだ。このあたりのテレビマンの愚かさに、見ていてかなりイライラさせられる。それより何より、ある「特定の職業」の人を「真犯人」としてしまう、この映画の作り手のスタンスはどうなっているのか。その「真犯人」像には確信があるのか。これでは映画の監督や脚本家など作り手側も、映画前半のテレビマンや大学教授と同じことをやっていることにならないか。正直言って後半にフィクションをかなり混ぜてしまった結果、映画全体の信憑性や誠実さが疑われる結果となってしまった。前半の調子さえ崩れなければ、エンディングの被害者の母親の告白なども感慨深くて、味わい深い作品になっただろうに…イ・ギュマン監督は途中までイイ味出していただけに、とても残念だ。

さいごのひとこと

 ど根性ガエルのひろしのことかと思った。

 

「昼下がり、ローマの恋」

 Manuale d'amore 3 (Manuale d'am3re/The Ages of Love)

Date:2012 / 04 / 02

みるまえ

 この映画のチラシを見かけた時は、正直言ってどんな映画かよく分かっていなかった。どうやらイタリア映画らしく、恋愛コメディのようだ。それだけなら、ほぼ素通り間違いなしのところだったが…何とロバート・デニーロ主演だというではないか。それを見るや、僕は思わず「おおっ」とチラシを手に取った。正直言ってロバート・デニーロの主演といううたい文句に、かつてのありがたみはもはやない。マーティン・スコセッシと切れてからの近年の彼は、どっちかというとつまんない映画にバンバン出てる感じ。アル・パチーノと共演ということで、本来ならプレミアム感満載なはずの「ボーダー」(2008)が残念な結果に終わったのを見ても、最近のデニーロは「上がり」のイメージが強い。しかしそんな彼がイタリア映画に初出演と来れば、また話は別だ。監督はというと…「ジョヴァンニ・ヴェロネージ監督作品」とかドヤ顔で書いてあるが、そもそも誰なんだよジョヴァンニ・ヴェロネージ。ただデニーロの共演者がモニカ・ベルッチというのは、これまた「オトク感」がある。最近、あまりイタリア映画を見る機会もないので、ここらへんでちょっと見ておきたいところだ。内容なんてまったく分からないものの、この作品にはちょっと期待しながら劇場へと駆けつけた次第。

ないよう

 「恋はままならぬもの」と聞いたふうな偉そうなことを語っているのは、若いタクシーの運ちゃんに扮して人間たちを日々見守っているキューピッド(ヴィットリオ・エマヌエーレ・プロピツィオ)。今日も今日とてこのキューピッドの引き絞った弓から、さまざまな恋の矢が放たれる…。

<青年の恋> 新米弁護士ロベルト(リッカルド・スカマルチョ)は、間近に迫る恋人サラ(ヴァレリア・ソラリーノ)との結婚を前に、新居となるアパートで準備に余念がない。これからの二人の明るい前途にまったく疑いを持たないロベルトは、自分が勤める法律事務所から新たな仕事を命じられる。それはトスカーナ地方の小さな島で、ゴルフ場開発にたった一軒立ち退かずに頑張る農家の説得だ。大した難事でもないとタカをくくって出かけたロベルトは、しかしこの農家の連中がなかなか一筋縄でいかないことを思い知らされる。仕方なく島の小さなホテルに投宿したロベルトは、夜、メシを食いながら村の男たちがくだらない賭けをしているのを耳にする。それはクルマと人間が同時にスタートして、それぞれ反対周りで島を回ったら、どちらが先に島の正反対の地点に到着するか…というもの。そんな時、ロベルトが自分の脚で走る「人間」役を思わず買って出てしまったのは、果たして酒の勢いか、それとも旅先の気楽さからだろうか。結果はクルマと人間ほぼ同着で、ヘトヘトになったロベルトに村の男たちはやんやの喝采。ロベルトは地元に一気に溶け込んでしまった。そしてクルマを運転していた美女ミコル(ラウラ・キアッティ)。農家との交渉は難航し、滞在はズルズルと延びる。ロベルトは毎日ネット電話でサラとやりとりするが、滞在が長くなればなるほど村の人々と親しくなり、例の美女ミコルとも深い仲に…。

<中年の恋> テレビの人気キャスターであるファビオ(カルロ・ヴェルドーネ)は娘とパーティーに出席するが、娘は先に帰ってしまった。しかもある女のおかげでプールに落ちるハメになり散々。ところが一緒にプールに落ちたこの女エリアナ(ドナテッラ・フィノッキアーロ)と一緒に帰ることになり、ついつい親しくなってしまう。何のことはない、この女に誘惑されたのだ。夫の不在の隙を見計らって自分のアパートに来いと言われ、いそいそと出かけてしまうファビオ。何だかんだともったいつけられながらも、いい歳こいてデレデレな振る舞いに出て情事を楽しんでしまう。おまけにこの女にそそのかされてか、「自分らしく生きる!」などとタンカを切って、カツラをとってハゲをさらしてのテレビ出演までしてしまうアリサマだ。ところが付き合っている間に、エリアナの正体が見え隠れしてくる。何と彼女には夫などいないどころか、精神科に通うストーカーの常習者だというではないか…。

<熟年の恋> アメリカからここローマにやって来て住み着いた元大学教授のエイドリアン(ロバート・デニーロ)は、自分が住むアパートの管理人アウグスト(ミケーレ・プラチド)と親しくなり、毎晩のように楽しくやっていた。ただしアウグストはイタリア人らしく「人生享楽派」。今夜も二人の熟女たちを招いて夕食。露骨なエロ話も交えて「その気」十分。むろん熟女たちの方もすっかり「その気」。しかしエイドリアンはそんな気にはなれず、何とか熟女たちにお引き取りいただいた。エイドリアンは何年か前に心臓移植手術をして、そのせいもあって妻とは離婚。それ以来、女も興奮も真っ平御免という主義だった。そんなエイドリアンの平穏な生活がにわかに波立つことになる。それは、アウグストの元に久々に娘のビオラ(モニカ・ベルッチ)が戻ってきたことから始まった。長らくパリで暮らし、羽振りよくやっていたという自慢の娘ビオラ。このビオラをアウグストと一緒に囲んで夕食をとったエイドリアンは、なぜか久々に胸の高鳴りを覚える。ところがその途中、店でビオラに絡んできた男がいた。行きがかり上、ビオラを守るためにその男を殴ってしまうエイドリアンは、自分でも意外な行動に驚いてしまう。そして、どうやらビオラのパリでの暮らしは「訳アリ」なものだったらしいことが分かってくる。翌朝、ビオラにいいところを見せようとガラにもなくジョギングのマネなどをするエイドリアンだが、何とアウグストはビオラがパリでストリッパーをしていたと知って、怒って彼女を家から叩き出してしまった。内心ちょっとガッカリしてしまうエイドリアンだが、そんな彼のアパートの部屋に、行くアテもなく飛び出したビオラが困り果ててやって来るではないか!

みたあと

 いや〜、お恥ずかしい話だが、僕は実際にこの映画を見てみるまで、これがオムニバス映画だとは気づかなかった。変なキューピッドのタクシー運ちゃんが「縁は異なモノ味なモノ」的な前口上を始めたあたりで「あれれ??」…と思って、<青年の恋>と第1話冒頭で画面に出たとたんに「こりゃあ<他の年代の恋>の話もあるってことかも」…と気づき始め、実際に第1話は40分ぐらいで終わって次のエピソードが始まったので「なるほど!」…と納得する始末。しかももっと恥ずかしいことに、僕はこの映画が「イタリア的、恋愛マニュアル」(2005)、「モニカ・ベルッチの恋愛マニュアル」(2007・劇場未公開でビデオ発売のみ)に続くシリーズ第3弾だとはまったく知らなかった。冒頭のタイトルに「なんたらかんたら“3”」と入っていたので、「あれっ?」と思ったくらい。映画を見終わって席を立とうとした時に、近くで見ていたオバチャン軍団がまるで映画評論家みたいに「第2作と比べると…」「シリーズとしては…」云々としたり顔でしゃべっているのを聞いて、初めてこれってシリーズものなんだと分かった次第。いやぁ、オレって映画サイトをやっているくせに情報に疎すぎるわな。それと同時に、自分もちょっとは詳しかった頃には映画ファン仲間とあんなエラソーな会話をしていたのか(笑)と、改めて赤面するやら冷や汗出るやら。思わずわが身を振り返ってしまったよ。お互い気を付けましょう(笑)。そんなわけで僕はこの映画のことを何にも分かっていなかったのだが、「イタリア的、恋愛マニュアル」ってシリーズ化するほど大好評だったのか。しかもハリウッドからデニーロを呼ぶほどの出世ぶり。この一作目を見た人に聞いてみたら、最初からこういうオムニバス・スタイルだったようだ。ヨーロッパのオムニバス映画と言えばイタリアのアルマンド・オルミ、イランのアッバス・キアロスタミ、イギリスのケン・ローチと異色の巨匠が揃った「明日へのチケット」(2005)とか、必ずしもヨーロッパだけじゃないが香港のウォン・カーウァイ、アメリカのスティーブン・ソダーバーグ、イタリアのミケランジェロ・アントニオーニによる「愛の神、エロス」(2004)という作品があった。ちょっと昔に遡ると、イギリスのブライアン・フォーブス、フランスのエドアール・モリナロ、アメリカのジーン・ワイルダー(監督兼主演)、イタリアのディーノ・リージによる「サンデー・ラバーズ」(1980)なんてのもあった。いずれも中のエピソードがすべて面白いという訳にはなかなかいかないが、それなりに気楽に楽しめる作品群ではあったような気がする。そもそも、ヨーロッパ映画ってのはどっちかというと七面倒くさい理屈っぽい話が多いし、娯楽映画となると泥臭くて低レベルな話が多い。しかしオムニバスだとそうそうダラダラ屁理屈こねてる暇はないし、短編だから何らかのオチやヒネリを入れなくてはならない。だからソコソコ楽しめるモノが多いのだろう。それに1つのエピソードがつまらなくても、次があるさ…とサクサク飛ばして見れる楽しみもある(もっとも「愛の神、エロス」の場合にはウォン・カーウァイの第1話が一番面白くて、あとはどんどん下降線。最後のミケランジェロ・アントニオーニによる第3話に至っては何がやりたいのか分からない始末だったが)。今回の作品は3話とも同じジョヴァンニ・ヴェロネージの監督なので作家性を見比べる楽しさはないが、その都度お話変わって登場人物も変わることから見ている者を飽きさせない。これが第3作まで製作するほど面白いかどうかはさておき(それくらい、第1作はとてつもなく面白かったんだろうか?)、最近あまりお目に掛からないヨーロッパ…イタリアの娯楽映画のアベレージを見ることができるという意味で、気楽に楽しめてなかなか結構。特にミニシアター・ブームの頃から現在にかけては、日本ではヨーロッパ映画というとアート系の作品ばかりが公開されて、娯楽映画というとリュック・ベッソン映画ぐらいしか見ることができない状態だ。だからこういう作品は、僕としては貴重なチャンスに思えるのである。

みどころ

 そんなわけでザッと紹介していくと、第1話の新米弁護士が別天地の田舎に出かけていく話は…おそらく発想の原点は、ビル・フォーサイス監督の「ローカル・ヒーロー/夢に生きた男」(1983)にあるんじゃないだろうか。こちらはアメリカの石油会社の敏腕社員が、コンビナート建設準備のためにイギリスの辺鄙な海辺の村に派遣されて、村人たちや村そのものの素朴な魅力に惹き付けられてしまう話。ついでに言うとこの映画は、マイケル・J・フォックスの「ドク・ハリウッド」(1991)の元ネタにもなっているらしい。あるいはリドリー・スコット監督、ラッセル・クロウ主演の「プロヴァンスの贈り物」(2006)的な話とでも言おうか。ジョヴァンニ・ヴェロネージという男、なかなか目の付け所がいいのである。しかもただ「ローカル・ヒーロー」を下敷きにしただけでなく、そこにマリッジ・ブルーを引っかけているあたりがうまいのである。このエピソードは結構気に入った。続く第2話は…実は僕はあんまり面白くなかった。イタリアの大衆コメディの泥臭さが、どうも僕ら日本人にはイマイチ合わないような気がする。それでも最後にストーカー女に証拠品として押さえられていた録画DVDを回収してホッとしたのもつかの間、それを川から放り投げたら航行中の船に落っこちて再びてんやわんや…とダメ押ししてさらにギャグを作ろうという工夫が見られるあたりは評価したい。そうこうしているうちに第3話。問題のデニーロ主演のエピソードである。そもそもバリバリのハリウッドスターがヨーロッパ映画に出るというのは、ギャラ的に考えてもそんなに多いことではない。マレに「アメリカの夜」(1973)のジャクリーン・ビセットとか「愛と哀しみのボレロ」(1981)のジェームズ・カーンが出たりもしているが、それはかなり例外的な事例なのだ(最近のリュック・ベッソン映画はどこまでフランス映画としてのナショナリティーがあるのか分からないから、ちょっとこれらとは別物と考えたい)。だから正直言って…ハリウッドでもかろうじていまだ一線のスターであるデニーロがイタリア映画に出るというのは、ちょっと都落ち的イメージがないわけでもない。ところが不思議とイタリア映画界だけは、かなり昔から一線級のハリウッドスターを招聘しているのである。例を挙げればルキノ・ヴィスコンティ作品「山猫」(1963)や「家族の肖像」(1974)に呼ばれたバート・ランカスター、スペクタクル史劇「ユリシーズ」(1954)やジュリアーノ・ジェンマ共演の「ザ・ビッグマン」(1972)に呼ばれたカーク・ダグラス、ピエトロ・ジェルミ監督の遺作「アルフレード・アルフレード」(1972)に起用されたダスティン・ホフマン、エットーレ・スコラ監督の「マカロニ」(1985)でマルチェロ・マストロヤンニと共演したジャック・レモン、リリアーナ・カヴァーニの「フランチェスコ」(1989)に出た凋落前のミッキー・ローク…などなど。この他にもセルジオ・レオーネ監督のマカロニ・ウエスタンに出たスターたちもいるにはいるが、ここではちょっと趣旨が違うので割愛。ともかく先に挙げたスターたちは、当時決して落ち目だったわけではない。なぜかイタリア映画界は、一線級のハリウッドスターたちを招聘することに躊躇しない伝統があるみたいなのだ。そんなわけで今回登場のデニーロだが、よくよく考えてみればこの人にはベルナルド・ベルトルッチの「1900年」(1976)というイタリア映画出演の前例があったっけ。もっともそれは、デニーロがようやく有名になり始めた頃のことだ。そしてセルジオ・レオーネの「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」(1984)にも出演しているが、これはアメリカ資本も参加したアメリカの話で、純然たるイタリア映画とは言いがたい部分がある。やはり今回のイタリア映画出演は、デニーロとしては異例のものと受けとめるべきだろう。ところが今回のデニーロを見てビックリしたのは、英語をしゃべっての出演ではないこと。セリフの大部分は、この映画の基本言語であるイタリア語なのだ。普通この手のヨーロッパ映画にハリウッドスターが出る場合には、吹き替えか英語を押し通す設定のはず。さすがかつては役作りのために太ったりやせたりしたデニーロと、妙に感心してしまった。お話自体は歳を取っていろいろな経験から冒険心や恋心といった「若さ」を失ってしまった男が、ひょんなことから人生をやり直すお話。どうってことのない話なのだが、デニーロとベルッチという役者を得たおかげか、いい味が出ているのである。逆に、単純でどうってことのない話だからこそ、役者のうま味がハッキリ分かる結果になったとでも言おうか。近年アメリカでロクな映画がなかったデニーロが、久々に活き活きしている。そもそもデニーロにこういう役をやらせようという企画は、ハリウッドでは出ないのではないか。わずか40分程度でサクッと終わるあたりも心地よい。このジョヴァンニ・ヴェロネージという監督、どうってことのない出来映えに見えてどこかに一工夫入れようとするあたり、なかなかの映画巧者ではないか。ちょっと前の作品も見たいと思ってしまった。

さいごのひとこと

 隠し味の入れ方がうまいイタリアン。

 

「ヒューゴの不思議な発明」

 Hugo

Date:2012 / 04 / 02

みるまえ

 今年のオスカー・レースを、問題の「アーティスト」(2011)と競い合った作品。あっちがモノクロ・サイレントと来ればこちらは3Dという、対照的とも言える作品だ。しかも監督は巨匠マーティン・スコセッシ。しかしお話は昔のパリで、主人公は少年。マフィアも出てこなければ銃も麻薬も出てこない。ストーンズの「ギミー・シェルター」も出てこなければ、眉間にシワ寄せたレオナルド・ディカプリオも出てこないとなると、スコセッシ作品としては極めて異色と言わざるを得ない。そもそも少年を主人公にした3D作品なんて、スピルバーグだとかピーター・ジャクソンとかそんな連中が作るなら分かるが、何でスコセッシなんだ? そうは言っても前作「ジョージ・ハリスン/リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド」(2011)ではスコセッシが得意な音楽映画と言いながら、どう見ても接点がなさそうなジョージ・ハリスンを取り上げ、出来上がった映画は「なるほどスコセッシ作品だわい」と思わされる出来映え。これほどクセの強い映画作家スコセッシが、自分の痕跡を作品に残さない訳がない。しかも「らしくない」3Dではあるものの、あの映像スタイリストのスコセッシが使う3Dとなると、やはりただの3Dではないだろう(同じ意味で、僕は早くブライアン・デパーマに3Dを撮ってもらいたいのだが)。そんなこんなで、この作品への興味は尽きなかった。感想を書くのは遅くなったものの、いち早く映画館に駆けつけたのは言うまでもない。

ないよう

 1930年代、雪の降るパリの都。その駅に据え付けられた時計台に、一人の少年が暮らしていた。少年の名前はヒューゴ(エイサ・バターフィールド)。彼は時計台の内側で主に暮らしていて、塀や壁の間を通って駅のいくつもの大時計を操作している。彼の「管理」なしには、駅のいくつもの大時計は止まってしまうのだ。牛乳やパンを駅のカフェーからこっそり拝借しながら、ヒューゴは駅の中で展開するいくつもの人間模様を観察していた。ヒューゴのように駅にウロウロする浮浪児をとっ捕まえて、孤児院へと容赦なく送り込む鉄道公安官

(サシャ・バロン・コーエン)。彼は戦争で片足を失い、義足で公安官としての勤めを果たしていた。そんな彼がひそかに想いを寄せているのが、駅構内で花屋を開いているリゼット(エミリー・モーティマー)。しかし二人はとてもシャイな上に、公安官は自分の義足にコンプレックスを抱いているため、二人の仲は進まない。駅の中にはシャイなカップルがもう一組。それぞれ犬を連れたムッシュ・フリック(リチャード・グリフィス)とマダム・エミール(フランシス・デ・ラ・トゥーア)だ。そしてヒューゴは、自らの駅の隠れ家にとっておきの宝物を隠していた。それは、全身が金属でできた「機械人形」。手にペンを握りしめ、今にも何かを書き記しそうな様子の人形だ。さて、ヒューゴは駅内の小さな玩具店に目を留める。そこには、小さな機械仕掛けのネズミやさまざまな部品があった。ヒューゴは時計台内の自分の「砦」から降りてくると、こっそりこれらの獲物を持ち逃げしようとする。しかし、今回は玩具店主(ベン・キングズレー)の方が一枚も二枚も上手だった。ヒューゴは捕まってさまざまな部品を取り戻されるばかりでなく、ポケットに入れていた一冊の手帳も奪われてしまった。ところがこの玩具店主、ヒューゴから取り上げた手帳を一瞥すると表情を変えた。そこには例の機械人形のさまざまな図解が描かれていたのだが、それが玩具店主の態度を硬化させたらしいのだ。ヒューゴが手帳を返してと言っても頑として聞かない。逆に、鉄道公安官に突き出すぞと脅かされる始末だ。しかしヒューゴも後には退けない。この手帳は特別で大事な手帳なのだ。夜になると、玩具店主は店じまいして駅を去っていったが、ヒューゴはその後をピッタリついていく。しかし玩具店主も、ヒューゴに優しい態度はまったく見せなかった。結局、玩具店主は家に入ってしまうが、ヒューゴには手帳を取り戻す手だてがない。そこに現れたのが、玩具店主の養女イザベル(クロエ・グレース・モレッツ)。ヒューゴの様子に関心を抱いたイザベルは、協力するので今日のところは一旦帰るように…とヒューゴに告げる。そんなヒューゴは、なぜこんな境遇になったのか…。かつてヒューゴは、母親を亡くしてから時計修理職人の父親(ジュード・ロウ)と二人で暮らしていた。父親はヒューゴに機械いじりの楽しさを教え、さまざまなトリックやファンタジーに溢れた映画の楽しさを教えた。特にお気に入りは、月の目玉に地球から発射した砲弾が命中するという、ジョルジュ・メリエスの「月世界旅行」(1902)だ。そんな父親は博物館の所蔵品の補修も行っていおり、ある日、博物館に眠っている壊れた機械人形を持ってくる。精巧なからくりで出来たこの機械人形は、さすがの父にとっても手強いようだ。特に父親が指摘したのが、人形の胸に作られたハート型の鍵穴。ここにどんな鍵が入ってどのように働くのかが分からない。こうして、いつかこの機械人形を直して動かしたいというのが、父と子の共通の夢となっていった。例の手帳は、父親が機械人形の秘密を書き記したものだったのだ。ところがある晩、博物館で火災が発生。夜まで根を詰めて働いていた父親は、火事に巻き込まれて命を落とした。こうして孤児となってしまったヒューゴは、唯一の身内であるクロード伯父さん(レイ・ウィンストン)に引き取られる。そのクロード伯父さんがヒューゴを連れてきたのが、この駅の時計台だったのだ。クロード伯父さんはアルコール中毒の時計修理工で、駅のいくつもの大時計の修理や管理が仕事だった。だが飲んだくれて怠けたいクロード伯父さんは、ヒューゴにこれらの仕事を押しつけてどこかへ行ってしまった。かくしてヒューゴはこの駅の時計台の中で、時計の管理をしながら暮らしていたのである…。さて、翌日も玩具店の前にやって来たヒューゴは、またしても玩具店主と対峙。どうしても手帳を諦めないヒューゴに、玩具店主はひとつの課題を与える。それは壊れた機械仕掛けのネズミを修理することだった。玩具店主の目の前で、アッという間にネズミを分解修理するヒューゴ。こうして腕を見込まれたヒューゴは、玩具店主の店で一緒に働くことになる。その一方で、例のイザベルとも仲良くなっていくヒューゴ。玩具店主から映画を見ることを厳しく禁じられていると聞くや、彼女を連れて映画館へと忍び込んだりする。こうしてすっかりイザベルと親しくなったヒューゴは、彼女を自分の「砦」へと連れて行く。そこには、ほとんど修理が終わった機械人形が待っていた…。

みたあと

 子供が主人公のファンタジー小説の映画化。おまけに3D。舞台は1930年代のパリ。…と、まぁ、およそマーティン・スコセッシ映画らしくない要素のオンパレード。僕も何となく「どういう風の吹き回しなんだ」と思いながら見始めたが、いざ見てみるとビックリ。冒頭の空撮風のパリの風景からして、メチャクチャにパースペクティブが効いた3D映像。とにかく全編にわたって画面の奥行きがスゴイ。凡百の3D映画のように、取って付けたように何かが飛び出してくるような場面は皆無。画面の遠近感や厚みの表現が素晴らしいのだ。正直言ってこんなに3D効果が活かされた映画は、元祖「アバター」(2009)、「トランスフォーマー/ダークサイド・ムーン」(2011)、そして「サンクタム」(2010)と今回の作品ぐらいじゃないだろうか。それくらい、この映画の3D効果はもの凄い。そして「3Dならでは」の表現になっている。さすが、「レイジングブル」(1980)ではわざわざモノクロで映画を作るなど、映像のスタイリストとして定評あるスコセッシだけのことはある! 申し訳ないけど、オスカーをとった「ディパーテッド」(2006)なんかよりこっちの方がずっと僕は気に入った。それでもこの題材とスコセッシとのギャップに戸惑いながら見ていくと…何だか主人公の少年は親父の死がトラウマになってコミュニケーション不全とか。またぞろ「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」(2011)の主人公みたいな困ったちゃんの少年かよ…と、映画が始まってすぐなのに少々ウンザリ。ところが玩具屋のおっかないオッサンが出てきてから、お話はあらぬ方向へ行くではないか。

!!!映画を見てから読んで!!!

みどころ

 いやぁ、驚いた! この映画って初期のトリック映画の巨匠ジョルジュ・メリエス(ベン・キングズレー)についての映画じゃないか! 映画創生期にファンタジー映画の数々を作り上げた、伝説の巨匠である。永遠の映画マニアであるスコセッシは、まさにこれをやりたかったのか。メリエスの映画撮影現場の再現場面も…小さい画面のモノクロ平面で見ていたファンタジー場面を、新たに大画面カラー3Dで見せられるから感慨もひとしお。メリエスのスタジオの場面そのものが、ひとつのファンタジーに見えてくる。これは本当に素晴らしい。そして劇中にメリエスの映画を研究し、そのフィルムを探している男が登場してくるくだりは、まさにスコセッシの「映画愛」が爆発。スコセッシと来れば、映画100年記念で「アメリカ映画の歴史」みたいなフィルムを作った時に、新旧アメリカ映画についてご機嫌で語り尽くしていたほどの映画研究家だ。カラー・フィルムの退色問題でもかなり積極的に活動して、それに対する問題提起の意味で「レイジングブル」をモノクロで撮影したくらい。ここに出てくる映画研究家の男は、完全にスコセッシ自身を仮託したキャラクターではないか。そんなわけで、スコセッシの映画マニアらしい趣向が全開なところが見どころな本作だが、もうひとつの見どころは「駅」。それも主人公少年が普段隠れている駅の「裏側」だ。隠れた通路や小部屋、さまざまな機械室などのセットが、見ている僕らの「男の子」心を刺激する。まだ大味化する前の初期のリュック・ベッソン出世作「サブウェイ」(1984)における地下鉄構内みたいに、子供の頃に「秘密基地」を作ったような人なら間違いなくグッと来る趣向なのだ。これをわざわざ3Dで撮影したスコセッシは、「分かってる」としか言いようがない。機械人形のワクワク感といい、マニアックな楽しさに溢れているところがスコセッシらしさなのだ。

さいごのひとこと

 久々に眉間にシワのない主人公でよかった。

 

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