新作映画1000本ノック 2012年3月

Knocking on Movie Heven's Door


このページの作品

「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」 「ペントハウス」 「ダーク・フェアリー」 「運命の子」

 

「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」

 Extremely Loud & Incredibly Close

Date:2012 / 03 /19

みるまえ

 トム・ハンクスとサンドラ・ブロックの初共演…と言えば華やかな感じもするが、さにあらず。この作品、この二人がトップ・ビリングで名前が挙がっているものの、実は二人とも脇役だ。僕は知らなかったのだが、これは「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」というケッタイなタイトルの小説の映画化。その小説はいわゆるあの「9・11」に関する作品で、主人公は少年だとか。…そんな類の情報が、断片的に僕の耳に入って来ていた。あの日、父親を失った少年が、その父親の残した「痕跡」を必死に辿るお話。それをかなりの豪華キャストで映画化している…。正直言って僕は、これは微妙だなと思わざるを得なかった。なぜならこういう題材を扱った作品は、ホメないといけない雰囲気が漂っている。実際、みなさん絶賛されているようだ。しかし、それが万人に同じように受け止められるものでもあるまい。僕は元来アマノジャクだから、こういう作品が出てくると警戒してしまうのだ。そうは言っても監督は「リトル・ダンサー」(2000)、「めぐりあう時間たち」(2002)、「愛を読むひと」(2008)と秀作揃いのスティーブン・ダルドリー。まさか、そうハズすわけもあるまい。おまけにあの名優マックス・フォン・シドーが、本作でオスカーにノミネートしていた。というわけで、僕はいろいろ用心しながらも劇場へと向かったわけだ。

ないよう

 11歳の少年オスカー(トーマス・ホーン)は父親トーマス・シェル(トム・ハンクス)と仲良しだ。いつも一緒に何かを調べて楽しんでいる。宝石商である父親トーマスは彼に次々と課題を与え、オスカーはそれを次々解いていく。そんな父の「調査探検ゲーム」に、オスカーはワクワクして取り組んでいた。例えば今取り組んでいる「調査探検」は、かつてニューヨークにあった6つ目の区について、その存在を証明せよ…というもの。トーマスはちょっとだけヒントはくれるが、なかなか難題だ。そんな二人を傍らで微笑みながら見つめる母のリンダ(サンドラ・ブロック)。この父子の絆は特別だった。それというのも、オスカーはちょっとばっかり社会に対して「免疫」が少ない。だから父親が彼の背中を押しつつ、いろんなことを遊びながら学ばせていたのだった。ところが、あの「最悪の日」がやって来た。2001年9月11日、街は騒然としていたけれど、オスカーはいつものように家に戻ってきた。そこにかかってきたのだ、父親からの電話が…。結局、父親トーマスは二度と帰ってこなかった。葬儀が執り行われたが、オスカーは墓地に停めたクルマから一歩も出ることはなかった。そもそも、空っぽの棺を埋葬するなんてバカげてる。そんなバカげた葬儀に参列した母にも腹が立った。その後も沈んでいる母にも「、ますます腹が立った。だからオスカーは、ほとんど母親を無視するような態度に出ていた。そんなある日、オスカーは押入をいじっているうちに、ウッカリ花瓶を落として割ってしまった。すると、その中から「ブラック」と書かれた封筒が出てきた。さらにその封筒には、1本の小さな鍵が入っていたではないか。これは父親トーマスからのメッセージだ…とオスカーは思った。あの日を境に消えてしまった父が、彼に残した最後の「調査探検」に違いない。そう確信したオスカーはマンションのドアマンであるスタン(ジョン・グッドマン)から電話帳をもらって、ニューヨーク中の「ブラック」姓の家を探し出す。そして、これら一人ひとりを訪ねて、鍵が何であるかを見つける「探検」を始めることにした。むろん、オスカーは決して外に出て人と会ったりすることを得意とはしていない。しかし、これは父トーマスから与えられた課題なのだ。持参したタンバリンを振って気持ちを奮い立たせながら、彼は「探検」の第一歩を歩み出す。まず訪れたアパートでは、アビー・ブラック(ヴィオラ・デイヴィス)という女性が出てきた。事情が事情なところへ何か取り込んでいるようで、アビーはオスカーを歓迎してはくれていなかったが、オスカーは何とかアパートに入り込む。どうやらアビーは誰かと言い争いしているようで、当惑して涙ぐんでいた。結局、鍵はアビーとは関係なかったが、オスカーは彼女とちょっとした心の交流を果たしたのだった。そんなある夜、オスカーは母リンダと口論となってしまう。自室に逃げ込んだオスカーは、窓から向かいのマンションに目を向ける。向かいのマンションには祖母(ゾー・コールドウェル)が住んでいたのだが、今そこは真っ暗だ。おまけに、そこに何者かがいるではないか。勇気を奮って向かいのマンションへと乗り込んでいったオスカーは、そこで奇妙な老人(マックス・フォン・シドー)と出会うのだった…。

みたあと

 何から言えばいいだろうか、というより、これを言っちゃっていいんだろうか。こんなこと言っちゃマズイなとは思いながら、誰もこうは思わなかったのかと疑問も感じる。だって、それが僕の素直な感想だったから。どうせ最終的に言うことなら最初から言ってしまおうか。そうだ、思い切って言ってしまおう。ここから先は、この映画が好きで気に入っていて、主人公の少年も大いに好きになったみなさんは、絶対に読んではいけません。ここから引き返してください。僕はここからハンパじゃなく本音を書いて、悪口雑言並べてしまうのでどうかご注意を。世間じゃ大絶賛、感動の作品。誰もがホメなきゃいけない「9・11」を題材にした作品。おまけに主人公は無垢でかわいそうな少年だ。…しかしこの映画は僕にとって、見ていて久々にはらわた煮えくり返る作品だったよ。ホントにイライラした。何にイライラしたかって…それはもちろん、この映画の主人公であるオスカー少年(トーマス・ホーン)にである。いや、ホントに我慢がならなかった。久々に心底ムカついた。まぁ、この子ってアスペルガー症候群だそうなんだから、社交的な点に問題があって当然だから、大目に見てあげないといけないのかもしれない。この子の言動は全部肯定してあげないといけないのかもしれない。おまけにまだ子供だし、おまけにおまけに「9・11」遺族だ。だから何を言おうとやろうと全部大目に見てやらねばならない。全部オッケーだとしなければならないのかもしれない。それをいちいち怒っている僕は、大人げないし、こういう病気について分かってなさすぎるし、思いやりがなさすぎるのかもしれない。本当はこういうかわいそうな少年はチヤホヤして特別扱いして腫れ物に触るようにしてやらねばならないんだろう。たぶん、そうなんだろう。そうだと思う。そうだと思うんだけど…それにしたって失礼にも程があるんじゃないかこのガキは?

こうすれば

 どこから言えばいいだろう? まぁ、どこを切ってもムカつく失礼なガキなんだが…僕だって何も最初から「このクソガキ!」と罵っていたわけではない。僕も見ていて「どうも変だな」と思い始めてはいたが、最初はいろいろな設定からそうなっているんだろうと、できるだけ大目に見ようと努めていた。それが、ついに我慢できなくなって「クソガキ」認定してしまったのが、オスカー少年が最初の「ブラック」さんの家を訪問する場面。考えてみれば、見ず知らずの家に訳の分からない理由で乗り込んでいくのも失礼な話。それが分からないほど、こいつはオツムも足りないのか? それは置いておいたとしても、このガキときたら、アビー・ブラック(ヴィオラ・デイヴィス)という女性がイヤがっているにも関わらず家に図々しく上がり込む。これだけでもいかがなものかと思うのだが、泣き顔を撮影されるのをイヤがっている彼女をポラロイドで無理矢理撮影するって、一体どんなプレイなんだ(笑)? どこまでドSなガキなんだ。ボクちゃんは「9・11」遺族で「アスペルガー症候群」でかわいそうだから、何をやっても大目に見てくれ…とでも言うのかよ。またこのガキの母親に対する態度が最悪で、夫を亡くして落ち込んでいる母親に「父さんの代わりにあんたが死ねば良かった」とまでホザくテイタラク。これのどこがかわいそうなんだ? 「空っぽの棺を埋葬するなんておかしい」なんて、まるで無垢で無邪気で純粋みたいな寝言ホザきやがって、11歳にもなったらそのくらいのことは分かるだろこの偽善者め。しかも空の棺を埋葬したなんてくだらねえことで、いつまでもネチネチ母親をいたぶるな。いい子ヅラして陰湿なガキだなオメエは。この母親だって死んだ夫の残したメッセージを聞きたいだろうに、ガキは電話に残された録音を独り占めして、それがあることを母親に隠していると来た。テメエさえよければいいのかよ。代わりに死ねばよかったのはオマエだよこのクソガキが。おまけにこのガキ、いろんな「ブラック」姓の家に上がり込んでは、二言目には「僕のお父さんが9・11で死んで」…と切り出して同情を買うといういやらしさ。「9・11」はオマエの持ち芸か。そう言えば同情買えるって打算がムカつく。ドアマン(ジョン・グッドマン)に対する態度も気に入らない。確かにドアマンはこのマンションの使用人だろうし、オマエはそこに住んでいる人間だろうが、年上の人間にその態度は何だ。「オレは住人だぞ」とでも言いたいのか。家賃払ってるのはオメエじゃねえんだよボケ。隣に住んでいるジイサン(マックス・フォン・シドー)に対するデカい態度も気にくわない。甘やかせば調子に乗りやがってこのクソガキが。これ言っちゃオシマイとは百も承知だが…「アスペルガー症候群」なら何やっても許されるのか。「9・11」遺族ってそんなに偉いのかい? 何だかオレちょっとついていけないんだよねぇ、そういう考え方。そもそも外出する時にいちいちタンバリン持ち歩くのやめてくれねえか。場末のスナックのケバい姉ちゃんじゃあるまいし、いちいちシャリシャリうるさくて仕方ねえんだよ。ホントにタンバリン取り上げて、このガキのケツをブッ叩いてやろうかと思ったよ。

!!!映画を見てから読んで!!!

みどころ

 そんな中、一服の清涼剤となったのが、スウェーデン出身の名優マックス・フォン・シドー。今さらイングマル・ベルイマン映画の主演スターというのもおかしなくらい、ハリウッドに馴染んで長い月日が経っている。特に「エクソシスト」(1973)以降は、すっかりハリウッドの名脇役として定着した観がある。だがこの名優に見合った役があまりなかったのも事実で、例えば最近じゃ「ラッシュアワー3」(2007)や「シャッターアイランド」(2010)みたいに、まるで洋食でのパセリみたいな扱いになっていてもったいなかった。ところが今回は堂々たる助演ぶり。一言もしゃべらずに、飄々とした味で演じていてさすがの風格だ。だからマックス・フォン・シドーが画面から退場したとたん、僕はガッカリしたくらい。やっぱりメンコが違うのだ。あとは、終盤にサンドラ・ブロックの母親が少年に隠していた真相を語るあたり…。やっぱりな、ガキの浅知恵とは訳が違うんだよ…と多少溜飲が下がったものの、この時点でそれが分かったところでガキの悪印象は今さら変わらず。イヤ〜な後味だけが残った。こんな風にこの映画を見た僕は、心が貧しいんだろうか? でも、どうしても僕は感動できなかったし、それより何より我慢がならなかったのだが。

さいごのひとこと

 タイトルはガキのタンバリンのことか。

 

「ペントハウス」

 Tower Heist

Date:2012 / 03 /12

みるまえ

 「ナイトミュージアム」(2006)あたりから文句なくコメディアンの大スターとなったベン・スティラーが、ニューヨークの豪華マンションの管理マネジャーに扮して、そこに住む悪徳富豪をギャフンと言わせる犯罪コメディ。今回の「売り」は、もう一方の主役に久々に大物エディ・マーフィが登場すること。これはちょっと楽しみではないか。そもそもエディ・マーフィは、ニック・ノルティと組んだ「48時間」(1982)、ダン・エイクロイドと組んだ「大逆転」(1983)と、白人スターを向こうに回して名を挙げてきた。それが「ビバリーヒルズ・コップ」(1984)で一枚看板になったはいいが、アッという間に低迷したのはみなさんもご存じの通り。だからここへ来て、白人コメディアンの売れっ子ベン・スティラーと組んでやると聞いたら、期待せずにはいられない。おまけに悪徳富豪からカネを巻き上げるというと、「大逆転」の痛快さがどうしたって想起されるだろう。これは面白いんじゃないの? もっともそのマーフィ自身もかつて「ショウタイム」(2002)ではロバート・デニーロと組んではみたものの、結果は見るも無惨な出来映え。今さら白人スターと組んでやってみても、当初のマジックは戻ってこなかった。果たして今回はうまくいくのだろうか? それに今回の監督をブレット・ラトナーが手がけると知って、もうひとつ不安材料が増えた。確かにラトナーは、いつもソツなく娯楽映画を作る。しかし出来た映画はチマッとした印象で、ソコソコの面白さにとどまってしまう。もっと面白くなりそう…という題材や企画でも、常にソコソコどまりだから残念なのだ。そんなこの映画、果たしてエディ・マーフィにとって起死回生のホームランとなるか?

ないよう

 ニューヨークの超高層高級マンション「ザ・タワー」。その屋上には、まるで繁栄の象徴のようにプールが作ってある。そこを悠然と泳ぐのは、大富豪の投資家アーサー・ショウ(アラン・アルダ)。その期待に確実に応えている手応えを感じて、今日もこのマンションの管理マネジャーであるジョシュ(ベン・スティラー)は満足を感じていた。マンションのスタッフは彼の号令の下、一糸乱れぬ動きを見せる。いささかお調子者の新入りエンリケ(マイケル・ペーニャ)にも、もちろんこのマンションの流儀をキッチリ伝える。彼はこの仕事に、ささやかながら誇りを持っていたのだ。ただ、無闇にキッチリしていたわけではない。いささかおマヌケなコンシェルジュのチャーリー(ケイシー・アフレック)は妹の亭主ということもあって大目に見てきたし、この不況で没落してしまったマンションの住人フィッツヒュー(マシュー・ブロデリック)には、立ち回り先が決まるまで何とか立ち退かずに済むよう便宜を図ってやっていた。そんな彼に、長年勤め上げてきた老ドアマンのレスター(スティーブン・ヘンダーソン)が退職を申し出る。どうやら豊かな蓄えがあるようで、これからは悠々自適に暮らすらしい。羨ましいと思うジョシュだが、反面この仕事が生き甲斐でもあった。そして、こんな高級マンションを職場にしながら、ジョシュの自宅はガラの悪い下町。近所には常に揉め事を起こす泥棒のスライド(エディ・マーフィ)がいて、今日も今日とて警察のご厄介になっていた。そんなある日、あの投資家ショウがジョシュの見ている前で、「ザ・タワー」から誘拐されるのを目撃する。何とかショウを救出しようと大追跡をしたジョシュだが、それはまったくの勘違い。実は、ショウを誘拐しようとしたのは、すべて警察の面々。ショウは詐欺罪で追われる身で、コッソリ高飛びしようとしていたのだった。これにはジョシュもビックリ。と、同時にとんでもない事に気づいた。ジョシュはここで働くみんなのため…と思い、職員全員の年金の運用をショウに任せていたのだ。ところがそのショウは、まったく信じるに値しない詐欺師。彼に渡したみんなのカネは、まんまとすべて使われてしまっていたのだ。これには衝撃を受けざるを得ない。おまけに例の老ドアマンのレスターが、突然自殺未遂をしてしまう始末。実はレスターは、秘かに自分のコツコツ貯めたお金一切合切をショウに渡して、資産運用を任せていたのだ。当然そんなお金はもはや残っていない。そんな折りもおり、一旦は詐欺罪で逮捕されたものの、「ザ・タワー」に自宅監禁を条件にして、ショウが保釈されて帰ってくる。これにはジョシュも、もはや黙ってはいられない。職員のお金について掛け合おうとショウの元に乗り込んだジョシュだったが、ショウがまったく悪びれずに開き直ったからまずかった。ジョシュはショウの部屋に飾られた彼ご自慢のフェラーリのクルマに駆け寄り、ゴルフクラブで窓ガラスを粉砕。タンカを切って部屋から引き揚げてくる。しかし当然の事ながらこれは支配人の逆鱗に触れ、ジョシュはその場でクビ。たまたまジョシュと同行していたチャーリーとエンリケも、一緒に解雇の憂き目を見た。こうして一気に失業者となったジョシュだが、ショウを逮捕した女のFBI捜査官クレア(ティア・レオーニ)は、そんなジョシュの心意気を買っていた。彼女はジョシュを誘ってバーで一緒に飲みに行き、そこでジョシュに面白い事実を教える。彼女たちFBIがいくら捜査しても、ショウが持っていたはずの20億円相当の資金が発見できないというのだ。どうやら、ショウはそれを逃走資金としてとってあるらしい。この話を知ったジョシュは、ふととんでもないプランを思いついた。その金はあのショウの部屋のどこかに隠されているはず…ならば、それをゴッソリいただくことができるのではないか。いや、それは自分たちのカネを取り戻すだけのことだ! そう思いついたジョシュは、早速一緒にクビになったチャーリーとエンリケ、そして結局「ザ・タワー」から追い出されたフィッツヒューを招集。このプランを披露する。だが、こんな素人集団ではまだまだ頼りない。そう気づいたジョシュは、近所に住んでいた例の泥棒スライドに目を付けた…。

みたあと

 まず見ていてビックリしたのは、この映画ベン・スティラーとエディ・マーフィ共演が売りかと思っていたのだが、エディ・マーフィが本格的に出てくるのは映画の中盤過ぎたあたり。しかも話が本題に入ってからも、スティラーとマーフィはガップリと四つに組むのではなく、どちらかというとマーフィが脇に回っている感じ。完全にお客さんなのである。だから毎度お馴染みのうるさい感じはなくて良かったものの、たま〜に顔を出すと妙に違和感がある。これがどうも妙だった。…ってなことを言うと、もうすでに結論を言っちゃってるみたいだけど(笑)、つまりはどこかうまくいってないみたいなのだ。

!!!映画を見てから読んで!!!

こうすれば

 ズバリ言うと、犯罪計画もあまり手に汗握るようなモノではなくてザルだし、結局は行き当たりバッタリ。最終的には「うまくいく」のだが、問題はそこから先。結局は主人公一味は司法取引をして、経済詐欺師を捕らえるための証拠をFBIに渡す代わりに、主人公以外を無罪放免にしてもらうことにする。そして「お宝」をせしめるわけで、一応作戦成功バンバンザイというわけ。ところがそんなハッピーエンドの末のラストカットが、主人公が刑務所で服役しながら「してやったり」の表情というものだから、見ているこっちの痛快な気分は一気に冷水を浴びせられたようにクールダウン。正直言って主人公一人でも臭いメシを食わされるんなら、見ている僕らとしては「勝利宣言」はできない。リアリティある結末としてはこのあたりのセンで十分「勝利」だし、実際の結末はこんなところなのかもしれないが、どうも観客としてはハッピーエンドとして承服しがたいのだ。それと言うのも、作り手たちの狙いと出来上がった映画の実際が、微妙にズレちゃったからではないか。劇場パンフを見るとベン・スティラーも監督のブレット・ラトナーも、作品の目標を1970年代の犯罪映画…中でもロバート・レッドフォード主演の「ホット・ロック」(1971)あたりを例に挙げているが、僕ら観客の認識では本作はどう見たって完全なコメディ。ベン・スティラーだけならまだしも、そこにエディ・マーフィが絡んだらコメディにしか見えない。「プレシャス」(2009)で注目されたガボレイ・シディベや懐かしやマシュー・ブロデリックまで、出てくる他の面々もみんなコメディ演技を見せているし、演出も全体のトーンもコメディの「それ」だ。第一、犯罪映画としては大した計画もないしズサンすぎるから、コメディを狙って作っているとしか見えないのだ。監督ラトナーらが目指したような「犯罪映画」だったら主人公一人が獄中に入れられても十分痛快な終わり方だっただろうし、リアリティのあるエンディングとして納得できたのだろうが、結果的にはコメディにしか見えていないから、主人公が刑務所に入るこの結末は「痛快」には見えない。コメディとしては「完全勝利」じゃないと楽しめないのだ。このあたり、何を作らせてもソツなくこなす「器用貧乏」だけが取り得だったブレット・ラトナーとしては、大きな誤算だったのではないか。そもそもエディ・マーフィを起用した段階で、こうなることは分かっていたはず。しかも、そのマーフィが浮きまくっていたのも見ていてツラかったのだが…。

みどころ

 そんなわけで、残念な映画の一言に尽きるのだが、唯一気に入ったのはど派手なテーマ・ミュージック。これが妙に抜けのいい音響で大音量で流れるオープニングから、見ているこっちはワクワク。それだけに…意外にも現実的でショボくれたエンディングにしょんぼりしてしまうのだが…。

さいごのひとこと

 マーフィ出したとたんにダメ。

 

「ダーク・フェアリー」

 Don't Be Afraid of the Dark

Date:2012 / 03 / 12

みるまえ

 恥ずかしながら、こんな映画を公開しているとはまったく知らなかった。ギレルモ・デル・トロ製作による新作。どうもお屋敷に引っ越して来た女の子に、何やらが襲いかかって来るらしい。となると、どうしたってデル・トロの「パンズ・ラビリンス」(2006)が頭にチラついて来る。今回は監督作ではなくプロデュース作ということだが、それでもデル・トロ色は出るだろうからこれは大期待ではないか。なぜかひっそり公開されているのが気がかりだが、これは見ないわけにはいかない。…ってなことを書きながら、感想文アップが公開もとっくに終わっちゃった今頃になったのは、単に僕の怠慢のせいでしかない。ホントに申し訳ない。

ないよう

 ここは郊外のある邸宅。そこに働くメイド(エディ・リチャード)は、突如いなくなった家の主人を探していた。いつもいるはずの部屋にはいない。思いあまって足を踏み込んだのは、この屋敷の地下室。イヤな予感に恐れおののきながらも、下からは主人の声がしてくるではないか。メイドがその声に誘われて階段を下りていくと…途中に糸が張ってあってつまずき転倒。これが罠だと気づいた時には遅かった。地下室の床に倒れたメイドに近づいてきたのは、この屋敷の主人ブラックウッド(ギャリー・マクドナルド)。彼はメイドに切羽詰まった様子で事情を説明する。それによると…幼い息子を「何者か」にさらわれ、その子を助けるために…メイドの「歯」が必要だと言うのだ! ブラックウッドが本気なのは、手に金づちを持っていることでも見て取れた。さすがに悲鳴を上げるメイドだが動きがとれない。こうしてブラックウッドの金づちは非情にも振り下ろされるのだった。やがてブラックウッドは手に何かを握りしめて、地下室の暖炉へと近づく。ブラックウッドは火の気のまったくない暖炉に、ささやくように話しかけた。「子供の歯ではないが何とか歯を手に入れたから、これで我慢しておくれ。息子を返しておくれ」…こう言いながら暖炉の扉を開けると、その中に皿を置いて血だらけの歯を何個か転がすブラックウッド。どうやら彼が話しかけている「何か」は、歯が好物のようだ。そんなブラックウッドの呼びかけに、暖炉の下からつながっている穴を通じておぞましい声が返事をする。「何で子供の歯じゃないんだ〜」…「何者か」はどうやら不満のようで、ブラックウッドが慌ててその機嫌をとろうとすると、その「何者か」が集団で下から一気に上ってきた。思わず悲鳴を上げるブラックウッド氏は、首を突っ込んでいた暖炉の穴にいきなり引っ張り込まれた。こうしてブラックウッド氏は地下室の下へと姿を消して、二度とそこから戻ることはなかった…。それから時代は下って、現代。空港の到着ロビーで、アレックス・ハースト(ガイ・ピアース)と恋人のキム・ラファエル(ケイティ・ホームズ)が一人の女の子の到着を待っている。その女の子の名はサリー(ベイリー・マディソン)。アレックスの前妻が引き取っていた子だが、この前妻の勝手な都合でいきなりアレックスの元に押しつけられてきたのだ。「余計モノ」扱いされたと感じているサリーは、空港到着時から不機嫌そうな表情。出迎えたキムがプレゼントしてくれたクマの縫いぐるみも、嬉しくなさそうに受け取った。彼らは空港からクルマで、郊外にある邸宅へとやって来る。ここは有名な画家ブラックウッド卿の邸宅。売り出し中の建築家アレックスと室内装飾家のキムは、この邸宅に住み込みながら改装して売りに出そうと懸命。そこにサリーが「押しつけられてきた」というわけだ。結局その日はアレックスとキムが何を言っても、頑なに心を閉ざす一方のサリーだった。翌日、この屋敷の庭を見回ったサリーは、どこかに地下室があるはずだと気づく。こうして地下室の天窓を見つけたサリーは、庭師ハリス(ジャック・トンプソン)の制止も聞かずに、封印されていた地下室に突進。そこにネジで厳重に塞がれた暖炉の穴があることに気づく。サリーはこの暖炉を見たとたん、その奥に何があるのか気になって仕方なくなってしまった。しかしハリスやアレックスなどの大人たちは、彼女が暖炉をいじるのを禁じた。そのため彼女はますます頑なになるのだった。そんなサリーが寝室に引き揚げると、通風口の奥から彼女を誘う「何者か」の声が聞こえて来る。「サリー、一緒に遊ぼう」「友だちになろう」…それはサリーにとって、大人たちとは違う好ましい相手に思えたのだが…。

みたあと

 映画が始まってすぐに、いきなりキテレツな事件が起きる。地下室の暖炉の下に「何者か」がいることを最初からズバリと出してしまう、単刀直入な語り口だ。これだけでつかみはオッケー。その薄気味悪さも「何者か」のタチの悪さも見る者に伝わった。さすが、「パンズ・ラビリンス」や「デビルズ・バックボーン」(2001)でコワイ映画ならお手のモノのギレルモ・デル・トロだ。プロデュース作品でもあの持ち味は活かされている。そして、離婚した両親の間でたらい回しされて仏頂面の女の子が登場。改築中の例のお屋敷にやって来るところで、物語の基本構成は出来上がった。前にもどこかで語ったが、映画の中で一家が田舎の屋敷に引っ越したら、そこには「化け物」がいると覚悟しなくてはならない。マーゴット・キダー主演のオリジナル版「悪魔の棲む家」(1979)、オリバー・リードとカレン・ブラック主演の「」(1976)、スケート選手出身のリン=ホリー・ジョンソン主演「呪われた森」(1980)、そしてスタンリー・キューブリック作品「シャイニング」(1985)…など、この手の「お化け屋敷」映画は枚挙にいとまがない。強いて言うならば、ケビン・コスナー主演の近作「ネスト」(2009)に似ているかもしれない。一家がお屋敷を引っ越してくる…という設定だけでなく、幼い娘が「獲物」になってしまうところ、その娘が親とギクシャクしている隙に「何者か」がつけ込んでくるところ、襲ってくる「何者か」が一種の妖精であることなど、本作とこの「ネスト」はかなり類似点があるのが興味深い。ともかく今回も期待に違わず、冒頭からイヤ〜な雰囲気が濃厚だ。

みどころ

 そんな「お化け屋敷」映画の王道を行く本作、本編が始まってからもかなり怖がらせてくれる。物語の中盤から出てくる邪悪な妖精たちの造形もなかなか秀逸で、僕は見ているうちに…ある別の映画に出てきた「化け物」のことを思い出した。それはかなり昔に見たテレビムービー「恐怖と戦慄の美女/Trilogy of Terror」(1975)に出てくる、首狩族の人形だ。このテレビムービーは3話のオムニバスだが、いずれも原作がSFホラーの職人リチャード・マシスン、主演が「エアポート75」(1974 )などのカレン・ブラックというのがミソ。このテレビムービーの第3話に問題の首狩族の人形が出て来るのだが、これが何となくコッケイ味のある姿カタチながら極めて凶暴でコワイ。そのテイストが、今回の作品の「何者か」に酷似するのである。聞けば本作もかつてのテレビムービー「地下室の魔物」(1973)のリメイクだという。いよいよテレビムービーまでリメイクかよ…という文句はさておき、ひょっとしたらこの「恐怖と戦慄の美女」も本作のヒントになっているのかもしれない。ついでに言えば、「恐怖と戦慄の美女」もかなり怖いテレビムービーだったが…。そんな本作の監督を受け持ったのは、カナダ出身のトロイ・ニクシーという男。何でもコミックのイラストレーターだというが、なかなか堂に入った監督ぶり。しかし僕は本作では、もっと別のクリエイターに注目したい。それは本作の脚本を手がけたマシュー・ロビンスだ。実は、僕はこの人物にはかなり昔から注目していた。その名が最初に知られたのはスピルバーグの劇場デビュー作「続・激突!/カージャック」(1973)の脚本家としてだが、その頃からしばらくはハル・バーウッドという男とコンビを組んで脚本を書いていた。僕がマシュー・ロビンスを知ったのは、彼が初めて監督をした青春アクション映画「コルベット・サマー」(1978)から。「スター・ウォーズ」(1977)で一躍有名になったマーク・ハミル主演で、まったく世間的には知られていないものの、誰でも見れば納得の隠れた傑作だ。しかしこの監督デビュー作はコケてしまい、その後も鳴かず飛ばず。盟友ハル・バーウッドとも袂を分かち、ようやく放った久々の監督作「ニューヨーク東8番街の奇跡」(1987)はめでたくヒット。しかし、この人はなぜか幸運が続かない。その後も低迷したまま、現在に至っている。そのあたりの事情については、当サイトの特集「ルーカスVSスピルバーグ最後の頂上決戦/WAR of the WARS」の中の「ルーカス&スピルバーグになれなかったよ/哀しき周辺映画人列伝」で詳しく説明しているので、ぜひお読みいただきたい。ところがそんなロビンスが、いつの間にか「ミミック」(1997)の脚本でギレルモ・デル・トロに協力していたりしたとは…。それが今回の起用につながったのだろうが、僕はこの映画を見るまでロビンスが関わっているとは知らなかったので、すごくトクした気分になった。そして決して贔屓の引き倒しではなく、本作の怖さ・面白さはかなりこのロビンスの力に負っているように思う。ぜひぜひ本作で、マシュー・ロビンスにスポットライトが当たってくれればいいのだが…。

!!!映画を見てから読んで!!!

こうすれば

 というわけで、小品ではあるがピリリと辛い本作。軽い気持ちで見に行ったこともあって、かなり儲かった気分で見れた映画だった。しかし、言わずもがなではあるが注文がないわけでもない。それは、ラストの処理の仕方だ。衝撃のプロローグが終わると、アレックス・ハースト(ガイ・ピアース)と恋人のキム・ラファエル(ケイティ・ホームズ)が、アレックスの娘サリー(ベイリー・マディソン)と空港で落ち合ってお話の本題が始まる。サリーはアレックスの前妻と暮らして来たが、ここへ来て「厄介払い」のごとくサリーをアレックスの元に送った。当然サリーとしてはフテ腐れており、アレックスの現在の恋人として彼女のご機嫌をとろうとするキムに対して、最初からバカにしたような態度ばかりとっている。そればかりか愚かな振る舞いをして、結局、地下室の暖炉から「何者か」を解き放ってしまうのだ。そのおかげで庭師(ジャック・トンプソン)はひどい大怪我を負ってしまうし、最後には自分たちにも危険が及んでくる…。それもこれも、この娘サリーのせいだと言えば言い方が酷だろうか。しかし、実際にそう言うしかない展開なのだ。そんなフテ腐れ娘に対して、キムは終始腫れ物に触るように低姿勢で接するしかない。屋敷の改修と商売のことで頭が一杯のアレックスは、そんな娘を取り巻く異変に気づかない。異変を察知して、サリーを守るべく立ち上がったのはキムだけだ。ところが「問題」の映画の結末はというと、結局たった一人キムだけが犠牲になってオシマイ。最後にアレックスとサリーがすべてが終わった屋敷を訪れ、サリーが描いたらしいアレックス、キム、サリー三人の仲良さそうにしている絵を置いていって幕…となるが、正直言ってこれは僕としてはまったく納得がいかない。元はといえば、最初からフテ腐れた態度のこのガキが悪い。同情すべき点はあるのだろうが、そういう子供を甘やかした話は、僕はどうしても好きになれない。キムは終始サリーの気持ちを汲もうと一生懸命になっていたのに、こいつがバカやったおかげで怪物が世に放たれ、結果的にキム一人が犠牲になってしまった。それを今さら「仲良しお絵かき」なんぞして、罪滅ぼしでもした気になっているのが気に入らない。結局一生懸命にサリーを助けようとしたキム一人が貧乏クジかよ。善人の方がバカを見るなんて、後味悪いにも程がある。このクソガキ、突然しおらしい顔していい子になるんじゃねえ。申し訳ないけど、僕は正直言ってこのガキ一人だけがブチ殺されるか、死ぬほど怖い目に遭わされちまえば良かったのに…と思っちゃったよ(笑)。

さいごのひとこと

 妖精も怪物もガキを甘やかすな。

 

「運命の子」

 趙氏孤児 (Sacrifice)

Date:2012 / 03 / 05

みるまえ

 あのチェン・カイコーの新作がやって来た! かつて中国映画の両雄であったチャン・イーモウとチェン・カイコーではあるが、チャン・イーモウは例の北京オリンピック開会式演出が決定してからは、それなりに良策を放ちながらも何となく低迷。そもそも中国共産党御用監督というイメージが付きまとってしまったのが痛かった。するとライバルであったチェン・カイコーも、それに付き合うようにパッとしなくなった。特に僕は「PROMISE/プロミス」(2005)の後は、カンヌ映画祭60周年記念オムニバス映画「それぞれのシネマ」(2007)をパスしてしまった上に、その次の「花の生涯/梅蘭芳(メイランファン)」(2008)も見逃してしまった。こちらはチャン・ツィイーやレオン・ライを主演に迎えた娯楽大作仕様の作品だったようだが、「さらば、わが愛/覇王別姫」(1993)と同じように京劇がらみのお話と聞いて「またかよ」と食指がそそらなかったことを認めなければなるまい。そんなわけで、これ以上チェン・カイコー作品を見逃すわけにはいかない…という気持ちと、その後の方向性を見失っている感じのイーモウ&カイコーの今後を占う意味で、僕は慌ててこの作品を見に行った次第。正直こちらもあまり見たくなる題材とは思えなかったのだが、今回は何とか踏みとどまって劇場に足を運んだわけである。

ないよう

 かつての中国、晋の国。医師の程嬰(グォ・ヨウ)は40歳を過ぎて初めての子供を得て、喜びに溢れていた。羨む知人たちに、淡々と「これもまた運命だ」と語る程嬰。しかしそんな程嬰の気持ちをよそに、国内の状況は微妙なモノになりつつあった。ちょうどその頃、趙朔(ヴィンセント・チャオ)が大将として戦さより戻ってきた。君主の姉である荘姫(ファン・ビンビン)を妻にした趙朔は得意満面で、出迎える君主(ポン・ボー)の前に身ごもった荘姫を伴って凱旋だ。しかしそんな趙朔のゴキゲンな様子を見て、内心苦虫をかみつぶす思いの男が一人。それは長年君主に仕えながら、それに見合った地位を得ていない武将・屠岸賈(ワン・シュエチー)だ。そんな彼の気持ちを知ってか知らずか、無神経にも「本来ならば荘姫はそちの妻だったはず」などと、言わなくてもいいことまで言う君主。趙朔がこれほどの好待遇を得ているのも、元はと言えば宰相・趙盾(パオ・グオアン)の息子だったから。そう思うと屠岸賈は趙朔のみならず、趙盾率いる彼ら趙氏一族すべてに深い恨みを抱かずにはいられない。側近の策士(ワン・ジンソン)と一緒に、一発大逆転の秘策を練る。その日はすぐにやって来た。君主が趙朔の戦功を讃える祝宴の席で、まずは毒を仕込んだ羽虫を放って君主を謀殺。それを酒を捧げた趙盾が毒殺したように濡れ衣を着せ、その場にいた趙氏の面々に襲いかかった。必死に逃げる趙盾はじめ趙氏の面々だが、兵士たちに次々と倒されていく。ただ一人趙朔だけは辛くも自邸に戻れたものの、すでに瀕死の重傷で荘姫に「逃げろ」と言うのが精一杯。しかし荘姫は突然産気づき、ちょうど診察に来ていた程嬰が赤子を取り上げる。すでに助からないと観念した荘姫は、程嬰に子供を託して趙氏一族と親しい公孫(チャン・フォンイー)の元に送り届けるように懇願。程嬰が迷いためらっている間に、屠岸賈の命を受けた韓厥(ホワン・シャオミン)が屋敷にやって来た。しかし韓厥は荘姫の必死の頼みに負けて、生まれた子供を見逃す決意をする。そこまでの道筋をつけると、荘姫は「この子には誰が親で誰が仇かを教えないで」と言い残し、いまだ身ごもったままのふりをして自ら命を絶つ。こうして否応なしに、程嬰は赤子を連れ出すことになった。しかし後から趙朔の屋敷に辿り着いた屠岸賈はその計略を見破り、韓厥の顔を斬りつけて片目をつぶす。こうしてたった一人生き残った趙氏の子供を探し出すべく、都中に命令を出した。そんな趙氏一族討伐の大混乱の最中、何とか赤子を連れて自宅に辿り着いた程嬰。こんな非常事態にノコノコ赤ん坊を連れてきた程嬰を見て、妻(ハイ・チン)は呆れ顔だ。しかし屠岸賈は、何とか趙氏一族を根絶やしにすべく必死。街を閉鎖して、市内にいる赤ん坊をすべて一カ所に集める暴挙に出た。問題の趙氏の赤ん坊も、程嬰がちょっと家を離れている間に兵士たちに連れて行かれてしまった。しかしこうなると、家に残された自分の赤ん坊の方が趙氏の赤ん坊に間違われかねない。そんな二人の前に、趙氏の赤ん坊を救おうと公孫

その人がやって来た。そこで程嬰は、公孫に自らの妻子を託すことにする。一方、市内の赤ん坊を一カ所に集めた屠岸賈のもとに、赤ん坊の両親たちが押し寄せる。趙氏の赤ん坊を差し出さねば集めた赤ん坊を皆殺しにすると屠岸賈に脅された程嬰は、自らの妻子が公孫の屋敷に匿われていることを自白。それは、すでに妻子が市街へと逃がされていると思ったがゆえのことだった。しかし程嬰が屠岸賈に連れられて公孫の屋敷に到着してみると、いまだに彼らは逃げ出せてはいなかった。公孫は戦った末に力尽きて倒れ、程嬰の妻子は屠岸賈の前に引きずり出されることになる。この時点で、誰もが程嬰の妻が抱いている子は趙氏の赤ん坊であると思っていた。のっぴきならない状況の中、絶対に何もしないという屠岸賈の言葉を信じて、趙氏の赤ん坊と偽って自らの子供を差し出す程嬰。しかし屠岸賈は、いきなりその赤子を床に投げつけて殺した。それに逆上して屠岸賈に襲いかかろうとした程嬰の妻も、一瞬にして斬殺。かくして、程嬰はアッという間に自らの妻と子を失ってしまう。自らの赤ん坊として返されてきた趙氏の赤ん坊を抱いて、自宅に戻ってきた程嬰。彼はしばし呆然としながらも、何とかして赤ん坊を育てようとする。この赤ん坊を育てあげて大きくなった時に、彼の手で屠岸賈を討たせよう…と決意しながら…。

みたあと

 今までだったらチェン・カイコーの新作と言えば、慌てて映画館に飛び込んだものだろう。しかし今回は、実際に見に行くまでにかなり時間がかかった。こうやって感想文をアップするのがこれほど遅くなったのは、単に僕がここのところ忙しかったというだけのこと。しかしこの映画を見に行くにあたって、かなりモチベーションが低かったことは白状しなくてはならないだろう。そもそも司馬遷の「史記」にあるエピソードを映画化したという時点で、僕にはまったく関心が生まれなかった。教養がなくて申し訳ないのだが、「史記」にまるで興味がなかったのだ。おまけに今回映画になった「趙氏孤児」というエピソードも、まったく食指をそそらないもの。自分の妻子を犠牲にしてまで他人の子を守るというお話に、そもそも無理がありすぎだ。元々の話は「忠義」に関する話らしいが、さすがにそれは現代人にはピンと来ないということで、チェン・カイコーは独自のアレンジを加えたという。しかしそれでも、お話がそんなに変わり映えするものだろうか。

こうすれば

 今回の映画を見てぶっちゃけ思ったのは、何だか見ているとNHKのBSあたりでやっているような、中国の時代劇テレビドラマみたいだな…ということだった。「あの」チェン・カイコーがわざわざ作るような映画に見えない。全編通じてそのような気持ちにしかならない。そして現代人にも不自然に思われないための、物語への独自のアレンジとやらも…主人公の医師が結果的に自分の子供を犠牲にして、趙氏の赤ん坊を助けることになる顛末が、どうにもまどろっこしい話なんでイライラする。確かに「忠義」の話にはなっていないのだが、どうにもならない不可抗力でそうなってしまった…と観客を納得させられるところまではいってない。少なくとも映画を見る限りでは、主人公が愚かなために自分の妻子が殺されることになってしまう…と見えるのだ。これはさすがにマズイだろう。そして主人公が助けた趙氏の赤ん坊を使って復讐を遂げようというのも、あまりにもまどろっこしい話なのでイライラしてしまう。単に主人公が臆病で腰抜けなだけだと思えてしまうのだ。結果的に、復讐は成就するが自分も死んでしまう…というエンディングも、最後まで情けない奴だったとしか思えない。申し訳ないのだが、この主人公にまったく共感ができない。そもそも、例え他人の子であれ「復讐の道具」として使うこと自体が共感できない。どうしてこんな話をチェン・カイコーが映画にしなきゃならないんだと、最後まで首をかしげながら見ることになってしまった。

おまけ

 どこまでも情けなく意気地のない主人公。復讐の方法ですら臆病でまどろっこしいやり方。どう考えても不自然な話なのだが、あのチェン・カイコーがそんな話をわざわざ映画化するなら、何か理由があるはずだ。そう思いながら考え直してみると、僕にはやっぱりこの映画は現代の中国に対する何らかの寓話とように思える。何でも政治的なことにひっかけて考えるのは好きではないが、現代の中国は昔よりも何でも開かれているように見えて、実はそうでもないのではないか。北京オリンピックの後、国はますます栄えてオープンになっているように見えるが、逆に「お上」に対して異議申し立てなど言いづらい雰囲気はますます強くなっているのかもしれない。そこでは人々は本心を隠しながら、卑屈にそしてまわりくどいやり方で対処していくしかないのではないか。ちょっと無理矢理過ぎる感想だとは思うが、天下のチェン・カイコーからかくも製作意図を疑ってしまうような作品が発表されてしまうと、こうでも考えないと自分を納得できないのだ。

さいごのひとこと

 深読みせずにはいられない映画。

 

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