みるまえ
あのチェン・カイコーの新作がやって来た! かつて中国映画の両雄であったチャン・イーモウとチェン・カイコーではあるが、チャン・イーモウは例の北京オリンピック開会式演出が決定してからは、それなりに良策を放ちながらも何となく低迷。そもそも中国共産党御用監督というイメージが付きまとってしまったのが痛かった。するとライバルであったチェン・カイコーも、それに付き合うようにパッとしなくなった。特に僕は「PROMISE/プロミス」(2005)の後は、カンヌ映画祭60周年記念オムニバス映画「それぞれのシネマ」(2007)をパスしてしまった上に、その次の「花の生涯/梅蘭芳(メイランファン)」(2008)も見逃してしまった。こちらはチャン・ツィイーやレオン・ライを主演に迎えた娯楽大作仕様の作品だったようだが、「さらば、わが愛/覇王別姫」(1993)と同じように京劇がらみのお話と聞いて「またかよ」と食指がそそらなかったことを認めなければなるまい。そんなわけで、これ以上チェン・カイコー作品を見逃すわけにはいかない…という気持ちと、その後の方向性を見失っている感じのイーモウ&カイコーの今後を占う意味で、僕は慌ててこの作品を見に行った次第。正直こちらもあまり見たくなる題材とは思えなかったのだが、今回は何とか踏みとどまって劇場に足を運んだわけである。
ないよう
かつての中国、晋の国。医師の程嬰(グォ・ヨウ)は40歳を過ぎて初めての子供を得て、喜びに溢れていた。羨む知人たちに、淡々と「これもまた運命だ」と語る程嬰。しかしそんな程嬰の気持ちをよそに、国内の状況は微妙なモノになりつつあった。ちょうどその頃、趙朔(ヴィンセント・チャオ)が大将として戦さより戻ってきた。君主の姉である荘姫(ファン・ビンビン)を妻にした趙朔は得意満面で、出迎える君主(ポン・ボー)の前に身ごもった荘姫を伴って凱旋だ。しかしそんな趙朔のゴキゲンな様子を見て、内心苦虫をかみつぶす思いの男が一人。それは長年君主に仕えながら、それに見合った地位を得ていない武将・屠岸賈(ワン・シュエチー)だ。そんな彼の気持ちを知ってか知らずか、無神経にも「本来ならば荘姫はそちの妻だったはず」などと、言わなくてもいいことまで言う君主。趙朔がこれほどの好待遇を得ているのも、元はと言えば宰相・趙盾(パオ・グオアン)の息子だったから。そう思うと屠岸賈は趙朔のみならず、趙盾率いる彼ら趙氏一族すべてに深い恨みを抱かずにはいられない。側近の策士(ワン・ジンソン)と一緒に、一発大逆転の秘策を練る。その日はすぐにやって来た。君主が趙朔の戦功を讃える祝宴の席で、まずは毒を仕込んだ羽虫を放って君主を謀殺。それを酒を捧げた趙盾が毒殺したように濡れ衣を着せ、その場にいた趙氏の面々に襲いかかった。必死に逃げる趙盾はじめ趙氏の面々だが、兵士たちに次々と倒されていく。ただ一人趙朔だけは辛くも自邸に戻れたものの、すでに瀕死の重傷で荘姫に「逃げろ」と言うのが精一杯。しかし荘姫は突然産気づき、ちょうど診察に来ていた程嬰が赤子を取り上げる。すでに助からないと観念した荘姫は、程嬰に子供を託して趙氏一族と親しい公孫(チャン・フォンイー)の元に送り届けるように懇願。程嬰が迷いためらっている間に、屠岸賈の命を受けた韓厥(ホワン・シャオミン)が屋敷にやって来た。しかし韓厥は荘姫の必死の頼みに負けて、生まれた子供を見逃す決意をする。そこまでの道筋をつけると、荘姫は「この子には誰が親で誰が仇かを教えないで」と言い残し、いまだ身ごもったままのふりをして自ら命を絶つ。こうして否応なしに、程嬰は赤子を連れ出すことになった。しかし後から趙朔の屋敷に辿り着いた屠岸賈はその計略を見破り、韓厥の顔を斬りつけて片目をつぶす。こうしてたった一人生き残った趙氏の子供を探し出すべく、都中に命令を出した。そんな趙氏一族討伐の大混乱の最中、何とか赤子を連れて自宅に辿り着いた程嬰。こんな非常事態にノコノコ赤ん坊を連れてきた程嬰を見て、妻(ハイ・チン)は呆れ顔だ。しかし屠岸賈は、何とか趙氏一族を根絶やしにすべく必死。街を閉鎖して、市内にいる赤ん坊をすべて一カ所に集める暴挙に出た。問題の趙氏の赤ん坊も、程嬰がちょっと家を離れている間に兵士たちに連れて行かれてしまった。しかしこうなると、家に残された自分の赤ん坊の方が趙氏の赤ん坊に間違われかねない。そんな二人の前に、趙氏の赤ん坊を救おうと公孫
その人がやって来た。そこで程嬰は、公孫に自らの妻子を託すことにする。一方、市内の赤ん坊を一カ所に集めた屠岸賈のもとに、赤ん坊の両親たちが押し寄せる。趙氏の赤ん坊を差し出さねば集めた赤ん坊を皆殺しにすると屠岸賈に脅された程嬰は、自らの妻子が公孫の屋敷に匿われていることを自白。それは、すでに妻子が市街へと逃がされていると思ったがゆえのことだった。しかし程嬰が屠岸賈に連れられて公孫の屋敷に到着してみると、いまだに彼らは逃げ出せてはいなかった。公孫は戦った末に力尽きて倒れ、程嬰の妻子は屠岸賈の前に引きずり出されることになる。この時点で、誰もが程嬰の妻が抱いている子は趙氏の赤ん坊であると思っていた。のっぴきならない状況の中、絶対に何もしないという屠岸賈の言葉を信じて、趙氏の赤ん坊と偽って自らの子供を差し出す程嬰。しかし屠岸賈は、いきなりその赤子を床に投げつけて殺した。それに逆上して屠岸賈に襲いかかろうとした程嬰の妻も、一瞬にして斬殺。かくして、程嬰はアッという間に自らの妻と子を失ってしまう。自らの赤ん坊として返されてきた趙氏の赤ん坊を抱いて、自宅に戻ってきた程嬰。彼はしばし呆然としながらも、何とかして赤ん坊を育てようとする。この赤ん坊を育てあげて大きくなった時に、彼の手で屠岸賈を討たせよう…と決意しながら…。
みたあと
今までだったらチェン・カイコーの新作と言えば、慌てて映画館に飛び込んだものだろう。しかし今回は、実際に見に行くまでにかなり時間がかかった。こうやって感想文をアップするのがこれほど遅くなったのは、単に僕がここのところ忙しかったというだけのこと。しかしこの映画を見に行くにあたって、かなりモチベーションが低かったことは白状しなくてはならないだろう。そもそも司馬遷の「史記」にあるエピソードを映画化したという時点で、僕にはまったく関心が生まれなかった。教養がなくて申し訳ないのだが、「史記」にまるで興味がなかったのだ。おまけに今回映画になった「趙氏孤児」というエピソードも、まったく食指をそそらないもの。自分の妻子を犠牲にしてまで他人の子を守るというお話に、そもそも無理がありすぎだ。元々の話は「忠義」に関する話らしいが、さすがにそれは現代人にはピンと来ないということで、チェン・カイコーは独自のアレンジを加えたという。しかしそれでも、お話がそんなに変わり映えするものだろうか。
こうすれば
今回の映画を見てぶっちゃけ思ったのは、何だか見ているとNHKのBSあたりでやっているような、中国の時代劇テレビドラマみたいだな…ということだった。「あの」チェン・カイコーがわざわざ作るような映画に見えない。全編通じてそのような気持ちにしかならない。そして現代人にも不自然に思われないための、物語への独自のアレンジとやらも…主人公の医師が結果的に自分の子供を犠牲にして、趙氏の赤ん坊を助けることになる顛末が、どうにもまどろっこしい話なんでイライラする。確かに「忠義」の話にはなっていないのだが、どうにもならない不可抗力でそうなってしまった…と観客を納得させられるところまではいってない。少なくとも映画を見る限りでは、主人公が愚かなために自分の妻子が殺されることになってしまう…と見えるのだ。これはさすがにマズイだろう。そして主人公が助けた趙氏の赤ん坊を使って復讐を遂げようというのも、あまりにもまどろっこしい話なのでイライラしてしまう。単に主人公が臆病で腰抜けなだけだと思えてしまうのだ。結果的に、復讐は成就するが自分も死んでしまう…というエンディングも、最後まで情けない奴だったとしか思えない。申し訳ないのだが、この主人公にまったく共感ができない。そもそも、例え他人の子であれ「復讐の道具」として使うこと自体が共感できない。どうしてこんな話をチェン・カイコーが映画にしなきゃならないんだと、最後まで首をかしげながら見ることになってしまった。
おまけ
どこまでも情けなく意気地のない主人公。復讐の方法ですら臆病でまどろっこしいやり方。どう考えても不自然な話なのだが、あのチェン・カイコーがそんな話をわざわざ映画化するなら、何か理由があるはずだ。そう思いながら考え直してみると、僕にはやっぱりこの映画は現代の中国に対する何らかの寓話とように思える。何でも政治的なことにひっかけて考えるのは好きではないが、現代の中国は昔よりも何でも開かれているように見えて、実はそうでもないのではないか。北京オリンピックの後、国はますます栄えてオープンになっているように見えるが、逆に「お上」に対して異議申し立てなど言いづらい雰囲気はますます強くなっているのかもしれない。そこでは人々は本心を隠しながら、卑屈にそしてまわりくどいやり方で対処していくしかないのではないか。ちょっと無理矢理過ぎる感想だとは思うが、天下のチェン・カイコーからかくも製作意図を疑ってしまうような作品が発表されてしまうと、こうでも考えないと自分を納得できないのだ。
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