新作映画1000本ノック 2012年2月

Knocking on Movie Heven's Door


このページの作品

「サラの鍵」 「瞳は静かに」 「J・エドガー」

 

「サラの鍵」

 Elle s'appelait Sarah (Sarah's Key)

Date:2012 / 02 / 27

みるまえ

 フランス映画でナチのホロコーストを扱った作品。ユダヤ人たちが強制連行される話…とくれば、つい先日もそんな映画が公開されたような気がする。こういう話を繰り返し繰り返し映画にして風化させないようにする、フランス人はまったくリッパだなぁ…というのが世間一般の意見なんだろうし、僕もそれにまったく意義はない。しかしながら正直な話、本音を言えば「またこの話かよ」と思わなくもない。どう考えても、見る前から予想がつくような話にしかなりようがない。それを「面白い」とはとても思えないのだ。わざわざ時間を割いて電車に乗って、お金を払ってまで見たいとはなかなか思えない。世の中には殊勝にも映画を知識や教養として見ようとおっしゃる方もいらっしゃるようで、そういう方々からすると僕みたいな意見の人間は「志が低い」ってことになるんだろう。僕には僕で、知識や教養を身につけたいなら映画でなくて本を読め…と言いたい気持ちもするが(笑)、ここは百歩譲って自分の「志の低さ」を恥じることにする。それにしたって、「楽しむために映画を見る」僕にとっては、「楽しめない映画」は苦痛でしかない。逆に言えばタルコフスキーでもワイダでも、僕は自分が楽しむために映画を見ているのだ。だから、何だかなぁ…と腰が退けてはいたが、主演が「イングリッシュ・ペイシェント」(1996)で知られるクリスティン・スコット・トーマスと、彼女がフランス映画に出ている…という部分に興味を惹かれて、何だかんだと劇場に足を運んだ次第。つまんなくても、そこだけでも見る価値はあるだろう…。ちなみに感想文がこんなに遅れた理由は、単に忙しくて手が回らなかったからである。

ないよう

 キャッキャとハシャギながら、ベッドの中でモゾモゾとうごめく少女。彼女の名はサラ(メリュシーヌ・マヤンス)。ベッドの中で彼女と暴れているのは、まだ幼い弟のミシェルだ。そんな1942年の夏のある日、彼女が住むアパートの扉が乱暴に叩かれた。やって来たのはいかつい男たち。母(マターシャ・マシュケヴィッチ)はこれが容易ならざる事態であることを察知してしどろもどろになっていたが、サラはとっさに判断して弟ミシェルを納戸に隠し、「中で静かにしていて」と言い聞かせて扉に鍵をかけた。男たちには弟は田舎に行ったとウソを告げ、母と後から捕らえられた父(アルベン・バジュラクタラジ)とともに、サラは家から連行されていく。それはフランス警察による、ユダヤ人一斉検挙の始まりだった…。舞台は変わって2009年。パリでフランス人の夫ベルトラン(フレデリック・ピエロ)と暮らすアメリカ人女性ジュリア(クリスティン・スコット・トーマス)は、娘のゾーイ(カリーナ・ヒン)とともに空き家になった古いアパートを見に行く。このアパートを夫の祖母マメから譲り受けたため、改装するべく中を見に来たのだ。その後、記者として勤務する雑誌社にやって来たジュリアは、新たな企画としてナチス占領下のパリにおけるユダヤ人一斉検挙…いわゆる「ヴェルティヴ事件」を取材することになる…。再び舞台は変わって1942年。サラたち家族をはじめユダヤ人たちが、真夏の「屋内競輪場(ヴェルティヴ)」に集められる。尋常ではない暑さの中、水も食べ物もなくトイレすらない。絶望したユダヤ人の中には、上段のスタンドから飛び降り自殺を図る者まで出てくる。サラは置いてきた弟ミシェルのことが気が気でならない。「中でおとなしくして」と言ったものの、何日も放置することになるとは思わなかったからだ。競輪場内で知り合った女は外に出る手だてがある…と言い、自分が納戸のミシェルを助けてもいい…とまで言ってくれたのに、今ひとつ信用しきれなかった父はそんな申し出を拒む。彼女がすんなり競技場から出ていくのを見て、激しく悔やんでも後の祭り。父も母もサラも、それぞれお互いを罵るような最悪の状況だ…。再び舞台変わって2009年。ジュリアは当時の競輪場に隣接した家に住む老婆を訪ね、当時のことを取材。「臭いがひどくて窓が開けられなかった」という悲惨な状況を知る。その足で、夫の祖母マメ(ジゼル・カサドシュ)を病院に見舞うジュリア。そこで彼女はマメの口から、例の古いアパートを手に入れたのが戦時中の1942年だったと聞く。それを知った時、ジュリアの脳裏にイヤな予感がよぎる。それではアパートの元の住人たちはなぜ家を出て、一体どこへ行ってしまったのか…?

みたあと

 僕にとって「楽しめない映画」は苦痛でしかない、だから腰が退けていた…と先に書いたものの、実はそれは正確ではない。確かに僕は「楽しむ」ために映画を見てはいるが、僕の映画を「楽しむ」守備範囲はそれなりに狭くはないつもりだ。だから、単に陰鬱でシリアスな題材を取り上げているからといって、その映画をすぐに「楽しめない映画」にカテゴライズすることはない。実は僕がこの映画を見るにあたって、気が重くなった理由は他にもある。戦中のホロコーストの悲劇をジャーナリストであるヒロインが追いかけていくうちに、自分の夫の家族がそこに関わってくることを知る…という筋書きが、僕に何となくイヤな予感を抱かせたのだ。ヒロインが真相に迫るうちに夫の家族の隠されていた過去を暴き立ててしまうことになりそうだし、イマドキの風潮ならばヒロインが夫や夫の一族の「偽善」や「ウソ」を白日の下にさらしてドヤ顔をする…ってな展開になりそうではないか。今日び男が女を「ブス」と言おうものならヘタすりゃ裁判沙汰だが、女が男をどれほど侮辱しようがオールオッケー。だからこの映画も「歴史の影に埋もれた悲劇を掘り起こす」ドラマというカタチを借りて、「男と男社会の欺瞞を暴き立てコキ下ろす」映画になるような予感がムンムン。そう考えるとわざわざカネを払って忙しい時間を割いて、女どものタワごとに付き合いたくはないという気分になってしまう。実際にこの映画を語ったレビューや紹介文をチラチラ見ていると、その手の「女の視点」とやらがチラついてるものもいくつか。そういう寝言は女子校の便所か真っ昼間のファミレスででもやってくれよ…と言いたくなる。それでも何とか映画館まで辿り着いて、いざ映画が始まってみると…何といきなりお話は現代ではなく1942年、それもユダヤ人家族が警察に連行されるところから始まるからビックリ。しかももっとビックリなことに、それから後はこの戦中におけるユダヤ人の女の子のエピソードと現代の女ジャーナリストのエピソードが、かなりザックリとした感じで交互に出てきて進行していくではないか。この大胆というか荒っぽいというか…力業というべき構成に、僕は一気に映画に引き込まれていった。

こうすれば

 かつてユダヤ人の強制連行にフランス警察が積極的に荷担していた…というところが、おそらくはこの映画本来の最も衝撃的な部分なのだろう。この映画はフランス資本でフランス語で撮られた映画だから、主な観客もフランス人のはず。だからこの映画が観客にかなりのショックを与えたことは、想像に難くない。そのへん僕ら日本人には、今ひとつ実感としてピンと来ないところでもある。それでも大胆な構成のおかげもあって、映画にどんどん引き込まれていった僕だったが…。物語の途中でヒロインが妊娠していることに気づいて、産むことに対して夫があまり乗り気でないことが描かれるに至って…おいでなすった、おいでなすった。「男はカス」と言うためのお膳立てが整えられて来たではないか。実際は夫の実家が問題のユダヤ人と関わっていたこと、そしてそのことを隠していたこと…と、夫がヒロインの妊娠を歓迎していないこと…とは、まったく関係のない問題だ。しかしこの映画では、一見するとそれもこれも…「とにかく男はクソ」という一点に収斂されていきかねない雰囲気に思われる。映画を見ていれば、夫側の一族が例の問題について伏せていたのにも、それなりの理由があったことが分かる。しかしヒロインは「なかったことには出来ない」とばかりに暴き立てて、さも「見逃さないのが女の正義感」と言わんばかり。その合間に、妊娠を喜ばない夫を罵倒することも忘れない。結局は夫の家族は別に悪事に荷担したわけではないことが分かるが、その時の舅への言いっぷりもスゴくて、「あなた方の名誉は守られたわ」と思い切り「上から」目線の発言だ。最終的にはその結果として、ヒロインは夫と離婚するハメになったことが映画の後半で明らかになるが、それも何となく「何かを失っても真実を追求したかった」偉いヒロイン…と作者が言いたがっているように見えてしまう。それはそれでご立派なんだろうが、オレは正直言ってあまり身内にこんな人いてほしくないです(笑)。ハッキリ言って、イヤな女だとしか思えない。

みどころ

 そんなわけで、「女がいつも正しくて偉くて、男はみんなクソでカス」という映画になっちまうのか…と唖然呆然として見ていたのだが、エンディングでそれは見事にひっくり返される。それは、ヒロインが問題のユダヤ女性の息子と語らう、ニューヨークの場面での出来事だ。そこでヒロインは自分がどれだけ傲慢で独善的で「何様」だったかを告白し、ユダヤ人女性の息子に謝罪する。現実の社会でも「心からの謝罪」ってマレな出来事だが、映画の中でも主要人物が「謝罪」したら、それはちょっとした「事件」だ。まして女が謝罪するなんて、ほとんど奇跡に近い(笑)。だから僕はこの瞬間にヒロインを許したし、この映画の作者たちの意図も理解した。作者はこのヒロインのあり方を全面肯定はしていない。それどころか、夫たちやユダヤ女性の遺族たちも含めて、誰も肯定も否定もしていないのだ。こうなってくると大半の観客がフランス人である中で、ヒロインを「よそ者」アメリカ人とした設定も非常に興味深い。「人ごと」だから暴き立てることができた…と描かれているわけだ。このあたり、妙に「いい子」になって「良心作」をこしらえない、フランス人のバランス感覚が伺える。この映画はどこまでもフェアなのである。さらに指摘しなくちゃいけないこととしては…ここまではヒロインの言動を中心とした懸念ばかりを書いてきたが、大胆で力強いパラレル構成のストーリー展開も含めて、映画としてダイナミックな面白さを持っていることを語らなければ片手落ちだろう。ヒロインの調査とユダヤ人少女の顛末とが絶妙なタイミングのパラレルで出てくるあたり、「謎解き」のような「面白さ」のある映画なのである。お話がパリからニューヨーク、そしてフィレンツェ…とムダにスケールアップしていく(笑)あたりも含めて、例えシリアスな題材のお話であっても娯楽映画としての派手さや「華」をないがしろにしていないという点で、ジル・パケ=ブランネール監督の「面白い」映画を作る手腕はなかなかのもの。悲運のユダヤ人女性の存在を「なかったことにしない」というメッセージでもある感動的な幕切れも、一瞬ちょっとしたフェイントをかけたりして、そこまで持っていく段取りが実にうまい。この監督、ストレートに娯楽映画を作ったらどれほど面白く作るか分からない。そういう意味で、またまた次回作が楽しみな監督登場というべきだろう。主演のクリスティン・スコット・トーマスはあのプリンスが監督・主演した「アンダー・ザ・チェリー・ムーン」(1986)やら「ミッション・インポッシブル」1作目(1996)にまで出ちゃう腰の軽さを持った女優さんで、今回はそのフットワークの軽さが良い意味で活かされた感じ。僕としてはプリンスの「アンダー・ザ・チェリー・ムーン」をたまたま見ていて、その当時から見てきているだけに感慨深いモノがあった。フランス語を流ちょうに操りアメリカにも馴染んだイギリス女優の彼女だからこそ、この役が無理なく出来たといえる。その他、久々の再会となった「スーザンを探して」(1985)などのエイダン・クイン(ずいぶん太った)、「夜よ、さようなら」(1979)や「ミーティング・ヴィーナス」(1991)などのニール・アレストラップ(こっちはずいぶん老けた)の出演は、僕としてはとても嬉しかった。

さいごのひとこと

 現実の女は絶対謝らないけどね(笑)。

 

「瞳は静かに」

 Andres no quiere dormir la siesta
(Andres Doesn't Want to Take a Nap)

Date:2012 / 02 / 20

みるまえ

 アルゼンチン映画である。おまけにタイトルが「瞳は静かに」と来れば、ちょっと前に公開されたアルゼンチン映画の快作、アカデミー外国語映画賞受賞の「瞳の奥の秘密」(2009)が頭に浮かぶ。さらにチラシを見てみると、子供が主人公の話でアルゼンチンの軍事政権時代の暗部を描いた話らしい。おまけにそこに出ているオバチャンは…どこかで見覚えがあると思ったら、これまたアカデミー外国語映画賞を獲得した「オフィシャル・ストーリー」(1985)の主演女優ノーマ・アレアンドロではないか。この「オフィシャル・ストーリー」も、軍事政権時代の恐怖を描いたものだった。何となくどんな映画が想像がついてきたが、これは大いに期待できるのではないだろうか。

ないよう

 子供たちが、街角でかくれんぼをして遊んでいる。その中でひときわ愛くるしい瞳の持ち主が、まだ幼い少年アンドレス(コンラッド・バレンスエラ)だ。しかしこのかくれんぼは、ただのかくれんぼではなかった。「鬼」の役をする子供が「警官」として振る舞い、他の子供たちを強権を振るって鎮圧しているのだった。この子供たちは、一体何を見てこのようなかくれんぼを始めたのだろうか。時は1970年代後半。アンドレスは母ノラ(セリーナ・フォント)と兄アルマンド(ラウタロ・プッチア)と一緒に、貧しくも幸せな暮らしを送っていた。時々やって来る母の恋人アルフレド(エセキエル・ディアス)はどうも好きになれなかったけれども…。このアルフレドはどうもワケありの男で、今日もノラに何やら頼み事。それはあるモノが入った包みを預かって欲しいというものだが、どう考えてもその包みの中身はすこぶる付きのヤバイ「ブツ」としか思えない。それでもアルフレドの頼みとあらば、聞かないわけにいかないノラではあった。そんなノラは、アンドレスに「父」の元に行って生活費の無心をするように言う。ノラとはとうの昔に別れたこのラウルという男(ファビオ・アステ)、アンドレスにとっては実の父親なのだが、どうしても親しみが感じられない。やけに感情の沸点が低いうえに、独善的な態度がどうしても好きになれないのだった。そんなある日、ノラが看護婦として働く病院に、大ケガをした急患が担ぎ込まれる。その血だらけの女は、つい最近ノラがアルフレドを交えて会ったことがある彼の「仲間」。そして病室には、彼女を「連行」した男たちが付き添っていた。瞬時に状況を察知したノラは、慌てて病院を飛び出してすぐ近くの公衆電話に飛びつく。しかしアルフレドに危機を知らせようとしたノラの電話は、故障のためかつながらない。焦り狂ったノラは道路を横切ろうとして、アッという間にクルマにはね飛ばされてしまった。そうとは知らぬ幼いアンドレスは、一人で自宅に帰ってきてじっと待っている。やがて兄アルマンドと父ラウルがやって来て泣き崩れるのを見て、アンドレスは容易ならざる事態が起きたことを知った…。こうしてアンドレスたちは、父方の実家に引き取られることになる。そこは祖母である「レディ・オルガ」(ノーマ・アレアンドロ)の仕切る家だった。相変わらずキレやすい父ラウルがひょんな事から怒り出したりして、それでなくてもアンドレスはウンザリ。しかしアンドレスにとっては、ちょっと見はアンドレスたち兄弟を受け入れ優しく育てようとしているオルガの方が問題だったかもしれない。祖母オルガはこの一家の長として家を治めていて、彼女の前ではキレやすいラウルも手も足も出ない。アンドレスには決してキツイ言い方はしないまでも、どこか有無を言わせないものがあった。だからオルガがアンドレスに昼寝を命じたら、母親はそんなことをさせなかったと言おうが何だろうが、昼寝をしなければならない。そんなこんなで、アンドレスはどこか息苦しいモノを感じないわけにいかなかった。しかし、それも無理はない。「レディ・オルガ」の影響力は家だけでなく、ご町内一帯にも及んでいた。この町内で何かあった時には、「レディ・オルガ」の耳に入らないことはない…と言っても過言ではないくらいだった。そんなある日、遺品などを整理しに行く父ラウルと叔母に連れられ、元住んでいた家にやって来るアンドレス。ところが、そこでアルフレドから預かっていた「包み」が発見されたからたまらない。「包み」の中身は反政府ビラ。これが分かったらタダでは済まない。慌てふためいたラウルと叔母は慌ててビラやその他の品々を庭で燃やし始める。そんな大人たちの様子を、不審な気持ちで見つめるアンドレス。さらに家の近くには、妙な男たちが出入りする建物があった。そのリーダー格らしいセバスチャンという男(マルセロ・メリンゴ)は、何だかんだとアンドレスに親しげに近づく。しかし彼らは政府の情報局の人間で、時折りどこかから人々を連行してきては、痛めつけたり脅したりしていたのだった。そんな一見平穏に見えて、実は緊張感が張りつめているような日々が続くなかで、アンドレスにも徐々に変化が起きてくる…。

みたあと

 見る前に分かっていたように、アルゼンチンの軍事政権時代を描いた作品。ただ、ストレートにその恐怖を描くのではなく、平穏に見える日常の中から子供の視点を通じて描いているところがユニーク。…というようなことはこの映画のチラシの紹介文から、ネット上のさまざまな感想文にも書かれていることで、いわばこの映画に関する「一般的な認識」というべきなんだろう。僕も、そこに何ら疑念を挟む気持ちはない。実際にこの映画は、「アルゼンチンの軍事政権時代の恐怖を、子供の視点を通じて描いている」のは間違いない。そして映画の作り手は、「大人」たちの不自然な言動や卑屈な振る舞いが、純真な「子供」たちを徐々に歪めていく…と言っている。そのこと自体についても、一応は納得できないでもない。

こうすれば

 ここまで僕の文章を読んでいただいた方には…そして、僕の映画感想文を日頃から読んでくださっている方には、僕のこの映画に対する語り方に何か冷ややかなモノを感じられているかもしれない。その直感は当たっている。純真な「子供」が「大人」たちの醜い振る舞いに歪められてしまう…ってのは、まことご立派な描き方だとは思うが、正直言って作り手やこの映画の感想文を書いている人々が思っているほど「ユニーク」でも「独創的」でもない。まぁ、この手の「大人の不条理に直面した子供たち」を描いた映画では、ありがちな展開だと言えるだろう。実はそのような事はこの映画を見て分かることでも何でもなく、実は設定だけを聞いただけで誰にでも容易に想像できてしまうことなのである。大人たちの醜い振る舞いが子供たちの純真さを歪める…な〜んてことは、ユニークでも何でもなくてむしろ「凡庸」「陳腐」と言ってもいい「使い古された」フォーマットなのだ。だから映画を見ていても、何ら新しさや新鮮さがない。こうなるだろうなという展開。まったく驚きがない。見る前にインプットされていた情報や、この手の映画ならこうなるという「ありがちな予想」を一切裏切ることのない展開に、むしろ驚かされるばかりだ。僕にとってはそういう作品は「面白い映画」とは言えない。まったく新発見もサプライズもない映画は、わざわざ時間を使って見るまでもないのである。厳しい言い方だが、この映画を激賞されている方は映画そのものをホメているのではなく、そういうことを描いていること自体をホメているのではないだろうか。強権政治を批判することは正しいことである。だからその事をホメているのだろう。しかし、それは映画そのものを評価することとは違う。正しいことを言っていても、映画がイイ出来映えとは限らない。その反対に、「KKK礼賛」でもD・W・グリフィスの「国民の創生」(1915)は傑作なのである。どうも映画を作っている側も実際には「映画をつくって」はいないし、見る側も実際には「映画を見て」はいないように思える。こういう映画の評価は得てしてそこで語られているメッセージへの評価となる場合が多いが、それは「映画の評価」とは別だと思うのだ。正直言って映画を見る前から結論も展開も決まっているようなこの作品は、いくら良いことを言っていても「映画」としてはイイ出来とは言えない。単なる凡庸な作品でしかないのだ。ついでに言うと、この映画のパンフレットなどで昨今の原発事故で揺れ動くわが日本と同じだ…などという論調で感想を書いてる人が多かったが、これも果たしてどうなんだろう。言いたいことは分かるし、実際には本当のことが分からなくなって疑心暗鬼になってしまう世の中…というところに共通性がないとは言わないが、不用意なことを一言いったかいわないかが命取りになりかねなかった当時のアルゼンチンと「同じ」と言ったら、当時のアルゼンチンの人たちに失礼ではないか。正直、「甘っちょろい」と言われても仕方がないような気がする。何かもっともらしい事を言うのはいいが、元々大してない問題意識をこんなところにわざとらしく無理矢理持ち出すのもコッケイなのではないか。もっとキツイことを言わせていただくと、「子供」ってのは醜い「大人」たちの振る舞いによってだけ歪むものではない。僕は昔「子供」だったから分かるが、子供というものは元々残酷でズルくて醜いモノだ。決して純真なわけではない。たぶん他のみなさんは「子供」だったことがないので分からないのだろう(笑)が、その点だけでもこの映画が駄作であると分かる。こういう映画は批判しにくいし、いかにもホメられそうな内容になっているが、そこが最もダメなところだと僕は思うのだ。この映画をホメてる感想の「ホメ方」がどれもこれも同じってあたりからして、そもそも映画そのものを見て言ってないって気がするのである。

さいごのひとこと

 主役のガキは最初から可愛げなさそう。

 

「J・エドガー」

 J. Edgar

Date:2012 / 02 / 13

みるまえ

 悪名高きFBI長官エドガー・フーバーの生涯を、その光と影も含めてレオナルド・ディカプリオが演じる。ポスターを見れば、彼が凝ったメイクで若い頃から晩年までを演じて、お得意の眉間にシワ寄せた大熱演を見せているのは間違いない。ウッカリまたまた近年ディカプリオと「名コンビ」のマーティン・スコセッシが監督かと思いきや、これは何とクリント・イーストウッドの監督作品ではないか。この「名コンビ」で同じような権力者で変人のハワード・ヒューズを描いた伝記映画「アビエイター」(2004)を撮っているから、僕はすっかり勘違いしてしまった。それにしてもイーストウッドとディカプリオって、ありそうでなかった顔合わせだ。何となくここんとことイーストウッドは似た系統の役者マット・デイモンと連続で組んでいたから、ディカプリオはなさそうな気がしていたのだ。それにしても今回のエドガー・フーバー伝記映画、イーストウッドもこうした実話ネタの映画は「インビクタス/負けざる者たち」(2009)など何本も撮っているから不思議ではないのだが、だからこそ何となく鮮度がないのが気になる。先ほどは「アビエイター」を引き合いに出したが、何となくディカプリオがこの手の怪人物を演じる実話映画、イーストウッドがこういう題材を手がける実話映画って、もうすでにどこかで見ちゃったような「既視感」があるのだ。おまけにポスターに刷られているディカプリオの顔も、先ほど述べたように近年の彼の十八番である「眉間にシワ」。これしか出来ないのかね。これやってるとイイ演技していると勘違いしちゃったか、「シャッターアイランド」(2010)でも完全に演技プランを間違えて、作品全体をガタガタにしてしまっていた。それなのに、ディカプリオはまだ懲りてなさそうだ。そしてイーストウッドも、ポスターを見る限りではそんなディカプリオを止めようとしていないように見える。これはどうにもイタイ映画になっちゃっているのではないか…と思いながらも、ディカプリオとイーストウッドの初顔合わせが気になって劇場に足を運んだ。

ないよう

 老年期に入ったFBI長官J・エドガー・フーバー(レオナルド・ディカプリオ)は、若手捜査官の一人を執務室に呼んで口述タイプをさせる。それはエドガーによる回顧録の執筆の始まりだった。そもそもFBIが出来た経緯とそこにエドガーが深く関わるキッカケとなったのは、パーマー司法長官(ジェフ・ピアソン)の自宅が爆破されたことに端を発していた。司法省の一職員だったエドガーは、自転車に乗ってパーマー司法長官の家にやって来る。当時の警察は原始的な捜査の方法しかとっておらず、証拠も指紋もキチンと採らないほどにズサンだった。これが後年、エドガーが科学捜査に力を入れるキッカケとなるのだが、それはまた別の話。この事件を契機に、パーマー司法長官は共産主義者などに断固たる態度をとることになった。そんな一連の流れの中で、若手のエドガーもまた司法長官に重用されることになる。母親アニー(ジュディ・デンチ)の愛情を一身に受けていたエドガーは、母のためにもこの出世を大いに喜んだ。同じ頃、エドガーは司法省に新たに採用されたヘレン・ガンディ(ナオミ・ワッツ)という若い娘と出会い、彼女に強く惹かれる。そんなエドガーとヘレンのデートは、何と人々が帰った後の国会図書館。ここで彼は、自身がこの図書館に導入したカード式の検索システムを自慢し、その勢いを借りるかのように彼女に結婚を申し込む。しかしヘレンは「結婚に興味がない」とこの申し出を拒絶。エドガーは体面を取り繕いつつ、彼女に自分の個人秘書になってくれるように頼み込む。 やがてエドガーは強引なやり方で不穏分子を次々摘発。しかしそのやり口は批判を呼び、司法長官の更迭という事態を引き起こした。しかし皮肉にも、これによってエドガーは司法省捜査局の局長代理に任命されることになる。大いに張り切るエドガーは、ヘレンの力を借りて人材をかき集め、後にFBIとなる捜査局の確立に尽力。しかしエドガーの人材採用の方針は、いささか独善的なものであった。しかも時としてそれは彼独自の判断で曲げられることも…。たまたまレストランで新米職員クライド・トルソン(アーミー・ハマー)と出会ったエドガーは、彼に強い印象を受ける。その後、捜査局を志望したトルソンを面接したエドガーは、それまでの厳しい採用基準を忘れてしまったかのように、無条件でトルソンを受け入れる。彼はトルソンに問答無用で「惹かれて」しまったのだ。その一方でエドガーは歴代の大統領をも盗聴の対象にして、独自の情報ファイルを作成していた。それこそがエドガーの底知れぬ権力の源泉となったのだ。そんなエドガーに、その後の彼自身とFBIを運命づけるような大事件が持ち上がる。アメリカが誇る国民的英雄、飛行家リンドバーグ(ジョシュ・ルーカス)の幼い息子が誘拐されたというのだ…。

みたあと

 映画が始まるや否や、老年期に入った主人公が登場。お話は時系列が錯綜して一見複雑に思えて、実際には見やすく整理されている。このあたりはやはり実話の「ミルク」(2008)も手がけたダスティン・ランス・ブラックの脚本のおかげだろうか。多少あちこち前後しながらも、徐々に時系列に沿って物語は進行していく。そこで描かれるFBI長官フーバーのキャクラターはなかなか興味深いモノだが、演じるディカプリオは予想通りあの「眉間にシワ」を連発して、力み返った大熱演だ。いやはや、これはヤバイ。本人はあれが名演であると信じているようで、だからここ最近の作品では必ず「これ」ばかりやっているんだろう。しかしこの熱演ぶりは、冷静に見ていれば失笑モノ。実際には前述した「シャッターアイランド」あたりではかなりヘンだった。いや、「変な男」を演じているというのではなく、見ていて笑っちゃうようなおかしさなのである。おまけにヅラを付けての過剰な老けメイク。ここまでやっちゃうと、これはどっちかというと「ドリフ大爆笑」あたりのコントみたいではないか。目をむいちゃった大げさ芝居が、まるで加藤茶みたいに見えてくる。いくらクリント・イーストウッドは役者を信じてやりたいようにやらせると言っても、これでは何もやらなすぎだ。少しは演出とか指導をするべきだったんじゃないか(笑)?

みどころ

 以前から僕はクリント・イーストウッド監督作品の感想文で、イーストウッドの「演出不足」について語ってきた。役者たちが口を揃えて「役者を尊重してくれる」「役者のやりたいようにやらせる」と言うのは、実は役者を演出していないのではないだろうか…と僕は思っていたのだ。実際、イーストウッドが自ら主演する時は、そこに登場するのはいつものイーストウッド・キャラでしかないし、モーガン・フリーマン、ジーン・ハックマン、ショーン・ペン、マット・デイモンなどなど…彼の映画に起用される役者たちは、みなそれぞれの過去の出演作で形作られたお馴染みキャラをそのままなぞっているような気がする。そこには大胆なイメチェン起用がひとつもない。むしろそれぞれの役者の持つ典型キャラによってキャスティングし、そうした「適役」を手に入れたら撮影ではやりたいようにやらせる…というのが方針のように思えるのだ。それではイーストウッドは、なぜ今回ディカプリオを起用して、なぜあの「眉間にシワ」キャラを黙認してきたのか。僕には…あの「眉間にシワ」キャラこそが欲しくて、あえて彼を起用したというように思えてならない。劇中でのディカプリオ演じるフーバーは、気が小さく器量の狭いショボい男だ。おまけに女を口説くのにピントはずれなアプローチをするコミュニケーション不全な男でもある。そのくせ人を上から目線で見たがり、自分をエラく見せたがる。ハタから見たらかなり滑稽だが、持ち前の用心深さと執念深さでのし上がった。だからその生涯は虚勢そのもの。例えば新人採用の際にも背が低いコンプレックスを露わにして、自らの机を高い台の上に載せる始末。バカ丸出し。やたら偉そうに威圧的に人に接するくせに、中身は全然伴っていない。だから冷静に見ればみっともない男なのだ。それはそっくりそのまま、自分を「演技派」に見せたくてやたら背伸びしたあげく、無理矢理「眉間にシワ」演技を一本調子で見せ続けるディカプリオの滑稽さと重ならないだろうか。どう考えてもあれは笑ってしまう。そこに似合ってないヅラと老けメイクじゃあ、最初から笑ってくださいと言っているようなものだ。あの滑稽さゆえにディカプリオを起用したのだとすれば、イーストウッドはかなり人が悪い。しかし元々「変態」指向が強く、異常心理や倒錯などを映画で描くことに執念を燃やすイーストウッドらしく、フーバーの女装場面や男性同性愛描写なども含めて、かなりやりすぎなまでに笑っちゃう場面が連発。この主人公の小ささ、みっともなさ、滑稽さを描いて、イーストウッドはなかなかの快調ぶりを見せているのだ。過度な右翼ぶり国粋主義者ぶりも、そんなヤワな自分を見せたくないから…というキャラ設定には、笑っちゃうだけでなく哀れさまで漂う。ここは「まんま」とディカプリオは、老練イーストウッドにうまく利用されちゃったのかなと思う。彼が必死に演じれば演じるほど、主人公のみっともなさは際だつのである。これは役者として「活かされた」と言えるのだろうか。難しいところだ。

おまけ

 劇中でフーバーが映画スターのジンジャー・ロジャースとその母親に会う場面が出てくるが、後でクレジットを見たら、その母親の方を演じていたのが「バック・トゥ・ザ・フューチャー」(1985)や「恋しくて」(1997)などで青春スターとして売っていたリー・トンプソン! まったく「それ」とは分からないほど老けてしまっていたが、まだ役者をやっていたんだねぇ。可愛い頃を知っている僕としては、複雑な心境である。

さいごのひとこと

 ディカプリオは自分の起用の理由が分かっているか。

 

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