新作映画1000本ノック 2012年1月

Knocking on Movie Heven's Door


このページの作品

「ルルドの泉で」 「永遠の僕たち」 「宇宙人ポール」 「ブリューゲルの動く絵」 「ロンドン・ブルバード/LAST BODYGUARD」 「ニューイヤーズ・イブ」

 

「ルルドの泉で」

 Lourdes

Date:2012 / 01 /30

みるまえ

 この映画のことは、渋谷のちょっとハイブロウな映画ばかり好んで公開するシアター・イメージフォーラムで知った。キリスト教の「聖地」…ちょっとした保養地の趣もある巡礼地にやって来た身障者のヒロインの身に「奇跡」が起きる。何と車イスを必要としていた彼女が、立って歩けるようになったのだ。しかしそうなったらそうなったで、なぜ彼女だけに「奇跡」が起きたのか?…などなど周囲の目はいろいろうるさい。本人もこれが「奇跡」なのかどうか心穏やかではない。…ってなお話らしい。それでなくても敷居が高いこの映画館らしいお高くとまった映画とも思えるし、何よりキリスト教的な要素満載ってあたりで見ていてキツそう。それでも僕が見ようと思った理由は…ヒロインを演じるのがシルヴィー・テステューだから。「ビヨンド・サイレンス」(1996)と「点子ちゃんとアントン」(1999)のカロリーヌ・リンク作品で存在感をアピール。その後もディアーヌ・キュリスの「サガン/悲しみよこんにちは」(2008)、ジョニー・トーの「冷たい雨に撃て、約束の銃弾を」(2009)…と気になる作品に連続出演。どれもこれもハズレなし。そもそも僕が個人的に彼女を好きなのだ。だからと言って、決してトップスターでも何でもない彼女、作品が日本に来た時には、確実に押さえていないといけない。これは見なくてはいけない映画なのだ。

ないよう

 だだっ広い食堂のテーブル一つひとつに、ウエイトレスたちが粛々と皿を置いていく。そして徐々に食堂内にお客が入ってくるが、その客たちは電動の車イスを自分で動かしている者、誰かに車イスを押してもらう者、激しくカラダをくねらせて歩いてくる者…健常者もいるものの、圧倒的に身障者の姿が数多い。ここは「奇跡の水がわき出る」ことで知られる聖地ルルド。ここには人生に問題を抱えた者やカラダに障害を持った者、死期が迫る重い病を患っている者などが、「奇跡」にすがるために数多くやって来る。そのため巨大な保養施設や宿泊施設を完備し、ツアーを用意して多くの巡礼者たちを迎えている。そんな人々の世話をするのは、マルタ騎士団というボランティア・スタッフ。男女とも独自のコスチュームに身を包んでいるが、それぞれの熱心さは人によってかなり温度差があるようだ。そのボランティア・リーダーであるセシル(エリナ・レーヴェンソン)は献身的に働いているが、どうもあまりに厳格すぎるように見えなくもない。そんな人々の中に、やはり巡礼にやって来た若い車イスの女性クリスティーヌ(シルヴィー・テステュー)もいた。彼女は手も動かせないほどの重度の身障者で、信心というよりも身障者というとこんな場所しか受け入れてくれないから…という理由で、半ば観光地的な気分でやって来た。そんなクリスティーヌの身の回りを見てくれているのは、まだ若いマリア(レア・セドゥ)という女性だ。夜はセシルとマリアがベッドに寝かしつけてくれるが、セシルの目からはマリアはまだまだ至らない点だらけのようだ。クリスティーヌと同室の客は、ハートゥル(ジレット・バルベール)という取っつきにくそうなオバサン。カラダには何ら不自由はないようだが、自分の枕元にマリア様の像を飾って祈る熱心さ。正直、クリスティーヌには付き合いきれない部分もないわけではない。このオバチャンは施設の廊下などでもマリア像に跪いたりして、そこまで信心深くないオバハン二人組に好奇の目で見られたりしている。そんな巡礼ツアーではさまざまな聖地巡礼メニューが組まれているが、身障者は長蛇の列の中から優先して行ける特典つきだ。マリアに付き添われてスイスイ先に行くクリスティーヌを、一人ぼっちのハートゥルは複雑な表情で見つめる。そんな中、クリスティーヌに声をかけてくる男性ボランティア・スタッフが一人。その男クノ(ブリュノ・デスキーニ)は、かつて別の聖地で彼女と会ったらしい。そんな偶然に顔をほころばせるクリスティーヌだったが、ちょっとした色男クノにはマリアも目をつけた。それからというものクノをはじめとする男性ボランティアとしゃべるのに夢中で、クリスティーヌは放っておかれる始末。大会堂での宗教的儀式の際にも、仲間としゃべってばかりだ。そんな様子を見かねて、あのハートゥルがクリスティーヌの車イスを押して前のほうに連れて行ってくれる。しかしこれが元でマリアはセシルに怒られ、マリアはハートゥルに八つ当たり。クリスティーヌへの態度も明らかに乱暴になる。結局、マリアはクノの尻を追いかけ回していなくなり、ハートゥルがクリスティーヌの車イスを押して歩くハメになった。そんなある日、脳に障害を持った娘が突然意識を取り戻し、母親が狂喜するという「奇跡」が起きる。今までにも数々の「奇跡」が起きてきたこのルルドの地だが、中にはその後すぐに元通りということもあった。果たしてこの「奇跡」はどうなのか? また最終夜の「お別れ会」の準備をしていたセシルが、突然具合が悪くなって倒れるというアクシデントも起きた。そんな数々の出来事に、巡礼参加者誰もが運と不運の不条理さを考えずにいられない。それはクリスティーヌも無縁ではなかった。彼女はある日、聖地で霊験あらたかな岩に手を伸ばして触れている自分に気づく。さらにその夜のこと、眠っていたベッドからゆっくりと起きあがり、自分の足で立ち上がるではないか!

みたあと

 実は僕がこの映画を見に行った時、映画のちょうど中間あたりで上映事故が起きて、上映が中断されてしまった。当然、見ている側の緊張感は解けてしまって興ざめするかと思いきや、驚くべきことにまったく集中力が途切れず、最後まで引き込まれて見てしまったからビックリ。実はそのくらい、この映画は面白い映画だったのだ。タルコフスキーの「惑星ソラリス」(1972)でも使われた大好きな曲、バッハの作曲コラール前奏曲「イエスよ、私は主の名を呼ぶ」が何度も流れるあたりも個人的には嬉しい。お話としては、基本的には車イスのヒロインが「聖地」である保養所に行って、巡礼を繰り返すうちに「奇跡」が起きて…というだけの話。驚くべきことは「奇跡」以外何も起きず、肝心の「奇跡」が起きる時もファンファーレひとつ鳴るわけでもない。実に淡々と物語が進行していく。おまけにお話はむしろ「奇跡」が起きてからが本番という不思議な構成。娯楽的な発想で言えば退屈極まりないはずの映画なのだが、なぜか映画全編に不思議な緊張感が漂う。その緊張感とは、「奇跡」などではなく映画に登場する人間たちによって生まれているのだ。

みどころ

 前述したストーリーは、それなりに丹念に画面からディティールを細かく拾ってまとめたものだ。荒っぽく言えば、先にも述べたように“車イスのヒロインが「聖地」である保養所に行って、巡礼を繰り返すうちに「奇跡」が起きて…”のような「一筆書き」みたいな筋書きしかない。この映画は登場人物の数々のディティールが命だ。主要な登場人物はほぼ10人程度に絞られるのだが、それら主要人物たちのその時々の言葉じり、眼差し、ちょっとした行動…などがそれぞれ意味を持つ。そこで各人の思惑がさまざまな交錯する様子が何とも興味深く、しかもリアリティに富んでいる。その描き方の細かさたるや、ジョン・ヒューストンの遺作「ザ・デッド/<ダブリン市民>より」(1987)のパーティー場面に匹敵すると言ったら言い過ぎだろうか。あの作品のナイフ・フォークの上げ下げに至るまで計算されたような、見事な人物の描かれ方を想起してしまった。そして出てくる人間たちが、「善」「悪」などの単純で頭でこしらえたようなキャラクタライズを超えて、活きいきと描かれていることにも注目だ。この聖地で働くボランティアたちを統率するセシルは誰よりも献身的でキッチリして信仰にも揺るぎがないようだが、その世話の仕方や人との接し方にはどこか血の通っていないモノが感じられる。ヒロインと同室のオバサンは熱心に聖母マリアに祈りを捧げるが、その取っつきにくい風貌や無口さも災いしてか、あまりの信心深さが奇異に見られてしまう。しかもひたすら信心深く誠実なのかと言えば、列に並んでいる時にヒロインたち身障者が優先されていく様子を見つめて、内心面白くなさそうな表情を見せる。だから、後に彼女がヒロインの車イスを押してやる時も、それが必ずしもヒロインに対する「献身」によるものとは言い切れない。同じボランティア仲間とくっちゃべってる方がメインになっていくマリアも、チャランポランな若者像といえば確かにその通りだが、 「何か人の役に立ちたくて」などと言っていた気持ちにあながちウソはないだろう。「奇跡」をバカにして他人のウワサ話に興じるオバチャン二人組(それにしても、洋の東西を問わずババアってのはみんなこんなものかと笑った!)も、ある時には「神」に触れたのかワーワー泣いたりもする。ヒロイン自身もどこか「奇跡」にサメた視線を送りながら、それでもどこかで「それ」を信じたいと心のどこかで思っている。このあたり、演じるシルヴィー・テステュー本来の「ちょっとシラケた感じ」がうまく活かされている。そしてヒロインは自分に「奇跡」が起きるや、うれしさのあまり調子こいてしまうことを止められない。この映画はキレイごとでもなく露悪趣味でもない、リアルな人間像の彫り込みが尋常ではないのだ。そしてヒロインに「奇跡」が起きた後の、人々の描き方もシビアだ。例のオバチャン二人組はにわか有名人となったヒロインにオモテ向きは賞賛しながら、裏では露骨に「何でこんな娘が」と揶揄することにためらいがない。元々ヒロインに愛想よく振る舞っていたボランティアの男は、若い娘を放ったらかしてヒロインに一層踏み込んだかたちで接近してくる。そもそも当のヒロイン自身が男にチヤホヤされて「その気」になってしまうし、他の「奇跡」が起きない人々の気持ちも考えずに「どや顔」。それまで自分を世話してくれたオバサンをも邪険にしてしまう。…まぁ、しかし正直言って無愛想で無口でちょっと奇妙なこのオバチャン、一緒にいても楽しくなさそうだし、信仰の厚さも度を超していて辟易してしまうのも無理はない。おそらく僕でも冷たくしまうだろうと思わされる。確かにひどい話だがそれも現実で、そのあたりも監督・脚本を手がけたオーストリア出身の女性監督ジェシカ・ハウスナーはまったく容赦がない。ただ、シビアに「どうせ人間こんなもの」と突き放すだけで終わるなら、ヨーロッパのアート系監督が作るよくありがちな頭でっかち映画のパターン。この監督の優れた点は、映画をそれで終わらせないところなのである。

おまけ

 映画の終盤は「奇跡」のヒロインを中心に囲んだ「お別れ会」。表向きはみんな拍手なんぞしているが、「何であいつが」的な嫉妬や揶揄が渦巻いている。ヒロインもボランティア男とダンスしたりして、すっかり「その気」だ。ところがヒロインはダンスの途中で、足がよろけて倒れてしまう。すると、ヒロインは動揺を隠せなくなり、周囲の空気も一気に冷え込んでしまう。ひょっとしたら「奇跡」は一過性のモノかもしれないという恐れが襲いかかってくる。それを振り払おうと無理に明るく振る舞うヒロインだが、ヤバイと思った男は逃げるように去っていく。傍観者たちのヒロインに対する「ざまぁ」と言わんばかりの空気も、イヤというほど伝わってくる。人は他人の不幸が何より大好物だ。近寄って来たのは、ただ一人あの無愛想なオバチャンだけ。しかしヒロインはよりによって「貧乏神」が寄って来たような気がして、苦虫をかみつぶしたような表情しか出来ない…。この「お別れ会」の何とも居たたまれないような雰囲気は、ダスティン・ホフマンとエマ・トンプソン主演の「新しい人生のはじめかた」(2008)に何度も出てきた宴会シーンを連想させるほど、見ていて皮膚がヒリヒリしてきそうなイヤ〜な感じだ。僕もこういう宴席を何度も経験してきた。というか、実は僕はこういう人間模様が垣間見えるから宴席が大嫌いなのである。しかしジェシカ・ハウスナーは、最後の最後に思いがけないウルトラCを見せる。ヒロインはしばらく呆然と前方を見つめているが、いつしかオバチャンの持ってきた車イスに自ら腰掛け、わずかに微笑んで心の平安を得るのである。このエンディングには驚嘆してしまった。実際のところ…世の中でよく言われることだが、「努力が必ず報われるか」と言えば必ずしもそうではない。というか、「報われない」ことの方がずっと多いはずだ。劇中でも信仰深く献身的なボランティア・リーダーのセシルは、それにも関わらずなぜか過労で倒れてしまう。必死に病の全快を祈る身障者たちもほとんどは願いが叶わないし、脳性マヒらしき病に苦しんでいる少女も一瞬は「奇跡」が起きたように見えるが、すぐに元の木阿弥となってしまう。そのくせ、ロクに信仰もなさそうなヒロインだけが治ってしまうのだ。人生は不条理なモノなのである。僕も大したことのない人生ではあるが、その中で人生の不条理性だけはたっぷり学んだ。人生とはそういうものなのだ。だからヒロインも治って調子こいて大喜びするものの、その後で「せっかく手に入れたモノをまた奪われる」不安に苛まれる。それは不当でフェアじゃないと思える。しかし、それが人生というもので致し方のないことなのである。僕も若い頃は自分の不運を嘆いたし、世間の他の人を羨んでフェアじゃないと怒ってもきた。しかし実際この年齢になってみると、意外と人の一生ってやつはそれなりに帳尻が合っているものだ。そして仮に帳尻が合わないにしても、その不条理さやアンフェアさを嘆いているうちは、ちっとも幸せになれないことが分かってくる。すごく志が低いことを言っているように思われてしまうかもしれないが、人間は自分の人生に与えられたモノで満足しなくてはならないし、満足すべきものなのだ。自分ではない誰かに「与えられて」もそれが人生、自分に与えられたモノが「奪われて」も、それもまた人生だ。そういうものだと納得し、手持ちのモノで満足することも必要なのである。そして、そこには何か意味がある。ただし、それがどんな意味を持つのかは僕ら自身には分からないし、分かってもずっと後のことだが…。極めて曖昧に見えるこの映画のエンディングだが、僕はそんな自分の経験を思い返していたし、だからこのエンディングにすごく納得した。ヒロインはこのパーティーの終盤に、たぶんそんな「人生の真理」を会得したのだ。この映画の幕切れは、究極のハッピーエンディングなのである。

さいごのひとこと

 御利益は期待しないが吉。

 

「永遠の僕たち」

 Restless

Date:2012 / 01 /23

みるまえ

 僕も長く映画を見てきているが、その中でどうしても相性の悪い俳優や監督ってのはいる。それも、どうしても好きになれないとか口に合わないというならまだしも、なぜか巡り合わせが悪くて作品をパスしちゃうっていう人が必ずいるのだ。例えばガス・ヴァン・サントって監督がその典型かもしれない。これだけ有名な監督でほぼ毎年のように新作が届けられ、それらの多くが話題作…という存在にも関わらず、ほとんどといっていいほど映画そのものを見ていない。よくよく考えてみると、初期の「マイ・プライベート・アイダホ」(1991)と「グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち」(1997)、そしてあの壮絶な「サイコ」リメイク版(1998)ぐらいしか見ていない。あとは何だかんだ言って、作品をことごとく見逃している。おそらくみなさんも、このサイトでガス・ヴァン・サント作品の感想を読んだ覚えはないはずだ。しかし、僕は決してガス・ヴァン・サント作品を毛嫌いして、見ないようにしているわけではない。たまたま毎回偶然にそういう状況になっているだけだ。そんなところに、またまたガス・ヴァン・サント作品がやって来た。「死」を題材にした恋愛映画。おまけに日本から加瀬亮も参加するという異色作。たまたまお正月映画のこのタイミングに公開だ。これは久々にガス・ヴァン・サント作品を見なくちゃいかんだろう。

ないよう

 喪服を着た青年イーノック(ヘンリー・ホッパー)が、葬式に参列している。ところが彼は、どうやらこの葬式にまったく関係のない人物のようだ。そのうち参列者のひとり、帽子をかぶった女の子アナベル(ミア・ワシコウスカ)に気づかれて、慌ててその場を立ち去る。彼は毎日こんな調子で、無関係な葬式に顔を出すのを日課としていた。そのうち怪しまれて慌てて逃げたりもしていたが、ついに毎回のように葬式に出ていたことからイーノックは葬儀屋に捕まってしまう。これは万事窮す…と思ったその時、助け船を出してくれたのが例のアナベル。こうしてイーノックはアナベルと親しくなったのであった。そんなイーノックは事故で両親を失ってからは、叔母メイベル(ジェーン・アダムス)に引き取られて二人で暮らしている。しかしそんな叔母にも心を閉ざし、学校にも行かずに引きこもり状態だ。唯一の心の友は、なぜか彼にしか見えないヒロシ(加瀬亮)。ヒロシは幽霊で、日本人の特攻隊員だ。イーノックはそんなヒロシと、いつもとりとめのない話をしながらブラブラしていた。そんなイーノックの日常に、アナベルが加わってくる。イーノックはアナベルを両親の墓に連れていって「紹介」し、彼女も家で姉のエリザベス(シュイラー・フィスク)にイーノックのことを話した。こうしておずおずと親しくなっていった二人。しかしそんなアナベルに、非情な知らせが届く。彼女のガンが再発し、致命的な状況にあるというのだ…。

みたあと

 実はいきなりこんな事を書くのも気が重いのだが、僕はこの映画が始まって早々、非常に不愉快になった。主人公であるイーノック(ヘンリー・ホッパー)が、何の関係もない人の葬儀に顔を出す趣味がある…という場面から始まったからだ。案の定、葬儀屋に見つかって問いつめられる主人公。映画ではそんな彼が辛くもヒロインによって救われるあたりを、少々「痛快」に描かれている。しかし僕はこの瞬間に、この主人公にも映画自体にも共感できなくなった。こんな主人公を「肯定的」に描いていることが、どうにも納得できなかったのだ。

こうすれば

 主人公は両親を事故で失い、しかも自分も臨死体験をした青年だ。そのショックで学校でもトラブルを起こし、今は引きこもり状態。大変お気の毒な身の上だ。しかしながら、だからといって何をやってもいいし許されるわけではあるまい。葬式を開く側になった僕から言わせてみれば、このガキはふざけている。映画の作者も、どうせ葬儀の参列者などは心のこもっていないスピーチをしたり偽善者ばかりだから、葬儀をナメてかかってもいい…的な描き方をしているが、それもまた不愉快だ。少なくともオレは、父親の葬儀には厳粛な気持ちで参列した。こんなガキなどやって来たら、思い切り半殺しにしたかったよ。ガス・ヴァン・サントは自分の身内の葬儀をバカにされても構わないのだろうか? いいや、そうではあるまい。しかもこのガキの振る舞いはそれに留まらず、世の中ナメきっているとしか思えない。叔母は両親を亡くしたこのガキのためにキャリアを犠牲にして引き取ってやったのに、このガキは感謝するどころかワガママし放題。心配して学校のパンフレットなどを渡す叔母に対して、失礼きわまりない態度をする。しかも、自分が昏睡状態にあるうちに勝手に両親の葬式をした…とスネる。おまけに死んだ両親に対しても「勝手に死にやがって」と悪口雑言。さらにはヒロインのアナベルの具合が悪くなったら、主治医のところに乗り込んで行って「医者なら治せよ、このボケ!」みたいなことをわめいて暴れる。ついにはアナベルにもキレて、彼女のもとから去ってしまうのだ。こいつ何様なのだ。というか、どこまでガキなのだ。そりゃあこいつのツラさは僕には理解できない、僕なんかより大変な思いをしているんだと言われるかもしれない。それでも僕には、こいつは甘ったれたクソガキにしか思えない。どんなツラい思いをしたからって、何をやってもいいことにはならないだろう。劇中でこいつはあまりに調子こきすぎ、増長しすぎだ。こいつの言動はどれもこれも目に余るものがあるが、特に弁護の余地がないのがアナベルに対してキレるくだり。両親を亡くしてボクちゃんはかわいそうなんだゾ…と言いたいところなんだろうが、当人が死に直面しているほどツラい訳はあるまい。どんだけ自分が一番ツライと思っているんだ。これほど不愉快な主人公を、オレは久々にスクリーンで見たよ。それなのに、この映画はあちこちで絶賛の嵐。こういう主人公は大目に見てやるのが社会的な慣例で、そうできない奴は心が狭いってことになるのだろうか? カンベンしてくれよ。こんな主人公を肯定し容認するなんて、どれだけおめでたいんだ。ヘンリー・ホッパーの「ボク傷ついているんだゾ」的な表情もムカついて、見ていて本気でイライラした。僕は主人公を甘やかす映画は、徹頭徹尾ダメなのである。

みどころ

 そんなわけで本当に不愉快な気持ちで見ていたが、終盤に主人公は「改心(?)」して、自分が罵ったりした人々に謝罪する。僕は劇中で主要人物が謝罪する映画には好感を持つのでやっとこホッとして見たが、そこまでの主人公の悪行があまりにひどいので、終盤でようやく主人公に「改心」されても映画の印象は完全には改善されない。今さら遅いんだよ。ヒロインの人間像や加瀬亮演じる特攻隊員ヒロシの描き方など、心惹かれる要素も多分にあるのに、映画全体については好感が持てない。ガス・ヴァン・サントの映画そのものが僕に合わないのだろうか? 正直言ってこれほどのクソ映画を見せられた後で、次の彼の新作を見るかどうかは極めて疑問だ。

さいごのひとこと

 主人公にオマエが死ねと言いたい。

 

「宇宙人ポール」

 Paul

Date:2012 / 01 / 23

みるまえ

 この映画については、映画館に置いてあるチラシで知った。しかし、二人組のオタクが宇宙人と出会って一緒に逃げる話ということしか知らず、詳しいことは何も分からないまま。それでも「宇宙人」と聞けば映画を見ないわけにはいかない(笑)。出演者のことも監督のこともよく知らないまま、映画館に駆けつけた次第。正直言って出演者たちの顔に馴染みがないこともあって、昨今溢れかえる悪ふざけみたいなアメリカン・コメディの1本だろう…ぐらいにしか考えてなかった。果たして面白いのかこの映画。

ないよう

 1947年、アメリカはワイオミング州の片田舎。野原にポツンと建っている一軒家で、少女が愛犬の名を呼んでいる。そのうち外の様子がおかしいことに気づいた少女は、家の外に出て行ってビックリ。いきなりまばゆい光を放つ不思議な飛行物体が現れて…。それから幾年月。現在のアメリカ、サンディエゴで、盛大な「コミコン」が行われている。これはいわゆるSFマニアやコミックマニアが集まる巨大なコンベンションだ。そこにウロチョロしているのは、イギリスから来たオタク野郎二人組…グレアム(サイモン・ペッグ)とクライブ(ニック・フロスト)。この二人、グレアムはイラストレーター、クライブはSF作家…ということより何より、SFオタクというのがまず先に立つ連中。コンベンションに溢れかえるオタクたちを見ながら、「いや〜、馴染むな〜」と感慨しきりだ。彼らはやっとこ休暇をとって、長年の夢だったアメリカ旅行を実現させた。そしてやって来た「コミコン」で、故郷から遠く離れているのに妙に親近感が湧く雰囲気に嬉しくなってしまったわけだ。憧れの作家にサインしてもらったりしてウキウキ。この「コミコン」を皮切りに、数々のSFスポットを回るアメリカ縦断の旅に出ようというわけだ。ホテルの従業員にゲイ・カップル扱いされながらも、二人はレンタカーで借りたRV車に乗って、念願の旅をスタートさせる。政府が宇宙人を隠しているとウワサのエリア51などの「名所」を回り、SFファンには垂涎のカフェ「リトル・エイリアンイン」に行ったところまでは良かったが、ゴキゲンなあまりグレアムが不用意に別の客に笑いかけたのがマズかった。いかにもアメリカの田舎にいそうなクズ白人ハンターがこれにイチャモン。妙にケンカを売ってくるではないか。イヤ〜な雰囲気に慌てて「リトル・エイリアンイン」から逃げ出すグレアムとクライブだったが、慌てた拍子にRV車を例のクズ白人のクルマにぶつけてしまったから大変。慌てて急加速、逃げろや逃げろ。アメリカのど田舎はコワイ。そんなこんなでついつい、後ろから奴らが追いかけて来ないか…と気にしながらのドライブとなる。ところが夜も更けてから、後方から猛スピードのクルマがどんどん追いついてくるではないか。ヤバイ、あの連中が仕返しにやって来た! 慌ててRV車を加速するグレアムとクライブだが、後方のクルマはそれよりもさらに猛スピード。一気にRV車を追い越すや否や、いきなり事故を起こしてしまうではないか。そのクルマは、あのクズ白人のクルマではなかった。それでは、こいつは一体何なんだ? おそるおそるクルマに近づいてみるグレアムとクライブに、暗がりから何者かが声をかけるではないか。次の瞬間、二人の前に現れたのは「いかにも」の姿をした宇宙人! それを見たとたん、クライブが気を失って倒れてしまう。「やれやれ、またかよ」…とため息をつきながら英語でしゃべるその宇宙人は、自らを「ポール」(セス・ローゲン)と名乗った。そして慌てふためくグレアムに、「追っ手から逃げている、助けて欲しい」と懇願。あれよあれよの展開に判断がつかないグレアムだったが、結局、彼は「ポール」をRV車に乗せて一緒に旅することになった。ところがそれから間もなくのこと、クルマの事故現場に一人の男がやって来る。その男の名はロレンツォ・ゾイル特別捜査官(ジェイソン・ベイトマン)。彼は女性の上司に連絡をとって事の次第を連絡。明らかにゾイル捜査官が追っているのは、あの「ポール」に間違いない。するとこの女性上司は、ゾイル捜査官に冷たくこう言い放つのだった。「見つかったら殺しても構わないわ!」

みたあと

 まず最初にハッキリ言っておかなければならない。この映画は面白い! そして何より愛すべき映画だ。スピルバーグの「未知との遭遇」(1977)、「E.T.」(1982)を初めとする宇宙人SF映画にオマージュを捧げた映画だろうとは想像がついていたが、まさかここまでとは。というか、そもそもオマージュ映画ってのは大抵が押しつけがましい独りよがりの「愛情」ベタベタなシロモノで、見ていて暑苦しいモノが少なくない。内輪の笑いを強要されて、見ている側にとってはつまらない映画になりかねない。ところがこの映画は、そのあたりが程良くブレンドされて好感が持てる。感じとしては昨年の「スーパーエイト」(2011)が真っ正面から行ったスピルバーグSFリスペクトを、こちらは裏口から笑いをベースに行ったみたい…と言えばお分かりいただけるだろうか。あるいは「スタートレック」などSFテレビ・映画への愛情を爆発させたような、「ギャラクシー・クエスト」(1999)以来の傑作と言うべきだろうか。ここまで語ったようなSF映画、スピルバーグ映画などへの愛情を前面に出しながら、ベースとしているのはアメリカ映画十八番のロードムービー構成。道中の途中でさまざまな諍いやトラブルがありながら、最後はすべてを乗り越えて力を合わせていく。見る前は「昨今よく見かける悪ふざけみたいなアメリカン・コメディーだろう」ぐらいにしか思わなかったのだが、さにあらず。スピルバーグ映画などへの目配せはあるものの、それも映画のバランスを崩すほどではない。むしろ見終わってみるとその手の「悪ふざけコメディー」というより「アメリカ映画の王道」の印象が強いのだ。そのくらいストレートで真っ当な娯楽映画として仕上がっているから、僕としては驚かされたのである。そして、意外にも「どストレート」な娯楽映画だけに、むしろ感想文は書きにくい。自分でもこの映画の面白さを文章で伝えるのは難しい…と思いながら、今この文章を書いているのである。

!!!映画を見てから読んで!!!

みどころ

 ただ、「アメリカ映画の王道」などと書いてはみたが、実はこの映画、純粋なアメリカ映画ではない。監督のグレッグ・モットーラこそアメリカ人だが、そもそものこの映画のクリエイターは、主演コンビでもあり脚本も書いたイギリス人のサイモン・ペッグとニック・フロストの二人。制作が一連のヒュー・グラント主演コメディなどを作ってきたワーキング・タイトルであることから見てもお分かりの通り、この映画は本来「イギリス映画」というべき制作布陣なのである。そういう目で改めて見直してみると、冒頭の主人公二人の「外国人」としてのハシャギようも頷ける。僕も今から20年以上前に初めての海外旅行としてアメリカのロサンゼルスに行った時は、完全におのぼりさんとして舞い上がった。「映画の都」ハリウッドを間近に見て、いやが上にもウキウキしてしまったものだ。この映画には、そんな外国人の「アメリカ礼賛」気分が溢れている。これはすごく実感として分かる。しかし、またそれで終わらないところがイギリス人。主人公たちは「コミコン」で「すごく馴染むな」とハシャギまくるが、一歩外に出るとたちまち偏狭な田舎のクズ白人にインネンをつけられる。このクズ白人が迷彩服みたいなズボンをはいていて、ミリタリー好きな右翼っぽい男に描かれているのも「いかにも」だ。さらに、宇宙人ポールと主人公二人を追いかけてくる連中のバカな政府の捜査官二人組とか、キリスト教原理主義の偏屈なオッサンとか…「病んだアメリカ」が主人公たちの敵として次々登場。これらが徹底的にコケにされるあたりが、イギリスの映画らしいのである。確かにアメリカは夢に見るほど魅力的な国ではあるのだが、一方、夢に出そうなほどイヤな部分も持っている。この映画がさりげなくもちょっぴりその部分に触れているあたりが、絶妙な隠し味になっているのだ。しかもそうした宇宙人ポールの邪魔をしようとする連中が、かなり有無を言わせぬ退場のさせられ方をするのもおかしい。中でも前述のアホ捜査官二人組とか女上司とかに至っては、かなりドス黒い笑いを伴う退場のさせられ方。このあたりも、いかにもイギリスらしいブラックユーモアかもしれない。ただ、基本的にはこの映画はアメリカ映画十八番の「ロードムービー」の構造を持っていて、なおかつテーマ的にもアメリカ映画王道の前向きな「今の自分からちょっと冒険してみよう」というメッセージを持っている。まず宇宙人ポールは最初に主人公オタク二人組(片方はその時に気絶しているが)に出会った際に、「ちょっとは冒険してみろよ」と挑発して自分の脱出の手助けを懇願。途中で拾ったキリスト教狂信者の娘に対しても、同様に「冒険してみろ」という言葉を放っている。そして終盤にポールが命を懸けて主人公の片方を蘇生させた時も、ポール自身がさりげなく「オレもちょっと冒険してみたのさ」と言っているのだ。そんなアメリカ映画的真っ当さを持っているこの作品だが、一方で映画の作り手はそんな真っ当さに「照れて」もいる。実際のところ、「照れ」もなしに真っ当さだけを前面に押し出されても、見ているこちらもいささかツラくなってしまうだろう。そこをイギリス流のちょっとした皮肉やらオタクっぽい「やりすぎ」感、さらにはセス・ローゲンが作り上げた「ポール」の人を食ったようなキャラクターで絶妙に中和させたところが見事。そんな程良いブレンド感が、この映画を単純なアメリカ的前向き映画や偏狭なオタク映画、「悪ふざけ」的パロディー映画になることから救っている。これはなかなか難しいさじ加減だが、この映画は奇跡的にそれをやり遂げているのである。主演の二人は冒頭で「馴染みがない」などと書いてしまったが、サイモン・ペッグは「ナルニア国物語/第3章 アスラン王と魔法の島」(2010)でネズミのリーピチープの声を担当し、「ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル」(2011)でもチームの一員として目立ちまくっていた男ではないか。一方のニック・フロストも、「パイレーツ・ロック」(2009)で太ったDJを演じていた。しかもしかも、この二人は「タンタンの冒険/ユニコーン号の秘密」(2011)で双子のようにそっくりな二人組刑事の声も担当している。結構、近年あちこちで注目されていた二人で、ゾンビ映画をオマージュした「ショーン・オブ・ザ・デッド」(2004)、刑事アクションをオマージュした「ホット・ファズ/俺たちスーパーポリスメン!」(2001)といった作品で、コンビを組んで活躍もしている。知らなかったのは僕だけでした(笑)。まぁ、この手のジャンルはあまり好きではないので、目にすることもなかったというわけ。まったくお恥ずかしい話だ。嬉しくなったのはサプライズ・キャストであるシガーニー・ウィーバーで、ここに出てくるのはいろいろな意味で楽しい。「ギャラクシー・クエスト」への登場といい、分かっているなこの人は。そして何より素晴らしいのが、「ポール」の声とモーション・キャプチャーを担当したセス・ローゲン。彼が人を食ったあの調子で「ポール」の声を担当しているから、この映画に絶妙な軽さが出た。「悪ふざけ」にもならなかったし、ちょっとマジメになりすぎなところを笑いに引き戻してもいた。正直言ってこの映画の最大の貢献者が、このセス・ローゲンではないか。これまでボロクソにケナしてきたが、「50/50(フィフティ・フィフティ)」(2011)に次いでまたまた見直してしまった。とにかくすべてが終わってからの「コミコン」でのエピローグは、みんながハッピーになる大団円。見ている僕らの幸福感はハンパじゃない。そのエンディングに流れるエレクトリック・ライト・オーケストラの「オール・オーバー・ザ・ワールド」の使い方もシャレている。完全にこの映画にはノックアウトされたけど、この素晴らしさは文章では伝えられないなぁ。

さいごのひとこと

 アメリカはエイリアン(外国人)には居づらい国。

 

「ブリューゲルの動く絵」

 The Mill and the Cross

Date:2012 / 01 / 09

みるまえ

 この映画のことは映画館のチラシで知っていた。お久しぶりのルトガー・ハウアーが有名な画家に扮しているが、お恥ずかしいことに僕はブリューゲルなる画家に詳しいとは言い難い。画家が自分の描いている絵の世界に入っていく話なのか、CG技術などを駆使して実写と絵を混ぜ合わせた映画になっているようだ。ハリウッド娯楽映画にはエフェクト系の作品はゴマンとあるが、一般的にはアート映画でエフェクトを駆使した作品は極めて珍しい。それとハウアー主演ってのが気になってはいたが、この画家に関心も知識もないというのがイマイチ気を重くさせていた。しかしある人から「面白い」との連絡をいただき、結局重い腰を上げた次第。実はこれが2012年最初の映画となったわけだ。

ないよう

 16世紀、フランドル地方。…と見えて、実はそれは絵画の中の世界なのか。かの有名な画家ピーテル・ブリューゲルの大作「十字架を担うキリスト」に描かれた世界が、そのまま目の前に広がっている。それどころか、その中にブリューゲル本人(ルトガー・ハウアー)がいるではないか。彼は目の前に広がる光景や人物たちを描き写しながら、この大作に意欲的に取り組んでいる。これはそんなブリューゲルの創作の秘密に分け入ろうという試みだ。「十字架を担うキリスト」の舞台となっているフランドル地方に、今日も朝がやって来る。若夫婦は寝床でイチャつき、別の家の子供たちはキャッキャと暴れ、主婦は掃除に余念がない。そしてこの地のランドマークのようにそびえ立つ岩山の上の風車では、粉屋が小麦粉を挽いてパンをこしらえていた。いつもと同じ庶民の営みが、そこにはあった。ところがどこからともなく赤い服を着た騎士たちの一団がやって来て、たまたまその場にいた若い男をなぶりものにし始める。さらに若い妻の見ている前で惨殺すると、車輪に縛り付けて木の棒で高く掲げて、カラスの餌にしてしまう。若い妻はその周囲で泣きはらすが、周囲はどうすることもできない。この赤い服の連中は王に雇われた傭兵で、異端者を殺すために集められたならず者たち。王のお墨付きを得ていることをいいことに、あちこちを我がもの顔でうろついていた。ブリューゲルの友人にしてパトロンのニクラース・ヨンゲリンク(マイケル・ヨーク)は、日頃からそんな連中を苦々しく思っていた。この状況を絵にはできないか…とヨンゲリンクに頼まれるブリューゲルだが、元より彼もこんな世の中の状況を1枚の絵にしたいと考えてはいた。「そのためには、大きな画面がいるな」…そんなブリューゲルの構想は、このフランドル地方を背景にしてキリストの処刑を描くというもの。理不尽そのものの世の中は、キリスト処刑当時にどこか共通するモノがある。キリストの処刑は世界を揺るがす大事件だったはずだが、当時の人々には必ずしもそうは受け止められなかったのではないか? そして例え何があろうとも、一般大衆はその時だけ騒いで、後には何も変わらない現実があるのではないか? そんなブリューゲルのイマジネーションの中で、フランドル地方に活き活きと処刑を待つキリストが蘇る。毎日の暮らしを平々凡々と営んでいる庶民たちの傍らで、キリストの処刑という一大事件が進行する。キリストを産んだ聖母マリア(シャーロット・ランプリング)も、為す術もなく嘆くだけだ。十字架を担がされて処刑場まで歩かされているキリストと、彼を連行する兵士たち、そして彼らを取り巻く野次馬たち…それこそまさに大作「十字架を担うキリスト」の世界。それを目の当たりにしたヨンゲリンクは、「この状態を止めてみせることはできるか?」とブリューゲルに頼み込む。するとブリューゲルは岩山上の風車にいる、粉屋のオヤジに合図を送った。それを見た粉屋のオヤジは、ゆっくりと動いていた風車を止める。その瞬間…何と十字架を運ぶキリスト、兵士たち、周囲の群衆も含めて、すべての人々がピタリと停止するではないか…。

みたあと

  正直言ってここまで書いてきたストーリーで、この映画がどんな作品かを伝えられているとは思わない。ここまで読んでいただいてこう言うのも何だが、これは実物を見ていただかないと分からない作品なのである。実はこの映画を見に行った日はかなりの寝不足状態で、おまけに映画館の中はヤケクソに暖房を炊いているという最悪のコンディション。何もあんなに暖めることはないと思うのだが…。映画そのものも淡々とした進行だったので、白状すると時々ウッツラウッツラしそうになったのも事実。しかし結局眠らないで見てしまったのは、この映画のユニークなビジュアルゆえだ。実は有名な絵画の中に実際の人物が飛び込む…という趣向なら、これまでもいくつかの映画で試みられてはいた。そんな中で僕がすぐに思い浮かべるのは、ジャン=リュック・ゴダールの「パッション」(1982)。過去の名画を実写で再現しようとしている映画監督のお話で、実際にそれらの絵画の「再現場面」も出てくるが、何でそんなことやってるのかほとんど不毛にしか思えなかった(笑)。まぁ、これはあまり参考にならないな。そして次に浮かんでくるのが、ゴッホの絵の中に登場人物が入っていく黒澤明の「夢」(1990)。ところが「ハイビジョン」を使ったとか黒澤明がどや顔で言っていた割には、ただ絵に実写を合成しただけで面白くも何ともなかった。巨匠すでにボケちゃってたのかなぁ。それと比べるとサエていたのは、アニメと実写の合成で見せる冒険活劇「ルーニー・テューンズ/バック・イン・アクション」(2003)。溶けた時計でおなじみダリの「記憶の固執」やムンクの「叫び」の中にバッグス・バニーたちが入り込むという趣向だが、作り手のセンスが感じられてよかった。バッグス・バニーも入り込む絵のタッチに合わせて描かれる(笑)なんて、なかなかシャレてるのだ。あと、エリック・ロメールがフランス革命を背景に描いた「グレースと公爵」(2001)。絵画の中に実写の人物をCG合成することで当時のパリの街を再現する…という何とも大胆な手法だったようだが、残念ながら僕はこれを見ていないので何とも言えない。…で、今回の「ブリューゲルの動く絵」だが、これは今までのその手の作品とはまったく一線を画する。実際の絵を素材に使っているだろうし、実写の映像を合成もしているだろう。後処理のためにCGも使っているのだろうが、それ以外にもアレコレ手を加えているのは明らか。実際のヨーロッパの田舎で撮影されたロケ映像を入れたり、おそらくスタジオで撮影された人物映像を入れたり…その他にもさまざまな映像素材をかき集めていじっていることは間違いない。何しろエンド・クレジットを見たら、空の雲はわざわざニュージーランドで撮影されたモノ(!)だと書いてあるくらい。つまり、ゴッホの絵にちょっとカラスや人物を合成しちゃいました…なんて黒澤明の「夢」なんか引き合いに出すのが失礼なほど、手の込んだ細工をしているのである。そして絵が絡んだ映像はほぼ映画の全編に溢れていて、庶民の家の場面でも窓や開けた扉から絵の世界が見えるように設計されているし、どのショットも一発撮りなのか絵の要素が絡んでいるのか一見では判断できないほど、すべての映像素材が渾然一体となって作られているのだ。これは大変な労作ではないか。正直言ってビックリした。これはまさに絵と実写の合体とか合成とかいう類のモノではなくて、僕ら観客が丸ごと絵の世界に入っていくような、ある意味で3D映画のような映像体験なのである。監督のレフ・マイェフスキはポーランド出身の人らしく、今まで監督作はほとんど日本公開されていないようだが、あのジェフリー・ライトが主演した「バスキア」(1996)の製作・脚本を手がけていたとか。ということは、やっぱり美術に造詣が深い人なのだろうか。

みどころ

 そんなCGまでも駆使した絵画世界の再現も素晴らしいが、この映画にはもっと素晴らしい点がある。映画の中では16世紀のフランドル地方でキリスト処刑劇が繰り広げられることになるが、その傍らで、子供たちがメシを食ったり主婦が床を磨いたり、粉屋が風車の力を使って粉をひいたり…というような庶民の生活のひとコマが、ポツンポツンと途中にインサートされていく。それらのひとつひとつの描写が、何ともリアルなのだ。撮影もスタジオ内というよりは実際の古い家屋や建物を使って行われたようで、その黒光りするような床や壁などを見るだけでも見応えがある。だからこれらの庶民の生活スケッチみたいな描写も、どれもこれも尋常でないホンモノっぽさなのだ。これはある意味でスタンリー・キューブリックが18世紀ヨーロッパを舞台に描いた「バリー・リンドン」(1975)での、場面描写のリアルさに匹敵するかも。あちらが貴族社会ならこちらは庶民、あちらがまるでタイムマシーンで冷徹に観察しているようなら、こちらは寓話的な語り口…とそれぞれ違いはあるが、ともかく当時の空気感まで伝えているようなリアルさはハンパじゃない。むしろ絵画の世界に観客を引っ張り込むというより、当時の社会そのものに引っ張り込もうというのがこの作品の趣旨かもしれない。

さいごのひとこと

 人を殺さないハウアーも久しぶり。

 

「ロンドン・ブルバード/LAST BODYGUARD」

 London Boulevard

Date:2012 / 01 / 09

みるまえ

 この映画について知ったのは、公開直前のチラシをどこかの映画館で見たから。コリン・ファレルとキーラ・ナイトレイ、それぞれハリウッドで主演作も持てる役者二人が共演…。作品はどこか英国臭漂う犯罪モノ。面白そうな雰囲気ではないか。何でもキーラ・ナイトレイが引退状態のスターでコリン・ファレルがそのボディガードになった前科者…という設定らしい。何となくあのニール・ジョーダンの傑作「モナリザ」(1986)みたいな雰囲気の作品になっていれば嬉しいが、サブタイトルにチョコっと入った「LAST BODYGUARD」ってのが気になる。まさかケビン・コスナーとホイットニー・ヒューストンの「ボディガード」(1992)のようなヌルい作品になっているんじゃないだろうな。ともかく、すぐに公開が終わってしまいそうな気配がムンムンだったので、慌てて昨年末に劇場へと駆け込んだ次第。なお、これが僕が2011年中に見た作品の中で、唯一まだ感想文をアップしていなかった作品である。

ないよう

 刑務所で何年か無為な日々を送った後に、ミッチェル(コリン・ファレル)はやっとシャバへと帰ってきた。迎えに来ていたのは、かつてのヤバい仲間ビリー(ビリー・チャップリン)たった一人。早速、ビリーがミッチェルを連れて行ったのが、借金のカタに取られた高級住宅。そして自分がやっているヤバい仕事をミッチェルにも世話しようと言い出すが、ミッチェルはもうワルの世界からは足を洗いたいらしく、いい返事をしない。しかし彼が今まで生きてきたのは、明らかにヤバい連中の世界。だからたまたま不良どもに襲われそうになっていた女性記者ペニー(オフィーリア・ロビボンド)を、ワル特有の勘で助けることもできた。なかなか長年のしがらみから自由になれないことは、ミッチェルとて分からないでもなかった。その夜、ミッチェルの出所祝いパーティーが行われたが、堅気になることを決めた彼にとっては居場所のない集いでしかない。トイレでは札付きの妹ブライオニー(アナ・フリール)が酒とドラッグで大暴れして、これまたミッチェルの悩みの種となっていた。そんなこんなでパーティーの席から一人離れたミッチェルは、たまたま先日助けた女性記者ペニーと再会することで、意外な運が巡ってくることになる。彼女は助けてもらったミッチェルに恩義を感じて、彼に堅気の仕事を世話してくれたのだ。それは有名な映画スター、シャーロットのボディガードだ。早速、翌日にシャーロットの屋敷を訪れると、その周辺にはパパラッチがウヨウヨ。そんな中を訪れたミッチェルを、シャーロットの「側近」である元俳優のジョーダン(デビッド・シューリス)が迎え入れた。シャーロット(キーラ・ナイトレイ)は現在はほとんど引退状態で、映画にも全く出ていない。この日もパパラッチに怯えきって、暗い部屋に籠もっているばかりだ。ガレージにはシャーロットの元夫のヴィンテージカーが何台も停まっていたが、それに乗る者は誰もいない…。帰って来たミッチェルにシャーロットの家のガレージのことを聞いたビリーは、早速いつもの調子でそれらのクルマを盗もうと持ちかける。これには怒り心頭のミッチェルは、二度と危ない橋を渡らないとキッパリ断るのだった。そんなある日、ミッチェルが唯一心を許していた、地下道のホームレス(アラン・ウィリアムス)が何者かに殺される。その墓地の手配をビリーに頼んだミッチェルは、代わりに借金の取り立ての仕事を手伝うように頼まれる。ところが行った先で屈強な男たちに襲われ、ビリーはすぐに逃げ去ったがミッチェルは一人で戦った。それが良かったのか悪かったのか、ビリーのボスである大物ギャント(レイ・ウィンストン)に見込まれ、一緒に仕事をやろうと持ちかけられる。しかし、堅気になろうと決めたミッチェルは頑なに拒むのだった。そんなある日、シャーロットの元夫が自動車事故を起こし、パパラッチの取材攻勢も激しさを増した。そこでミッチェルはシャーロットをクルマに乗せて、郊外の別荘へと連れて行くことになる。広大な別荘で二人きりになると、シャーロットはミッチェルに心を許し始めたが…。

みたあと

 映画を見に行くまで知らなかったのだが、この作品って「ディパーテッド」(2006)の脚本を手がけたウィリアム・モナハンの監督デビュー作なのだった。アメリカの映画人の監督デビュー作が何でイギリスの話?…と思っちゃうが、見てみるとイントロからヤードバーズの「ハートせつなく」をガンガン流して、今では懐かしいスプリット・スクリーンを駆使してまるで1960年代のイギリス映画みたいなスタイリッシュな雰囲気を充満させている。考えてみればこの男、香港の「インファナル・アフェア」(2003)から「ディパーテッド」の脚本を、イギリスのテレビ番組からメル・ギブソンの久々の復帰作「復讐捜査線」(2010)の脚本を捻り出すなど、過去の作品のエッセンスを再生産するのがうまい人らしい。だから今回も、かつての英国製犯罪映画にヒントを得ての監督デビューを狙ったのだろう。冒頭のヤードバーズとスプリット・スクリーンの使い方など、なかなかキマってる。音楽は全編1960年代から1970年代のブリティッシュ・ロックを使うことで一貫しているのも嬉しい。主演のコリン・ファレルもヤバイ橋を渡ってきた男のイメージをうまく出していて、なかなかの好演。こりゃあ傑作にブチ当たったのではないか?…とワクワクしてきた。

こうすれば

 しかし、残念ながらそのイイ調子は最後まで持続しない。例えば音楽に使われているブリティッシュ・ロックも、イントロでヤードバーズを使って次にローリング・ストーンズの「ストレイ・キャット・ブルース」を使ったところまではカッコよく画面と合っていたが、それ以降はただただ流したいから流しているだけといった状況。曲のイントロは印象的にガ〜ンと聞こえて来るのだが、後はまるで床屋のラジオのBGM状態というだらしなさだ。ハッキリ言って、モナハンに音楽センスはゼロなのである。困ったことにもっとダメなのが脚本と演出。主人公ミッチェルが映画女優シャーロットの屋敷を初めて訪れた際の、シャーロットと初対面場面のメリハリのなさ。いつの間にかさりげなく顔を合わせてしまって、前から会ったことがあるみたいな会話をダラッと交わしてしまう。「ここで会ったが百年目」的なインパクトがまったくない演出ぶりにガッカリした。その後は予想通りシャーロットとミッチェルが仲良くなるのだが、一方で進行しているミッチェルが暗黒街から抜けられなくなっていくお話とは完全に平行線で、これらはずっと関わることがない。しかもミッチェルは何となくシャーロットと親しくなるが、彼女なしにはいられない…というほど惹かれているとは見えないし、そうなる必然性もない。もっとハッキリ言うと、この物語の中ではシャーロットのエピソードはなくてもまったく問題ない。単に余計な要素でしかないのである。まるでパッとせず活かされてもいないキーラ・ナイトレイといい、これは実にもったいない作り方ではないか。主人公の運命を変えた女性記者ペニーがその後まったく出てこないことといい、ウィリアム・モナハンの脚本・演出はあまり上手とは言えないのである。

みどころ

 そんなわけで不出来な映画だと一言で片づけることもできる作品だが、それでも僕はこの映画を見て退屈はしなかった。それは主人公を演じたコリン・ファレルが素晴らしいから。今までさんざワルの道を歩んできたのも一目瞭然で、度胸のすわり方も腕っ節も堅気の人間のそれではない。しかしワルの世界に心底ウンザリしていて、友人であるビリーを含めて周囲の人間を軽蔑の目で見ずにはいられない。何とか真っ当な世界で生きていきたいと思っていながらも、根っから染みついたワルの性分が彼をそうさせない。結局はヤクザな手段に訴えて、ヤクザな世界に引っ張り込まれるより他はない。そんな「どこにも居場所がない」男の悲劇を、どこか「小物感」漂うコリン・ファレルが十二分に表現して惚れ惚れするほど。この映画のコリン・ファレルは実にカッコいい。ピシッと決めたスーツ姿を見るだけでも価値がある。こうなると、やっぱり彼はハリウッド映画よりもイギリス映画の方が本来の味を出しているのかも。この映画は、コリン・ファレルを見るための映画なのである。

さいごのひとこと

 バカな男の浪花節映画。

 

「ニューイヤーズ・イブ」

 New Year's Eve

Date:2012 / 01 / 02

みるまえ

 食い物に「旬」があるように、映画にもその時に見なきゃマズイものがある。例えばシュワちゃんが出てた「エンド・オブ・デイズ」(1999)なんてその良い例だ。1000年紀の区切りに悪魔が処女を抱くことでパワーアップするチャンスがあるということで、西暦2000年の到来直前にニューヨークで悪魔と刑事がガチンコ勝負って話は、やっぱり1999年中に見ておきたいところ。僕もこの映画、年末ギリギリに札幌で見た記憶がある。そしてローランド・エメリッヒの世界絶滅映画「2012」(2009)も、題材が題材だけに2012年前に見ておきたい。そんな訳でこの作品のことを最初に知った時も、何とか2011年のうちに見ておきたいと思ったわけだ。何しろタイトルからして「大晦日」っていうんじゃねぇ。誰がどう見たって「バレンタインデー」(2010)のパクり…と思っていたら、本当にあの映画の大好評に応えての姉妹編製作だったらしく、監督も同じゲイリー・マーシャル。「豪華キャスト」の中にまたまたビミョ〜なアシュトン・カッチャーが入っているのも同じだ。カッチャーってギャラ安いのかね(笑)? 前作「バレンタインデー」は僕好みの群像劇ではあったが、何しろ企画が企画。ズラリ並んだ「豪華キャスト」もそれぞれ何となく食い合わせが悪そうな顔ぶれで、シックリ来ない印象があった。おまけに宣伝コピーが「ハリウッドスター15人が全力で想いを伝えます」…とかクサすぎるシロモノで、見る前はかなり「ダメ」な予感が濃厚だったのだ。ところが実物を見たらさにあらず。マーシャルの手慣れた演出のおかげか、そして意外にも手が込んだ脚本のおかげか、結構面白かったから映画って分からないものだ。おまけにアシュトン・カッチャーも良かったから、ダブルの驚き(笑)。期待してなかっただけに「儲かった」気がしたものだった。そんな前作とほぼ同じコンセプトの本作。こういう題材だったらこうなるしかないだろう…という設定がミエミエなところも同じなら、「豪華キャスト」(その中に微妙な連中も含まれるあたりまで)を集めたところも同じ。しかしゲイリー・マーシャルならば、今回もまたまたやってくれるのではないか。というわけで、大晦日前日12月30日に見に行った次第。

ないよう

 その日は大晦日だった。ニューヨーク・タイムズスクエア協会の副会長クレア・モーガン(ヒラリー・スワンク)は、例年のタイムズスクエアの風物詩「ボール・ドロップ」のイベントの調整に余念がない。だが彼女の長年の友人で、今日のこの場の警備全般を取り仕切っているブレンダン(クリス・“リュダクリス”・ブリッジス)には、彼女にはそんなことより「やらなければならないこと」があるように思えるのだが…。一方、大手レコード会社「アハーン・レコード」のパーティーのケータリングの仕事で、シェフのローラ・カーリングトン(キャサリン・ハイグル)は大忙し。よりにもよって、そんな彼女の元にやって来たのがロック・ミュージシャンのジェンセン(ジョン・ボン・ジョヴィ)。彼は「アハーン・レコード」の契約アーティストとしてここに来ていたが、かつてローラと訳アリの仲だったのだ。そんな状況を副シェフのエヴァ(ソフィア・べルガラ)は好機の目で見ていたが、いきなりローラが大スターのジェンセンをひっぱたいたのには驚いた。その「アハーン・レコード」で秘書を勤める中年女イングリッド(ミシェル・ファイファー)は、何やら思い詰めた表情で出社。配達人の青年ポール(ザック・エフロン)が気さくに話しかけてきても、気もそぞろだ。そんなポールはというと、彼女が持っていた同社の「仮面舞踏会」入場券がノドから手が出るほど欲しいところ。さて、イングリッドはいきなり上司に直談判で休暇を願い出るがアッサリ却下。これに怒り心頭のイングリッドは、いきなり会社を辞める。元々彼女はかなり前からこれを考えていて、自分なりに「やりたい事リスト」の上位に「辞職」を挙げていたのだ。さて、それとは別に…ティーンエージャーの娘ヘイリー(アビゲイル・ブレスリン)はカレシのセス(ジェイク・T・オースティン)にタイムズスクエアでの年越しを誘われる。ファーストキスの予感。しかしヘイリーの母親キム(サラ・ジェシカ・パーカー)は、いつも娘の私生活をガッチリと抑えつけていた。案の定ヘイリーが頼み込んでも首を縦に振らない。しかも本人も大晦日は外出せず、自宅でテレビを見ていると言い張る堅物ぶりだ。それは果たして本音か? そしてタイムズスクエア近くの病院では、末期ガン患者スタン・ハリス(ロバート・デ・ニーロ)が死の床に就いていた。もはや今夜乗り切れるかどうか。そんなスタンは、もう一度だけ例のボール・ドロップを見届けることだけが望みだ。そして何者かがやって来ることを秘かに期待しているようだが、来客は一人も来ない。そんなスタンに、看護師エイミー(ハリー・ベリー)が付き添うことになる。同じ病院では、グリフィン・バーン(セス・マイヤーズ)とテス・バーン(ジェシカ・ビール)の若夫婦が出産を控えてピリピリ。ところがたまたま居合わせた別の夫婦ジェームズ・シュワッブ(ティル・シュヴァイガー)とグレイス・シュワッブ(サラ・ポールソン)から、新年初の新生児には賞金が出ると聞きつけて俄然猛張り切り。何とかこの賞金を手に入れたいと考え始める。それに気づいたバーン夫妻も負けじと必死だ。さて、ボロ・アパートに住む引きこもりの漫画家ランディ(アシュトン・カッチャー)は大晦日がキライで、外出して騒ぐ連中をバカにしている。ところがたまたま同じアパートの住人である駆け出し歌手のエリーゼ(リア・ミシェル)とエレベーターに乗ったところ、たまたま故障して動かなくなってしまった。おまけに彼らが閉じこめられたことは、外の誰にも知られていないようだ。エリーゼはこの夜、例のジェンセンのコンサートでバックコーラスの仕事があり、何とか出なければと気が気ではない。妙に落ち着き払って大晦日をケナしてばかりのランディに、エリーゼはだんだん苛立ってくる。さて、そんなニューヨークから少々離れた雪深い町の教会で、友人の結婚式に列席したのは「アハーン・レコード」社長の御曹司サム・リッカー(ジョシュ・デュアメル)。彼はすぐにニューヨークに引き返して、同社のパーティーでスピーチしなくてはならない。ところがひょんな事からクルマが事故。修理工場も休みで手も足も出なくなる。しかしサムには、実はスピーチよりももっと気になることがあったのだ…。

みたあと

 ストーリー説明はテキトーに書いたので、あまり参考にはならないかも(笑)。この作品、ハッキリ言ってコンセプトは「バレンタインデー」とまったく同じ。ただこちらは「大晦日」だから、当然、扱う題材は恋愛だけではなくなる。もっと間口が広がったと考えていいだろう。前回はどう見たってダサい映画になりそうだったし、月並みなお話に終始するだろうと思っていたから、あそこまでの作品に仕上げたゲイリー・マーシャルのお手並みにすっかり感心したわけだ。今回もそれなりのメンツが集まって、賑やかさではまったく負けていない。おまけに実際のニューヨーク・タイムズスクエアでのロケを行っているのが、作品の豪華さを増している。ならば当然、面白さもパワーアップしたと思うのが人情というものだ。

こうすれば

 ところがこれが面白くなるかと言えば、残念ながらそうはならないから映画って難しい。いろいろなエピソードが並んではいるが、どれもこれも月並みな設定か不自然な設定のどちらかってのはどうなっているのだ。例えば「大晦日がキライな引きこもり漫画家」って、設定そのものが不自然だと思わないか? みんなが大晦日を楽しんでいるからといって、当たり散らしたりわめいているバカな男なんて見たことない(笑)。おまけに演じているのが大根アシュトン・カッチャーだから、説得力ないにも程がある。そもそも何だか今回の脚本には、あちらこちらに無理があるのである。そして、怖ろしいほど面白みがない。バレンタインから大晦日に変わって、話や設定としては広がったはずなのに、これはどうしたことだろう。しかし僕は大晦日、NHKの「紅白歌合戦」を見ていてナゾが解けた。今年の「紅白」は、ともかく司会・進行がギコチないし面白くなかった。それは司会者たちの器が足りなかったということもあるだろうが、まずは「紅白」という番組のあり方、そして2011年という年そのものが、番組を盛り上げる妨げとなっていたように思える。何しろ「紅白」では、司会者が出演者をオチョクったりジョークを飛ばしたりという余裕が皆無だ。そういうことが出来ない雰囲気があって、口にするのは無難な話題だけになってしまっている。そんな案配で元からシャチコばってる内容のところに、2011年は大震災があったのがマズかった。テーマが震災だから軽口ひとつ叩けない。だから「歌で被災地を勇気づける」とか「絆を感じた」とかそんな事しか言えなくなっていた。しかしそんなお題目も、いくつか出してきたらボキャブラリーの限界になる。午後7時15分から11時45分までの長丁場で何度も何度もバカの一つ覚えみたいに「歌で被災地を勇気づける」とか「絆を感じた」とか言わなくてはならないとなると、いいかげん言う言葉もなくなってくるし、気の利いた話なんて出なくなる。同じようなことを言うしかないのである。申し訳ないが「キレイごと」しか言えない状況でジョークもユーモアも皆無の進行では、面白くならないのが当たり前。これでエンターテインメントになると思っていたのか。NHKの企画者はそれほど頭が悪いのだろうか? アレじゃあ盛り上がるものも盛り上がらなくなるよ。わざわざ被災地を盛り下げるなんて、これは何かの罰ゲームなのか。…閑話休題。この映画でも同じ事が言えて、バレンタインより題材の間口が広がったように見えて、実は「新しい年を前にやるべき事を終え、新たな気持ちでやり直そう」…みたいな話しか作れない。リセットとかリスタートとかいう題材以外は持ってこれないから、いろいろやれそうでやれない。違った話をそれぞれやっているようで、結局どれも印象が似てくるのである。しかもこの題材(「来年はいい年でありますように」ってな善意しかないコンセプト)ではブラックジョークや皮肉なんて入る余地はないから、どれもこれもヌル〜くて無難で穏健な話しか作れない。どうしたってシラジラしくなってしまうのだ。大晦日のイベントってのはこうなるしかないのかねぇ(笑)? また、「バレンタインデー」の脚本ではまったく期待してなかった伏線が張られていてサプライズがあったのだが、今回はそれが不発。実はサプライズらしきエピソードもあったのだが、伏線も何もなくてビックリ。出てくる役者も格下の馬ヅラ女だしな(笑)。そもそも「二番煎じ」ってこともあって、完全に空回りしたヌルい作品になっちゃっているのである。そんなシラジラしさが災いしてか、例えば本作で最も豪華な顔ぶれが集まっているロバート・デニーロとハル・ベリー、ヒラリー・スワンクの出てくる場面などは空回りもいいとこ。お話もシリアスだし出ている役者の芝居の質もシリアスなのだが、全体のテイストがヌルいので浮きまくってしまっている。まるで病院モノのテレビドラマのパロディみたいに見えてしまうのだ。あと、これは脚本とは関係ないのだが、出てくるスターたちの中には容貌に少々残念な点が見られる人も…ヒラリー・スワンクは笑っていても般若みたいな顔でコワイし、「リトル・ミス・サンシャイン」(2006)で可愛かった子役のアビゲイル・ブレスリンは、早くも育ち過ぎちゃって顔がアンパンマンみたいにパンパン。気の毒だがリーリー・ソビエスキーの二の舞になりそうだ。ついでに言うと、お久しぶりのミシェル・ファイファーがあまりに老けているのにも驚いた。病気でもしたのだろうか?

みどころ

 そんなわけで残念な出来映えになっちゃった作品だが、そのスターの顔ぶれだけは確かに豪華。それはメイン・キャストとしてデカデカとポスターなどに名前が挙がっている人たちだけでなく、ノー・クレジットのカメオ出演に至るまで豪華なのだ。例えばボロ・アパートのエレベーターを直しにやって来るジェームズ・ベルーシとか、タイムズスクエア協会会長のマシュー・ブロデリック、そしてミシェル・ファイファーの上司ジョン・リスゴー…といった、僕にとっては懐かしい面々がチョコチョコ出てきて飽きない。驚いたのは…カーラ・グギーノが結構デカい役で出ているのに、スター扱いされていないこと。大してスターとも思えない奴がメイン・キャストに名を連ねているのに、何で彼女はハズされているのか。納得ができない。そして散々内容についてはクソミソに言ってしまったが、そんな中でミシェル・ファイファーの「実現リスト」に関するお話が、共演のザック・エフロンの好漢ぶりに助けられて唯一面白かったのは挙げておかねばならないだろう。

さいごのひとこと

 NHKが製作したかと思った。

 

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