「プロメテウス」

  Prometheus

 (2012/10/29)


  

見る前の予想

 リドリー・スコットがまたSF映画を撮ると聞いて、興奮しない人などいないだろう。まして昔からSF好きを自認する僕ならば、それはなおのことだ。

 そもそもリドリー・スコットは、SF映画で名を挙げた監督だった。デビュー作こそ歴史劇の「デュエリスト/決闘者」(1977)だったが、世界的に有名になったのはあの「エイリアン」(1979)から。日本にもこの「エイリアン」によって紹介されている。そして、今ではカルト化した「ブレードランナー」(1982)もある。だから一時、リドリー・スコットと言えばSF映画の監督というイメージすらあった。

 現在、リドリー・スコットの名を聞いて、SF映画をイメージする人はマレだろう。あの2本のSF映画の後、リドリー・スコットはあらゆるジャンルを縦横無尽に渡り歩き、近年はほぼハズシなしと言えるほどの成果を収めている。初期は映像のスタイリストとして有名だったが、近年は芝居と語り口で見せる小品も意欲的に手掛け、そこでも見事な出来栄えをみせている。今ではリドリー・スコットはオールラウンドな映画作家として知られており、「巨匠」の名を欲しいままにしているのだ。

 そんなリドリー・スコットが、SFに帰ってきた!

 しかもデビュー当時にはなかった円熟味を携えて、ひと回りもふた回りも大きくなっての帰還である。これは期待するなと言う方がムリだ。

 さらに見どころが二つ。まず、テーマが「人類の起源」に関わる壮大なモノであるということ。これだけでも大いに興味深いところに、今回はリドリー・スコットが初めて3Dに挑戦するというオマケつきだ。お話としても映像的にも興味深い。映画ファンとしては必見の映画と言うしかない。

 そんな期待が高まる中、映画館で上映された予告編はこれまた興味津々。詳しくはここで言えないが、長年映画を見てきた者なら「ややっ?」「ひょっとして?」と思わずちょっと気になる出来栄えなのだ。これは何を意味しているのか? とにかく何としても見なければ!

 なかなか時間がとれずに悶々としていたが、こういう映画は誰かにネタバレされたらアッという間に興ざめだ。そこで公開からかなり経ったある日、何とかオールナイトの劇場に滑り込んだというわけ。

 さて、実物の映画の出来栄えやいかに?

 

あらすじ

 地球。そこは人っ子一人いない、果てしない原野が広がる場所。

 そんな原野の怒濤のように水が流れ落ちる巨大な滝のほとりに、一人の男が立っている。空には巨大な円盤状の宇宙船が浮かび、ゆっくりと雲の中に消えていった。

 男は身にまとったガウンのような布を脱いで、その白い肉体をさらす。それは人間に非常に似ているが、人間とは異なる「何者か」だった。

 男は足下にあるツボのような物体をいじくり、そこに入っていた液体状のモノをグッと飲み干す。すると間もなく、男は悶え苦しみ始めるではないか。

 飲み込んだ「モノ」のせいなのか、男の身体はDNAレベルから崩壊を始め、苦しみながらもんどり打って滝つぼへと落ちる。水中で男の肉体は完全に崩壊するが、そこから見る見るうちに新たなDNAが形成され、新しい細胞が構成されていく…。

 それから遙かな年月が流れた。

 2089年、スコットランドのスカイ島。エリザベス・ショウ(ノオミ・ラパス)とチャーリー・ホロウェイ(ローガン・マーシャル=グリーン)をはじめとする科学者チームは、洞窟で太古の人類が描いた壁画を発見する。

 驚くべきはその壁画そのものではなく、そこに不思議な絵柄が描かれているところにあった。そこにはいくつかの丸い文様と、それを指し示す巨人の姿があった。明らかにエリザベスとチャーリーは、この絵柄を探していたに違いない。

 そして2093年、地球から遙か離れた宇宙空間を、一隻の巨大宇宙船が航行していた。

 宇宙船の名前は「プロメテウス号」。17人の乗組員たちはみな冬眠状態にされていたが、そんな「プロメテウス号」の中をたった一人動き回る者がいた。それは精巧に作られたアンドロイドのデビッド(マイケル・ファスベンダー)。デビッドは2年間という長い間、大好きな映画「アラビアのロレンス」を見たり、冬眠状態になっている乗組員の脳内にある思い出を盗み見たりして、長い留守番の時間をつぶしていた。

 そんなある日、船内にサイレンが鳴り響く。「プロメテウス号」が目的地にたどり着いた合図だ。デビッドが人工冬眠室に行くと、すでに乗組員の一人メレディス・ヴィッカーズ(シャーリーズ・セロン)が目を覚まして、待ちきれない様子で腕立てをしていた。やがてデビッドの手によって、全乗組員の冬眠が解除される。冬眠明けの不快感に呆然とする乗組員たちの中には、あのエリザベスとチャーリーもいた。

 やがて全乗組員が集められて、大きなホールで今回の探険についての説明が始まる。何と今回の探険、乗組員のほとんどがその目的地と理由を知らされていなかったのだ。

 まずは、この探険の総責任者であるヴィッカーズとデビッドによって、ホログラム3D映像が上映される。それはこの探険を実現させた、大企業ウェイランド社の老いた総帥ピーター・ウェイランド(ガイ・ピアース)の映像だ。

 「諸君がこれを見る頃、私はもうこの世にはいないだろう」

 次に一同の前に、今回の探険の中心人物であるエリザベスとチャーリーが紹介される。そしてエリザベスの口から、この探険の目的が発表された。

 それは、「人類の創造主を見つける旅」だ。

 二人はさまざまな遺跡で撮影された画像を映し出しながら、乗組員に状況を説明する。世界各地のまったく関連のない文明、まったく時代の違う遺跡に、なぜか共通する円形の文様が描かれている。それは特定の天体の位置図だ。

 「これは招待状よ!」

 かつて地球上に人類をもたらした「創造主」の元へと導くための、天体地図だというのだ。この人類を地球にもたらした存在を、エリザベスは「神」でも「創造主」でもなく「エンジニア」と呼んだ。宇宙船「プロメテウス号」は、今まさにその「エンジニア」の星へと近付いているのだ。

 しかし乗組員たちはみな同じ志の持ち主ばかりではなく、中には少々シラケた表情の連中もチラホラ。おまけにエリザベスとチャーリーはヴィッカーズの部屋に呼ばれて、この星で見聞きしたことを自分の許可なしに公表してはならないとクギを刺される始末。確かにヴィッカーズはこのプロジェクトに大金を投じたウェイランド社側の人間で、自動で手術を行えるシステムからピアノまで完備した豪華な個室を与えられている「特別扱い」の人物。だからエリザベスとチャーリーも逆らえるわけもないのだが、問題の星に着く前からこれでは前途に暗雲を感じずにはいられない。

 さて、いよいよ問題の惑星に着陸することになって、「プロメテウス号」はどんどん降下を続けていく。しかし乗員たちの目の前に広がる風景は、どこまでも人っ子一人いない原野のみ。高度な文明も知的生命体も、その痕跡すら認められない。

 一同の間に軽い失望が広がり始めたその時、チャーリーが何かを見つけて叫んだ。

 「見ろ!自然は直線の地形は作らないぞ!」

 そこには平原に真っ直ぐに「道」らしきものが延びていた。「プロメテウス号」はその「道」に沿って降下を続けていく。「道」が延びている先には、丸っこいピラミッドらしき構造物がそびえているではないか。問題の惑星に到着早々、どうやら探し求めていたモノにブチ当たったらしい。

 これにはエリザベスもチャーリーも興奮を隠しきれない。もうこの惑星の夕暮れも間近だというのに、早速、問題のピラミッド状の構造物を探険しようということになった。

 2台の移動車に乗りこんで、ピラミッドへと近付いていく一同。そこには内部に入っていけるようなトンネルが造られていた。彼らは恐る恐る内部に足を踏み入れていく。

 中は入り組んだトンネルが長く延びている。ところが大気の成分を計ってみたところ、何と地球の大気と変わらないと出るではないか。このトンネル内では、大気が浄化され「地球的環境」が保たれているのだ。思わず周囲の人々の制止を振りきってチャーリーが宇宙服のヘルメットをはずす。次の瞬間、みんながそれに従ったのは言うまでもなかった。

 さらにトンネルを進むと、壁に何やら文様が刻まれている部分がある。明らかにここには文明が存在していたようだ。ところが一同がさらにトンネルの先へと進んでいく中、一人アンドロイドのデビッドだけが、その不思議な文様に注目していた。さらにデビッドはこの文様に貼り付くと、神妙な顔つきであちこちいじり始めた。すると…。

 いきなりトンネルの奥から何人かの大柄の「男たち」が現れ、一同に向かって駆けてくるではないか!

 突然現れた闖入車たちに一同は騒然。ところがこれらの「男たち」は一同には目もくれずにその場を駆け抜け、トンネルの奥へと消えていった。というより、「男たち」にはそもそも「実体」がなかったのだ。それは遠い昔にこのトンネルで記録された、立体のホログラム映像だった。

 一体なぜ、こんなホログラム映像が残されていたのか?

 そもそも、あの「男たち」は何者なのか? 一心不乱に猛ダッシュで走っていたが、一体何であんなに慌てて走っていたのか?

 その「答え」は、トンネルの奥で今や遅しと一同を待っていた…。

 

 

 

 

 

 

 

ここからは映画を見てから!

 

 

 

 

 

 

 

見た後での感想

 「人類の起源」を追い求めるための旅…SF映画が好きな人なら、これは絶対に見たくなるテーマだ。

 僕は元々、超古代文明みたいなモノにすごく興味があるから、そっちの興味と宇宙SFとを同時に見ることができるような、ひとツブで二度オイシイというハンバーグ・カレーみたいな映画だと見る前からワクワク。

 そして、この感想文の冒頭にも“長年映画を見てきた者なら「ややっ?」「ひょっとして?」と思わずちょっと気になる出来栄え”…と書いたように、予告編を見た時に僕は「ある予感」を感じていたのだ。果たしてその「予感」は現実のモノとなるのか?…それを見届けるのも、この映画を見る大きな目的のひとつだった。

 ところがその「予感」が当たりかどうかについては、映画が始まってすぐに呆気ないくらいに明らかになった。オープニングでスタッフなどのクレジットが画面に映し出される中で、ある二人の人物の名前がハッキリと示されたのだ。

 デビッド・ガイラーウォルター・ヒル

 他ならぬリドリー・スコットのあまりにも有名な出世作、「エイリアン」のプロデューサー二人の名前ではないか!

 

やっぱりまた「アレ」なのか

 改めてここで繰り返すが、僕はこの感想文の冒頭に、予告編を見た時の印象として“長年映画を見てきた者なら「ややっ?」「ひょっとして?」と思わずちょっと気になる出来栄え”であると書いた。僕がそこで「ひょっとして」と思ったのは、ひょっとして本作が「エイリアン」の続編か何らかの関連作品ではないかと疑念を持ったからだ。

 もちろん、当の「エイリアン」シリーズは第4作まで続いた末に、ほとんど賞味期限切れみたいな雰囲気になって現在停止中だ。正直言って、もうシリーズは打ち止めだろうと思ってもいる。

 そして今さら「大家」となったリドリー・スコットが、いくら自分を有名監督に押し上げてくれた作品とはいえ、改めて「エイリアン」に関わらなければならない道理もない。というか、何か悲しくて今さらこのシリーズに関わらなければならないのか。正直言って、本来だったらそんなことをする必要はまったくないだろう。

 しかし劇場で見たこの作品の予告編には、何となく「エイリアン」第1作でジョン・ハートが頭からガバッとやられたあの場面を彷彿とさせるような「モノ」が出てくるではないか。宇宙モノの映画にあんな「モノ」が出てきて、それが無関係だとしたらかえってヘンだ。

 それに考えてみれば、リドリー・スコットって「大家」になった後でも、なぜか「羊たちの沈黙」(1991)の続編であるハンニバル(2001)なんて映画を嬉々として撮ったりもしている。普通は一流監督になったら、他人が作ったヒット作の「続編」なんか手掛けようとは思うまい。そのあたりのこだわりがまるっきりないのだとしたら、自らの出世作「エイリアン」の関連作品をまたぞろ手掛けたって、何ら不思議ではないのではないか。

 そんなわけで、今回の作品が果たして「エイリアン」と関わりがあるのかないのか…と悶々としながらスクリーンと対峙した僕だったわけだが、先も述べたようにその疑問は開巻まもなくオープニングのクレジット・タイトルで氷解した。

 先に挙げた、二人のプロデューサーの名前である。

 デビッド・ガイラーとウォルター・ヒル、それにゴードン・キャロルを加えた3人の名前は、「エイリアン」シリーズを全部見てきたファンの方なら思わずピンと来るかもしれない。こんなSF映画にアクション映画の作り手だったウォルター・ヒルが関わっていたのは意外だが、「エイリアン」1作目は、間違いなくこの3人によってプロデュースされていた。

 シリーズ後半の作品になると実際の制作には関わらずクレジットだけされていたらしいが、おそらく彼ら3人が「エイリアン」の権利関係を押さえていたので、必ずその名前をクレジットするように決められていたのだろう。逆に言うと…彼らの名前がクレジットされているということは、本作が「エイリアン」絡みの作品であるということを意味するというわけだ(今回、ゴードン・キャロルがクレジットされていなかったのは、彼が2005年に亡くなっていたからだ)。

 そういうわけで、始まって早々「エイリアン」関連作品であることが明らかになった本作。最後まで見た結果、何のことはない「エイリアン・ビギニング」だったことが分かっちゃったわけだが、正直言ってそんなにあのシリーズに思い入れがない僕にとっては、この作品は別の意味で楽しめた。

 それはチラシや予告編でさんざんうたわれていた、「人類の起源を探る」的な題材の部分である。

 元々、僕は子供の頃から「地球の図鑑」とかを眺めているのが好きだったせいもあって、こういう類の題材には弱い。例えば世紀のトンデモ映画「ツリー・オブ・ライフ」(2011)でアメリカの田舎町での父子の相克を描くと思っていたらアッと驚く展開になっていった時も、むしろそっちの内容になってからの方がドキドキしたものだった。このような映画でまさかSF的趣向を見せてもらえるとは、儲かっちゃったってなもんだ(笑)。

 それに僕は…前にもどこかで書いたけれども…「発掘」みたいな場面が出てくる映画には無条件で惹かれるのだ。

 それなら「インディ・ジョーンズ」シリーズなどはたまらないだろう…と言われそうだが、アレは「発掘」をそっちのけでドンパチやらかすのが主眼の映画だから、実はあまりワクワクさせてくれない。僕が本当にワクワクするのは、「発掘」そのものを中心に据えた映画なのだ。

 例えばロンドンの地下鉄工事現場で、太古に地中に埋もれた宇宙船が発見されるというハマー・プロ制作の火星人地球大襲来(1967)、エルサレムの地下から発見されたキリストの死体(?)を巡る陰謀を描いたアントニオ・バンデラス主演の抹殺者(2000)、イギリスの田舎町の地下に埋もれていた教会を巡る秘密を描く、クリスティーナ・リッチ主演のギャザリング(2002)、東アフリカの砂漠に埋もれていた教会から物語が始まる、大ヒット作の「エピソード1」ものエクソシスト・ビギニング(2004)…。まったく別々のSF映画のキャラクターを対決させるという「ハンバーグ・カレー」的な映画だろうとバカにして見に行ったら、過去の遺跡の秘密を解き明かすような展開に思わずワクワクしてしまったエイリアンVS.プレデター(2004)も含めて、その作品としての出来栄えはともかく、僕は「発掘」が出てくるとどうしても理屈抜きで興奮してしまうのだ。

 今回も宇宙船が未知の惑星に到着するあたりから、僕のドキドキは加速する一方。探検隊が不思議なピラミッドの内部に入っていくくだり、ホログラムで再現される過去、物語の中盤に登場する謎の宇宙船…など、「発掘ファン」としてはたっぷり堪能させてもらって言うことナシだ。正直言って僕にとっては、この映画における「エイリアン」要素は二の次三の次。あくまで「人類の起源」の探求と、そのために行われる探険・探査を大いに楽しませてもらった。むろん「エイリアン」要素も魅力ではあったが、それもどっちかと言うと「あの宇宙船は、第1作に出てきたアレだったのか」…などと考えながらニヤニヤするお楽しみの方が大きかった。いや〜、本当に嬉しかったよ。

 主演のノオミ・ラパスはすでにシャーロック・ホームズ/シャドウゲーム(2011)でも見ていたし、あのドラゴン・タトゥーの女(2011)の元ネタになっている「ミレニアム/ドラゴン・タトゥーの女」(2009)で、ヒロインのリスベットを演じた女優だとは知っていた。しかし「シャーロック・ホームズ/シャドウゲーム」を見ただけでは、正直言ってその魅力が分かるところまでいってなかった。今回の作品を見て初めて、何となくその片鱗ぐらいは窺えたような気がする。小柄だがパワフルで、まだ地味な存在なのにこの巨編を引っ張っているのだから大したものだ。意外だったのは今回のキャストの中で最も知名度が高いシャーリーズ・セロンで、あまりいい役でもないのにわざわざ出演した意図が今ひとつ分からなかった。リドリー・スコット作品に出たかったのだろうか。

 そんなわけで僕は大いに楽しんだ今回の作品だが、映画としての出来栄えはサイコーかというとちょっと何とも言えない。今回の映画は特に僕のツボに入ったところが多かったから、一般の映画ファンにとってどうかはハッキリ言って分からない。実際のところSF映画が好きって人でなければ、僕ほど楽しめるかどうかは疑問だ。

 それというのも、脚本がかなり「雑」だからだ。

 ちょっと乱暴なところがあったりバカみたいな描写があったり、これだけの大作でシリアスな作品なのに、結構脚本に穴が見受けられるのだ。

 例を挙げると…かつての「エイリアン」シリーズから考えてみると、「妊娠」までしたのにヒロインの体調が変化しないのは矛盾してオカシイ…とか、アンドロイドのデビッドが行く手の惑星に何があるか分かっていたように見えるのだが、それはどうしてなのか…とか、どうしても合点がいかないことが多すぎる。それらのことは何か説明されていない理由があるようにも思えるが、それまで太い絆で結ばれているようにも見えなかった船長と乗組員が、最後に「一丁やったるか!」みたいに見つめ合って「特攻」するあたりの唐突感はかなりなモノだ。実は深い関係性が描かれていたのだが、それがカットされてしまったとかいう事情なんだろうか。

 終盤、墜落して来た宇宙人の宇宙船が惑星の地面をゴロゴロ転がっているのもかなりの珍風景だが、その宇宙船につぶされまいと逃げるシャーリーズ・セロンが、宇宙船が転がる方向に真っ直ぐ逃げている意味が分からない。ちょっと横に逃げればすぐに助かるのに、あれでは自分からつぶされに行ったようなものだ。バカすぎやしないか。そもそもその前に、ゴロンゴロンと転がる宇宙船につぶされそうになって、いいオトナのナオミ・ラパスやシャーリーズ・セロンがワーワー言いながら逃げ回る図からして相当バカバカしい。こりゃかなりヘンでしょう。

 そして「脚本の不備」ではないのだが、5000年近く人工冬眠していた宇宙人がいきなり叩き起こされたあげく、変な人間たちにアレコレ懇願されればイラッと来るのも当たり前って気がする。あげくの果てに、せっかく冬眠から蘇ってすぐにエイリアンの餌食じゃ気の毒すぎる(笑)。

 そんなこんなで、この映画のお話の展開は、よくよく見てみるとバカバカしくてマンガみたいな部分が多すぎる。おまけに無惨に破壊されながらも生きているアンドロイド…なんて「エイリアン2」(1986)以来の既視感バリバリ(笑)の場面まで出てくる。リドリー・スコットの重厚な語り口で巧妙にごまかしてはいるが、相当にアホっぽくてバカバカしい脚本ではないだろうか。僕みたいなSF映画とか「発掘」モノ映画のマニアなら別だが、普通の映画ファンだと見ていてちょっとバカらしくなるかもしれない。

 そんなわけで、なかなか興味深い仕上がりながら、1本の作品としてはちょっと難アリのこの映画。ラストは何となく続編が出来そうな感じの幕切れになっているが、これを見るとこの作品の成立理由も分かる気がする。

 4作まで続いた「エイリアン」シリーズはなぜかリプリーが登場しないと成立しない雰囲気になってしまい、リプリー役のシガニー・ウィーバーが出演に合意しないと制作できないというハンディを抱え込んでしまった。おまけに当のウィーバー自身の高齢化によって、シリーズ存続にも赤信号が点滅。「エイリアン」の権利を持つ制作者たちやスタジオとしては、何とかまだ金のなる木である「エイリアン」を生かしておきたいと考えたはずだ。

 そうした需要に対する「答え」が、この作品なのではないか?

 宇宙人たちが残した宇宙船に乗り込み、彼らの星へとわざわざ乗りこもうとするヒロイン。何だか無理矢理感が濃厚に漂うエンディングに、僕は作り手たちのそんな「強い意志」を感じるのである。

 

 

 

 

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