「アメイジング・スパイダーマン」

  The Amazing Spider-Man

 (2012/07/30)


  

見る前の予想

 ま〜た「スパイダーマン」である。

 アメコミで有名な「マーベル」が映画製作会社を設立して以来、次から次へとアメコミ映画化で、もう正直言ってウンザリ。こういうのはたまにやるからいいんで、夏休み、正月のたびにアメコミ映画が「目玉」として公開されちゃうって風潮はいかがなものだろうか。僕も決してキライな方じゃないし、どっちかと言えばかつては楽しみにしていた方だが、こうもアレコレ作られるとお腹一杯。それに「ハリウッドの大作・勝負作といえばアメコミ」って、いくら何でもバカすぎないか? 何だかみんな精神年齢が下がっちゃったか頭が悪くなっちゃったみたいで、どうも違和感が拭えないのである。

 しかも今回は、ついこの前まで続いていたスパイダーマン(2002)のシリーズから、役者や監督、内容を一新しての新シリーズとのこと。サム・ライミが作っていた前の3作がそれなりの出来栄えだっただけに、なおさらスッキリしないのだ。まぁ「マーベル」としては映画製作会社を立ち上げちゃった手前、映画を作り続けなけりゃならない。「マーベル」が作る映画となれば自社が抱えるマンガの映画化にならざるを得ないので、貴重な資産である「スパイダーマン」の映画化を続けないわけにはいかないのかもしれない。しかし、そんなテメエの事情で延々とアメコミ映画を作られてもねぇ。正直言って、最近じゃ僕は早く「マーベル」のアメコミ映画がオシマイにならないかと、その大コケを熱望するアリサマだ。今のところは何だかんだとうまくやっているようだが、そうはいつまでもいいことは続かないぜ…。

 ところが…ある日、映画館でこの「アメイジング・スパイダーマン」の予告編を見たら…何と主演がアンドリュー・ガーフィールドではないか!

 アンドリュー・ガーフィールドを最初に注目したのは、大いなる陰謀(2007)でのこと。ロバート・レッドフォードが監督主演したこの作品には他にもトム・クルーズ、メリル・ストリープといった豪華スターが出ていたが、作品そのものがパッとしないだけでなくスターたちもサエなかった。そんな中で、たった一人キラリと光っていたのがガーフィールドだったのだ。

 果たしてそう思っていたのは僕だけではなかったようで、次に彼はソーシャル・ネットワーク(2010)で主人公の友人役という儲け役で大いに目立った。そんなますます新作が期待されていた彼が、今度はあの「スパイダーマン」に扮するのだ。

 そもそもサム・ライミ版「スパイダーマン」でも、主役に異色のトビー・マグワイヤを起用することで、「青春映画」として成立させていたところが秀逸だったではないか。これは今回の新作、ひょっとしてひょっとするのではないだろうか。

 僕はあれほど「マーベル」のアメコミ映画にウンザリしながら、新作「スパイダーマン」を心待ちにしたのだった。

 

あらすじ

 ピーター・パーカー少年(マックス・チャールズ)は、目をつぶって数を数えている。

 家族とかくれんぼでもやっているのか、目を開けたピーター少年はワクワクしながら家の中を探り始めた。しかし、家の中には人けがない。父親の部屋に入ってみると、メチャクチャに荒らされているではないか。そこにやって来たのは、ピーターの父リチャード(キャンベル・スコット)と母親メアリー(エンベス・デイヴィッツ)。リチャードは荒らされている部屋の状況を見てとると、部屋の黒板に書いたさまざまな方程式を消して、ピーターを連れて慌てて家を逃げ出した。

 リチャードとメアリーは明らかに何かに怯えているようで、クルマで伯父のベン・パーカー(マーティン・シーン)の家へとやって来ると、ピーターを預けて再びいずこかへと出掛けていった。

 そして、二度と戻ってくることはなかった…。

 それから幾年月。ピーターは伯父ベンと伯母メイ(サリー・フィールド)の下で、立派な高校生に育っていた。もっとも、高校生活は万事順風満帆であるとは言い難い。彼のことを揶揄するフラッシュ(クリス・ジルカ)が、今日も彼を待ち構えている。脳味噌まで筋肉バカの彼は、ピーターだけでなく非力な生徒みんなをいたぶって喜んでいた。この日もピーターは何とかフラッシュをやり過ごせたものの、別の小柄な生徒がフラッシュの犠牲になった。こうなるとピーターは黙って見ていられない。

 彼は曲がったことが大嫌いな男なのだ。

 しかし残念ながら、彼にはその正義感に見合った力がない。なまじっか不正を憎む心がアダとなって、フラッシュにボコボコにされてしまうアリサマだ。

 そんな彼を救ったのは、学校でも優等生の美女で通っているグウェン・ステイシー(エマ・ストーン)。高校一の美女にたしなめられては、さすがのフラッシュも引き下がらざるを得ない。こうして辛くも危機を脱したピーターだったが、正直言って女に助けてもらったというのは情けない。おまけにピーター自身も、「高嶺の花」グウェンに少なからず惹かれていた。だから胸中複雑なものがあったのだ。

 しかし教室に戻ったピーターに、グウェンから話しかけて来るではないか。デカく強い相手だったフラッシュに立ち向かったピーターはエライとホメ讃えるグウェンに、ピーターはまんざらでもない気分になるのだった。

 そんなある日、ピーターは自宅の片付けでベン伯父さんの手伝いをするうち、古い革のカバンを見つける。それは両親が去っていったあの日、ベン伯父に託して置いていったカバンだった。

 それに何かいわくがあることは、わざわざベン伯父に託したことだけでも察しがつく。ピーターはそのカバンをあちこちいじっているうちに、意味ありげな資料一式が隠してあることに気づいた。そこには奇妙な記号が書かれている書類ファイルや一枚の古い写真などが含まれていた。写真にはピーターの両親リチャードとメアリー、そしてもう一人見慣れない白衣の男性が写っていた。

 ベン伯父によれば、その人物はリチャードの同僚で親友でもあったカート・コナーズ博士(リス・エヴァンス)。あの日、リチャードとメアリーはベン伯父の家から立ち去った後、小型機に乗って遭難してしまった。それ以来、親友だったはずのコナーズ博士は、一切挨拶にも来なかったとベン伯父は憤慨して語るのだった。

 コナーズ博士に興味を持ったピーターは、早速ネットでこの男のことを調べ始める。博士は遺伝学者として一流の人物で、大企業オズコープ社に所属して研究を続けていた。

 こうなると、もうピーターは止まらない。いきなりニューヨークのビル街にそそり立つオズコープ社の高層ビルに押し掛け、たまたま受付に置いてあった高校生研修制度の名札をゲット。これらの研修生に紛れ込んで、コッソリ社内に忍び込んだ。ところが研修生たちを待ち受けていたのは、何と白衣を身にまとったあのグウェン。学校でも優等生で知られるグウェンは、すでに特待生としてオズコープ社の研修生になっていたのだ。そんな研修生の「先輩」として、新たな研修生に社内を案内する役割を担わされていたのである。さすがにヤバイと焦ったピーターは、「変装」として眼鏡をかけて研修生の後ろにコソコソついていった。しかし一行の前にあのコナーズ博士が登場するや、とてもジッとはしていられなくなった。ピーターはコナーズ博士についつい印象的な発言をして目に止まってしまうだけでなく、グウェンにも見つかってしまうのだった。

 そんなこんなでオズコープ社内をウロウロしていたピーターだったが、たまたま慌てた様子で歩いていたラダ博士(イルファン・カーン)という人物が、あのカバンに入っていた書類と同じ記号の描かれたファイルを持っているのに気づく。さては両親の秘密につながる何かがつかめるのではないか…と、ピーターはラダ博士を追って社内の研究施設の奥へと忍び込む。そして、ついに極秘の実験を行っているらしき、厳重に隔離された研究施設の中に入っていくが…そこでは無数のクモが飼育され、それまでにない強靱な糸をつむいでいたのだった。それらの様子に唖然として立ちすくむピーター。ところがそんなピーターの首筋に、突然激痛がはしった!

 それは、ピーターの首筋に実験用のクモが噛みついた瞬間だった!

 

近頃大流行のアメコミ映画「仕切直し」

 今回、アンドリュー・ガーフィールド起用でいきなり大期待作に変わった「アメイジング・スパイダーマン」だが、正直言って僕は最初ウンザリしていた…というのは、冒頭で告白した通りだ。

 その理由はいくつかあるが、そもそもアメコミ映画が大量生産され過ぎという状況に加えて、近年、一旦終了したシリーズやある程度煮詰まったシリーズを、「仕切直し」して再スタートさせるという傾向が多く見られるようになってきたからだ。

 その最初の試みは、クリストファー・ノーランバットマン・ビギンズ(2005)ということになるのだろうか。

 このシリーズ自体はティム・バートン「バットマン」(1989)に始まり、その後は監督が替わるだけでなく主役をマイケル・キートンからヴァル・キルマー、ジョージ・クルーニーと交代させながら、執事役のマイケル・ゴフだけは続投させて続いていた。しかし4作目の「バットマン&ロビン/Mr.フリーズの逆襲」(1997)でさすがに賞味期限切れとなり、これでオシマイだろうな…と誰しも思っていたわけだ。

 ところが監督にクリストファー・ノーランを迎え、バットマン役にぐっと地味なクリスチャン・ベールを起用。執事役までマイケル・ケインに取り替えての「新装開店」作品「バットマン・ビギンズ」がいきなり登場。ティム・バートン作品から続いた4作シリーズを「なかったことにした」作品となっていたのだが、これがまさかの大成功を収めたからビックリ。もっと驚いたのは、これを引き継いだ「続編」であるダークナイト(2008)が制作され、「ビギンズ」よりもさらに大きなヒットとなったことだ。

 さらに「ダークナイト」の場合は大ウケの勢い余って、まったく批判ができないような異常なまでの持ち上げられ方までされる始末。それが災いしたか、新生シリーズ第三弾「ダークナイト・ライジング」(2012)では、公開中の映画館で銃を乱射するバカまで現れるテイタラクだが…ともかくこの成功がアメコミ映画の「仕切直し」気運に火をつけたのは間違いない。作品が好評だったら続編、さらに好評ならシリーズ化、シリーズが行き詰まったら「エピソード1」か「ビギニング」というレールが敷かれつつあったハリウッドに、さらに「仕切直し」による新シリーズ始動という路線を確立した点で、「バットマン・ビギンズ」の功績は大きい。…というか、本当のところ「罪は重い」と言うべきかもしれない。

 次に登場したのが同じワーナーによる「スーパーマン」シリーズ。こちらはスーパーマン(1978)に始まりスーパーマン4/最強の敵(1987)でジリ貧状態でシリーズが終息してから、実にほぼ20年が経過しようとしていた。そんな長い時を経て登場したスーパーマン・リターンズ(2006)は、監督にブライアン・シンガーを起用。当然のことながら主役陣も総入れ替えとなっていたが、注目すべきは前シリーズが「なかったこと」にはされていなかったこと。評判の悪い「3」「4」は「なかったこと」になっていたものの、あくまで好評だったスーパーマンII/冒険編(1980)の「続き」として製作されていたのだ。

 正直言って前の作品のファンだった僕としては嬉しい趣向で、ジョン・ウィリアムズのあの有名なテーマ曲まで踏襲して前シリーズへのリスペクトがたっぷり。しかしながら世間的にはその「中途半端」さが良くなかったのか、作品の評判も興業成績もイマイチだったようだ。現在、ワーナーでは、この「リターンズ」自体を「なかったこと」にする新作プロジェクトが進行中と聞く。これもいかがなものかと思うけどねぇ。

 そんな最中、またまた「仕切直し」アメコミ映画が登場。こちらはシリーズ化されるには至らなかったハルク(2003)の新作もあった。

 この作品、この手の作品を手掛けるには異色の人材であるアン・リーを監督に起用、オーストラリア出身のエリック・バナを主演に作られたものだ。僕は決して作品の出来栄えは悪くないと思ったものの、世評や「マーベル」側の評価は高くなかったらしく、作品全体が「なかったこと」にされてしまった。代わりに作られたのが、監督がフランスのルイ・レテリエ、主役がエドワード・ノートンインクレディブル・ハルク(2008)。こっちの方がアン・リーの「ハルク」より優秀かどうかは極めて疑問だが、これによって、「マーベル」側の都合が悪かったり気に入らなかったりしたら作品を「再起動」させればいい…という方程式が出来上がってしまった。

 今回の「アメイジング・スパイダーマン」も、作品的にも興行的にも良かったサム・ライミ版がありながらの「再起動」。まぁ、正直言ってスパイダーマン3(2007)でひとつの物語が終わっていたし、「青春モノ」としてのカタチをとるのなら、もうトビー・マグワイヤは年齢的にキツかったことも確か。ただ、実際にはサム・ライミによる「4」制作の試みは行われていたようで、ギャラのことかクリエイティブ的なことか分からないが、「マーベル」と決裂した末での「再起動」となった模様。そのへんのことを考えてみると、ちょっと「マーベル」も一介のマンガ屋の分際で調子こきすぎてるんじゃないかとか、映画をナメてるんじゃないかとか言いたくもなる。オマエらが気に入らなかったら、映画としてキッチリ出来ていても「なかったこと」にするのかよ。

 そんなフザけたマネをしているから天罰てきめん、他の「マーベル」キャラクター大集合がミソの「アベンジャーズ」(2012)でハルク役にエドワード・ノートンを配したいところだったはずなのに、別の役者に代えざるをえなくなっていたではないか。どうせ土壇場でノートンに逃げられたのだろうが、それまでテメエの都合で監督や主役をすげ替えたり作品を「なかったこと」にしていたバチが当たった…と僕はほくそ笑んでしまった。たかがマンガ屋風情が映画人をナメるんじゃねえよ。ついでに言わせてもらえれば、「アベンジャーズ」の「日本よ、これが映画だ」っていうわが国での宣伝コピーもムカッと来る。「マーベル」映画なら「これが映画だ」じゃなくって「マンガだ」だろうが。こいつらに「映画」をドヤ顔で語って欲しくない。ともかく「マーベル」側としちゃ痛恨の出来事だったはずのエドワード・ノートン降板劇も、正直言って僕にとっては「ざまあ」(笑)というのがホンネだ。

 だから今回の「アメイジング・スパイダーマン」も、素直に受け入れられなかったのが本当のところ。「インクレディブル」と来て、今度は「アメイジング」を付ければ「再起動」できちゃうと思っているような安易さがイヤなのだ。

 もし、これほど魅力的な主役を提示されなければ、すっかりパスしちゃおうと思っていたところだ。

 

見た後での感想

 アンドリュー・ガーフィールド起用のおかげで、手の平返しで興味津々となった今回の作品。その後、監督の名前を聞いて、ますます見なければ…という思いが強まった。

 マーク・ウェブ。

 その名を聞いて、「あいつか」と分かるほどの知名度はない。僕も監督名を見ていながら、誰のことだかまったく分かっていなかった。ところがそれが、あの傑作(500)日のサマー(2009)の監督のことだと聞いて、僕はこの作品は絶対に見逃せないと思った。若手俳優の最有望株であるガーフィールドに、「(500)日のサマー」の監督である。ヒロイン役は「ヘルプ/心がつなぐストーリー」(2010)に出ていた人だということだが、こっちはその作品も見ていなかったし興味もなかった。しかしガーフィールドとウェブのコンビは映画ファンとしてはかなり魅力的だ。

 そんなわけで映画館に着いた時には、期待で胸がパンパン。正直言ってアクションやスペクタクルはまったく期待していなかったし、3Dによる視覚効果も大したものではないだろうと思っていた。そもそもそんなモノは眼中になかったというのが正しい。僕はガーフィールドとウェブのコンビによる、瑞々しい青春映画を期待していたのだ。

 実物の映画を見て、映画が期待通りだったことに驚いた。

 思った通りにアメコミ・ヒーローものというより青春映画で、思った通りにアンドリュー・ガーフィールドはイイ感じだった。思った通りに彼が演じる主人公は悩んだり失敗したりするし、思った通りにぎこちない恋愛をしたりする。

 思った通りである。

 やっぱりガーフィールドとウェブのコンビらしい青春映画的内容だよな…と納得しながら見ていたが、ぶっちゃけ…映画を途中まで見ているうち、サム・ライミによる前シリーズと大して変わっていないような気がしてきたのも正直なところだ。

 もちろんお話がかなり前作とかぶっているから、そのせいで印象が大して変わらないようにも思える。しかし、ここで僕が言いたいのはそういうことじゃない。ストーリーが同じとかいうことでなくて、作品の狙いみたいなモノに共通する何かが感じられるのである。

 そういやそうだ。そもそもサム・ライミ=トビー・マグワイヤのシリーズだって、今回の作品みたいに「青春映画」だったんじゃないか。

 

「青春映画」のポジティブな部分を拡大

 確かに元々サム・ライミ版「スパイダーマン」だって、「青春映画」として作られていたはずだ。

 まずはトビー・マグワイヤのような役者を主演に据えたこと自体がそうだろうし、お話も実際にそうだった。スパイダーマン化した当初、主人公がやたらと「若気の至り」的な行動をやらかすのも今回と共通する部分だ。今回初めて「青春映画」を目指したのではない。元から…おそらく映画の製作元である「マーベル」は…これを青春映画として作ろうと企画していたのだ。

 そう考えると、脚本に今回も名手アルヴィン・サージェントが参加していることも頷ける。アルヴィン・サージェントは1970年代あたりに「ペーパームーン」(1973)、「ジュリア」(1977)、「ボビー・デアフィールド」(1977)、「ストレート・タイム」(1978)、「普通の人々」(1980)などの脚本を意欲的に執筆した人。どれも僕が好きな作品なので非常に僕にとっては馴染みの深い脚本家なのだが、残念ながらその後はパッとしない状態が続いていた。1970年代の活躍ぶりが非常に目覚ましかったので、その後のくすぶり方が僕には納得できなかったのだ。

 ところが突然どういう風の吹き回しかスパイダーマン2(2004)の脚本家として忽然と復活。さらに「スパイダーマン3」にまで付き合ったのでビックリしたものだ。そのアルヴィン・サージェントが、今回も脚本に参加している。この起用には「マーベル」の意図も反映されているだろうから、前シリーズと本作の間に何らかの共通性やら継続性を求めてのものだと考えるべきだろう。だとすると、それは両者に共通する「青春映画」らしさだと考えるのが自然だろうし、そのサージェントが「2」から投入されたことから見て、「マーベル」はサム・ライミ版第1作にその要素が不足していると判断していたようにも考えられる。

 いやいや、それは正確ではないな

 実は先程から繰り返しているように、サム・ライミ版も間違いなく「青春映画」的に作られていたのだ。だから「青春映画」的要素が不足していて、「マーベル」にそれを増やしたいと思われていた…というのは僕の間違いだ。前シリーズも、すでに十分に「青春映画」だった

 しかし、こうは言えるのではないだろうか?…「青春映画」としての「瑞々しさ」「明るさ」には欠けていた、と。

 サム・ライミという人の個性だとは思うが、彼の手掛けた第1作は最初からどこか暗く悲しいムードに彩られていた。エンディングも真っ暗だった。そしてその重苦しさは、回を重ねるごとに増していった。

 実はここだけの話、僕はサム・ライミ版のシリーズの出来栄えをホメはしたものの、それらを「好き」だと感じたことは一度もない。あのネガティブさ、重苦しさ、窮屈さに正直ゲンナリしていたことも事実なのだった。実際、人生は辛く厳しいものだ。しかし正直この歳になると、それを映画で金をとられてまで見せられたくはない。「そういう映画」だと分かって見るならまだしも、アメコミ原作のヒーロー映画でまでそんなものを見せられたくはないのだ。そういう意味では、見た後の後味が毎回最悪なライミ版「スパイダーマン」は、正直進んで見たい映画ではなかった。これ言っちゃ映画ファンとしてはマズかろうとは思うが、あえて白状させてもらった。

 今回、「(500)日のサマー」の監督を起用して描きたかったのは、そうした「青春映画」的な「瑞々しさ」や「明るさ」…青春の持つポジティブな部分ではないだろうか。

 「(500)日のサマー」で非凡だなと思ったのは、若者の恋愛をリアリティを持って描き出したこともあるが、それ以上に最後の最後アッケラカンとした明るさで描いたことだ。

 もちろん、そこで描かれる恋愛は散々な終わり方をするし、それによって主人公の青年はムチャクチャ振り回される。男の側からすれば女の言うことはムチャクチャ矛盾しているように思えるのだから、これはもう災難としか思えない。ある意味で若者版アニー・ホール(1977)と言ってもいい辛く苦く痛みのあるお話なのだが、この作品の尋常でない点は「その先」を描いたところ。恋愛は非常に厄介でツライものだが、それでも経験する価値がある…と力業で完全肯定しちゃうところなのだ。恋愛の苦さを描くのはよくあるパターンだ。それを突き抜けてポジティブな部分までを描き出したのが、この作品の大したところなのである。

 同じように「青春」というものは傷付くこともあるだろうし、屈折したり抑圧されたりもする。しかし青春の最も大きな部分ってのは、限りない可能性とパワー、傷つけられても立ち直る回復力ではないか。

 今回の「スパイダーマン」には、「青春映画」のそういう側面を導入したかったのではないか。

 そういう意味では、本作にはライミ版には見られないポジティブなテイストが多く見られる。例えば主人公ピーターをいたぶっていたイジメッ子みたいな奴が出てくるが、そいつはいつの間にか伯父を亡くしたピーターをいたわるようなキャラクターに変わっていく。また、傷つけられて絶体絶命のスパイダーマンを、その前に息子を助けられた労働者たちが助けようとするくだりも前シリーズにはなかった趣向だ(ついでに言うと、このクレーンを操作する労働者役に、かつての青春スターであるC・トーマス・ハウエルがすっかりオッサン顔で登場していたのは感慨深かった)。また、スパイダーマンは恋人グウェンの父親でニューヨーク市警の警部でもあるジョージ・ステイシー(デニス・リアリー)に敵視されているが、最後にはちゃんと和解するあたりも新味と言えるだろう。大の親友ですら「敵」となっていく息苦しさに包まれた前シリーズとは、打って変わってのポジティブさなのだ。

 他にもそれなりに評価すべき点は多々あって、僕は前シリーズのアクション場面について、ちょっと苦言を呈したくなる面もないわけではなかった。マスクマンの自由奔放な活躍をダイナミックに描きたいがために、CGを多用しすぎているきらいがあった気がしていたのだ。マスクマンだからスパイダーマンそのものすらCG画像として描ける。そして自在に動かすことができる。しかしその結果出来上がったものは、単にCGアニメにしか見えない。だからどんなにすごいアクションが描かれていても、僕としては大して感心できなかった。

 それに比べると、今回のアクション場面はCGも多用してはいるだろうが、俳優を使ったライブアクションを以前より多用しているように見える。そしてそれを強調するかのように、主人公が傷付いて苦しんでいる設定も多い。それは従来の007シリーズの楽々アクションと比して痛みが感じられる、ダニエル・クレイグ主演第1弾007/カジノ・ロワイヤル(2006)の衝撃を連想させるほどだ。つまり、結構痛そうだったりするのである。結果的には…アクションのダイナミズムが減ったという印象もあるので一概に成功と言えるかどうかは分からないが、僕は少なくとも好感を持った。

 苦言を呈すればこの1本に主人公がスパイダーマンになるまでの設定と悪役との戦いをブチ込んだため、2本分の内容を詰め込んだような「長さ」を感じさせたことだろうか。しかし前述の「青春映画」としてのポジティブな部分を盛り込んだ点など、本作には数多い長所があるように感じる。取って付けたようなハッピーエンディングとは違う、必然性のあるポジティブさが盛り込まれているのだ。

 それは、人生ツライものだが、悪いことばかりでもないだろう…というメッセージだ。

 そういう意味では、本作のエンディングこそがそうしたポジティブな姿勢の最たるものであると言うべきだろう。前シリーズならば、「約束」の重さが主人公にズッシリとのしかかるであろうエンディング。気が滅入るような、宿命や運命の非常さが主人公を苛むであろう展開になるだろうところだ。

 しかし今回は、まさに「(500)日のサマー」のエンディングのようにアッケラカンと明るい幕切れとなる。それこそが、この監督が起用された理由だろうと思わされる幕切れなのである。

 

 

 

 

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