「アーティスト」

  The Artist

 (2012/05/21)


  

見る前の予想

 今年のアカデミー賞レースを盛り上げて、見事に栄冠を勝ち取った作品

 フランス映画がオスカー作品賞を獲得したのは初めて。しかも…この映画は21世紀に作られた新作にも関わらず「サイレント映画」というところが尋常ではない。蛇足とは思うがあえて付け加えるなら、アカデミー賞作品賞がサイレント映画に与えられたのはこれで史上2度目。その1度目とはオスカー第1回作品賞を取った「つばさ」(1927)というのだから、これは非常に異例なことだと分かる。

 ただし…詳しくは後述するが、「サイレント映画の復権」みたいなことはこれまでもちょくちょく行われていた。その都度、錦の御旗のように掲げられたお題目はと言えば、「サイレント映画の方がむしろ雄弁である」ってなこと。そこで言われることは、大体想像がつこうというものだ。いわく「言葉を尽くして語られ」「テクノロジーを駆使した」現在の映画は、表現としてはむしろやせている、それに比べて「モノクロ」の「サイレント映画」の何と鮮やかで表現が豊かなことか…。

 まぁ、毎度ハンを押したようにこう言われていたし、大体がこういう試みの結論はこのあたりに落ち着くもんだとは思っていた。しかし…ここだけの話、ホントにそうかよ?って僕は心のどこかで思っていたりもしたのだ。

 確かに言いたいことは分かるし間違ってはいないだろう。トーキー、カラー、大型スクリーン、立体音響、そして今度は3D…いろいろなテクノロジーや要素を付け加えることで、逆に映画の表現が貧しくなっていったということは、本当にあるのかもしれない。制限が多い初期の映画表現の方が、研ぎ澄まされたモノを多く持っていたというのも確かな気がする。

 でも僕が気になるのは、こうした「復権サイレント映画」みたいなモノが出てくるたびに言われる「サイレントの方が表現が豊か」的なご立派なお題目が、実は本当にその作品を見てから語られることではなく、すでに見る前から用意された「常套句」みたいになっていたこと。そういうことを言えばみんなもっともらしい事を言った気持ちになるんだろうが、本当に心の底からそう思っているのだろうか。実際のところ…本当にみんなそう思っているのなら、どうしてそれからサイレント映画が次々と制作されないのだ。そんなにみんなサイレント映画の方がいいと思うなら、全部サイレント映画で作ればいいじゃないか

 僕はどうもこういう試みって、「映画表現を極めたオレってエライ」「映画表現を分かっている見上手のワタシってエライ」的な不毛な自己満足でしかないような気がしていた。そして実際に試みとして作られてきたそれらのサイレント「復権」作品も、どこか頭でっかちで不自然な感じがしていたのだ。

 そこに今回、アカデミー賞のお墨付きを頂戴した「アーティスト」がドヤ顔で登場だ。それでなくても、そもそもがアカデミー賞作品賞受賞作って大して面白くもない映画が結構多い。元来がアマノジャクなオレからすれば、な〜んとなく気にくわねえなって気がしなくもなかったのだ。素直じゃないと言われるかもしれないが、これは本音なんだから仕方がない。おまけに普段から屁理屈ばかりこね回すフランス映画界から、この作品が到着したというのも胡散臭さ倍増だ。純粋にこれが楽しい面白いという気持ちで作られたのかね?

 そんなこんなで斜に構えて横目で様子を窺っていた僕だが、だからと言って無関心だったわけでは決してない。そもそもハリウッド初期の映画作りに関する話と来れば、この僕が食指をそそられないはずがない。

 そんなわけでゴールデンウィークのある日、僕はついに劇場に足を運んだというわけだ。

 

あらすじ

 時はサイレント映画最盛期の1927年。

 ハリウッドの大劇場では、大スターのジョージ・ヴァレンティン(ジャン・デュジャルダン)主演による最新作「ロシア事件」のプレミアが盛大に行われようとしていた。

 劇場の外には、スターの姿を一目見ようとファンたちがワンサカ。そこに新聞記者やカメラマンも集まっててんやわんや。そこに堂々とスター登場だ。

 到着するや、カメラマンたちの注文に応じて写真のポーズを取っているヴァレンティン。すると、熱狂的なファンの群集の中からヴァレンティンを見ていた若い女性ペピー・ミラー(ベレニス・ベジョ)が、うっかりサイン帳を落としてしまった。ペピーはサイン帳を拾おうと屈んだが、その拍子にグイッと押し出されてヴァレンティンと鉢合わせだ。ハリウッドの大スターを目の前にして、ペピーは思わずドキマギ。周囲に一瞬緊張がはしる。

 しかし、大スターのヴァレンティンは一瞬戸惑ったものの余裕綽々。すぐにペピーにニッコリと満面の笑みを浮かべると、彼女と並んでカメラマンたちにツーショットをバンバン撮らせる。さすが大スターの称号はダテじゃない。実に粋なのである。このヴァレンティンの優しい振る舞いに、元々ファンだったペピーがますます夢中になったのは言うまでもない。

 粋で陽気で楽しい男、それがヴァレンティンだ。彼は映画界の仕事を心から楽しんでいた。自信満々でプレミアの挨拶を勤めるヴァレンティン。キノグラフ映画会社の幹部アル・ジマー(ジョン・グッドマン)も、そんな彼に全幅の信頼を置いていた。

 しかし、ヴァレンティンの「私生活」も絶好調かというと、それは話が別というもの。立派な邸宅で妻ドリス(ペネロープ・アン・ミラー)と暮らすヴァレンティンだったが、彼女との関係はとっくの昔に冷え切ったものになっていた。

 さて、それから何日か経ってのこと。ヴァラエティ誌のトップページに「この娘は誰だ?」という見出しで自分とヴァレンティンのツーショットが載るという幸運を掴んだペピーは、このチャンスを逃さず活かすことにした。元々、映画女優志望の彼女は映画会社のスタジオにやって来ると、その他大勢の仕出し役者のオーディションを受けて合格。スタジオに入って出番の準備を待つことになる。

 ところがここで、再び幸運の女神が彼女にほほえみかけることになる。

 たまたま出番待ちで軽くタップダンスなどをしていたペピーを、あのヴァレンティンが発見。茶目っ気を起こしたヴァレンティンは、こっそりペピーに近づいていって彼女のタップに合わせて自分も軽やかにステップを踏むのだった。スタジオ内はやんやの喝采。もちろんペピーはビックリだ。

 その場に居合わせたアル・ジマーはペピーをつまみ出そうとするが、ヴァレンティンはむしろ彼女が気に入った。こうしてペピーはヴァレンティンの新作に使ってもらうことになったのだった。

 そんなペピーに、ヴァレンティンは「女優には特徴が必要だ」とメイク道具で「づけぼくろ」を描いてやる。これがその後の彼女のトレードマークになるのだから、人間は何が幸いするか分からない。

 もっともこの段階では、ペピーが使ってもらえるといっても最初はほんの小さな役。ダンスホールでたまたまヴァレンティンと一瞬だけ一緒に踊る女の役だ。ところがその場面がNG連発。それは偶然が作用した結果でもあるが、NGを繰り返すうちにヴァレンティンがペピーの魅力に気づいて、ふと我を忘れてしまったからでもあった。二人はいつの間にか、お互いに思いを寄せていたのだった。

 ところが、良いことというものは得てして長くは続かない。

 ある日突然、ハリウッドに新しい波が押し寄せてきた。それは驚異の新技術、「しゃべる映画」トーキーの登場だ。キノグラフ社の試写室でも幹部連中がトーキー試作品を見ることになる。その中には、むろん大スターであるヴァレンティンの姿もあった。上映されたトーキー試作はまだ短いものでもあり、当然のことながら稚拙な出来映えのシロモノでもあった。見終わったヴァレンティンは余裕の表情で一言。「これが映画の未来だって? あり得ないな!」

 しかし自信たっぷりの態度とは裏腹に、ヴァレンティンの心中は不安で一杯だった。この業界で長年生きてきた彼には、トーキーの持つ可能性がイヤというほど分かっていた。そしてサイレント映画の世界で育って来てその流儀が身に染みついている自分が、トーキー時代についていけないということも薄々感じ取っていたのだ。

 そのうち、いよいよキノグラフ映画会社はサイレント作品の制作を停止し、完全にトーキーに移行することを決定する。しかしヴァレンティンはそれには同意出来ない。「あんなモノではロクな作品はできない」と主張するヴァレンティンは、サイレントをやめるならキノグラフにはいられないと宣言。しかしアル・ジマーは、そんなヴァレンティンを引き留めようとはしなかった。

 衝撃を受けながら、キノグラフ社を去ろうとするヴァレンティン。ちょうどその時、着々とスターダムを上っていたペピーと鉢合わせになったのも、何かの縁なのだろうか。ヴァレンティンがキノグラフを去ろうとしているとは夢にも思わないペピーは、「一緒に頑張りましょう!」と明るくヴァレンティンに声をかける。そんな彼女に、ヴァレンティンは本当のことは言えなかった。

 こぅしてキノグラフ社を去ったヴァレンティンは、自らの製作・監督・脚本によって、野心的なサイレント映画の製作を断行する。むろんこの世界のことは熟知しているから、彼なりに勝算もあった。しかし自主制作というものがこれほどカネを必要とするものとは、さすがのヴァレンティンも分かっていなかった。毎日毎日カネが羽根が生えているように飛んでいく。それでも起死回生のヒットさえ飛ばせば…と、撮影に大張り切りのヴァレンティンだった。

 一方、ペピーは完全にスターダムにのし上がり、トーキー時代のスターとして君臨。まさに飛ぶ鳥落とす勢いの存在となっていた。

 やがて株価の大暴落とともに大恐慌がやって来る。ヴァレンティンは現在製作中の作品が失敗すれば、もはや破産しかないということが分かった。そんな切羽詰まった新作公開前日の夜、忠実な老運転手クリフトン(ジェームズ・クロムウェル)を伴ってレストランで食事していたヴァレンティンは、たまたま背中合わせに隣に座ってインタビューを受けていたペピーの話の内容を聞かされるハメになる。トーキー時代の新スターとして脚光を浴びていた彼女は、不用意にも余計な発言をしてしまった。

 「サイレント時代の役者さんは演技も時代遅れで大げさ。潔く私たち新進に席を譲って欲しいわ!」

 そこにヴァレンティンがいるとは知らず、軽い気持ちで語った発言。しかしその言葉は、ヴァレンティンを大いに傷つけた。失礼な発言だったから傷ついたのではない。それがまさに「図星」と分かっていたから、ヴァレンティンは深く傷ついたのである。彼はパッと席を立って振り返ると、驚くペピーに向かって捨てぜりふを残して去っていった。

 「おっしゃる通りに私は席を譲るよ」

 しまったと思っても後の祭り。ペピーは自らの思慮の浅さを反省せずにはいられない。

 さて、こうして迎えたヴァレンティンの新作の初日。奇しくもペピーの最新作もこの日から公開だ。しかし大盛況の彼女の主演作とは裏腹に、ヴァレンティンの作品は閑古鳥が鳴いていた。ガラガラの劇場で自身の作品を見るヴァレンティンには、自分がもはや時代遅れの遺物であることがイタイほど分かった。しかし彼が気づいていないことが、たったひとつだけあった。その同じ劇場には、偶然にも涙を流しながらヴァレンティンのスクリーンでの奮闘ぶりを見つめるペピーの姿があったのである。

 当然のことながら妻は去った。ヴァレンティンは屋敷を追い出され、小さい家に引っ越すことになった。しかし、今さらヴァレンティンに映画の仕事などない。今さらどうにもならない彼は、細々とした蓄えを食いつぶして酒浸りになるしかない。ペピーが自らの地位を確固たるものにしていた一方で、ヴァレンティンは転落するばかり。手元に残ったわずかばかりの思い出の品々も競売にかけて、さらに食い詰めるしかない日々を送っていたのだが…。

 

サイレント映画「復権」の試み

 映画のテクノロジーがCGを多用した特撮から3Dまで行き着いた21世紀、そうした先端テクノロジーとは極北の位置にあるサイレント映画を「復権」させたとして、カンヌやオスカー・ダービーを席巻したこの「アーティスト」。

 しかし、実はトーキー主流になって以降は完全に出る幕がなくなったと思われているサイレント映画だが、こうした「復権」の狼煙を上げる作品というものは、これまでも時々ポツリポツリと忘れた頃に作られてきてはいたのだ。ここではあくまで僕が思い出した限りにおいての、そうしたサイレント「復権」映画をいくつか挙げていきたい。

 トーキー主流になって久しい映画界の中で、なぜか突然作られたサイレント「復権」作品として僕が即座に思い出す作品といえば、まずはメル・ブルックスのこの作品…その名も「サイレント・ムービー」(1976)ということになるだろう。

 落ち目の映画会社再建のために一発大逆転のヒット映画を作ろうとする映画監督メル・ブルックス。彼が考え出した秘策は「サイレント映画」。ただし、ただのサイレント映画では見向きもされないので、大スターをたくさん起用しようと考える。そこでスター獲得のために奔走するというのが本作のお楽しみで、そこからライザ・ミネリ、アン・バンクロフト、バート・レイノルズ、ポール・ニューマンといったゲスト・スターが出てくる。ボケッと見ているぶんには楽しいのだが、正直言ってブルックスの喜劇センスはこの時点ですでにピークを過ぎていて、ギャグが冴えているとは言い難い。劇中でフランスの有名なパントマイム役者マルセル・マルソーに出演依頼をする場面があって、彼がこのサイレント映画の中で唯一のセリフ「ノン!」を発声するというギャグが最大のお笑いどころとなっているのだが、そんなこと見る前からあっちこっちで露出して今さら笑えない。実際のところ、残念な出来映えとなっていた作品だった。

 それからしばらく、僕はこうしたサイレント「復権」作品にお目に掛かる機会がなかったように記憶しているが、それに類する作品、サイレントの効果を狙った作品には何度かお目にかかった気がする。その中で最もサイレント性を感じさせたのが、フランスのジャン=ジャック・アノーが監督した異色大作「人類創世」(1981)だ。

 ジャン=ジャック・アノーという監督はデビュー作の「ブラック・アンド・ホワイト・イン・カラー」(1976)でアカデミー賞外国語映画賞を獲得するあたりからして、すでにフランス映画のワクを乗り越えていた観があった。そんな彼がさらにフランス映画のスケールを超えた作品を生みだしたのが、この監督第2作「人類創世」。描かれているのは原始人の世界で、だからそこには言葉らしい言葉が出てこない。つまり別に音を消しているわけではないが、セリフがまったくないサイレント映画的発想とでも言おうか。

 ジャン=ジャック・アノーはこの後にも「子熊物語」(1988)でクマを主人公にしてまったくセリフのない映画を作っており、普通の劇映画の体裁を持ちながらもしゃべれないトラ兄弟が主人公の「トゥー・ブラザーズ」(2004)も手がけているあたり、こうした「サイレント志向」は完全に「狙っている」ものと思われる。つまりは「どこの国の人でも見て分かる映画」というか、「映画そのものの表現の強さを持った映画」というものを追求するために、こうしたサイレント的な作品を作っていたような気がするのだ。確か一時、中国映画の監督を手がけようとしたこともあったみたいだから、こうした「越境志向」があることは間違いないだろうと思う。

 さて、次に挙げる作品は決してサイレント映画でもサイレント「的」な作品でもない、あまりにも有名な作品。台湾のホウ・シャオシェンの代表作「悲情城市」(1989)だ。

 ホウ・シャオシェンといえば今ではすっかりその映画話術も形骸化してしまって、まったく浮かび上がれない人になってしまった。だから昔も今もこの「悲情城市」が代表作のままという残念な状態なのだが、この作品を発表した頃は、ホウ・シャオシェンは本当にスゴかった。堂々たる人間群像ドラマとして、かなり見応えがあったのだ。

 では、この作品のどこが「サイレント」なのか?…それは主要登場人物の一人、トニー・レオンが「ろうあ者」の設定になっているあたりで出てくる。彼は当然、言葉をしゃべることはないので、字を書いたりして言いたいことを伝える。この映画ではそこを画面上で字幕で表現せずに、「スポークン・タイトル」を挿入して見せているのだ。これが映画のリズムをどこか独特なものにしている。流れを一瞬止める「スポークン・タイトル」の方式をあえて採用したというのは、間違いなく意識的に選択したことだろう。このあたり、当時のホウ・シャオシェンの非凡なセンスを感じさせるのだ。いわばサイレント映画の「遺産」の有効活用である。

 それから再びこうしたサイレント「復権」映画は長らく作られなかったと思うが、ある時、またまたいきなり登場してきて僕を驚かせた。ただし、作ったのは「いかにも」な感じの映画作家、フィンランドのアキ・カウリスマキによる白い花びら(1999)だ。

 これは「人類創世」のような「サイレント風」映画ではなくて、まったくセリフも現実音も入っていない作品。入っているのはたまに挿入される「スポークン・タイトル」だけという念の入りようだ。まさに本気でサイレント「復権」を実現した作品だ。

 先に「いかにも」と書いたのには理由があって、アキ・カウリスマキという人、それまでの作品でも主人公がほとんど口をきかない。どれもこれも実に寡黙な作品ばかりだから、サイレント映画を作ってもまったく違和感がなかった。むしろ、これをいつかやるのは必然だったかもしれないとさえ思えたのだ。

 ただし…これが面白かったのかと言えば、果たしてそうだったかなぁ

 よく出来ているなとは思っていたし、それなりに感心もした。彼の狙いが、「やたらセリフに頼ったり饒舌になったイマドキ映画を、本来の純粋な映画表現に立ち戻らせたい」というマジメなところにあることも分かった。それはそれでまったく意義も問題もないとは思うのだが、肝心の映画がイマイチだった記憶があるのだ。

 その原因がどこにあったのかについては、正直言って僕にはあまりよく分からない。ただ、今あの映画を振り返ってみても、他の彼の作品のようには脳裏に浮かび上がって来ない。完全に僕の中からは忘れ去られた作品になってしまっているのだ。その代わり、何だか窮屈そうなイメージだけが思い出されてくる。

 そもそもカウリスマキは、本来から「寡黙」な作品を得意としていた監督だ。サイレントにせずとも、トーキー映画の中で寡黙な表現をすでに実現していた。逆に言うと、ならば改めて「サイレント」という手かせをつけて映画づくりをする必要などなかったのではないだろうか。

 思いつきとしては楽しいモノだったのだろうが、結局はそれに足をとられて、映画そのものが面白くなくなった。どうも僕としては、そんな印象ばかり残った作品だったのである。

 そんなカウリスマキ作品の印象がさらに鮮明となる作品が、それから間もなく上陸した。それはドイツのファイト・ヘルマー監督による野心的な作品ツバル(1999)である。

 物語についてはこのサイトの感想文にも書いてあるのでそこをご参照いただきたいが、こちらも正確には「サイレント映画」ではない。現実音も聞こえるしセリフだってある。しかしそのセリフは、実は僕らに分かる言語ではない。誰でも知っている単純な単語は散りばめられているが、基本的にはムチャクチャな言語である。そのあたり、チャップリンが世の趨勢に逆らってサイレントを選択しながら、部分的にはトーキーを採用せざるを得なかった「モダン・タイムス」(1936)を想起させてくれる。歌をうたうために出てきたものの、張り切りすぎて歌詞を書いたカンニングペーパーを飛ばしてしまい、切羽詰まってデタラメな言葉の歌詞を歌いまくる…という、例の抱腹絶倒のくだりである。チャップリンとしては、当然トーキーに対する「アンチテーゼ」の意味もあって皮肉たっぷりにやったのだろう。「ツバル」も同じように、セリフの説明から解き放たれたいという意志からこういう手法を選択しているのだ。

 ただしカウリスマキなどと違うのは、あくまでそんな「手法」ありきでは作っていない点だ。映画の物語そのものが、いつの時代、どこの国とも分からない…というお話になっている。そんな物語の設定が、こうした不特定言語という手法を選んだと言えよう。別に「サイレント映画」みたいに作ろうとはしていない。少なくとも出来上がった作品には、そういう意図「ありき」には感じられないのがミソなのである。

 こうしてサイレント「復権」映画の数々の作品を振り返ってみてきたが…成功作となっているものは、どれもサイレントの手法を活用してはいるが、サイレント映画「そのもの」を作ろうとしたわけではない。結局いろいろ考えてみるに、映画というものは描きたい題材や内容、物語を、それを描くに最良の方法で描くというのが本来のカタチなのだ。「何らかの内容を描く」というのが、まずは第一の「目的」なのである。最初から「サイレントで描く」と決めてしまった時点で、それはモノの順番が間違っているのではないか。つまりは「手段」が「目的」化してしまっているのである。

 イマドキあえてサイレント映画を作る。それはおそらく映画ファン的には、素晴らしく勇敢な行為だろう。本来は、サイレント映画の方が映像としては「純粋」である。それがトーキーになってセリフに頼るようになってから、映画は本来の良さを失った。映画原理主義者たちから言わせれば、それは「堕落」である。だからイマドキあえてサイレント映画を作ろうという試みは、おそらくそれだけでホメられてしまいがちだ。映像の力だけで勝負しようとするなんて、これぞホンモノの映画作家だ…。おそらくは映画サロン的な連中から一般の映画好きに至るまで、こういう理屈で言われたら納得せざるを得ないだろう。それは禁煙は正しいとか努力をすべきとかいうことと同じくらい、否定しがたい「リッパ」なことなのだ。

 しかし僕は元々が天の邪鬼なせいか、どうもこういう世間一般が否定しがたいことっていうものが、何とも胡散臭く感じる。本当にそうなのかと疑いたくなってしまうのだ。

 よくテレビで、タレントがアフリカや未開の地を訪れたりする番組があったりする。大抵は現地の人々と交流したりする場面が出てきたりするが、そういう番組の結論はおそらく十のうち十が「未開の地礼賛」になるだろう。そこではきっと、こんなナレーションで締めくくられるに違いない。「彼らは文明社会の我々よりも、ずっと幸せなのではないだろうか」…。

 しかし実のところ、こういう結論って実はこうした番組が撮影されるずっと前、東京で企画書が書かれている時点で決まっているのではないだろうか。いや、そうに違いない。

 僕はいつも不思議に思うのだ。そんなに素晴らしいなら、もうそっちに住んで帰って来なければいいじゃん。文明の利器など空しい、文明社会などくだらない。あっちの方がどれだけ人が豊かに暮らしているか分からない。そこまで言うなら、もう二度とこっちに帰って来るなよ。猫ひろし、オマエもな(笑)。

 結局こうした結論も、最初から用意されている形骸化された結論に過ぎない。

 イマドキ世の中に氾濫するゴテゴテしたものは虚飾である。それらがはぎ取られたピュアなモノほど正義である。人はいとも簡単に、まるで当たり前のようにこんなことを言う。でも、結局そっちに鞍替えする奴が皆無ってことは、それって本当のことだか怪しくないだろうか?

 何だかサイレント「復権」映画への賛辞って、そんな中身空疎な「キレイごと」に似ているような気がする。

 大金を使ってCGやら3Dやらテクノロジーを駆使して、厚化粧した映画なんかいらない。やっぱりサイレントがサイコー。ならばみなさん、これから映画は全部サイレントばかりを選んで見ますよね(笑)?

 何だかこういう意見って、どうもインチキ臭くてイヤなんだよね。だから僕は「アーティスト」に対しても、最初は素直に喜ばしいとは思えなかった。どうせみんなはホメるけど、それって未開の地で「彼らは文明社会の我々よりも、ずっと幸せなのではないだろうか」とか言ってるタレントと、大して変わりはないのではないか。

 ヘソ曲がりな僕としては、どうしてもそんな気持ちが拭えなかったのだった。

 

見た後での感想

 見る前から何となく感じていたことではあるが、この映画って単に「懐かしい」サイレント映画で「懐かしい」ハリウッドの話を描いたものってだけでなく、物語自体も既視感バリバリだ。

 誰しもこの映画のストーリーを知って、雨に唄えば(1952)を連想しない人はいまい。サイレント時代の終焉とトーキー時代の幕開けを背景に、大スターと駆け出し新人スターの恋を描き、さらには没落寸前の大スターを救う窮余の一策がミュージカル映画だという点まで、驚くほどに「雨に唄えば」のアウトラインをなぞっている。正確に言うとシリアスっぽく描いた「雨に唄えば」というべきか、あるいはミュージカル仕立てではないサイレント版「雨に唄えば」というべきか。

 さらに映画好きの中には、インドのグル・ダット監督・主演による紙の花(1959)を連想される向きもあるかもしれない。ただし今回の作品の監督ミシェル・アザナヴィシウスが「紙の花」を見ていたかというと、ハリウッドの監督などよりはまだ見ている可能性がなきにしもあらずとはいえ、相当その可能性は低いと見るのが妥当なところだろう。つまりは、それほど「ありふれた」「ありそうな」お話と見るべきだとは思う。

 もっともこの作品は、最初から物語の奇抜さよりも「どこかで見たような」親しみやすさこそを狙ったものだと思われる。映画全体も「懐かしさ」が売り物だ。だからお話が既視感バリバリでも当たり前なのかもしれない。

 また映画というものは、物語だけで見るものではない。以前にバットマン・ビギンズ(2005)の感想文でも語ったように、映画というものには理屈抜きの「あの映像」「あの動き」「あの感じ」に魅せられる部分って絶対ある。僕もこの作品のあちこちに、そういう「あの感じ」を感じた。

 そう…僕はこの感想文の冒頭にもあるように、実物を見る前はかなり猜疑心を持ってこの作品を見ていたのだが、結果的には何のことはない…かなり楽しんでしまったから情けない話だ。

 正直言って、本作はやっぱり楽しい作品なのである

 

この映画は本当に「サイレント映画」なのか?

 それにしても今年のオスカー・レースで、この作品とヒューゴの不思議な発明(2011)が対決する構図となったのは、ある意味ではかなり興味深いことだ。

 片や3Dまで駆使したテクノロジーの極致、片やモノクロ・サイレントの映画としての「最小公約数」みたいな作品。それぞれが極北にある映画と言えなくもないが、別の見方をすると…片やハリウッド製ながらフランスのジョルジュ・メリエスにリスペクトした作品、片やフランス製ながら往年のハリウッドに捧げられた作品という「好対照を見せた」作品同士とも言える。どちらも映画創生期に捧げた作品という「共通項」を持っていて、「奇妙な縁」があるようにも思える。その優劣はともかくとして、この2本がオスカー・レースで競い合ったというのは、偶然にしても面白い出来事だったと今さらながらに思わされるのだ。

 先にも述べたように、お話自体はビックリするようなモノではない。そして、それはどうやら監督ミシェル・アザナヴィシウスの「芸風」らしいのだ。この監督の前作「OSS117/私を愛したカフェオーレ」(2006)なる作品を見ていないので断定はできないが、この作品って何でもショーン・コネリー時代のジェームズ・ボンド映画をうまくパロディ化した作品らしい(ちなみに、この「OSS117〜」はあの東京国際映画祭で受賞した作品だということだから、わが東京国際映画祭も「先見の明」があったようだ)。この前作のスタイルから見て…ミシェル・アザナヴィシウスが過去の映画に材をとった作品を作るタイプの映画作家であることは間違いない。もうちょっと詳しく言うと、「ある時代のある傾向の映画のエッセンスをうまく取り出してくる」センスがある人なのだろう。だとしたら、本作も当初の構想では「サイレント時代の映画をうまくパロディ化しようとした作品」だったのかもしれないのだ。

 しかしながら単に「フィーリング」だけでなく「テクニック」的にもサイレント映画のそれを取り入れた結果、突然変異的に「パロディ以上」のモノに化けてしまった…。本作は、見ようによってはそんな風に見える作品なのである。実際のところ、フランス映画にも関わらず本当にハリウッドで撮影し、ジョン・グッドマンジェームズ・クロムウェルなどのハリウッドの名優を迎えているあたりで、もはや単なる「パロディ」や「おふざけ」の域を超えている。そういう制作規模や姿勢の変化が、作品を「パロディ」から化けさせたということもあるのだろう。

 ちなみに、これは少々本論からは脱線するのだが、ヒロインのペピーがオーディションを受けるために並ぶ役者志望たちの群れの中に、なぜか「時計じかけのオレンジ」(1971)などで知られるマルコム・マクドウェルがいたのには驚いた。これは後で何らかの伏線となって出てくるんだろうな…と思いきや、実はそれっきり出てこなかったのにも二度ビックリ。本当にあれは一体何だったのだろう?

 それはともかく…サイレント映画としての趣向とかつてのハリウッドの舞台裏的お話で楽しませてくれるこの作品、僕としてはやっぱりどうしたってキライになれない作品だ。

 そして主人公の映画スターとヒロインが恋に落ちていくNG連発のくだりとか、主人公が自殺を図ろうとするあたりのサスペンスに、サイレント映画ならではの手法を使ってうまく楽しませてくれる。このあたりも、なかなか達者なものだ。

 しかし、実際のところこの作品がサイレント映画時代に作られていたら、ここに使われたサイレント表現はごくありふれたモノでしかないかもしれないし、これほどの注目も集めなかったように思える。サイレント全盛期のものと比べた場合、優れたサイレント表現であるかどうかも疑わしい

 しかしそれを言うなら…この作品ってサイレント映画として売られているし人々もそう思っているようだが、そもそも本当に「サイレント映画」なのだろうか。みんな一様に「サイレント」は素晴らしいとか「サイレント」だから素晴らしいとか…もっと言うと“やっぱり「サイレント」の方が素晴らしい”とか言っている。この映画がサイレントであることを評価しているようなのだが、実際これって「サイレント映画」なのだろうか?

 よくよく考えるとこの映画は、サイレント時代には制作されるわけがなかった作品だ。サイレント時代を振り返る内容だから、当のサイレント時代に作られるわけはない…なんて物語上の事情を言っているわけではない。「表現上の問題で、サイレント時代の作品ではあり得ない」と言っているのだ。

 もっとハッキリ言おう。この映画は「サイレント映画」などではないのである。

 僕がこう断言すると、こうおっしゃる向きもあるかもしれない。ははぁ、確かに映画全編に音楽が流れているからだな。確かに本来のサイレント映画は、まったくサウンドトラックがないはずだ…。確かにおっしゃる通り、本来のサイレント映画には音楽も付いているわけはない。しかしながら実際のサイレント映画上映時には楽団などが劇場で演奏していたようであるし、チャップリンなどは自作のサイレント作品に後から音楽を付けたり、最初から音楽だけを付けた「サウンド版」サイレント映画として作ったりしていたから、本作がサイレント映画でないとは言い切れない。そもそも僕は、そういう意味で本作を「サイレント映画ではない」と言ったわけではない。

 本作の中盤で、主人公はサイレント映画の登場を一笑に付す。しかしそれはあくまで外ヅラだけのこと。実際には内心不安いっぱいで、主人公は悪夢まで見ることになる。その時、さまざまな物音はうるさいくらいに聞こえて来るのに、主人公の声だけが聞こえない。これは主人公の「焦り」の表現なのだが、声だけは聞こえない、逆に言うと声以外は聞こえて来る…という表現は、サイレントではなくトーキーだからこそ出来る表現だ。

 しかも、映画はタップ・ダンスによるミュージカル趣向の見せ場がクライマックスとなる。詳しくは後述するが、ミュージカルこそトーキーの産んだ最大の映画ジャンルではないか。さらにさらにダンスが終わったエンディング直前のくだりでは、初めて登場人物が「普通の映画」と同様にしゃべり出す。これは明らかにサイレント映画ではない。

 しかし…またまた繰り返して言うけれども、そういうテクノロジー的な面で僕はこの作品を「サイレント映画ではない」と言っているわけではない。元々この作品は、そんな志…サイレント映画の「復権」…などのために作られているわけではないと言いたいのだ。

 僕にはこの作品は、それとはむしろ真逆の方向に向いているように思えるのである。

 

むしろ強調されている「テクノロジーのありがたみ」

 正直に言うとイマドキの普通の観客にとって、この作品の意図やツボの部分が正確に伝わるかどうかは、いささか怪しいものがある。

 この映画のヤマ場は、タップ・ダンスによるミュージカル場面だ。主人公はトーキーの出現で没落。サイレント時代の役者は「時代遅れ」とされ、映画の新しい時代にまったく出番がなくなった。主人公を陰ながら慕うヒロインはそこで一計を案じ、主人公復活のために一肌脱ぐ。その主人公復活のカギとなるのが、二人を最初に結びつけたタップ・ダンスだ。

 軽やかなタップが映画で活かされるには、もちろん音の力がなければダメだ。もちろんタップが出てくる映画と言えば、ミュージカル映画である。そして言わずもがなではあるが、ミュージカル映画はトーキーが出現するまで映画のジャンルとしては存在しなかった。そんなタップの力で、主人公はトーキー時代の映画に浮上することが可能になるのである。

 僕がここで並べたことってのは、言われなくても分かる「当たり前」のことだろう。

 それをまるで得意げに、Fは何でまたクドクドと言っているのか…この文章をお読みの方は、みなさんそう思われるかもしれない。そんな分かり切ったことを、大発見みたいに偉そうに言うな。

 しかし、そんな「当たり前」のことではあるが…イマドキの人から見れば、サイレント映画も過去の映画なら、ミュージカル映画もほとんど絶滅したジャンルで過去の映画。つまりどちらも今は見られない過去の遺物なので、片方が「古く」片方が「新しい」とはにわかに認知できないかもしれない

 言い換えると、ここで描かれるべきミュージカル映画の「新しさ」が、イマドキの観客には今ひとつピンと来ない可能性がある。サイレントもミュージカル映画もどちらも同じくらい「古い」モノであるような印象を、「実感」として持っているかもしれないのだ。

 おまけに映画の前半で主人公もヒロインもタップの名手であることが描かれる場面があるため、なおさらサイレント時代には映画でタップを活かすことはなかったということがピンと来ない。理屈では分かっているかもしれないが、「なるほど」と即座に反応するようには分からないかもしれないのだ。

 それが分からないほど今の観客がバカだと思っているのか…と、ちょっと怒られてしまいそうだ。僕だって、それほどみんなが分からないとは思わない。しかし「分かって」いても、「実感」としてズバッと入ってこないきらいはあるかもしれない。元々がミュージカル映画にそれほど親しみのない日本人にとっては、なおさら危うい感じがする。そのあたりが、この映画のウィークポイントと言えばウィークポイントか。

 そして、本作が「サイレント映画ではない」と僕が指摘する点も、それゆえになかなか伝わりにくいような気がするのだ。

 主人公はサイレントこそ映画で芸術だと主張し、自らをアーティストとしてサイレント映画に固執する。その志や良し。しかし結果的には、それが彼を没落させた。実は彼自身、そんな高尚な意図よりもトーキーに対する根元的な「恐れ」が邪魔をしていたということが、彼の悪夢の場面で明らかにされている。しかも「トーキーなんて大したもんじゃない」という傲慢が彼の側に確かにあった。

 そんな主人公が、最後にトーキーの権化たる「ミュージカル映画」に挑戦するというお話。それが果たしてサイレント映画の「復権」…「イマドキのテクノロジーばかりの映画はクソで、サイレント映画こそが至高である」などということ…を主張する映画であり得るだろうか

 主人公とヒロインが仲良く踊りまくる、クライマックスのタップ・ダンス場面は圧巻だ。僕はあれを見ていて、何となく脳裏に浮かぶ映像があった。それはMGMミュージカルの名場面だけをチョイスした総集編、「ザッツ・エンタテインメント!」(1974)のまだ映画が始まってまもなくの頃に登場する、「踊るニュウ・ヨーク」(1940)という映画から抜き出した一場面だ。そこではコール・ポーターの「ビギン・ザ・ビギン」に乗せて、モノクロ画面狭しとばかりフレッド・アステアエレノア・パウエルがタップ・ダンスを軽快に踊りまくる。この場面の素晴らしさたるや、名場面に次ぐ名場面の「ザッツ・エンタテインメント!」の中でも屈指の見事さ。僕は時々、この場面を見るためだけに「ザッツ・エンタテインメント!」のDVDをプレーヤーにかけるくらいだ。そのくらい、忘れられない名場面なのである。

 僕は本作のタップ・ダンス場面を見て、即座にこの「踊るニュウ・ヨーク」の名場面を想起した

 なぜ、その場面を思い浮かべたかは分からない。本作が「踊るニュウ・ヨーク」のその場面のコピーなのかと言えば、正直言って男女二人のタップ・ダンスで、モノクロ映画の中で踊っているということぐらいしか直接のそっくり要素は指摘できない。振り付けも違うし第一流れている曲が違う。そもそも本作の二人と名手アステアたちの技量を比べては、それは気の毒というものだろう。しかしそれでも、僕はこの場面は絶対に「踊るニュウ・ヨーク」のあの場面からインスパイアされたと断定したい。なぜかはうまく説明できないが、その両者には何か共通するモノが流れているのである。

 そして、主役二人の踊りまくる場面のウキウキ感と来たら! 

 そこで軽やかに、しかしシャープに刻まれるタップのリズムの音声は、ドルビー・デジタルのクリアなサウンドで再生される。一見古めかしいモノクロ映像も実は元々がカラー・フィルムで撮影されたらしく、そもそもフィルムの粒子も昔とは比べモノにならないほど細かい。撮影したカメラだってレンズだって、1930年代当時より遙かに高度な機材だろう。

 今回の作品はサイレント映画の「復権」や「礼賛」よりも、むしろこうしたテクノロジーへの「賛歌」と言うべきものではないか?

 日頃我々は、ハイクオリティーの映像や音響に慣らされている。ビデオで見るよりはDVDの映像が格段にキレイだったし、僕はまだ未体験だがブルーレイはもっとキレイらしい。そこでキレイな映像、キレイな音響に一度触れてしまったら、もう再び元のレベルには戻れないとよく言われる。

 しかし、みんな本当にそんなに目と耳が肥えているのかね?

 そもそも、そんなキレイな映像と音声にドップリ浸かって、その「ありがたみ」がしかと分かっているのだろうか。実はそのへんが分からなくなって、感覚がバカになっちゃっているのではないか。キレイが「当たり前」になっているうちに、それがハイ・クオリティーであるということすら分からなくなっているのではないか。だとしたら、それって本当に目や耳が肥えていると言えるのだろうか?

 それを分からせるには、一旦それらを「ない」状態にする必要があるのではないか?

 本作について僕は、決して「サイレントの方がいい」とか「テクノロジーなんてない方がいい」などと、紋切り型の陳腐で「いかにも」な主張を振り回しているわけではないと確信している。そんなバカでも言えるような色あせたメッセージを、改めて主張しようなんてバカげてる。そんな見る前から想像できるメッセージを投げかけるために、わざわざ映画1本作るような手間はかけるわけがない。

 それよりもむしろ…モノの価値が分からなくなった鈍感な現代の映画観客に「テクノロジーのありがたみ」を思い出させようとしているように、僕には思えるのである。

 

 

 

追加(2012/06/04)

 この感想文の中でサイレント「復権」作品などと称して古今東西の作品を紹介しましたが、お恥ずかしいことにこれらの中でも最重要な作品を忘れていました。先頃、5月29日に亡くなられた新藤兼人の代表作「裸の島」(1960)が抜けていることに気づきました。瀬戸内海の小島を舞台にした貧しい夫婦の物語で、水源のないこの島では近隣の島まで水を汲みに行くのが日課。毎日まいにち水を汲んで来ては、島の高台にある畑に水を担いで上がる。こうした日常のエピソードをセリフなしで淡々と描いていく作品ですが、劇中たったひとつだけ大きなドラマが起きます。それについてここでは詳しくは明かしませんが、ラストでそれまで黙々と水運びをしてきた夫婦の妻の方が感情をほとばしらせるくだりがあり、そこで圧倒的なトーキーの威力を発揮。この効果を最大限に引き出すための「擬似サイレント的な構造」だったのかと、見た当時かなり感心させられた記憶があります。こんな重要な作品を忘れているとは情けない。お詫びするとともに新藤監督の冥福を祈りつつ、ここに追加させていただきます。

 

 

 

 

 to : Review 2012

 

 to : Classics Index

  

 to : HOME