「戦火の馬」

  War Horse

 (2012/04/09)


  

見る前の予想

 僕が長年のスピルバーグ・シンパであることは、前々からこのサイトで明らかにしていたのでみなさんご存じのことと思う。

 その付き合いは激突!(1971)に始まったから、もうかれこれ40年にも及ぶわけだ。その間には、スピルバーグなりのスランプや駄作もいろいろあった。例えば「フック」(1991)や「アミスタッド」(1997)などを見たときには、確かに「困ったな」と困惑することも少なくなかった。

 しかし、それでもやっぱりスピルバーグは「腐ってもスピルバーグ」。その後にはちゃんと彼らしい素晴らしい作品を発表してくれたので、僕としてはいつまでも彼を支持したいと思っていたわけだ。何と言っても彼はハリウッドの本流であり、映画というものがどういうモノなのか熟知した映画作家だったからだ。

 ところが昨年末、「満を持して」という感じで発表されたCGアニメタンタンの冒険/ユニコーン号の秘密(2011)には、正直言って僕もかなり困惑せざるを得なかった。作品としてダメというだけなら、彼のフィルモグラフィーにはこの映画よりダメな作品がないわけではない。しかし「映画」としてのあり方として、彼にはこんな作品を作ってもらっては困るのである。他の凡百の映画監督ならまだしも、泣く子も黙る天下のスピルバーグだ。こんな作品を平気で発表するようでは、もうさすがの彼もダメかも…と思わざるを得なくなった。

 そんなわけで、あまり時を経ずして登場した彼の新作、今回の「戦火の馬」にも期待ができなくなった。

 確かにアカデミー賞作品賞ノミネートの作品とはいえ、何年か前からムダに候補作ワクを増やした結果入ったという感じ。監督賞候補には入らなかったのだから、どうしても「水増し」要員の感は拭えない。スピルバーグともあろう者が、こんなワクに入れられるようでは情けないではないか。

 物語は、第一次大戦を背景にして軍馬として徴用された馬が辿る数奇な運命…というお話。いかにも、見るからにつまんなそうだ。正直言ってシリアス・テーマのスピルバーグ映画はSF・サスペンス作品と比べて打率が低い上に、戦争を背景にした作品は「太陽の帝国」(1987)、「シンドラーのリスト」(1993)、「プライベート・ライアン」(1998)ともっと微妙。こりゃあヘタすると「アミスタッド」以下のつまんなさじゃないのか。どうやら世間の人々も同じようなことを考えていたのか、この映画についての評判はほとんどどこからも聞こえて来ない。僕が親しくしている映画ファンの方々も、ほとんど黙殺に近い状態だ。

 上映時間も2時間半ぐらいあって長いと来ているため、それでなくても気乗りがしないところにますます腰が重くなる。そんなわけで、こりゃあこのまま公開が終わっちゃうかな…と、さすがの僕も諦めムードだったのだ。

 しかし、さすがに長年のスピルバーグ・シンパとしては、ここまで見てきたのにこれを見逃すわけにはいかない。ブザマに躓いた作品こそ見なくては、支持者とは言えない。ダメなモノもダメなりに見なくてはいけないだろう。

 そんなわけで公開から大分経ったある日、ようやく劇場へ足を運んだというわけだ。

 

あらすじ

 時は第一次大戦前夜。場所はイギリスの丘陵地方でのこと。どこまでも広がる大平原の真ん中に、1頭の馬が横たわっていた。

 周囲には何人もの人々がたかっていて、この馬を心配そうに見守っている。馬は産気づいていたのだ。やがて生まれ出たのは、べったりと濡れたちっぽけな子馬。しかし、これがアッという間に立ち上がって走り出すのだから、馬の本能というものは素晴らしい。草原の一角からその一部始終を見ていた少年アルバート・ナラカット(ジェレミー・アーヴァイン)も、馬の生命力に魅せられた一人だ。そして子馬の方も、そんなあるバートを見つめているように思えた。

 それから事あるごとに、この子馬を見るために草原に足を伸ばすアルバート。ところが、この母子馬に運命の日がやって来る。いきなり村へ連れて行かれて母と子が分けられ、子は競売にかけられることになったのだ。

 大にぎわいの競売場は、美しい毛並みの子馬の登場で大いに盛り上がる。その馬を吸い寄せられるように見つめるのは、小作人のテッド(ピーター・ミュラン)。彼はこの日、農場で鍬を引くための馬を探しに来たのだが、この馬の美しさにどうしても惹き付けられてしまったのだ。おまけに、テッドがどうも虫が好かない地主のライオンズ(デヴィッド・シューリス)が、この馬に値をつけてしまったから止まらない。元々意地っ張りで定評のあるテッドは、仲間が止めるのも聞かずに法外な値をつけ、この子馬を競り落としてしまう。

 結果としてテッドに残ったのは、農耕にはまったく適さず人の言うことを聞かない暴れ子馬と、それを競り落としたとんでもない金額、そして競り負けた地主ライオンズの反感だけ。今頃気づいてももう遅い。子馬を連れてトボトボ帰宅したテッドは、案の定、女房ローズ(エミリー・ワトソン)の怒りを買うことになる。

 しかし…何たる運命のいたずらか、このテッドとローズの一人息子は、何とあのアルバートではないか。

 生まれた時から夢中だったあの子馬が、何たる偶然か自分の家にやって来た。アルバートは怒り狂う母ローズをなだめながら、自分が調教するから…と説き伏せるのだった。

 こうしてアルバートは子馬をジョーイと名付け、毎日長い時間を共に過ごすことになる。アルバートの親友アンドリュー・イーストン(マット・ミルン)はそんな様子を見て笑っていたが、そのうちジョーイがアルバートの言うことを聞くようになっていくのを見て、彼も目を丸くするようになる。

 しかし、楽しい日々は長く続かなかった。小作料を払う時になっても、地主のライオンズに払うカネが足らない。仕方なくテッドは、何とか支払いを待ってくれとライオンズに頼み込む。 今まで耕してなかった隣の土地を畑にして、新たな作物を作ると言うのだ。そんなテッドの申し出に、ライオンズは冷ややかな反応しか見せない。それもそのはず、隣の土地は石ころだらけの荒れた土地で、おまけにテッドは足を痛めて農作業の効率は悪い。しかも農耕用の馬はいない…と三拍子揃っている。それでも何とか…とテッドはライオンズに頼み込み、とりあえず当座は支払いを延ばしてもらった。

 しかしながら…だからと言って、何も問題は解決しない。いよいよ切羽詰まったテッドは、怒り心頭で銃を持って厩へと向かった。すっかりヤケクソになったテッドは、銃でジョーイを撃ち殺そうというのだ。そんなテッドを、アルバートは必死に止める。そして「自分がジョーイを農耕を教える」と断言するのだった。

 むろん元々がサラブレッドなところに来て、まだまだ人の言うことを聞かないジョーイに、畑を耕させることなど無理難題だ。それでもやらねば家も土地も取られ、愛するジョーイも失ってしまう。

 そんなアルバートの必死さが通じたか、何とか馬具に首だけは通したジョーイ。しかし実際に土地を耕すとなると、これまた別問題だ。その様子を見ようとライオンズや近所の農夫たちが集まって来たが、やっぱりジョーイは思うように動かない。そんなアルバートたちをライオンズが嘲笑して立ち去ろうとしたその時、いきなりジョーイが凄まじい勢いで走り出したではないか。ゴロゴロ転がる石を跳ね飛ばし、たちまち土地には深く鍬が入っていく。それはジョーイにアルバートの思いが通じた瞬間だった。

 こうして何とか土地は耕され、着実に作物は育っていく。

 そんなある日、母のローズはアルバートにテッドの過去について教える。テッドはかつて戦争の時に出征して、大きな殊勲を得た。しかしテッドはその時のことを、いまだに深く恥じているというのだ。果たして戦場で何があったのか、その後もテッドは一切語ったことはない。ローズはそれだけ告げると、アルバートにテッドの連隊の小旗を渡すのだった…。

 ところがそんなある日、激しい暴風雨が起きて畑を直撃。せっかく飢えた作物はすべてダメになった。あの努力は、すべて空しかったのか…。

 折りから町に伝令がやって来て、第一次大戦が勃発したと知らせてくる。

 この小さな村にも、たちまち軍の人々が大勢やって来た。もはやこれまで…と思い詰めたテッドは、ジョーイを軍に売り渡すことを決意する。それに気づいて駆けつけて来たアルバートにも、それはどうすることも出来ないことだった。

 不幸中の幸いは、ジョーイを買い取ったニコルス大尉(トム・ヒドルストン)もまた、馬に深い愛着を持っている人物だったこと。ニコルス大尉はアルバートとジョーイとの間に通う絆の強さに、大いに打たれずにはいられない。彼はアルバートに、ジョーイをちゃんと世話することと、戦争が終わったら返すことの二つを確約。何とかアルバートに、ジョーイを連れて行くことを納得させた。

 やがてニコルス大尉とジョーイは、他の人馬たちと共に出征。行軍するジョーイに駆け寄ったアルバートは、その手綱にテッドの連隊の小旗を結びつけた。

 こうしてジョーイは運命のいたずらから、軍馬として戦場へと向かうのだったが…。

 

見た後での感想

 実は、ここまでが映画の導入部。ここから先は馬のジョーイがひたすら戦場をさまよう構成だ。

 この後、ジョーイはイギリス軍とドイツ軍の戦いに駆り出され、イギリス軍の惨敗によってドイツ軍のモノとなる。ところがジョーイはドイツ軍の脱走兵兄弟によって連れ出され、一時はフランスの農夫と孫娘の持ち物となるが再びドイツ軍に徴用。ここで砲台を引っぱる重労働へと駆り出される…といった調子で、波乱と流転の運命を辿る。その都度、ジョーイの立ち位置や陣営が変わるだけでなく、馬の周辺にいる人物も変わっていくのだ。よく男性遍歴の派手な女が「私を通り過ぎた男たち」(笑)なんてことを言ったりするが、まさにこの映画は馬にとっての「私を通り過ぎた人間たち」を描いた物語になっているのである。

 そんなことは見る前から分かっていたって?

 確かに僕も分かってはいた。戦場に送られた馬を通して、さまざまな人間たちが描かれる。そんな作品になるとは分かっていたのだ。

 しかし…まさかここまで素晴らしい作品に仕上がっていたとは!

 スピルバーグももうダメかなと思っていたから、この鮮やかな復活は衝撃的だ。こんなことをここに書くことになろうとは思わなかったが、正直言って21世紀に入ってからのスピルバーグ作品としても屈指の出来映え。ひょっとするとキャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン(2002)をも超えている予感すらある。少なくとも、スピルバーグが発表したシリアス作品の中では、群を抜いた出来映えであることは間違いない。

 映画を見た直後は自分でもちょっと評価しすぎかと思っていたが、見てから時間が経てば経つほど、その気持ちは強くなる一方だ。これにはまったくウソ偽りはない。長年のスピルバーグ・シンパである僕が言っているのだ。ここはストレートに受け止めていただきたい。

 主人公の馬は一言も語らないが、馬を通じて「人間たち」が語られていく。

 人間たちはテメエの勝手で馬を好きに扱い、馬のためにお互い競い合ってカネを積み上げたりもする。貧富の差から対立したかと思えば、それを乗り越えて助け合おうともする。馬に好かれようと一生懸命になって何かを教えようともすれば、馬にひどい苦役を与えようともする。本当は恐ろしくてやりたくないくせに、悲惨で無茶な殺し合いをやらかしたりもする。そのくせ敵味方を超えて、たった一頭の馬を助けようと力を合わせたりもする。その協力が終わったら、再び殺し合いをすることになるにも関わらず…だ。

 これらは僕らがよく知っている人間の世界だが、馬の側から見ることで改めて見えるモノもある。馬の側から見た人間とは、まるで「不思議で矛盾する生き物」だ。醜く愚かでもありながら、気高く美しくもある、何とも訳の分からない生き物なのである。

 ただし、僕がここまで書いてきた言葉を読んだら、この映画って何だかいかにもつまらなそうだ(笑)

 「動物から見たら人間は何ておかしな生き物だろう」…っていかにもありがちな風刺劇みたいではないか。そんな風刺コメディとかユニークな語り口の作品では、「動物の視点から見た人間」って描き方はすでにアレコレあったような気もする。そこでは「人間の愚かさ」が云々されることも、言わばお約束だ。

 ハイハイ、そうですよ。まったくごもっともでございます、人間は愚かですよ…。何だかそんな「紋切り型」な感じに思えてしまいそうだ。こうなってしまうと、ちっともユニークでも何でもない。むしろ陳腐で凡庸な視点でしかない。

 しかしこの映画は、決してそんな薄っぺらな「風刺劇」ではないのだ。それどころか、馬が人間を責めているわけでもなく、馬がかわいそうに見えるわけでもない。そもそも馬は何も言ってくれない。先ほどから「馬から見たら」「動物から見たら」という言葉をついつい使ってしまったが、実際はそれも正しくはない。

 映画は(正しくは)あくまで馬の視点で世界を見ているわけではなく、単に馬を中心に置いて、馬を追いかけていきながら物語を語っているだけだ。だから馬が何か主張するわけではなく、馬は人間の姿を映す「鏡」の役割しか果たさない。このあたりの構成が素晴らしいのである。

 これは元々の原作にあった視点なのかもしれないが、リトル・ダンサー(2000)の脚本を書いたリー・ホールと、ノッティング・ヒルの恋人(1999)の脚本を書いてラブ・アクチュアリー(2003)の脚本・監督を手がけたリチャード・カーティスというイギリス人の脚本家チームの力量によるものだろう。

 戦争の空しさやら悲劇、残虐さなどを、絶叫口調や激しい憤り、号泣などで描こうとしない。昨今の映画には珍しくなった、あくまで抑制された語り口には目を見張る。実際のところこの映画は戦争について描いてはいるが、いわゆる「反戦映画」などという狭い範囲の映画でもない。そんな安っぽいメッセージ映画なんかではない。もっと人間全般の不思議さ、面白さについて描いた作品なのだ。そこがまさに非凡なのである。

 さらにこのイギリス人脚本家チームのおかげで、全編にイギリス風のおっとりとした品やコクが出ている。これが作品の格をグッと押し上げている点も見逃せないだろう。

 特に近年のスピルバーグ作品は脚本に難がある場合が多かったし、それを抜群の演出力で遮二無二押し切って語ってしまう傾向が強かった。今回は脚本の質が極めて高いから、その点は危なげがない。こうなれば、元々が他の追随を許さない演出力を誇るスピルバーグだ。まさに鬼に金棒だろう。

 こうなると盤石の脚本に乗っかって、今回スピルバーグは安全運転を心がけただけのように思える。確かにこの映画は直球ストレートな作品に仕上がっている。スピルバーグも抜群の安定感だ。

 では、スピルバーグは無難に演出しただけだろうか?

 「人間ならざるモノ」を中心に据え、それを追いかけることで周囲の人間たちを描ききる物語。「人間ならざるモノ」が「人間たち」を映し出す「鏡」として機能する物語…。僕らはそういうスピルバーグ作品を、過去にすでに目撃してはいないだろうか?

 「人間ならざるモノ」…E.T.(1982)の物語を。

 

華麗な演出力を堪能できるスピルバーグ・グレーテスト・ヒッツ

 ジョーイという馬は数奇な運命によって、戦場を転々とさすらうことになる。

 ところがその行く先々で、敵味方を問わずジョーイを愛し、守ろうとする人々が現れるのだ。しかも、その一方でジョーイを苦境に追い込もうとする連中もいて、一筋縄ではいかない人間模様が展開していく。そんな彼ら人間たちの姿は、良くも悪くもジョーイという存在があるからこそ際立って見えてくる。

 これってある意味で、あのスピルバーグ最大の代表作「E.T.」そのものではないのか。

 E.T.もジョーイも、彼ら自身が何を考えているのかは人間たちにハッキリとは分からない。そしてE.T.もジョーイも、人間たちに何かをしようとするわけでもない。むしろ彼らの方が、人間たちの「事情」に巻き込まれている。ところが周囲の人間たちは、E.T.やジョーイの存在によって自らの中にある善なるモノ、悪なるモノを徐々に明らかにしていくのだ。この両者は、意外なほど共通点を持っているのである。

 そもそもスピルバーグはこの「E.T.」に限らず、「人間ならざるモノ」をドラマの中心に置いて、周囲の人間たちの本性をあぶり出すのを得意としているところがある。

 例えばA.I.(2001)の主人公は「子供型ロボット」だ。それは人間のようで決して人間ではない。彼は多くを語らないし、実際何を考えているのかハッキリ分からない。ただ周囲の人間は彼の存在によって触発され、その立ち位置をハッキリさせたりするのである。

 また、その「人間ならざるモノ」は、必ずしも「善性」を持ったモノとは限らない。考えてみれば「ジョーズ」(1975)のサメだってその存在によって人間たちの本性をあぶり出していたし、そもそも「激突!」ではあのタンクローリー車がなければ、主人公の孤独なドライバーは最後に原始人のような闘争本能をムキ出しにすることはなかっただろう。この「人間ならざるモノ」をドラマの中心に据えるというフォーマットは、昔からスピルバーグ映画の十八番だったのである。

 そんな自身の十八番フォーマットによる安定安心のドラマ設定を得て、スピルバーグは変幻自在の演出テクニックを駆使する。

 元々がその卓抜した演出力には定評があるスピルバーグだったし、昔から映像テクニシャンとしての誉れは高かった。しかしそんなスピルバーグの作品歴においても、今回は特に華麗かつ自由奔放。さらにこの20年ばかりの作品に特化してみると、今回の作品における彼のテクニシャンぶりは圧倒的に際立っているのだ。

 先にも述べたように、イギリスのベテラン脚本家チームによる極上の脚本は、全体的に極めて抑制が利いている。そんな脚本の要請を受けて、スピルバーグも「直接的」な衝撃描写は可能な限り避けている。しかし、それが映像のインパクトを損なうようなことは一切ない。むしろクリエイティビティーの世界においては、抑制や制限は表現をかえって研ぎ澄ます結果をもたらすことが多い。今回のスピルバーグも同様で、むしろ近年では最も華麗なる演出テクニックを総動員している印象だ。

 例えばドイツ軍の野営を奇襲攻撃したイギリス騎兵隊が、今度は逆にドイツ軍からの機銃掃射を受ける場面。蜂の巣にされるイギリス軍兵士や血糊などは一切見せず、いつの間にか馬上から人がいなくなっていることですべてを分からせてしまっている。映画的衝撃度では、撃ち殺される人を見せるよりもずっと強烈だ。これはもはや老練の技である。同じように脱走兵兄弟が処刑される場面でも、風車の羽根を使ってさりげなく観客の視界をさえぎり、銃殺の瞬間を見せない工夫を行っている。あえて「見せない」ことにより、演出の冴えはさらに際だっているのである。

 これまでもスピルバーグと言えば、映像のディティールのうまさで見せてきた人だ。例えば「ジュラシック・パーク」(1993)での、恐竜の足音の震動によって紙コップの飲み物が震えて波立つ場面。あるいは恐竜の吐いた息で、丸い窓ガラスが曇る場面。こうしたディティールのうまさによって、僕らは映画の中にどんどん引き込まれていったのだった。

 今回の作品でも、そうした場面場面のディティールは光っている。前述のイギリス騎兵隊による奇襲場面で、鬱蒼と茂るススキの原の中から、騎兵たちが馬にまたがってスックと姿を現す場面の呼吸の素晴らしさ。あるいは水車小屋の中に取り残された馬の目に、フランスの女の子の姿が映る見事さ。こういう場面はなかなか撮ろうと思っても、こうはうまく撮れないものだ。

 また、フランスの女の子が馬のジョーイにまたがって丘を越えていく場面も、特筆に値する素晴らしさだ。丘を越えていつまで待っても戻って来ないので、祖父はだんだん心配になる。ついに待ちきれず丘を上がっていくと、視野が広がった丘の向こうにはドイツ軍の兵士たちがうごめいている…という鮮やかな場面転換。この呼吸の良さは、例えば宇宙戦争(2005)における…兵士たちが丘を登って行って主人公たちの視野から消えたとたん、丘の向こうから轟音と共に巨大な炎が燃え上がる…という場面と、どこか共通するモノを感じさせる。いずれも場面転換の呼吸のうまさが、他の追随を許さないのである。

 そして、解き放たれた馬が一気に全力疾走し、敵陣味方陣構わず走りまくっていく場面の凄さ。しかも最後には次々と鉄条網に引っかかって、どうにも身動きが出来なくなってしまう。この場面など、凡百の監督ではこのように場面をうまくはさばけないだろう。実際この場面をどう撮影するのか、どのようなショットを構成するのか、どのようにショットをつなぐのか…観客に何が起きているのか分かるようにキチンと見せていくのは、かなり至難の業だ。僕も大昔に下手くそな自主映画を撮っていたから分かる。これを的確に撮っていくのは、相当熟練の技が要る。思ったように動かぬ機械ザメを使って、何とかかんとか人食い鮫の恐怖を映像化した「ジョーズ」の監督だからこそ、この場面を難なく撮影できたのである。

 さらに、いかに抑制が利いた描写だとはいえ、戦場の緊迫感を描くにあたって、スピルバーグはまったく手加減などしていない。

 黒澤明の椿三十郎(1962)が人を斬る音を加えたことでその後の時代劇を変えてしまったように、「プライベート・ライアン」(1998)の強烈な戦場描写はその後の戦争映画を一変させてしまった。ところが今回スピルバーグはその「プライベート・ライアン」への反省もこめて、改めて戦争映画の新たなスタンダードを作り出そうとしているように見える。何も手足がすっ飛ばなくても、至近距離で人が木っ端微塵にならなくても、戦場の阿鼻叫喚は伝えられる。そんな挑戦的で野心的なスタンスで、今回のスピルバーグは改めて演出にあたっているように見えるのだ。今回のこの作品を見てしまうと、結構頑張っているように見えていたマイウェイ/12,000キロの真実(2011)のカン・ジェギュあたりは、まだまだイマイチな程度に見えてしまう。

 かならずしも直接的で刺激的な描写に頼らずとも、インパクトのある映画表現は可能だ。それはあの「出そうで出ない」描写で十分に雰囲気を盛り上げた、「ジョーズ」の監督の「本卦帰り」とも言うべき新たな挑戦なのである。

 それは同時に、CG技術によって何もかも見せることができるようになった、現代の映画に対するアンチテーゼでもある。…というか、実はスピルバーグ御大自ら、まんまとそれに荷担してしまっていたのだ。あの忌々しい「タンタンの冒険」において、スピルバーグは同じ過ちを犯していたのである。

 確かに頭で思い描いたイメージプランをそっくりそのまま映像化できれば、どんなにか素晴らしいだろう。天下のスピルバーグだって、そう思わなかったわけはあるまい。しかしそれを実行してみた「タンタン」は、何ともみじめな失敗に終わった。それが分からなかったスピルバーグではあるまい。

 確かに奔放なイメージを実写で定着させていくのは、かなりな困難を伴う。しかし、遮二無二それをやったからこそ、スピルバーグ映画はあれほど素晴らしい出来映えになったのではないか。そこまで無理ヤリやったからこそ、比類なき映像のダイナミズムが生まれたのではないか。逆にこれを楽々とCGで作ったところで、見る側は「あぁ、CGだから当然だろ」と思うだけだ。それではありがたみなどまったくない。どんなカタルシスも、そこには生まれるわけがないのである。

 スピルバーグはそこに気づいたのではないか。

 もちろん今回の映画にも、CGはたっぷり使われているのだろう。しかしそれらは決して「それ」と分かるようには使われていないし、そもそも映画の勘どころである馬やその周辺については、CGはほとんど使われていないように見える。

 「ここぞ」というところはCGで作ってはいけない。

 スピルバーグは今回、そこを頑固なまでに守ったのではないだろうか。そうに違いないと思わされるほど、今回は全編にわたって抑制的な描写とともに、アナログ的な演出術が目立つ作品になっているのである。

 そのせいか今回の作品は、イマドキの映画にしては珍しいほどストレート、真っ正面から撮られた作品に見える。イマドキの映画ならもう少しひねくれたりスノッブになったり、あるいはシニカルになったりもするものだが、この映画はまっすぐに正攻法あるのみだ。

 しかも緊迫感ある場面の合間にも溢れんばかりのユーモア(鉄条網にからまれた馬を助けようと英独両軍の兵士が共同作業する場面で、英国兵士が「カッター」をくれ」と叫ぶと独軍陣地からいくつものカッターがブン投げられてくるあたりをご覧いただきたい)が盛り込まれているように、映画全編にまったくひねくれた点がなく極めて健全なのも印象的。脚本が持つおっとりとした英国風気品と相まって、映画に漂う雰囲気はあくまで古典的かつオーソドックス。映画全体のスケールも、非常に大きく見えるのが印象的だ。コチョコチョとした小手先での映画づくりではない、ドカ〜ンと腹の据わった佇まいを見せているのである。

 しかも…ここまでアレコレと語ってきたことをお読みいただければお分かりのように、今回の映画はその演出術という点において、過去のスピルバーグ作品のエッセンスのようなニュアンスが感じられる。過去のスピルバーグ映画のテクニックやイメージが、まるで彼のグレーテスト・ヒッツ・アルバムであるかのように散りばめられている。意外にも、スピルバーグ・ファンが心から堪能できる作品に仕上がっているのである。

 まったく世間では話題になっていないが、この作品は21世紀の彼の代表作になるかもしれない。僕は本気でそう思っているのだ。

 

おまけ

 サラの鍵(2010)を見た時にも思ったことだが、またしてもニール・アレストラップが味のある老人役で登場。かつての出演作「夜よ、さようなら」(1979)や「ミーティング・ヴィーナス」(1991)などで見せていた、アブラっこい中年男ぶりがウソのような枯れた味にビックリ。

 おまけに、キャラクター的にも今回「サラの鍵」での役どころをそのまま延長させたような役だったことに、またまた驚かされたのだった。

 

 

 

 

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