「メランコリア」

  Melancholia

 (2012/02/20)


  

見る前の予想

 何かと物議を醸すラース・フォン・トリヤーの最新作がやって来た。

 この人の作品と言えば、とにかく論争を巻き起こすことで有名だ。「奇跡の海」(1996)では徹底的にドツボにハマってしまう女の物語を描いた。ダンサー・イン・ザ・ダーク(2000)ではミュージカルという「ハリウッド」的手法を使いながら夢も希望もないお話を展開し、おまけに死刑反対論とも思える主張をブッた。ドッグヴィル(2003)とマンダレイ(2005)ではスタジオの床に白線を敷いてセットの代わりとしながら、露骨なアンチ・アメリカ物語を描き出した。そして前作「アンチクライスト」(2009)は…実は僕はこの作品は見ていない。劇中に「痛い」場面が登場すると聞いて、ビビって見に行くのをやめてしまったのだ。僕は歳を取ってから、無理をしてまで映画を見ようとは思わなくなった。映画はあくまで僕のお楽しみだ。お楽しみの時間に「痛い」思いなんかさせられてはたまらない。だから僕はキム・ギドクの映画もあまり見ていないし、「アンチクライスト」もパスしてしまった。それはともかく、この作品だってタイトルが何と言っても「反キリスト」だ。またまたコワモテでセンセーショナルな反応を狙ったものに違いない。

 そんな僕の言い方でもお察しいただけるかと思うが、僕はどうもラース・フォン・トリヤーのこうした姿勢を、少々冷ややかな視線で見ているところがある。

 だって「奇跡の海」ではあれほどシビアな語り口で自己犠牲に突っ走るヒロインを描きながら、映画自体をいくつかに分けたチャプターの始まりには、何とも懐かしいポップスの名曲を流していたではないか。それもエルトン・ジョンの「グッバイ・イエロー・ブリックロード」あたりはまだしも、プロコル・ハルムの「青い影」に至っては…あまりのミーハーぶりに唖然とするほどだ。たぶんこの作品を見た観客は、まさかこれが「ミーハー」的記号であるとは思わず、あえて深読みして「何かシリアスな意味があるのだろう」などと思ってしまったのだろう。しかし、これってどう見たってミーハー選曲以外の何者でもない。

 「ダンサー・イン・ザ・ダーク」、「ドッグヴィル」、「マンダレイ」あたりはアンチ・アメリカを打ち出しているのに、なぜか起用する役者はハリウッド・スターばかり。おまけにそんな反アメリカ映画「ドッグヴィル」のエンディングには、デビッド・ボウイーの「ヤング・アメリカンズ」が流れるという分かりやすさ。どんだけ単純な発想なんだ(笑)。

 だから僕は、ラース・フォン・トリヤーって自分をコワモテの「思索派」で高尚なアート系映画作家に見せたがっているけれど、本当はアメリカ大好きのミーハー単純映画作家じゃないかと思っていた。それじゃヨーロッパじゃバカにされるから、いろいろゴテゴテとおっかなそうなコロモをまとっているんだと思っていたわけだ。実際に、その次の作品はタイトルからして「アンチクライスト」と来たもんだ。もう狙ってるとしか思えない。わざとだろ、これ。

 今回の「メランコリア」だって、謎の惑星が地球に衝突することで「世界の終わり」がやって来るというお話。反キリストの次は世界の終わり…ますます煽って来たねぇ(笑)。カンヌ映画祭ではよせばいいのにナチス擁護発言をブチかましたらしく、みんなの怒りを買って追放されてしまった。実際はナチス擁護なんてつもりもなくて、イキがって調子こいてワルぶってたら、ついついやり過ぎちゃったってとこだろう。バカだよな、こいつ。

 正直いつもセンセーションを巻き起こすトリヤー作品の「衝撃度」について、僕は少々懐疑的に感じているのだ。だから今回も大ハッタリだと思っている。

 しかし所詮ハッタリならば、反キリストとか女を奈落の底に突き落とすとかよりは、惑星激突で世界破滅って方が何となく面白そうだ(笑)。特に僕はSF映画好きだから、惑星激突大いに結構(笑)!

 今回もキルスティン・ダンストやキーファー・サザーランドとハリウッド・スターを起用しての大風呂敷。ここは妙に辛気くさい話にせず、大幅にバカな展開に持っていってほしいところ

 僕は内心ヘンな期待をして、映画館に足を運んだ。

 

あらすじ

 疲労の色濃い女の顔。その女の名はジャスティン(キルステン・ダンスト)。

 よく見ると、彼女の背後に見える空からは、鳥がバタバタと落下してきている。そんなジャスティンは、大邸宅の庭に佇んでいる。しかしその庭には、異なる2方向に影が伸びていた。ひとつの影は日光が当たってできた影、もうひとつは…地球に異常接近している謎の惑星、メランコリアが発する光によるものだ。

 メランコリアの接近によって、さまざまな異常現象が発生。ジャスティンの両手からも電磁波が発せられたりしていた。

 そんなあれこれも、「最後」を迎えるまでのつかの間のこと。地球よりも遙かに巨大な惑星メランコリアは、今にも地球を飲み込むかのように立ちはだかった。そしてアッという間に、メランコリアと衝突した部分から、地球は崩壊し蒸発し消滅していったのだった…。

 それに先立つこと何日前か…あるいは何週間前、何ヶ月前だろうか。狭苦しい山道で、真っ白く長い車体のリムジンが立ち往生していた。乗っているのはジャスティンとマイケル(アレキサンダー・スカルスゲルド)という新郎新婦。二人はこれから結婚式に行く途中だが、クルマがこんな調子で先に進めない。アツアツのお二人だからして、なかなか結婚披露宴会場にたどり着けなくてもアハハと笑っていたが、リムジンが会場であるお城のような大邸宅にたどり着いた頃にはいいかげん日も暮れていた。

 待ちかまえていたのは、ジャスティンの姉クレア(シャルロット・ゲンズブール)とその夫ジョン(キーファー・サザーランド)。この邸宅は資産家であるジョンの屋敷で、肝心の新郎新婦が到着しないため、招待客たちはもう何時間も待たされていた。当然、待ちくたびれていたクレアはおかんむり。どうやらクレアは今までも、この妹に相当苛立たされて来たらしい様子だ。

 ところがジャスティンはどこ吹く風。ただ彼女は、夜空に一際まぶしく輝く一個の星が気になった。天文ファンでもあるジョンがその星を「さそり座のアンタレス」であると教えてくれたが、今夜はその輝きもいつもと違うように見えた。

 それでもとにかく主役が到着したところで、披露宴はやっとスタート。苛立っていたウエディング・プランナー(ウド・キア)も安堵の表情だ。

 しかしこの披露宴、どうも何かがうまくいっていない。

 ジャスティンの両親も当然のことながら披露宴に呼ばれていたが、離婚してからかなり経つこの二人が一触即発。冷ややかで辛辣な母親ギャビー(シャーロット・ランプリング)の態度もいかがなものかと言いたいが、一方の父親デクスター(ジョン・ハート)も訳アリ女を二人エスコートしているという破廉恥さ。そんなデクスターのスピーチにギャビーが割り込んで来て、「結婚なんて無意味」などとブチまくるに至っては、お祝い気分も冷めざるを得ない。

 このあたりから、新婦ジャスティンの華やいだ顔に陰りが見えてくる。

 そんなジャスティンの気配を感じてか、姉クレアは彼女に厳しく迫る。「今夜はちゃんとしていてくれるわよね? バカなマネはしないわよね?」

 「もちろん」と答えるジャスティンだったが、彼女はそんな答えと裏腹に屋敷を抜け出し、庭に作られたゴルフコースに小便をぶっかける。ジャスティンは今夜、どうにも夜空が気になって仕方がない。

 やっと新婦が戻ってきたところで、披露宴は再開。新郎マイケルの新婦に捧げる言葉が述べられたが、一生懸命な気持ちは伝わったものの、あまりに拙いスピーチにはいささかシラケざるを得なかった。ますますジャスティンは自分の気持ちをコントロールできなくなってくる。またまた会場を抜けだしたジャスティンは、自分の部屋に逃げ込んで風呂に入ってしまう。

 会場では、再度の新婦退席にジョンが慌て出す。ついでにギャビーまでが部屋に引っ込んで風呂に入ってしまった。これにはさすがにジョンもキレて、彼女の荷物をすべて屋敷の玄関から放り出すのだった。

 風呂から出てきたジャスティンに、ジョンはたまらず語りかける。「取引をしよう。これが意味のある出費だったと思わせてくれ。必ず幸せになるんだ」

 しかし、ジャスティンの迷走は止まらない。優秀なコピーライターであるジャスティンは広告会社で働いており、その上司ジャック(ステラン・スカルスゲルド)も披露宴に招待されていた。そのジャックは自分の甥で会社に入ったばかりのティム(ブラディ・コーベット)を伴っており、彼に何とかしてジャスティンに新しいコピーを捻り出させるように命じる。あまりお利口でなさそうなティムはその言いつけを忠実に守り、メモを片手にジャスティンを追い回し始めた。

 そんなジャスティンは、別室でマイケルから果樹園のある土地の写真を見せられる。それはマイケルが、ジャスティンのために買った土地だった。これにはジャスティンもただただ感謝するしかない。しかし彼女が部屋から立ち去ると、そこにはその果樹園の写真が置き忘れられているではないか…。

 

見た後での感想

 実は映画を見るまでは、結婚披露宴が行われている一晩のお話で、その日のうちに地球が惑星と激突するものと思っていた。どう見てもこの作品、世界が核戦争で全滅することになった一日を描く、アンドレイ・タルコフスキー「サクリファイス」(1986)を意識したような作品だと思われたからだ。

 ところがこの映画は2部構成でできていて、披露宴の話は第1部「ジャスティン」のパートだけ。後半の第2部「クレア」はそれからしばらく後の話で、実は惑星が接近しているということはこの時点で始めて出てくるのだ。

 前半の「ジャスティン」では、その題名通りジャスティンが披露宴の最中に精神的に混乱してしまう。しかし惑星が接近した後半の「クレア」では、今度は姉のクレアが惑星を恐れてパニックに陥る。その時にはジャスティンは妙に達観した状態になっているという設定だ。

 映画が始まるといきなり惑星大接近による滅亡のイメージが、超スローモーションの映像とワーグナーの音楽によって延々と展開。イメージはどれもこれも絵画のようなシンメトリー構図で描かれており、大音響で流れるワーグナーといい、どこかに何かいろいろと引用や暗号が埋め込まれている感じだ。そういやタルコフスキーの「サクリファイス」もやたらにイコン画とかバッハの曲とかを持ち出してきて、意味ありげな記号を散りばめていたっけ。たぶんそんなようなことを、あのトリヤーもやりたくて仕方がないんだろうなぁ。どうだ、オレって教養があるだろう?

 しかしそんなトリヤーの目配せって、僕にはむしろ逆の意味にしか受け取れない。

 それは例えば、爆笑問題の太田って人の言動に似ているかもしれない。この人のファンの方にはまことに申し訳ないが…僕がテレビなどでこの人を見る時に感じるのは、ちょっと痛々しい「必死さ」だ。自分がいかに利口でいかにいろんな事を知っているか、いかに深くモノを考えているか…ということを、いつも全力アピールしているように見える。

 しかしこの人が必死にそう振る舞えば振る舞うほど、どうも僕にはその逆にしか見えない。誤解しないでいただきたいが、たぶんこの太田って人は僕なんかより賢いだろうし、モノだって知ってはいるんだろう。しかしこれだけ自分を利口に見せることに必死になるってことは、少なくとも知的であるかないかということに激しいコンプレックスを抱いているように思えるのだ。

 ラース・フォン・トリヤーの知的で気むずかしそうでコワモテなイメージも、それと同じようなモノに感じられる。

 作る映画作る映画「アンチ・アメリカ」テーマの問題作。その映画の表現方法もいつも先鋭的だ。しかしデンマークの映画作家なのに、ハリウッド・スターばかり多用するのはなぜなんだろう。ホントはこいつ、アメリカとかハリウッドとかが、超ミーハー的に大好きなんじゃないの(笑)?

 実際、僕はラース・フォン・トリヤーのことを、ハリウッドに対する一種の倒錯的な感情を持っているという点で、リュック・ベッソンなんかとあんまり変わらないんじゃないかと思っているのだ(笑)。

 今回だって一見「サクリファイス」みたいに深刻に見せかけているけど、やりたいことはニコラス・ケイジのトンデモ映画ノウイング(2009)と五十歩百歩なんじゃないの? 嬉々としてCGで惑星と地球の激突シーンを見せているあたりで、僕はそう思ってしまった。僕がバカなSF映画に夢中になってるのと、あまり変わりないんじゃないの?

 でも、考えてみると…「サクリファイス」のラストで家を燃やす場面を一発撮りで撮影したタルコフスキーだって、そんなケレン味がなかったとは言えない気がする。あれだってタルコフスキーなりに、タワーリング・インフェルノ(1974)みたいにやってる感じだったかもしれない(笑)。家に火をつけて一発撮り…なんて、撮影現場は大いに盛り上がったに違いないからね。まぁ、どちらも似たような映画バカ(笑)

 そう考えるとやたら深刻でシビアな内容に見えるこの作品も、そのへんもうちょっと敷居を低くして見てやる必要があるんじゃないだろうか。

 

あまり芳しくない第一印象の作品だが

 そんな気分で見始めたこの作品、それでは僕は最初にどんな印象を持ったのか。

 最悪である。

 いや、映画が…というよりヒロインが。キルスティン・ダンスト演じるジャスティンという主人公が、とにかく不愉快な人物なのである。

 まずこのヒロインは、結婚相手と一緒に自分の結婚披露宴に大幅に遅刻。それ自体は「不可抗力」でいかんともしがたいのだが、遅刻して到着してもまったく謝罪がないのである。

 この時点で、僕はたちまち不愉快になった。

 基本的に、僕は人間を「謝罪できるか謝罪できないか」で判断する。間違いは誰にでもあるが、それを謝れるかどうかはその人次第だ。それで、人間の価値がある程度測れるのである。少なくとも、僕はそれで人間をいつも「測っている」。ちゃんと付き合うに値するかどうかを、それで決めていると言っても過言ではない。出来ないような人間は不適格者だ。

 ところがこのヒロインは、多くの人間を待たせていながら悪びれていない。

 どうやら披露宴の準備からそれにかかる出費まで姉夫婦に任せていたようなのだが、その事に対する済まない気持ちもなさそうだ。挙げ句の果てに…自分の両親の非常識な言動はあったにせよ…披露宴をたびたび抜け出して好き勝手に振る舞う。そのたびに披露宴は中断して、お客はずっと待たされるのである。

 何とワガママでイヤな女。

 初夜に臨もうとする新郎を拒絶して、外で若い男とコトに及ぶ。おまけに…気に入らない男であっても自分の会社の上司を披露宴に呼んでおきながら、みんなの面前で罵倒することはないだろう。どれだけ失礼なんだ。

 何でもこの作品、ラース・フォン・トリヤーが「ウツ」になった時のことが下敷きになって作られているんだそうな。だからヒロインのジャスティンの精神状態は、いわゆる「ウツ病」の状態を描いていることになるらしい。

 だとすると、「ウツ病」だからこんなムチャクチャな言動をするわけで、そのあたりを割り引いて見てやらねばならない…ということになる。それを「最悪」「ワガママ」「イヤな女」とコキ下ろすのは、「ウツ病」に苦しんでいる人をムチ打つに等しいことなのかもしれないのだ。

 しかし…こう言っちゃいけないのかもしれないが、これはやっぱり不愉快だよ、普通に考えて。

 こういう事も何もかも、受け入れてやらねばならないのかもしれない。そうは思えない僕は何とも心の狭い男で、こういう病気に理解のない人間なのかもしれない。しかしぶっちゃけ言わせてもらえれば、これは付き合ってられないレベルだ。こうまで悪化しちゃっているなら、もう医者の治療を受けるなり病院に入るなりしなくちゃならないんじゃないだろうか。実際、大金使ってこんな披露宴をやっているんだから、実害はかなり出ちゃっている。

 そもそもそんな自覚症状があるのなら、その時点でわざわざ結婚なんかすべきではないだろう。新郎に失礼だよ。少なくともあんな豪華な披露宴などやることはなかった。この時点で、僕にとってこのヒロインはまったく同情できない。

 まぁここだけの話、自分が悪くても謝らないなんてことだけなら、女性にはよくあることだ(笑)。これは決して「偏見」ではなくて、僕の「経験」から言っているので批判しないでいただきたい。しかし、このヒロインの振るまいはいささか度を超している。実際のウツ病ってどんなものか知らないから何とも言えないが、病気ならそれなりにやりようがあるはずだろう。僕がこういう病気ってものを分かっていないのなら申し訳ないが、これは偽らざる正直な気持ちである。

 そんな訳で、僕にとってこのヒロインはまったく共感できない人物となった

 では、映画として不愉快であるかどうかというと…これがなぜかそうはならない。むしろヒロインが「壊れていく」に従って、こっちも無責任に「もっとやれ」という気分になっていく。このあたりがこの作品の非凡なところだ。

 そして後半の第2部。症状はますます悪化。しかし、このあたりではもう完全に病気だと分かる状態になっているせいか、もう彼女の振るまいを見ていても気にならない。その代わりに今度は姉のクレアの方が壊れてくるということは、先に述べた通りだ。

 そんなわけで、いちいちイラッと来ていたジャスティンの言動が大人しくなったのに加え、僕にとって「ご馳走」である惑星が前面に出てくる(笑)ことで、この映画の前半部分に感じた嫌悪感が僕の中からすっ飛んでいった。この映画についても、単純に見ていて楽しめる作品へと変わったのである。

 さらに僕が無類のSF映画好きだからだろうか、劇中で姉のクレアたちを絶望に叩き落とすはずの惑星メランコリアに、思わずワクワクさせられてしまう。

 SF映画ではないからメランコリアがどんな惑星か…ということには触れられるわけもなく、そこが残念と言えば残念だが、この惑星が地球と衝突するという「見せ場」には思わず期待してしまうのだ。

 そこに、日本SF映画の傑作「妖星ゴラス」(1962)でも見ているような楽しさがあることは否定できない。しかし、果たしてそれだけだろうか?

 いや、そうではない

 それ以上に、世界の破滅という状況に一種のカタルシスがあるのも事実だ。いみじくも劇中でジャスティンが言葉にしているように、「こんな世界などパーッとなくなっちまえばいい」というようなスカッとした爽快さをも感じてしまうのである。

 だから映画の前半にあれだけ不快感を感じた僕も、世界が破滅するエンディングを迎えるあたりでは、結構楽しんでこの映画を見ていたのだ。

 そもそも「世界の終わり」のお膳立てがナゾの惑星の地球への激突…ってあたりからして、ラース・フォン・トリヤーの発想は中学生レベル(笑)というべきだろう。あるいは、先に述べたようにリュック・ベッソン的とでもいうべきか。

 ワーグナーなんか流してもっともらしく見せてはいるが、これは本来そういう映画なのである。

 

我々の内なる願望を実現してくれる映画

 ところで、先に「こんな世界などパーッとなくなっちまえばいい」というようなスカッとした爽快感と言ったが、それって結局、「何もかもがイヤになってしまった時に出る暴言」みたいなものではないか。

 …っていうか、中学生ぐらいの頃に僕らが考えそうなこと…というような気がする。僕もそんなような事を考えたことがあったからね。いや、実は今でも時々思っていたりする(笑)。

 実際、この世は楽しいことばかりではない。というか、むしろ不愉快なことの方が多い。僕らはその怒りや不満をオモテにいちいち出していられないから我慢しているが、正直やってらんねえと思っていることも少なくない。そう改めて考えてみれば…この映画でジャスティンを取り巻いている状況もかなり不愉快なモノだ。先ほどあれだけジャスティンの言動をクソミソにケナしてはみたが、実は結構同情すべき状況だとも思えるのである。

 母親は非常識で辛辣でテメエ勝手、腹を割って話そうにも取り付くシマがない。父親は調子こいた男で無責任で、ヒロインが相談しようとしても逃げてしまう。姉は…といえば、まだヒロインが何も悪いことをやっていないうちから「変なことしないでよ、分かってるんでしょうね?」みたいな決めつけよう。一生懸命献身的にやってはくれるが、そこにはどこか高圧的に見下した態度が見え隠れする。その亭主は「この披露宴にいくらかかったと思ってるんだ」的な発想しかしない。頼みの綱の新郎はと言えば、新婦へのスピーチで指名されながらロクな言葉も出ない。やっとこ絞り出した言葉が、「世界で一番愛しているよ」と凡庸この上なしなセリフ。言ってしまえば、かなりボンクラだ。上司には日頃どんな恨みがあったか知らないが、本人いる前で甥のことをゴミ扱いした発言する時点で、こいつが自分の部下をどう扱ってきたかが想像つく。こんな奴らしかいないのか、自分の周囲には…。

 確かに、相当精神的に不安要素があったのに何で結婚なんかしようとしたのか…という批判は避けられないまでも、ヒロインを取り巻く状況はかなり鬱陶しい。かなりイライラする。

 僕だって、ナメたマネするんじゃねえとケツをまくりたくなるよ

 社会的な立場とかルールとかしがらみとかがあるから我慢はするが、ヒロインみたいに振る舞えるならやってしまいたい。時々ホントにそう思える時だってある。実際、若い時にはそれをやってしまって、職場を転々とした僕なのだ(笑)。分からないでもない。

 そして、四方八方そんな状態になってしまったら、「いっそこんな世界など滅んでしまえ」と言いたくもなるのである。

 そんなヒロインの気持ちを見透かしたかのように、惑星メランコリアが出現。地球に向けて接近してくるわけだ。

 いろんなしがらみでキレる訳にいかない僕らと違って、ヒロインは思うがまま気持ちを発散させる。最初見て不愉快だったのはそれらの振る舞いが失礼だったからではなく、自分もそうしたいのに出来ないことをヒロインが易々とやってしまっているからではないか。実はそんなヒロインが羨ましいからではないのか。

 しかしそんなヒロインも、「いっそ世界を滅ぼしてしまう」ことまではできない。

 ところがこの映画では、後半になって惑星メランコリアが登場。そんな内なる願望まで実現させてしまう。だから見ていて、スカッとするカタルシスを感じてしまうのだろう。例えばスティーブン・ソダーバーグの「オーシャンズ」シリーズみたいに、実際には叶えられないことをまんまと実現させてしまう楽しさがあるのだ。

 人生ウンザリすることばかり。それを我慢させられるのもユウウツだ。そんな鬱陶しいアレコレを、惑星メランコリアで一気に吹っ飛ばしてしまう…というこの作品、ひょっとしてウツになった時に最高のセラピー効果があるんじゃないかと思うが、いかがだろうか。

 

 

 

 

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