みるまえ
今年の後半はブラピ大活躍。そのうち1本は「怪作」と言っていい「ツリー・オブ・ライフ」(2011)だったが、もう一本は野球映画と聞いて合点がいった。野球とくればアメリカ人の心のふるさと。ブラピの師匠であるロバート・レッドフォードも、「ナチュラル」(1984)で野球映画に挑戦しているくらいだ。かなり趣味趣味の「ツリー・オブ・ライフ」を出す一方で、あくまでハリウッド・スターとしてのブラピとしては、アメリカ映画の王道たる「野球映画」に出ておこうということなのだろうか。ただこの映画でのブラピは、選手役でないというのが微妙。何でも球団のGM役だという。GMと来れば、昨今えらく注目を集めた某球団の元GMがいたが(笑)…それはともかく、どっちかと言えば縁の下の力持ちの役どころだ。そういう役職とブラピのイメージがなかなか結びつかない。さらにチラシを熟読してみると、お金もなく大物選手も獲得できないチームを、今までの常識を打ち破った野球理論で勝利に導いていった男のお話らしい。ならば前半は挫折あり失望あり、それが最後に奇跡の大逆転…負け犬が勝利を掴むというアメリカ映画王道のパターンになっていくのか。そういう映画も決してキライじゃないだけに、このブラピの「野球映画」に注目したいところだが…。
ないよう
今年も終わった。弱小球団オークランド・アスレチックスが名門ニューヨーク・ヤンキースに負けて、2001年のシーズンは散々な幕切れとなった。しかもシーズン終了して早々、数少ないスター選手のジョニー・デイモン、ジェイソン・ジアンビ、ジェイソン・イズリングハウゼンがフリーエージェント宣言を行い、それでなくても地味なアスレチックスはスター皆無の球団となってしまった。さすがにこれにはアスレチックスのGMビリー・ビーン(ブラッド・ピット)も、いつもの強気を保っていられない。ビリーはかつて、将来を嘱望された野球選手だった。高校生として恵まれすぎている肉体と資質。各球団からのスカウトがひっきりなしにやって来て、ビリーは当初予定していた大学進学を断念し、プロへと進んだ。しかしプロでの成績は惨憺たるもの。結局、ビリーは芽が出ないままプロ選手を引退。それでも野球以外できることがないから、こうして弱小球団のGMにしがみついているわけだ。妻シャロン(ロビン・ライト)にも逃げられ、たまの休日に娘のケイシー(ケリス・ドーシー)と会うだけが楽しみのこの男。彼は明らかに深い挫折感を抱いてはいたが、まだまだすべてを諦めていた訳ではなかった。しかし、いかんせんアスレチックスは貧乏球団。
わずかなスター選手にも逃げられる始末だ。ともかく落ち込んでばかりもいられない。何とかして補強しなくては。ビリーはクリーブランド・インディアンスの事務所を訪れ、旧知のGMにトレード交渉を持ちかける。しかし交渉はうまくいかない。そんな交渉の最中、ビリーはインディアンスのスタッフの一人に目を付けた。その男は若いクセにまるまると太った、いかにもデスクワーク畑の男だが、たまたまチラリと耳にした言葉がビリーの心に残った。交渉決裂で立ち去りかけたビリーは、その男ピーター・ブランド(ジョナ・ヒル)に声をかける。彼はこの球団で経理的な仕事をしており、選手の採用やらチーム編成にはまったく関係がない部署で働いていた。しかし彼は独自の野球理論を持っており、それがビリーの耳をとらえたのであった。もっともピーターに言わせると、その理論はすでにあるもので彼独自のモノではないということだが…。打率より出塁率を重視すべきだとか、盗塁や犠牲フライはあまり意味がないとか、従来からの野球のセオリーを覆す話に興奮するビリー。その中でも決定的だったのは、ビリーの「君ならオレをスカウトしたか?」という問いに対する答えだろう。ピーターは「あなたを指名しなかっただろう。その結果、あなたは大学に進学しただろう」…という指摘は、ビリーの心に響いた。かくしてビリーはピーターをインディアンスから引き抜き、自分のアシスタントに置くのだった。そんなピーターのアスレチックスへの出勤初日、ビリーはスカウトたちが推薦する「有望な選手」たちの提案を退け、既存のイメージではロートルだったりポンコツだったり難アリだったりする選手ばかりの名前を挙げる。それに対してスカウトたちから疑問と不満の声が挙がると、その都度、ピーターにその理由を説明させた。ベテランのスカウトたちとしては、見たこともない太った男が数字を例にとって説明するのが不愉快で仕方がない。そもそも、これまでの野球の常識を覆して、数字をタテに分かったようなことを言ってくるのが気にくわない。たちまち会議は紛糾。それをビリーが持論を押し通すかたちでお開きとなった。そんな選手の一人が、スコット・ハッテバーグ(クリス・プラット)だ。酷使した腕はいいかげんガタガタ。実は捕手としてはもう峠を越えているのは明らか。次の行き場所がないまま、不安なシーズン・オフを過ごしていた。そこにやって来たのがビリーだった。ビリーは驚くハッテバーグにアスレチックスへの移籍を打診。ハッテバーグにとってはむろん願ってもないことだが、肝心の腕がいうことを利かないことを打ち明けないではいられなかった。しかしビリーは事もなげにこう言うばかりだ。「いや、一塁にコンバートする。問題ない」…。しかし当然のことながら、こうしたビリーの「新機軸」は大きな反発を招く。ファンやスポーツ・ジャーナリストはあからさまに嘲笑を浴びせていたし、スカウトマンが反発するのも最初から。そして何より、現場で指揮をとるアート・ハウ監督(フィリップ・シーモア・ホフマン)からも快く思われていないことが分かってくる。もはや四面楚歌。案の定、シーズンが始まってからもアスレチックスの成績は無惨な状況。ビリーの「新機軸」は「机上の空論」とバカにされ、現場の指揮も低迷する一方だった。娘のケイシーにすら心配されるアリサマに、あくまで強気を貫くビリー。しかし一人になった時には、さすがのビリーも弱音を吐かずにはいられなかった。「一体オレは何をやっているのだろう?」…。
みたあと
既存の発想から脱したチームづくりを行い、「結果」を出した男の物語…まぁ、この映画のストーリーを簡単に言うとそういうことになるだろう。一般的に「常識」と思われているモノが決してそうではない…というようなことは、どこの世界でもよくある。僕自身、現在は本の編集者をやっているが、出版社に本の企画を提案しに行っても、大体どこでも相手にされず突っ返されるのがオチ。それらがちゃんと裏付けのある話なら納得もできるが、大体がつまんない既成概念でしかないことが多いのだ。実際のところ、平気で「テレビで取り上げているようなモノでなきゃダメ」とか言っちゃう「プロ」がいるんだから、出版の世界の人々もプライドをなくしたものだ。本当にイヤになるんだよねぇ。だからこの映画の中盤あたり、何とか猛反対を乗り越えて「マネーボール理論」を導入したチームづくりを始めたのに、やることなすことことごとく失敗…というあたりが、とてもじゃないが笑って見ていられない。引き合いに出すのもおこがましいというか恥ずかしいのだが、それでも一応はこの僕も仕事をしていく中で「どこか今までとは違うモノ」「違うこと」をしようと考えているわけだ。しかし、僕が試みる程度の大したことのない「既成概念破り」ですら、やろうとすればモノスゴイ抵抗にあったりする。だからブラッド・ピットの演じる主人公の四面楚歌な状況が理解できるし、それを何とか打ち破ろうという意欲や志、さらに抵抗に負けまいとする根性も理解できる。そしてなかなか実を結ばないことも理解できる。実際そういう試みは、実を結ばないケースの方が圧倒的に多いはずだ。それもたぶん、ちょっとした「運」によるものなのだろうが…。
みどころ
だから途中から主人公の試みがうまくいき始めて来ると、見ているこっちも痛快になってくる。劇中で特に印象深いのは、主人公があちこちに連絡しまくって次々に複数のトレードを実現させていくくだり。あの「してやったり」の感じが何とも楽しげだ。ところがこれでイケイケの快進撃で最後まで突っ走るかと思いきや、ペナントレースは制することが出来たものの、その後が続かなかったことが描かれる。このあたりが凡百のハリウッド「野球映画」「スポーツ映画」の定石とは違うところ。現実のアスレチックスがそうだったからそのまま描いたと言えばそれまでだが、結局ここで挫折してしまうところが他のこの手の映画とひと味違うのだ。実際のところ、確かに現実はそうは甘くはない。僕らの人生でも、正しい方法をとったとしても成功するかしないかは運次第だ。だから、この映画の後半は苦いけれどリアルに感じられる。そして試合やペナントレースよりも、「その後」に焦点を合わせているところがこの映画の新しさだ。主人公は名門チームからカネを積まれて移籍を求められるが、この千載一遇のチャンスを蹴ってしまう。「もう二度とカネで人生を決めたくない」という理由から…。これによってこの映画は、既成概念に挑戦して新たな野球理論を実践したサクセス・ストーリーではなく、ある男のささやかな心の中の「勝利」の物語になっているのだ。僕も個人的には世俗的な成功ではなく、人生を懸けて追いかけている「ささやかな勝利」を得たいと思って頑張っている。それが生きているうちに実現するかどうかも怪しいが、子供の頃から何とかそれを手に入れたいと思っているのだ。だから僕には主人公に共感したし、「かくありたい」と思った。閑話休題、つまりこの映画は「既成概念」に挑戦する話ではある一方、映画の構成自体もカタルシスを追い求めがちな映画の「既成概念」に挑戦するスタイルをとっている。さらに劇中で「成功」や「勝利」の意味について再定義を行っているという意味で、結論においても「既成概念」に対して異議申し立てを行っている作品なのである。
こうすれば
というわけで大いに共感したこの作品だが、それでは問題がないかと言えば…実は少々問題がないわけではない。この作品の監督であるベネット・ミラーは、前作「カポーティ」(2005)でもそうだったのだが、自分が思っていることが映画の観客にも当然のごとく伝わっていると過信し過ぎているようだ。この映画でも、新たな試みが惨めな失敗の繰り返しになっていたのに、ある一線を越えたところで成功に転じていく…というキッカケめいたモノを描いているようなのだが、それが観客には伝わって来ない。だからアスレチックスが最初は新機軸にも関わらずボロ負けしていて、途中から何だか分からないが勝ち始める…というダラダラとした構成になっているように見えてしまうのだ。「それ」らしきモノは描かれているのだが、観客に「それ」とは気づかれにくい。そのせいで…すでにありがちなカタルシスを拒絶している時点で大衆的な分かりやすい共感というものは得ようとしていないだろうが…この作品が今ひとつ広い層に共感を得られにくい作品になってしまっているきらいがあるように思う。世間的な「常識」の壁に妨げられて悔しい思いをしている多くの人にとって、それなりに「応援歌」となりそうな作品なのに残念だ。さらに、フィリップ・シーモア・ホフマンというボリューム感溢れる名優を手に入れているにも関わらず、ほとんど活かすことができなかったことも残念な点だろう。これがこの作品最大の誤算かも。
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