新作映画1000本ノック 2011年10月

Knocking on Movie Heven's Door


このページの作品

「サンクタム」 「ミケランジェロの暗号」 「4デイズ」 「世界侵略:ロサンゼルス決戦」 「グリーン・ランタン」

 

「サンクタム」

 Sanctum

Date:2011 / 10 / 31

みるまえ

 僕がよくオールナイトを見に行く新宿のシネコンで、この映画のことは知った。チラシが置いてあって、どうやら洞窟探検モノらしい。あるいはダイビングか? 地底湖を潜る話なのか? 地底、洞窟…と来ると食指がピクピク動いてしまう僕は、もちろん「ディセント」(2005)、「地獄の変異」(2005)の「洞窟二大作」を見逃したりはしない。どちらも堪能した。ところがこのチラシには、スタッフ・キャストの名前よりも一際デカく、ビッグな名前が刷られているではないか。ジェームズ・キャメロン! そしてキャメロンと来れば「3D」。何とこの「サンクタム」なる洞窟映画は、全編「3D」で製作されているらしいのだ。それでなくても大好きな洞窟が、3Dでスクリーンに映し出されるなんて、僕にとっては超強力なコカインかヘロインでも摂取するようなモノじゃないか(笑)。キャメロンはどうやらプロデュースで監督は別にいるらしいが、チラシは明らかにこの映画のキャメロンの作品として大宣伝。肝心の監督もキャストも知らない名前だが、洞窟で3Dならそんなことはどうでもいい。とにかく見なければ…と劇場に飛び込んだ。この映画もずっと前に見ていながら、感想を書けずにいたのをお許しいただきたい。

ないよう

 パプア・ニューギニアの港に、一組の男女がやって来た。それを出迎える一人の青年。男女は若手のやり手実業家カール(ヨアン・グリフィズ)とその恋人で登山が好きというヴィクトリア(アリス・パーキンソン)、青年はジョシュ(リース・ウェイクフィールド)。現在、ここパプアニューギニアの奥地の熱帯雨林にある世界最大の洞窟「エスペリト・エサーラ」に、伝説的な探検家フランク(リチャード・ロクスバーグ)のチームが挑んでいる。その莫大な探検費用は、自らも「冒険野郎」を自任するカールの潤沢な資金によってまかなわれていた。ジョシュはそんなフランクの息子で、生まれた時から「伝説」の父親がいいかげん重荷だった。それだけでなく、いつも彼の気持ちなどお構いなしで高圧的かつ独善的な父親の態度に辟易…というのが正直なところ。そんなわけで「パトロン」としてその現場を見るために乗り込んで来たカールは、彼女の前で「いいとこ見せたい気」十分。本来だったら父親たちの手伝いをさせられるハメになっていたジョシュは、「話の分かる兄貴」風のカールを出迎えるためにコッソリ現場を抜けだし、彼なりに気張らしをしていたのだった。一方、洞窟内の前線基地では、そのフランクが息子の「離脱」に苦虫。もっと苦々しいのは、探検の結果がなかなか出ないことだった。この「エスペリト・エサーラ」は、かなりの部分が水に満たされた巨大な洞窟地帯。探検の目的は洞窟が海に通じていることを立証することだったが、迷路のような洞窟には未踏査の部分があまりにも多く、しかも水没した部分が多くてなかなか先へと進めない。そんな中、彼のクルーの一人であるジュード(アリソン・クラッチリー)は疲労を訴えていたものの、フランクが声をかければ喜んで調査に同行。まさかこれが、これから襲いかかる悲劇の序曲となろうとは…。水の中を潜って狭苦しい通路を通り抜けた二人は、そこに巨大な未知の地底湖があることを発見。ところがジュードが狭いトンネルを通り抜ける時にボンベを傷つけたらしく、激しく酸素が漏れてるではないか。フランクは慌てず騒がず彼女と酸素を分け合って状況を切り抜けようとしたが、さすがにこのままではどうすることもできない。結局、ジュードはそのトンネル内の水中で、痛ましい水死を遂げてしまう。そんなこととはツユ知らず、ちょっとした「冒険気分」でノコノコと洞窟の前線基地にやって来たジョシュ、カール、ヴィクトリアの面々。彼らを待っていたのは、何とも幸先の悪いジュードの訃報だ。ジョシュはちょうどジュードが亡くなる時をとらえたモニター映像を見て、フランクのせいで彼女が死んだと一方的に責める。しかしジュードがこんな初歩的な失敗をしでかしたのは、そもそも疲労していたから。そしてジュードが疲労したのはジョシュが戦列離脱していたからだとフランクに指摘されれば、ジョシュも黙らずにはいられない。しかし彼らは、そうはグズグズしていられなかった。この地に巨大サイクロンが近づいており、もしサイクロンに襲われたら豪雨によって洞窟はどんどん水没してしまうからだ。しかし立ち去ろうにも、早速カールが洞窟に潜ってしまう単独行動に出てしまう。仕方なくフランクはジョシュたちを先に地上へと行かせることにした。しかし、すでに洞窟の入口付近は増水が始まって危険な状態。脱出できたジョシュも中に父親を置いては行けず、また中に舞い戻ることにする。ところがグズグズやっているうちに、入口からは洪水のように水が流れ込んできた…。

みたあと

 …というところまでが、この映画の導入部分。実はこの後からが物語の本題で、洞窟内に取り残された主人公たちが抜け穴を求めて、未知の洞窟内を彷徨い歩くというお話になるわけだ。実はお話は「それだけ」。一人またひとりとメンバーは脱落し、お互いの感情も緊張感に富んだものになっていくが、ともかく真っ暗で水に満たされた洞窟の中をひたすら進んでいく「だけ」という映画だ。実はそこには怪物も爆発も、そんな余計なモノは一切入ってこない。実は洞窟映画ってこれまでもいくつかあったと思うが、本当に「洞窟だけ」ってモノはそんな多くなかったんじゃないだろうか。例えばジュール・ヴェルヌの「地底探検」やそれの亜流みたいな、地底に行くと原始時代の地球みたいな世界がある…なんてお話でなくても、ホントに「洞窟だけ」ってお話はマレだと思う。日本に「洞窟映画」がなぜか2本一挙にやって来た2006年の「ディセント」と「地獄の変異」にしても、それぞれ作品のテイストは違っても「それ」だけでドラマは構成できなかった。ところが今回の「サンクタム」は、100パーセント天然果汁のジュースみたいに「洞窟」だけで勝負している。これは特筆に値するのではないか。実際には何か普通でない特別なモノを出さなくても、十分本来の「洞窟」だけでスリリングだし怖い。製作総指揮のジェームズ・キャメロンやオーストラリア出身の新鋭アリスター・グリアソン監督、そして脚本のジョン・ガーヴィン、アンドリュー・ワイトにしても、それを証明したかったんじゃないだろうか。元々が洞窟ファンであるこの僕も、実はそんな映画が見たいなと思っていたのだ。このコンセプトには大賛成である。

みどころ

 本来は「特別な何か」を出さなくても十分スリリングな洞窟。しかし、娯楽映画はそれだけではなかなか機能しないのかもしれない。そこでジェームズ・キャメロンが引っ張り出してきたのが、「3D」である。なるほど、鍾乳洞を3Dで描くというのは確かに素晴らしい発想だ! それならプラス・アルファのエンターテインメント性が生まれる。しかも、3Dのおかげでリアルさが出る。迫力もおっかなさも2倍3倍だ。「アバター」(2009)一作で3Dをハリウッド大作の「主流派」に仕立て上げたキャメロンだから、さすがにこの作品の「立体感」はハンパじゃない。「アバター」後にさまざまな「3D映画」が登場したが、見る価値のある3D映画はおそらく「トランスフォーマー/ダークサイド・ムーン」(2011)ぐらいじゃなかっただろうか。それ以外はといえば、「ハリポタ」にしろ「パイレーツ」にしろ、とりあえず3Dにしてみました的なモノでしかなかった気がする。ところがこの作品は、本当に久々に3Dならではの素晴らしい立体感が味わえる。というか、洞窟ってのは3Dに打ってつけの舞台なのかもしれない。そのくらい、この映画の3D効果は素晴らしいのである。実のところ…僕は熱狂的な洞窟好きだから、先に書いたように「余計な要素が入らない洞窟だけで勝負する映画が見たい」などと思っていたが、普通の映画観客のみなさんにとっては他の「オモシロ要素」が何も出てこないので、この作品はいささか単調な印象を与えてしまうかもしれない。しかし、とにかく3D効果に関しては尋常でなく素晴らしいから、それだけで映画がもってしまう。これは一見の価値があると断言させていただく。これはハッキリ言って見なきゃ損だ(…と言いながら、映画の公開が終わってから感想文をアップしている僕もどうかとは思うが…)。もうひとつこの映画の美点を挙げるなら、セットのリアルさだろうか。さすがに現実の洞窟内に3Dカメラや撮影機材を持ち込むのはあまりに無謀だと判断したのか、劇中の洞窟場面はほとんどセットに作られたモノだという。しかし、そのリアルさがこれまた大変なシロモノ。これがダメだと「余計な要素は入れずに洞窟だけで勝負する」という本作の狙いは果たせなくなってしまう。おまけに3Dカメラの凝視にも耐えられるモノでなければならない。こうしたえらい高いハードルを楽々越えているセットは、まさに驚嘆ものだ。映画全体でいうと、脚本などにまったくキズがないとは思えない。例えば「伝説の探検家」がいくら厳しく妥協を知らない奴だとはいえ、命が懸かっている状況下でわざわざ人心を乱すようなことを言うだろうか…と思ってしまう瞬間も多い。これじゃ口のきき方を知らない世間知らずのアホ…と思えてしまう言動を、チームを束ねてきたリーダー格の人間が口にするとは思えないのだ。そういう脚本上のアラは散見されるものの、見終わってみれば映画全編を「洞窟」そのものの迫力で押し切って圧巻。ラストには脱力してしまうくらい力が入った。ホントに窒息して息が詰まりそうな感じだったからね。他の人はともかく、僕としては大満足と言い切ってしまおう。

さいごのひとこと

 見たら本当の洞窟には行きたくなくなるかも。

 

「ミケランジェロの暗号」

 Mein bester Feind (My Best Enemy)

Date:2011 /10 / 31

みるまえ

 この映画のことをどうやって知ったのか…は、実はあまりハッキリ覚えていない。たぶんチラシを見たんだろうが、その時にはどんな映画かハッキリ分からなかったし、関心もあまりなかったと思う。ナチスが席巻していた頃の時代を背景にした、ヨーロッパ製のサスペンス劇。ナチがユダヤ人に偽札刷らせてたとか、ヒトラーのスピーチをユダヤ人が指導していたとか…そんな映画はいくつもあった。たぶんその手の話なんだろうと漠然と考えていたわけだ。ところが新聞の映画評によれば、これがかなり楽しめるエンターテインメント映画だと言うではないか。同じ頃、目利きの知人からも同じような報告が飛び込んだ。こりゃあ見ないわけにはいくまい。とは言っても、実際に劇場に足を運べたのは、それからしばらく経ってのことだったのだが…。

ないよう

 1943年、1機のドイツ軍輸送機がポーランド上空を飛んでいた。乗っていたのは何人かのナチ親衛隊メンバーとユダヤ人のヴィクトル(モーリッツ・ブライプトロイ)。この奇妙な集団を乗せた輸送機は、しかし地上からパルチザンの攻撃を受けて墜落。幸いヴィクトルは軽傷で何とか飛行機の残骸から這い出したが、親衛隊メンバーは深手を負ったか死んでしまったらしく、まったく意識を取り戻さない。もとよりヴィクトルのほうも彼らを助ける気もない。ところがサッサと逃げだそうと思っていたところ、たった一人だけ無事らしい親衛隊の男がいるのに気づく。それを見たヴィクトルは、く天に向かって大いにボヤかずにはいられない。「やれやれ、何でよりによってあの男を助けなきゃならないんだ」…こうつぶやきながらヴィクトルは、燃える機体から男を何とか引きずり出したのだった…。はてさて、この成り行きの発端は…と言えば、1938年のウィーンに遡る。当時のヴィクトルは街でも有数の画廊の一人息子。彼は久々に街に戻ってきた幼なじみルディ(ゲオルク・フリードリヒ)を大歓迎。ところが旧交を温めているそばから、親ナチのガキどもが画廊の窓ガラスにイタズラ書きを始めたのを見て、ヴィクトルは外に飛び出して大立ち回り。そこにルディも加勢して揉めていたが、結局彼らは警察に捕まり留置場に入れられるハメになる。それでも二人は留置場で意気揚々。やがてヴィクトルの父ヤーコプ(ウド・ザメル)から署長への電話やアレコレがあって、無事に釈放となったわけだ。このように、ヴィクトルの家は裕福で街の名士だった。ルディはヴィクトルの家の使用人の息子で、ヤーコプと妻のハンナ(マルト・ケラー)からは家族同然に扱われていた。そんなわけでヴィクトルとルディも親友同士。やはり幼なじみの娘レナ(ウルズラ・シュトラウス)は現在ヴィクトルの恋人だが、今でも彼らの親交は続いているのだ。そんなある日、画廊で新進画家モーリッツの個展が開かれた際に、イタリアから来たヒス気味の女性記者が妙な話題に食い下がる。それは、かつてイタリアから盗まれたと言われるナゾのミケランジェロの絵を、ヤーコプが現在手元に持っているのではないか…という質問だった。ヤーコプはさりげなくそれを否定したが、女性記者は納得していない様子。その晩、ヴィクトルとルディが酒を飲んだ際にその話題になり、酔ったヴィクトルは親友に「真相」を打ち明ける気になった。彼は夜中に自宅の隠し部屋へルディを誘い、そこに問題のミケランジェロの絵が隠されているのを教える。そんなヴィクトルとルディの様子を、ヤーコプが黙って見ていた。そしてそんなルディの自宅には、ナチ親衛隊の制服があるではないか! やがてナチスドイツが攻めてきて風雲急を告げて来たある日、親衛隊がヴィクトルの家に乗り込んで来る。もちろんルディの差し金だ。しかし隠し部屋に案内させられたヴィクトルは、問題の絵がなくなっているのにビックリ。実はヤーコプが秘かに絵を持ち出し、新進画家モーリッツに模写を頼んでいたのだ。しかしヴィクトルはじめユダヤ人たちを取り巻く環境は、日に日に悪くなってくる。いまや堂々と親衛隊の制服に身を固めたルディは、ヴィクトルのもとを訪ねると「絵の在処を教えれば一家を逃がす」と確約。ルディの変節は不愉快ではあったが、ヴィクトルたちはこれを頼りにするほかはなかった。家や財産はレナにすべて譲り、やって来たルディと上官ヴィドリチェク大佐(ウーヴェ・ボーム)に問題の絵を差し出して、彼らの車で出国する手はずを整えた。しかしヴィドリチェク大佐はもらうものだけもらったら、サッサと態度を変えるではないか。かくして一家はそのまま収容所送り。これはルディさえ予想していなかった青天の霹靂だった…。こうして月日が流れた1943年、ドイツはイタリアとの同盟をさらに強固にするために、ムッソリーニがベルリンを訪れるイベントを画策していた。その際の目玉となるのが、例のミケランジェロの絵の「返還」。イタリアから先遣隊がやって来てナチの幹部とアレコレ調整を続けるが、いずれ劣らぬゴーマンなテメエ勝手揃いとあって、決まるモノまで決まらないアリサマ。おまけにその先遣隊の中にいた絵画の鑑定家が、このミケランジェロの絵にケチをつけたからたまらない。「これはよく出来た贋作ですな!」…これで元々まとまらなかった調整が一気に決裂へ。このままではムッソリーニの訪独そのものがチャラになってしまう。お手柄と悦に入っていたヴィドリチェク大佐は一気に窮地に追い込まれ、ヘマをやらかしたルディをどやしつけた。こうなると元々の持ち主に、絵がどこに行ったのかを聞かねばならない。しかしヴィクトルの一家は収容所にブチこまれ、ヤーコプは今ではこの世の人ではなくなっていた。そんなわけで、ルディは慌ててヴィクトルのいる収容所へと向かう。その頃ヴィクトルは、父ヤーコプの死を知る収容所の老人から彼のナゾのメッセージを受け取る。そんなヴィクトルのもとにやって来たのが、あのルディだった。今や親友同士から、支配者と支配される者との関係に変わった二人。だがもはや失うモノもないヴィクトルは、「知っていてもオマエに教えるものか」とうそぶく。実は教えないのではなく、知らないので教えられないのが本当のところだった。だがそのうち、この状況を最大限に活かそうと考え直したヴィクトルは、ルディに「母をスイスに移してくれれば絵の在処を教える」と提案。他に手だてのないルディは、とりあえずヴィクトルをベルリンに連れて行くことにした。こうしてヴィクトルとルディが輸送機に乗ったところで…冒頭のパルチザンによる撃墜が起こったのだ。ヴィクトルがボヤきながら引きずっていたのは、このルディだったのだ。ともかく近くの納屋へルディを引きずって、何とか落ち着いたヴィクトル。そのうちルディは目を覚ましたが、足を負傷して自由が利かない。そしていずれこの場所にパルチザンがやって来ると考えたヴィクトルは、自分の服をルディに分けてやり、ルディの親衛隊の制服をどこかに隠してやろうとする。ところが制服を持って外に出たヴィクトルの目に入ったのは、パルチザンよりも先にやって来たナチ親衛隊の姿。案の定、納屋に飛び込んだ親衛隊は囚人服のルディを見つけて「ユダヤ人のヴィクトル」だと思いこむ。ルディがいくら異議を唱えても、もう聞く耳など持たない。そして次の瞬間、彼らの前には「ルディの制服」を着たヴィクトルが得意げに現れるのだった。「待っていたよ諸君!」…。

みたあと

 こんなことを言ったらバチが当たりそうだが、戦中のユダヤ人迫害の話ってたいていの場合は見る前から想像がついてしまう。ひたすら善良で罪のないユダヤ人がヒドイ目に遭わされるという、「被害者的」な可哀相なお話。それはまったく間違いじゃないんだろうが、いいかげん毎度毎度そればかりだと見ていて面白いモノではない。不謹慎ではあるが、それは正直なところなのだ。確かにオチャラケて語れる話じゃないから、そうなるのも仕方ないのかもしれない。何しろ「ヒトラー/最期の12日間」(2004)でちょっとヒトラーに人間味を出しただけで過敏な反応が出てしまうくらいだから、あちらの人々にとってはデリケートな話なんだろう。そんなナチものを取り巻く環境だが、タランティーノのアッケラカンとしたナチもの「イングロリアス・バスターズ」(2009)が出た影響からか、昨今はいささか風向きが変わったのかもしれない。この映画は背景こそシリアスな「あの時代」の物語ながら、痛快な程アッケラカンとした雰囲気の作品になっているのである。そしてハリウッド映画のような楽しく面白い「娯楽風味」が効いている。まさしく堂々たるエンターテインメント大作なのだ。ナチ親衛隊とユダヤ人の身分が取り違えられてしまって起きるコミカルな展開もさることながら、それが「被害者」側ユダヤ人の苦し紛れのヤケクソ大勝負の末に展開していく痛快さ。結局どっちがエライなんてことは見た目のレッテル次第というコッケイ味と皮肉。これはなかなか憎い趣向だ。最初はタイトルから「ダヴィンチ・コード」みたいな話かと思っていたが、正直そういう部分の面白みはほとんどない。だが、ナチとユダヤ人攻守逆転のおかしさは、そんなモノよりもっとこの映画を特別なものにしている。脚本のポール・ヘンゲと監督のウォルフガング・ムルンベルガーは、なかなかユニークで大胆不敵なことをやってのけたと感心しながら見た。主役を演じるモーリッツ・ブライプトロイは「ラン・ローラ・ラン」(1998)あたりで頭角を現し、最近では「ミュンヘン」(2005)や「スピード・レーサー」(2008)などアメリカ映画にも登場する売れっ子ぶりだが、ここでは元々の「濃い」い顔を十二分に活かしてのふてぶてしさで好演している。なかなかのスターぶりだ。

みどころ

 だからこの映画は「ナチへの告発」だとか何とかじゃなくて、まずはよく出来たエンターテインメント映画として楽しむべきだ。しかもそれが最初の攻守逆転の一発アイディアだけでなく、一旦挫折したところで今度は本当に立場逆転というおかしさを経て、さらには連合軍による解放後に主人公があわや「ナチ」として断罪されかかるという皮肉も交えて、シッポまでアンコが詰まった鯛焼き状態で展開するあたりのサービス精神に脱帽させられてしまう。さらに、主人公が自らの機転でナチに扮したことが危うく「墓穴」になりかかる…というくだりは、例え理由はどうあれ、本当の花も実もある「力」ではなく見かけだけの空疎で忌まわしい「力」=「ナチの制服」によって多少なりとも恩恵を得た者は、大なり小なりその「力」の報いを受けなければならない…というちょっとした教訓をも想起させて、なかなか意味深いものがある。作者はドイツ人、ユダヤ人ということで擁護したり叩いたりするわけでなく、「偽りの歪んだ力を行使する者」こそを断罪していると宣言しているわけである。このバランス感覚はとても貴重だ。だから敵役であるはずのルディですら、情けない存在ではあっても決して憎むべき邪悪な存在や恥ずべき人物に描かれない。多少なりとも誰でも覚えがある、弱さを持った人間として描かれるのだ。それに対してユダヤ人である主人公が自らの「制服姿」に鏡で見惚れ、自分たちを裏切ったはずの旧友に思わず「オマエがこの制服を着たがった気持ちが何となく分かってきたよ」と口走るあたりは、なかなか含蓄がある。そんなディティールやシャレたエンディングも含めて、楽しめるオトナの映画になっているのが素晴らしいのだ。しかし先ほど「ユニークで大胆不敵」と書いたが、実はこの映画のコンセプトは今回初めて使われたわけではない。よくよく考えてみればこの発想は、チャップリンのあまりにも有名な傑作「独裁者」(1940)の「それ」ではなかったか。あるいはエルンスト・ルビッチの「生きるべきか死ぬべきか」(1942)…とそのリメイクである「メル・ブルックスの大脱走」(1983)…の変奏曲であるとも言える。そう考えてみるとこの映画は決して「奇策」でも「ユニーク」でも何でもなく、むしろ極めて「映画史」に忠実なオーソドックスな作品とすら言えるのだ。

さいごのひとこと

 暗号(コード)はダヴィンチよりミケランジェロの方が上か。

 

「4デイズ」

 Unthinkable

Date:2011 / 10 / 24

みるまえ

 この映画はチラシで存在を知って、見ようと思っていた。即ビデオ発売決定…な映画ばかり上映するので有名な映画館での公開。テロリストがアメリカの大都市に核爆弾を仕掛ける話で、それに関する攻防が描かれるらしい。いかにもB級感あふれるストーリーだが、主演が何でも出ちゃうサミュエル・L・ジャクソンと「マトリックス」(1999)でお馴染みキャリー=アン・モス。ま、もっともキャリー=アン・モスのほうは、「お馴染み」と言っても「マトリックス」三部作以来、すっかりご無沙汰。それでも、まだまだそれなりに華やかさはあるというものだ。ところがチラシを見た直後に例の大震災。そして大震災のせいか、この作品が公開延期となってしまうから驚いた。なぜ大震災で延期? ひょっとしてこの映画では、核爆弾が爆発してガレキの山でも画面に出てきてしまうので、大震災との連想で公開延期になったんじゃないか? そういやチラシにも、大爆発する大都会の絵が描いてある。そうなると俄然見たくなってくるから不思議なもの。9月の末に公開された時には、早速劇場にすっ飛んでいったわけ。それが10月末まで感想文アップがズレ込んでしまったのは、ひとえに僕の怠慢と忙しさゆえ。平にお許しいただきたい。

ないよう

 目を血走らせたヒゲづらの男が、ビデオカメラを凝視してアレコレしゃべっている。男はアメリカ人ながらイスラムの思想に身を投じたスティーブン・ヤンガーという男(マイケル・シーン)。どうやらこの男がしゃべっているのは、何かの犯行声明らしいのだが…。その頃、FBIのロサンゼルス支局で、テロ対策チームを率いているヘレン・ブロディ(キャリー=アン・モス)は、部下からの報告である不審人物に注目する。この得体の知れない黒人男性にピンと来たヘレンは、部下をこの男の家に送り出す。なかなか手強い相手で部下が何人もこの男に手玉にとられながらも、何とか逮捕することができた。ところが取調室に連れてきたこの男(サミュエル・L・ジャクソン)。なかなかしたたかで口を割らない。割らないどころか「話が違う!」と恫喝。オマエらじゃ話にならない…と言わんばかりの剣幕だ。そのうちに取調室にヘレンの上司サウンダース(マーティン・ドノヴァン)が現れ、アッという間に黒人男は釈放。この男は得意満面に出ていったが、ヘレンたちには何とも釈然としないモノが残った。どうやら政府の仕事と関わる「訳アリ」の男のようだったが…。それから間もなくのこと、突然、ヘレンたちテロ対策チームに呼び出しがかかる。廃校となった高校の校舎に出向いたヘレンたちは、そこが軍によって秘密基地のごとくモノモノしく管理されているのに驚く。そこでヘレンを待ちかまえていたのは、先日逮捕して釈放したばかりの例の黒人男性ではないか! 不敵な面構えでヘレンを迎えたこの男「H」は、実はCIAに雇われている秘密の「尋問のプロ」だという。そしてこの廃校舎を奇妙な秘密基地にした理由は、実はあるテロリストを尋問するためだというのだ。その男こそ、イスラム原理主義者となったアメリカ男性スティーブン・ヤンガー。この男は核爆弾を自ら製作し、アメリカの3都市に仕掛けたと脅迫ビデオを送りつけたという。爆弾が爆発するまで4日という期限付き。ヤンガーはこのビデオを送りつけた後、まるで「わざと」のように逮捕された。このヤンガーが実際に核爆弾を作ったことは、まず間違いない。そこで逮捕されたヤンガーを「H」とヘレンの手で尋問し、爆弾の在処を吐かせようというわけだ。そこに「H」が起用されたのは、事が事だけに手段を選ばず吐かせようというアメリカ政府の意向を表していた。早速、「H」の手元に運ばれて来たのは、まるで歯医者の道具のような「拷問ツール」。さすがにこれにはヘレンは大反対。「H」に拷問をやらせるのも、そこに自分が立ち会うのもゴメンだ。しかしこれも仕事。何とか踏みとどまってくれと上司サウンダースに頼まれれば、拒むわけにはいかないヘレンだった。こうしてヤンガーに対する尋問が始まる。何とか頑ななヤンガーの心を開こうとするヘレンに対し、最初からコワモテに迫る「H」。しかし「したたか」なヤンガーは口を割ろうとしない。そうなると「H」の態度もどんどんエスカレートせざるを得ない。尋問はまさに「拷問」の様相を呈してくる一方で、最初は激しく反対していたヘレンの心にも、徐々に動揺が広がっていく…。

みたあと

 正直に言って、この映画はあまり面白い作品ではない。…これで感想は終わっちゃうな(笑)。何となく分かってはいたのだが、大爆発する大都会…なんて、映画には一瞬たりとも出て来ない(涙)。ショッピングモールは爆発するが、とてもチラシに描いてあるようなシロモノじゃないのだ。ただし前述した通りキャスティングは豪華で、先ほど挙げたサミュエルとキャリー=アン・モスの他、問題のテロリスト役に「フロスト×ニクソン」(2008)などでいい味出してたイギリスのマイケル・シーンを起用。チラシを見ていた段階ではこれに気づいていなかったので、かなりトクした気分。この3人の顔合わせとなれば結構見応えがあるはず…と、見始めた時はドキドキした。確かに見ていて退屈はしないのだが、だからといって見ていて「面白い」というようにも思えない。アクションも何もなく、密室での陰々滅々な話が延々と続くのである。

こうすれば

 サミュエルはさすがの貫禄。彼が演じているからこそ、ムチャクチャな拷問をしている尋問のプロという設定にも関わらずサディスティックな狂人や残忍な悪党にはならず、人間味のある人物に見えている。しかし、それを見ていて面白いかというと、それはまた別の話だ。いかにサミュエルが頑張ろうと、映画そのものが悪い。そもそも脚本に無理があるのか演出がマズイのか、サミュエル扮するこの男が何を考えているのかが分からない。単なるサディストや事務的に仕事をこなす冷血漢ではない「何か」をサミュエルの演技は感じさせているのだが、その「何か」が一向に見えて来ない。おまけに終盤に至っては、サミュエルのエスカレートぶりが計算による狂言か、それともホントに激高しての狼藉かが分からない。それでもあんな計算外の事態が起こってしまったということは、逆上しちゃったということなんだろう。だとすると、この男は「プロ」としてどうなんだ…ということになってしまうのである。何ともツジツマが合わないのだ。そもそもこの映画、さも「アメリカの冷血さ」を告発するかのような手つきを見せてはいるが、例えばイラクあたりでアメリカが行っている野蛮な行為を象徴するように「拷問」を描きたかったのだとしたら、あくまでフィクションであるこの映画で言うべきではないだろう。いざとなると残虐さをエスカレートさせる人間の醜さ恐ろしさを描きたいにしても、登場人物たちの心情の動きが不自然で、これで「人間性」を語ろうとはチャンチャラおかしい。そんなこんなで作者の意図がまるで見えない。ラストのオチも「天罰テキメン」とでも言いたいのだろうか。監督は「戦争のはじめかた」(2001)を撮ったグレゴール・ジョーダン。そういや「戦争のはじめかた」も戦争ブラック・コメディだったはずなのに妙にシリアスになったりして、どっちつかずなハッキリしない作品だった。今回もそういう曖昧さ、的の絞り切れてなさ…は随所に見られる。何を描きたいのか、自分でも分かっていないのだろう。

みどころ

 そんなわけで豪華なキャスティングをムダに使ってしまった本作だが、個人的には脇にちょっと気になる役者が出ていたのでトクした気分。キャリー=アン・モスの部下の一人に「スーパーマン・リターンズ」(2006)のスーパーマン役であるブランドン・ラウス、上司には「トラスト・ミー」(1990)、「シンプルメン」(1992)、「愛・アマチュア」(1994)などハル・ハートリー作品常連だったマーティン・ドノヴァンが登場。特に後者は久々のお目見えだったので、僕としては嬉しかった。しかしながら、一躍スーパーマン役で売り出せるかと思ったら不発に終わったラウス、日本人女優と結婚してからパッとしなくなったハートリー監督とともに、近年まったく見かけなくなっていたドノヴァン…と、どちらもどこか残念な役者であるところがまた悲しい(涙)。

さいごのひとこと

 監督は何をやりたいのか素直に吐け!

 

「世界侵略:ロサンゼルス決戦」

 World Invasion : Battle Los Angeles

Date:2011 /10 / 03

みるまえ

 この映画のタイトルは、いきなりネットで知ったはずだ。それもアメリカ本国で大ヒットという類のやつ。何しろその名も「世界侵略:ロサンゼルス決戦」だ。題材から考えてかなりの大作らしいが、どうも監督は知られてない奴らしく、何でこんな大作に起用されたか分からない。それに、あまりメジャーな役者が出ているようでもない。いきなり知らない監督の大作が大ヒットという点からも題材からも、何となくローランド・エメリッヒの出世作「インデペンデンス・デイ」(1996)を連想してしまう。それはともかく、宇宙人の襲撃でロサンゼルスが壊滅…という内容なら、SF映画、特撮映画、ハリウッド大作…好きの僕が見ないわけにはいかないと思っていたが、残念なことに例の大震災で公開延期。あんなことがあった直後に、がれきの山が出てくる映画を公開するわけにもいかなかったんだろう。そんなこんなでようやく夏も終わった頃に公開。僕も忙しい中を、ようやくスクリーンに対峙することになったわけだ。

ないよう

 世界各地の沿岸の大都市が、未知の宇宙人たちの突然の攻撃を受けている…。衝撃的な内容の報道が、全世界を駆け巡った。ここロサンゼルスも例外ではない。そして世界各国の大都市は今まさに壊滅の危機に瀕し、次々と連絡を絶っている。だが「ロサンゼルスだけは、断じて明け渡すことはできない」。ヘリの乗り込んで前線に向かおうとしている海兵隊の面々も、さすがに沈痛な表情だった。わずか24時間前には、そんなことは誰も予想もしていなかったのに…。24時間前の2011年8月11日、サンタモニカの海兵隊基地で新兵たちの訓練を指導するベテラン兵ナンツ二等軍曹(アーロン・エッカート)は、そろそろ自分の肉体が寄る年波に勝てなくなってきていることを自覚していた。しかし、問題なのは肉体だけではなかった。彼は軍の管理職となっている級友に、辞表を提出していたのだった。実は彼はある作戦で部下を全滅させていて、それに自責の念を感じていたのだった。その他にもメガネのハリス伍長(Ne-Yo)は結婚式を間近に控えて浮き足だっていたし、士官学校出たてでいきなり小隊の指揮を任されたマルチネス少尉(ラモン・ロドリゲス)は、大きくなってきた妻のお腹を見ながら子供の誕生を楽しみにしていた。そんな平和な日々が、突如として奪われようとは…。翌12日もいつもと同じく新兵の訓練を指導していたナンツは、いきなり新兵ともども出動命令を出されて驚く。緊急事態が発生したのだ。昨日、地球に接近する流星群が発見されたのだが、それらがすべて世界中の大都市の沿岸に着水する軌道にあると言うのだ。しかもそれらは昨日発見される前は、姿カタチも見えなかった。しかも大気圏に突入するや、燃え尽きるはずなのに減速したというではないか。世界の報道では誰も明言していないが、兵士たちを招集した司令官はハッキリと言った。「これは流星雨ではない。明らかに何者かの侵略行動である!」…こうして退役間近の老兵も、訓練が終わらない新兵たちまでもが招集された。やがて基地内のテレビ画面が、ロサンゼルス沖に次々着水する「隕石」の様子をリアルタイムで映し出す。すると…波の向こう側から何者かが無数に現れて、いきなり熱線を発砲するではないか。いきなり撃たれた浜辺の野次馬たちは阿鼻叫喚で逃げ出すが、ウジャウジャとやって来る敵に為すすべもない。唖然呆然とした面もちで、海兵隊の面々も出動した。ナンツもマルチネス指揮下の第1小隊に配属。しかしこれを微妙な表情で見つめる男がいた。それはこの小隊の一員であるロケット(コリー・ハードリクト)。彼の兄はナンツの部下として戦死。そんなロケットのヒリつく視線を、ナンツとて気づかないわけはない。そんなナンツにロケットは、冷ややかな言葉を投げかけるのだった。「あなたは勲章、兄は棺。そういうことです」…そんな各人の思惑を乗せて、ヘリはロサンゼルス上空へ。上空からでも街の騒然とした雰囲気は伝わって来る。基地に降り立ったナンツやマルチネスたちは、現場の司令官より命令を下される。それは街中に取り残された警察署へ行き、そこに閉じこめられた民間人を救出すること。その場所は今や防衛ラインの外となっており、何時間か後には空爆が行われることになっていた。それまでに救出しなくてはならない。かくして誰もいなくなった街中を、用心しながら進んでいくナンツ、ロドリゲスらの小隊。ところがいきなり熱線が雨あられと降ってくる。連中は家や建物の屋根から撃って来ているのだ。しかもこちらの撃った銃弾は、なぜかあまり効かない。こうして押しまくられた小隊は、近くの建物に逃れて体勢を立て直すことになる。こうなると「上官」とはいえ実戦経験皆無のロドリゲスの頭の中は真っ白。そんなこんなでてんやわんやしている最中に、空軍のエレナ・サントス二等曹長(ミシェル・ロドリゲス)らが合流。一行は圧倒的な軍勢が制圧するロサンゼルスを、何とか問題の警察署までたどり着くのだが…。

みたあと

 実はこの映画を先に見ていた人たちからも伝え聞いていたのだが、この映画っていわゆる「SF映画」ではない。確かに宇宙船が出てきて宇宙人が出てきて、SF的状況が生まれてはいる。しかし映画のお話として描かれるのは、いわゆる「戦争映画」としての物語だ。実は相手は宇宙人でなくても…ロボット軍団でも鬼でも半漁人でも、はたまたアラブ人でも何でもいい。むしろこういう映画が出てきた背景としては、例の「9・11」以降、アメリカ人が自国が戦場になる場面をリアルに感じてきたことがあるのだろう。だからといって、宇宙人がアラブ人のメタファーかどうかは分からないが、彼らは「自分たちがやられるかも」と歴史上初めて思い始めているのだ。僕らはすでに「2012」(2009)でロサンゼルス壊滅を見たし、韓国資本のなんちゃってアメリカ映画「D-WARS/ディー・ウォーズ」(2007)でロサンゼルスの目抜き通りでの戦闘場面をも目撃しているが、これほどリアルで派手なロスでの戦闘場面は初めてだろう。そういう意味では、これはロスという街を知っている人にとっては衝撃的な映画になるのかもしれない。そして今日び特定の国や民族をターゲットにして、戦争映画をつくりにくいという背景もある。昔ほどナチをボコボコに叩けなくなったし、日本もハリウッド映画のお得意様となってしまうと叩きたくない。何より第二次大戦はもう古い。アラブ諸国だって下手に刺激したくない…となると、スカッと米軍大勝利な映画はそうそう作れない。厭戦気分いっぱいな映画なら作れるかもしれないが、「アメリカが勝利する」「戦いの大義名分が立つ」戦争映画を作るのは並大抵のことでは実現できないのだ。そこでいくらでもブッ叩いていい宇宙人という選択肢が出てきたのは、ある意味で当たり前だともいえる。「好戦的」な映画はいかがなものか…などと一部の教育団体みたいな連中はアレコレ言うかもしれないが、普通の奴なら理屈抜きでスカッと面白い娯楽戦争映画をたまには見たいはず。派手に破壊し敵をやっつけて溜飲を下げる映画が見たい…それは人間の欲求として仕方ないものなのだ(笑)。

みどころ

 実際の話、地球のどこかの大都市が宇宙人の襲撃を受けるって物語には、さしたる新味があるわけではない。「インデペンデンス・デイ」とか「宇宙戦争」(2005)とか「スーパーエイト」(2011)などなど、その手の映画は枚挙にいとまがない。では、この作品のどこがミソなのかと言えば、おそらくは作品としては破綻しているのだが戦争映画というものの概念を変えてしまった「プライベート・ライアン」(1998)やら、それを継承してリアル感をさらに増した「ブラックホーク・ダウン」(2001)をSF的状況でやってみたら…というところがミソなんだろう。全編手持ちのブレブレなカメラで撮影しているのも、ビリングのトップがアーロン・エッカートという地味そのもののキャスティングも、リアルさを追求したがゆえのものだろう。それはある意味で成功している。特に小隊が民間人救出のために意気揚々と出かけて行ったら想定外に激しい攻撃に合い、真っ青になってしまうくだりがそうだ。びゅんびゅん弾だか何だかが飛んできてやられそうな感じ。しかも出てきてるのがほとんど無名役者ばっかり。知られてるアーロン・エッカートですら、いつやられてもおかしくない。なかなか効果が出てるのだ。そして笑っちゃうのがミシェル・ロドリゲス。この人って「エイリアン2」(1986)からずっと、同じキャラしかやってないんじゃないの(笑)? 「アバター」(2009)の役とどこが違うんだい。こういう役者もスゴイよね。

こうすれば

 ただ、これって近年は日陰のモノにならざるを得なかった戦争映画を大っぴらに「勝ち戦」にして作りたい…という企画だから、少々勢い余ってアメリカ軍のプロパガンダになっちゃってるところがあって、そういうのがダメな人はダメかも。「軍は君を見捨てないよ」なんてセリフも、シラケる人はシラケるだろう。だが、僕はそういうのにいちいち目くじら立ててたらアメリカ映画なんて楽しめないって人間だし、実際に東北で米軍に助けられた人なんかはこれが実感かもしれないしねぇ。不思議なのは「インデペンデンス・デイ」がドイツのローランド・エメリッヒ、この作品が南アフリカのジョナサン・リーベスマン…と、宇宙人侵略モノのカタチを借りて米軍万歳映画を撮るのが、揃いも揃ってアメリカ人ではなく外国人であること。やっぱり自分で「ビバ!アメリカ」と言っちゃうのは、いかに脳天気なアメリカ人でも抵抗があるのか。それともドイツ、南アフリカいずれも自国では「戦い」を肯定するにはいささか後ろめたい過去がある国の人だからこそ、無条件で勝利を肯定できるお国柄に惹かれるのか。これはちょっと興味深い問題かもしれない。そしてついでに言うなら、アーロン・エッカートという人の地味な個性が、「ビバ!アメリカ」の押しつけがましさをいくらか減退させているのかもしれない。実は僕はそんな軍のプロパガンダなんて事よりも、もっと問題なことがあると思っているのだ。それは、宇宙人があまり強くないこと(笑)。実は先に、「小隊が民間人救出のために意気揚々と出かけて行ったら想定外に激しい攻撃に合い」…などと書いたが、実は宇宙人がコワイのはこのあたりまで。確かにいくら撃っても死なないくだりはイヤ〜な感じにさせるが、その理由さえ分かれば大して怖くない。敵の母船などもアッサリやられちゃって、「???」な感じなのだ。普通の銃でやられちゃうような宇宙人じゃあ、ちっとも怖くないのである。

さいごのひとこと

 宇宙人に地球征服への本気が見られない。

 

「グリーン・ランタン」

 Green Lantern

Date:2011 / 10 / 03

みるまえ

 予告でこの映画の存在を知った時、正直「またかよ」と思った。アメコミの映画化にはいいかげん食傷気味。ハリウッド大作の題材はこんなのしかないのか…とウンザリしていた。おまけに「スパイダーマン」とか「バットマン」とかいう有名どころならまだしも、「グリーン・ランタン」…。何だ、その中華料理屋みたいなタイトルは? だからまったく期待などしていなかったし、予告編を見ても知った顔があまり出ていないので、ますます見たくなくなった。普通に考えればパスしたいところだ。ところが最近、自分の時間もほとんどないほどに忙しくなってみると、こういう時に見たい映画は決して難しい映画じゃない。できれば単純娯楽映画、それも3D映画なんてご機嫌ではないか。となれば、ここで「グリーン・ランタン」が一気に存在感が増してくる。大したことなさそうだが…いや、大したことなさそうだからこそ、今の僕が見る映画としては理想的。そんなこんなで劇場に駆けつけた次第だ。

ないよう

 太古より、宇宙の知性のある生命体は連帯し、「グリーン・ランタン」という宇宙連合軍を作っていた。しかし、宇宙の平和を守る彼らにとっての最大の敵は、彼ら自身の中から現れた。それが、強大なパワーを持つパララックス(クランシー・ブラウン)だ。「グリーン・ランタン」を率いる戦士のひとり、アビン・サー(テムエラ・モリソン)はこのパララックスに単身立ち向かい、何とか不毛の惑星に閉じこめておくことに成功した。ところがそれから遙かな時が流れて、たまたまある宇宙船がこの惑星に不時着。乗員が惑星の地下に落ちてしまうというアクシデントが起きた。そこにいたのが、肥大した頭脳を持った例のパララックス。この「怪物」は迷い込んできた犠牲者の精神のパワーを吸い取って、一気に息を吹き返す。こうして囚われていた惑星から脱出。宇宙を航行する船を襲っては乗員のパワーを奪い、さらに強大な存在へと生まれ変わっていた。そんなパララックス復活の知らせを宇宙船で聞いたアビン・サーは、慌てて暴れ狂う敵のもとへ。しかしパララックスは昔よりも、さらに強力な存在になっていた。襲われたアビン・サーは傷つきながらも、何とか脱出ポッドに乗り込んでその場を切り抜けた。アビン・サーを乗せた脱出ポッドは、手近な惑星…地球へ。地球のある海辺にポッドが着陸すると、傷ついたアビン・サーは自分のはめていたパワーリングをはずし、地球で「適任者」を選ぶように指示。パワーリングは光を放ちながら飛び去った…。さてその頃、航空機産業大手のフェリス社が、軍のお偉いさんを連れて新型戦闘機のプレゼン中。同社の二人のテストパイロットが、この戦闘機の性能を試すデモ飛行に参加した。一人は美しい女性パイロットのキャロル(ブレイク・ライブリー)。もう一人は、大切なテスト飛行の日に遅刻してきたハル・ジョーダン(ライアン・レイノルズ)だ。この男、やたら調子こいた男で、新型機を売るためのプレゼンなのにいいとこ見せようと猛ハッスル。新型機の弱点は垂直上昇にあり…と踏んだ彼は、自分の乗った飛行機をどこまでも垂直に上昇させた。案の定、新型機は推力を失って墜落。しかし同時に、ハルの乗った機も推力を失っていたことは言うまでもない。どんどん落ちていくハルの飛行機。ところがそれまで大胆にも華麗なテクニックを駆使していたハルは、いよいよの危機に際して我を失ってしまった。その瞬間、彼の脳裏には少年時代の思い出が蘇る。それは、やはりテストパイロットだった父親の最後の姿だ。彼の父親は、彼の目の前で事故に遭ってこの世を去った。その無惨な事故の記憶が、今もハルの脳裏から離れない。そのトラウマが彼を苦しめてもいたし、こうして彼を危機に陥らせてもいたのだ。そこを何とか意識を取り戻して、すんでのところを脱出したハル。しかし彼のやったことは、向こう見ずにもいいトコ見せたために会社の大事な商談をパーにしたばかりでなく、テスト用の飛行機1機をオシャカにしたという不名誉なことばかり。しかもいざという時に逃げもせず、周囲をやきもきさせた。これにはキャロルも怒りを隠さない。彼女はテスト・パイロットの同僚というばかりではない。実はこのフェリス社の社長令嬢であり、次期経営者就任が予定される人物。そして、実はハルとはかつて恋人同士でもあった人物だ。複雑な事情にならざるを得ない。夜、酒場に飲みに行った時、偶然キャロルと再会。何とかいいムードになったものの、最後にはブチ壊し。結局オレはダメな男…ところがそんなハルを、パワーリングの緑の光がいきなり捕らえ、巨大な緑の光球の中に閉じこめて空高く運んで行くではないか。ビックリこいたハルが連れてこられた先は、アビン・サーのポッドが不時着した海辺。そこで瀕死の傷を負ったアビン・サーを見つけたハルは、彼を助け出す。しかし死期が間近いことを悟ったアビン・サーはハルに緑のエネルギーの源である「グリーン・ランタン」を託し、自らの「後継者」となることを頼んで息を引き取った。興奮さめやらぬハルは友人のトム(タイカ・ワイチチ)に事の次第をしゃべるが、それにしたって「後継者」ってどうやったらなれるのか分からない。一方、アビン・サーの遺体はその後、政府の秘密機関に回収されて解剖されることになるが、そこに呼ばれたのはパッとしない生物学者のヘクター(ピーター・サースガード)。実は彼の父は上院議員のハモンド(ティム・ロビンス)で、そのコネのおかげでこの特別なミッションに呼ばれたのだった。そうとは知らぬヘクターは張り切って遺体を解剖するが、誤ってアビン・サーの体内に残されたパララックスの毒素に触れてしまう。その一方、「グリーン・ランタン」を前にして「後継者」になるためにはどうしたらいいのか試行錯誤していたハルは、突然またしても緑の光に囚われて宇宙へ飛ばされる。すさまじいスピードで宇宙空間を移動させられたハルがやって来たのは、「グリーン・ランタン」の本部がある惑星オアだった…。

みたあと

 正直言って誰が撮っていて誰が出ているのか分からなかったこの作品だが、何と監督がマーティン・キャンベルだと知ってビックリ。007シリーズでもピアース・ブロスナンが初登場した「ゴールデンアイ」(1995)、ダニエル・クレイグが初登場した「カジノ・ロワイヤル」(2006)という「節目」の2本を手がけた人で、特に後者では007に新しい魅力を付け加えた。なかなか侮れない男なのだ。よくよく見ると地味めのキャストも地味に豪華(笑)で、主役のライアン・レイノルズやブレイク・ライブリーには僕は馴染みがないものの、ピーター・サースガードやらティム・ロビンス、「ティナ」(1993)でティナ・ターナー役を演じたアンジェラ・バセットなども顔を出しているではないか。脇に「ワンス・ウォリアーズ」(1994)に出ていたテムエラ・モリソンやタイカ・ワイチチといったニュージーランド出身俳優が配置されたのは、やはりニュージーランド出身のキャンベル監督ならではのキャスティングなんだろうか。そんなキャンベル監督作品だから…ということもないのだが、とにかく飽きさせない映画にはできている。

みどころ

 この「グリーン・ランタン」隊員たちの武器となるものがイマジネーションである…という点は、映画としては面白い。主人公はとっさに機関銃やらロケットやらを「実体化」して、それを武器にして戦うのだが、これは確かにCG時代が到来しなければ映画化は不可能だったろう。そしてイマジネーションの産物が実体化する様子を3Dで画面に出すというのも、これはなかなか楽しい趣向だ。他のヒーローものと比べてもユニークな気がする。

こうすれば

 ただし、この映画が他のアメコミ映画と比べて抜群の面白さかと言えば、残念ながらやっぱりちょっと地味〜な感じはぬぐい去れないのが正直なところ。退屈はしないが、絶対見なければならない映画とは言い難い。そして主人公のハルを演じるライアン・レイノルズが、アップになると寄り目気味の男優であることもいささかツライ。ちょっとお馬鹿ちゃんに見えちゃうのが致命傷で、最初に「お調子者」然として登場するから、なおさらマズイのである。これは何とかならなかったのだろうか。

さいごのひとこと

 3D映画でも緑色ばかりなので目に優しい。

 

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