新作映画1000本ノック 2011年5月

Knocking on Movie Heven's Door


このページの作品

「わたしを離さないで」 「ザ・ファイター」 「ガリバー旅行記」 「トゥルー・グリット」 「エンジェル・ウォーズ」 「SOMEWHERE」

 

「わたしを離さないで」

 Never Let Me Go

Date:2011 / 05 / 30

みるまえ

 この映画についてはチラシで知ったのではないだろうか。特殊な「使命」のために純粋培養のように育てられた青少年たちが、全寮制の学校のようなところで育てられている。その「秘密」は、チラシの時点でほとんど僕には分かってしまったのだが…近未来SFみたいな物語も興味津々だったが、そこに主演するのがキャリー・マリガン、アンドリュー・ガーフィールド、キーラ・ナイトレイというからご注目。キャリー・マリガンといえば「ウォール・ストリート」(2010)でのフレッシュなスターぶり…というより、やはりオスカー候補となった「17歳の肖像」(2009)で一躍注目を浴びたイギリス若手有望株。アンドリュー・ガーフィールドも「ソーシャル・ネットワーク」(2010)でググッと目立ち始めた若手だし、キーラ・ナイトレイときたら「パイレーツ・オブ・カリビアン/呪われた海賊たち」(2003)あたりでほとんどハリウッド・スター化してる感じすらある。ある意味で豪華な配役ではないか。しかもしかも…実は原作はジェイムズ・アイボリーの「日の名残り」(1989)原作者でもある、イギリスの日本人作家カズオ・イシグロ…という異色さ。これは、どうやらSFらしい…ということも含めて、僕としては見ないわけにいかない映画だ。とはいえ、都内では単館で上映されていて、いつも混雑していて見れないほど。公開からかなり経ったある日、やっとこ見ることができた次第。

ないよう

 1978年、イギリスの田園地帯。寄宿学校ヘイルシャムは、人けのないその場所に建っていた。そこでは子供たちが完全な管理体制の下、厳格に育てられていた。建物からの出入りの際には手首のセンサーでチェック。見るからに厳しそうな校長先生エミリー(シャーロット・ランプリング)は、常に子供たちを折り目正しくしつけていた。特にトイレでタバコが見つかった時など、朝会の時に厳しくお説教。それも、単に教育的な意味で叱っているというよりは、何か別のニュアンスがあるように感じられた。新任教師のルーシー(サリー・ホーキンス)がやって来たが、彼女はこの学校に何か違和感を感じていたようだ。特に子供たちが校庭から一歩も外に出ないことに、深い衝撃を受けていた。子供たちは校庭から外の世界を、怖ろしい世界だと信じ込まされていたのだ。ある日、意を決したルーシーは、生徒たちにショッキングな真相を語る。彼らは「移植」のための臓器提供者として育てられていて、何度か臓器を提供すると「終了」する運命なのだ…と。しかしその直後に、ルーシーはいきなり学校から姿を消してしまった、そんな学校の生徒の中に、キャシー(イソベル・メイクル=スモール)、トミー(チャーリー・ロウ)、ルース(エラ・パーネル)の3人がいた。大人しい女の子のキャシーとちょっと派手目の女の子ルースは友だち同士。そんなキャシーは、ちょっと感情表現が不器用な男の子トミーに想いを寄せていた。そして、キャシーはトミーと親しくなっていく。ところがそれを知ったルースは、それまでバカにしていたトミーにいきなり近づき、大胆に自分の「カレシ」にしてしまう。それを目撃したキャシーは、深く傷付いてしまうのだった…。1985年、若者に育ったキャシー(キャリー・マリガン)、トミー(アンドリュー・ガーフィールド)、ルース(キーラ・ナイトレイ)の3人は、コテージという施設へと移される。ヘイルシャムの生徒はある程度の年令になると、この外界にある施設に移される決まりなのだ。ここで彼らは他の寄宿学校で育った連中と共同生活を営むのだが、他の学校から来た生徒たちは、キャシーたちよりもずっと外の世間のことを知っていた。そしてコテージでは寄宿学校とは違って、決められた時間に帰ってくるなら外界に出掛けることも許されていた。すっかり「恋人同士」になっていたルースとトミーは、キャシーの隣室で毎晩のようにセックスに励む。そんな二人に、キャシーは複雑な気持ちにならざるを得なかった。そんなある日、別の学校から来たロッド(ドムナル・グリーソン)とクリシー(アンドレア・ライズボロー)のカップルが、キャシーたち3人に奇妙な話を持ち込んだ。海辺の街で、ルースの「オリジナル」を見かけたというのだ。実は彼ら「寄宿学校」の生徒たちは、みんなクローンで生み出されたものだという。だからどこかに存在する自分の「オリジナル」を、一度自分の目で確かめたいと思っているのだ。こうしてロッドとクリシーのカップルが調達してきたクルマで、一同は海辺の街まで遠出することになる。その道すがら、ロッドとクリシーは3人にある質問を投げかけた。他の寄宿学校と違って、ヘイルシャム出身者には「特典」があるとウワサだ。ヘイルシャム出身者で本当に愛し合っているカップルは、ちゃんと申請して許可を得られれば、何年かの臓器提供の猶予をもらえる…というのだ。しかしキャシーもルースもトミーも、そんな話は聞いたことがなかった。そしてこの話を耳にしたことが原因なのか、ルースとトミーの間にちょっとした感情の行き違いが生まれてくる。苛立ったルースはキャシーを傷つけるような言葉を投げかけてきて、居たたまれなくなったキャシーは衝動的に「介護士」を志願。「介護士」とは臓器を提供する仲間をサポートする役割を持ち、そのぶん多少臓器提供の猶予を与えられるのだ。こうして「介護士」の研修のため、キャシーは一足先にコテージを去る。キャシーとルース、トミーはバラバラになり、二度と会えないものと思われたのだが…。

みたあと

 キャリー・マリガンは不思議な好感度を持った女優さんだが、今回もそんな彼女の個性が全開。トミーに想いを寄せていながら、親友に奪われてじっと見つめているだけ…という微妙な役どころを、繊細に演じて秀逸。感受性が強い男の子を演じたアンドリュー・ガーフィールドも、愚作に出演しても一人輝いていた「大いなる陰謀」(2007)、まったく好感が持てない主人公に対して圧倒的に観客の共感を呼んだ「ソーシャル・ネットワーク」に次いで、またまたイイ味を出していた。そしてさらに注目すべきは、ハリウッド・スター化していたにも関わらずこの地味な映画の脇に回る役…しかも決して観客の共感を得にくい役柄を演じたキーラ・ナイトレイだろう。決してうまい女優さんではないが、本来の「目立つ女の子」ぶりを活かしてこれまたハマってる。しかもこういう役をあえて演じるというあたり、主役でも脇役でも作品も選ばず声がかかればやるというマイケル・ケインみたい(笑)なイギリスの俳優さんらしい役者魂を見せてくれた。彼らを見ているだけで、僕としてはこの映画、入場料でオツリが来たようなものだ。

みどころ

 そんなわけでこの作品を好感を持って見た僕だが…実はこの映画、この3人のアンサンブル演技がすべてといっていい。脚本はダニー・ボイルのSF作品2作「28日後…」(2002)、「サンシャイン2057」(2007)でも脚本を手掛けたアレックス・ガーランドとはオドロキだが、彼の脚本もミュージック・ビデオ上がりの監督マーク・ロマネクの演出も、余計なこと、目立つことをまったくやっていないという点で作品に貢献している。万事控えめなこの映画では、もちろんこのやり方がベストだったと思う。それというのも、「日の名残り」を見る限りでは原作であるカズオ・イシグロ作品のテイストが、万事このように控えめだからではないか。抑えた感情、控えめな態度…それを「日本的」と日本人の僕が言うのもどうかと思うが、ともかく欧米映画には珍しいこの抑えめ加減の見せ方が、この映画には適切だったというべきだ。そしてそこに描かれているのは…やはりSF作品だった「ブレードランナー」とも同じテーマ。あるいは黒澤明の「生きる」と同じテーマと言ってもいい、「限りある人生をいかに生きていくか」「どんな人間でも生きるに足る人生を持てるのか」…ということだ。

こうすれば

 というわけで、抑えた演技・演出でじっくり見せてくれていたこの映画。僕はかなり好感を持って見ていたのだが、ラストのラスト…少々「アレレ?」と思わせる一点の曇りを見せてしまうのが残念だ。それはキャリー・マリガンのモノローグによる幕切れのくだりなのだが、そこでこの映画の作り手は…それまであれほどすべてを抑えめにしていたのにも関わらず…いきなりあまりに饒舌に「言いたいこと」を言い切ってしまう。「私たちも普通の人々も、“終了”するということでは違いはないのだ」…いや、まったくおっしゃる通り。それこそがこの映画のテーマなのだということも分かるが、最後にその種明かしを露骨にしちゃったらいかんだろう。せっかくそれまで抑えに抑えて来たのに、それを最後にハッキリ言っちゃったらブチ壊しだ。作り手としてはメッセージがちゃんと観客に届いたのか不安だったのかもしれないが、こっちとしては宿題をやろうとしていたら親から「宿題やりなさい」と言われて、「言われなくても今やろうと思ってたのに〜!」というやり切れない気持ちになった時みたい(笑)な感じ。だってその一言を言葉で言っちゃったら、何も2時間も映画にして見せる必要がないからだ。これは何とかならなかったのかなぁ。

さいごのひとこと

 これぞまさに蛇足。

 

「ザ・ファイター」

 The Fighter

Date:2011 / 05 / 16

みるまえ

 これもオスカー・レースで大暴れの一作。作品賞、監督賞ノミネートの他に、助演賞候補としてクリスチャン・ベール、エイミー・アダムス、メリッサ・レオの名が挙がり、結果的にはベールとレオが受賞した。その意味では、演技賞の部門では圧倒的な強さを誇っていたわけだ。それなのに主演のマーク・ウォールバーグだけは見事にスルーという結果になったのが「???」だが…。何だかちょっとタイトルからして「レスラー」(2008)みたいな感じだし、シブいが見応えのある作品になっていそうな感じがする。マーク・ウォルバーグのボクサー役というのもなかなかハマってそうだ。ちょっと地味〜な感じもするのでなかなか映画館まで足が運ばなかったが、ゴールデンウィーク中についに見に行く気になった。

ないよう

 そのやけに威勢ばかりいい男は、かつてはプロボクサーだった。ディッキー・エクランド(クリスチャン・ベール)、労働者の街ローウェルのヒーロー。かつて強豪ボクサーのシュガー・レイと対戦して、ダウンを奪ったことがあるという伝説の持ち主だ。口を開けばビッグマウスの連発だが、陽気さと面白さ、派手さでは群を抜く。しかし近年は落ちぶれ果てて、クスリにも手を出すやさぐれぶり。それでもビッグマウスは止まらない。そんな彼を「あの人は今」的にドキュメンタリー映画のクルーが追いかけ回す。そうくりゃ今は弟のトレーナーに専念してはいるが、「オレもカムバックを狙ってるぜ!」ぐらいの大口は飛び出すというものだ。そんなディッキーの弟ミッキー(マーク・ウォルバーグ)はやっぱりボクサーをやっているものの、兄とは正反対の実直で従順、誠実で地味な人柄。それが災いして、ボクサーとしても芽が出ない。いつも強気の兄ディッキーと、そんな兄ベッタリで家族を仕切る強権体質の母アリス(メリッサ・レオ)に頭から抑えつけられ、おとなしくしている日々。このアリスが昔から男出入りがだらしなく、兄弟にはゴチャゴチャと父違いの妹たちがいる。「そんな家族を私がまとめているんだ」と母アリスに言われれば、ミッキーとしてもおとなしく聞いているしかない。しかし生来のおとなしさとそんな家族の中での割の食い方から、ミッキーはボクサーとしても一人の男としても、何となく不遇な状況に追い込まれていたのだ。そんなミッキーが、バーで働くいい女シャーリーン(エイミー・アダムス)に声をかける。実は父親に背中を押されて声をかけたのだが、彼女はこういう酒場で働く女らしく、「どうせ結婚してるんでしょ」と男性への不信感むき出しで応じるシャーリーン。それでもミッキーは「他の男たち」とは違うとかぎ取ったシャーリーンは、黙って彼に電話番号を渡すのだった。さて、アリスとディッキーがお膳立てした、ミッキーの大勝負の日がやって来る。いざ、ラスベガスでの試合に出発…という朝、だらしなくもヤクをキメてヘロヘロのディッキーもトホホだが、ホテルに着いてからミッキーを待っていた知らせも唖然呆然モノ。なんとアリスとディッキーが「楽勝」と言っていた対戦相手が風邪で勝手にダウン。代わりに格上の相手が仕立てられたと聞いて大ショックだ。それまで想定していた相手のクセに合わせて練習してきたし、何より新しい相手はまるで身体つきからして違う。しかしアリスとディッキーは渋るミッキーを無責任に押し切り、予定通りの試合を開催させる。その結果は…見るも無惨な状況。まるで噛ませ犬状態。さすがにこれにはミッキーも憮然。「何をフテ腐れてるんだ」ぐらいにしか感じていないアリスとディッキーの態度にも、今回ばかりは納得できないものを感じる。そんな凹んだミッキーの元に、あのシャーリーンが訪ねてくるではないか。実はミッキー、試合後のデートを約束していたが、あんな無惨な結果に声をかけられずにいたのだった。何となくチグハグさが残るデートだったが、ミッキーの優しさはバッチリ分かったシャーリーン。そんな彼女は、今ひとつミッキーが浮上できないのはアリスとディッキーのせいだ…と看破した。しかし何につけ押しつけがましいアリスとディッキーはじめ家族の面々からミッキーを独立させるのは、なかなかに難しい問題だった。案の定、アリスや妹たちはシャーリーンに食ってかかる始末。しかしシャーリーンも修羅場を知る女らしく、したたかなアリスや妹たちとやり合って一歩も引かない。そんなこんなのてんやわんやの末、なんとディッキーがつまらない罪を犯し、家族たちの見ている前で警察に捕らえられるという不祥事を起こす。見かねたミッキーも警官に取り押さえられ、手を叩きつぶされるアリサマだ。さすがに今回ばかりは、ミッキーもディッキーとの決別を決心したのだが…。

みたあと

 前述したように、なかなか顔ぶれは豪華。中でも威勢ばかりいいエキセントリックな男に扮したクリスチャン・ベールは、やっぱり目一杯目立っちゃうだろう。その点、マーク・ウォールバーグは守戦一方のかたちになるもんだから、周りの助演級の人々が軒並みオスカー候補になったり受賞したりしてるのに、一人だけ蚊帳の外になってお気の毒。しかしここはウォルバーグらしい、ウォルバーグでなきゃできない役だったとホメてあげたい。こう言っちゃ何だが、エキセントリックな役は「賞狙い」には有効なのである。そして助演級の中では、珍しくやさぐれた女を演じたエイミー・アダムスにビックリ。元々が「魔法にかけられて」(2007)のおとぎ話のお姫様みたいな役で出てきた彼女。その後もお上品だったり育ちがよさそうだったりという役ばかりだったような印象だったが、今回はガラリとイメージチェンジ。気が強くて世間にも男にもウンザリしていて、過去にいろいろそれなりな事もやってきてる女を好演。これには演じた彼女も偉いと思ったが、この役に彼女を持ってきた人はもっと偉いと思ったよ。もっと驚いたのが、この映画の監督がデビッド・O・ラッセルだったこと。世間の評価が高かった「スリー・キングス」(1999)も「ハッカビーズ」(2004)も、何だか頭でっかちでイマイチ面白いと思わなかったが、今回はイメージ一新。驚くほど地に足の着いた感じで、ウォルバーグ同様愚直なまでの語り口を見せていた。やりゃあできるじゃないか。

みどころ

 そんな演技陣のすばらしさもさることながら、やはりこの映画の最も見事なところは、「家族」というものの本質をズバリと描けているところではないだろうか。悪い奴じゃないんだけど調子が良すぎてだらしなく、オレがオレが…の度を超している兄、身持ちが悪く押しつけがましく独善的な母親、そして頭が悪そうでうるさいばかりの妹たち…いずれも無教養で無遠慮で無思慮で非常識。できれば「お付き合い」したくない連中だ。明らかに主人公のミッキーは、この連中に足を引っ張られ続けている。そういう意味で、新たに彼の恋人になったシャーリーンが主人公を家族から話したのは正解だった。「家族は家族と一緒にいるのが一番」ってのはあまりに「正論」過ぎて反論しにくいのだが、何より家族ほどタチの悪いものもないのである。それは自分にも身に覚えがある。家族ってやつは何とも厄介で暑苦しくて面倒くさくて、いつだって持て余してしまう。そして自分の友人や恋人に紹介するには、いささか恥ずかしさを伴う存在なのだ。そして今まで付き合った何人かの女たちのうちには、イヤ〜な家族がいた奴もいた。ずっと昔にちょっと結婚を考えた時も、僕が躊躇した理由はそれだった。あんな家族が身内になるなんて耐えられそうもないと思っちゃったわけだ。そりゃあ、自分の「それ」だって十分ウンザリなんだから、それも無理ないだろう。しかし…だからと言って、どんなにウンザリさせられる存在だからと言っても、切ろうったって切れない。結局、主人公もバッサリやってしまおうと思ったものの、最後はどうしてもその力が必要になる。そして再びディッキーの力を借りたいと言い出す主人公ミッキーに反対するシャーリーンは、その場でミッキーに「君も、自分の考えを押しつける点では母や兄と同じだ!」とズバリ指摘されてハッとする。結局、母や兄の磁力圏から守ろうとしたことが、今度は自分の磁力圏内に引き込もうとしたことと同じになる。これはいささか厳しい指摘だが…それは、主人公を愛し心配した結果やったことだと考えれば、シャーリーンもそこで、鬱陶しくも暑苦しくもありがたく大切な「家族」になったのだと言えるのではないか。そう、家族とはウンザリさせられるものではあるが、切ろうったって切れないし、一生引きずっていかねばならないし、またそうする価値もある有り難いものでもあるのだ。またこれかよ…とこのサイトを読んでくださる方々には言われちゃうかもしれないが、父親が亡くなってから本当にそう思うよ。この映画には、そんな家族の「実感」が充満しているのだ。

さいごのひとこと

 無冠のウォルバーグこそホメたい。

 

「ガリバー旅行記」

 Gulliver's Travels

Date:2011 / 05 / 09

みるまえ

 あのジャック・ブラックが「ガリバー旅行記」を演る。…もうこれだけで言い尽くした感じもあるし、読む側だって何となく察するだろう…という気がする。企画ありきの作品。予告も見たけど予想通り。もう見るまでもない映画という気がする。要はジャック・ブラックっていつも同じキャラクターを演じているだけだから、ジャック・ブラックの「ガリバー旅行記」…で済んでしまう。映画ファンの酒の席でのヨタ話みたいなものだ。ジャック・ブラックがガリバーやったら面白くね?…みたいなもの。しかし、それをわざわざ高いお金をかけて作っちゃうってのもねぇ。オドロキはまったくなさそうだもの。あえて付加価値めいたモノを挙げれば、昨今大流行の3Dってことだろうか。ハッキリ言うと時間が空いて、これしか見るものがなかったから見たというのが真相。そして元々はジャック・ブラックもキライじゃなかったので、気楽に楽しめるだろうと思って見に行ったわけだ。

ないよう

 ガリバー(ジャック・ブラック)は巨大新聞社に勤める男。今日も今日とて新入りに仕事を指導だ。仕事といっても、彼の仕事は各部に郵便物を配るメール係。自分は仕事をエンジョイしていて会社を知り尽くしている…的な大口を叩きまくるが、仕事の秘訣は忙しい社員諸氏のジャマをしないこと…というモットーからしてどこか卑屈。しかも旅行関係の担当者ダーシー(アマンダ・ピート)を秘かに想いながら、言葉もかけられず指一本触れられない…というところまで新人クンに見透かされる始末だ。おまけに一日が終わろうとしている時、その新人から爆弾発言をくらってしまう。何とこの新人、入って初日で昇格。それもガリバーの上司になってしまうというのだ。さらに新人クンが告げた言葉は、さすがにガリバーを落ち込ませるに十分だった。「君のビッグマウスも一日だけ聞くぶんには愉快だが、さすがに毎日では聞くに耐えない。しかも君は口だけ番長で、結局ビッグにはなれないよ」…図星、その通り、おっしゃる通り。さすがに日頃のノー天気ぶりも影を潜め、ガックリ肩を落として帰りかけるガリバー。ふとダーシーの仕事場に足が向いたのは、そんな不甲斐ない自分と決別するつもりだったのか。しかしダーシーと面と向かっては、何も言うことができないガリバー。しどろもどろになっているうちに、旅行記者として認めてもらうべく彼女に記事を書いて明日提出する…という話になってしまう。さて、まいった。またまたダーシーに大口叩いたものの、旅行なんてしたこともない記事も書けない。焦り狂ううちに時間だけが経っていく。そんな苦し紛れの果て、ネットからあちこち文章をかき集め、記事をデッチ挙げてしまうガリバー。これがダーシーに絶賛されて、早速トントン拍子に初仕事が決まってしまう。それは、バーミューダ・トライアングルに出掛けて取材する仕事だ。ガリバーはろくすっぽ船の操縦も知らない状態で、例によって大口叩いてモーターボートでノコノコ出掛けていった。すると突然雲行きが怪しくなり、巨大な竜巻が襲いかかってくるではないか。そのままガリバーは気を失ったが、次に気付いた時にはなぜか横たわったまま身動きができない。何と彼は無数の細いロープで砂浜に縛り上げられ、そこにこれまた無数の小さい兵隊たちがウロツキ回っているではないか。何とここは小人の国、リリパット王国という国らしい。兵隊たちを率いるエドワード将軍(クリス・オダウド)はガリバーを「ケダモノ」呼ばわりする無礼かつ傲慢な男で、彼らの敵国であるブレフスキュ国のスパイだと決め付けていた。何が何やら分からず混乱したガリバーは大暴れするが、結果的にさらに窮屈に縛り上げられただけ。結局、狭苦しい洞穴の牢獄へと閉じこめられることになる。ところが、ここで知り合ったのが小人の囚人ホレイショ(ジェイソン・シーゲル)。彼はリリパット王国の王女メアリー(エミリー・ブラント)に恋をしたのだが、それが彼女の「許婚」エドワード将軍の逆鱗に触れて投獄されたというのだ。そんな理不尽さに同情したガリバーは、ホレイショとたちまち打ち解けるのであった。その後、リリパット王国の「家畜」として、ホレイショとともに外で働かされることになるガリバー。そんなある日、敵国ブレフスキュ国の賊が王国に侵入し、あわやメアリー王女がさらわれそうになるという事件が起きた。「ここはオレの仕事」と張り切って馳せ参じるエドワード将軍だが、この男どこか抜けているし頼りない。焦ったホレイショの頼みを聞いたガリバーは、アッという間に王宮へとやって来て賊を一蹴。しかも城で起きた火災も意表を突いた方法でチン火(笑)して、中に閉じ込められたセオドア王(ビリー・コノリー)を救うことに成功する。これによって一躍ガリバーは英雄となり、王をはじめとするリリパット王国の人々に崇められる存在となった。ところが、こうなるとまたまたガリバー持ち前の悪い大口叩きの虫が騒ぎ出す。しかも最初からガリバーとは相性が悪いところにメンツをつぶされた恨みも加わり、エドワード将軍は秘かに不満をつのらせていた…。

みたあと

 まぁ、やっぱりジャック・ブラックの「ガリバー旅行記」でした…で終わらせたら簡単なのだが、そうもいくまい。といっても、実際にそうだから困ったモノだ。ジャック・ブラックという良くも悪くも今風な俗悪さを持ったコメディアンを、「ガリバー旅行記」の世界に持ってきたというところが最大の面白さで…というか、「それだけ」の作品。「シャーク・テイル」(2004)などアニメ映画の監督だったロブ・レターマンも、ハッキリ言って「巨大ジャック・ブラック」の面白さを見せる…という意図だけで起用されたのだろう。正直言って見事なまでに「それだけ」なんでビックリ。まったく予想外のモノが入っていない、ある意味でアッパレなほどの想定内の作品なのだ。

こうすれば

 それにしても、これでいいのだろうかジャック・ブラックは。最初に「ハイ・フィデリティ」(2000)の脇で登場した時には、そのアクの強さで衝撃を与えた。そしてジャック・ブラックのコメディアンとしての立ち位置は、「スクール・オブ・ロック」(2003)で頂点に達して定着したといえるだろう。しかしその後も一向に進化がないというのは、いささか困ったことではないのだろうか。基本的に彼は同じ役しか演じていない。役らしい役を演じたのは、「トロピック・サンダー/史上最低の作戦」(2008)ぐらいのモノじゃないのか。中にはナンシー・マイヤーズの「ホリデイ」(2006)、ピーター・ジャクソンの「キング・コング」(2005)…など、それなりの個性のある監督に使われてイイ味出してる例もないわけではないが、正直言って近年の彼は「マンネリ」だと言われても仕方がない。アニメ映画「カンフー・パンダ」(2008)ですら基本的に同じキャラというのは、ある意味尊敬に値するが、これでは本人が苦しくなる一方だ。しかも本来がアクの強さが売り物だから、これがマンネリになったらウンザリせざるを得ない。例えば毎度お馴染みのクラシック・ロックを歌うという芸風も、こうも毎回やられるとゲップが出そうだ。今回も「ロミオとジュリエット」的趣向…というより船場吉兆の女将的な趣向(笑)で女の口説き文句を教えるために、プリンスの「キス」の歌詞を引用するくだりがあるが、もう以前ほどには笑えない。終盤にも「ウォー」を歌って反戦を唱えるという見せ場があるのだが、正直言って「またかよ」としか思えない。こうなると見ている側がすきま風に必死に耐えるようなアリサマ。劇中でジャック・ブラックは「君のビッグマウスも一日だけ聞くぶんには愉快だが、さすがに毎日では聞くに耐えない」云々というセリフをぶつけられるが、それがまったくシャレになっていないので笑えなかった。そろそろジャック・ブラックもキツくなってきたんじゃないだろうか?

さいごのひとこと

 どこかの焼き肉屋の生肉並みに鮮度が危ういかも。

 

「トゥルー・グリット」

 True Grit

Date:2011 / 05 / 09

みるまえ

 今年のオスカー・レースの一角に食い込んでいたのが、コーエン兄弟の最新作であるこの作品だ。まぁ、オスカー受賞作「ノーカントリー」(2007)の後、すっかり「大御所」となったコーエン兄弟なら、またまたオスカー・レースで大暴れする作品をつくっても不思議はない。正直言うと僕は最近の「偉くなった」コーエン兄弟の作品には少々食傷気味だし、「どうだうまいだろう?」的な目配せも余計だと思う。ついでにいえば各方面大絶賛の「ノー・カントリー」そのものも、ここだけの話そんなに面白かったかどうか疑問だ。だからコーエン兄弟の新作…と聞いたところでもはや胸もときめかないし、大して期待も抱かない。しかし…実は今回ばかりは別…と言わねばならないだろう。この「トゥルー・グリット」なる作品、コーエン兄弟にして初めての西部劇というではないか。西部劇とくれば、アメリカ映画をずっと見てきた人間からするとひとつの「聖域」。今までいろいろなジャンルの作品を手掛けてきたコーエン兄弟が、ついに「西部劇」をつくるというだけでも見ものだ。おまけにこの作品が、なぜかジョン・ウェインがオスカー主演男優賞をとった「勇気ある追跡」(1969)のリメイクだというから二度ビックリ。いくらリメイクばやりのハリウッドとはいえ、何でコーエン兄弟が何でこの作品をリメイク?…と興味津々。さらに、そこにジェフ・ブリッジス、マット・デイモン、ジョシュ・ブローリン…と、これまた興味を惹く豪華な顔ぶれが揃っているのが嬉しい。しかもみんな、どことなく西部劇の香りを漂わせているから楽しみだ。このメンツなら、どう見たってジェフ・ブリッジスがジョン・ウェイン演じたルースター・コグバーンという片目の保安官の役だろう。これもまた何とも興味深い。そんなこんなで、この作品は絶対見なければ…と映画館に駆けつけたというわけだ。

ないよう

 それは1878年、フォートスミスの町で起きた。一人の男がこの町で撃ち殺され、金貨2枚を奪われた。殺したのは、男が雇っていた男チェイニー(ジョシュ・ブローリン)。その知らせを受けて、殺された男の娘がこの町にやって来る。その娘マティ・ロス(ヘイリー・スタンフェルド)は意志の強い利発な娘だった。男の死の知らせにオロオロするばかりの母には任せておけないと、単身この町に乗りこんできたわけだ。しかし町の保安官に父の事件について聞いても、サッパリやる気が感じられない。父の遺体を引き取って自宅へ送る手はずを整え、大人顔負け…いや、大人以上に抜け目なくシタタカな交渉ぶりで父の遺品の扱いや金銭のことについて片付けていくマティだが、彼女がこの町にやって来たのにはもうひとつ理由があった。それは、父の仇を討つこと。父の形見の銃を手に入れた彼女は、必ずや犯人チェイニーに罪の償いをさせなければ…と思い詰めていた。しかしチェイニーはインディアン領内へと逃げ、盗賊ネッド(バリー・ペッパー)の一味に合流したともいう。そんな奴に仇討ちを挑むなら、到底彼女一人では無理だ。そんな彼女の前に、テキサス・レンジャーのラビーフ(マット・デイモン)が現れる。実はこのラビーフも、別件でチェイニーを追いかけているのだった。しかしあくまでチェイニーを捕らえ、テキサスまで連れて帰るのが目的のラビーフとはマティは意見が合うはずがない。こうして、ちょっと尊大なラビーフを怒らせてしまうマティだった。その頃マティには、一人「これは」と思う人物がいた。悪党と見るや容赦なく撃ち殺してしまう武勇伝の人物、片目にアイパッチをした酔いどれの連邦保安官ルースター・コグバーン(ジェフ・ブリッジス)。最初はコグバーンに相手にされていなかったマティだが、しつこく口説いたのと給金の魅力で、イヤイヤながら捜査を引き受けてくれることになった。しかし出発当日、コグバーンは彼女と約束していたのより早い時間にサッサと出掛けてしまう。これに頭に来たマティは慌てて馬を飛ばし、コグバーンを追いかける。川の中にも馬ごと果敢に突っ込んで、先行していたコグバーンのもとへ追いつくマティ。しかしコグバーンには、あのラビーフという「連れ」がいるではないか…。

みたあと

 ズバリ言って、ここんとこのコーエン兄弟の作品では一番好き。しかも味わい深い。同じ原作を映画化したジョン・ウエインの「勇気ある追跡」は見ていないが、原作とは無関係につくった続編「オレゴン魂」(1975)から想像するに、この作品とはかなり趣の異なる作品になっているのではないだろうか。今までさまざまなジャンル映画に挑戦してきたコーエン兄弟だが、今回は初の西部劇。ジャンル映画であり、なおかつ味わい深いという点ではギャング映画に挑戦した「ミラーズ・クロッシング」(1990)をも彷彿とさせるが、あっちはまだスタイリッシュに撮ろうという「てらい」があった。今回の作品には、その「てらい」すらほとんどなくなっている。今までその「うまさ」がかえってイヤミになっていたところもあるコーエン兄弟だったが、今回はそんな「うまさ」のひけらかしにもならず、じっくりと物語を語っていることに好感を持った。こんな味わい深さは「バーバー」(2001)以来じゃないだろうか。何よりヒロインのマティが列車から降り立ったファースト・シーンの映像を見たときに、いつもの「頭でっかちさ」以上のモノが感じられたのだ。

みどころ

 コーエン兄弟の映画はその「うまさ」や「頭でっかちさ」で印象づけられることが多いが、実は彼らなりの奇妙な方法で、「教訓」みたいなものを語っている場合が多い。その語り口があまりにユニークなスタイルだったり面白かったりするのでなかなか気付かれないだけだ。例えば「ファーゴ」(1996)や「ノーカントリー」(2007)などにはその傾向が顕著に認められるが、それ以外の作品にも大なり小なりそういう要素が見受けられる。これまではそれが、なまじっか妙に映画テクニシャンぶりが過剰だったり頭でっかちだったりしたせいか、あまり素直に受け取れない部分もあった。ハッキリ言っちゃえば小賢しい奴に説教タレられたくない…という気がしていたものだが、今回はズバリそれがハマった。それは元々「教訓」をタレるコーエン兄弟のストーリーテリングが、どこか「おとぎ話」や「民話」の類に近いモノであったからではないだろうか。これまでコーエン兄弟がファム・ファタールものとかギャング映画などなど「ジャンル映画」に挑戦し続けていたことが多かったのも、たぶん話法が定着している(あるいは陳腐化している)という点で「ジャンル映画」には「おとぎ話」や「民話」と共通する部分があったからだろう。そして今回は「西部劇」…まさに「おとぎ話」や「民話」に近いスタイルの物語フォーマットだったために、コーエン兄弟の「教訓」が上滑りせずピタリとハマったのに違いない。そこで語られるのは…「人の行いには代償が伴う」ということだ。そもそもお話は基本的に「復讐話」であり、悪事を行った人間にその報いを受けさせようというもの。それだけでも「代償」のお話ということはいえる。しかし代償を払わせられるのは悪人たるチェイニー(ジョシュ・ブローリン)だけではない。むしろ最も大きな代償を払わせられるのは、この物語の原動力たるマティ(ヘイリー・スタンフェルド)だろう。彼女は、母親などアテにならない…と単身荒くれ者の世界に飛び込んでくるような少女だ。大人たちをキリキリ舞いさせるほど、頭も切れるし度胸も勇気もある。だから当然、自分には自信もあったはずだし、どこか大人や世の中をナメていたはずだ。しかし劇中、彼女は人物評価で判断ミスを犯し続ける。最初はテキサス・レンジャーのラビーフ(マット・デイモン)を煙たくイヤな奴と切り捨てるが、途中で同行のコグバーン(ジェフ・ブリッジス)が頼りにならないと思うや、今度は「あなたのことを誤解していた」とラビーフを頼る。しかし最終的に彼女を助けたのはやっぱりコグバーンだったのだから、彼女は二重に人というものが分かっていなかった。つまりは、偉そうな顔はしているがまだ小娘なのである。だからコグバーンが、最初に彼女の同行を断るのも無理はないのだ。それを「雇ったのは私」と勝手についてきたマティは、そのおかげで最終的に高すぎる代償を払わされることになる。そもそも、例え正当な理由があろうとも、まだ子供の分際で人の命を奪おうという事自体がおこがましいのではないか。早く大人になろうとしていたし、自分は大人並み…いや、大人以上とまで思っていたであろう彼女は、結果的に若さの輝きを味わう機会を永久に奪われることになってしまう。後年になって、いまだ独り者らしい彼女の姿…好奇の目で見る周囲の反応を見れば、彼女の置かれた状況が容易に想像できるだろう…は、どこか見る者に痛みを感じさせるものだ。細かいところを見ていけば他にもいろいろあって、マティの前から挨拶もなしに立ち去ったコグバーンには、後に彼女に会いたくなっても都合のイイ望みは実現しない。また常にビッグマウスをブチ続けたラビーフは、危うく舌を噛み切りかけるハメになる…という風に、いろいろな意味で登場人物は「代償」を払わせられることになる。僕もそろそろイイ歳こいて来ただけに、「誰もが自分のオトシマエはつけなきゃならない」というメッセージは結構身に染みた。

さいごのひとこと

 さらに磨きがかかったジェフ・ブリッジスのグダグダぶり。

 

「エンジェル・ウォーズ」

 Sucker Punch

Date:2011 / 05 / 02

みるまえ

 この映画の予告編は、かなり前から見ている。悪者のワナにハマって、精神病院にブチ込まれるヒロイン。絶望的な状況下では想像力の中だけが「自由」。そこでヒロインは日本の寺院のような場所に行き、導師のような男(スコット・グレンだ!)から何やら教えを授かる。それは自由になるための手がかりだ。こうしてヒロインは精神病院で出来た仲間たちと共に空想世界で戦うが、それが現実世界でも自由への脱出行となっていく…ってな話のようだ。ヒロインが引きずり込まれる精神病院の外観は、何となくティム・バートン映画か何かに出てくるようなカリカチュアライズされた外観。だが、おとぎ話というよりは「マンガ」らしい。というのも、想像世界での戦うヒロインのコスチュームはヘソ出しのセーラー服(笑)、持ってる武器が拳銃と日本刀。ヒロインが戦うのは重火器を担いだヨロイ武者だったり第一次大戦のドイツ兵だったりドラゴンだったり…いやぁ、もうコレって完全にジャパニメーションやゲームの世界からパクりまくったシロモノだろう。それをやたらにスローモーションでキメキメ・アクションにしたて、画面は必要以上に重苦しくて厚ぼったい。おやおや、これはもしや…と思ったら、やっぱり「さんびゃく」…もとい「300」(2006)のザック・スナイダー監督の新作じゃないか。やっぱりなぁ、このバカさ加減(笑)。しかしこの監督には、前半部分が目の覚めるような大傑作だった「ウォッチメン」(2009)という作品もあるから侮れない。もっとも「ウォッチメン」も、後半は凄まじく破綻かつ失速してしまうというスゴイ作品なのだが(笑)。そんなわけで、うまくすりゃ化ける可能性があるし、コケてもバカ映画としてソコソコ楽しめそうな作品になりそう。となると、疲れた日常の一服の清涼剤にはなるかも。そんなわけで、公開からしばらくした映画館に忍び込んだわけだが…。

ないよう

 ベイビードール(エミリー・ブラウニング)を襲ったのは、あまりに過酷な運命だった。病に倒れた母親はついに息絶えて、ベイビードールと妹はいかにもアブラぎった継父の手に委ねられた。この男、ベイビードールの母親とは莫大な遺産目当てで結婚したのだが、すべてが姉妹に相続されるとの遺言状を見て逆上。まずはベイビードールを我がモノにしようと襲いかかってくる。しかしベイビードールに徹底的に抵抗された継父は作戦変更。今度は幼い妹に触手を伸ばそうとする。妹が閉じこもった物置の扉を、ムリヤリぶち破ろうとする継父。慌てて駆けつけたベイビードールは、継父に向けて銃をブッ放す。しかし運悪く弾丸は継父ではなく妹に命中。すっかり放心状態になったベイビードールは、継父の手によって人里離れた精神病院へと連れて行かれる。そこは用務員のブルー・ジョーンズ(オスカー・アイザック)によって支配される陰鬱な世界。本当に精神病かどうか分からないが、みんなそれぞれ「訳アリ」の過去を持った少女たちが、荒廃した心を抱きながらギリギリの状況下で暮らしていた。ちょうどベイビードールが連れてこられたのは、この施設の中の「劇場」。そこで少女たちを指導しているのは、ポーランドなまりがキツい女医のドクター・ゴルスキー(カーラ・グギーノ)。行われているのはこのドクター・ゴルスキーが編み出したという「演劇療法」で、彼女たちの過去の不幸な出来事を芝居で再現することによって治療を進めるというものだったが、ほとんどそれもドクター・ゴルスキーの自己満足と化しているきらいすらあった。そしてベイビードールには、もっと怖ろしいことが…継父が用務員のブルーに手を回して、ベイビードールにロボトミー手術を受けさせてしまおうというのだ。その専門医がやって来るのは5日後。そんな二人の会話を聞いて、ベイビードールの心は虚ろにならざるを得ない。するとたちまち彼女の幻想の中で、精神病院はクラブ兼女郎屋へと早変わり。ここは「訳アリ」の少女たちに春を売らせる娼館であり、そこを仕切っているのがヤクザな男がブルー。娼館でのショータイムの演出を任されているのが、マダムのゴルスキーだ。そこにやって来た新入りベイビードールは、後5日で羽振りのイイ旦那への貢ぎ物にされ、売り飛ばされる運命にある。娼館の女の子たち…スイートピー(アビー・コーニッシュ)、ブロンディ(ヴァネッサ・ハジェンス)、アンバー(ジェイミー・チャン)は冷ややかに「新入り」ベイビードールを見つめるが、スイートピーの妹ロケット(ジェナ・マローン)だけは、人なつこそうにベイビードールに接してくれた。そして太ったコックに襲われたロケットをベイビードールが助けたため、徐々に仲間たちの信頼を得られるようになっていく。そんなクラブでは、マダムのゴルスキーが女の子たちにダンスのレッスンを行っていた。早速「踊れ!」と命じられるベイビードール。さすがにすぐに踊れはしなかったものの、踊らなければここで生きてはいけない。どうしていいのか分からないながら放心状態で音楽に身を委ねると、ベイビードールはさらに幻想の中へと入っていく…。そこは静かに雪が降り積もる昔むかしの日本の寺院。やって来たベイビードールを待ち受けていたかのように、賢者(スコット・グレン)が祈祷をあげているではないか。賢者はベイビードールにいきなり禅問答のような問いを放つのだった。「おまえは何を求めているのか?」…。

みたあと

 映画が始まってから精神病院までのヒロインの不幸のつるべ打ち状態は、あまりにあまりな転落ぶりもあってまるで「おとぎ話」のよう。あるいはティム・バートン映画のようなブラック・ジョークじみた展開。そして精神病院に着いてしばらくすると、そこは娼館へと変貌。どうやら徹底的に追いつめられて、ヒロインは幻想へと自己逃避したらしい。さらにそこでセクシー・ダンスを披露しなくちゃならない…となったところでヒロインはさらにもうひとつの幻想の世界へと突入。夢のまた夢…という「インセプション」(2010)みたいな仕掛けになってくるではないか。しかも、そこは日本の寺みたいな奇妙な世界。ヒロインはいつの間にかヘソ出しセーラーというオタクな格好になっている。たちまちジャパニメーションかゲームみたいな世界のはじまりはじまりだ。

みどころ

 まずはここでスコット・グレンから、地図、火、ナイフ、カギ…さらに5番目の謎のお宝を手に入れろと、ゲームのようなアイテムの提示がある。以後、コレに沿ってヒロイン(と仲間)の戦いは、日本の寺での重火器を持ったヨロイ武者との戦い、第一次大戦か第二次大戦か分からないが、ドイツ軍のトーチカにおけるゾンビ兵士たちとの戦い、中世のような城を舞台にしたドラゴンとの戦い、弾丸列車におけるハイテクロボットとの戦い…ってな、ホントにゲームみたいな展開を見せるわけだ。これらの「夢のまた夢」に入る仕掛けが、ヒロインのセクシー・ダンスということになるが、これが見ていると周囲がみんなノックアウトされるスゴイダンスらしい。それで悪者たちの注意を逸らしている間に、ヒロインの仲間たちが地図やら何やらのアイテムを手に入れるという算段。そしてその戦いが、ヒロインのテレビゲームみたいな幻想にもなっている…という分かったような分からないような趣向なのである。まぁ、そこまでコーフンもののダンスってのもスゴいが、毎回毎回ダンスごときで悪漢たちがダマされるのかいな…というツッコミはヤボなのだろうか。さらに、実際は悪漢の目を盗んで地図やら何やらを手に入れるという現実感のある展開の方がよっぽど映画にしたらスリリングだろうに、この映画の作り手はそれはまったく見せない。ひたすらジャパニメーションやゲームみたいな現実感のない幻想の中の見せ場に終始。しかもここではスーパー・アクションが連発するものの、基本的に何でもかんでもCGとスローモーションの見せ場なので実はまったく緊迫感ゼロ。まぁ、僕は疲れていたのでそっちの方がありがたかったのだが、ノンビリと安心して見れる展開(笑)となっている。なんだかなぁ…。とにかくお話としては、徹頭徹尾お子さま向けとしか言いようのない幼稚さなのである。まぁ、セーラームーンだかそれとも「ラスト・ブラッド」(2009)みたいな日本刀を持ったセーラー服の女の子のアクションを見せたい映画(しかもヘソ出し!)だから、まぁこれはこれでいいのだろうか。「レモニー・スニケットの世にも不幸せな物語」(2004)でも親に死なれて虐待されかかる子供役だった、ヒロインのエミリー・ブラウニングが何だかダッチワイフ風の顔なのも微妙だ(笑)。

こうすれば

 ただ、ここまではボケッと見ているぶんには退屈しないで見ていられる展開で、壮大なバカ映画だと思えば許せた。しかし、そんな寛大な気分で見ていた僕も、さすがに終盤にはムムッとせざるを得ない。4つのアイテムを揃え、いよいよ脱出は目の前…そこでヒロインは、謎だった5つ目のアイテムが何かということに気付く。この結論なんだが…これっていかがなものかねぇ。ザック・スナイダーはここで観客の意表を突くハードで辛口なリアル感あふれる結論を持ってきた…とかいうつもりなんだろうが、そこまでさんざ夢に逃避した展開にしておきながら、いきなり現実的な結論はないだろう。何より僕が気に入らなかったのは、ヒロインが「これは私が主役の物語じゃなかった、主役はあなたなの!」…と言い出すこと。これは、それまでのヒロインの行動そのものを否定するばかりか、人生そのものを否定するような発言ではないか。どんな人間にとってもその人生においては自分が主人公であり、そこに「脇役」などはいないはずだろう。これはちょっといただけない話じゃないのか。そういやあの「ウォッチメン」も前半などは素晴らしかったのに、終盤あたりで登場人物が偉そうに語る内容が、分かったようで分からないようなタワゴトで、内容空疎なくせにやたらに偉そうだった。今回もナレーションで「自由になりたければ、戦え!」とか偉そうに言っている割にはこのテイタラク。どうもザック・スナイダーって、どこかそのモノの考え方なり発想の仕方に、歪んだところとか破綻したところがあるんじゃないだろうか。こいつ何か変だよ。偉そうなモノの言い方も独善的で気持ち悪い。せっかくバカ映画ならバカ映画で徹底してほしかったのに、くだらない歪んだ理屈を押し付けないでほしい。

さいごのひとこと

 夢に逃避しながら最後に現実主義だって言われてもねぇ。

 

「SOMEWHERE」

 Somewhere

Date:2011 / 05 / 02

みるまえ

 誰が何と言ったって、ソフィア・コッポラの「ロスト・イン・トランスレーション」(2003)は傑作だった。どこがいいということは感想文でさんざ書いてしまったから、そちらを読んでいただくとして、とにかくリアルな実感がいっぱいで僕には共感できた。しかし、そこに至るまでのソフィアに対する僕の印象といえば、とにかく最悪以外の何者でもなかった。何しろ父親フランシス・コッポラに担ぎ出されて、よせばいいのに「ゴッドファーザーPART III」(1990)の大役で出演。ハッキリ言って美人でもないし、ズバリ言ってしまえば七光り。僕がアレコレ言うまでもなく、ソフィアの大役出演はあっちこっちで当然のごとくクソミソに叩かれたのだった。そんなソフィアがいつの間にか映画監督になっての第1作「ヴァージン・スーサイド」(1999)は、意外にも成功。僕もコワゴワ見に行ったが、確かにセンスは非凡なモノがあった。ただし、僕はそれほど好きではないし感心もしなかったが…。おまけに新人監督のくせに有名俳優を起用するあたりが七光り全開。こいつはやっぱりクソ女…と思わずにはいられなかった。しかしそんな彼女の第2作「ロスト・イン・トランスレーション」が、予想を覆す大傑作だったのには衝撃を受けた。世の中分からないものだ。こうなると新作に大いに期待…だったのだが、やって来た「マリー・アントワネット」(2006)は、悪くはないのだが今ひとつな出来栄えだった。少なくとも、「ロスト〜」に僕が感じた共感はなかった。ハッキリ言って「マリー・アントワネットもアタシも同じ“セレブ”だから気持ちが分かる」って言われてもねぇ…ってのが正直なところだろう。さて、そんな訳で映画作家としてイイのか悪いのか分からないソフィアだが、いよいよ新作が登場。今度はハリウッドの老舗ホテルを舞台に、怠惰な生活を送ってきた男性スターと一人娘の物語だという。それを聞いて、僕は「今度はイイ作品なのでは?」…と直感的に感じた。さぁ、では実際の作品は?

ないよう

 「さぁ〜今日もくり出すぞ〜!」…お仲間連れて街へ飲みに出掛けようとしていた男が、階段でひっくり返って腕を骨折。男の名前はジョニー・マルコ(スティーブン・ドーフ)。映画スターとしてそれなりに羽振りもよく、フェラーリを乗り回すご身分。とっくの昔に離婚して独り者であり、ロサンゼルスの老舗ホテル「シャトー・マーモント」で暮らしている。こんなジョニーだから、退屈したらエロいポールダンサーを自室に出前させて、エロエロ・ダンスを演じさせることだってできる。しかしシタタカ酔っているジョニーは、そんなダンスの途中で居眠りすることもしばしば。こんな生活が楽しいのかどうか、もう本人にも分からなくなっている。そんなこんなで今朝もドロドロ状態でベッドに転がっていたジョニーだが、腕のギプスに何やら落書きされて目を覚ます。それは彼の11歳の娘クレオ(エル・ファニング)。普段は別れた妻レイラが育てているクレオだが、今日は夜までジョニーが面倒みることになっていた。この日のクレオの予定は、スケート・リンクでのフィギュアの練習。美しく舞うわか子の姿に、思わず目を細めるジョニーだった。しかしクレオを家まで届ければ、またいつものデタラメなジョニーの暮らし。新作映画の制作発表会で共演女優と顔合わせすると、顔ではニコニコしながら過去のアレコレで彼女は腹ん中煮えくり返っていたようだ。特殊メイク用の顔の型どりをされた時には、顔を特殊プラスティックで塗り固められたあげく、何時間も放置プレイ。でも、考えてみればジョニーはいつも孤独ではないか。そんなジョニーが隣の部屋の女としっぽりやって来たところに、またまた荷物を持ったクレオがやって来た。レイラが突然家から出掛けてしまったため、キャンプに出掛けるまでの間、クレオの居場所がなくなってしまった。そこで彼女はジョニーの元に転がり込んできたというわけだ。ジョニーの友人サミー(クリス・ポンティアス)も交えてテレビゲームで大暴れするなど、いつもとは違う至って健康的なバカ騒ぎ。そしてジョニーは前々から仕事が決まっていたため、クレオを伴ってイタリアへ。向こうの映画賞の授賞式に、ジョニーが出席することになっていたのだ。そんなこんなでイタリアに着いた二人だが、美女を見かければまたまたジョニーの悪いクセが鎌首をもたげる。ジョニーが自室に女を「お持ち帰り」したのは言うまでもなかった。テレビ放映もされている授章式は派手なモノだったが、ジョニーもクレオも何がどうなっているのかチンプンカンプン。大勢の人にモミクチャにされ、二人はクタクタになってロサンゼルスの「シャトー・マーモント」に戻ってきた。それからの二人の生活は、極めて淡々としたものだった。クレオが朝食をつくったり、二人でプールで遊んだり…れはいつまでも続くような、ありふれた父娘の時間だった…。

みたあと

 結論からズバリ言うと、やはり今回の作品は、僕にとっては「ロスト・イン・トランスレーション」のあの「イイ感じ」が戻ってきたような仕上がりだった。おそらくは今回もまた「ロスト〜」の時のように、ソフィアが幼かった頃の体験が下敷きになっているのだろう。そして「ホテル」で、「孤独」で…って要素も「ロスト〜」と似ている。確かにそう考えれば、今回の作品も当然のことながら「イイ感じ」になるわけだ。そんなこんなで妙に納得したりもした…。先ほども指摘したように、「ロスト〜」がソフィアの子供の頃の経験…父親フランシス・コッポラに連れられて日本へ行き、そこでポツ〜ンと一人きりにされたこと…が色濃く反映しているのは間違いない。そして今回はロサンゼルスでも有数のセレブ御用達「老舗」ホテルで、大物映画人とその娘が二人の時間を過ごす物語だ。しかも途中にしっかりと、父親に連れられて何も分からない外国に行き、異邦人に囲まれてキョトンとするという「ロスト〜」お馴染みの趣向まで出てくる。こちらも誰がどう見たって、ソフィア・コッポラの個人的体験を下敷きにしているとしか見えない。個人的な体験を基に映画をつくったからって必ずしもリアルになるわけではないが、この真に迫った感じや身につまされ方はやはり尋常ではない。しかしそれを言うなら、「マリー・アントワネット」だって当時の「セレブ」で、彼女にとって周囲はよそものばかり。ヴェルサイユ宮殿だって、この「シャトー・マーモント」みたいなホテルのようによそよそしかったはずだ。どう考えても「仮の住まい」な気分しかないし、人はそこでは「部外者」感しか味わえない。これもまたソフィアの「実感」によってつくられたはずに違いない。そういう意味ではどれも一貫して同じ事を描いているはずだ。では、どうして僕は「ロスト」と今回の作品には共感できて、なぜ「アントワネット」には違和感を抱いたのか? それは現代劇と時代劇の違いだ…とかいうことではなく、もっと根本的な何かがあるのではないか?

みどころ

 確かに「ロスト」と今回の作品に対して、「アントワネット」は微妙に…しかし明らかに違っている点がひとつだけある。それはソフィア・コッポラの主人公との立ち位置の差とでも言うべきものだろうか。「ロスト」はおそらく彼女の個人的体験の反映だ。今回の作品も、スターの娘として出てくるキャラクターは彼女のことなのだろう。だとすると…その延長線上で、当然ソフィアはマリー・アントワネットは「自分」であると言いたいはずなわけだ。少なくとも、彼女はこうは思っているだろう。「セレブで孤独な彼女の気持ちが分かるのは、同じくセレブで孤独だった私しかいない」…と。シモジモの庶民どもは彼女を贅沢だの何だのと文句を言っていたが、アントワネットにはそうなるだけの理由があり、それを「同じセレブ」の私は理解できる…。しかしながら、そこにこそソフィア・コッポラの落とし穴はあったのではないか。なぜなら、彼女はマリー・アントワネットと同じ境遇の「セレブ」ではない…もとい、今ではそうなのかもしれないが、これらの作品の下敷きになったであろう少女時代には「セレブ」であろうはずがないからだ。その時のソフィアは、ただのセレブの「娘」でしかなかった。「ロスト」でも彼女が自らを仮託したであろうスカーレット・ヨハンソンの若妻は、別に有名でもないし自分が来たくて日本に来たわけでもない。夫に引きずられて来てしまったに過ぎない。だからなおさら空しさがつのる。そして今回の作品は文字通り、そのものズバリの「セレブの娘」だ。これらに対して、アントワネットはセレブそのもの。本人もそれなりに自覚は持っていただろうし、事実そういう視線を浴びていた。ソフィアは「私と同じ」とか思っていたかもしれないが、それは大きな勘違いだった。彼女は「セレブ」じゃなかった。単に親父がエラくて有名だっただけで、彼女は別に大物でも何でもなかったのだ。それなのに「庶民が何をくだらない事を騒いでるのよ」などと「セレブ」気取りでわめいてたら、そりゃあやっぱり変だろう。「同じ境遇だからあなたの気持ちが分かる」…なんてホザいていたら、それこそアントワネット本人から「セレブでも何でもないあんたに言われたくない」と一蹴されかねないのではないか。たぶんあの映画のどこかイビツな違和感って、そういうことだったんじゃないかと思うのだ。つまり、「別にアンタはエラいわけじゃないんだよ!」ってことだろう(笑)。そのへんの「イタさ」が分かったのか分からなかったのか…このへんはどうだかハッキリしないが、今回ソフィアが「スターとその娘」…という「ロスト」以上に自分に近いシチュエーションに設定したという理由は、おそらくは「アントワネット」が何かうまくいってない…という自覚はあって、どうしたら自分の「実感」を再び作品として結実できるのか…を試行錯誤したあげくに選択した設定なのだろうと思う。そして、その「実感」を取り戻す作業は成功したと言えるだろう。映画という「虚業」を生業としてきて、それまで虚無的・刹那的に生きてきた男が、娘との時間を共有することで改めて「生きる」という意味を見出す…。荒野をどこまでもフェラーリで突っ走ったあげく、クルマを乗り捨てて歩いていく…などという一見陳腐で高校の映研がつくったような青臭い結末も、そこに至るまでの父子の時間の瑞々しさ・かけがえのなさが極めてリアルなので、圧倒的な説得力を持って見る者に迫ってくる。そういう意味では、ソフィア・コッポラが自らの創作の「原点」に復帰した作品だと言えるのかもしれない。

さいごのひとこと

 イタリア場面のセリフの意味が知りたい。

 

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