新作映画1000本ノック 2011年3月

Knocking on Movie Heven's Door


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「トスカーナの贋作」

 

「トスカーナの贋作」

 Copie Conforme (Certified Copy)

Date:2011 / 03 / 28

みるまえ

 アッバス・キアロスタミといえば、いまやイラン映画を代表する監督だ。「友だちのうちはどこ?」(1987)、「そして人生はつづく」(1992)、「オリーブの林をぬけて」(1994)などの、彼を有名にした作品群も前々から見ていた。しかし、それらが好きか…と言われると微妙なところ。キライじゃないが、積極的に大好きって訳でもなかった。第一、イランの映画ってどれもこれも同じようなのが多くてね(笑)。子供が主役のドキュメンタリー映画みたいなやつばっかし。それには国内の厳しい検閲などの事情があるからだ…と聞いてはいても、いいかげん食傷気味なところもあったわけだ。むしろ僕個人としては、これらの有名なキアロスタミ映画よりも、有名になる前の「パンと裏通り」(1970)という短篇や、「トラベラー」(1974)などという作品の方に心惹かれたりしたが、だからと言ってキアロスタミのことを、アン・リーと同じくらい好き…とか、リドリー・スコットよりずっと好き…などと思うようなことはなかった。そんなキアロスタミ作品も、「桜桃の味」(1996)を見たのが最後になってしまったか。自殺したいと言う男がずっとグダグダ言ってるようなお話。この映画を理解して愛している方には大変申しわけないが、そんなに死にたきゃサッサと死ね…と言いたくなること請け合いの作品だった。これに懲りたか、僕は以後ずっとキアロスタミ作品を見ていない。このサイトで一回もキアロスタミが取り上げられていないのは、そういう理由からだ。…というか、実はこれ以降、キアロスタミはデジタルビデオによる自主制作みたいな作品ばかり撮っていて、長編劇映画は撮っていなかった。これも、僕が彼の作品を見ることがなかった大きな理由のひとつだ。さらに、先ほど「このサイトで一回もキアロスタミが取り上げられていない」…と書いたのも厳密には間違いで、実はアルマンド・オルミ、ケン・ローチと組んでの短篇三本で構成されるオムニバス映画「明日へのチケット」(2006)がこのサイトでも紹介されてはいるのだ。しかしいかんせん短編、しかも他の2本の短編とセットになっているオムニバス映画となると、これでキアロスタミを語るのも酷というものだろう。そんな折りもおり、アッバス・キアロスタミの新作が公開される。それも「明日へのチケット」に次いで母国イラン以外で撮る作品で、ジュリエット・ビノシュが主演のフランス映画となれば、映画ファンとしては見たくならないわけがない。実は公開直前に朝日新聞にビノシュのインタビュー記事が載っていて、それを読んだら妙に頭でっかちな禅問答みたいな内容だったのでイヤな予感はしたのだが、それでも見てみたい欲求は抑えきれない。つまらないならつまらないでいいから、僕としてはこのキアロスタミの新作は見ずにはいられないのだ。

ないよう

 イタリア、南トスカーナ地方のどこかの講堂で、講演が行われようとしている。主催者側がマイクを握って説明。「これより本物と贋作に関する著作を書いた、イギリスのジェームズ・ミラー氏の講演を行う予定でしたが、なぜか氏の到着が遅れています」…そう言い終わるか終わらないうちに、ジェームズ本人(ウィリアム・シメル)登場。早速ぶち始める講演の内容は、早い話が「本物と同じように、偽物やコピーにも価値がある」というもの。そこに後からやって来た一人の女(ジュリエット・ビノシュ)。彼女は最前列の主催者の隣の空席に座ったから、実は主催者かジェームズとすでに面識があったのか。ところが一緒につれてきた息子(アドリアン・モア)が、ゲーム機を持って落ち着かない。じっとしてろ、黙っていろ…と女は息子にジェスチャーで伝えるが、ガキがそんなこと構っているわけもない。結局、講演など聞いている気がしなくなった女は主催者にメモを託し、息子を連れて講堂の外へと出ていく。二人がやって来たのはハンバーガー屋。ところが息子は何か食いたいだけでなく、どうやら母親に何か言いたいようだ。「あのジェームズって男と恋人になりたいんだろ」とか「目がハートマークだったぜ」とかガキのくせに挑発する息子に、女も痛いところを突かれてカチンと来る。結局、ガキを店に置いて出ていってしまうが、過敏な反応こそが図星の証拠だ。さて、その翌日かはたまた数日後か、女が経営する骨董店にあのジェームズがやって来る。正直言って、その目は明らかにハートマークだ。「あのジェームズ・ミラーさんが…感激だわ」…どうやらいつの間にか、女とジェームズはアポをとっていたらしい。しかしジェームズはこの店にあまり興味はなさそうで、「本物と贋作」に興味がある人物ならば…とこの店での出会いを設定した女の目算は早速狂い始める。じゃあ…ということで、ジェームズは9時までには戻らないと…と言っていたが、ともかく女のクルマでどこかへ出かけることになる。車中で女はジェームズに、彼の気を惹こうとしてか「本物と贋作」的な話題をアレコレとふってくる。しかしそれらに対してのジェームズの答えは、どれもこれも女の期待するモノとはすれ違う。おまけにワガママ勝手なガキと怒っていた自分の息子まで「子供の純粋さ」と弁護されるに至って、さすがに女はジェームズにキレ気味だ。さて、女がジェームズを連れて行ったのは、とある村の美術館。そこで彼女は得意げに、「トスカーナのモナリザ」という一枚の絵画を見せた。実はこれ、近年まで本物と思われていたのだが、真っ赤な偽物だというのだ。これはさすがにジェームズも興味を示すだろう…と女はわざわざ彼を連れてきたわけだ。しかし予想に反してシラケた表情のジェームズ。こんなモノならそこら中にあると言われて、女はさすがに微妙な表情にならざるを得ない。そんなこんなで疲れた二人は、小さいコーヒーショップに入る。そこでジェームズは、今回の本のヒントとなったのは、ある場所で噛み合ってない母親と息子のやりとりを見たからだ…と話し始める。しかし、こいつがいけなかった。実はその母と息子、どうやらこの女と息子のことだったようなのだ。 シクシク泣き出す女に、ジェームズはすっかり腰が退ける。そこにちょうど携帯に電話がかかってきたので、渡りに船とばかりに外に話に出ていってしまう。一人取り残された女は呆然としていたが、そこに店のオバサン(ジャンナ・ジャンケッティ)がいきなりイタリア語で話しかけてくる。「いい旦那さんじゃないの」…。

みたあと

 …というわけで、この後、ビノシュ扮する女はウィリアム・シメル演じるジェームズが自分の本物の夫であるかのように、店のオバサンとおしゃべりを始める。そのオバサンの誤解は店に戻ってきたジェームズにも伝えられるが、それを契機にいつの間にか二人の間で「夫婦ぶりっこ」のやりとりが始まるのだ。そのうち女はああでもないこうでもないと妻としての不満をブチまけ始めるが、そうなってくると男も我慢できずに文句を返す…という、何とも妙ちきりんな展開になる。この「夫婦ごっこ」は、さぁここから始めましょう…ってな合図があるわけでもないし、女のほうはそんな芝居を始めようと思ったのかもしれないが、男がいつからそんなことになっていると気づいて、どこまで「その気」になってやっているかは分からない。しかも見ているうちに…これは他人の男女が「夫婦ごっこ」している話だと思っていたら、だんだん本物の夫婦が「他人の男女」を装っていたのではないかとさえ見えてくる。もっとも冒頭の息子と女のやりとりがあるわけだから、そんなはずはないだろう。それでも後半であまりに女がムキになって迫ってくるのを見ていると、そうとでも思わないと辻褄が合わなくなる。そういう意味ではあまりにも不自然な設定で、ノレない人はノレないと思う。これはダメだと思った人を、「ゲイジュツ」の分からないアホと笑う気にはならない。かくいう僕も、ちょっとよく分からなかった方の人間だ。元々この監督は初期の「クローズ・アップ」(1990)という作品で、たまたま自分を有名監督だと偽ったあげく、詐欺罪で捕まってしまった男を描いたことがある。キアロスタミが非凡だったのはその男を本人に演じさせ、なおかつ被害者も本人が演じるという大胆不敵なことを実行したことだ。そもそもキアロスタミやそのフォロワーみたいなイランの映画作家たちは、やたら素人やら子供を主役に起用して、ほとんどセミ・ドキュメンタリーみたいに劇映画をつくる。どれが本当でどれがウソなのか…その際どい境界線を探る試みは、キアロスタミの十八番なのである。だから分からないものは分からないと、放置しておくのが正しい見方なんだろう。しかし最近忙しくて疲れている身としては、そんな高尚なゲイジュツにお付き合いしたいという気持ちにはならない。正直言って、見ていてあまり楽しいもんではないわな。

みどころ

 それではこの映画はまるで退屈でダメな映画だったのかというと、必ずしもそうでないから映画というのは不思議なもの。正直言って楽しくはないものの、この映画のジュリエット・ビノシュの何とも鬱陶しい「女」ぶりには鬼気迫るものがあるのだ。ああでもないこうでもないとこっちに話を合わせてるつもりなんだろうが、終始まるっきりピントはずれ。聞いていて恥ずかしくなるから、やめて欲しいんだけどその話題。そのくせはぐらかしていると逆ギレし、元々何でその場の話題が気まずくなったのかを考えようとしない。いやぁ、ホントに女と話がこじれるってこういう感じだよな。最初はこっちにすり寄って来たかと思えば、突然豹変して怒る。またにじり寄ってきたかと思えば、自分に調子を合わせないとまた怒る。このウダウダグダグダ感のあまりのリアルさに、呆れかえってじっくり見ちゃうところはあるのだ。そもそも「夫婦ごっこ」をやろうなんて、オレまったく聞いてねえし。しょうがねえから付き合ってやったら、いつの間にかマジになってエスカレート。もう大概にしてもらいたいんだけど、女はどんどんムキになって放してくれない。ホント、オレ9時までに帰らないとヤバイんだけど…ってな感じだろうか(笑)。実際、男が女とやりとりする時の、一方的な「アウェー」感たらない。女がいる場所は、男にとって確実に「敵地」だ。しかもルールは常に女が決めているし、試合途中でどんどん勝手に変えられていくから始末が悪い。ルールを変えていくのも、当然のことながら女だ。そして変わったことも教えてもらえないし、分っていないとバカだのトンマだの一方的な罵倒が飛ぶ。ふざけんなと怒れば泣くわめく開き直る。やってられねえよ。この作品で「女」をジュリエット・ビノシュというオスカーまで受賞したベテラン女優が演じているのに対し、男側がオペラ歌手のウィリアム・シメルという変則キャスティングになっているのは、こうした男側の「アウェー」感を強調するために行われたのではないか。さらに、演じるジュリエット・ビノシュに役名がなくてただ「女」となっているのは、たぶんキアロスタミも「女」全員を丸ごと描いているつもりなんだろう。キアロスタミも人が悪いよ。そして、そんな鬱陶しく暑苦しいジュリエット・ビノシュの「女」ぶりがカンヌ映画祭の主演女優賞受賞というカタチで報われたとするなら、カンヌの審査員もこの鬱陶しさのリアリズムに納得したということだろう。いやぁ、このビノシュに実感を感じたのは、オレだけじゃなかったんだな(笑)。

さいごのひとこと

 これが映画でよかった。

 

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