新作映画1000本ノック 2011年1月

Knocking on Movie Heven's Door


このページの作品

「THE JOYUREI/女優霊」 「しあわせの雨傘」 「デッドクリフ」 「人生万歳!」 「エリックを探して」

 

「THE JOYUREI/女優霊」

 Don't Look Up

Date:2011 / 01 / 31

みるまえ

 「リング」(1998)などのジャパニーズ・ホラーでお馴染み中田秀夫監督の出世作というべきなのだろうか、「女優霊」(1995)という作品があるということは、「邦画音痴」ということで世間では通っている(笑)僕でもさすがに知っていた。作品そのものについてはホラー好きのある知人から聞いていて、その粗筋や設定から僕もぜひ見たいとは思っていたのだ。何しろ、この作品は僕が大好きな「映画製作」についての映画らしい。何度もこれについてはこのサイトで繰り返し語ってきたからクドクド言うつもりはないが、僕は生涯最高の映画がフランソワ・トリュフォーの「アメリカの夜」(1973)というくらいに、「映画製作」に関する映画が大好き。そして中田監督といえば、そんな僕も大いに気に入った「ラストシーン」(2001)という「映画製作」に関する映画を撮っている人なのだ。アレにホラー趣味をもっとブレンドすると、この「女優霊」になるんじゃないのか。そんなわけで僕はいつか「女優霊」を見たいと熱望しながら、わざわざビデオを借りてくるのも億劫でズルズルと見ないままでいた。そして時が過ぎて…ジャパニーズ・ホラーの大ブームと「ザ・リング」(2002)や「THE JUON/呪怨」(2004)などハリウッド・リメイク・ブームが訪れては去っていった。そんな人の噂も七十九日…ではないが、忽然と「女優霊」のハリウッド・リメイク版がひっそり日本でも公開されるというからビックリ。その名も「THE JOYUREI」(笑)。何だかジャパニーズ・ホラーのハリウッド・リメイク版って、どれも原題に「THE」を付けりゃいいってもんなのかいと皮肉のひとつも言いたくなる。ただあれだけ氾濫したジャパニーズ・ホラーのハリウッド版も、成功したものはごくわずか。完全に出遅れちゃった感がある今回の「女優霊」リメイクも、公開のされ方のひっそり感からして成功したとは到底思えない。キャストも見たことのない連中だし、こりゃあスルーだな…と思ったその時、チラシのクレジットにひっそり「フルーツ・チャン」の名前があったのに驚愕。何だって? フルーツ・チャンがこの「女優霊」リメイクを監督してるの? そうである、香港のフルーツ・チャンである。それほど香港映画通ではない僕でも、フルーツ・チャンの名前ぐらいは知っている。…いやいや、いちいち「邦画音痴」だとか「香港映画通ではない」とか断らなくてはならないのは面倒だが、何かと映画ファンってのはうるさくて面倒くさいからねえ(笑)。それはともかく、僕だってこのフルーツ・チャンの作品を「ドリアンドリアン」(2000)、「ハリウッド★ホンコン」(2001)と2本も見ていたのだ。そして「通」によれば僕の見た2本はたまたまマイルドな方だったらしいが、それでもフルーツ・チャンの作品はかなりアクが強かった。そんな男がハリウッドで作品を発表できるのか? しかもホラーのリメイクなんて注文通りに作れるんだろうか? しかし最近ではあのアクの強さでは人後に落ちないヴェルナー・ヘルツォークが、ニコラス・ケイジ主演で「バッド・ルーテナント」リメイク(2009)を撮っちゃうくらいだ。これだって結構イケるんじゃないか? フルーツ・チャンによる「女優霊」ってミスマッチに思えて、意外な化学変化が起こるかも知れないぞ…。上映は渋谷の1館だけ、しかも本家「女優霊」との2本立て…という変則上映。このあたりからしてイヤな予感がしないではなかったが、何よりフルーツ・チャンの初のハリウッド映画という異色ぶりから、誘惑を振り切ることが僕にはできなかった(笑)。さて、その結果やいかに?

ないよう

 古びた洋館の大広間を、一人の女がゆっくり歩いてくる。その女の影が壁に長〜く伸びて…いや? 何だあれは? それはモノクロ映画の撮影風景。女優リラ(レイチェル・マーフィー)が歩いてくる場面を撮影していたところだったが、カメラのファインダーを覗いていた監督オルト(イーライ・ロス)はいきなりカットをかけて、リラの影と見えたモノが実はもう一人の女ではないかと騒ぎ出す。しかしその場には「別の女」などはいない。それを聞いてオルト監督は、とたんに冷静さを失ってしまう。慌てて撮影所の外に飛び出すと、暗闇の向こうから怪しい女の姿が現れるではないか。この世のものとは思えぬ光景に、オルトは完全に上記を逸して…恐怖で錯乱したあげく、ふと我に返ったのは現代に生きるアメリカ人男性マーカス(レシャード・ストリック)だ。ここはイマドキのハリウッド。マーカスはホラー映画制作をめざす映画監督だ。近々念願の新作に入れるとあって、浅からぬ仲のクレア(アリッサ・サザーランド)に報告にやってきた。一緒にロケ地に行って力になりたいと言ってくれるクレア。しかし、それは無理な相談だ。彼女は病に伏せており、今もおそらくは抗ガン剤の影響だろうか、髪の毛が全くないような状態だ。そしてそんなマーカスの訪問を、クレアの弟は快く思っていないようだ。そんなこんなで、マーカスは早々に退散することになる。マーカスの新作はまたしてもホラー。ドラキュラでお馴染みトランシルヴァニアでの撮影だ。それはこの映画の舞台が実際にトランシルヴァニアであるだけでなく、こちらでは製作費も安く済むという実際上の理由もあった。そんなこんなで、プロデューサーのペトリ(ヘンリー・トーマス)、現地で雇ったプロダクション・マネジャーのグリゴール(ロテール・ブリュトー)とクルマで現地へと乗り込むマーカス。まずは宿屋にでも行けばよかったものを、すぐにでも撮影現場を見たい…などと勢い込んで乗り込んだのが、古びた映画撮影スタジオだった。誰もいないし暗いから行ってもしょうがない…と、さんざボヤくグリゴールを横目に、意欲満々でやって来るマーカス。しかし、何となく早くもこのスタジオの妙な空気に幻惑された様子。何者かが潜んでいるような気配がするし、変な臭いや物音がする。たちまちマーカスはまたしてもおかしな発作や幻覚に囚われる始末だ。実はマーカス、霊を見たり感じたりして突然発作を起こすのが困りもの。しかしペトリはそんなマーカスのウィークポイントこそホラー映画にうってつけ…と今回の企画を決めた経緯がある。今回の映画は、実はかつてこの地のこのスタジオで撮影された、未完の恐怖映画の「リメイク」だ。その映画の監督がオルトだった。しかし映画は途中で不幸な事件が相次ぎ、完成には至らなかった。それより何より、スタッフは全滅してしまったというのだが…マーカスは現地主義こそリアリズムとばかり、このスタジオでの撮影を決めたのだった。その映画の物語とは、現地で昔から伝えられてきた伝説が元ネタだ。かつてこの地に一人の女がいた。貧しい境遇に生まれた女は、有力者の妻となるために悪魔と取り引きをした。それは彼女に生まれた最初の娘を、悪魔に捧げるというもの。その娘こそ、それから悲惨な運命を辿ることになるマーティア(ゼルダ・ウィリアムズ)であった…。さて、そんなこんなで迎えた撮影初日、現地調達とアメリカから連れてきた連中との混成スタッフは、ハッキリ言ってギャラの安さ重視で集めたような面々。それでも何とか撮影は進んでいた。現地オーディションで起用した主演女優ロミー(カルメン・チャプリン)は、不思議な魅力でマーカスを魅了する。そんなこんなで撮影は進むが、なぜかファインダーを覗いていた撮影担当者が不気味なモノを見てビックリ仰天したりして、奇妙なことがちょくちょく起こり始める。おまけに撮影中に突然電源が飛んで、修理しようとしたスタッフが事故で負傷するという騒ぎになる。しかしそれは、この映画撮影にまつわる忌まわしい出来事の始まりに過ぎなかった…。

みたあと

 まず最初にお断りしておくと、僕は現在に至るまでオリジナルの「女優霊」を見ていない。今回の2本立ては見る絶好のチャンスだったのだが、時間の都合でこのリメイク版しか見ることができなかった。したがって、皮肉なことに今回リメイク版から見ることになったわけだ。で、まずは手っ取り早く言っちゃうと、この作品は「女優霊」なんかじゃない。いや…オリジナルとは別物の作品として見たほうがいい…なんて、そんな高級なこと(笑)を言いたいわけじゃない。映画のストーリーとして、まったく「女優」の「霊」についての映画なんかじゃないのである。まず、これで映画の興味は激減と言ってイイ。僕は中田秀夫のオリジナルは見ていないが、たぶんこういう映画ではないだろう。おそらく映画女優の業なり想いなりがお話の核としてあるんだろうし、映画の「魔」とでもいうものが描かれているのではないか? 何より、ちゃんと「女優」の「霊」についてのお話になっているのだろう。しかし今回の作品は、トランシルヴァニアの伝説が元になっていて、その悲劇の女の霊が災いをもたらすことになっている。「映画」はたまたまその伝説を映画化しようとした…という関連でしか出てこない。だから、霊が撮影所に現れる必然性もないのだ。これって全然違うだろ。

こうすれば

 そもそも霊がどうの…というお話とは別に、悪魔の子がどうしたこうしたという「霊」とは関係のないネタが出てくるのが大違い。哀れな女の霊の話なのか、悪魔が現代に生き残ろうとしている話なのか、焦点がボケまくってるのもマズイ。あっちの人には「幽霊」って概念が希薄で、「悪魔」とか持ってこないとピンと来ないのか? そんなこんなで「映画」も「女優」も「霊」も、必然性もなければ焦点もボケボケで、お話はどこがメインなのか絞りきれてない。おまけに主役の映画監督が何で変に霊感があるのか分からないし、冒頭に出てくる女との意味ありげなやりとりも分からない。かつて恐怖映画撮影が何らかの理由で頓挫したらしいが、その理由も説明されない。だからなおさら、何が何だか分からないのだ。大した意味もなくいわくありげなスタジオにノコノコ出掛けて、かけられなくてもいい呪いをかけられたアホとしか思えない。この撮影に関わって巻き添えをくった人はイイ迷惑としか思えない。主人公の監督を演じたレシャード・ストリックという俳優も、いつも口を半開きにしてアホづらなのでイライラさせられる。ダメダメな脚本にダメダメな役者でどうにもならない。何だかんだ言ってここまでヒドイものには、なかなかお目にかかれない。だが…残念なことに一番ダメなのは演出だ。映画は終始B級C級の安物ホラー然とした語り口で、肝心の女の幽霊らしきモノが出てくるくだりも恐くないどころか安っぽく見えてしまう。これって本当にフルーツ・チャンが演出したんだろうか? フルーツ・チャンという映画作家がどんな作風なのかを語れるほど僕は彼の作品を知らないが、少なくともこういうモノではないだろう。そもそもこんな題材を撮りたがっていたとは思えないのだ。どうしてこんなことになっちゃったんだろう? この映画には、何となく悲劇を感じる。なぜフルーツ・チャンのような、それなりに名もある映画作家がわざわざハリウッドまで出掛けて行き、その結果このような悲惨な結果になってしまったのか? その事の方がよっぽど悲劇だしホラーではないか。この映画がこうなっちゃった経緯には、マジで人ひとりぐらい死んでいてもおかしくないくらいな感じがある。本当に何が起こったのか知りたいよ。

みどころ

 唯一見ていて「おっ?」と思ったのは、プロデューサー役に「E.T.」(1982)の名子役ヘンリー・トーマスが出てきたことか。しかし何となく貧相でイイ歳こいた大人の役者になっていて、これはこれでガッカリさせられたが。これもまたひとつの呪いか。

さいごのひとこと

 このフルーツ、もう腐っちゃったのかな。

 

「しあわせの雨傘」

 Potiche

Date:2011 / 01 / 24

みるまえ

 いつの間にか、どういうわけかフランス映画の中でも妙に名声がメジャー化してしまったフランソワ・オゾン。映画ファンが「あぁ、あのオゾンね」「そう、そのオゾン」…的なやりとりをするほどビッグ・ネームだったとは、僕はツユとも知らなんだ。しかも、みんなオゾンのことを生まれた時から知ってるみたいな態度。しかし1999年にユーロスペースでオゾン作品が初めて日本お目見えして、その連続上映の中から「ホームドラマ」(1998)を見た時には、別にそんな華々しい扱いじゃなかった。客だってそんなにメチャクチャ来てたわけじゃない。不思議だよねぇ、いつの間になったんだ「あのオゾン」に? それはたぶん、シャーロット・ランプリングが印象的だった「まぼろし」(2001)あたりから…って気もするけど、すでにその時には「みんなもちろん知ってるよね? あのオゾン」的な言われ方もしていたような気もする。そんなわけで最近の「当たるオゾン」の作品を見るようになって、それなりに感心もするし気に入ったりもするものの、どこかこの人の有り様に「いかがわしさ」というか「インチキ臭さ」も感じていた僕だった。で、実際のところ近年この人は作家的にも煮詰まりつつあった雰囲気があって、「スイミング・プール」(2003)なども面白いが少々危機感漂う内容だったような気がする。自ら作品内で、自分が作家的に煮詰まっているということを訴えているような感じなのだ。そんなこんなで今回の新作、カトリーヌ・ドヌーブを筆頭に大スターがズラリと並び、オゾンの映画界における権力を前面に押し出したような見え方をしているが、チラシの写真に何と赤いジャージ(!)姿のオバハン然としたドヌーブが出てきているように、どこか軽いタッチのコメディのようだ。ここのところのオゾン作品は重苦しいものばかりだったが、ここへ来て何らかの新機軸が見られるのか? 単純にジャージ姿のドヌーブに興味を惹かれたこともあって、僕は劇場に駆けつけた次第。

ないよう

 1977年、爽やかな朝日の中を、颯爽と…ではなくエッチラオッチラではあるが、一人の赤いジャージを着たオバハンがジョギングしている。そのオバハン、スザンヌ(カトリーヌ・ドヌーブ)は、周囲を見渡し何かを見つけると、すぐにメモに書き留めて詩にするお茶目な主婦。そんな彼女は家に戻ると、早速、夫の出勤のために朝食の用意だ。スザンヌの夫ロベール(ファブリス・ルキーニ)は雨傘メーカーの社長。実は創業者の娘であるスザンヌと結婚することで、社長の座を射止めた男だ。そんなロベールは、女中に休暇をやって自分が家事をしているスザンヌに小言。「家事も何もしなくていい」と言い放つ。これにはちょっとばかりビミョーな表情のスザンヌだが、元より大人しいスザンヌには反論などない。しばらくすると、嫁に行った長女のジョエル(ジュディット・ゴドレーシュ)が家にやって来る。彼女は近々離婚を考えていて、父の会社で何か仕事をくれ…と頼み込むつもりだった。娘の離婚話に軽いショックを受けるスザンヌだったが、ジョエルは「母さんみたいになりたくない」とさらにショックな言葉を投げつけ、何もさせてもらえず言いなりのスザンヌを「飾り壺」のようだとオチョクる。そんなスザンヌには、もう一人子供がいる。その長男ローラン(ジェレミー・レニエ)は芸術家肌で、父の事業を受け継ごうという気はサラサラなかった。さてそんなある日のこと、ロベールの雨傘メーカーは労使交渉に揺れていた。しかし組合の要求を一顧だにしないロベールは、社長室に監禁。社長秘書のナデージュ(カリン・ヴィアール)はロベールの愛人でもあったが、慌ててその報を知らせにスザンヌの屋敷へとやって来た。持病を持つロベールには毎日定期的にクスリをやらねばならない。長い時間の監禁には耐えられそうもない。さて、どうすればいい? すると、意外にも大人しいスザンヌが立ち上がった。市長で共産党員のモリス・ババン(ジェラール・ドパルデュー)に仲介の労をとってもらおうというのだ。共産党員など最もロベールと折り合いが悪い相手だが、スザンヌはそんなこと構っちゃいない。しかも、彼女にはそうするだけの裏付けもあった。ババンの家に夜分押し掛けるスザンヌ。するとババンも彼女を快く受け入れるではないか。実はババンとスザンヌには、若き日に一度だけ愛を交わした記憶があった。そしてババンも、その時のことを忘れたことはなかった。こうして陰ながらババンが組合との仲介に立つことになり、何とかロベールも「釈放」された。しかしまだ労使の対立を解決させるという仕事が残っており、予断を許さない状況は続いていた。おまけに戻ってきたロベールは、心臓発作でドクター・ストップがかかった状態だ。そこでババンのアドバイスにより、創業者の娘であるスザンヌが「社長代理」として交渉のテーブルに就くことになった。最初は「飾り壺」のスザンヌに何も出来ないと、娘のジョエルにまで思われていたが、フレンドリーな姿勢で組合側の要求を呑んで交渉は妥結。さらにその後の会社経営も、ローランやジョエルの力を借りて危なげなく軌道に乗せた。それどころか、以前より以上に会社は活気を見せ始めていたのだ。意外な才能を開花させ、イキイキし始めるスザンヌ。まさに順風満帆。しかしそんな彼らの元に、病気静養を終えたロベールが帰ってくる…。

みたあと

 先にも語ったように、 「スイミング・プール」、「ぼくを葬る」(2005)、「エンジェル」(2007)…と、創作者としての自分と向き合う作品を連発。あるいは創作者としての「限界」を感じさせる作品をつくって、何となく今後への不安感を醸し出させていたフランソワ・オゾンだが、何と今回は軽いコメディを手掛けたから驚いた。しかもカトリーヌ・ドヌーブをはじめとするオールスター・キャスト。もっとも、以前にミュージカル・コメディ「8人の女たち」(2002)もキラ星のごとくオールスター・キャストを配していたから、オゾンの中では「コメディはオールスターで」…と分かりやすい構図が出来上がっているのかもしれない。こうして始まった映画は、例のジャージ姿のドヌーブがジョギングしている場面から始まる。彼女が森の中に入っていくと、小動物たちがやって来る。それらを見ながらウットリするヒロインの前で、小動物が交尾…というお笑いも含めて、何となく浮世離れしたおとぎ話感とヒロインのオトメチックさ加減には、ディズニーが自らをパロディ化した快作「魔法にかけられて」(2007)での一場面…アニメ世界から抜け出したヒロインが、都会の小動物たち(中にはゴキブリまでいる!)と繰り広げる「白雪姫」風ミュージカル・シーンを彷彿とさせるではないか。いやいや、これはなかなか楽しい映画になるんじゃないか?

みどころ

 実はすぐにドヌーブがオトメチックな調子で台所で歌い踊る場面が登場し、この映画はますますミュージカル・コメディ的な趣向を強くする。実際に劇中で彼女が歌ったり踊ったりする場面は全部で3つほどあり、いずれもなかなか楽しい出来栄え。これには驚いた。この年令で貫禄十分、立派過ぎるほど「大女優」化したカトリーヌ・ドヌーブに、こんなに楽しく歌って踊れるセンスがあったとは。しかも彼女のキャラクターが、いくつになってもお嬢さんめいていて浮世離れしてそうな可愛らしいキャラ(実際にはそうばかりでもないと徐々に分かってくるのだが)…。これが見ていて実に楽しいのである。さらにここにジェラール・ドパルデューまで加わって、楽しさは2倍。かつてフランソワ・トリュフォーの「終電車」(1980)で見せたドヌーブ&ドパルデューのコンビネーションは忘れられないし、実は日本ではその後「夜のめぐり逢い」(1988)ぐらいしか公開されなかったが、ドヌーブとドパルデューといえば本国では何本も共演作がつくられた「名コンビ」でもあるらしい。だからこの二人の「再会」というのはなかなかに感動的。しかも二人でディスコで踊りまくるというお楽しみ。ドパルデューの近作「ディスコ」(2008)を引き合いに出すまでもなく、あのドパルデューのジャンボ・サイズのカラダが踊っているのを見るのは楽しい。見ている我々の顔がほころぶ、至福の時を体験させてくれるのだ。本当の映画の狙いがフェミニズム的なところにある…ということはすぐに分かるのだが、何しろお話が面白いしドヌーブが楽しいし…で、そんなつまらないことは気にせずスイスイ見ていられる。豪華キャストのやりとりも楽しめるので、そんなメッセージがまったくジャマにならないのだ。正直言って僕はフェミニズムなんて正面から言われたらウンザリなタチだが、この映画の…少なくとも前半部分には完全に楽しまされた。逆に、フェミニズムみたいに生硬な印象を与えがちな「メッセージ」をどうしても映画で発信したいなら、このくらい面白くやらないとダメという見本だとも言える。さすがにフランソワ・オゾン、実に達者でうまいのである。

こうすれば

 というわけで楽しませてもらって笑わせてもらって、すっかり楽しい気分にさせてもらったこの作品だが…残念ながら完ぺきでサイコーとは…ちょっと言い難い。というのは、途中から何となく不協和音が聞こえて来てしまうからだ。その最初の兆しが、物語中盤あたりでの車中でのドヌーブとドパルデューのやりとり。彼女の息子が、実は自分との子供ではなかったか…と真摯に問いつめるドパルデューに対して、ドヌーブは実は他にもいろいろな男と寝て誰の子供か分からない…と言い出す。その言っている内容はともかく、まるでドパルデューをバカにしているか相手にしていないかのような態度を見せるから困ってしまう。これがドパルデューを怒らせて、結果的に彼女の敵に回ってしまう原因になってしまうのだが…この彼女の対応の雑さは、それまでのこのキャラクターから見ておかしくないか? 「のんびり奥さんに見えて女はこれだけ強くしたたかなんだよ」とか言いたいのか、あるいはここでオトコ側の唯一の味方ドパルデューをも敵に回して、「男対女」の構図をさらに強化したかったのか。いずれにせよ、そういう「メッセージ性」を前面に出したいがために、キャラクターやドラマの自然さ、映画自体の面白さを犠牲にしちゃったんじゃないだろうか。誤解されると困るのでここでハッキリと言っておくと、ドヌーブがかつての派手な男性遍歴を披露していることが問題なのではない。そもそもあんな実もフタもない人をキズつけるようなバカにした言い方では、誰だって怒って敵に回るだろう。それをもって、「ほら!男はどいつもこいつもバカでクソでオンナの敵なんだよ!」…という話にしちゃうのはいかがなものか。実は、後になるともっと気になる点が出てくる。長女ジュディット・ゴドレーシュの裏切りにあったドヌーブが、彼女から妊娠している事実を聞かされるくだり。何とドヌーブは「子供なんて簡単に堕ろせるクスリがあるでしょ?」と言い放つのだ。これにはさすがに見ていて冷水浴びせられたような気がしたよ。もちろん、僕だって女性に中絶の自由があることは知っている。それにアメリカのティー・パーティーとかタカ派女のサラ・ペイリンとかキリスト教原理主義者たちみたいに「中絶絶対反対!」なんて青筋立てて抗議する連中も大嫌いだ。しかしそれまでのドヌーブの愛すべきキャラと、「簡単」に「堕ろせる」ってセリフがどうにも結びつかない。あまりにデリカシーのない言葉ではないか。これにはさすがにちょっと抵抗がある。そして、映画のオシマイで最終的にドヌーブが議員にまでなって、ドパルデューを打ち負かしても、一度キズつけた相手をもう一度踏みにじってるみたいで爽快感がまったくない。オンナにとっては爽快なのかもしれないけど、そういうオンナとは関わり持ちたくないです(笑)。五十歩譲っても、ドヌーブの政界出馬は「蛇足」「悪ノリ」でしかないような気がする。というか、あからさまな権力志向にちょっとゲッソリしてしまった。そんなこんなで、前半のいい気分が後半かなりブチ壊し。結局フランソワ・オゾンは「男どもは全部クソ」「女性に理解あるのはオレだけ」みたいなことを言いたいのかもしれない。劇中で、男の中ではたった一人最後までヒロインの味方である長男ローラン(ジェレミー・レニエ)が、何となくゲイっぽくてしかも「芸術家風」であるのは、あまりにもミエミエな符合だ。またしてもオゾンの悪いクセ、自分一人が火の見櫓に登って、自分だけ無傷な状態でシモジモの人間たちを見下す…という十八番が出ちゃったのか。しかし、得てして「女性の味方」ヅラする男に限って、実は女の敵ってことはよくある話だ。そもそも「ガキなんざクスリで“簡単”に堕ろしちまえ」…なんて安易な暴言は、生身のオンナは絶対に言うまい。所詮は机上の空論しか吐けない、どこまでいっても「男」のオゾンが頭の中だけでこさえたお話ということなんだろう。しかも今回もオリジナルなお話ではなく舞台劇からの脚色モノということで、相変わらずのネタ不足、アイディア枯渇状態は変わっていないようだ。せっかくドヌーブが新生面と言ってもいい快演を見せて、前半などは素晴らしい楽しさを味あわせてくれるのに、エンディングのドヌーブの歌だって楽しくて仕方ないのに…どうしてこんな結果になってしまったのか。自分は女性の理解者でフェミニストだとそんなに女にゴマをすりたいのなら、テレビ番組にでも出てデカイ声張り上げればいいじゃないか。映画でこんな事をするのはやめてくれ。ベルナルド・ベルトルッチ作品「1900年」(1976)のエンディングで「赤旗まつり」を見た時だって、これほど意気消沈はしなかった。正直言って本当に心底ガッカリしたよ。

さいごのひとこと

 オゾン層破壊は深刻。

 

「デッドクリフ」

 Vertige (High Lane)

Date:2011 / 01 / 17

みるまえ

 昨年どこかの映画館でチラシを見つけたのが、この映画を知ったキッカケ。タイトルが何しろ「レッドクリフ」(2008)モロパクりという物欲しげなものだから、およそマトモな映画じゃないと思った。なのにイラストは切り立った崖を必死に上っている登場人物と血のり…という、全然「レッドクリフ」とは関係なさそうなもの。…というか、これは山岳サスペンス映画ではないか。しかも単なる山岳サスペンス映画というなら冬山を筆頭に今までゴマンとあったが、そこに「血のり」となるとこりゃホラー映画か? 実はこの時点で、僕は120パーセントこの映画を見ようと思っていた。上映館は、速攻ビデオレンタルに行きそうな映画ばかり上映する銀座の某映画館。それでもあそこでは、思わぬ拾いモノに出くわしたことも多い。山を登って行ったら怪物か殺人鬼でもいるのか? いやぁ、もう知りたくてたまらない。そもそも僕は砂漠とか氷や雪が好き…と公言しているように、いわゆる「辺境」映画が大好きな人間だ。もちろん難攻不落の山岳もその範疇であることは間違いない。さらにさらに、監督も出演者も知らない名前…というのはこの手の映画にありがちなことだが、何とこの映画はフランス映画だというではないか。フランスでこんな山岳サスペンス…あるいはホラーっていうのはかなり珍しい。そもそも最近、フランスの娯楽映画といえばリュック・ベッソン映画しか入って来ないではないか。例えクズ映画だろうと何だろうと、これは何としても見なければ。というわけで、僕はまだオトソ気分も抜けないうちに、銀座の某映画館へと駆け込んだ。

ないよう

 自然あふれるクロアチアの山中を、一台のクルマが走っていく。乗っているのは5人の男女。ギョロ目女のクロエ(ファニー・ヴァレット)は彼氏ルイック(ジョアン・リベロー)を連れての参加。そしてスキンヘッドのギヨーム(ラファエル・レントレット)はクロエの元カレというビミョーな立ち位置。さらに山岳経験豊かなフレッド(ニコラス・ジロー)とその恋人カリーヌ(モード・ワイラー)という顔ぶれで、登山旅行へとやって来た。彼らはルイックを除いて高校時代の同級生。だからカーステで懐かしい「オールライト」なんてヒット曲がかかると、いつの間にか一緒に口ずさんでしまうような仲。しかし、今日は何となくピリピリしたものがあった。クルマが「目的地」に到着するや、カリーヌはクロエに詫びる。「ごめんなさい。でも、ギヨームを断れなくて」…どうやらギヨームは、強引に今回のイベントに割り込んで来たらしい。当然、現・彼氏のルイックは面白い訳がない。もうひとつルイックが不安に感じているのは、今回が初めての登山だということ。徹頭徹尾インドア派のルイックとしては、何ともイヤ〜な予感がしていたのだ。そんなどんより気分を反映するように、出発前の記念撮影ではクロエを巡って場所取りに余念がないルイックとギヨーム。これでは先が思いやられるばかりだ。ともかく登山口へとやって来る一同。すると…行く手が岩崩れで阻まれ、立て札も赤ペンキで塗りつぶされているではないか。明らかにこの先は通行禁止だ。しかしフレッドは明るく「ここから岩壁を登れば全然問題ない」と断言。自らサッサと登り始めるではないか。これには最初からルイックが青ざめる。しかし見るからにマッチョなギヨームが「オレは行くぜ」とニヤついているのを見れば、ルイックとて登山に賛同しないわけにはいかなかった。こうして「よせばいいのに」道なき道を行く登山が始まる。しかしこの登山コースは、予想以上にキツかった。こうなると徐々に言葉少なになっていくルイック。いや、ルイックばかりでなく、結構みんなヘバっていく。それでも切り立った断崖に架かる欧州一の吊り橋にやって来た一同は、その絶景に感激する。先頭に立ったフレッドとその次のギヨームは、大歓声を上げながら橋を渡り終えた。ところが次にやって来たルイックは、たちまち足がすくみ出す。そんなこんなで、吊り橋の途中で立ち往生だ。それを後ろからやって来たクロエの励ましやらみんなの励ましで、何とかかんとか泣きそうになりながら橋を渡りきる。そして最後のカリーヌも橋を渡り始めたその時…橋を支えているワイヤーが、今にもはずれそうになっているではないか! 慌てて橋を渡りきるクロエ。カリーヌも何とか渡ろうとしている最中、ワイヤーのうち1本がはずれて吊り橋が落っこちるという危機に見舞われる。まだザイルでワイヤー1本とつながっていたからいいものの、それでも宙ぶらりんとなって大パニックのカリーヌ。何とかそんな彼女を助けて全員渡りきることができたが、これで元来た道を戻ることはできなくなった。こうなると真っ青になっていたルイックが俄然息を吹き返して、フレッドに向かって絡むからむ。「オマエのおかげでこんな事になっちまったんだろ。どうしてくれる!」…今さらそんな事言っても始まらない。もうここまで来た以上、先に進むより下山の道はない。そんなわけで、一同はまたまた岩壁にへばり付いて道なき道を進む。またまた顔面真っ青のルイック。それでも岩壁に張ってあるワイヤーを頼りに何とか進めたが、ある地点でそのワイヤーも途切れてしまうではないか。岩壁の途中で立ち往生となったルイックは、早速泣きが入ってガタガタブルブル。このままではマズイとフレッドはカリーヌを連れて崖を登り始め、その頂上からロープを垂らして他の連中を引っ張り上げようとする。こうして慌てに慌てて崖の上に到達したフレッドは、そこで初めてカリーヌに真実を打ち明けた。「オレ、立入禁止になっているって知ってたんだ。でも、きっと大丈夫だと思ったんだが」…そんなことを言ったか言わないうちに…フレッドの足が何かに挟まれた! ワナだ! どうやら密猟者がいるらしく、ゴツイ仕掛けのワナが草むらに仕掛けてあった。それは今、フレッドの足首にグイグイと食い込んでいるのだ。さすがに痛さに叫び声を上げるフレッド。カリーヌと二人で何とか足首からワナをはずそうとするものの、二人で引っ張ってもビクともしない。このままではどうにもならない…。そう悟ったフレッドは、ともかく他の連中をロープで引き揚げるようにカリーヌに言って、自分はこの場に留まっていることにした。後ろ髪引かれる思いでその場を離れ、崖っぷちからロープを垂らすカリーヌ。ところがこっちはこっちで、例のルイックが慌てふためいてギャーギャー騒ぐものだから、ギヨームが彼を助けて一緒にザイルにブラ下がるハメになったり…もうてんやわんや。何とかそんなルイック、ギヨーム、クロエをカリーヌが崖の上に引っ張り上げ、慌てて例のワナの所まで戻ってきてみると…なぜかフレッドがその場から消えているではないか! 二人がかりでもハズれなかったワナがはずされており、現場には血痕が残されているが、肝心のフレッドがどこにもいないのだ。一体フレッドはどこに、そして誰に連れ去られたのか? そして、ワナを仕掛けたのはどうやら密猟者の仕業のようにも見えるが、この密猟者は「何」を密猟しているのだろうか?

みたあと

 新春早々こんなバッタもん臭い映画を見る奴なんているのか…と思っていたら、銀座の某映画館は結構混んでいるから驚いた。やっぱりこういう映画特有の「臭い」に惹かれて集まってくる奴はいるもんだ。そんなわけで、意外に混雑する映画館のなかで見ることになったこの作品は…始まるや否や、何となくイヤ〜な感じを見ている者に抱かせる。出てくるのが高校時代のお仲間を中心にした5人の男女なのだが、そこに現カレ元カレを挟んだビミョーな人間関係が絡んだりして、山岳のコワさやらホラー的な怖さが始まる前から、何ともイヤ〜な雰囲気を醸し出しているのだ。そうか…この映画は山岳を舞台にしてはいるが、基本的にはあの洞窟を舞台にしたイヤ〜な映画、洞窟のスリルだけでなく仲間内のギスギス感で怖さを醸し出していた「ディセント」(2005)を土台にしているに違いない!

みどころ

 スタローンが大活躍の「クリフハンガー」(1993)、フレッド・ジンネマン監督の遺作で、ショーン・コネリーらがしっとりした大人のドラマを見せる「氷壁の女」(1982)、イーストウッドの冒険アクション「アイガー・サンクション」(1975)…と、僕は山岳映画はどれも大好き。 このサイトでも「バーティカル・リミット」(2000)を紹介しているが、これらの作品は大概雪山を舞台に展開している。その点、この「デッドクリフ」は雪も氷もない普通の山を舞台にしているのだが、その分、純粋に高さの怖さがバッチリ出ているのだ。冒頭から険悪な人間関係も絡めて、実際に山で撮影しているため登山の怖さが爆発。特に一人だけ登山に慣れていない男を混ぜているので、ますますコワイのだ。それらは前半20分ぐらいまで続くが、突然登山に詳しいリーダー格の男がワナにかかるあたりから、いよいよホラーっぽい展開となっていく。山の中で一人また一人と襲われていくくだりからは、主人公たちを襲う「モノ」の正体からも「クライモリ」(2003)の影響が強いようだ。いや〜、なかなか楽しませてくれるじゃないか。フランス映画でこういう趣向の作品は珍しいから、すっかり嬉しくなってしまった。監督のアベル・フェリーという人はこれが長編デビュー作で、テレビの人形劇やらCFのディレクターをやっていて、今回は山岳経験を買われての起用だとか。確かに本当に山で危険を冒して撮影しているのだから、山岳経験は必要だったろう。そして脚本のジョアン・ベルナールとルイ=ポール・ドゥサンジェという人は、日本ではレンタルビデオでだけリリースされた「フェーズ7」(2008)という作品でも脚本を担当している。この映画、英語題名を「ミュータンツ」というのだから、大体どんな作品か想像がつく。フランスでは珍しく、SFホラー畑の作品を手掛ける人たちなのだろう。スーパーグラスというグループの「Alright」なる懐かしのイギリスの脳天気ポップス曲の使い方もなかなかシャレているし、なかなか「楽しませてくれる」のである。

こうすれば

 しかしながら…僕がこの手の作品に弱いということとフランス映画ではこういうジャンルの作品が珍しいということ、さらに見る前の期待値がかなり低かったということから、この映画への評価はかなり甘くなったとはいえ、やっぱりちょっと難点がないわけではない。最大の問題は、この映画ってあまりに「どこかで見た」ような趣向が多すぎるってことじゃないだろうか? そもそも仲間内でのバカンスで人間関係がギクシャクという設定、リーダー格が無謀にも本来行っちゃいけない所に行った結果の墓穴…というくだりは、前述したように「ディセント」のパクり。あっちが地底だからこっちは高い山…ってあまりに分かりやすい発想だ。山の中の鬱蒼と樹木が生えている中で襲われる…という趣向も、前述のように「クライモリ」からのイタダキ。もちろん面白い映画をつくる上でパクりは全然問題なしだが、あまりに「まんま」くさいのはいかがなものだろうか? そしてさらに問題なのは、ここで襲われる連中の魅力のなさ。これも凡百のアメリカの連続殺戮ホラーなどはみんなそうなのかもしれないが、出てくる奴出てくる奴、どいつもこいつもイヤな奴か殺されても仕方ない自業自得な奴ばかり。一瞬こいつはいい奴か…見えてくることもあるギヨームも、元はといえば別れた女を取り戻すために割り込んで来た奴。おまけに最後、どう考えても弁護しにくい展開となる。唯一そういう罪がないのはヒロインのクロエということになるのだが、そもそもこいつの取り合いから人間関係は悪化したわけだし、やけに胸元を開けたユルユルTシャツを着てくる無神経さも気になる。おまけに演じるファニー・ヴァレットなるギョロ目の女優にほとんど魅力がないこともあって、あまり応援する気になれないという残念な結果となった。そしてそして…もっとも問題なのは、物語の中盤以降から映画の性質が変わっちゃうこと。山岳プラス・ホラーがコンセプトであるはずなのに、途中から「クライモリ」化することにより、「山」ならではの高さの恐怖が関係なくなってしまった。夜になって気温が下がったり天気が変わりやすくなったり…という山ならではのヤバさは一応描かれてはいるが、それも通り一辺倒な触れ方でしかない。あんな寒さでは、本当はそれだけでまいってしまうだろう。そんなわけで、中盤以降は山でもどこでもいい話になってしまうのだ。逆に言うと、前半部分はホラーというわけではなく、単純に登山の怖さを描いた映画とも言える。だからこの映画は、純粋に山岳ホラーとは言えない作品になってしまっているのだ。もしこの両者をバッチリ組み合わせた作品がつくれたら、本当に面白かったはずだけに…ちょっと残念なんだよねぇ。

さいごのひとこと

 この山、5合目までは険しかったんだけどねぇ。

 

「人生万歳!」

 Whatever Works

Date:2011 / 01 / 17

みるまえ

 昔はあんなにファンだったのに、すっかりご無沙汰になってしまったウディ・アレン映画。「アニー・ホール」(1977)から病みつきになって以来ずっと作品を追い続けてきたものの、作品がオールスター・キャスト化した「ハンナとその姉妹」(1986)で初めて違和感を感じてからは、徐々に感覚にズレを感じ続けていった。「セレブリティ」(1998)では久々にシビアーなインパクトを受けたものの、正直言ってその前後から見ない作品もポツポツと出始める。要はウディ・アレンは自作で自分が演じているほどダメ男なわけじゃないし、自分だってホントはそう思っちゃいない、おまけに妙にエラくなって敷居が高くなっちゃった…ということが、だんだんハッキリし始めてしまったのだ。何しろウディ・アレンはもはや大家だし巨匠だし、かなりな年令のエラい長老みたいになってしまった。そんな男の言う「ホロ苦い人生」なんて、とてもじゃないが真に受けることはできないのだ。そんな目で改めて見てみると、ウディ・アレンのシラジラしさってひょっとしたら昔からだったかもしれない。あんなに感動した「アニー・ホール」だって、もはや素直な目では見ることができない。そんなこんなで一旦シラけてしまうと、今度は見ない作品のほうが多くなってしまうに至った。ロンドンに拠点を移しての「マッチポイント」(2005)も面白いとは思ったが、やっぱり彼の作品を見続けようという気持ちにはならなかった。で、そんな中で久々にウディ・アレンがニューヨークに帰ってきたというのが、今回の「人生万歳!」の「売り」である。主人公はウディ・アレンではない知らないオッサン(笑)だが、どうやら見るからにウディ・アレン・キャラクターなのは間違いない。ここんとこ続いていたオールスターが影を潜めて、キャスティングはまさに地味そのもの。巷の評判もいい…とあって、やっとこ重い腰を上げるに至った次第。

ないよう

 ニューヨークの下町で暮らすパッとしない初老の男ボリス(ラリー・デビッド)は、そのうだつの上がらない外見に関わらず、かつてはノーベル賞候補にも挙がるほどの男だった。しかし物事何でも「過ぎたるは及ばざるがごとし」。彼には周囲がバカに見えるのかどうなのか、何でも悪い方向からしか見ないし、人と見ればコキ下ろさずにはいられない。かつては妻もいたしいい暮らしもしていたが、真夜中にパニックの発作を起こしたあげく窓から飛び降り自殺を図るに至って、さすがに妻は堪えきれずに逃げ出した。かくしてボリスは毎日子供にチェスを教えて金を巻き上げつつ、それらの子供たちを歯に衣着せぬ物言いでコキ下ろす日々。その毒舌ぶりときたら周囲の仲間たちも時おりドン退きするほどだった。そんなある日、アパートの自室に戻ろうとしたボリスに声をかける若い女が一人。「何か食べさせてくれ」と懇願する彼女メロディ(エヴァン・レイチェル・ウッド)は、南部のど田舎から家出してきた娘だった。案の定機関銃のように毒舌をかますボリスではあったが、幸か不幸かそんな言葉にはめげないメロディ。…というより、少々おっとりさ加減も行き過ぎた観のある彼女は、ボリスの酷評の意味が完全には分かりかねているようだった。そんなこんなでメロディを「ほんの2分」だけ部屋に上げるつもりだったボリスは、結局彼女を泊めることになる。それも一晩のはずが数日、さらに一ヶ月…。そしてついにメロディは、何を思ったかボリスを「愛している」と打ち明けた。これには「うまくいきっこない」と一蹴するボリス。しかし仲間うちにはメロディをさんざコキ下ろしていながら、ボリスも彼女を憎からず思うようになっていたのだ。こうして何たる運命のいたずらか、まったくミスマッチな二人が結婚することになったわけだ。これが意外にうまくいくから世の中分からない。ところがそれから一年経つうちに、予想外の訪問者がやって来る。ガミガミと口うるさいメロディの母マリエッタ(パトリシア・クラークソン)が、夫ジョン(エド・ベグリー・ジュニア)の浮気に耐えかね、南部の家を飛び出してやって来たのだ。当然のことながらマリエッタは、偏屈な初老男ボリスが娘の夫であることに耐えられないし、ボリスもまた南部の保守反動右翼女を地でいくマリエッタが我慢ならない。そんなこんなでボリスとメロディの周辺には、徐々に波風が立ち始めた…。

みたあと

 開巻まもなく画面に向かってアレコレと毒舌やボヤきをまき散らし始める主人公を見ていて、こいつはウディ・アレンのキャラクターそのものじゃないか…と僕は思い始めた。「セレブリティ」のケネス・ブラナー以来、ウディ・アレンはまたしても他人に「自分の役」をやらせているんじゃないのか。ただし、もし彼がこの役を自分でやるとしたら、その貧相さからコッケイ味が勝ってしまったかもしれない。ここは「ノーベル賞候補」にもなった堂々とした押し出しや、本人が勝手に思っている…というだけでなく実際に「天才」であるらしい物腰…が必要だったのだろう。しかしそういう外見上のことを度外視すれば、いかにもユダヤ人らしく屁理屈と悲観主義とコキ下ろしをのべつまくなしベラベラとまくし立てる知的ニューヨーカーとしての振る舞いは、ウディ・アレンその人のキャラを受け継いでいると言っていい。ただ演じるラリー・デビッドがウディ・アレンが言うように、いかに「辛辣なユーモアを演じても観客から嫌われない」役者だとしても、この主人公ボリスはいささか度を超している。今までのウディ・アレン・キャラ以上にズケズケひどいことばかり言ってグチばかりこぼしているのか、それともラリー・デビッドが演じているとそう見えるのか、とにかく見ていて時々ドン退きせずにはいられないほど、その言動はしばしば目に余る。そこに原生林から切り出したばかりの原木みたいな田舎娘がやって来て、こんな主人公に惚れて結婚…とまぁ、このあたりを見ていると、どこまでこんな屁理屈男に都合のイイお話なんだろうと呆れてくる。つまりはこれまた、ウディ・アレンの理想のお話というわけなのかい。調子こいた言葉を吐きまくりでまったく自分に対する反省のない主人公に辟易してきた僕は、見ていてだんだんシラケてきた。ところが途中からこの主人公の妻となった田舎娘に、横恋慕するイケメンの若い男が登場。案の定、彼女の気持ちは若い男に傾くに至っては、これはこれで何となく見ていてスッキリしない。思い上がった主人公を懲らしめるためとはいえ、やっぱり若いモンは若いモン同士がよかろう…ってな結末では、あまりに月並みでわざわざ物語る意味もないではないか。僕は見ていて、ますますシラジラしてきたから困ってしまった。何なんだ今度のウディ・アレン映画は? これのどこが面白いの?

みどころ

 ところがそんな主人公と田舎娘の関係が語られる一方で、彼女を追って田舎から出てきた母親と父親のエピソードが語られる。ところが母親はいかにも南部のガチガチに保守的な女…だったのに、ニューヨークに出てきてからいろいろな意味で開花。ボリスの知り合い二人と同棲するという「性的開花」を遂げるとともに、それまで秘めていた写真の才能まで「開花」させる。しかもその母親を追ってきた父親も、実は自身の同性愛的指向を抑えつけてきた男だった。…てなわけで、みんな当初の自分とは違う自分を再発見。若い妻に去られる主人公はさすがに自らを悲観して再び飛び降り自殺を図るが、そこで巻き添えを食った歩行者の女と不思議な縁で結ばれる…といった具合。ここまで来て、僕はようやくウディ・アレンの意図が分かった。それまでの違和感や不快感は、このすべてが昇華するエンディングのためのものだった。それまで「ダメだこりゃ」と思い始めていた作品が、最後の最後で逆転満塁ホームランでも放ったようにウルトラCでひっくり返っての大団円。この力業の大逆転には、見ている者はみんな驚かされるだろう。人生のカタチはひとつではない、それは必ずしも本人が望んでいたカタチではないかもしれないが、その人にはその人に向いた幸せのカタチがある…という幕切れ。このアッケラカンとした「何でもアリ」のエンディングには、思わず膝を叩きたくなった。

さいごのひとこと

 凡庸な邦題だけはどうにかならなかったのか。

 

「エリックを探して」

 Looking for Eric

Date:2011 / 01 / 10

みるまえ

 イギリスのケン・ローチ監督といえば、シビアな問題を取り上げることの多い「社会派」監督というイメージが強い。確かにその「硬派」な作品群を並べてみると「社会派」と言われても何らおかしくないが、ケン・ローチの映画は何だか頭デッカチで妙に良心的なそういう「社会派」作品とは訳が違う。いかに彼の作品がいわゆる「社会派」映画と違うかということは、「やさしくキスをして」(2004)感想文でもいろいろ書いた通りだ。しかしそうは言っても、ここのところ仕事で忙しくて疲れ切っていた身としては、近年のケン・ローチ作品はいささかシンドイ。それは受け手の問題もあるだろうが、実際にケン・ローチ作品がシビアになっていたということもあるんじゃないだろうか。見てもいない作品をとやかく言うのはフェアじゃないだろうが、「麦の穂をゆらす風」(2006)、「この自由な世界で」(2007)…などなどの近年のケン・ローチ作品は、やっぱり結構キツそうだ。それってケン・ローチがどうのというより、ここんとこ世の中の状態がそれだけ悪くなっているということじゃないだろうか。そんな折りもおり、ケン・ローチの新作がやってきた。それもチラシを読む限りでは、実在のサッカーのスーパースターが突然そこらのダメ男のもとに現れて、いろいろ人生のアドバイスを施す…ってなファンタジック・コメディらしい。ファンタジック・コメディなら世間にゴマンとあるが、それを事もあろうにケン・ローチがつくったとなればタダゴトではない。一体いかなる心境の変化なのか? そしてサッカーとケン・ローチとくれば…シビアな作品が続いた近年のケン・ローチ作品の中で異彩を放つ一作…何とアルマンド・オルミやアッバス・キアロスタミと組んでオムニバス映画に挑んだ異色作「明日へのチケット」(2005)の中の最終編を思い起こさせるではないか。あの作品は、難民問題を取り上げているという点でいかにもケン・ローチ作品でありながら、主人公のサッカー好きの3バカ・アンチャンたちのおかげでスコ〜ンと抜けたコメディになっていた。さすがと思わせる爽快作となっていたのだ。ならば、またまたケン・ローチがサッカーをネタにコメディに挑戦と来れば、これは結構楽しめる作品になっているのではないか? 先にこの映画を見た人からのお勧めの言葉も後押しして、僕は2010年の大晦日に、この映画を上映している劇場へと飛び込んだ次第。

ないよう

 一人の男がトチ狂ってクルマを飛ばしている。さっきからロータリーをグルングルン何度も何度も回ってばかりいるが、その回る方向が逆だから危ないったらない。当然、対向車にぶつかりそうになっててんやわんや。案の定、しまいには事故る始末。運転していたのはショボい初老男のエリック(スティーヴ・エヴェッツ)。担ぎ込まれた病院で「仕事があるから」…と起きあがろうとするが気力がついていかない。そんなこんなで一日休んで、何とか自宅へと帰ってくる。しかし彼の息子たち二人ライアン(ジェラード・キーンズ)とジェス(ステファン・ガンブ)はやりたい放題。実は両方とも再婚した妻の連れ子だが、その後妻にも逃げられてしまったエリック。上の子ライアンはヤバい仲間とツルんでいるらしく、そっちも心配だ。翌日、仕事場に出てくるエリック。彼の仕事は郵便配達だ。しかし、イマイチ調子が出ない。仲間たちも彼を笑わせて元気を出させようとするが、成功する者はいない。エリックは人生に絶望しきっていたのだった。そんな彼のかつての心の支えは大好きなサッカー、中でもスーパースターのエリック・カントナ(本人)は彼にとっての英雄だ。だから彼は、夜中に自室の壁に貼ってあるカントナのポスターに、ついつい言葉をかけてしまう。「あんたには一生後悔するような失敗をした時があるか?」…すると、どこからともなく「君はどうだ?」という声が! 何とその部屋に現れたのは、エリック・カントナその人ではないか! 驚く間もなくエリックに質問を投げかけるカントナ。そんなエリックは、問われるままに彼の最近のウツの原因を語り始めた。そもそもの発端は30年前、ダンスパーティーの夜に会って恋に落ちたリリーとのことに始まる。早速彼女と結婚して、娘のサムも生まれたエリック。しかし彼はなぜか、そのリリーとすぐに別れるハメになってしまう。ところがつい先日、シングルマザーで大学に通う娘サム(ルーシー・ジョー・ハドソン)が、リリーと孫娘を預かってほしい…と頼み込んで来た。会いたいような会いたくないような…待ち合わせの日、その場に現れたリリー(ステファニー・ビショップ)の姿を見て動揺したエリックは、その場を離れてクルマを暴走。そして例の事故を起こすことになったのだ。そんなこんなで凹んでいるエリックに、カントナは叱咤激励。そのおかげで、エリックは何とかリリーと再会することができた。それだけではない。彼女と別れる事になったあの30年前の真相についても、ポツリポツリと打ち明けることができたのだ。こうしてカントナの励ましのおかげもあって、少しずつ生活のリズムが上向いてきたエリックだったが、例の息子ライアンが悪い仲間に引っ張り込まれて…。

みたあと

 見る前から何となく話は知ってはいたが、この映画って早い話が「サタデー・ナイト・フィーバー」(1977)のジョン・トラボルタに夢中になったアンチャンの前にいきなりそのトラボルタその人が現れるというシンガポール映画「フォーエバー・フィーバー」(1998)と同じ発想の映画ではないか。「フォーエバー・フィーバー」の場合にはさすがにトラボルタ本人を出せないので、似ても似つかない偽トラボルタを出してきて、そのバッタモン感覚がまた嬉しかった(笑)。あるいはダメ男ウディ・アレンの前にボギーが現れるという「ボギー!俺も男だ」(1972)を引き合いに出してもいいかもしれない。ともかくそんな設定を、あの「社会派」ケン・ローチがヌケヌケとやってのけているからビックリ。そして、ホンモノのエリック・カントナが初めて登場する場面はどう見せるのか…と注目していたら、何のことはない普通にノソッと出てくるだけで、あまりの飾りっけのなさに二度ビックリ(笑)。そのあたり、口当たりの良い砂糖菓子みたいには描かず、あくまでリアル感を大切にするケン・ローチらしいアプローチだ。会えるはずのない偶像が話しかけてくる…というファンタジー仕立てでも、やっぱりケン・ローチはケン・ローチ。現実との対峙の仕方は変わらない。義理の息子が悪の道に染まりそうな状況なども、キッチリ描き込んで抜かりはないのだ。

みどころ

 そんなこの映画の見どころは…というと、実はエリック・カントナの実際の試合シーンかもしれない。かつての試合の実況ビデオから抜粋した名場面らしいのだが、当然のことながら僕はカントナなんて知らないし、そもそもサッカーには興味がない。ここだけの話…Jリーグが出来る前後からいきなりみんながサッカー通みたいな顔をし始めて、ファンじゃなくて「サポーター」だとか言い始めたり、見よう見まねの応援とかし始めたあたりから、何となく…好きな人には大変申し訳ないんだけど…コッケイだなと思ってしまってサッカーには冷めた気持ちしか抱けない。サッカー好きの知人が無闇やたらに興奮した応援をしてるのを見ると、そんなとこまで海外仕込みでマネなきゃならないのかとシラジラしく感じてしまう。ホントに悪いとは思うんだけど、以前からそう思っちゃうんだよね。だからこの映画のカントナの試合場面を見ても、ホントならまったく何とも感じないはず。しかも、そこはすでにテレビで放映された映像素材を編集しただけ。それなのに…なぜか見ていて妙に高揚感を感じてくるから不思議。これはケン・ローチ・マジックなんだろうか? 見ていて、何か伝説的なモノを目撃しているような気分になってくるのだ。そしてもっと素晴らしいのが、主人公エリックを取り巻く仕事仲間。みんな郵便配達でサッカー好き。で、こいつらが揃いも揃っていい歳してバカなんだけど、何ともイイ奴らばっかりなのだ。「明日へのチケット」の三バカが何倍にも増えたみたい(笑)。大スターのエリック・カントナ御大が「君の友だちは俺のより上だ」と言うセリフもイカしてるが、実際にこの仲間たちが素晴らしいから見ていて嬉しくなってくる。映画の後半、彼らが主人公のために一肌脱いで展開する「カントナ作戦」は、爆笑モノではあるが気分爽快だ。最後に、仲間内のリーダー格が悪漢どもに切るタンカも素晴らしいじゃないか。「オマエらがどこに逃げ隠れしても、オレたちは必ず探し出す。なぜならば…オレたちは郵便配達だからだ!」 誇り高き野郎ども、カッコイイ〜(笑)! 世の中こんなうまい話があるものか…と言ってしまうのは簡単。もちろんケン・ローチだってそんな事は分かっているだろう。しかし世間にこれだけ絶望と冷笑がはびこってしまった今、希望を持とうというメッセージは極めて貴重だ。分かってるねえケン・ローチは。

さいごのひとこと

 今年はいいことありそうだ。

 

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