「カウボーイ&エイリアン」

  Cowboys & Aliens

 (2011/12/19)


  

見る前の予想

 この映画の予告編は、だいぶ前から劇場でかかっていた。

 「カウボーイ&エイリアン」…何だかエイリアンVS.プレデター(2004)みたいなタイトル。どっちにせよ、本来は水と油の西部劇とSFを合体させた「キワモノ」的な内容であることは明らか。先に挙げた「エイリアンVS.プレデター」を思わせる、みんなが好きなものを一緒にした「ハンバーグ・カレー」みたいな子供だまし感が満載。まぁ、本来ならマトモに取り合わない作品ではある。

 しかし予告編やチラシに出てきたスタッフ&キャストの名前たるや…プロデュースにスピルバーグ(って言っても、こいつはあちこちに首を突っ込んでいるんであまり有り難みはないが)とロン・ハワード。監督にはアイアンマン(2008)のジョン・ファブロー。そして主演は、007/カジノ・ロワイヤル(2006)以来、新ジェームズ・ボンドとして俄然注目のダニエル・クレイグインディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国(2008)でインディ役に復帰したばかりのハリソン・フォード。正直言って最近のフォードは出てきてもあまり嬉しくない存在になってしまったが、それでも西部劇に登場と来れば嬉しくなるではないか。実際の西部劇出演はほとんどない(劇場未公開作の西部劇が1本あるだけ)が、この人って何となく西部劇テイストを感じさせる役者だった。一度西部劇でちゃんと見たいものだと思っていたから、本作の参戦は大歓迎だ。

 そんな豪華絢爛な布陣で作るなら、キワモノ的題材もキワモノではなくなるかもしれない。それに、元々は西部劇もSFも、僕の大好きなジャンルではないか。だからこの2つが一緒になるなら、本当に僕にとって「ハンバーグ・カレー」的なご馳走映画になるはず。

 そんなわけで公開されるやいなや、待ちきれずに劇場にすっ飛んで行ったわけだ。感想を書くのがこんなに遅れたのは、単に僕の怠慢のためである。もう何カ月も前に見たのに、まことに申し訳ない…。

 

あらすじ

 カウボーイ(ダニエル・クレイグ)は、真っ昼間の荒野で目が覚めた。

 なぜここにいるのか、なぜケガをしているのか、なぜ馬もいなければ持ち物もないのか…そもそも、自分がどこの誰なのかさえ分からない。おまけに左の手首には、ゴツい金具のような腕輪が固くはまっている。苛ついてこの腕輪を取ろうとしたが、ガッチリはまってビクともしない。

 そこにやって来たのは3人の無法者。当然、丸腰同然のカウボーイに因縁をふっかけてくるが、ふっかけた相手が悪かった。この男とんでもない凄腕で、3人はアッという間にあの世行き。逆にカウボーイはこいつらの服や靴、銃に馬まで奪って、フラフラと近くの町までやって来る。

 町にたどり着くや、つい人の家に侵入したカウボーイは、そこにいた牧師ミーチャム(クランシー・ブラウン)にホールドアップをくらう。しかしカウボーイのただならぬ様子を見てとったミーチャムは、彼のケガの手当をしてやった。

 こうして一息ついたカウボーイは、町のささやかなメインストリートに出てみる。すると、どうやら「お約束」のならず者がやりたい放題やってるようではないか。

 それはクソ生意気な若造のパーシー(ポール・ダノ)。どうやら親父がこの町の「名士」らしく、その権力をカサにきて無茶をやっているらしい。今日も今日とて酒場で飲んだあげく踏み倒し。文句を言った酒場の主人ドク(サム・ロックウェル)を銃で脅かすテイタラクだ。しかし、誰一人止める者とていない。みんなこいつの親父がコワイのだ。怖がっていないのは…何のしがらみもなく、記憶すらない例のカウボーイのみ。

 彼はクソ生意気なパーシーをコケにすると、調子こいてるこのガキを思いきり痛い目に遭わせる。そこにやって来たのが、町の保安官ジョン・タガート(キース・キャラダイン)。

 パーシーは保安官に泣きつこうとしたが、今日ばかりはいつものようにはいかない。

 「もう大目には見れないぞ」

 保安官はまだしも町の中では度胸も良心も持ち合わせていたのか、有無を言わさずパーシーを留置場にブチ込んでしまう。しかし、これは後々面倒なことになりそうだ。

 一方その頃、話変わって町のはずれの牧場での出来事。川のほとりで酒を飲みながら、雇い主のダラーハイド大佐の悪口を言っている使用人たち。このダラーハイド大佐こそ、例のドラ息子パーシーの父親だ。

 ところが使用人の一人が川で小便をしようとしたところ、激しい衝撃とまぶしい光が彼を襲う。川に落ちた彼が岸に上がってみると、他の使用人の姿は消えて、あたりは丸焼けになっているではないか。おまけに牛たちも焼かれて殺されていた。

 戻ってきたダラーハイド大佐(ハリソン・フォード)は、そんな使用人を容赦しない。何者かが襲ってきたなどという戯言には耳も貸さず、使用人を馬で引きずって懲らしめるコワモテぶりだ。

 さて、町にいるカウボーイはというと、これまた西部劇では「お約束」の酒場で一杯やっている。こうした酒場で「よそ者」が好奇の目で見られるのも、これまた「お約束」だ。

 そんなカウボーイに近づく「西部の花」一輪。その名もエラという女(オリビア・ワイルド)が、カウボーイをあれこれ問いつめる。しかし、彼に答えられるわけもない。するとこの女、カウボーイに意味ありげな言葉を告げるではないか。

 「何も覚えていないの? あなたは何かを探しているわ。私もよ」

 この女は何のためにカウボーイに近づいて来たのか? そもそも何か知っているのか?

 実はカウボーイ、確かに記憶をなくしてはいるものの、時々脳裏に何らかの面影がよぎる時もあるのだ。それは一人の美しい女のイメージ。その女とは親しい間柄であったように思われるのだが…。

 そんなカウボーイが飲んでいるところに、先ほどの保安官が、何人かの手勢を連れてやって来る。お目当てはこれまたカウボーイ。何と保安官によると、カウボーイはジェイク・ロネガンというお尋ね者だという。そんなこと知っちゃいないカウボーイ…ジェイクは、保安官と手勢をアッという間に片づけてしまう。そしてサッサとトンヅラ…というところを、先ほどのエラがブン殴ってノックアウト。果たしてこの女は敵か、味方か?

 こうしてジェイクもパーシーと共に留置場に入る。やがて陽が落ちてくるや、二人は大きい町に護送するために馬車に乗せられることになった。馬車に乗せられたジェイクに、またしてもエラが近づく。

 「あなたの力が必要よ」

 一体この女は何を考えているのか。彼をどうしたいと思っているのか。ジェイクが困惑しているその最中に、町に馬に乗った男たちの一団がやって来る。「有力者」ダラーハイド大佐の軍団だ。ダラーハイド大佐は息子の釈放とともに、ジェイクの身柄引き渡しも要求した。実はジェイクはダラーハイド大佐の金を盗んだ罪で追われているらしく、大佐はジェイクを心ゆくまでいたぶりたいと思っていたようなのだ。しかし保安官は首を縦に振らず、一触即発の雰囲気が流れる。

 そんな時…。

 すでにあたりは真っ暗。彼方から何かピカピカ光るモノが、この町目がけて近づいて来るではないか。あれは一体何だ?

 それは、UFOだった!

 当時の人々は、その正体を知るよしもない。しかし今の人々なら、それが地球外の生物の乗り物だと分かるはずだ。UFOは何機も飛んできて、町を未知の武器で攻撃。細長いロープ状のモノを飛ばしてきて、町の人々を一人また一人とさらっていった。もうこうなると、ダラーハイド大佐と保安官の対立どころではない。飛んでくるUFOを撃ち落とそうと、みんなで派手に発砲するがまるで歯が立たない。町はたちまち阿鼻叫喚の渦となり、その混乱の中でドクの妻が、保安官が、そしてパーシーがさらわれた。

 そんな折りもおり、ジェイクの左手にはまった腕輪が突如光り出し、奇妙な反応を見せ始める。何が何やら分からないまま、ジェイクは本能に突き動かされるように、その腕輪のついた左腕を飛んでくるUFOに向けた。

 !!!!!!

 凄まじい閃光と轟音。ジェイクの腕輪からは何やら光線らしきモノが発射され、それは見事にUFOに命中。火を放ったUFOは、町のメインストリートに墜落した。

 意外や意外の展開に、顔を見合わせながらUFOに近づいていくジェイク、ダラーハイド大佐や町の人々。そこにはすでに誰も乗っていないと分かったその時、町の一角で誰かが得体の知れないモノに襲われる悲鳴が聞こえた。どうやらこの墜落UFOに乗っていた「奴」が脱出して、連中の「巣」へと逃げ帰ったらしい。

 この一件は敵にとっても想定外だったらしく、彼らは一気に元来た方角へと去っていった。

 「明日の朝、早速こいつらのねぐらを探すために、自警団を結成して追いかけるぞ!」

 ダラーハイド大佐は奪われた息子を取り戻すため、自警団に志願するメンバーを募った。そして、これ幸いとばかり立ち去ろうとしていたジェイクを捕まえると、高圧的な口調でこう言い渡すのだった。

 「おまえもだ、ジェイク。その腕の武器が必要だからな!

 

西部劇とSFの融合を試みた作品群

 一言で言うと、見る前に抱いた印象そのものの映画だった。

 「ハンバーグ・カレー」。

 そりゃあそうだ。そういうコンセプトの下に作られた作品なのだから、そうにしかなりようがない。まさしく西部劇とSFとを足して2で割って出来たような作品になっているのである。

 しかしこういう発想の作品は、実はこれが最初ではない。実は今までもごくわずかではあったが、何作か細々と作られてはいたのだった。

 そんな西部劇とSFテイストの合体映画として僕がまず思い出す作品が、「恐竜グワンジ」(1969)である。残念ながらいまだ未見だが、前々から見たいと思っている作品。「ダイナメーション」と名付けられた、人形を1コマ撮りで動かすストップモーション・アニメの巨匠、レイ・ハリーハウゼンが手がけた作品だ。20世紀初頭のメキシコが舞台で、なぜか生き残っていた恐竜を見せ物にしようと捕獲するのだが…というお話。おそらく設定としては、「ワイルドバンチ」(1969)などとあまり変わらない時代背景なのではないだろうか。もうかなりフロンティアはなくなってきてはいたが、状況としては「西部劇」だった。純然たる怪獣が登場する現代を舞台としたSF映画や「シンドバッド」など神話・おとぎ話を映画化してきたハリーハウゼンとしては、かなり異彩を放つ一作だ。

 しかし西部劇とSFの合体ということなら、もっと成功した作品が存在する。僕も大好きなその作品は、ベストセラー作家マイケル・クライトンが自ら監督もしたウエストワールド(1973)。ロボットによって「アメリカ西部」「古代ローマ」などを再現するテーマパークで、コンピュータがロボットを制御できなくなったことからパニック発生。それまでお客におとなしく銃殺されていたガンマンのロボットが、お客を殺そうと追いかけてくるようになる…。テクノロジーの暴走によりテーマパークが危機にみまわれるという設定は、その後クライトン自身の「ジュラシック・パーク」に受け継がれたかたちとなり、ユル・ブリンナー演じるガンマン・ロボットの不気味な演技は、その後、アーノルド・シュワルツェネッガー演じるターミネーター(1984)に発展することになるなど、この映画が残した遺産は大きい。もっと大げさに言うと、韓国のクァク・ジェヨンが監督した「僕の彼女はサイボーグ」(2008)の綾瀬はるかやテレビドラマ「Q10」(2010)の前田敦子の演技スタイルも、「ウエストワールド」のユル・ブリンナーのロボット演技に多大な影響を受けている。その後の「ロボット演技」の「ひな形」を作った作品なのである。

 そんな「ウエストワールド」の何より優れたところは、SFとしての発想で古くさい西部劇を再生した点だ。「ウエストワールド」発表当時の1973は、すでにアメリカン・ニューシネマでさえ終焉を迎えていた時代。西部劇もすでにマカロニ・ウエスタンの洗礼を経て、サム・ペキンパーの西部劇への挽歌といえる「ワイルドバンチ」でトドメを刺された後。同じくかつてのアメリカ映画の人気ジャンルであるミュージカルと共に、とっくに廃れた作品群だったのだ。マイケル・クライトンはそんな廃れたジャンルにSFという真新しい衣を着せて再生産。かつての伝統を踏襲しながらも、フレッシュな作品として作り上げた。その発想が何より新しかったのだ。

 さらに時代が下って、同じく西部劇とSFの融合を果たした作品がもうひとつ。それが大ヒットシリーズの第3弾、「バック・トゥ・ザ・フューチャーPART3」(1990)だ。マイケル・J・フォックスの主人公とその叔父クリストファアー・ロイドが、アメリカ開拓時代へと遡ってしまう。主人公が自らをクリント・イーストウッドと名乗るなど、いろいろなお笑いがあったような気もするものの、すでに前作「PART2」でも1作目の面白さを再現することはできず、シリーズの鮮度低下はいかんともし難かった印象がある。発想は面白いんだけどねぇ。

 そんなわけでここまでの3作品について言えば、いずれも西部劇人気が低下した1960年代後半以降に制作されたということから見ても分かる通り、何とか新しい試みを行って西部劇を「復活」させようという意図があったように思われる。2つの異なるジャンルを混ぜて、単純に面白おかしさを増そうという意図は…多少あったかもしれないが、目的の主なモノではなかった。

 どう考えても「ハンバーグ・カレー」としか思えない「奇手」を弄しての2ジャンル融合という荒技は、西部劇という伝統あるジャンルがすでに絶滅してしまったが故の、ヤケッパチな窮余の一策だったのである。

 

見た後での感想

 そんなわけで、新たに制作された「ハンバーグ・カレー」な一作。確かに邪道と言えば邪道。見る前はかなりなゲテモノの予感もあった。しかし実物に接してみると、意外にもオーソドックスな西部劇テイストがかなり強かった。これには驚かされたというのが正直なところだ。

 そもそも…本作の作者たちもまた、「西部劇&SF融合」による「面白さ2倍」のユニークな映画なんか狙っていなかったに違いない。

 かつての西部劇&SF融合の作品群は、前述したように本当は「SFの力を借りて」西部劇の復活を目指したような作品群だった。本作のテイストも、こうした作品の方向性とピタリと符合する。西部劇とSFを混ぜたいのではなくて、あくまで西部劇をつくりたいがためのSF的設定の借用…なのである。

 考えてみると…かつての西部劇&SF融合の作品群が発表された頃は、いまだSFが王道の映画ジャンルとして堂々と確立していなかった。「猿の惑星」(1968)や「2001年宇宙の旅」(1968)などの出現で徐々に「市民権」を得始めてはいたが、SF映画はまだ「子供だまし」と思われるレベルから抜け出せてはいなかったのだ。だからSFの力で西部劇にテコ入れするには、SFの認知度が弱かった。一般の映画ファンなどに訴求するための、「王道」ぶりが足らなかったのだ。それゆえ成功作「ウエストワールド」ですら、どこかまだ「奇想天外」な印象を完全に拭い切れなかったのである。

 しかし「スター・ウォーズ」(1977)の出現によるSFブームの到来以来、ハリウッドではSF映画の制作は当たり前のこととなった。娯楽大作映画や話題作といえば、大抵SF映画だったりするような昨今だ。いわば往年の西部劇のポジションと、完全に逆転してしまったのだ。

 だからこそ「現在」の王道ジャンルが「かつて」の王道ジャンルの復活に手を貸す…というかたちが完璧に成り立つ。そこが、かつての西部劇&SF融合の作品群との違いである。

 それによって、かつてのような「邪道」「奇手」という印象が薄れたのかもしれない。SFによる西部劇復活という構図が、かつてよりもっと危なげのないモノになったと言うべきだろう。SF映画全盛の現代だからこそ、本来の狙い通り、より西部劇らしく見えるようになったのかもしれないのだ。

 なぜか身ひとつで砂漠に放り出された主人公が、やって来たならず者を撃退するイントロは…西部劇の「定石」である。主人公が酒場にやって来ると、トラブルが舞い込んで来るのも「定石」。この映画はそんな西部劇ファンが嬉しくなる定石を、次から次へと繰り出してくれる。確かに西部の町にUFOが飛んでくるなんて奇策も弄してはいるが、基本的にはオーソドックス過ぎるほどに西部劇らしい西部劇になっている。宇宙人やUFOだけが、この映画はSFでもあるのだと思い出させてくれる。

 それはキャスティングからも言える。かつてのこの手の作品の成功例「ウエストワールド」では、ロボットを演じたユル・ブリンナーが「荒野の七人」(1960)に主演した西部劇の「アイコン」だった。それがこの作品を奇をてらったモノでなく、あくまで「王道」西部劇の復権なのだと印象づけたのである。今回もまた主演の一角にハリソン・フォードを起用したあたりに、そうした作者側の意図を感じさせてくれる。

 こう僕がいうと、ハリソン・フォードは西部劇スターじゃないはずだが?…というツッコミが入りそうだ。その通り。確かにハリソン・フォードは西部劇スターではない。しかしこの人の出世作「スター・ウォーズ」では、衣装から見てもいかにも西部劇テイスト満点のヒーロー、ハン・ソロを演じているではないか。西部劇が絶滅した今日において、あれほど西部劇臭の強い役どころはない。ハリソン・フォードは1980年代以降のアメリカ映画において、十分に「西部劇スター」としての役割を果たしてきたのだ。

 しかもそこに加えて、ウォルター・ヒルの西部劇「ロング・ライダーズ」(1980)や西部テイスト濃厚なカントリー&ウエスタン歌手役で「ナッシュビル」(1975)にも出演しているキース・キャラダインが保安官役に起用されているなど、オーソドックスな西部劇っぽさをムンムンに漂わせるアイコンを置いている。だからこそ、本作にはあくまで「邪道」「奇手」といった印象がないのだろう。

 その一方で…これまで考えもしなかったのだが…意外や意外、ダニエル・クレイグが西部劇にピタリとハマっていること! 不敵なツラ構えが、荒野に置いてもピタッとキマってる。このニュー・ボンド役者は、思った以上に守備範囲が広そうである。これは嬉しい誤算だった。花を添えるのが、トロン:レガシー(2010)で頭角を現したばかりのオリビア・ワイルドというのも嬉しい。

 ともかく、絶滅と言われてから30〜40年は経っていると思うが、僕は久々に西部劇を見る楽しさを満喫できて嬉しかった。娯楽映画の「王道」として「新作」の西部劇を見れるなんて、初めてのことじゃないだろうか。そういう意味では、アメリカ映画ファンとしては至福の2時間だったのは間違いない。

 

無条件に両手放しで喜べない残念さ

 …というわけで、西部劇ファンでSFファンの僕としては、ひたすらホメて楽しみたいところ。

 しかしながらこの作品、無条件にホメちぎれるかといえば、ちょっと弱点が目立ちすぎるのがツライ。見過ごすにはあまりに多くのキズや穴がありすぎる。これには本当に困ってしまうのだ。

 それはどちらかと言えばSF側、エイリアン側の描き方に数多く見られる。例を挙げればキリがない。地球人よりずっと高度な文明を持った宇宙人なのに、丸腰でノコノコ出てきてほとんど無策で野蛮な地球人にやられっぱなしってのはどんなアホなのか。それにダニエル・クレイグの腕にはまった武器らしきシロモノは、どういう時に反応するのかよく分からない。どうやら脳内テレパシーで作動するらしいが、その設定は結構いいかげんなのだ。おまけにそれがいざという時に爆弾にも早変わりするというご都合主義ぶりだ。さらにオリビア・ワイルド演じる謎の女も、主人公に親しげに近づいたと思ったら逃げようとするところを殴ったりして、何を考えてるのかよく分からない…。この脚本はあっちこっちに説明のつかないことが多すぎる上に、それらにツジツマをつけずに「エイリアンだから何でもアリ」みたいにごまかしてしまっているから困る。申し訳ないけど、脚本のデイモン・リンデロフ、マーク・ファーガス、ホーク・オストビーらの仕事は、いささか雑だったと言わざるを得ない。西部劇もSFも好きな僕だからこそこれだけ楽しんだけれど、そうじゃない一般の映画ファンとしては、これは穴だらけのガタガタ映画だと怒っちゃうんじゃないだろうか。それくらい、脚本はかなりのいいかげんさだと思う。久々の娯楽西部劇だからケナしたくはないが、正直言って脚本はユルみ切っている。

 また、主役の一人ハリソン・フォードは確かにこの映画に西部テイストを持ち込んだ功労者ではあるが、本人の役のキャラとしてはまたしても小さな命が呼ぶとき(2010)などで近年お馴染みの根性の曲がったイヤ〜なジジイ役だというのは、これはいかにもスターとしてはマズイのではないか。これしか出来ないのかハリソン・フォードは。そんなこんなで…残念な部分があまりに多いので、僕としては大いに楽しんだものの、両手放しには喜べないというのが本音なのだ。

 

 

 

 

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