「コンテイジョン」

  Contagion

 (2011/11/28)


  

見る前の予想

 この映画って、公開直前に新聞にいきなり全面広告が出たのにビックリ。こんな映画が作られてたって知らなかったから驚いたってこともあるが、そこに掲載された出演者のメンツたるや…マリオン・コティヤール、マット・デイモン、ローレンス・フィッシュバーン、ジュード・ロウ、グウィネス・パルトロウ、ケイト・ウィンスレット…と、まぁ豪華絢爛。新聞広告の宣伝コピーにある「地球選抜」ってのはいささか大げさながら、キラ星のごときオールスター・キャストであることは間違いない。

 こんな映画を制作しているのなら、もっと話題になっていいのにヒッソリと公開。でも、それもスティーブン・ソダーバーグの映画なら豪華キャストなんて「当たり前」なんだろうか。

 そして、ソダーバーグ作品…と聞いたとたん、申し訳ないが僕は少々醒めてしまったことも事実。

 「セックスと嘘とビデオテープ」(1989)、「KAFKA/迷宮の悪夢」(1992)なんてアートシアター系の「閉じた」映画を作っていたにも関わらず、いつの間にやらオーシャンズ11(2001)なんか撮ってハリウッドの王道に居座ってしまう「いかがわしさ」「インチキ臭さ」。そのあたりが、この男をいつまで経っても信用できない理由だ。

 かと思えば、またまたチェ/39歳別れの手紙(2008)なんてのを撮ってしまう。こんな題材をアメリカ映画の大作として撮れてしまうのは、イマドキこいつぐらいだろう。おまけに眉にツバつけて見に行ってみると、これがまた何とも見事な出来映えだからまたまた腹が立つ(笑)。そんなわけで、一見パニック・オールスター大作の外見を持ったこの作品を、ソダーバーグ大先生が撮ったというあたりがどうも引っかかるのだ。

 そんなこんなで、本当はこの手の作品が好きな僕なのに、なかなか劇場に足が運ばなかった。もうすぐ終わっちゃうと聞いて慌てて、劇場に駆け込んだ次第。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここからは映画を見てから!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あらすじ

 ベス・エムホフ(グウィネス・パルトロウ)は香港出張から早めに抜け出し、シカゴで短い時を過ごして帰途に就こうとしていた。

 空港から何者かに携帯で電話。なぜか妙に咳き込むのだが、おそらく時差ぼけか疲れのせいだろうと高をくくる。ミネアポリス郊外の自宅に帰ったベスは、夫ミッチ(マット・デイモン)と幼い息子のクラーク(グリフィン・ケイン)が大歓迎。しかし、ベスの具合はどんどん悪化して、寝込むほどになってしまう

 おまけにその頃、東京では日本人ビジネスマンがバス内で倒れ、ロンドンではウクライナ人モデルのイリーナがホテルの自室で亡くなった。香港でも若いリー・ファイという青年が熱でフラフラになり、道路に出たところを車にはね飛ばされてしまう。

 まだ世界の誰もが、何が起きているのかを知らない。

 最初に「何か」を嗅ぎつけたのは、フリー・ジャーナリストのアラン・クラムウィディ(ジュード・ロウ)だ。彼は東京でビジネスマンが倒れる映像を入手。自らのブログにアップして、「政府は何かを隠している」と煽りに煽る。

 そんなこととはツユ知らず、自宅で休むベス。しかし彼女は夫ミッチの目の前で容態が急変。慌てて病院に担ぎ込まれるが、アッという間に帰らぬ人となってしまう。さらに、帰宅すると幼い息子クラークまでが息を引き取っているではないか。ただただ愕然とするしかないミッチだった。

 さすがに世界各地から不審な情報が断片的に寄せられるに従って、ジュネーブの世界保健機関(WHO)本部にいたレオノーラ・オランテス博士(マリオン・コティヤール)が関心を示し始める。

 香港では死亡したリー・ファイが住んでいたアパートを閉鎖・隔離したが、その一足前にリー・ファイの妹が中国本土の郷里に帰郷。そのバスの中で命を落としていた。こんな具合に未知のウイルスによる死亡者・感染者とおぼしき人物は、ジワジワと増えつつあったのだ。

 ベスが死亡した病院では、彼女の遺体解剖が行われた。ところが脳のただならぬ状況を見てとった医師は、即座に「この件を各方面に連絡しろ!」と青ざめる。

 こうして新ウイルスの蔓延は、アトランタにあるアメリカ疾病予防管理センター(CDC)の知るところとなった。事態を重く見たCDC代表のエリス・チーヴァー博士(ローレンス・フィッシュバーン)は、部下のエリン・ミアーズ博士(ケイト・ウィンスレット)をミネアポリスに派遣。その一方でチーヴァー博士は、国土安全保障省の会議に呼ばれる。このウイルスがテロリストの生物兵器による攻撃ではないかと、彼らは本気でおそれているのだった。

 ミネアポリス入りしたミアーズ博士は…と言えば、この街の役人たちの官僚的な体質に閉口しながら、ウイルスの来歴調査と感染者の隔離を進めることになる。

 死んだベスの夫ミッチは症状が現れないものの、いまだ要注意状態で隔離中。心配して家に戻ってきた高校生の娘ジョリー(アンナ・ジャコビー=ヘイロン)とも直接触れあえない状況だ。そんなミッチはミアーズ博士の聞き取り調査の中で、ベスが帰宅前にシカゴで不倫相手と会っていたことを知ってしまう。これはミッチにとっては二重のショックだった。

 CDCのチーヴァー博士の部下、アリー・ヘクストール医師(ジェニファー・イーリー)はベスの遺体からとったウイルスを分析しつつ、この方面の権威であるイアン・サスマン博士(エリオット・グールド)の元にサンプルを送った。その後、このウイルスの持つ深刻な危険性を知ったチーヴァー博士は、サンプルを分けた各方面に廃棄を命令。しかしサスマン博士はこの命令を無視して研究を進め、コウモリと豚のウイルスが混ざった新種のウイルスであることを突き止める。

 しかし、だからと言ってワクチンがすぐに出来るわけではない。世界に拡散したウイルスはものすごいスピードで猛威を振るい、日に日に感染者と死者を増やしている。その一方でクラムウィディはブログで怪しげな情報や陰謀論をまき散らし、裏では汚いカネをせしめていた。

 その頃、香港入りしたWHOのオランテス博士は、中国側から派遣された助手のスン・フェン(チン・ハン)の協力を得て、感染源の特定に全力を注いでいた。こうして、連日さまざまな監視カメラの映像などを調べた結果、感染源であるゼロ号患者がベスであることを突き止める

 しかし、オランテス博士は気づくべきだった。自分の身内が病に冒されたと語ったときの、スン・フェンの異様に思い詰めた表情を…。ある日のこと、オランテス博士がクルマで移動中に突然停車。連れて来た仲間たちとともに、スン・フェンがオランテス博士を拉致するではないか。

 「どうせワクチンが出来ても先進国優先だ。私の郷里の人々にワクチンを渡すために、あんたには人質になってもらう!」

  

見た後での感想

 面白い。実にシャクな話だが、まことにもって面白い。何で面白いのかよく分からないのだが面白いし、かつコワイ。まったくスティーブン・ソダーバーグという男はイヤな奴だ。しかし面白いんだから仕方がない。

 実は今回、僕はこの作品を見る前に、新聞の映画評で開巻早々グウィネス・パルトロウが死んじゃうってことを知らされてしまった。だからかなり興ざめしてスクリーンに対峙したのに、こんなに面白かったんだからスゴイ。だからと言って、朝日新聞の映画評を書いたバカ映画評論家のことは絶対に許さないけどな

 僕は元々群像劇が大好きなので、この映画の世界に広がる巨大群像劇にはワクワクした。明らかにソダーバーグ作品の中ではトラフィック(2000)の延長線上にある作品。あの映画はソダーバーグ作品の中で一番好きな作品だが、今回も大いに気に入った。

 言っちゃ申し訳ないが、似たような題材の深作欣二監督による角川映画「復活の日」(1980)は、邦画としちゃ健闘の部類だろうがこの映画の横に置いたら思いっきりカスむ。ウォルフガング・ペーターゼン「アウトブレイク」(1995)も前半部分はかなり頑張っているものの、後半でドナルド・サザーランドが「悪役」ぶりを発揮して勧善懲悪話になったとたん、緊張感が一気に減退した。最後なんか病気そっちのけでヘリコプター・アクションになっちゃうもんなぁ。結局そうしないと映画がもたないと思ったんだろうね。

 この映画は病気の蔓延と、それを何とか防ごうとする人々の戦い、一般市民の右往左往…だけ、まさに「病気」のことだけで映画をつくり、それでもたせてしまっているからスゴイ。もっているどころか、かなりのサスペンスだ。全編イヤ〜な感じである。

 映画の肌触りとしては劇的盛り上げとか怖さを強調する演出も目立たず、ひたすら「起きたこと」の積み重ねのみ。これでビッグスターばかり出ていなければ、淡々としている…と言っても過言ではない素っ気なさだ。

 ここには感染地域に派遣される専門医師が「ミイラとりがミイラ」的に感染して死亡したり、保健機関の上層部の人間がついつい身内に危険を漏らしてしまったり、パニックの際には必ず想定される略奪や暴動、さらにワクチン争奪のためにWHO職員を拉致…と、こういう事態になった場合想定されるあらゆる要素が盛り込まれていて飽きさせない。「復活の日」や「アウトブレイク」に限らず、こういう映画なんて過去にもあったはずなのに…そして「これ」といってビックリするような手法やテクニックを使っていないはずなのに、この作品がこの手の「感染モノ」映画の中で群を抜いた出来映えに感じられるのだ。

 これは一体どうしてだろう?

 

オールスターを惜しげもなく使い倒す群像劇

 この映画の中で特に指摘すべき要素としては、巻頭から「スター」グウィネス・パルトロウがバッチリ感染していて、いきなりアッサリ死んでしまうことだろう。

 正直言ってこんなビッグ・スターばかり出てくる映画は、「リアル」な怖さとは程遠いのがいつものことだ。映画ファン的には豪華キャストは嬉しいものの、作品的にはパチンコ屋の新装開店祝いの花輪みたいに「華々しいけどシラジラしく」なってしまう。どうせハリウッド的勧善懲悪やハッピーエンドで、スターさんはみんな助かるか、死んだ役をすでに何度も経験済みのスターだけが死ぬはず。…ところが、みんな内心そう思っているのに、いきなりパルトロウがコロリ。これにはたぶん誰もがビックリしてしまうはずだ。これってこの作品の重要ポイントだと思う。オレは全然ビックリできなかったけどね(怒)。オマエのことを言っているんだ、朝日のバカ映画評論家!

 おまけにケイト・ウィンスレットも途中でコロリ。つまんない死に方でいつの間にか死んでしまう。遺体もその他大勢扱いで埋められるアリサマ。まったく油断も隙もありゃしないのだ。だから見ているこっちだって、いつ誰が死ぬか分からなくて安心できない。これをやりたくて、あえてオールスター・キャストにしたのか。

 あるいは…世界各地に話が飛んでいろいろな人物が出てくるこの映画では、一人ひとりのキャラクターを深く描いていくことができない。それで誰もが知っているスターを起用して、長い時間をかけて説明しなくても重要人物が識別できるようにしたのか。どっちにしても贅沢な使い方である。まさにオールスターを惜しげもなく使い倒している感じだ。

 そんなわけだから…世界を舞台にした大がかりなオールスター超大作映画なのに、出来上がりはどこかヒッソリと静かな印象だ。そのあたりも、どこか「トラフィック」と共通するように思える。

 そこでは何か結論が提示されるわけでなく、カタルシスもない。主人公もいない。一番のビッグ・スターであるマット・デイモンは、いつもの主演作とはまったく違ってウイルスの蔓延にまったく手が出ない。映画の前半は隔離されっぱなしだし、後半も娘を守るのが精一杯。それも自宅に閉じこめておくことしか出来ない。ヒロイックなことは何も出来ずに終わる。逆にこの映画での「悪役」的役どころのジュード・ロウは、警察に逮捕されたものの保釈金が集まって釈放。結局、最後まで裁かれない。何とも複雑でスッキリしない結論なのだ。

 そういう意味ではこの作品、「善悪」というモノサシでは物事を見ていない。CDCの責任者であるローレンス・フィッシュバーンが身内だけ助けようと情報を流すのは、けしからん事ではあるが映画としては断罪されない。そしてウイルスの謎が解けてワクチンが出来上がるのは、皮肉なことにいずれも科学者たちが命令を聞かずルールを破ったからだ。こういう時には、いわゆる善悪とか正しい間違っているという判断で線引きが出来ないということなのだろう。

 そんな作品の終盤、マット・デイモンの父親が自分の娘のためにできる精一杯の思いやりとして、カレシとのプロムナイトを演出してやるくだりは、ちょっとだけほのぼのとした希望が見えて捨てがたい。不倫の高すぎる代償を払った妻の写真に涙ぐみながら、娘の「晴れの日」を祝うあたりの切なさ…。やはり「トラフィック」のエンディングで、ベニチオ・デル・トロが照明が付けられた地元の公園で草野球を見ている場面を彷彿とさせて、実に秀逸な幕切れだ。

 しかし今回の映画は、実はこれでは終わらない。映画の一番最後にはお話の元々の発端…どうしてこの新型ウイルスが生まれて、どうしてグウィネス・パルトロウがゼロ号患者になったのか…という過程を、煽るわけでもなく整然と見せていくのだ。このくだりの、理科の学習映画みたいな素っ気ない描き方がスゴイ。僕は以前、エイズ啓発活動に関わる仕事をしていてエイズの発生ルートと蔓延のプロセスについて調べたことがあるから、この場面には見ていて背筋が凍った。本当に風が吹けば桶屋が儲かる…的な想像もつかないような連鎖で、こういう災厄は起きてしまうものなのだ。

 

ネットの無責任発言は人ごとじゃない

 そんな劇中で印象に残るのは、やっぱりネットでやりたい放題のジュード・ロウ演じるエセ・ジャーナリストだろう。

 自分だけは本当のことを知っている…という歪んだ優越感と俗物根性、そして何でも疑って斜めに見なきゃ気が済まない猜疑心。最初はいくばくかの正義感や良心で始まった告発ブログも、圧倒的な支持を得たあたりからどんどんおかしな方向へと脱線していく。自分に人々を動かす力があると分かった時に、この男の言動は本来の目的を逸脱してしまう。自分が何かスゴイ人間みたいな「勘違い」をし始めてしまう…。

 東関東大震災の時は日刊ナントカとか夕刊ナントカをはじめ、テレビから新聞、週刊誌までひどいもんだった。放射能に関する報道も、政府や東京電力の対応の悪さはもちろんだったが、お上の言いなり報道一辺倒のメディアがあったかと言えば、やたら陰謀論と危機ばかり煽った連中もウジャウジャ。そんな一方でネットの連中はそんなメディアをケナしつつ「ネットの方が真実だ」なんて言っていたが、冗談を言ってもらっては困る。ネットはもっとひどいウソと流言飛語と罵詈雑言だらけだったことを、僕は今でも忘れてはいない。オレは本当に怒っているんだよ。こういう「情報発信」なんかしちゃいけない連中に、世界に向けて発信できる武器を与えてしまったことが間違いだったと僕は思うよ。

 そういう僕だってネットでアレコレ言ってるが、最初の頃はやっぱりどこか勘違いしちゃったところもあるからねぇ。自分の意見や発言が、ものすごい勢いで拡散していくから面白かったし嬉しかった。そのうちコワイ目にも遭ったから、さすがに懲りたけどね。でも、あの頃の高揚した気分は忘れられない。何となく情報発信者を勘違いさせちゃう力があるのだ。自分が「正しい」とか「力がある」とか「優れている」とか、そんなありもしない妄想を抱かされてしまうのである。

 世の中のことについて発言したりするには、やはりそれなりの覚悟と責任が要る。僕が余計なことをこのサイトで言わなくなったのは、そのあたりの怖さを実感したからだ。今でも時々はちょっとつぶやいたりもしてしまうが、もう出来るだけ映画以外の発言はしたくない。僕の無責任な発言がどこまでも広がってしまうなんて、これはやりたくないと思ってしまったよ。最近は更新もサボっちゃったりしてすっかりアクセス数も減ってしまったが、むしろそれで救われているような気がしている。

 そんな中で唯一「映画」についてなら僕も自分が本当に思っていることを言えるし、それには自分なりのリアリティもあると思っている。しかしそれにしたところで、大衆や世間に向けて責任を持って言えることではない。「公的発言」には責任と裏付けが伴うが、自分には「それ」があるとは思えない。だから僕らは単なる「旦那芸」としてハッキリ自覚して初めて、発言を許されるんじゃないだろうか。僕も一時はおそらく恥ずかしい勘違いをしていたに違いないだけに、今は心からそう思う。…ちょっと話はこの映画から逸れちゃったけれども。

 閑話休題。ともかく、こういう勘違いは見苦しいしイタイ。こうはなりたくない。そんなネットに関わる危なさを改めて考えさせてもらっただけでも、この映画を見る価値はあったよ。

 

 

 

 

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