「ツリー・オブ・ライフ」

  The Tree of Life

 (2011/10/10)


  

見る前の予想

 テレンス・マリックと言えば、泣く子も黙る伝説の映画作家…なんだろう。

 とにかく寡作だ。

 それがどのくらいの寡作ぶりかは後にじっくり述べたいが、とにかく度を超した寡作ぶりだ。それが前作からわずか5〜6年で新作を発表したというから驚いた。長いと思っていた制作スパンも、いつの間にかスタンリー・キューブリックなみぐらいには短くなったわけだ(笑)。

 しかし、やっぱり伝説の映画作家には違いない。

 そんなマリックがブラッド・ピットと組んだ。おまけにブラピは制作にも関与している。さらにはショーン・ペンも出ているという。いやはや、これは一体どんな映画なんだろうか。

 何しろ伝説の映画作家の新作で、ブラピやショーン・ペンを従えての再登場なのだ。これは大騒ぎになるに違いない。そうに決まっている。底抜けの絶賛が浴びせられること必至だ。

 ところがこの映画、公開されてもイマイチ評判が聞こえて来ない。たまに評判を聞いても何となくビミョ〜な感じだ。ただ、それは僕も何となく見る前に予想がついていた。僕はこの映画の予告編を見た時、何となくイヤな予感を感じていたのだ。

 この映画の「あらすじ」みたいなモノについては、作品を未見の方々も何となくお分かりだろう。ショーン・ペンがまだ子供の頃、親父のブラピはとにかく高圧的な男で子供にツラくあたった。強くなければ人生の負け犬になる…というのがポリシーで、それを子供に押しつけてくる。それがイヤで親父に反発したし、今でも心にトラウマを抱いている…というようなお話。となると、誰もが1950〜60年代ぐらいのアメリカの田舎町を舞台にした、一種の父子の葛藤劇だと思うだろう。実際に予告編にもそのような映像がいっぱい出てくる。

 だがこの予告編には、時々何とも不可解な映像が挟まるのだ。それはナイアガラの滝の映像など、雄大な大自然をとらえた映像。どう考えても、「1950〜60年代ぐらいのアメリカの田舎町を舞台にした父子の葛藤劇」とは相容れる部分がなさそうな映像なのだ。そんなのが、いくつかパカパカと予告編の中に挿入されている。これは一体何なのだ?

 僕はその時何となく察していたのだ、これは「例のヤツ」じゃないのかと。

 詳しくは後述するが、「この手の作品群」については先日、ミスター・ノーバディ(2009)の感想文でも触れていた。とりあえずは作品の成功・不成功に関わらず、ある種のジャンルに固定されない、ジャンルを超越しちゃったような類の作品がそれだ。

 そうとでもとらえないと、アメリカの片田舎の父子の話とナイアガラの滝やら雄大な大自然のイメージが一致しない。しかしさすがに「伝説の巨匠」マリックであっても、そんなハジケた作品を作るんだろうか?

 そんなわけで僕は予告編からの第一印象から、何となく一抹の不安を抱いていた。というのは、「この手の作品」は成功すればとてつもない傑作になり得るのだが、失敗すると取り返しのつかない「トンデモ映画」になりかねない。そして実際、成功例より失敗例の方が圧倒的に多いのである。そうなると、まさに無惨な亡骸の山同然だ。

 ところがそんなこんなしているうちに、ある知人からこの作品を感想が飛び込んできた。その時の内容はここでは触れないが、それを聞いた僕は速攻でこの作品を見なければ…という強迫観念に駆られた。実際こういう映画は、他人の感想や印象の「手垢」がベタベタ付けられてから見るものではない。まずは自分のピュアな感想が大切だ。

 そんなわけで、僕は公開間もない劇場へと足を運んだ。なのにこんなに感想文のアップが遅れたのは、単に僕の怠慢のせいに他ならない。いや…実際のところ、この作品は感想を書くにはなかなか難しい作品なのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

ここからは映画を見た後でお読みください。

 

 

 

 

 

 

 

 

あらすじ

 弟よ…母よ…。私はあなたたち二人のおかげであの方に導かれたのだ…。

 あの日、わが家に弟の戦死の知らせが届き、母(ジェシカ・チャステイン)は泣き崩れた。父(ブラッド・ピット)も仕事先で電話を受け、深い衝撃を受けた。家は悲しみに沈んだ。

 私、ジャック(ショーン・ペン)はいまや成功した人生を手に入れてはいるものの、妻との関係は冷え切ったものになっていた。一緒に暮らしていても、言葉も心も通い合ってはいない。

 建築家としての仕事も、私の空疎な心を満たしてはくれない。仕事の合間もうつろな心を抱いてオフィス街を放浪し、物思いに耽ってしまう。

 あの懐かしい田舎町での、私のまだ幼かった日々へ…。

 いや、さらにどんどん時を遡って宇宙の創生へ…。太陽系の誕生、地球の誕生、そして熱しきった地球が徐々に冷え、そこに海が生まれて…ついに生命が誕生する。

 こうして私は生き物として自らの奥底にしまい込まれた遙かなる太古の記憶を辿っていきながら、いつしか自らの少年時代へと思いを馳せていくのであった…。

 

見た後での感想

 仮に、僕が警告として付けておいた「ここからは映画を見た後でお読みください」という但し書きを見ずに「ないよう」という欄のストーリー紹介を読んでしまった人がいたら、さぞかし「何だこりゃあ?」と思ってしまったことだろう。何だか、ムチャクチャなことを書いていると思われたのではないか? いやいや…その前に、ずいぶん短いストーリー紹介だなと呆れてしまうかもしれない(笑)。

 でも、こう書くしかない

 映画を見た方ならここに僕が書いたことが、映画そのものに忠実であることは認めていただけるだろう。何だかんだ言っても、映画の前半部分は本当にこんな感じなんだからしょうがない。

 

 いや、さらにどんどん時を遡って宇宙の創生へ…。太陽系の誕生、地球の誕生、そして熱しきった地球が徐々に冷え、そこに海が生まれて…ついに生命が誕生する。

 こうして私は生き物として自らの奥底にしまい込まれた遙かなる太古の記憶を辿っていきながら、いつしか自らの少年時代へと思いを馳せていくのであった…。

 

 …ってな調子にこの文章を書くのに、正直言ってかなり苦労したよ(笑)。実際に映像として描かれているのはこういうことなんだが、これを文章にするのがシンドかった。何だかムチャクチャになっちゃいそうで。何となくスジが通っているように書いてまとめるのがキツいのだ。

 だって人生が煮詰まった中高年男性が自分の過去に思いを馳せる…って話なら、映画でも小説でもゴマンとあるし、誰でもが「あぁそういうことね」とピンと来る。だが主人公が思いを馳せたその先が、いきなり宇宙の始まりやら太陽系の誕生…と来たひにゃ、さすがに普通の観客は「アレレ?」と思わずにはいられないだろう。

 おまけにそれがブラッド・ピット、ショーン・ペン主演のA級アメリカ映画ならばなおさらだ。タランティーノ映画だとかウォシャウスキー映画だとか、キューブリック映画だとかだったらそれなりに心の準備もあろうというものだが。

 予告編を見た人も、広告やらいろいろなマスコミ露出している情報を見聞きした人も、この映画がブラッド・ピットが何十年か前のアメリカ田舎町の高圧的な父親を演じていること、そんな父親に少年時代抑圧されていて、現在は成功した大人に成長していながらも人生満たされていない男をショーン・ペンが演じていて、これがもう一方の主人公であること…は知っている。ならばこの両者の葛藤だとか、主人公の回想だとかが映画に出てくるであろうことを予想して、映画館に足を運んでいるはずだ。

 なのに、何でいきなり大宇宙、太陽系、地球の誕生に生命の発生(笑)

 正直、映画館でもみんな面食らってたらしいことは伝わってきた。周囲でザワザワ何となく落ち着かない雰囲気が流れてきた。そりゃあそうだろう。まだ映画は始まったばかり。それで「これ」だからねぇ(笑)。

 ブラッド・ピットにショーン・ペン。そして寡作家で知られるが「巨匠」であるテレンス・マリックの名前が並べば、とりあえず「名作」「傑作」と称されるであろう類の作品であることが予想される。ある意味でムチャクチャな作品にはならない品質保証はされているはずだ。それなのに、いきなり大宇宙、太陽系、地球の誕生に生命の発生。大丈夫なのか、この映画は?

 これって「トンデモ映画」じゃないのか?

 実はこの映画が「こんな映画」であることは、僕は事前にある知人から知らされていた。なので、幸か不幸かこの意外なサプライズを味わうことはなかった。それに実は、僕は予告編の段階でこの作品がこうなるんじゃないか…という予感を抱いてはいたのだ。

 だから、「やってるやってる」と大いにニヤニヤして面白がることはできた。ここだけの話、僕はこの手の映画が結構好きなのだ。映画作家が野心を燃やして、いわゆる既存の映画ジャンルをブチ壊して作ろうとする、一言でいうと「ジャンル越境映画」の類の作品は。

 前述した「ミスター・ノーバディ」が実際にそんな映画だった。その感想文にも書いたことなんで詳しくはそちらをご参照願いたいが、フランスのベルトラン・ブリエ「メルシー・ラ・ヴィ」(1991)やら、香港のウォン・カーウァイによる2046(2004)、アメリカではデビッド・フィンチャーファイト・クラブ(1999)などがこの手の作品に該当するかもしれない。これらがいわゆる「ジャンル越境」の映画だ。

 ただ、こういう映画は自らルーティンの物語づくりを逸脱していくので、ヘタをするとノー・ルール、何でもアリになってしまって出来損ないの「トンデモ映画」になる危険性もある。日本の橋本忍が監督した「幻の湖」(1982)は完全に「そっち」の発狂作になってしまったし、最近ではダーレン・アロノフスキーファウンテン/永遠につづく愛(2006)も残念ながら成功作とは言い難い結果に終わった。僕は決してキライじゃないけどね。ともかく、この手の作品はさじ加減が微妙なのである。

 では今回の作品は、果たしてどっちに転んだのだろうか?

 

奔放なイメージを支えるアイディアの豊富さ

 映画が始まって間もなく、ショーン・ペンが物思いに耽ってすぐに、映画はいわば「トンデモ」領域に突入していく。

 いきなり宇宙である。

 ここらあたりで劇場中がざわついてくるわけなのだが、目を見張るのはその映像の美しさと緻密さだ。

 本当にハイビジョンカメラあたりを宇宙空間に漂わせて撮ったような、クリアで美しい映像。昨今のCG技術の発展によるものと言えば簡単だが、「美しさ」にまで昇華させるにはやはり「センス」が要る。この美しさはそこに「作家」が介在しているが故の美しさなのだ。

 そこから太陽系が生まれ、地球が生まれ、真っ赤に熱せられた地球が徐々に冷えて、その表面に海が誕生し、さらにそこに生命が芽生え…と、文章で説明するのは簡単だが、これらをちゃんと観客にセリフやらナレーションやら解説なしの映像だけの力で伝わるように見せていくとなると、かなり難度の高い仕事であるということが分かるだろう。

 実はここで映画として行われていることはかなりの「トンデモ」ぶりなのだが、この部分だけを抜き出してみると、映画としてのスジ運びとしては決して「難解」でも「ムチャクチャ」でも「発狂」でもない。「訳が分からない」ということは全くない。ザワザワと戸惑っていた観客も、目の前のスクリーンで展開していることが「地球と生命の歴史」を描いたモノであることは100パーセント理解していたはずだ。むしろ理路整然として分かりやすいぐらいだ。だからこそ、なおさらざわついていたのだろうが。

 サウンドトラックにはクラシックなどの音楽や、時折ブツブツとつぶやかれているショーン・ペンの独白だけ。それらは映像の説明には当然なり得ない。だから映像の力だけで、こうした地球の歴史を筋道立てて描いているのである。その簡潔さ、明快さは、まるで「理科」の授業の副教材に使えるんじゃないかと思えてくるくらい。むしろ芸術作家的なもったい付け方とは極北の方向にある、ストレートな作り方なのである。これは正直スゴイと思う。

 そして、それらのエピソードが簡潔に明快に語られていくだけではなく、美しく豊かなイメージで語られていくところが圧巻だ。イマジネーションが豊富。これは誰もが認めずにはいられないのではないか。

 豊かなイメージ、これがいかに難しいことか。

 例えば、これも大胆で奔放な映画作家と言われていたケン・ラッセルの撮った、ザ・フーのロック・オペラの映画化「トミー」(1975)を例にとってみれば、イメージの豊かさ・奔放さということでの違いが際だって分かるかもしれない。

 「トミー」が前評判も高くいよいよ公開…となった時、もういっぱしのロックファンづらしていた僕はかなり興奮していた。

 何しろ奔放な映画作りで定評あるケン・ラッセル、この男がロック・オペラを撮るのだ。素材はザ・フーの名作とも言える「トミー」。さぞかしバラエティに富んだ、スゴイ映像を見せてくれることだろう。

 実際、音楽は良かったし、エルトン・ジョンやエリック・クラプトン、ティナ・ターナーなどスターはいっぱい出ているし、映画としても面白かった。しかし…それは「ハリウッド娯楽映画が面白い」という意味での面白さであって、想定内の安定したルーティンでの面白さ…正直言ってそう思えたわけだ。そこに凄まじいイメージの連打とか奔放さと感じられるものは正直なかったように思う。

 今でも覚えているのが、主人公トミーを演じるザ・フーのヴォーカリストであるロジャー・ダルトリーが、何かに目覚めたシーンだったかでひた走りに走る…という青春映画も真っ青の場面。それだけでもかなりなものだが、カメラに向かって走っているダルトリーの映像は切り抜かれていて、それが真っ赤にのぼる太陽のクローズアップ映像に合成で貼り付けられている…という凄まじい場面だった記憶があるのだ。天下のケン・ラッセルには悪いのだが、こういうのは「奔放な映像」とは言わないだろう。むしろ陳腐と言っていい。当時まだロック聞き始め映画見始めで童貞の高校生だった僕なんかにこんなこと言われたくなかっただろうが、その当時の僕でさえが「ちょっとダサいかも」と思ったくらいだから、これは相当なものだったろう。奔放、大胆さが売り物の映画作家ケン・ラッセルがロック・オペラを映画化しても、これである。

 「奔放なイメージ」「豊かなイマジネーション」というのは、かなりの映像センスとアイディアがなくては出来ない。しかし今回の「ツリー・オブ・ライフ」における…いわゆる「トンデモ場面」のあたりには、こうした奔放で豊かなイメージが湯水のごとく登場する。それだけではない。この「生命の歴史」みたいな手塚治虫の「火の鳥」風のエピソードが終了して、お話がアメリカの田舎町での主人公の少年時代に固定されてからも、洗濯物に写る人影やら何やら…などの豊かなイメージ・ショットが連発。これは相当に映像の引き出しがないとできない。こういうイメージがあちこちにふんだんに登場するから、この映画は見ていて楽しいし、豊かな気持ちになるのである。

 当たり前の話だが、映画はイメージなのだ。

 これはこの「ツリー・オブ・ライフ」と同じように「ジャンル越境」を狙いながら、派手に失敗してしまった作品群と比較すれば、より際立って分かる。あっちからこっち、雄琴のソープ嬢(当時はトルコ嬢だが)からスペースシャトルまでと激しい振り幅でスケールでっかい映画を目論んだ橋本忍の「幻の湖」の、情けないまでのイメージの貧困さを見よ。刺した包丁を引き抜いて血がピュ〜ッと飛び出すと同時にスペースシャトルがドド〜ンと打ち上げになるあたり、豊かなイメージの奔流…みたいなあたりを狙ってるんだろうが、実際にはおよそ貧弱で貧寒としたイメージしか定着できてない。そもそも美しくない、汚い。

 それとは一緒にしては気の毒だろうが、ダーレン・アロノフスキーによる「ファウンテン/永遠につづく愛」にしても、作り手本人はスケールでっかい映像を目論んだはずなのに、なぜか画面に定着できたのは箱庭みたいに異様にチマッとした世界でしかない。見ていてこんなに狭苦しさを感じさせる映像も珍しいのではないだろうか。手練れのダーレン・アロノフスキーをもってしても、この手の映画は難しいのだ。「ジャンル越境映画」として成功しているかどうかはともかくとして、テレンス・マリックがいかにイメージの引き出しを豊かに持っているかが分かる。まずは映像作家として、メンコの数の違いを遺憾なく発揮しているのである。

 

全編に一貫して見られる「実感」の映像

 ここまでは主に「ジャンル越境」映画として、あるいは「トンデモ映画」としての側面でこの作品を語ってきたが、ここからはこの作品の「核心」の部分に触れてみよう。すなわち、ドラマとしての中心となっている主人公の少年時代の追憶。主人公が高圧的な父親に支配されていた頃の、何十年か前のアメリカの田舎町での物語だ。

 この部分は、前述した「トンデモ」部分が観客の度肝を抜いたのとは対照的に、観客としてはいわゆる普通のドラマとして、受け入れやすい部分ではあるだろう。ただし、この作品ではこの一番普通のドラマ然とした部分でも、カッチリとしたホームドラマを構築しようとはしていない。ちょっと引いたようなスタンスで、サラッと描いていくような語り口だ。それはガッツリしたドラマを期待する向きにはモノ足りない印象を与えるかもしれない。一見、物語の上っ面をなでるような、ドラマトゥルギーの点から言ってもキャラクター造形の点でも脆弱なモノのように思えるからだ。

 しかし、その語り口がある種の独特な味わいを醸し出しているのも、また事実なのである。

 主人公の回想によって展開するこの映画の中で、主人公の少年時代のくだりはまさに「追憶」そのもの。だからこそ、この作品のようなおぼろげでちょっと引いたような描き方が効いてくる。またそんな描き方をしているから、不思議と見ている観客にとっても「懐かしさ」を感じさせるような「普遍性」を獲得している。

 そして、何より圧倒的な「実感」がある。

 まるで僕自身が自らの少年時代を回想し、当時の父のことを振り返っているような「実感」が感じられるのだ。それがなぜ映画に定着されたのかについては、僕に聞かないでほしい(笑)。しかし、そこには間違いなくそうした実感があり、まるで観客自らが回想した時のようなリアリティがある。これは実に不思議だ。

 これはたぶん、少年時代の部分について、かなりテレンス・マリック監督自身の少年時代に取材しているからではないだろうか。実際にそうであるかどうかは分からないが、この映画の「実感」こもった映像を見てしまうと僕にはそうとしか思えない。自分のことを描けばリアルになり実感がにじむというほど映画は単純なモノではないが、僕にはどうしてもこの作品においてそういう力が作用したのではないかと思えるのだ。それくらい、こうした少年時代の描写は淡い印象でどこか引いた視点から描かれているのに、身に染みついたような、身体にまで叩き込まれたような「実感」がある

 それはこの作品において逆に異様なほどパワーが落ちている、ショーン・ペンが登場する「現代編」の部分を見てみればよく分かる。いいかげん煮詰まって空虚な思いに取り憑かれている中年男のお話…も、おそらく現在のテレンス・マリックの実人生の状況から作られたのではないかと推察されるが、こうしたショーン・ペンの登場する場面の、揃いも揃って何ともはや空疎なこと!

 一番どうしようもないのが主人公の仕事ぶりを描くくだりで、どうもショーン・ペンは建築士らしく図面を引いたりしているのだが、およそ板に付いていないというかウソっぽい。どう考えても仕事をしている感じではない。そもそもテレンス・マリックは、こういう仕事の事を何も知らないんじゃないのか。知らないだけでなく、おそらく興味もなさそうだ。それくらい、この場面のシラジラしさはハンパじゃない。

 しかも、シラジラしいのは仕事ぶりだけではない。ショーン・ペンは何だか深刻そうな顔をして、何をするわけでもなくブラブラするだけ。ビルの外にある植え込みの草をボケッといじったりしてるが、何だか田舎の高校の映研が撮った8ミリ映画みたいなどうしようもなさ(笑)。何をどうやらせたらいいのか、ついにテレンス・マリックには妙案が浮かばなかったのだろう。ショーン・ペンも何をどうしていいのやら分かっていない様子で、本当に困り果てている様子がそのままスクリーンに映し出されているのだ。これを「わざと狙った」などと言うなよな(笑)。

 テレンス・マリックとしてはさすがにショーン・ペンの役柄を「映画監督」として、モロに自分史であると悟られたくはなかったのかもしれない。しかし、建築士などというマリックがおそらくまったく知らないであろう世界に住む人物の設定にしてしまった結果、このショーン・ペンの出てくる場面からは、圧倒的にリアリティや実感が失われてしまったのだ。これなら地球の誕生や恐竜が出てくるくだりの方が、よっぽどリアリティあるよ(笑)。

 ともかく、実感がないにも程がある異様なシラジラしさぶりだが、これはどう見てもテレンス・マリックが頭の中で考えてこしらえたからだとしか思えない。ブラッド・ピット演じる父親の仕事場での描写が、これまた妙にリアリティがないのも同様の理由からだろう。マリックが頭の中だけで作り上げたように思われる部分は、当然のことながらことごとくリアリティがないのである。

 逆に…ブラッド・ピットの父親に支配されている少年時代の描写は一見サラッと流して描いているように思われるにも関わらず、なぜか異様に実感がこもった場面になっているのだ。それも、「追憶」としての実感だ。その中で父親がどうして歪まざるを得なかったのかが描かれ、結局最終的には挫折せざるを得なかったことまでが語られる。それは…見ている僕自身が自分の父親のことなども思い出すほど、リアリティがあり切ないものでもあるのだ。

 

子供心を創作の原動力として

 それでは…ここまであれこれ言ってはきたものの、この映画を一体どのように評価したらいいのか

 物語の中心となっている主人公の少年時代の追憶は、尋常ならざる「実感」で描き出して秀逸。しかしながら、主人公の現実を描いた「現代編」に関しては恐ろしいほど空疎。演じるショーン・ペンも思わず困っちゃうほどのリアリティのなさだ。そこに、なぜか宇宙、地球の誕生、生命の進化が描かれるけったいな「トンデモ編」が挿入される。

 このバランスの悪さ

 ここでの「トンデモ編」は確かに普通のシリアスな映画と比較して考えれば、確かに無茶苦茶な描写に見える。何で宇宙や地球の誕生が出てくるんだ…と言いたくなる向きもあるだろう。実際、僕と一緒に映画を見ていた人たちは、一様にザワザワと当惑したような印象だった。

 しかしながら、この場面がまるで作り手が発狂したかのように見えるのかと言えば、それは「否」だ。

 この「トンデモ場面」が、「トンデモ」なモノが描かれているにも関わらず、地球の歴史、生命の歴史について描いたモノとしては理路整然とキッチリ分かりやすく作られているのと同様に、「なぜ、この“トンデモ場面”がこの映画に挿入されたのか?」という意図も、これまた見ていて何となく容易に想像がつく。すなわち、これは誰がどう見たって…人が少年時代に受けたトラウマは深刻で、その後の人生を大きく左右するくらいのインパクトがあるのだけれど、それらは宇宙や地球、生命の営みの歴史と無関係な訳ではなく、そこに置いて見てみれば取るに足らないことでしかない…というようなことを言わんとしているんだろう。それくらいは誰でも想像できるのである。

 しかしこの「トンデモ場面」が発狂したかのように見えないとすれば、あるいは難解で深遠な内容とは思えないとするならば、それはそれでちょっと問題じゃないかとも思う。

 この映画全体は、すごく乱暴に言ってしまうと現代のショーン・ペンがビルのエレベーターに乗っている間に回想や思索に耽ったりして、エレベーターから降りてきた時には悩みはスッキリして納得していた…みたいな構造を取っている。まるで「便秘がクスリ飲んだらスッキリ」みたいな感じで「そんな簡単な悩みかよ」と言いたくもなるが(笑)、実際このような構成をとっている以上、「トンデモ場面」は僕が前述したような「個人のトラウマも地球や生命の営みのひとコマ」みたいなことを言わんとしていることは明らかだ。

 確かに「生命の歴史を見ろよ、個人のトラウマや悩みなんざ小さい小さい」って話は、モノの例えとして人に話をするには分かりやすいし「アリ」だろう。しかしそれをマトモに映画でやっちゃって、しかも本当に「個人のトラウマ」と並べて真っ正面から「生命の歴史」を画面で見せてしまう…ってのはいかがなものだろうか。あまりに単純な発想な気もするよねぇ。

 普通この手の「トンデモ映画」、もとい「ジャンル越境映画」ってのは、もうちょっと深い思索や思想やテーマを内在させているかのように作られているものだ。しかしこの映画の場合は、「山」と言えば「川」と言う…みたいな感じで単純かつあまりに分かりやすすぎる構図になっている。口が悪ければ「底が浅い」と言うべきだろうか。そもそも、「生命の歴史を見ろよ、個人のトラウマや悩みなんざ小さい小さい」なんてメッセージは、飲み屋でどこかのオッサンあたりが言いそうな話だ(笑)。ま、凡庸な発想なのである。それをわざわざ最新技術を駆使して、すごいカネをかけて映像化なんて普通はしない。

 そういやこの映画には、主人公がこの世に生まれ出る前にどこかで待機していて、そこに天使が迎えに来る…みたいな場面もあるからビックリだ。確かこれに類似する場面が「ミスター・ノーバディ」にも存在しており、そのあたり非常に興味深いものがある。しかしながら「ミスター・ノーバディ」の場合は全編が「おとぎ話」や「寓話」じみたスタイルで語られているのでこの「生まれる前」の描写も違和感がないが、こちらの作品の方は極めてシリアスでリアル。だから前世みたいなものがファンタジーでもなく大真面目に描かれていることに、唖然とする人も多いような気がする。おまけに後になると、家族みんなが「天に召される」ような描写まで出てくる。これはついていけない人はついていけないかも。

 というわけで、どこを切っても何となくバランスが悪くて不都合な部分が目立つ本作。正直言って僕もこの作品が、傑作や成功作であるとは言い難いと思う。

 しかし、なぜかバッサリ切り捨てられないから不思議だ。

 成功作ではないのなら駄作。あるいは失敗作でもいいではないか。そう切って捨てても問題ないように思いながらも、この作品にどこか漂う「一級品」の風格みたいなものは、どうしても無視できない。タダモノではない雰囲気が、間違いなくこの作品に備わっているのだ。

 そしてそれは、やっぱり少年時代の描写にある「実感」のせいだろうと思う。

 あの少年時代のリアリティと陰影に富んだ父親像は、かなり非凡なものを感じさせる。そしてこの少年時代の「実感」があるから、この作品を一刀両断には切り捨てられないのだ。

 そして、実はその「実感」ゆえに…あの「トンデモ場面」さえも捨てがたい意味合いを持ってくる

 みなさんは小学生の時、あるいは中学生の時、こんなことをお考えにはならなかっただろうか? 例えば「宇宙はどこまで広がっているんだろう?」「宇宙の果てには何があるんだろう?」「昔の地球はどうだったのだろう?」「生命はどうして誕生したんだろう?」「死んだらどうなるのだろう?」…。

 ハッキリ言ってそんなものを知ったところでどうしようもないし、知る手だてもあろうはずがない。知ったからと言って何らトクにもならない。だからいい大人になってきたら、僕らはそんな事をいちいち考えなくなってしまった。しかし子供時代には、僕らはそんな事を誰に頼まれるわけでもなく考えていたし、考えすぎて夜眠れなくなったりしていた。バカだねぇ(笑)。

 それって、今回の映画の「トンデモ場面」と同じじゃないのか?

 深い思索や思想や哲学的なんちゃら…で描いているわけではなく、そこには不思議なほどストレートな明快さがあった。つまりはここでの「トンデモ場面」って、そんな子供感性で考えた結果の描写ってことではないのか。子供ならではの潔さなり邪念のない素朴さがあるから、これらの描写は「発狂」したようなイメージや難解さとも無縁だったのだろう。確かに子供心全開で描いてみたらこうなったという感じの、それは描写だといえないだろうか。

 それはもちろん、子供時代の場面における「実感」とつながっている。子供時代の描き方に「実感」があるのなら、それは子供だった主人公の視線に忠実だということに他ならない。それは、当時の子供の視線の再現なのだ。子供時代にインプットされたものは、当然子供目線に決まっている。それを忠実に再生すれば、子供時代のリアリティが立ち上ってくるはずだ。

 ここまで考えると、大人のショーン・ペンが出てくる場面が一気に色褪せまくってリアリティを失うのも、何となく分かる気がする。「大人の事情」を描いたこの部分には、邪念のないストレートな子供の「実感」は持ち込めない。あるいは子供的視点でいくと、ここは頭で考えたレベルでしか描きようがない。それで空疎で浮いたものになってしまったと考えるべきなのではないだろうか。ひょっとしたらテレンス・マリックは、今回の映画を全編子供の視点で発想して、子供の視点で撮っているのかもしれないのだ。

 あるいはテレンス・マリックという映画作家は、意外にも元から「子供心」をその創作の原動力としていたのかもしれない。これは彼の過去の作品を見直してみないと分からないが。

 重ねて言うが、僕はこの作品が成功作だと言うつもりはない。しかしそれでも、この作品は他の映画にない希有な視点を獲得した作品だということは断言できる。

 この手の「ジャンル越境映画」ないしは「トンデモ映画」のような野心的作品にありがちなのが、作り手が本当に自ら持っているビジョンを追求したくて、やむにやまれぬ衝動で「やってしまう」のではなく、「そんな大胆で奔放でノー・ルールな作品世界をつくっているオレ」に酔っている…という、作り手のマスターベーションに陥っている状況だ。「すごい作品を作りたい」ではなく、すごい作品を作ってる「すごいオレを見せたい」という邪心やスケベ根性で作ってしまう。そういう作品はやはりどこか見苦しく、汚らしくく見えるものだ。

 だがこの作品には、そういう邪心は見あたらない。子供の一途な思い詰めで、思ったままに描いたように見える。そこには映画業界の計算やらルーティンやら、見せるためのお約束事が入り込まない。しかもその子供の「実感」の集中力・凝縮力がハンパじゃない。言ってることは分かり切ってることなのだが、それに対する「本気度」が抜きん出ていて尋常ではない。それを映画のプロが臆面もなく、巨費を投じて最新テクノロジーとハリウッド・スターまで投入して本気で描いちゃったところに非凡なところがある。しかも、そこには「オレすごい」という邪念はない。

 だからこそこの作品は、どんなに「トンデモ映画」でもどこか潔さや清々しさまで感じさせるのではないか。

 

 

 

 to : Review 2011

 

 to : Classics Index

  

 to : HOME