「エッセンシャル・キリング」

  Essential Killing

 (2011/09/21)


  

見る前の予想

 この映画のことは、ある知人からオススメされて初めて知った。いや、その前に映画館でチラシをもらっていたのだが、正直言って全然気づかずにそのまんまだったのだ。

 とにかく終始逃げ回ってる映画でほぼそれだけ…と聞いて猛烈に興味がわいた。何となくB級アクションみたいで面白そうではないか。改めてチラシを見てみたら、監督はイエジー・スコリモフスキ。確か昔からいたポーランドの監督だが、最近はずっとご無沙汰。それがつい最近、いきなり復活したとは聞いていたが、実際の作品そのものは忙しくて見逃してしまっていた。それが、もう新作がやって来たのか。

 それよりもっとビックリしたのは、チラシ全面に印刷されたヒゲづらの男の顔。何とこれまたお久しぶりねのヴィンセント・ギャロではないか! バッファロー'66(1998)であれほど持ち上げられていたのに、すっかりどこかに消えていた。こいつが今回の主演なのか。

 というわけで大いに興味をそそられながら、何だかんだと予定や都合が合わず、なかなか見ることができずにいたこの作品。僕が何とか劇場に駆けつけたのは、東京での公開が終了する間際という始末。それで感想を書くのがこんなに遅れたわけだ。

 

あらすじ

 中東か中央アジアの干からびた荒野を、3人のアメリカ兵たちが歩いている。何の用なのか谷間のような所に降りて行くが、銃を構えた先頭の黒人兵を除く二人はふざけた無駄話ばかりしている。上空には軍用へりが飛び、彼らの周囲に不審な人物がいないかを見張っている。

 しかし、そこに不審な人物はいた。

 アメリカ兵たちがウロウロする谷間に、その男は潜んでいた。髭ヅラのいかにも中東人らしいその男(ヴィンセント・ギャロ)は、3人のアメリカ兵に見つからないように物陰に隠れながら、上空のヘリにも用心していた。

 その手にはロケットランチャーが。

 洞穴に隠れながら、3人がやって来るのをじっと待っている中東男。あわやアメリカ兵たちに見つかるか…と思いきや、中東男のロケットランチャーが火を噴いた。

 ドッカ〜〜〜ン!

 アッという間に吹っ飛ばされるアメリカ兵たち。当然この様子を見た上空のヘリが、黙って中東男を逃がしてくれる訳がない。必死に逃げる中東男を追いつめて、彼に目がけてロケット弾を発射したからたまらない。

 ドッカ〜〜〜ン!

 直接、爆発に巻き込まれなかったものの、爆風で吹っ飛ばされて気絶した中東男。そこにヘリから降りた米兵たちが殺到。中東男はたちまち囚われの身となってしまう。

 アメリカ軍の収容所でそれまで着ていた中東の服を脱がされ、オレンジ色の囚人服を着せられる中東男。アメリカ軍のお偉いさんの前に連れて行かれた彼は何やら厳しく尋問されるが、何しろ先ほどの爆発で耳がキンキンと鳴ったまま、誰が何を言っているのか全く分からない。にも関わらず米軍のお偉いさんは、黙っている中東男を「ふてぶてしい態度」と勘違いしてさらにカッカとする。そんな態度が災いしたのかどうか、中東男はかなりの重罪人か大物とみなされて、別の施設へと移されることになる。

 一体どこに連れて行かれるのか。他の囚人たちと大型輸送機に乗せられての長旅に、さすがに不安を隠せない中東男。

 どうやら「目的地」に着いたらしく、中東男たちは次々に飛行機から降ろされる。さらに車に乗せられてやっと分かったのは、彼らの連れて来られたのが雪深い遠く離れた国だということ。ここはどうやらヨーロッパのどこかの国か?

 こうして雪道をいずこかへ連れて行かれようとしたところ、予想外の事態が発生したのだから人生は分からない。ちょっとしたアクシデントから、何台か走っていた車のうちたまたま中東男を乗せていたものが道路脇へと転落。この偶然の事故で車の兵士たちは意識を失い、中東男は再び自由を獲得。慌てて車から近くの茂みの中に姿を消した。慌てて崖上から駆けつけてきた兵士たちも、中東男が消えたことには気づかない。運命のいたずらと咄嗟の判断が、中東男を助けたのである。

 やがて中東男は、たまたま停まっていた別のアメリカ軍車両に襲いかかり、無防備に携帯でしゃべっていた兵士を殺害。運転手も殺して車で逃走を開始した。

 しかし米軍側も、中東男が逃げ出したことを気づかないはずがなかった…。

 

お久しぶりな二人が放った異色の新作

 イエジー・スコリモフスキという監督の名は一般的には決して有名ではないが、ポーランド映画史について触れると避けては通れない名前だ。

 といっても、僕はとてもじゃないがポーランド映画に詳しいわけじゃない。ポーランド映画といえばアンジェイ・ワイダぐらいしか見てるとは言えないし、あとはせいぜい西側に亡命したロマン・ポランスキーぐらいか。しかしそのポランスキーにしたって、ポーランドにいた頃の作品で僕が見ていたのは、出世作の「水の中のナイフ」(1962)ぐらいのものだ。あとは西側に行っちゃってからの作品しか知らない。

 それでもスコリモフスキの名前は、クシシュトフ・ザヌーシらと一緒に何となく記憶の片隅には残っていた。1950年代あたりの一時期、例えばニュー・ジャーマン・シネマとかのように「ポーランド派」と言われる監督たちが騒がれたことがあった。たぶんそれらの人々の一人なのだろう…と思いつつも、作品については具体的に見ていないので詳しくは分からない。唯一、この人がイギリスで撮ったジョン・モルダー・ブラウン主演の「早春」(1970)の存在は知っていたけれど、それもこの映画にポール・マッカートニーの元婚約者ジェーン・アッシャーが出演していたからだ。映画そのものも、大昔にテレビで見ただけなので記憶もおぼろげだ。

 だから、そんなかつてのポーランド映画の有名監督が、「アンナと過ごした4日間」(2008)でいきなり「復帰」してきたのには驚いた。僕はてっきり死んでいたか病気にでもなっていたか、本国では作品を発表していたのに日本に入ってきていないだけだと思っていた。元々この人の作品が大々的に日本で公開されたことなどあまりないのだから、そう思っても仕方ないだろう。

 聞くところによれば17年ぶりの監督復帰だという。まぁ、テレンス・マリックなみの寡作ぶりだ。

 そんな往年の名匠の復帰に驚きはしたものの、それまで作品を一本も見ていなかったこともあり、ちょうど忙しかったこともあって、結局その「復帰作」を見逃してしまったのだった。

 ところが最近になって、ある知人から「エッセンシャル・キリング」という作品が素晴らしいと薦められた。気になって劇場でその作品のチラシを手にとって見たら、何とこの作品スコリモフスキ監督の「新作」というではないか。17年の冬眠から覚めて、いきなり精力的に動き出したのか。

 それよりもっとビックリしたのは、この映画が驚くなかれヴィンセント・ギャロ主演作だったこと。

 ギャロといえば、「バッファロー'66」の監督主演で一世を風靡。この作品のことは僕がこのサイトを立ち上げた頃の公開だったからよく覚えているが、それまでヴィンセント・ギャロなんて俳優の存在は誰も知らなかったのに、この時はいつの間にかみんな最初から知っていたかのようにギャロギャロうるさいことうるさいこと。ホントにこいつってそんな目立つ存在だったか? みんなホントに知っていたのかよ。いいかげんなことを言ってるとJAROに訴えるぞ(笑)。演歌うたってた奴はジェロだぜ(笑)。

 ともかくある日突然みんな当然のごとくギャロの名前を口にするようになり、日本ではパルコ系のカルチャーヒーローとなってあちこち露出したのだった。まったく映画ファンってやつは!

 その作品「バッファロー'66」はというと…正直言ってヴィンセント・ギャロに監督・脚本家としての才能があったかどうかは分からない。コンプレックス丸出しのショボい主人公も、はっきり言って大したことのない男、それも実際に身近にいたら自意識過剰の鼻持ちならない男…としか思えない。しかしいろいろな偶然が味方したのか、共演のクリスティーナ・リッチがよかったのか、この作品それなりに見応えのある出来映えになっていたから映画は分からない。映画もミニシアター系の劇場で、それなりに大入り立ち見のロングランをしていたはずだ。

 ところがすっかり月日が流れて、あんなに彼を持ち上げていたPARCOですらギャロのことを忘れ去ってしまった頃に発表された彼の監督主演作「ブラウン・バニー」(2003)はというと、「酷評」というよりほとんど「黙殺」に近かった。僕はこの作品を見ていないから何とも言えないが、みんなあんなに持ち上げていたのに冷たいねぇ。さすが映画ファン(笑)。でもそうなってしまったことには、何となく合点もいったのだ。「バッファロー'66」を見た時から何となく感じられた、何とも言えない「一発屋」の予感…。

 まぁ、そんな二人がなぜか手を組んだ今回の作品は、だからそれだけでも「異色作」の名に恥じない映画のはずなのである。

 

見た後での感想

 この映画の評価は、ズバリ一言で言えちゃうんじゃないだろうか。

 面白い!

 これが映画だ!

 …で終わらせてしまっても一向に構わないのだが、さすがに感想文なんだからもうちょっと何か言わなければいけないだろう。もうちょっと続けさせていただく。

 この映画について書いた文や評判を聞いている人は、もうご承知なんだろうとは思うが、この映画ってホントに無駄がない。たぶんどこの映画評でも書いているんだろうが、ヴィンセント・ギャロにはただの一言のセリフもない。ただ黙々と逃げ回り、目の前に立ちはだかった者を殺す。ただ、それだけ。あっぱれなほどの無駄のなさである。

 全編、逃げて逃げて逃げ回る映画で、それだけで83分という上映時間をもたせてしまっている映画。イマドキの何かと饒舌な映画と比べると、その潔さは尋常ではない。

 そもそもロードムービーを想起するまでもなく、移動するお話は映画向きだ。そして 「逃げる」映画というのは、ヒッチコックの「北北西に進路を取れ」(1959)などを例に挙げるまでもなく、「映画の原点」めいたところがある。これには異論をはさむ人もいないだろう。

 そこへ来て、主人公に台詞がひとつもないのだ。出てくる他の人間も大して語りはしない。こういう映画で、しかもまったく台詞がないとなると、これは間違いなく「映画の原点回帰」を意識しているはずだ。

 例えばファイト・ヘルマーツバル(1999)とかアキ・カウリスマキ白い花びら(1999)といった「サイレント映画」的なアプローチは、やはり「映画の原点」を模索する…といった意図があった。イマドキの映画は、台詞に頼ってひ弱になってしまった。だから映画の原点である「アクション」に立ち返って、「サイレント映画」で出直してみる…という発想である。おそらくはジャン=ジャック・アノー「人類創世」(1981)や「子熊物語」(1988)、さらには実質上の主人公が2頭のトラというトゥー・ブラザーズ(2004)あたりも、そういう意図があって作られたものだろう。これは「映画らしい映画」を作ろうという意思表示なのだ。今回の作品も、そういう発想の延長線上にあるのは間違いない。

 ついでに言うと、しゃべらせると女々しくて鼻持ちならないヴィンセント・ギャロの使い方としては、一切しゃべらせないというのは賢明なやり方だったとも言える(笑)。

 ひたすら逃げ回り、行く先々で人を殺して回る主人公は…だからといって見ている僕らからは「冷血漢」には見えない。それは「逃げる」彼の姿を見て観客である僕らが感情移入してしまったこともあるし、この映画のシンプルな構造によるところも大きい。この主人公は殺したくて殺している訳ではないし、それを楽しんでいるわけでもない。ただただ、生きて行かねばならぬから殺すのである。動物が生きるために他の動物を殺すのと同じだ。この映画はアクションに徹することで「映画の原点」を希求するとともに、同時に「生き物」としての人間の原点をも見せようとする。主人公が腹ぺこのあまり蟻塚を崩して中にいるアリたちをむさぼり食らう場面や、オバサンに襲いかかっていきなりオッパイにむしゃぶりついてお乳を吸うくだりなどは、見事なまでにそんな「生き物感」が充満しているのだ。

 しかも酷暑の中東の砂漠から雪のヨーロッパらしき場所への舞台の転換は、台詞の説明などなくても観客の僕らに主人公の絶望感をヒシヒシと伝えてくれる。どう考えたって戻れない。だから「これで安心」「これで終わり」なんてことはあり得ない。主人公は失速するまで逃げ回るしか選択肢がない。しかも、逃げ回ったところで状況が好転することもあり得ない。それでも…そうするしかないという、「目標」も「結果」も何もない、ただただ「逃げる」だけという状況だ。この切羽詰まり方が、この映画からさらに余計な贅肉を削ぎ落としているのである。

 そして「語られない」のは主人公の台詞だけではない。一応パンフレットを見ると主人公には「ムハンマド」という名前があるようだが、台詞を言わないから彼は一度もそう名乗らないし、周囲の人間も一度もそう彼を呼んだりはしない。便宜上役名がついているだけで、実は見ている間、彼はどこの誰かも分からない設定になっている。明らかに中東の男だとは分かるし、敵がアメリカ軍だとも思うが、それらを特定することは注意深く避けられているのだ。

 おそらくここでは主人公がアラブ人でもアメリカ人でもどうでもいいのだろう。それが必要以上に意味づけられてしまうと、イラクでのアメリカ軍の捕虜虐待…みたいな、余計な政治的メッセージみたいなものを引きずりかねない。そういう余計なモノを徹底的に排して、純粋に「映画の面白さ」を追求した映画が作りたかったのだろう。

 むしろこの作品の立ち位置としては、そういう政治的な映画やメッセージ映画よりも無駄なく骨身惜しまぬ運動量で見せるB級アクション映画なんかのほうが近い。

 このように、寡黙な映画で台詞も何もかも寡黙な表現に終始しているにも関わらず、そこからはあまりにも強烈な「物語」が語られているのである。このあたりのことも、おそらくこの映画を見た人が全員言いそうな、ありきたりのことなんだけども…。

 

見た後の付け足し

 そんなこの映画の中で唯一人間的な触れあいの要素を見せるのが、傷付いた主人公が一軒家に転がり込むくだりの描写だ。

 グッタリした彼を家の中に引き入れたこの家の主婦は、彼を追ってからも匿って、キズを癒してやる。全編緊張感に満ちたこの映画の中で唯一ホッとするこの場面に出てくる主婦役が、何とロマン・ポランスキー夫人で彼の「フランティック」(1988)、「赤い航路」(1992)、「ナインスゲート」(1999)にも出演していたエマニュエル・セニエだ。

 どっちかと言えばこれまでちょっとゴツゴツした特異な個性で、独自のセックスアピールを見せていた彼女が、無言の抑えた優しさを見せていてグッと来る。

 いや…これはむしろ、いかにも見た目が女性的で優しそうな女優がやらなかったからこその、胸にじんわりくる情感ではないだろうか。見ていて強烈に印象に残った。

 

 

 

 to : Review 2011

 

 to : Classics Index

  

 to : HOME