「サンザシの樹の下で」

  (Under the Hawthorn Tree)

 (2011/08/01)


  

人のことを言っている場合ではないけれど

 人の国のことをとやかく言うのはいかがなものかと思うが、正直言って今回ばかりは呆れかえったよ。みなさんもご存知、中国で起きた高速鉄道の追突脱線事故のことである。

 これって…あまりにもツッコミどころ満載なんで、何から言ったらいいか分からない。元々が日本やドイツが技術協力して出来た「高速鉄道」らしいが、開業する前から「独自の技術だ」とか「特許を出願」だとかとやたら鼻息が荒かったようだ。僕はそっちの事情には疎いのでどうこう言うつもりはないが、そのあたりからすでに「何だかなぁ」という気分にはなっていた。

 一方で最初の頃から「安全性無視」的なウワサは漏れ伝わって来ていて、先の「独自技術」だの「特許出願」だのといった主張のこともあって、かなり冷ややかな視線を浴びてもいたようだ。そもそも海外の技術をツギハギで輸入したあげくに途中から「独自」にアレンジって…。道義的な問題もあるが、それより何より安全性の面でどうなんだろうと疑問にも感じた。

 案の定、開業してみたらトラブル続出。やれ途中で停まっちゃうわ冷房が使えないわ…と、次から次へと問題が起きまくる。他人の不幸を笑うのは失礼とは思うものの、これはさすがにちょっと笑っちゃった。その前にあまりにテメエ勝手にタンカを切っていたから、申し訳ないけど笑わずにはいられなかった。

 ところが、ついに笑っていられない事態が起きてしまった。

 7月23日の夜に起きた追突脱線事故は、悲惨としか言いようがない。落雷で停まっていた列車に、後続の列車が追突。何両かの車両が高架橋から転落し、死傷者は200人以上というひどい結果になってしまった。このニュースを聞いた時には、「まさか!」と目を覆ってしまったよ。

 ただし…驚いたことに、その酷さもまだ序の口だったのだ。

 何と現場ではアッという間に事故車両をその場でブチ壊し、その場の土の中に埋めてしまうという暴挙に出た。これはいろいろな面でマズイ。事故原因を究明しようという気もないばかりか、犠牲になった人々の遺体や遺留品もちゃんと回収していないのではないか。埋め始まった段階で子供の生存者が一人見つかったらしいが、ならばもっと生存者もいたのではないだろうか? ロクに確認もせず埋めてしまったのか?

 死者の数が36人だか43人だかと錯綜しているのも変だが、そもそも時速100キロを超えて追突したというこの事故で、死者の数がこんな程度で済んでいるのも疑問だ。犠牲者の数をこれ以上増やしたくないから埋めたのか?…って、これ一体、21世紀にGDP世界第2位の国がやるような事なのか。

 さすがに国の内外であまりに非難ごうごうなので、埋めた車体を掘り起こしてどこかに持っていったみたいだが…果たしてちゃんと調べようって気があるのかどうか。それより何より、1日で復旧して列車が走っているってどうなんだ? 原因究明ができているわけはないよなぁ。どうでもいいのかそんなこと。

 っていうより、また事故が起きたらもっと恥の上塗りじゃないんだろうか? そもそも「現場に埋める」って何なんだ? よく分からないんだよな、このへんの感覚が。

 日本でも今回の地震とそれに伴う原発事故においては、こう言っちゃ何だが相当ズサンなことが行われていた。「これが先進国なんですか?」と言われれば、情けないとしか言いようがない。やっぱりアジアってこうなのかねぇ。

 だから人のことをアレコレ言える立場にはないと思ってはいるが、それでもこいつは度を超している。マトモじゃないよ。

 ここでハッキリ言わせてもらうと、世間じゃこのあたりのお隣の国々のことをブッ叩いて、溜飲を下げてスッキリする人々もたくさんいる。だが、悪いけど僕はそういうのとは一緒になりたくない。何でも他者のせいにしたり見下したりコキ下ろしたりってのは、どう考えてもいいことに思えない。少なくともそれは「日本人」の美徳ではないだろう。

 むしろ僕はかつてこの国の人たちに助けてもらって恩義を感じたことがあるので、あまり悪く言いたくなかった。だからこそ…それでも僕がこう言うのだから、これは相当なことだと思ってもらいたいのだ。

 こんな恥ずかしくて情けない話は、最近では見たことも聞いたこともないよ。

 あれだけ悲惨な状況なのに、事故車両を壊して埋めて「なかったこと」にしてしまう手際の良さを見ていて…僕はチャン・イーモウ監督の旧作王妃の紋章(2006)の一場面を思い出した。王宮に攻め入った反乱軍にアッという間に警護兵たちが蹴散らされたと思えば、次にもっと多い軍勢が出てきて反乱軍をやっつける。そして今度はそこら中に散らかった遺体を下働きの人々がサッと片づけて、水で血を洗い清めて菊の花を散らす。すると、あれほど激しい戦闘が行われたはずなのに、そこにはまるで何も起きなかったかのような静けさが生まれる…。

 あまりの手際の良さに、当時この作品を見た時にはコメディみたいに思えたが、今回の事故車両の片付け方を見ていたら、あれは決して誇張でも何でもなかったと分かった。この国は、今までも…そして今でも「あれ」をやっているんだな。

 そう思い当たった時、僕は「王妃の紋章」をもう一度見直さなくてはならないのではないか…と感じられた。あの映画には…いや、ひょっとしたらチャン・イーモウ作品全般についても、見えているモノ以外の見え方があるかもしれないからだ。

 

見る前の予想

 チャン・イーモウといえば、中国が誇る巨匠監督である。

 大して映画に詳しくない人でも、ひょっとしたらその名ぐらいは聞いたことがあるかもしれない。とは言ってもそれは映画でではなくて、おそらくあの悪名高い北京オリンピック開会式の演出において…だろうが。

 その後、一体どのような作品で映画に戻ってくるのだろう?…と、期待半分・不安半分。今までこの巨匠監督の新作を前にして、これほど不安を感じたことはなかった。何しろ演出力はピカイチだ。どんな映画もハズさない。あらすじを聞いて「こりゃダメだ」と思った高倉健主演単騎、千里を走る。(2005)だって、キッチリ面白い映画に仕上げてしまう危なげのなさだ。

 ただ、さすがに北京オリンピック開会式は、僕だってちょっとマズイと思った。ライブのはずの花火の空撮がCG合成だったとか、歌う少女の声は別人で口パク演出だったとか…これのどこがマズかったのかについては人によりそれぞれ意見が違うだろうが、ともかく素直に喜べないし感心できない結果ではあった。

 おまけにチャン・イーモウにとって良くなかったのは、中国政府「御用達監督」のイメージがまとわりついてしまったことだろうか。

 これがあってのCGに口パクだから、なおさら良くないのだ。世界的な巨匠として映画祭も批評家も絶賛していた彼なのに、これではまるで「呪われた映画作家」ではないか。僕もまさかこの人に、ベルリン・オリンピック映画を撮ってナチのシンパとして叩かれ続けた、レニ・リーフェンシュタールみたいなイメージがつくとは思ってもみなかった。さすがにリーフェンシュタールは大げさかもしれないが、その対外的イメージがかなり損なわれたのは間違いない。そんなわけで僕は新作の登場を、微妙な面持ちで待ち続けたわけだ。

 そんな中で登場した新作は、久々の純愛路線の作品だという。

 時は文化大革命もたけなわの頃、そんな「政治の時代」にはかなく散った恋の物語…。正直言って今さら文革を批判した映画なんて、ちょっとズレてるんじゃないだろうかという気もする。これって、中国政府「御用達監督」のイメージを払拭すべく、失脚しないギリギリの線でやった「名誉回復策」なのだろうか? だとすると、なおさら意図がミエミエ過ぎてイヤだ。

 もっといかがなものかと思ったのは、純愛路線という点だ。今度のヒロインも純朴さが売りで、この映画の後では中国の国民的「妹」として知られるようになったという。だけどチャン・イーモウって、そんな映画を前もたくさん撮っていたっけなぁ。かつての成功体験から考えて、最も自分が得意で安全な領域に戻って、まき直しを図ろうというのだろうか。何だかそんな「保身」「守り」の姿勢しか感じられない。それが世界的巨匠の作品としたら、ちょっとさびしすぎやしないか。

 そんなわけで、僕はどうにもこの新作を好意的に見れそうもなかった。それでも公開されるとなれば、絶対に見ないわけにはいかない。たまたま知人に試写会に招待してもらったこともあって、コワゴワ劇場まで足を運んだわけだ。

 

あらすじ

 1970年代初頭、ここは中国の山の中にある田舎町。今日も今日とてルオ先生(チェン・タイシェン)に率いられ、都会の高校生たちが農村での学習にやって来た。

 これは農村に学べというスローガンの下に行われているもので、当時としては当たり前のこと。そんな彼らを歓迎したのは、わざわざ出迎えてくれた村長(リー・シュエチェン)と、村の名物であるサンザシの樹。この樹には抗日戦争の勇士たち士の血が染み込み、白い花が赤く咲くという言い伝えがあった。

 さて、高校生は一人ずつ、村のそれぞれの家に泊めてもらうことになった。女子高生ジンチュウ(チョウ・ドンユィ)が泊めてもらうことになったのは、村長の家だ。

 ここでジンチョウは、運命的な出会いを果たす。村長の家族と親しくしている青年スン(ショーン・ドウ)との出会いだ。

 「年上のお兄さん」スンは、何かにつけてジンチョウに気を配り、優しくしてくれる。ジンチョウもどんどん彼に好意を抱いていく。最初はアメを、次には万年筆をプレゼント。スンは何やら地質調査員として近くの山に同僚とテント暮らししているようだが、実は党の上層部の息子のようで自身もかなり実入りはいいようだ。

 ところがある日、ジンチョウは村長の家族から、スンに婚約者がいることを聞かされる。これはジンチョウにはショックだ。別に付き合っているわけでもないのに、ジンチョウはスンにつれない態度を示す。スンは何が何やら分からず当惑するばかり。そのままジンチョウが街に帰る日がやって来て、二人は離ればなれになってしまう…。

 しかし、それもつかの間。すぐに誤解も解けて、ジンチョウはスンに再び淡い恋心を抱く。それはスンも同じで、何と時々、スンはジンチョウの住む街に出没して、高価な氷砂糖などをジンチョウの幼い弟妹に託したりした。ついには大胆にもジンチョウの家にまで現れるスン。しかし、それは二人にとっていささか危険な賭けでもあった。

 高校を卒業したジンチョウは、教職に就くチャンスを手に入れる。まずは見習いとして仕事を覚えていくことになるが、ここで「しくじった」らやり直す機会は来ない。だから彼女は、言動を慎重にならざるを得ないのだ。

 文化大革命の中国で、ジンチョウの親は反革命分子として迫害されていた。父親は投獄され、母親(シー・メイチュアン)も周囲から白い目で見られる身。家は貧しく、常に一家総出の内職で生計を建てる日々だ。氷砂糖は働き過ぎで身体を壊したジンチョウの母親への、スンのせめてものお見舞いの気持ちだったのだ。

 しかし、だからこそジンチョウは必要以上に言動に注意しなくてはならない。恋愛にうつつを抜かしているなどと人から言われたら、一家はこれからどんな目に遭うのか分からないのだ。その危うさは、ジンチョウ自身が誰よりも分かっていた。

 しかしそうはいっても恋心は抑えられない。そしてスンも、何だかんだと大胆に彼女に会いに来る。実は彼の母も反革命の烙印を押されて、自殺の道を選んだという過去があったのだ。しかし、スンはそれを気に病んではいない。むしろこう言って、明るく笑い飛ばすくらいだった。「いずれ、政策だって変わるさ!」

 そんな傍目を気にしつつ恋心を育む二人だったが…。

 

変節と紆余曲折を重ねてきたチャン・イーモウ

 チャン・イーモウが鮮烈に登場したのは、もちろんみなさんご存じ「紅いコーリャン」(1987)から。当時はちょうどわが国でミニシアターが盛り上がっていた時期ということもあって、その名は一気に映画ファンの間で轟いた。

 その後もしばらくは、ベネチア、カンヌ、ベルリンなど世界の映画祭で受賞は数知れずのアート系監督として、その名声をますます高めていた。しかしその作品の傾向は、ある時から微妙に変化してきていたのだ。その第1弾はあの子を探して(1999)、さらにチャン・ツィイーの出世作となった初恋のきた道(1999)、そして至福のとき(2002)によって、その路線は決定的なものとなる。この3作はいずれも純朴で若い(幼い)ヒロインを中心に、チャン・イーモウが培ってきた圧倒的な演出力で観客を徹底的に泣かせ、その涙を搾り取ってやろうという作品群だ。それらは、「紅いコーリャン」でデビューしてからコン・リーと手を携えて作り上げてきた作品群とは、いささか様相を異にしていた。世間ではどう思っていたか分からないが、僕自身はこれらの「泣かせ」作品群をかなり商業的な路線だと受け止めていたのだ。

 ここでまず確認しておきたいのは、僕は映画における商業性ということを、決して悪いとは思っていない。よく商業性というと「金儲け主義」みたいで悪く思われがちだが、そもそも職業として映画を作ってカネをとって見せるなら、映画はすべて商業映画なのである。そこに「清貧」云々なんざ片腹痛い。きっとゴダールだってイイ生活しているぜ。

 だから僕はこれらの作品の「商業性」を悪くは思わなかったが、いかんせん初期作品の持つダイナミズムというか、大胆さやスケール感が失せてきたのが気になった。例えば、僕はこの頃、「黄色い大地」(1984)で一足先に中国映画のニューウェーブとして登場したチェン・カイコーあたりと比べて、何だかチャン・イーモウは妙にチマッとしちゃったなと感じていたのだ。特に「あの子を探して」や「初恋のきた道」では、チャン・イーモウが初期作品でよく使っていた「田舎」に再び舞台を移し、映画のポイントを若い(幼い)ヒロインの純朴さに一点集中させて観客を泣かせる。イマドキ珍しいくらいのヒロインのイノセントさを前面に立てて、見る者の涙を誘うというあざとさだ。もちろん出来上がった映画は天下のチャン・イーモウだから、そんじょそこらのお涙頂戴映画とは一線を画している。出来も格も違う。しかしながらその志はちょいと低くなってはいないか…と思ったわけだ。

 その同時期にチェン・カイコーはイギリス映画に挑戦していて、巷の映画ファンには「商業主義に走った」とコテンパンにされていたものの、僕はもとより「映画は最初から商業主義だ」と思っていたから気にはならなかった。だとすると、異文化の中に果敢に飛び込んでいって、良くも悪くも「前のめり」な姿勢を見せていたチェン・カイコーは「冒険者」としてその志は買える。しかしチャン・イーモウはと言えば、絶対うまくいく範囲でしか映画を作ろうとしていない「内向き」な姿勢しか伺えなかった。何だか無精な奴が寒い日にコタツから一歩も出ないですべての用事を済ませようとしているよう(笑)に、ずいぶん後ろ向きだなとしか思えなかったのだ。

 ところが、その後でチャン・イーモウはアッと驚く大変身を遂げる。

 それまでの彼の作品では考えられないようなジェット・リーを筆頭にした中華圏オールスターを起用して、CGからワイヤーアクションまでを駆使した娯楽アクション大作HERO/英雄(2002)を発表したのだ。これには世間は驚いた。雰囲気的には「セックスと嘘とビデオテープ」(1989)でカンヌのパルムドールを受賞したマイナー監督のスティーブン・ソダーバーグが、いつの間にかジョージ・クルーニーやブラピなどオールスター主演のオーシャンズ11(2001)を監督するようになっていたみたいなもの(笑)だが、衝撃度はこっちの方が上か。とにかくどう見たってアートシアター系の映画作家だった男が、いきなりオールスターの商業娯楽大作を撮ったのだからビックリだろう。

 ただし僕は前述のように、「あの子を探して」「初恋のきた道」「至福のとき」の純朴ヒロインものを撮っている段階で大衆娯楽路線に転換していたと思っていたから、この路線転換はそれほど意外とは思われなかった。

 さらに当時はアン・リーというこれまた異色の人材が、意表を突いた中華チャンバラ娯楽大作グリーン・デスティニー(2000)を発表。これが興行的に中華圏のみならず全世界で大成功しただけでなく、何とハリウッドのアカデミー賞までも席巻したという大事件もあった。当然、中国・香港など中華圏の監督たちは「ならばオレだって」と名乗りを挙げたくもなる。まして当時は決して娯楽派とは思われていなかったアン・リーの大変身を見れば、チャン・イーモウあたりは「オレならもっとうまくやれる!」と思ったのかもしれない。この「HERO/英雄」も大成功となった後には、何とチャン・イーモウの宿命のライバルであるチェン・カイコーまでPROMISE/プロミス(2005)を引っさげ参戦する始末。他にもフー・ピンヘブン・アンド・アース(2003)、ツイ・ハークセブンソード(2005)、ピーター・チャンウォーロード/男たちの誓い(2007)、さらにはハリウッドから出戻りのジョン・ウー「レッドクリフ Part I(2008)、レッドクリフ Part II/未来への最終決戦(2009)までが続く。というわけでいずれも手練れの中華圏監督たちによる、オールスター中華チャンバラ娯楽アクション大作が続々制作されるキッカケとなったのだ。

 ところがこの路線もそう続くわけもなく、チャン・イーモウは姉妹編LOVERS/謀(2004)を発表しただけでアクション作品を打ち止めとしてしまう。次に作ったのが例の高倉健主演「単騎、千里を走る。」だが、このあたりから僕個人としては、チャン・イーモウが次にどう進もうかとかなり迷っているのではないか…と思わされたりもしたのだ。

 次に作ったチョウ・ユンファとコン・リー主演の豪華大作「王妃の紋章」(2006)も、日本では2008年に公開が遅れたこともあって、何だかデカイ場所を使ってオリンピック開会式の予行演習でもやっているようにしか見えなかった。まぁ、そうは言っても出来栄えは大したものなんだが、どうも本人は迷走しちゃってるんじゃないかと思えたわけだ。

 実際のところ、この時期は本当にチャン・イーモウはオリンピック開会式演出の準備で頭が一杯だったみたいで、どうも本業の方はお留守だったみたいだ。だから作品もカンヌ映画祭の60周年記念映画「それぞれのシネマ」(2007)中の短編を作ったくらい。当然、作品の発表頻度もガタッと落ちた。

 おまけにこのあたりから、日本ではあれほど盛り上がったミニシアター・ブームがすっかり下火になった。代わりに盛り上がってきたのは、もっと収益率のいいシネコンばかり。ミニシアターなどにかかるヨーロッパーやアジアのアート系映画などは、すっかり需要が少なくなってしまった。考えてみれば、ミニシアター・ブームはビデオソフトの需要の急増とバブル経済の副産物みたいなものだったから、このあたりまで生き残ったのが奇跡なのかもしれない。僕なんかもどこかお高くとまっていたミニシアターのあり方に、前々から「???」という気分もあったのが正直なところだ。

 しかし、物事何でも「過ぎたるは及ばざるがごとし」。アートシアター系の作品がどんどん少なくなって、どいつもこいつもトランスフォーマー(2007)みたいな大味映画ばかり(アレはアレでキライじゃないけどね)か、あるいは日本映画だけしか受け付けないってのはいかがなものか。すっかり周囲には「邦画オンチ」ってことにされてるんで否定はしない僕だが、どうも昨今の若い人の「邦画がいい」っていう言いぐさの、閉じた「映画ナショナリズム」みたいなモノは不健康な気がする。口を開けば「ボクたちワタシたちには偏見はないんですっ」という決まり文句を吐く割には、「やっぱり日本人には日本映画」とか言ってる口ぶりを聞いてると、オマエら「水戸黄門」楽しみにしてる年寄りどもか?…と言いたくもなる。「水戸黄門」だってもう放送終了だぜ。映画ってそういうもんなのか。何だかなぁ。

 世間じゃ韓流タレントがモテはやされているらしいが、あんなに騒がれた映画の韓流はとっくの昔に下火。そんなこんなで、本当にヨーロッパやアジアのアート系映画、そしてついでにアメリカのインディペンデント系映画などまで出番がぐっと減ってしまった。これはこれで嘆かわしいことではないか。もうちょっとバランス良くいかないもんかねぇ。

 閑話休題。そんなわけでミニシアターが下火となったところに娯楽大作も作らないとなると、それでなくてもチャン・イーモウみたいな映画作家は日本のスクリーンにかかりにくくなる。それでチョウ・ユンファとコン・リーという中華黄金カードを切っての大作「王妃の紋章」までが、何だかんだと公開が遅れたのだ。これほど大物が顔を揃えた期待作でも、もはや日本公開は難しくなってきたのである。今回、チャン・イーモウの新作にかなり「ご無沙汰」感が漂っているのも、無理はないのだ。

 そんな巨匠チャン・イーモウでも新作の日本公開が必ず約束されているわけではない…というような状況下に、あの北京オリンピック開会式事件は起きた。

 

オリンピック後のチャン・イーモウの明暗

 例の開会式を巡るゴタゴタについては、僕もドラゴン・キングダム(2008)の感想文冒頭にチョコッと書いているので、あまりクドクド繰り返したくない。例の花火のCGと少女の歌の口パク。これをもってヤラセだウソだと中国全体をボロクソに叩いている人たちもいるが、実は僕が気に入らなかったのはそういう事とはちょっと違う

 映画監督であるチャン・イーモウが、これだけの規模のビッグ・イベントを演出する。撮影した素材を編集して作品にする「映画」は、いわば「時間の芸術」だ。時間を自由自在に扱って作品を作る。そんな仕事をしてきた大演出家が、あえてこれほどの大舞台で「ナマ」でイベントを仕切るのならば、そこには当然「ナマ」である必然性とこだわりがなければならないだろう。映画では出来ない「ナマ」ならではの緊迫感とライブ感覚を活かして、世界生中継のテレビまでも駆使して観客を魅了したいと思うはずだ。それが演出家の心意気というものだろう。

 なのに、CG合成と口パク

 これが元々、舞台演出家みたいな人が演出を手がけていたのならば、僕はこんなにイヤな気分にならなかったのかもしれない。しかし「映画」というものを知り尽くしているはずのチャン・イーモウならば、それが「ナマ」であることの意味を誰よりも分かっていたはずだ。そして、ここは「ナマ」にこだわらなければならないということも…。映画という「再生装置」では出来ない「ライブ」ならではの興奮や熱気、人智を超えたハプニングが生む一回限りの奇跡を起こしてこそ、リアルタイムなイベントを行う意味がある。それなのに、何でこんなケチなマネをやってしまったのか。

 そもそも、これほどの大舞台でこんなケチくさい事をしたなら、映画の世界に戻っても無傷では済まないんじゃないか。クリエイターとして致命的な後遺症を残すのではないか。僕はその時、何となくそんなイヤ〜な予感を感じてしまったのだ。「映画」というモノの「必然性」さえ見失うんじゃないか…と。

 作家としてのチャン・イーモウにこの開会式事件がどのような影響を与えたか…については、さすがに今のところ僕にも分からない。しかしCG合成と口パクの一件は、チャン・イーモウの名前に大きな傷をつけてしまったのは間違いない。とにかくあの開会式演出では、チャン・イーモウは…少なくとも国外の映画ファンやマスコミからは…初めてと言ってイイほど激しい非難を浴びた。それまでは欧米でも日本でも絶賛の嵐だったから、これは今までになかったことだろう。本人もさすがにマズかったと思ったんじゃないだろうか。

 それでなくてもこの開会式を引き受けた時点で、中国共産党「御用達監督」呼ばわりは免れなかった。直前にチベットなどの人権問題がらみで、協力するはずだったスティーブン・スピルバーグが降りたのも痛かった。ハッキリ言ってスピルバーグは何だかよく分かっていなかっただろうが(笑)、アメリカ国内世論がうるさいのでサッサと降りたのだろう。

 それでも、正直言って「独裁政権」が開催するオリンピックに協力する時点で、こうなるリスクは多分にあった。そこにこのCG合成と口パクだ。聞くところによると、中国共産党のお偉いさんがこれを指示したらしい…というウワサがあるようだ。確かに世の東西を問わず、政治家や役人と来れば威張りたがり怠けたがりのバカばかりと相場は決まっている。しかし「世界的巨匠」のチャン・イーモウがそれを甘んじて受け入れるとはなぁ。あれだけ世界で築いてきた名声も、この一件でかなり色あせたものになってしまったように思える。

 そんなチャン・イーモウが、また純愛映画、また文革を背景にした物語…を新作に選んだというのだ。正直言ってかなり胡散臭い気持ちがしないでもなかった。

 また純愛映画ですか…。見るからにウブな感じのヒロインを使うのも、この人の常套手段だ。「初恋のきた道」のチャン・ツィイーだってさすがに男の僕でもこりゃちょっとブリッ子が過ぎるんじゃないかと思ったよ。そりゃ泣かせのテクニックは世界一だろうが、それって作家としてのクリエイティビティーはあるんだろうか。またまたコタツから一歩も出ずに…の類の「後ろ向き」な発想ではないか。

 しかも文革時代が背景となると…「文革恨み節」テーマの映画は一頃の中国映画の流行ではあったが、やりすぎると東京国際映画祭でモメた「青い凧」(1993)みたいに当局に睨まれたりして、元々どこまで許されるかは微妙なところがあった。そして他の流行と同様に、この時代をテーマにした映画もいつの間にか淘汰されてしまったのだ。そんなこんなで、ここへ来てこの題材と聞くと「今さら」感が漂うのが正直なところだし、今のチャン・イーモウが手がけるとなるとこいつを「免罪符」にするつもりなのか…という邪念がどうしても払いきれない。今度は北京オリンピック開会式演出家として、共産党から堂々のお墨付きをもらっての安全運転の「文革」話かい…と、少々意地悪な見方をしたくもなる。

 ただ…そこらへんについては、ちょっと微妙な点がある。僕も簡単にチャン・イーモウを批判しちゃっていいのか…と気持ちが揺らがないでもなかった。

 実は、僕がどこか冷ややかに見つめていた「あの子を探して」「初恋のきた道」「至福のとき」の純朴ヒロインもの三部作への転換の前に、チャン・イーモウの身には大きな事件が降りかかっていた。文革の流れの中でモミクチャにされる人々を描いた活きる(1994)が、カンヌ映画祭で騒動を起こした件だ。

 この事件は、東京国際映画祭における「青い凧」の事件と似ていた。確かどちらも文革のことを扱っていた内容だったので、中国政府が怒って映画祭から代表団を引き上げてしまったはずだ。当然、その作品自体を作ったチャン・イーモウ自身も無傷であったはずがない。おそらくかなりヤバイ状況に追い込まれたのではないだろうか。

 しかも聞くところによれば、チャン・イーモウの家はかつて文革の時に迫害されていたとのこと。当然、その頃のイヤ〜な思い出が蘇らざるを得なかっただろう。ある程度、発言の自由がある国に住んでいる我々が無責任なことを言うのは勝手だが、実際のところ身の危険すらあり得る状況下では、そうそうエエカッコしいのことばかりも言ってはいられないはずだ。そうなると、確かに「活きる」後のチャン・イーモウの創作活動には、この事件の多大な影響が出たのは間違いない。「あの子を探して」「初恋のきた道」「至福のとき」の純朴ヒロインもの三部作への転換は、まさにこういう状況下で起きたことだったのだ。日本では「活きる」の公開が2002年まで遅れてしまったため、このへんの事情が分からなかった。だから僕も、単純に「最近のチャン・イーモウって後ろ向きだなぁ」ぐらいしか思わなかったのだ。その裏にある事情など、察することもできなかったのである。

 だとすると…彼がオリンピック開会式の演出を嬉々として引き受けたことも、責められないことなのかもしれない。単純に一人の中国人として、この国家的大イベントを成功させたいと思ったのかもしれないが、今まで何度もその「国家」にイヤな思いをさせられているのなら、そこには何がしかの複雑な感情が絡むのは当然だろう。これでもう、いつ突き上げを食うかいつ誰からかチクられるか…とビクビクすることもなくなる。当局から絶対安全保障をもらったも同然だからだ。何度もイヤな思いをしたであろうチャン・イーモウが、これを受け入れた気持ちは分からないでもない。それを誰が責められるだろう。そしてこのチャンスは絶対に失敗できないと、ついついCGや口パクに走ったのも分からないでもない。オレでもそうするだろう。

 しかし、その代償は世界からの非難ごうごう。それまで培ってきた信頼や評価に傷がついてから、改めてチャン・イーモウは失ったモノの大きさを痛感したのではないだろうか。だからこの新作で、少しでも失地回復、免罪符を得たいと思ったのではないだろうか。

 しかしその気持ちは分かるとして、それが映画の質を高めるかどうかは話が別だ。そういうモチベーションで作られる映画が、いいものになるとは僕にはちょっと思えない。

 そんなこんなの複雑な思いで、僕は今回の作品をあまり期待できないと思ったのだ。

 

見た後での感想

 さて、そんなアレコレの懸念を抱きながら見たこの新作、果たしてどうだったのか?

 ここでズバリと言ってしまおうと思ってみたのだが、実はこの作品、「ズバリ」と言ってしまうのが極めて難しい映画なのだ。一言で語るに語れない映画なのである。

 まずはこの映画のストーリーだが、まったくこの手の純愛映画の「ど真ん中」そのものだった。これを「鉄板」とでも言うべきだろうか、それともあまりに凡庸で陳腐だとコキ下ろすべきだろうか。

 どこかのレビューか広告に、中国の「世界の中心で、愛をさけぶ」(2004)だとかナントカ書いてあったように記憶しているが、ホントに本当にそうだったのだからビックリした。これが天下の巨匠、チャン・イーモウの手がける題材なのか…と驚いたよ。

 ただ、チャン・イーモウは例の「あの子を探して」「初恋のきた道」「至福のとき」の純朴ヒロインもの三部作を作っているし、チャン・ツィイーにブリブリな役をやらせてもいたから、こういう志向があるのは理解できる。そしてさすがにその演出のデリケートさは、凡百の純愛映画やお涙頂戴映画が逆立ちしたってマネできないレベルだ。大したものなのである。

 しかしやっぱり中国が世界に誇る大巨匠チャン・イーモウがわざわざ手を出す内容なのかいと言われれば、ちょっと疑問を感じずにはいられない。

 ヒロインは…今までの清純ヒロイン、チャン・ツィイーとか「至福のとき」のドン・ジエとかと比べると、どちらかと言うと山から切り出した原木のような、より素人っぽい「素材」としての女の子が選ばれているように思える。それくらい今回のチョウ・ドンユィという女の子には「女優」臭が乏しいのである。何となく剥きたてのゆで卵みたいな彼女の顔は、美人というより愛嬌のある可愛い顔だ。そんな彼女の個性をチャン・イーモウは120パーセント利用して、とにかく健気で可愛く撮りまくっている。相手役のショーン・ドウは白い歯が印象的なサワヤカ青年だが、ハッキリ言ってイマドキは絶滅したタイプ。中井貴一をさらに古くしたような二枚目だ。まぁ、これは物語の時代背景が時代背景だから、仕方ないのかもしれない。

 この二人がおずおずとお互いに好意を持っていくあたりは定番だが、さすがにチャン・イーモウ老練のうまさ。ただこの映画の物語は、奇妙なことに途中でブツブツとブッた切られて、物語の過程を字幕による説明で語らせてしまう。そのあたりが妙に観客を物語の中に没入させずに退かせるような効果になっていて、僕は何とも奇妙な気分になっていた。お話は「実話」ということだが、そういう配慮もあったのだろうか。

 周囲の目を気にしながら愛を育む二人…という展開は、当然、見ているこちらをどんどんハラハラさせていく。それなのに二人はどんどん大胆になっていて、いつ周囲の人間にバレてもおかしくないシチュエーションを作り出してしまう。このへんのサスペンスの煽りはちょっとあざといが、やっぱりこの手の映画のお約束だろう。よせばいいのにヒロインの周囲に彼氏がチョコチョコ出没。おまけにリヤカーを引く彼女をコッソリ手助け。それだけならまだしも、途中で「ちょっとぐらい休んだっていいだろ?」とか言い出して水遊びを提案。ここでヒロインが物陰で恥ずかしそうに水着に着替える趣向は、「至福のとき」でドン・ジエを下着姿にひんむいたムッツリスケベおやじチャン・イーモウの面目躍如(笑)。それはともかく水遊びの後でお昼寝までしちゃうに至っては、こりゃあ二人が会っていることがバレて、ここから共産党に吊し上げくって悲劇に転じるんだな…と僕あたりは思いこんでしまった。結局ここではそんな事は起きないで終わってしまうが、そんなドリフの「8時だヨ!全員集合」のコント的なハラハラ(いかりや長介が見回りに来るまでの間に、他のメンバーがコソコソと好き勝手に遊んだりするような趣向)が繰り返されて、見ているこっちはいいかげん心臓に悪い思いをさせられるのである。まったくチャン・イーモウは人が悪い。

 結局、最終的にはヒロインの母親にバレてしまうのだが、それも自転車二人乗りしている彼らが母親が歩いているところに「ホイッ」と出ていってしまう…という、アッケラカンとした拍子抜けしたかたちで描かれる。サスペンスを煽りはするのだが、それを実際のドラマの悲劇性には活用していないのだ。

 実はこれがこの作品の微妙なところで、日本では宣伝などで「文革の嵐の中ではかなく散った恋」みたいなことを言われていて、確かに主人公たちも文革時代の空気みたいなモノを恐れてもいるのだが、実際には文革が彼らの恋を脅かしているという描かれ方はしていない。彼らは「資本主義のイヌ」呼ばわりされて引き裂かれるわけでもなく、共産党幹部の好色の餌食にされるわけでもなく、もっとどうしようもない力で引き離されることになる。

 ただ、その悲恋の要因となるのが白血病っていうのは…。

 ホントに「世界の中心で、愛をさけぶ」だわ…っていうか、吉永小百合の「愛と死をみつめて」(1964)を思い出すというべきか。純愛に難病と来るとは、まるっきり芸もヒネリもない展開。まぁ、額面通り原作が「実話」だっていうなら仕方ないが、あまりにミエミエなストーリーをどうしてチャン・イーモウが映画化しようとしたか理解不能だ。

 ただ…やっぱりうまいのだチャン・イーモウは

 川の向こうとこっちに引き離されて、お互い見つ合うしかできないカップル。そんな二人が周囲に人がいなくなったのを見計らって、お互いに触れあったり抱き合ったりするカタチをパントマイムかジェスチャーみたいに演じてみせる。これは何より映画として「視覚的」で、何とも切ない演出だ。このあたりは、そこらの職人監督が束になってかかっても敵わない。

 ただ、「あの子を探して」「初恋のきた道」「至福のとき」の純朴ヒロインもの三部作あたりで見られた純度100パーセントの「泣かせ演出」と比べると、こちらはなぜか今ひとつそのチャン・イーモウの華麗なるテクニックが爆発しない。ググッと来たかと思うと途中で字幕が入って流れが中断されるし、何となくチャン・イーモウ自身も覚めて演出しているような印象がある。うまいのに、出来るはずなのに、それまではやっていた全力演出を今回はやっていない気がするのである。

 そのあたりのことや、いろいろハラハラ要素はあっても結局文革は物語の背景でしかなくて、実は共産党は実害なし…という「配慮」ありすぎの物語設定といい、見ている僕の方も何となく途中で覚めつつ見ていたという感じ。トコトン酔わせてはくれないのが今回の作品だ。

 ただしお話の終盤、瀕死の彼氏のもとにヒロインが駆けつけるくだりは…さすがにチャン・イーモウ、その演出力をフルパワーで放出して観客を圧倒だ。もはや目もうつろな彼氏が病床から見上げた天井には…ヒロインと笑顔で写したたった一枚の記念写真が貼ってあるではないか!

 ひ〜〜〜、これは反則だよ!

 思えばチャン・イーモウのこの手の作品には、いつも「再生装置」がここぞという時の最終兵器として活用されていた。あの「あの子を探して」の終盤、いなくなった子供に向けて「心配しているのよ」と訴えるヒロインとそれを映し出す「テレビ」画面。「初恋のきた道」では物語の本題に入るための触媒として、古い「写真」が登場した。「至福のとき」のラストで観客の涙を搾り取るのは、「テープレコーダー」に録音されたヒロインの別れの挨拶だ。そして「単騎、千里を走る。」では、高倉健が「ビデオ」映像で必死に思いを訴えた。今回の作品でもそうしたチャン・イーモウの必殺技として、主人公二人の記念「写真」が出てくるわけだ。少なくともこの場面に関しては、チャン・イーモウは本気だ。ここはまさに力づく、ほとんど強姦のように泣かされてしまう。さすがにチャン・イーモウには勝てないなぁ。

 むしろここまでの物語や設定、スジの運びなどに破綻やボロが散見されるだけに、かえってチャン・イーモウの自信みたいなものが感じられる。オレなら多少無理のある設定や脚本でも、ここぞというところで観客を圧倒できる自信がある…ってなところだろうか。悔しいけれど、やはり巨匠さすがである。

 それと同時に、こうも考えられるのだ。

 企画なら選び放題なはずのチャン・イーモウが、わざわざ構成がガタガタなこのお話を映画化しようと決めた理由こそ、最後の一点で最大の演出力を発揮できるから…なのではないか。

 「あの子を探して」のテレビ、「初恋のきた道」の写真、「至福のとき」のテープレコーダー、「単騎、千里を走る。」のビデオ…それらは現実にはそこに本人がいるわけではなく、多くは時間的にも「その時」のモノではない。ある瞬間を記録し、それを再生している「再生装置」に過ぎない。

 それこそは「映画」というものの機能ではないのか?

 彼がオリンピック開会式の演出で「しくじった」のは、やっぱりライブであるべきものを「再生」や「加工」で逃げてしまったところにある…と僕は思っている。そしてチャン・イーモウも、おそらくそれに気づいているはずだとも思っている、オペラの演出なども手がけたことがある彼なら、それが分からないはずがないだろう。ならば「再生装置」で優れた作品を発表してきたアーティストとして、そのメディアの特性を知り尽くしていた男としては、あの北京オリンピック開会式のCG合成や口パクは、世界中がリアルタイムで注視するライブの大舞台に臨むにあたってあまりに無神経な態度だったのではないか。だからチャン・イーモウは今回、他の要素には難があると百も承知で、いや、むしろそうだからこそ…この「再生装置」である記念写真のショット1点集中で、その演出力の全力を注いだのではないか?

 映画とは時間の芸術である…ということなど、オレはもちろん分かっているよ。

 それを証明したいからこそ、この1点だけが突出する構成のこの作品を選び、圧倒的な演出力で見せたのではないか?

 今までのチャン・イーモウの軌跡を考えると、そう見るのがごく自然なのではないかと思えるのである。

 

物語に埋め込まれた奇妙な記号とは?

 そんなわけで、僕にはチャン・イーモウなりの北京オリンピック開会式に対する汚名挽回だったように思える「サンザシの樹の下で」。実はそんなチャン・イーモウの意図は、この映画の他の点からも浮かび上がって来るのである。

 先に僕はこの映画の物語について、“いろいろハラハラ要素はあっても結局文革は物語の背景でしかなくて、実は共産党は実害なし…という「配慮」ありすぎの物語設定”…と、少々意地悪い言い方で語っていた。確かに物語の上っ面だけを見ると、まったくその通りだ。以前の文革恨み節映画と比べても、文革や当局などを批判する内容にはなっていない。そうなりそうなところは、巧みなバランス感覚で逃げている。

 またヒロインが参加している「革命舞踊」なるステージの内容も噴飯モノでコッケイなものとして描かれてはいるが、それも「現代の視点」から見てのものだから、ただ当時を再現しただけ…と言えなくもない。批判しているかどうかは微妙なところなのだ。それは「昔の携帯電話ってこんなにデカかった」と苦笑気味に描かれるウォール・ストリート(2010)の冒頭ぐらいの意味合いでしかない。何とも世間の立ち回り方がうまいチャン・イーモウよ…と、僕なんかは無責任に言いたくもなる。

 しかし、本当にこの映画はそんなに無難な内容になっていると言い切れるのだろうか?

 実は子細にその内容を点検していくと、物語のそこかしこに何となく引っかかる部分が出てくる。僕も最初の頃は気づいていなかったのだが、終盤あたりにはさすがに無視できず、妙に気になり出したのだ。

 それは彼氏が亡くなる原因である、「白血病」という設定だ。

 最初は僕も聞き流していたし、「なんだ、また白血病かよ」と呆れていたのであえて考えもしなかったのだが、よくよく考えるとこれが結構ミソではないか。なぜなら、この男の職業は地質調査員だからである。

 しかも、ヒロインが彼を探しに地質調査員たちが寝泊まりしているテントにやって来る場面では、もっと聞き捨てならない発言が出てくるのだ。彼女の応対をする彼氏の同僚は、この仕事を行っている他の人々にも同じ症状が出ていること、彼らが研究している鉱物にその原因があるかもしれないこと…を示唆するのである。

 昨今、日本でも毎日毎日福島の原発事故の話が語られ、やれ野菜や肉にどれだけの放射能が入っているだの入っていないだの、これだけ浴びたらヤバイだの安全だの…と、イヤになるほど聞かされている。だからつい敏感に嗅ぎ取ってしまったのかもしれないが、この同僚発言は何とも意味深ではないか。

 彼らが調査していたのは、ウランの鉱石ではないのか?

 実は1950年代に、日本でもウラン鉱山の採掘が行われたことがある。みなさんもご存じかどうか分からないが、それは岡山・鳥取両県にまたがる「人形峠」という場所だった。しかし採算がとれないと分かって採掘は中止。ところがその後、ここで働いた鉱山労働者たちから多数の肺ガン患者が出た。どうやらかなり劣悪な条件で働かされて、大量の放射能を浴びていたようなのだ。しかも採掘の際に出た残土は、いまだに放置されたままだと聞く。

 だからこの映画の彼氏もウラン鉱石の試験的な採掘を行っていた、そこで被曝して白血病を発症した…と考えれば、この設定はまったく不思議ではないのである。

 そういえばこの男、貧しいヒロインにアレコレと買ってやったりして、どうやら当時としてもかなり羽振りがいいように見える。それは「危険な仕事」に従事しているからこその、待遇の良さではないのか。そんな危険な仕事を「危険である」とも教えず、何の安全策もとらずにやらせていたのか。

 そんな事をやらせていたのは、一体どこの誰なのか?

 物語に埋め込まれた奇妙な記号をたぐっていくと、そこには注意深く覆い隠されていた、「本当に語りたかったこと」が現れてくる。チャン・イーモウは、本当はこれこそを言いたかったのではないか。だからこそ純愛物語の方にはのめり込まず、わざと距離を置いた覚めた視線を保っていたのではあるまいか。

 だとすると観客の僕らも、むしろそちらに目を向けるべきだ。そしてチャン・イーモウその人にも「御用達監督」とシラケた視線を浴びせるのではなく、別の視線で見てみる必要があったのではないか。僕はさすがに、ここまで考えて冷水を浴びたような気がしたよ。

 それは決して、人ごとではない。

 長い間、都合いいように誘導されてきた私たち…いやいや、それどころかマズイ事には目をつぶり、自ら喜んで尻尾を振ってホイホイ乗っかってしまったこの僕自身こそ、今こそ愚かだった我が身を恥じるべきだからである。 

 

 

 

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