「マイティ・ソー」

  Thor

 (2011/07/18)


  

見る前の予想

 この映画のことを最初に知ったのは、確かアイアンマン2(2011)のエンディングで…のことだったかと思う。

 映画の最後に、オマケみたいなエピソードがチラリと出てくる。どこかの荒野みたいなところにデカい穴が開いていて、そこに打ち出の小槌みたいなシロモノが地面に刺さっている…という一幕。事前に何も知らされていなければ、「何じゃこりゃ?」と言いたくなるような幕切れだった。

 まぁ、この映画に限らずインクレディブル・ハルク(2008)やらアイアンマン(2008)などにはエンディングにこうした「アメコミに詳しくない人間にはチンプンカンプンな楽屋落ちみたいなエピソード」を忍ばせて、そこには大体サミュエル・L・ジャクソンが出てきたりした。そして劇場パンフなどを読んでみると、自称アメコミ通みたいな評論家だかライターが偉そうに書いた、「マーベル・コミックスのヒーローたちはそれぞれマンガでも共演してるので、そのうち映画でも共演するだろう。これ常識!」…的な、書いてる奴の独りよがりな「どや顔」ばかりが目に浮かんでくるような文章が載っていたりもした。そんな文章を読むたびに、「またこんなマンガ映画ばかりつくるのかよ、いい加減にしてくれ!」とウンザリしたもんだった。

 そりゃ「アイアンマン」単体ならロバート・ダウニー・ジュニアの好演もあって楽しめる。しかし、「マーベルのヒーロー総出演!」とか言われたって、いくら自称アメコミ通が「豪華だろ?なっ!なっ!」と鼻息荒くしたところで、こちとらちっとも嬉しくなんかない。オレにとっちゃ「仮面ライダー大集合!」だとか「プリキュア・オールスターズ」とかと代わり映えしない。いやぁ、変なアメコミ通がデカいツラしないだけ、むしろそっちの方がマシかもな(笑)。プリキュアだったら可愛い子供が喜ぶ。だが自称アメコミ通が喜んだって気分が悪くなるだけだ。

 大体「ソー」って何だよ? 「スーパーマン」とか「バットマン」とか「スパイダーマン」とか「ハルク」なら知ってるけど、「ソー」って何だよ「ソー」って? 知らねえよ、そんなもん。どうせマーベルだってネタなくなって、大して知られてないカスみたいなキャラでも出して来たんじゃねえの?

 …実際には、さすがにあちらではそれなりに知名度のあるキャラらしいが、日本じゃ普通知られてないだろ。というわけで、「いよいよ“あの”ソーも映画化か」などとアメコミ通はハシャいでいたみたいだが、オレとしちゃ付き合いきれないってとこが正直な気持ちだった。

 ところがどうやら映画が出来上がって、いよいよ日本に上陸という頃になってみると…こんな名前も知らないチンケなヒーローの映画に、アンソニー・ホプキンスとかナタリー・ポートマンが出ているではないか。おまけに何を血迷ったか、日本の浅野忠信までが出演とは一体何が起きたのか? そういやモンゴル(2007)あたりからやたらと海外進出の話が出ていたが、まさかハリウッド上陸とは!

 こうなってくると、ぜひ見てみたいと思ってくるから人間なんて現金なモノ。しかしこの映画を見たいとは思っていたものの、「ソー」なんて奴には毛ほどの興味もわかないのだった。

 しかも、映画でそのソーを演じて主役を勤めるはずの俳優は、見たことも聞いたこともない奴。おまけに、あまり興味をそそるツラもしていない。何だかマックス・フォン・シドーや「屋根の上のバイオリン弾き」(1971)や「フォロー・ミー」(1972)に出てたトポル、オルネラ・ムーティやマリアンジェラ・メラートなんてヨーロッパの名優を脇に配置しながら、主役は見るからにボンクラなマッチョ男を配して、やっぱり思った通りのバカ映画だった「フラッシュ・ゴードン」(1980)の二の舞いになっちゃうんじゃないのか(実はオレは結構この映画キライじゃないけどね)。大丈夫なのかこんなデクの棒みたいな奴が主役で。

 しかもしかも、僕はここへ来て監督の名前に気づいて驚愕してしまった。何とお久しぶりのケネス・ブラナーではないか!

 第2のローレンス・オリヴィエとの呼び声も高く、シェイクスピアものの映画化にご執心。しかもハリウッドとも相性がよく、高尚なシェイクスピアの敷居を低くするべく巧みな映画化を試みていた人物だ。しかし、それにしたってマーベル・コミックの映画化なんてシロモノを、よくこの男にオファーしたし受けた方も受けた方だ。

 そういや考えてみると、最近この人の名前を聞いていなかった。ハリー・ポッターと秘密の部屋(2002)のゲスト出演が最後だったかな? あ、あまり面白くなかったリメイク版スルース(2007)の監督があったか。ともかく久方ぶりに名前を聞いたら、何がどうなったのかアメコミ映画の監督っていうから驚いた。

 ブラナーが監督で、アンソニー・ホプキンスとナタリー・ポートマンが出ていて、そこになぜか浅野忠信も出ていて、主役が知らない奴(笑)のアメコミ映画。こりゃ一体どんな映画になっているのか?

 これはともかく見ないわけにはいくまい。

 

あらすじ

 アメリカはニュー・メキシコの荒野。科学者ジェーン・フォスター(ナタリー・ポートマン)と彼女の恩師セルヴィグ教授(ステラン・スカルスガルド)、イマイチやる気が見られないアシスタントのダーシー(キャット・デニングス)は、何やら調査を行おうと夜中クルマでやって来ていた。この地で起こっていた不思議な現象が、ジェーンの研究と密接な関わりがあったからだ。

 しかし待てど暮らせど怪現象は起きない。ところがいいかげんダーシーがシビレをきらせた頃、上空で何かが異変が起きるではないか。慌ててその場所へとクルマを飛ばすジェーン。

 しかしいきなり前方から男が飛び出してきて、思わずクルマではね飛ばしてしまう。愕然とするジェーンたちであったが…。

 さて、物語はなぜか大昔へとさかのぼる。かつて世界は、いくつかの国の均衡で成り立っていた。その中にアスガルドという神々の国があり、我々人類の住む地球もあった。それらはいわば異次元の国々だ。

 ところがそれらの国のひとつ、氷の巨人たちがいるヨトゥンヘイムの国が地球征服の野望を抱いたことから平和は破られ、かくして神々の国アスガルドの偉大な王オーディン(アンソニー・ホプキンス)が氷の巨人の征伐に乗り出し、大きな犠牲を払いながらも勝利を得た。こうして世界は再び長い平和の時代を維持することができたのである。

 その王オーディンには、二人の息子がいた。兄ソー(クリス・ヘムスワース)勇気と正義を愛する男だが、いかんせん単純で少々傲慢なところもあった。向かうところ敵なしの強さだけに、力で何とかすればいい…という考え方しかしないのだった。その点、弟のロキ(トム・ヒデルストン)は争いを好まず内気で思慮深い男。そんなロキを、兄のソーとその取り巻きたちは、悪気はないものの少々からかったりもしていたのだった。

 そんな二人だったので、王オーディンも自然と兄ソーこそが後継者だと自然に考えるようになり、ある日、ついに王位継承の儀式を行おうということになった。しかし、ちょうどその時、予想外の事件が起こった。ヨトゥンヘイムの氷の巨人がアスガルドの城塞の中に侵入し、かつてオーディスがかつて氷の巨人から奪い取っていた、全ての力の源である箱を盗もうとしたのだ。

 犠牲を払って手に入れた平和。それを第一に考えるオーディンは、この件について報復をしないよう命じる。しかし、元来が単純単細胞ですぐ頭に血がのぼるソーは、よせばいいのに4人の仲間たちにヨトゥンヘイムへの奇襲攻撃を持ちかける。その4人の仲間たちとは、ファンドラル(ジョシュア・ダラス)、ヴォルスタッグ(レイ・スティーブンソン)、ホーガン(浅野忠信)、そして紅一点のシフ(ジェイミー・アレクサンダー)。ここに、ソーを心配したロキも加わって、ヨトゥンヘイムに向かうことになる。

 ところでアスガルドから他の国にはどうやって行けばいいのかというと、虹の橋という奇妙な物質でできた橋を渡ってゲートに行き、そこで門番ヘイムダルの(イドリス・エルバ)の許可を得て送り出されなければならない。そんなわけで彼らはヘイムダルをうまく懐柔して、ヨトゥンヘイムの国へとやって来る。

 そこは暗く冷たい、来る者を受け付けない氷の世界だ。案の定、氷の巨人たちの王ラウフェイ(コルム・フィオール)が彼らを待ち構えていた。そしていつの間にか氷の巨人たちに取り囲まれ、絶体絶命の危機に陥ってしまう。

 しかしそれでもソーは涼しい顔。俺にはこれがあるから大丈夫とばかり、「伝家の宝刀」とおかりに無敵のハンマーの「ムジョルニア」を駆使し、氷の魔人たちをガンガン痛めつける。

 しかしあまりに多勢に無勢なため、徐々に追いつめられていくソーたち。ソーは一人ゴキゲンで戦っているが、さすがにお付きの4人衆は、旗色が悪いと気づき始めた。こうしてどんどん追いつめられたソー一行は、いよいよ氷の巨人たちにやられてしまう一歩手前まで来た。するとその時、馬に乗ってやって来たのはかの偉大なるオーディン王ではないか。オーディンは氷の巨人の王ラウフェイに「ここは私の顔を立てて丸く収めてほしい」と頼み込み、さらに実力行使してソーたちをアスガルドの国に強引に連れ戻した。

 まずはめでたし。しかしオーディンの顔に笑顔はなかった。何故ソーは父王の命令に従えなかったのか。ところがソーはまたまたよせばいいのに、「弱腰ではやられる」とか「そんな態度ではナメられる」とか空威張りの威勢のいい発言ばかり。これにはさすがにオーディンも失望を隠せない。

 そんな父王の気持ちも分からず調子こいた発言を続けるソーに、オーディンの鉄槌が下された。

 ソーの身を守っていた鎧が引き剥がされ、無敵のハンマー「ムジョルニア」を取り上げられた。さらにソーはアスガルドを追放、人類の住む地球へと落とされた。そして「ムジョルニア」も同じ異空間へと放たれてしまったのだ。

 こうして「地球に落ちてきた男」ソーは、たまたま異常現象を調べていた科学者ジェーンのクルマに激突。さらに助けようとした彼女たちに錯乱して襲いかかったので、ダーシーの持っていた痴漢撃退の電気ショック銃でやられてしまった。

 おまけに担ぎ込まれた病院でも何が何だか分からず大暴れ。確かに並みの人間よりは強い。何人も束になってかかっても抑えきれない。しかしお尻に麻酔の注射一本打たれれば、赤子の手をひねるよりたやすく黙らされてしまうソー。ここではかつての勝手がきかない彼なのであった。

 一方、病院にソーを置いてきたジェーンたちだが、彼女たちの前にコールソン捜査官(クラーク・グレッグ)率いる特殊機関「SHIELD」のメンバーが現れ、有無を言わさず彼女たちの研究成果を持ち去ってしまった。怒り心頭のジェーンだが、こうなるとあの奇妙な現象と深く関わりがありそうな、ソーこそが唯一の手がかりということになってくる。こうして病院にとって返したジェーンたちは、そこでたまたま病院を脱走したソーとハチ合わせ。不思議にお互いの利害が一致したジェーンたちとソーは、行動をともにすることになる。

 その頃、神の国アスガルドでは、ソーの弟ロキが父王オーディンより衝撃的な事実を聞かされていた…。

 

見た後での感想

 まずは最初に、何だかんだ言って結構楽しめたということは言っておかなくちゃいけないだろう。

 昨今はアメコミ映画を作るのにもいろいろ難しい条件があるらしくて、何をどう勘違いしたのか分からないが、「哲学的内容」とまでバブリーに持ち上げられたダークナイト(2008)とか「ダークナイト」とか「ダークナイト」みたいな映画がモテはやされる(笑)。まったく「ダークナイト」ごときのどこが「哲学的内容」なんだか具体的に教えてもらいたいもんだが、ともかくは主人公が深刻な顔をして、シビアな展開の話になっていれば「哲学的内容」なんだそうだ。まったくアメコミ映画ってのはお手軽なもんだが、それならそれで、最初からアメコミ映画でございと開き直ってもらった方がナンボかいいか。

 そんなモヤモヤを抱いていた僕にとって、だから「アイアンマン」はまさに「分かってる映画」だった。もちろんロバート・ダウニー・ジュニアのユーモア演技もバカバカしい設定も、大人だから楽しめる趣向にちゃんとなっている。これが本当の「大人」の対応なんだよ。大した話でもないのに深刻ぶったら「哲学的」だなんて、そんな寝言は休み休み言っていただきたい。

 その点、さすがに「アイアンマン」を世に送り出したマーブルは、さすがにそういうバカなことは言ってこない。今回の「マイティ・ソー」もまた、ちゃんと大人のおとぎ話だって分かって作っている。このあたりが、安心して楽しめるゆえんだ。

 で、楽しかった…で感想をオシマイにしてもいいのだが、さすがにそれじゃマズかろう。出演者のことについてでも語ろうか。

 まずは主人公のソーを演じたクリス・ヘムスワースは、ハッキリ言って良くも悪くもないムキムキ役者でしかなかった。あんまり個性も面白みも感じられなかったしね。ちょっと他の作品で活躍できるかどうかも分からない。可もなく不可もなくといっては本人に申しわけないだろうか。

 脇を固めるアンソニー・ホプキンスナタリー・ポートマンも、今回は気楽に付き合ってる感じ。特にポートマンはこれの前が超ハードなブラック・スワン(2010)だっただけに、今回の肩の力の抜けかたはハンパじゃない(笑)。僕はそういうのキライじゃないな。アホな役柄を気持ちよさそうに演じていて、見ている方もホッとする。アンソニー・ホプキンスだって深刻な顔して芝居しているが、気分としては「マスク・オブ・ゾロ」(1998)の父親役をやった時と大して変わりないだろう(笑)。このあたりは彩りだから、顔を出してくれるだけでいい。

 問題は、「ハリウッド進出」の浅野忠信である。

 浅野と言えば、ある意味で「日本映画の顔」でもあった。一時期の日本映画は、こいつが出てなきゃ役所広司が出てるという状況がずっと続いていたのだ。それも、揃いも揃ってマイナーなアートシアター系映画ばかり。「鮫肌男と桃尻女」(1998)や茶の味(2003)などはキライじゃなかったが、やっぱりマイナー・イメージは拭えない。だから正直言って、自己満足映画ばかり出ていやがる…と、僕なんか思っていたわけだ。

 それが顕著に感じられたのが、海外監督と組んだ地球で最後のふたり(2003)や珈琲時光(2003)だろう。特に前者の出来栄えはひどかった。どうしてこれほど、撮ってる奴らだけが楽しんでる印象が漂うのだろうか? 実際、出来上がった映画は惨憺たる出来栄え。見ているお客をちっとも楽しませてくれない。これは浅野の日本国内での出演作でも同様だ。どれもこれもマスターベーション。だから「日本のマイナー映画なんかダメなんだ」とも思っていたし、「そんな映画ばかり出る浅野も好きになれない」と思っていたわけだ。

 ところがそんな浅野に変化が訪れたのは、やはりロシアのセルゲイ・ボドロフが撮った「モンゴル」に出たあたりからだろうか?

 浅野の海外作品への出演は、前述したように「地球で最後のふたり」あたりで経験済み。しかしそれらの作品は、限りなくマイナー・イメージ漂う映画ばかりだった。ところが「モンゴル」は、明らかにかなりのお金と人をつぎ込んだ超大作。そもそもセルゲイ・ボドロフという人そのものが、アメリカでも映画を撮ったことがあるほどスケールがデカい。当然その作品も、マイナー映画なんてカテゴリーでくくれるわけがない。そんな作品に浅野が出演したから、僕はかなり驚いたのだ。

 実際には「モンゴル」と前後して、浅野の出演作品の傾向が大きく様変わりしていた。山田洋次の「母べえ」(2007)だとか木村大作の「劔岳 点の記」(2008)だとかに、かつての浅野だったら果たして出ただろうか。それまでのマイナー臭漂うフィルモグラフィーが、ここへ来てガラリと変わったから驚いたのだ。挙げ句の果てのハリウッド進出は、浅野のこうした路線変更と無関係ではないだろう。何しろマイナー映画の浅野が、マーベルのアメコミ娯楽大作に出演しちゃうのだから。このあたり、浅野本人にいかなる心境の変化があったのだろうか。

 さて、そんな浅野の「ハリウッド・デビュー」だが、日本では広告などでアンソニー・ホプキンスやナタリー・ポートマンなどと並べて名前が出されていたりもしているが、実際のところはそれほどの大役ではないということを言わなくてはならないだろう。彼の役柄はソーの取り巻きの一人で、だから主演級とは言えない役どころだ。セリフも寡黙な男というキャラクター設定らしいので、決して大きくはない。

 しかしだからと言って、決して見逃すような小さい役であるとも言えない。むしろハリウッド・デビューをこれほどスケールの大きい映画でそれなりの大きさの役で経験することが出来て、浅野はかなり恵まれているのかもしれない。いきなりアカデミー助演男優賞候補のケン・ワタナベ(笑)より、よほど身の丈に合ったデビューの仕方かもしれないのだ。

 ともかく主役と絡む役の一角をゲットできたのだから、これは成功と考えるべきではないだろうか。

 

ケネス・ブラナーの得意分野の作品

 というわけで、映画としては一応楽しめる作品として出来上がった「マイティ・ソー」。だが、この映画を語るにあたっては、もうひとつの重要ポイントを忘れてはいけない。

 監督のケネス・ブラナーである。

 先ほど最近のブラナーはまったくご無沙汰だったと書いて、「ハリー・ポッターと秘密の部屋」のゲスト出演とリメイク版「スルース」の監督ぐらいしか例に出さなかったが、それ以外にもトム・クルーズのワルキューレ(2008)の出演だとか、アレコレとやってはいたのに忘れていた。特に近年は、裸足の1500マイル(2002)とかパイレーツ・ロック(2009)とか、脇で「大英帝国」的な悪役を演じることも多かった。結構いろいろやってはいたのだ。

 しかし近年、一時期ほどの輝きが失われていたのは確かだ。

 何と言ってもこの人と言えば、「第2のローレンス・オリヴィエ」的な謳い文句がまず頭に浮かぶ。シェイクスピア劇で頭角を現してきた人だし、ハリウッドへの登場も、監督主演の「ヘンリー五世」(1989)からだ。以来この人は、シェイクスピア劇の映画化で名を挙げていく。

 ただしこの人のスゴイところは、敷居の高いシェイクスピア劇をそのまんまでは映画化しないところ。良くも悪くもミーハー的解釈で噛み砕き、一般観客にもとっつきやすく映画化するのがこの人の持ち味なのだ。

 その最も分かりやすい例が、「から騒ぎ」(1993)だろう。

 何とキアヌ・リーブスマイケル・キートン、しかもしかもデンゼル・ワシントン(!)まで…強引ともいえるやり方でハリウッド・スターを大量起用。冒頭近くで一同が馬を駆ってやって来る爽快なカットなんて、まるで「荒野の七人」(1960)みたい。これは本当に面白かった。

 また、かなり長尺の「ハムレット」(1996)に至っては、チャールトン・ヘストン、ジャック・レモン、ビリー・クリスタル、ロビン・ウィリアムズなんてハリウッド・スターを投入。特にヘストンの登場には、往年のハリウッド・スペクタクル史劇へのオマージュが濃厚に感じられた。

 このようにケネス・ブラナーのシェイクスピア映画は常に敷居を低くするための工夫が盛り込まれているが、それは大概の場合、ハリウッド映画的なスタイルという形をとっている。確かに映画の基本は娯楽であり、娯楽映画の基本はハリウッドにある。だからシェイクスピアの映画化を大衆的レベルで成功させるには、大胆にハリウッド化するという発想は間違っていない。

 しかしケネス・ブラナーの場合、どうも彼自身がハリウッド映画に大きな憧れを持っているように思えるのだ。

 だから「ヘンリー五世」でアカデミー賞候補になってハリウッドに認知されると、すぐにハリウッドで「愛と死の間で」(1991)というヒッチコック風サスペンスを監督主演で撮ってしまう。ロバート・デニーロ主演で「フランケンシュタイン」(1994)を撮るかと思えば、ジョン・グリシャム原作をロバート・アルトマン監督で映画化した「相続人」(1997)で弁護士役もやる。おまけに何と「ワイルド・ワイルド・ウエスト」(1999)なんてバカ映画に出演して、これまたとびきり馬鹿げた悪役を嬉々として演じたりする。ウディ・アレンセレブリティ(1998)では、アレンの分身みたいな役まで演じている。ケネス・ブラナーの場合、これらを絶対に本人もノリノリでやってるのは間違いない。たぶん「ワルキューレ」でのトム・クルーズとの共演にも、内心興奮していたのではないだろうか。ビックリするほどミーハーに、ブラナーはハリウッドが好きなのである。

 そんなケネス・ブラナーの大活躍も、残念ながら20世紀の終焉とともに失速してしまった観がある。彼ならではのシェイクスピア映画も、恋の骨折り損(1999)が現在までのところ最後。この作品にもアリシア・シルバーストーンネイサン・レインらを迎えてハリウッド・ミュージカル的なアプローチを導入するという発想はいいのだが、イマイチそれが作品的に結実していない。バズビー・バークレーふうのプールの水中レビュー場面が出てきたりして、映画ファンとしては実に嬉しい部分も多いんだけどねぇ。

 そんなわけで近年はすっかりおとなしくなってしまったブラナーだが、まさかマーベルのアメコミ映画で再会するとは! 一体この映画でのブラナー起用を誰が思いついたんだろう?

 実はこれが、この映画の成功のカナメなのである。

 今回の作品は、ソーのふるさとである神々の国アスガルドと、ソーが落っこちて来た現代アメリカの2つの世界で展開する。そのうち前者は完全に史劇や神話の世界…つまりはブラナーが今までシェイクスピア劇でやって来た世界の延長線上なのだ。

 今回の映画では、ここにイギリス出身の名優アンソニー・ホプキンスを置き、抜群の安定感で史劇としての体裁を整えている。そこで描かれるのは、王家の中での暗闘…王位継承にまつわるトラブル、父と子の葛藤、兄弟の葛藤、傲慢、嫉妬、裏切り…これぞまさにシェイクスピア劇で描かれているものではないか。さすがに「マイティ・ソー」がシェイクスピア劇に匹敵するドラマだと言うつもりはない(笑)が、ここで描かれているものがどこか共通するテイストを持っているのは間違いない。ブラナーも水を得た魚のようにイキイキ描いているのだ。

 後者のアメリカ場面のほうも、元々ハリウッド映画好きのブラナーとしては大いに楽しんだはず。無敵のソーがお尻に注射を打たれるくだりなど、完全にコメディとして描いている。あと、金属製の巨大ロボットみたいなやつがアスガルドから送り込まれ、ソーやその取り巻きとでアメリカの田舎町で戦うくだりは、どこか西部劇の対決みたな趣もある。このあたりは、ハリウッド映画ファンのブラナーらしいところではないだろうか。

 …と、まぁ、いろいろ書いては来たが、「マイティ・ソー」のアスガルドの場面がブラナーが今まで手掛けてきたシェイクスピア劇に通じている…ぐらいのことなら、実はどこのシロウト映画評論家だって言ってることだろうし、誰でも思い付きそうなことだ。実際もういろいろんま映画評にもそんな事は書いてあるだろう。

 しかしブラナーがこの映画の監督として「適任」だったのは、決してそんな理由だけではないのである。

 先ほどアスガルドから来た金属製ロボットがアメリカの田舎町を襲撃する場面のことに言及したが、このソーたちが田舎町に現れるくだりは、スーパーマンII/冒険編(1980)で悪者宇宙人ゾッド将軍と手下がアメリカの田舎町で暴れる場面を連想させる。

 そこで思い当たったのだが…ブラナーが今回の映画を成功させたのは、至極当然のことかもしれない。彼がシェイクスピア劇を現代娯楽映画に焼き直してきたやり方ってのは、アメコミを実写映画化することとどこか共通しているのかもしれないのだ。

 それには、そもそも現在ハリウッドでひとつの潮流と化している、アメコミ映画の流れを整理してみる必要がある。

 そもそもイマドキのアメコミ映画の源流をさかのぼると、それは今から30年以上前に忽然と映画化されたスーパーマン(1978)に端を発すると考えるべきだ。

 それまでもアメコミの映画化については、「スーパーマン」「バットマン」「スパイダーマン」などなどそれなりに存在はしていた。ただし、それらはあくまで安手の粗悪品。マンガの映像化として完全に子供向けの幼稚なシロモノとして作られていたはずだ。しかしこの「スーパーマン」は違う。「スター・ウォーズ」(1977)から始まった当時のSF映画ブームを背景に、特撮を使った娯楽大作を何か作れないかと模索した結果、たまたま出てきた企画だったように思う。だから当初からこれが大作映画として製作されると聞いても、本当にちゃんとした大人向けの作品になるかどうか、かなり危ぶまれていたのは間違いない。マーロン・ブランドジーン・ハックマンという大物スターをキャスティングしていても、そうした不安はなかなか解消されなかったのだ。

 ところが完成した作品は…さまざまな憶測を跳ね返す、立派な娯楽大作として出来上がっていた。

 その成功の原因としては、「ゴッドファーザー」(1972)の原作者であるマリオ・プーゾのストーリー、「クレイマー、クレイマー」(1979)の監督となったロバート・ベントンらの脚本、そして「オーメン」(1976)の大ヒットで一躍注目を集めたリチャード・ドナーによる監督…それらすべてによるものだと言えよう。しかし誰が真の功労者であれ、この「スーパーマン」がその後のアメコミ映画のひとつの「ひな形」を創り上げたことは否定できない。例えばビッグスターや名優を脇に配置し、ヒーローには新人スターをキャスティングする…などのスタイルも、現在のアメコミ映画に受け継がれている。この「マイティ・ソー」ですら、そのカタチを踏襲しているのだ。

 そしてその「ひな形」の中に、本来は子供向けで単純幼稚なアメコミの設定・物語を、大人向けの大衆娯楽映画に焼き直すための方法論も隠されていた。

 元々アメコミ・ヒーローものはバカバカしい内容のモノだから、リアリズムが基調となる大人向け映画にはそのままでは仕立てられない。そこで「スーパーマン」がとった方法は、一種のアメリカの神話的な懐かしさを持った物語(クリプトン星における場面やスーパーマンの幼少〜青年時代)とフランク・キャプラ的ソフィスティケーテッド・コメディ(デイリー・プラネット社に舞台が移ってからの場面)の両立という方法だった。どちらも、現代アメリカ映画からは希薄になっているが、アメリカ映画本来の姿ともいえる伝統的テイストだ。元々、アメリカ映画とはイイ意味でイノセントで素朴なモノだった。それを現代に蘇らせ、リスペクトする…というスタイルに仮託すれば、アメコミの単純素朴なストーリーや設定も現代娯楽映画に移植可能。おそらくはこんな方法論で、「スーパーマン」は製作されたに違いない。

 で、多少の違いはあるものの…以後のアメコミ映画も、大なり小なりアメリカ映画の根元的な純朴さをどこかに反映させた映画作りを行った。それが、アメコミ映画のひとつのセオリーとなったのだ。

 実はケネス・ブラナーが作ってきたシェイクスピア映画にも、これと同じ事が言える。

 シェイクスピア作品のドラマトゥルギーの根本には現代に通じる力強さ・揺るぎなさがあるものの、それをそのまま映画化しては、現代のリアリズム基調のドラマにはそぐわない。時代的なテイストが合わないだけでなく、登場人物の感情描写などがどこか単純・素朴すぎるからである。そこでブラナーが目を付けたのが、ハリウッド映画だった。どこまでも大衆的で、しかも根元的に純朴さを持つハリウッド映画本来のイズムを体現すれば、シェイクスピアを現代の映画として再生できる…ブラナーはおそらくこう思い付いたに違いない。そうして生まれたのが、「から騒ぎ」や「ハムレット」などの映画作品だった。

 このブラナーの方法論こそ、「スーパーマン」以来のアメコミ映画のセオリーそのものではないか。

 シェイクスピア映画の達人ケネス・ブラナーによるアメコミ映画が、成功したのも当然だ。これこそ彼が今まで何度も模索し、成功させてきた得意分野だったからである。

 

 

 

 

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