「スーパーエイト」

  Super 8

 (2011/07/11)


  

見る前の予想

 この作品のウワサはだいぶ前から聞いていたし、予告も見たしチラシも手にしていた。この夏の大作だから、話題になってもいたし。

 あのスピルバーグとリメイク版スター・トレック(2009)を監督してクローバーフィールド/HAKAISHA(2008)をプロデュースしたJ・J・エイブラムスが手を組んで、何やら宇宙人モノのSF映画を撮っているらしい…。

 そりゃあ話題にならない訳がない。

 スピルバーグと来れば未知との遭遇(1977)、E.T.(1982)がある。実はスピルバーグ・シンパを自認する僕だが、ホントに心底スピルバーグ映画に夢中になれたのは、この2本にトドメを刺す。そしてエイブラムスといえば、自ら監督はしていないものの「クローバーフィールド/HAKAISHA」でSFモンスター映画を新しい見せ方で見せたのが記憶に新しい。こんな二人が手を組んで、宇宙人モノのSF映画を撮ろうというのだ。ワクワクするなと言う方が無理だろう。

 ただ、チラシや予告を見ると、主人公は8ミリ映画づくりに励む少年たちで、たまたま何らかのアクシデントに巻き込まれたという展開らしい。「スーパー8」とは、なるほど8ミリ・フィルムの規格のひとつだった。そのあたりだけは、タイトルだけで僕にもピンと来たのだった。

 そして公開も間近になってきて、劇場に置かれるようになったチラシの宣伝コピーがまた何とも言えないシロモノ。いわく、「僕たちは、ひとりじゃない」。…う〜ん。

 これって「未知との遭遇」の宣伝コピー、「宇宙にいるのはわれわれだけではない/We Are Not Alone」のモロいただきみたいじゃないか。ホントは英語では何というコピーになっているんだろう?

 「子供たち」「8ミリ映画」「僕たちは、ひとりじゃない」…と来て、それが宇宙人モノのSF映画となると、モロにスピルバーグ映画そのものになってしまうではないか。

 というか、あまりにスピルバーグ映画過ぎてギャグみたい。本人だってここまで「スピルバーグらしく」やるだろうか? これではまるでパロディみたいだ。こんな過剰に「スピルバーグ過ぎる」映画だと、見ている方が思わず笑っちゃうんじゃないか?

 それよりそもそも…お馴染み「スター・トレック」を撮らせてもオリジナリティ抜群。制作に回った「クローバーフィールド/HAKAISHA」でもアッと驚く発想でモンスター映画を刷新したJ・J・エイブラムスが、こんなスピルバーグ世界そのものの映画を平気でつくるだろうか?

 しかもそのスピルバーグ本人が、本作の制作に直接関わっているのだ。チラシによれば、J・J・エイブラムスはまだ学生の時、スピルバーグがアマチュア時代に作った8ミリ映画の修復を手伝ったりしたこともあるらしい。まこと微笑ましいエピソードと言いたいところだが、そんな「師弟」関係にある両者だとすると、この作品が「スピルバーグ過ぎる」内容になっていたとしたら、何だかオベンチャラみたいで相当恥ずかしいではないか。それを撮らせるスピルバーグもスピルバーグだ。

 そう考えると、これまで僕らの目に触れていた予告編、チラシ…何よりそれらからイメージされるような印象をまるっきり覆すような要素がなければ、僕の好きな要素を満載しているにも関わらず、この映画はロクなもんに出来上がっているはずもない。う〜ん、どうなんだろうねぇ。

 そうは言っても、SF映画に宇宙人は僕の大好物。おまけにスピルバーグもJ・J・エイブラムスも大好きだ。無視なんて出来るわけない。

 ふと気づくと、僕は公開初日に劇場へと足を運んでいたのだった。

 

あらすじ

 1979年、オハイオ州のある田舎町。製鉄所の無災害連続記録が表示されるボードに、新たに「1日」というカードが掲げられる。そう、この町の中心である製鉄所で、忌まわしい事故が起こったのだ。

 事故の被害者宅では、静かに葬儀が執り行われているところ。家の外にあるブランコには、一人の少年がネックレスを握りしめて悲嘆に暮れていた。彼の名はジョー(ジョエル・コートリー)。事故の犠牲になったのは、彼の母親だった。

 ジョーの父親は、この町の副保安官を勤めるジャック(カイル・チャンドラー)。正直言ってあまりデリカシーもなく、家庭的な人物とも見えない。そのため、これから父一人子一人の家庭がうまくいくのだろうか…と先行きを危ぶむ葬儀の参列者もいるくらいだった。

 そんなジョーの目の前に、一台のクルマが停車する。降りてきた長髪の男は、飲んだくれで知られるルイス・デイナード(ロン・エルダード)。彼はジョーの家の中へと入っていくが、すぐに激高するジャックに胸ぐらをつかまれ、家の外へと連れ出されていった…。

 それから4ヶ月後。

 終業式が終わり、お休みの始まり。ジョーはお仲間のチャールズ(ライリー・グリフィス)、ケアリー(ライアン・リー)、マーティン(ガブリエル・バッソ)、プレストン(ザック・ミルズ)らと、8ミリ・フィルムでゾンビ映画を撮る約束をしていた。脚本・監督はデブのチャールズ。押しつけがましいのが少々難点だが、「いい映画」をつくろうという情熱だけはウソじゃない。幼なじみのジョーも、だからチャールズを応援しているのだ。

 とはいえ、スポーツやバカンスに熱中する他の連中からすれば、彼らは少々ボンクラなオタク軍団。だからそのチャールズが、クラスの可愛い子ちゃんアリス(エル・ファニング)を「女優として起用」すると宣言したのを聞いて、ジョーはかなりたまげた。

 「主役の刑事の妻が出てくれば、より刑事の人間味を描ける」などとチャールズはホザいていたが、当然のことながらジョーが言いたかったことはそんなことじゃない。「よくオレらの映画に出てくれるな?」というのが正直な疑問だった。それに白状すると、ジョーはちょっぴり彼女の存在が気になってもいたのだった。

 そんな楽しき仲間たちだったが、ジョーの父親であるジャックはそうは思っていなかったようだ。休み中に子供たち用のキャンプに行け…と、パンフレットを勝手に用意していたのだ。

 「あの友達も悪くはないが」…というのは大人のテメエ勝手な常套句。人の友達を自分が勝手に選べると思いこんでいるところが傲慢極まりない。案の定、今日も父子の会話はまったく噛み合わないのだった。

 そんな夜、ジョーはチャールズから映画の撮影に呼ばれて、コッソリ家から出てくる。待ち合わせ場所にはチャールズはじめいつもの面々。そしてこの日は、あのアリスが父親のクルマを出してスタッフをロケ現場へと連れて行ってくれるというのだ。

 しかしやって来たアリスは、ジョーの顔を見るとサッと表情を曇らせる。

 ジョーの父親は副保安官だ。アリスが子供のくせにクルマの運転をしていることを、父親にバラす可能性がある。そんな理由で思いっきりゴネ始めたわけだが、ジョーとしては自分の存在が彼女を不機嫌にしたというのは不本意な話。絶対に父親には言わないと確約して、何とかその場は収まった。

 撮影現場は、町のはずれの列車の停車場。むろん真夜中には誰もいない。ここで刑事と彼を心配する妻とのやりとりが撮影されるのだ。ジョーはメイクと模型担当で、早速アリスの顔にメイクを施す。そんなこんなで、先ほどはあれほど彼の存在に態度を硬化させたアリスだが、何となく気持ちがほぐれていくのを感じた。

 その次にはリハーサル。チャールズが間際にセリフを手直ししたことに非難囂々だったが、ともかく本番前に一回通しでやってみなければ。そんなリハーサルでの「女優」アリスの演技は…まさに完璧。夫を心配する妻の心情をリアルに再現。その場に立ち会っていたボンクラどもは軒並み唖然棒漸だ。

 …というわけで、撮影準備が整ったところに…。

 なんと彼方から、列車がやって来る音が聞こえてくる。こんな真夜中、こんな辺鄙な線に、どうしていきなり列車がやって来るのか。しかしチャールズは、偶然の列車の通過が場面の最高の効果となる…ともう夢中。みんなのケツを叩いて、大急ぎで撮影の手はずを整えさせた。

 「オーケイ。よーい、アクション!」

 近づく列車がリアルな効果を挙げる。アリスの演技はまたまた冴えに冴えている。轟音を挙げて貨物列車はその場を通過。これは最高の場面になるぞ…と誰しもが確信したちょうどその時。

 停車場からちょっと離れたところにある踏切に、一台のピックアップトラックが近づきつつあった。列車が踏み切りに接近しつつあるというのに、トラックは停まらない。それどころか、踏切のところから線路内に入り込み、列車に向かって突進していったからたまらない。

 ガッシャアァァァァ〜〜〜〜ン!

 列車とトラックが衝突。たちまち猛スピードで走っていた列車は脱線を始める。それを見ていたジョーが「危ない!」と叫んで、映画クルーは蜘蛛の子を散らしたように逃げまどった。

 貨物列車はものすごい勢いで脱線に次ぐ脱線。逃げまどう子供たちはひっくり返り突っ込んでくる列車をかわしながら逃げる逃げる。中には危険な化学物質を乗せた貨車もあったようで、ひっくり返るや引火して大爆発を引き起こしたり…もう大変。

 そんなひっくり返った貨車の中に、土手っ腹にでっかくアメリカ軍のマークが描かれているものがあった。その金属製の重い扉が、内側からド〜〜ンド〜〜ンと思いっきり叩かれるではないか。ついには勢いで扉がはね飛ばされてしまう。果たしてその扉の奥には、いかなるモノがいたのだろうか。

 すったもんだが一段落して、ようやくボンクラどもも落ち着きを取り戻し始めた。ジョーはその場に落ちていた不思議なキューブ状の物体を拾いあげる。これは一体何なのだろうか?

 そんな彼らは、事の発端となったピックアップトラックが線路脇にボロボロ状態で停まっているのに気づく。ボンクラどもはおそるおそる近づいていくと、運転席には血だらけの男が突っ伏している。それは学校で生物を教えていたウッドワード先生(グリン・ターマン)ではないか。

 ところがウッドワード先生は、死んだと思っていたら生きていた!

 しかもボンクラどもに銃を突きつけ、「ここで見たことを他言したら殺されるぞ! 家族もろともな!」と脅しまくる。そんなこんなしているうちに、あっちこっちから人々がやって来るのを見てとったボンクラ軍団たちは、慌ててその現場から逃げ帰るのだった。

 やって来た連中は、軍の捜索隊だった。そのリーダー格のネレクなる男(ノア・エメリッヒ)はその場からクルマが逃げるのを目撃し、誰が乗っていたからを調べろと部下に命令する。そして軍人たちはその場に落ちていた例のキューブ状の物体を拾い集め、その場から手早く撤収した。

 さて、翌日。昨夜の出来事でみんなビビリまくっていたはずだが、監督のチャールズだけはこの事故をうまく映画の中に取り込もうと興奮。ジョーに場面の撮り足しを命じる。そして昨夜撮影していた8ミリ・フィルムを、写真屋に現像に出したのだが…。

 

見た後での感想

 やっぱりこの映画を見て、思っていた以上にワクワクしてしまった

 そもそも映画を見てこういうワクワクを味わったり感じたのって、本当に久々のことじゃないだろうか。この前に映画でこの手のワクワク感じたのは、いつのことだろう? それは間違いなくジム・ジャームッシュの映画とかじゃないよな。

 ずっと昔、僕が映画を見るようになってすぐの頃は、何を見てもワクワクしていたような気がする。タワーリング・インフェルノ(1974)を見た時は、間違いなくそうだった。だが、とびきり僕がワクワクした映画といえば…スピルバーグ映画にトドメを刺す

 「未知との遭遇」を見に行った時の興奮は、今でも忘れない。あんなに映画で興奮したことはない。見に行く前も興奮したし、見ている間も興奮したし、見た後だって興奮醒めやらずにサントラ・レコードを買いに行ったくらいだ。

 そして当時はビデオやDVDはなかったから、その記憶を脳裏に焼き付けるしかなかった。僕は映画館で何度も「未知との遭遇」を見て、内容を反芻したものだった。それでも飽きなかった。

 その興奮が蘇ったのか?

 スピルバーグ映画を見に行く直前は、いつもその興奮があった。「1941」(1979)にだってそれはあった。しかしいつの間にかそのワクワク感は薄れていき…久々に僕がそれを味わったのは、やはりスピルバーグ映画「E.T.」だったのではないだろうか。

 しかしおそらく…それは僕がスピルバーグ映画にあのときめきを感じた最後の時だったように思う。だからそれは、僕が映画にあの「特別なワクワク」を覚えた最後でもあるわけだ。「ジュラシック・パーク」(1993)にも、残念ながら僕はあの「特別なワクワク」感は感じなかった。かろうじて宇宙戦争(2005)にはその痕跡らしきものを感じたものの、それはおそらくこの作品のそこかしこに、大好きだった「未知との遭遇」との類似点を嗅ぎ取っていたからだろう。理屈抜きに「スピルバーグの宇宙人モノ」とくると、「梅干しにヨダレ」みたいに条件反射的に反応してしまうのかもしれない。

 だからこの映画には、久々にあのワクワク感を期待した。

 そして、それはある程度叶えられたと言っていいだろう。プロデューサーがスピルバーグだから…ということ以上に、この映画にはスピルバーグ・イズムが充満している。確かにかつてスピルバーグがプロデュースした作品には、「ポルターガイスト」(1982)みたいに露骨にスピルバーグ・テイストが漂っていた。だがこの作品はそんなレベル以上に、ある意味で「意識的」とも言えるほどスピルバーグ色に染め抜かれているのである。

 大活躍する子供たち、8ミリ映画、宇宙人とそれを取り巻くハラハラドキドキな設定…とりわけ、ガソリンスタンドが宇宙人に襲われるくだりは「未知との遭遇」を想起させる。…というか、「未知との遭遇」のパニック・シーンとの類似点が多い、ジョン・カーペンター監督の「ザ・フォッグ」(1980)の冒頭近く、コンビニでの異変場面を連想させたりもするが…。あるいは子供たちを護送していたバスが宇宙人に襲われるくだりは、「ジュラシック・パーク」での恐竜による襲撃場面などを連想させたりもする。描き方がいちいちスピルバーグなんだよなぁ。

 しかもそれがまた、ターミナル(2004)など近年のあまり面白くなくなってきたスピルバーグではなく、ストレートに面白かった「未知との遭遇」「E.T.」のスピルバーグであるというのがミソなのだ。

 念の入ったことに、物語の設定は1979年とくる。つまりはスピルバーグ映画が面白かった頃、最も僕らにとってアブラが乗っていた頃なのだ。登場人物の服やクルマの型も、みんなあの頃のモノになっている。これは感覚的に僕らには「グッと来ちゃう」よね。

 だから無条件に「パブロフの犬」的に反応してしまったことは否定できない。いやぁ、ホントにそうなのだ。これについてはまったく抵抗できないのである。

 そして、イマドキはこういうワクワク感に応えてくれる映画がないのも事実だ。そもそも御大スピルバーグ自身すらなかなか応えてくれない。だから受け手側が、かなりの飢餓感を持っていたことも、この映画に飛びつきたくなる一因だったのだろう。

 しかも僕にとっては、それにとどまらないもうひとつの理由もあった。

 

スーパー8よりシングル8

 お恥ずかしながら遠い空の向こうに(1999)という映画の感想文で告白していたように、かつて僕には8ミリカメラを振り回して、自主映画づくりに奔走していた時代があった。

 先の一文にはいろいろ注釈が必要で、まずは「自主映画」って言ってもアンダーグラウンドなものでもなければアートなものでもない。将来、映画作家になろうという志があったわけでもない。例えは悪いが…ブルック・シールズの「青い珊瑚礁」(1980)で無人島に流されちゃった男の子と女の子が、誰に教わるわけでもないのにやることやって赤ん坊こさえちゃった(笑)ように、僕も誰に教わるともなく必死こいてカメラ回していた。もちろん出来栄えはお寒いもんだったが…ともかく「映画」が作りたかったんだな

 そうそう、だから僕がつくっていたのは「8ミリ」と言っても後年出てきた「8ミリビデオ」なんてヤワなもんじゃない。僕にとって8ミリは間違いなくフィルムのそれだった。ヘタだろうが安かろうが、とにかく「映画」には間違いない。そして「映画芸術」ともまるっきり縁がない。もっぱらモデルガンから花火を着火させたりしていた、頭の悪そうな映画専門だった。

 作ってた仲間内だって、僕以外に1〜2人は映画を好きな奴もいるにはいたが、別に彼らだって映画ファンってわけでもないし、他の連中なんざ映画なんてどうでもよかったはず。だから映画芸術なんてなるわけもなかった。映研みたいな映画にもなるわけがなかったのだ。

 そのあたりは、当時のフィルムの断片を見ていただければ一目瞭然。

(それぞれの画像をクリックしてください。音が出るものもあるのでご注意!)

 

            

 

 最初に中学や高校の頃に映画撮ってた時は、サイレントのカメラしかないから音がなかった。一応、後からカセットにサウンドトラックをアフレコしたものの、シンクロさせる機械もテクニックもなかったからうまく同期させることができなかった。逆に言えば、そんなレベルで映画を作っていたわけだ。それが一変したのが、同時録音カメラを手に入れた時だ。

 このカメラを手に入れた時は、百万の味方を得たような気持ちだったなぁ。

 ちなみに僕らが撮影に使っていたのは、この映画のタイトルになっている「スーパー8」ではない。「スーパー8」は確かアメリカのコダック社が開発して販売していたもの。それに対して僕らは、富士フイルムの「シングル8」を使っていた。

 元々、8ミリのフィルムってのは…僕もそのへんの事情に詳しいわけじゃないのだが…2倍の幅がある「ダブル8」という方式だったと聞いている。まずフィルムを1巻き分撮影し終えてから、裏返してもう片方を撮影する。だから幅が2倍。そして現像後にフィルムをタテに2分するという方式だ。つまりは、元々8ミリフィルムってのは16ミリフィルムを2倍に活用する方式…って発想から始まったらしい。

 さすがにこれは使いにくかったらしく、さらにフィルムの詰め替えもアマチュアには面倒ということで、簡単なカセット・タイプのフィルムマガジンに詰め込んでカメラに装填できるようにしたのが、コダックの「スーパー8」。ここから8ミリフィルムが世界的に普及したということらしい。昔の映画なんか見ていると、大体ガイジンが持っている8ミリカメラは、この「スーパー8」のカメラだったりしている。

 しかし日本では、写真フィルムは独自の売れ方をしていた

 海外ではそれぞれの国にメーカーが存在していたものの、アメリカのコダックが圧倒的にシェアを誇っていたらしい。ところが日本では国産メーカーがダントツ。中でも富士フイルムの「フジカラー」が他を寄せ付けないシェアとなっていた。

 その富士フイルムが開発した8ミリ方式が「シングル8」。当時は女優で後に政治家になる扇千景が、「私にも写せます」とか何とか言うコピーでお馴染みのCMを展開。当然、日本における8ミリフィルムも、この「シングル8」方式が席巻するかたちとなっていた。

 では、「スーパー8」と「シングル8」の違いはどこにあるのか?…と問われると、技術的なことでは満足にお答えすることができない。どちらもフィルムマガジンに収められ、カメラへの装填が簡単になっている。素人目には「スーパー8」のフィルムマガジンはほぼ正方形に見えるのに対して、「シングル8」のそれはやや縦長の長方形に見える…ぐらいの違いでしかない。

 ともかく僕らは「シングル8」のカメラを引っさげ、次々と「作品」を製作していったのだ。エルモの映写機に拡大レンズ、ライトにマイク、編集機も手に入れた。気分的にはフランシス・コッポラの工房、アメリカン・ゾエトロープみたいな感じ。まぁ、確かにこれだけ揃えば最低限の「映画会社」としての機能は揃うのだ。出来さえ問わなければ、映画なんて作るのは簡単なのである。

 そこで最も難事なのは…実は女優の調達だったりする。

 大体が映画を作ろうなんてやっている奴は、女にモテないと相場が決まっている。そして映画を作ろうなんて女もほとんどいないし、いたとしても「こっちが願え下げ」のタイプであることがほとんど(笑)。まぁ、そもそも「選べる」立場じゃないのだが、そういう奴に限って顔にこだわる。ここだけの話、オレが今まで付き合った女もみんな美人だ(笑)。いい女ばかり。

 「スーパーエイト」で女の子エル・ファニングを出演させると監督役のデブな男の子が宣言した時、主人公が「おおっ」と歓声を上げるのはよく分かる。素人8ミリ映画において女優を起用するということは、プロの映画で「3D」を導入するということより思い切ったことなのだ。

 僕らの映画でも、一回、出演者のかつての級友の女の子に出てもらったら、その女の取り合いが水面下で発生(笑)。悲惨な状況で彼女は僕らの前から姿を消した。大概、こうした映画制作でトラブル発生というと、十中八九、女が原因と思って間違いない。そういう経験の数々がトラウマになったからなのか、どうしても僕は今でも女が絡むと万事ロクなことにならないと思ってしまう(笑)。これは「偏見」ではない、「経験」である。

 あと、密かに好きな女の子を自分の映画に出すということも、よくある話だ。しかし彼女イチオシの監督自身が、彼女にありつける可能性は万に一つもない。大体は映画づくりに協力しているスタッフ、あるいは共演者がお持ち帰りしてしまう。もっと言うと、大概はその後でほぼ100パーセント、セックスまでされてしまう。映画の撮影現場は素人でも結構ツライし、仲間意識も生まれて燃え上がるからねぇ。

 実際のところ、映画を監督しようなんて奴がカッコいいわけがない。そしてモテないし口説けない。意中の女の子に出演してもらおうと口説き落とす時には、ハタも驚くような大胆さ熱心さが発揮できるのに、映画がなくなるととたんに度胸がなくなる。それに、もし自分が口説いて女優に逃げられたら、自分が心血注いでいる映画が完成できなくなる。だから監督は金縛りにあって、好きな女をみすみす目の前でお持ち帰りされる羽目になってしまうのだ。「スーパーエイト」で監督役のデブが主人公にグチグチ言う「恨み節」は、僕には痛いほどよく分かるのである。

 実際、僕のささやかでチンケな「モテ期」も、僕が映画づくりを諦めたあたりから始まった。女にモテたかったら、ゆめゆめ素人映画なんか作っちゃいけないのだ。

 まぁ、そんなわけでダラダラと僕の素人映画作りはいつまでも続いたが、結局は仕事の忙しさなどで終わりを告げなくてはならなくなった。ま、至って普通の話だ。だがこの映画作りの経験は、僕がライターになったり現在の本の編集の仕事に就いたりした時に、100パーセントと言っていいほど活かされた。8ミリ映画は僕の個人史のかなりの部分を占めているのだ。

 この「スーパーエイト」には、確かにそうした僕の8ミリ映画作りを思い起こさせる部分がいっぱいあった。これは確かに僕のツボだ。非常に「極私的」な泣きどころでもある。

 そういった意味で、この映画の出来の善し悪しとは別に、僕はこの映画をキライにはなれないのである。

 

映画に最も必要な要素とは?

 ではサイコーだったんだ、この映画って?…と問われると、「そうだ」と力強く肯定したくなるものの…実はちょっと引っかかる点がないわけでもない。

 というか、この映画ってスピルバーグ、宇宙人、8ミリ映画…と個人的にかなりツボなアイテムで埋め尽くされていて、確かにワクワクして見たのは間違いないのだが…実はここだけの話、何か物足りないって気がしちゃったのも事実なのだった。

 見る前、見ている時、あれだけワクワクしたのにこんな事を言うのはどうかと思うが…確かにワクワクしたことは間違いないのだが、そのワクワクが…例えばかつてスピルバーグ映画を見に行った時に感じたワクワクと同じかと言えばやっぱり違う。違うというよりは、あれほどのワクワクではなかったというのが正直なところだ。

 まぁ、昔の感受性の豊かな時期に覚えたワクワクを、今頃になってまた味わおうってのが無理な相談かもしれない。こっちはすっかり衰えてるし、刺激にも慣れっこになっている。あのワクワクが味わえないのは、映画ではなく僕のせいかもしれないのだ。

 …とは思ってみたのだが、やっぱり納得できない。どうもそんな事ばかりじゃないような気がする。

 そう考えてみると、この映画って「映画」としての出来栄えにも、少々疑問を感じる点が少なくないことに気づく。

 例えば主要キャラクターの一人、映画スタッフの仲間であるケアリー(ライアン・リー)が爆破マニアであると紹介された時、僕らは即座に「これは後になって、宇宙人か軍と戦う時に役に立つんだな」と察する。正直言ってそれくらいミエミエの設定で、「伏線」にも何にもなってないくらいの芸のなさだ。ところが実際には彼が役立つのは終盤もかなり押し迫ってから。ヒロインを助けるために主人公と一緒に宇宙人の「巣穴」に入って、宇宙人の注意を逸らすために爆竹に火を付けるという展開だけだ。何かを爆破したり攻撃したりするわけではないし、そもそもお手製の爆薬ではなく既製品の爆竹ってところがお粗末ではないか。何だろう、あれほどミエミエの設定にしながらこの投げやりな結末は。

 そう考えると穴はあちこちに開いていて…宇宙人がその「巣穴」みたいなところでこしらえていたモノは宇宙船みたいに見えたが、ラスト近くでキューブが強い磁力みたいな力で武器や乗り物などを引きつけて、アッという間に宇宙船を作ってしまうではないか。そしたら、宇宙人が一生懸命作っていた「あれ」は一体何だったのか? いやぁ、これってオレの見間違いか勘違いなんだろうか? どうも変だよなぁ。

 まぁ、ハッキリ言ってこの映画、導入部で盛大に列車事故を起こし、これが観客がお腹いっぱいになるくらい派手で長くかかるモノになっているのだから、クライマックスでは相当の事をやらかさないと観客は驚かないし満足しない。不完全燃焼で終わることは目に見えていたのだ。そしてこの映画最大の仇役であるネレク(ノア・エメリッヒ)も、もっともっと観客の血圧を上げさせたあげく壮大に痛めつけられなければならないはずなのにアッサリ退場。このへんの後半の尻すぼみ感はハンパじゃない。

 そういう意味では、最初からバランスの配分や計算を誤ったと考えるべきなのかもしれない。このあたりは、「未知との遭遇」などのスピルバーグと比べて拙いのかなぁ。

 しかし、いやいや…それだけでもないような気がするのだ。

 ひとつには、子供たちが主人公、宇宙人がやって来る、だけどユーモラスで心温まって、でもハラハラしてコワイ、しかも8ミリ映画…と、これでもかとばかりにスピルバーグ・アイテム、スピルバーグ・キーワードを満載しているあたりに、その原因があるのかもしれない。

 そのやり方がまったく消化されておらず、あまりに「ナマ」であるというあたり…何となくスピルバーグにオマージュとかスピルバーグにリスペクトというより、ホラー映画をオチョクった「最終絶叫計画」(2000)とか、飛行機パニック映画をからかった「フライングハイ」(1980)とか、「トップガン」をバカにした「ホット・ショット」(1999)とかといった…あのへんのパロディ映画めいた、わざとそれらしきモノで固めた感じに見えてしまうのだ。これって実は、この見た後のモヤモヤ感を少なからず説明できる点ではないかと思う。

 スピルバーグをプロデューサーに迎えてはいるが、本当にこのJ・J・エイブラムスってスピルバーグをリスペクトしているんだろうか?

 そういう意味では、もうひとつ気になる点がある。

 J・J・エイブラムスが「大好き」と「公言」するスピルバーグ映画の要素満載でつくった今回のこの映画。そこにはJ・J・エイブラムスがスピルバーグ同様に熱中した「8ミリ映画作り」の思い出が込められているようにも見える。とすれば、僕がこの映画を見てグッと来たように、ある意味で「極私的」な要素が濃厚な作品ということになるわけだろう。

 しかし、そこでの監督役のデブな男の子は、ヒロインを「主人公」にとられて完全に三枚目。

 クライマックスにも画面から退場させられていて、まるで出る幕がない。そもそも主人公に何かゴリ押しをするキャラで、ヒロインと主人公との会話の中で「あんな奴に言わせておいていいの?」とまで言われてしまうテイタラクである。自虐的と言えばそれまでだが、当然のことながら作り手が自分を仮託するはずのキャラクターが、これほど後方に追いやられ、ぞんざいに扱われていいのだろうか。おまけに何となく好きになれない、共感しにくいキャラクターにまで格下げされている。

 もちろん、こいつはハッキリ言ってオタクだ。そしてガキの分際で映画作ろうなんて奴は、間違いなくこんなオタク野郎でしかない。ついでにいえば、そんな奴は広く一般の人々の共感は得にくい奴だ。

 だからJ・J・エイブラムスは、ちゃんとヒロインと「主人公」の座を、もっと愛くるしい顔の奴にふったのだろう。確かに「営業的」にはそれは正しい。マーケティング的にもビジネス的にもそれが正しいんだろう。

 しかし、われらがスピルバーグはそんな事をしただろうか

 別にオタクのデブ監督野郎を主役にはしなかったが、彼の映画の主役はリチャード・ドレイファスなど、パッとしない奴も多かった。「E.T.」のヘンリー・トーマスは愛くるしい坊やだったが、それでもそこには明らかにスピルバーグ自身が投影されていた

 この映画のJ・J・エイブラムスには商業的な計算はあっても、そういう映画作りにおける個人的なモチベーションは欠けているのではないか。

 確かに素晴らしいセンスとスキルはあるだろう。その方が興行収益は何万ドルも増すんだろう。その点では、彼は「師匠」スピルバーグに対しても、内心「甘っちょろいアマチュアリズムがあるな」と思っているかもしれない。

 他方、スピルバーグだって純粋な「映画への理想」だけで、ここまでハリウッドのフロントラインを渡っていたとは思わない。彼なりに打算や計算もあっただろうし、キレイ事だけで映画を作ってきたわけでもないだろう。

 しかし、時としてスピルバーグがこれほどの大家になったにも関わらず、「フック」(1991)や「ターミナル」みたいな破綻した作品を発表してしまうのを見ると、僕にはそれがどこか彼自身の映画に対する「誠実さ」の表れではないかと思えるのだ。ちゃんと「商品」として整った作品にも作れるだろうが、自分はそうしたくはないのだ…という気持ちが、彼のどこかにまだ残っていると思えるのである。

 J・J・エイブラムスには、残念ながらそれがない。

 本人は「どや顔」で「これがプロフェッショナル」と自信満々に作品を発表しているのかもしれないし、確かにヒット映画を送り出すセンスやスキルはあるだろうが、残念ながら彼には「映画」や「観客」や、何より自分の生み出している作品に対する「愛」が足りないのではないだろうか?

 しかし時として、映画を最も魅力的に見せるのは、作り手のそんな理屈や計算を越えた「愛」なのだ。この作品にはそんな映画に最も必要なはずの要素が足りないから、今ひとつワクワク感が伝わって来ないのかもしれないのである。

 

 

 

 

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