「ミスター・ノーバディ」

  Mr. Nobody

 (2011/06/13)


  

見る前の予想

 この映画のチラシはだいぶ前から見ていたのだが、ハッキリ言ってどんな映画だかまったくピンと来ない

 どうやら人類が死ななくなった近未来が出てくるらしいのだが、そこで100歳以上の高齢となった主人公が、過去の人生を回想するみたいな話らしい。そこで過去の関わりを持った女たちが出てきて…その都度、主人公が人生の選択をやり直して、「かくあるはずだった人生」を生き直してみる…というような話なんだろうか?

 チラシをチラ見した限りではどんなお話だかよく分からない。どうも単純にSFって訳でもなさそうだ。

 主演はジャレッド・レトってのもお久しぶりな感じ。しかも、名前は聞いているが何で有名になったかというと…よく覚えていない。ビミョ〜なポジションの俳優だ。

 で、監督は「トト・ザ・ヒーロー」(1991)のジャコ・ヴァン・ドルメル。そういえばあったな、「トト・ザ・ヒーロー」。しかし、今ではそれがどんな映画かまったく忘れてる。ともかくそれなりに評判になった作品だし監督だ。

 その他にダイアン・クルーガーサラ・ポーリーなど知っている役者も出ていて、どうやらこの作品かなりの大作らしい。こりゃちょっと面白そうだ。

 そんなこんなでこの作品の存在が気になってはいたのだが、例によって忙しさの中でついつい見に行きそびれる日々。しかもこの作品、あまり世間じゃ騒がれていないようではないか。一体この映画ってどうなんだ? いいのか悪いのか? まるで評判を聞かないってどういうことなんだ?

 そんなこんなで見ることができないでいたが、とある地方都市に出掛けて、そこでたまたまこの映画が上映されているのを発見。これまたたまたま時間もちょうど空いていた。まるで運命の巡り合わせか?

 これは見るしかないだろう。

 

あらすじ

 その男(ジャレッド・レト)はクルマを運転したまま、水の中に転落してしまった。車内が水で満たされ、彼は窒息しようとしている。苦しさのあまり目をパチクリさせていると…。

 それは夢だった。彼はバスタブの中に浸かっていた。慌ててお湯から顔を出し、ホッと一息ついたのもつかの間。彼の前に銃を持った男がいるではないか。銃声一発!

 すると今度は巨大な宇宙船の中で、彼は他の多くの乗員たちと共に人工冬眠中。しかし宇宙船は流星雨の中に突っ込み、木っ端微塵に破壊されてしまう…。

 そんなこんなで死にそうになっては生き返り…の幻想の果て、彼は真っ白い部屋でシワクチャの老人となって目覚めた。

 現在は2092年。彼の名前はニモ・ノーバディ。

 そんな彼に、顔中タトゥーを彫り尽くしたフェルドハイム医師(アラン・コルデュネル)が話しかけてくる。年老いた彼の年令は現在118歳。2092年の世界では、医学の発達によって人間は死や老いから解放されていた。そんな中、唯一「死ぬ」運命である旧人類の生き残りが、彼ニモ・ノーバディだった。

 そんな彼の動向は全世界から注目され、人々はテレビで彼の一挙手一投足を見つめていた。病室にいるニモを、情け容赦なくカメラが追いかける。苛立ったニモは、窓も閉め切って病室で眠りこけるのだった。

 そんな彼の病室に、一人の記者(ダニエル・メイズ)が忍び込む。いまや全世界の関心事となったニモの過去について、記者は何とか聞きだそうとやって来たのだ。そんな記者に、ニモは夢うつつの中で自らの人生を回想し始める…。

 覚えているのは、ニモがまだ天上の国にいて生まれる前の頃のこと。天使が彼の記憶を消し去るのを忘れたまま、彼は地上へと降りることになった。

 ニモの父(リス・エヴァンス)と母(ナターシャ・リトル)が出会ったのは、ほんのちょっとした偶然からだった。二人はたちまち恋に落ちて結婚。絵に描いたような幸せな暮らしが始まる。そんな二人の元に、ニモは息子として降りてきたのだ。

 こうして幸せな日々はさらに続いたのだが、ある日それは唐突に終わりを告げた。母が別の男と密会していたことが発覚し、夫婦の関係は破綻。二人は別々の道を歩むことになる。

 そして父と母のどちらについていくのか、ニモ本人に決めさせるということになった。そうは言っても、まだ9歳のニモ(トマ・バーン)に、それを決めろというのは酷な話だ。

 母が列車に乗って去っていこうという駅のプラットホーム。そこでニモは、父と母のどちらを選ぶのか、運命の選択を迫られる。そんなこんなしているうちに時間が来て、列車はゆっくりと走り出す。ニモは自分をつかんでいる父の手を放し、母を乗せた列車を慌てて追いかけた。走って走って何とか追いついたニモは、列車に飛び乗って母と抱き合う…。

 しかし、一方で「かくあり得た」人生もあった。

 列車を必死に追いかけるニモに父が声をかける。それに振り向いたニモの靴ひもが切れ、列車には間に合わず取り残されることになる。それは靴メーカーが靴ひもの原価をケチるという、まったく無関係ともいえる出来事から派生した影響でもあった。

 聞いている記者としては、何がどうなっているのか分からない。たまりかねて話の途中でニモにこう叫ばずにはいられない。「さっきと話が違うじゃないですか! どっちが本当なんです?」

 どっちが本当かと言われても…。

 それはともかく、靴ひもも切れず列車に追いついたニモは、そのまま母と一緒に暮らすことになる。こうして15歳になったニモ(トビー・レグボ)は、すっかり反抗期まっただ中。あんなに慕ってついていった母とも、あまり仲がいいとは言い難い。

 そんな彼の前に、一人の転校生の少女が現れる。彼女の名はアンナ(ジュノ・テンプル)。

 彼女を見たとたん、ニモの脳裏に電光石火が走る。アンナはニモがまだ幼い頃に、その姿を見て見とれた初恋の人だった。

 学校の行事で友達たちと海へと出かけた日、ニモが砂浜に座っていると、例のアンナが近づいてくる。

 「みんなと一緒に泳がない?」

 この誘いに、素直に答えられないニモはついつい「バカとは泳がない」などと言わなくてもいいことを言ってしまう。その結果は…怒ったアンナは去り、彼女と親しくもなれず、さらに大人になってから人妻となった子連れのアンナ(ダイアン・クルーガー)と駅でバッタリ出会うという苦々しい結末を迎えることになるのだ。この一言はいくら悔やんでも悔やみきれない。

 では、この言葉を言わなかったなら?

 ニモが正直に「カナヅチで泳げない」と白状すると、アンナは優しくその場に残ってくれた。そして二人は恋に落ちた。そんなある日、母が交際中の男性との同棲を宣言。その相手の男が連れてきた娘こそ…あのアンナではないか!

 一緒に暮らすようになった二人はますます親しさを増していき、義理とは言え兄妹としてはいささか不適切な関係になっていた…。

 一方、父の元に残されたニモはというと、いつしか身体が不自由になってしまった父の世話に追われ、毎日が空しく過ぎ去る日々。たまにバイクで発散するだけが楽しみだ。

 そんなある日、ニモはダンスパーティーで男とケンカして飛び出す少女を見かける。感情の振幅が激しい彼女の名前はエリース(クレア・ストーン)。彼女に一発で惚れたニモは、手紙を書いて渡そうと家を訪ねる。ところがちょうど家の前まで来ると、エリースが札付きの彼氏ステファノと一緒に出てくるところにバッタリ。ニモは告白するのをやめてしまった。しかも帰り道に、ニモが飛ばしていたバイクが転倒。彼は意識を失って寝たきりになってしまう。

 しかし、こういう人生もあり得た。…ニモはちょうど一人で家から出てきたエリースに手紙を渡すのに成功するが、彼女はステファノに夢中でニモは失恋。落胆したニモはヤケになって、その日一番最初に踊ることになる娘と結婚すると心に誓う。

 あるいはこうもなり得た。…ニモはエリースに手紙を渡し、彼女の言葉を制止して愛を告白。そのままの勢いで、二人は結婚することになる。しかし妻となったエリース(サラ・ポーリー)は、情緒不安定が高じてウツ病になり、3人の子供までもうけたのに一日中寝込むアリサマだ。

 さて…エリースからフラれたニモはどうなったかと言えば、その日最初に踊った相手は東洋系の女の子ジーン(オードリー・ジャコミニ)。ニモは計画通り彼女と結婚し、計画通り豊かな生活を築きあげた。しかし心はどこか空しい。それを妻となったジーン(リン・ダン・ファン)も薄々感づいていた…。

 

ジャンル越境作品として破格な作品

 世の中これだけ移り変わりが激しいと、アッという間にいろいろな事が忘れ去れてしまう。

 今でこそ僕も映画を見る本数は激減したものの、一時は150本近く見ていたこともある。いや、今だって世間の人々からすれば見過ぎだろう。それだけ見ていれば、ついつい内容も題名も忘れちゃう映画なんてザラにある。世間の映画好きと言われる人たちだって、大なり小なりそんなものだろう。

 それもまったく話題にならなかったり、ほとんどビデオスルー同然でドサクサ紛れの公開のされ方をした作品ばかりでなく、結構それなりに話題になった映画だって同じようなものだ。

 例えば僕がこのサイトを立ち上げたばかりの頃、映画ファンの間では結構話題になった「ルナ・パパ」(1999)とかツバル(1999)とかって作品あたりでも、今になってみるとみんな覚えていやしないだろう。まぁ、人なんてそんなものだ。

 だから「トト・ザ・ヒーロー」なんて作品の題名を聞かされても、僕もどこかで聞いたことのある題名…ぐらいにしか思えなかった。見たかどうかさえ分からなかった。

 いろいろ調べてみた結果…どうやら僕はこの映画を見てなかったようだが、それでもうっすらと題名は覚えていたということは、当時はそれなりに話題になった作品に違いない。この監督ジャコ・ヴァン・ドルメルの2作目「八日目」(1996)は見た記憶があったが、これまたどんな内容だったかは忘れていた。ダニエル・オートゥイユが主演でダウン症の青年が共演という映画だった…ということは、つい先日、解説を見て思い出した。正直言って、大して感心した記憶はない。この作品は、それから13年ぶりの新作ということになるわけだ。いやぁ、これじゃ誰も覚えていなくて当然(笑)。道理で誰も話題にしていないわけだ。

 で、その作品と対峙した後の感想は…?

 この映画について、何と言えば的確に表現できるんだろう? 正直言って、この作品に比して語れるような映画があまりない。それくらい破格な作品だ。

 ベースとしてはSFということにもなるだろうが、それにとどまらない作品だ。というか、SFだという根拠も未来が出てくるぐらいの点しかない(笑)。じゃあファンタジーか? そうねえ…例えば「ホテル・ニューハンプシャー」(1984)などにも似たような寓話的要素もあるが、必ずしもそれだけじゃない。何と言えばいいのだろう。僕らは映画を語る時、よくこれはサスペンスだ、これはコメディだ、これは青春ドラマだ、これはホラーだ…と、いわゆるジャンル分けやカテゴリー分けをする。しかしこの作品は、およそジャンル分けのしにくい作品なのだ。

 一言でいえば、むしろジャンル越境の作品とでも言うべきか。

 確かに映画をずっと長く見ていると、こういうどのジャンルに置いたらいいのか困る作品に何回か出くわす。SFなのか、普通のドラマなのか、時代劇やら歴史ドラマなのか…普通はある種のルーティンの上に乗って物語はかたられるわけで、それなりの良さも限界もあるのだが、この手の映画はそれをブチ破ってしまう。そういう意味では、作り手の野心が全面的に出た作品となっているわけだ。

 しかしこの手のジャンル越境の作品はそれゆえに普通の映画の何本分かの製作コストがかかることが多いし、また一般観客が慣れ親しんだ話法から離れるのでついてこれなくなることもあり得る。したがって、商業的には危険な作品となる可能性が高い。それゆえ、そう多く作られることはないわけだ。

 僕が長く映画を見てきた中でも、こういう傾向の作品に該当するものは少ない。例えばフランスのベルトラン・ブリエ監督が撮った「メルシー・ラ・ヴィ」(1991)。二人の女の子を主人公にした青春映画とも見えるのだが、途中から時空を飛び越えてアッチの方向へと話は拡散していく。空中浮遊する場面が出てくるわ、なぜか第二次大戦が出てくるわ…と、あれよあれよの展開になっていくのである。

 そういう意味では、香港のウォン・カーウァイが撮った2046(2004)もそんな作品のひとつだろう。公開時には中華オールスターの派手派手さばかりが話題になったこの作品だが、内容はこれまたぶっ飛んだもの。1960年代の作家が自らの恋愛遍歴を回想しながら、2046年が舞台の未来小説を書き始める話。未来風の弾丸列車が出てくるかと思えば、カーウァイの前作花様年華(2000)の続きみたいなエピソードも出てくるし…で、これまた既存の映画の概念ではちょっととらえにくい作品だ。

 ただしいわゆるジャンル越境作品は、このような破格の内容を持つ映画なのでなかなか作品的に成功させるのが難しい。例えば「メルシー・ラ・ヴィ」は嫌いな映画じゃないが、ハジケようとしている割には今ひとつ地面から足が離れていかない、飛翔しきれていない感じ…と言えばお分かりいただけるだろうか。作り手の意欲に表現が追いついていってない印象が否めなかった。「2046」も構成を複雑にしすぎて散漫になった印象があり、あまり世評も良くなかったように記憶している。

 これがさらにひどくなると、脚本家の橋本忍が監督まで手を出した日本の「幻の湖」(1982)のような怪作ができあがる。ジョギングが趣味の雄琴のソープ嬢(当時はトルコ嬢と言われていた)が殺された愛犬の仇を討つ話に、CIAやら戦国時代の伝説やらスペースシャトルやらが絡んでくる(!)というスゴイお話なのだが、何しろそんなアレコレを未消化のまま放り込んだだけ…という作品だから、まるで作者が気が触れたようにしか見えない。一部にこの作品を過剰に持ち上げる向きもあるようだが、これはハッキリ言って発狂したような映画でしょう(笑)。どだいマトモな映画じゃない。

 もう1本挙げるなら、最近ではダーレン・アロノフスキーファウンテン/永遠につづく愛(2006)が分かりやすい例だろう。不治の病にとりつかれた妻を助けるため、新薬の開発に没頭する研究者の話。それがいつの間にか中世の騎士が生命の泉を探し求める話とダブってきて…なぜか宇宙が出てきたりして瞑想がどうのとか変な話に飛んでいく。そういや、この映画にも空中浮遊が出てきたっけ(笑)。正直言って、これもやっぱりトンデモ映画の方に入れたほうが早い作品だ。

 そういう訳で、なかなかうまくバランスがとれず破綻した映画になりがちなジャンル越境作品だが、そんな中で僕が個人的に「成功作」ではないかと思っているのが、近年は「巨匠」の風格も出て来た観もあるデビッド・フィンチャー監督のファイト・クラブ(1999)だ。ヘタをするとネタバレしそうなんで物語については触れないが、その映像表現の斬新さからいっても、ジャンル越境作品の名に恥じない出来栄えと言えるのではないだろうか。

 そんなわけで僕は、この「ミスター・ノーバディ」もジャンル越境作品の中に生まれた新しい傑作だと思う。まさに破格の作品だし、他に比べようがないレベルの高い作品だ。こんな映画は見たことがない。そしてスケールがとてつもなくデカいとも言えるし、その一方でひどく個人的感情に触れてくるデリケートな部分もある。他の映画体験では味わえない、この映画だけの感動が味わえる映画なのだ。

 そういう意味でこんな無責任なことを言ってはどうかと思うが、この作品はまさに5年に1本…いや、10年に1本、20年に1本の映画であると言いたくなる。

 そのくらいの、オリジナリティーに富んだ作品なのだ。

 

人生にはすべてに意味がある

 さて、肝心の映画そのものについてだが…これがなかなか語れそうで語れない。

 お話は、僕が途中まで書いたストーリーを読んでもらえれば分かる。未来の話が出てきて、火星行きの宇宙船の話が出てくるから、一応SF映画のコロモは着ているものの…全体を見渡してみると、むしろSF映画臭は薄い。人生の中で絶え間なく繰り返される「選択」と、その結果についてのお話だ。

 ほんの小さな決断や偶然の出来事が、その後の人生を大きく変えていく…なんてことは、自分にとってもままあることだ。これを主題にしたバタフライ・エフェクト(2004)なんて映画もある。そういう意味では、決して真新しくもない題材ともいえる。しかし、それがこんな巨大な規模で…こんなきめの細かさと複雑な構成で語り尽くされる作品って今まであっただろうか? この作品のスゴイところは、まさにそこである。

 主人公は無数の分岐点でそれぞれ選択を繰り返し、それぞれの分岐点で人生のコースを大きく変えていく。父と母とどちらを選ぶかという選択があり、その後、出逢った3人の女たちとの人生の選択もある。それぞれの女たちとの行く末にも、いくつかの選択肢が存在するのだ。

 果たしてそれによって人生はどう変わったのか。良くなったのか悪くなったのか?

 例えば女たちの一人であるアンナとの関係も、まだ若者の時にほんの些細な一言で付き合うか付き合わないかが変わる。付き合ったとしても、その後、大人になってから出会えるかどうか。出逢っても一緒に暮らせるかどうか。そして結婚まで何とか漕ぎ着けた主人公はどうなったかと言えば…たまたまクルマの運転を誤って、湖の中に落ちて溺死してしまうのだ。

 他の女たちとの間も悲惨で、エリースと結ばれた主人公は、彼女のキレやすい神経に絶え間なく悩まされる。エリーズにフラれたらどうかといえば、帰り道のバイク事故で意識不明になるか、それとも自暴自棄でまったく別の女とくっつくか…。ところが別の女…ジーンと結ばれたところで、不毛な人生に絶望するしかない。こう見てみると、どれを選んでも最後はお先真っ暗。ハッピーな結末といえるものはないように思える。

 つまりは、どう転んでも人生大した変わりはない…と、まぁこういう事を言いたかったのだろうか。

 確かに人生の善し悪しを「結果」からとらえれば、どれもこれも大した変わりはあるまい。どうせ人間、豊かでも貧しくても、善人でも悪人でも、賢くとも愚かでも、最後は死ぬのだ。ゲーセンでやってるゲームと同じ。最後はゲームオーバー。「勝つ」ことはない。そういう意味では、誰の人生も「死ぬ」という意味でお先真っ暗なことに決まっている

 しかし、そもそも人生を「結果」でとらえるべきなのだろうか?

 実は僕は40を過ぎたあたりから、ちょっとそいつは違うんじゃないか…と思うようになってきた。僕はそれまでどちらかといえばその「結果」主義で生きてきたようなところがあって、素晴らしい「成功」や「勝利」を求めて頑張ってきたようなところがあった。そんな「成功」を手に入れて、後は楽しく暮らすんだ…と思ったりもしていた。それまではひたすら我慢で、「成功」してから楽しめばいいと思っていた。当時はそこまで自覚していなかったが、どうも今から考えると、そう自分に言い聞かせてやっていたところがあったように思う。

 しかしそんなこんなで「成功」を一生懸命に求めても、それは一向に近付いて来ない。それまでは我慢だから、ずっと耐えるしかない。お楽しみも何もかも「その後」にとってあるのだ。しかし「それ」っていつやって来るのだろう。自分としてはもっと早くやって来る予定だったのに、どんどん時間は経過していく。気づいたら、もう中年の域を越えていた。まるで大学の医学部をめざしながらも入試に落ち続け、いい歳してまだ浪人生の身でいるような気分だ。いつまで経っても社会に出られず収入も得られない。家庭も持てない。

 さすがに今ではこの僕も、そんな「成功」など夢見てはいない。いいかげん目が覚めてしまった。しかし、いかんせんあまりに長く「成功」を追い求めすぎた。その間、ある年令の時期に人が味わえたはずの喜びや楽しみを、僕はかなり手に入れ損なってしまったような気がしている。

 人生は「結果」ではない。

 今頃になって思うのは、人生に「結果」を求めるのはバカげているということだ。「結果」から言えば、人生はすべて死で終わるので、すべてが失敗である。どんなにカネを儲けても有名になっても、どんなに善人でも無に帰する。人生は虚しいのである。

 だから、人生を「結果」主義で考えるのは間違いだ。

 むしろ最後に至る過程で、どれだけ有意義に過ごすかが重要だ。

 そんなことは、とっくに知っているって? 確かにこれはいろいろな本や映画や何やらで言い尽くされたことだから、今さら別にとやかく言うことではないかもしれない。こんなことはみなさんも、先刻ご承知であるとは思う。今ごろいい歳して何言ってるんだと、笑われても仕方ないことかもしれない。

 しかし、その意味を本当に腹の底から分かっている人は、意外に少ないんじゃないだろうか。

 あるいは頭で分かっていても、心で実感として分かっているかどうかは、かなり怪しいんじゃないだろうか。むろん僕も、人生後半戦に差しかかってこれがやっと分かってきたようなもんだから、あまり偉そうなことは言えない。ともかく、人生は途中経過こそが大切なのである。

 この「ミスター・ノーバディ」には、そんな人生の実感がある

 緻密な構成の脚本があり、奔放なイマジネーションと映像感覚が横溢し、2092年の未来世界と火星旅行までが出てくるスケール感がある。しかしこの映画で最も心に残るのは、人生の中のキラキラした思い出のカケラだ。

 まだ15歳の主人公が、愛するアンナと過ごした甘美な日々。それ以外にも、人生の節々蘇るキラキラした思い出…。それさえあれば、人生は有意義だった、生きるに足る価値があった…と言えるのではないか。

 ここまでダラダラと書いて来て、まったくこの映画の魅力をうまく文章に出来ていないことに、僕は激しい苛立ちを感じている。何だかまったく語れていないよね。こんなまどろっこしい事じゃないんだ。あるいは、こんな手垢の付いた言葉や月並みな表現でもない。これじゃあこの文章を読んだ人が、まるっきりこの映画を見たいなんて思わないだろう。そうじゃない。この映画の魅力のひとかけらだって、ここまでの文章は伝え切れていない。自分で読んでいて、映画に申しわけない気持ちになってしまう。

 そんな苦し紛れで言ってしまうなら、それは韓国映画の傑作ペパーミント・キャンディー(1999)の結論に近い…と言った方がまだマシかもしれない。

 人生は美しい。

 その結論こそ、僕自身が今現在、心から同意できる「実感」なのである。

 

 

 

 

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