「英国王のスピーチ」

  The King's Speech

 (2011/04/25)


  

見る前の予想

 みなさんご存知の通り、今年のオスカーの勝者はこの映画である。

 実際のところ、オスカー授章式前から「最有力」であることは騒がれていた。ずっと前からチラシも映画館に並んでいたし、予告編も見ることができた。だから、この作品がいかに「感動的」な作品かは大概の人が知っていたはずだ。

 吃音で人前でしゃべるのが苦手な男が、「王」となって語りかけることを余儀なくされる。そこで型破りなスピーチ矯正士(という職業があるかどうか知らないが)の力を借りて困難を克服、ナチス・ドイツとの戦いを前に国民に語りかけるスピーチに挑戦する…。

 王様にはコリン・ファース、スピーチ矯正士にジェフリー・ラッシュ、王妃にヘレナ・ボナム=カーター。ちょっと地味な印象があるコリン・ファースは、いかにも彼らしく慎み深く内気な王を手堅く演じ、ジェフリー・ラッシュはこれまた彼らしい型破りさを見せて、ヘレナ・ボナム=カーターはここ最近の彼女のイメージとはちょっと違った、「内助の功」を発揮する王妃を見事に演じているらしいことが、予告編だけでもしっかり見てとれる。

 …というか、これだけ予告編で見せちゃってこういうタイプの話だと、もはや映画そのものを見なくてもいいくらいじゃないだろうか。ラストの王様のスピーチも成功するに決まってるわけだし、今さらどこにオドロキや面白さがあるのか。

 それにそれに…毎度毎度僕はこのサイトでグダグダ言っているが、「名物にうまいもんなし」じゃないが、オスカー作品賞受賞作って本当は面白い作品があまりないんじゃないか? ビューティフル・マインド(2001)、シカゴ(2002)、クラッシュ(2005)、ディパーテッド(2006)、ノーカントリー(2007)…などなど、確かに悪い映画じゃないが、もっと面白い作品が他にあるんじゃないだろうか。この映画も、何だかんだ言ってそういう類のオスカー受賞作品でしかないのではないか。

 そうは言っても、映画ってのは見なきゃ話にならない。まぁそれに、決して悪い作品やつまらない作品ではないことぐらい、いくら何でも予告編を見れば何となく分かる。つまりは、僕がここでガタガタ言っていたのは、極めて贅沢な文句だったのである。

 公開から大分経ってきたし、「そろそろいいんじゃないの」とばかり、重い腰を上げて映画館へと出かけてみた。

 

あらすじ

 1925年、ロンドン郊外ウェンブリーで開催されていた「大英帝国博覧会」の閉会式が、にぎにぎしく開催されようとしていた。

 その式での目玉は、大観衆を集めた会場でのヨーク公アルバート王子(コリン・ファース)の閉会宣言。しかしその場に妻のエリザベス(ヘレナ・ボナム=カーター)を伴ってやって来たアルバート王子の顔面は蒼白。そんな夫をエリザベスは心配そうな表情で見つめていた。

 実はアルバート王子、昔から吃音に悩まされ、スピーチは苦手中の苦手。それでも父の国王ジョージ5世(マイケル・ガンボン)がこの博覧会の開会宣言を、会期途中でのスピーチを皇太子デイビッド(ガイ・ピアース)が勤めた後となれば、もはや彼も逃げるわけにいかない。

 しかし、アルバート王子と妻の不安は的中。満場の観衆とマイクの前に立ったアルバート王子は、そこで言葉に詰まったまま立ち往生する羽目となる。

 あぁ、またもやダメだった。

 父のジョージ5世は世の中の変化を敏感に察知し、ラジオ時代を迎えて王も国民に向けて語りかけなければいけないと考えていた。それにはいかにもアルバート王子の吃音は困る。

 しかしそうは言っても、吃音が簡単に治るわけもない。妻エリザベスが奔走してさまざまな医者にかかってはみるが、うまくいったためしがない。中にはあまりに屈辱を味わったアルバートが、逆上してキレてしまうこともしばしば。

 もどかしさからキレてしまうのも無理はないが、吃音ゆえの引っ込み思案、それとは裏腹のキレやすさ…というパーソナリティは、いささか周囲も扱いにくいところではあった。

 しかも兄のデイビッドが離婚歴のあるアメリカ女との恋愛に溺れているアリサマで、それだけアルバートにかかる負荷も期待も大きくならざるを得ない。にも関わらずの相も変わらずの口べたぶりに、手詰まり感が濃厚のアルバート王子であった。

 そんなある日、エリザベスは街中のとあるアパートへと足を運ぶ。そこはスピーチ矯正の専門家という触れ込みのライオネル(ジェフリー・ラッシュ)の診察室兼自宅だった。どこか他の「権威」たちとは異なる雰囲気のライオネルに、エリザベスの第六感が働いたか…彼女はこのライオネルに、夫を任せてみようと考えた。そして「自宅」への往診を頼むエリザベスだったが、ライオネルはあくまで自らの診察室での治療を主張するのだった。

 さて、イヤイヤながら妻に背中を押されて、アルバート王子はライオネルの診察室へとやって来る。

 しかしそこではいきなり「診察する者とされる者は対等でなければならぬ」とライオネルに言われ、王族しか言わない「バーティ」という呼び名で呼ばれて唖然。さらにライオネルはそれまでアルバート王子が「ノドにいいから」…と言われて吸っていたタバコも禁じ、今まで王子を診てきた一流の医師たちをバカ呼ばわり。さらには「吃音は心の問題である」とプライベートの話を根堀り葉堀り聞きだそうするのには、さすがにアルバート王子も怒り心頭。最後には大音響で音楽を鳴らしたヘッドフォンを付けながら、本を朗読させようという試みまで行うに至って、アルバート王子の堪忍袋の緒が切れた。「もうこれっきり」とブチギレ状態のアルバート王子に、ライオネルはその時に録音したレコードを手渡すのが精一杯だった…。

 しかし、クリスマスのラジオ放送でまたしてもスピーチに失敗。愕然としたアルバート王子は、例のライオネルからもらったレコードを聴いてみる。するとどうだ! 何と音楽を大音響で聴かされながら朗読した自分の声は、まったくよどみがなく聞こえるではないか。

 明らかにライオネルの療法が正しかったと悟ったアルバート王子は、改めてライオネルの門戸を叩くのだった。

 その後、ライオネルのユニークな治療法をアルバート王子は次々と実践していく。

 やがてジョージ5世が亡くなってデイビッドが新国王エドワード8世として即位。にも関わらず、国事にも一向に関心がなく、例の女性との関係にうつつを抜かすエドワード8世に、アルバート王子は複雑な思いを抱かずにはいられない。そんな中でアルバート王子は、ライオネルに自分の過去のトラウマを少しずつ語り出していった。

 しかしアルバート王子が一番恐れていた事態が、いまや現実になろうとしていた。例の女性との恋を貫く決意に傾きつつあったエドワード8世が、王位を投げ出そうとしていたのだった…。

 

見た後での感想

 ここでもったいつけても仕方がないから、正直に言ってしまおう。

 確かにこの映画は予告編を見ればこの映画の内容は大体分かってしまう仕組みになっていて、実際に実物を見ても、その印象が大きく変わることはない。要は、ほとんど思った通りの話が進んでいるのである。

 にも関わらず、冒頭から僕が言っていたような、予告編を見れば実物を見る必要なし…というような作品でもない。

 というのも、アルバート王子…後のジョージ6世(コリン・ファース)とライオネル(ジェフリー・ラッシュ)との親交や葛藤、あるいは治療の内容…などがこの作品の「うまみ」になっているのだが、一見、全ストーリーを説明しているがごとく見える予告編は、賢明にもその最も面白い部分を具体的に見せてはいない。だから、映画を見る前にその内容をほぼ見ちゃった気になってしまっている観客にも、それなりのサプライズを提供することができるのである。

 意外にも、この映画には見るべき「楽しみ」がまだ残されているのだ。

 

この映画に見出した「個人的美点」

 ただ、この映画の真の美点を言葉で説明するのは極めて難しい。

 部分的にはコリン・ファースやジェフリー・ラッシュの芝居の「コク」のようなモノを指摘することもできるだろうし、何より圧巻のである終盤の開戦スピーチ場面について語ることもできる。

 特に後者では、主人公ジョージ6世の吃音ぶりをさんざ見せられてきた後だから、我々にはスピーチそのものがサスペンスとなっている。それを克服していく過程が感動的に見えるのもさることながら、その前にニュース映画でチラリとヒトラーの演説場面を見せて、ジョージ6世に「何を言ってるかわからんが演説はうまそうだ」と評させるあたりも地味な伏線になっているあたりがうまい。開戦スピーチ場面が朴訥として演説下手のジョージ6世と演説上手だが凶悪思想のヒトラーとの、まるで「ロッキー」(1976)のファイト・シーンにも似た「対決」のように見えてくるのである。それは能弁は能弁だが内容は空疎…どころか凶悪有害なヒトラーに比して、決してうまくはないが心を込めて語るジョージ6世を配置することで、「口が立ちゃいいってもんじゃない」的なニュアンスを打ち出すことに成功している。それゆえ、演説マイクとジョージ6世の前に陣取って最初は「ディレクション」をしていたライオネルも、途中からジョージ6世を指導しようとしなくなる。ジョージ6世は決して吃音を「克服」したわけではないが、彼なりのやり方で「語りかける」ことを成し遂げた…と描かれるのである。このあたり、監督のトム・フーパーも脚本のデビッド・サイドラーも、なかなか巧みだと言わざるを得ない。

 他にも前述したようにヘレナ・ボナム=カーターの控えめな助演も好ましいし、チャーチル役のティモシー・スポールを見るのも楽しい。俳優陣の豪華さもこの映画の楽しみのひとつである。

 普通に語れば、王とスピーチ専門家との奇妙な友情の物語であり、それはそれで全く間違いではない。そして元々コンプレックスやハンディキャップを持った人間がそれを克服しようとする姿は、それだけで感動的になり得る。ゆえに、この感想も他のこの映画を評するレビューと、どこか似たり寄ったりになるのは必然だ。残念ながらこの感想文も、それらと同じような言葉を並べるしかない。

 しかし個人的なことを言わせていただければ、自分もまた人に対して接していく中で、周囲には理解されないようなハンディを常に感じていた。人と一緒にやっていくこと、人に対して心を開くこと…について、他の人にはどうということもない事が、僕にはひどく難しいことに思われてならなかったし、実際なかなかそれを実践することができなかった。

 それはたぶん自分の子供の頃からの体験が一因しているのだろうし、自分を守ろうとする本能がそうさせたのだろう。その自分と他者とを隔てている「殻」や「バリア」や「限界」のようなものを感じていながら、それを克服するための手段も方法もなかなか分からない。

 それは、実は「他者」…自分にとっての真の「親しい人間」にしか指摘できないし、治すこともできないのである。

 しかも、そんな自分が昔から持っていた「バリア」が本当はどんなモノなのか…すら、自分には分かっているようで分からない。そんな微妙にデリケートなモノを気付かせてくれるのは、まさに「親しい人間」しかいないのだ。

 これを読んでいる方には何を言っているのか分からないだろうが、ある意味で僕はこの映画でのジョージ6世とライオネルとの葛藤が、わが事のように思える部分がある。だからこそこの作品は僕にとって、「もう見ちゃった気になってしまう映画」や「ありがちな感動ドラマ」、「本当は大して面白くもないオスカー受賞作」…にならずに済んだのだろう。

 もうひとつ、僕は実は劇中で主人公が「謝罪」する映画に弱い。実人生では他人から、心を込めた謝罪をされる機会などほとんどない。だからこそ、映画でそれを見た時には深い感動をおぼえるのだ。この作品でのジョージ6世の「謝罪場面」には、僕は無条件で感動してしまった。

 「王の謝罪を待つ者は、長く待たねばならない」というセリフは、この映画のベスト・ラインのひとつだろう。この言葉の持つプライドと、そのプライドを捨てて謝罪する勇気は、実はこの映画の中で最も感動的な瞬間なのである。

 

 

 

 

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