「アレクサンドリア」

  Agora

 (2011/04/04)


  

見る前の予想

 アレクサンドリア…と聞けば、かつて巨大な図書館のあったエジプトの都市として、無知な僕でもその名を知っている。

 …と同時に、キリスト教徒によってその図書館が破壊され、所蔵された膨大な知識はすべてパーになったことも知っている。大体アレクサンドリアといえば巨大な図書館とそれが破壊されたことで有名で、クリスチャンでない僕なんかは、これが魔女狩りと並んでキリスト教が行った2大暴挙だと思っている。だから湾岸戦争以降、西欧諸国がイスラム国をボコボコにしているのを見ても、今ひとつ賛同したくならないんだな。

 じゃあ何でアレクサンドリアの巨大な図書館について知っているかと言えば、実はここだけの話…一時期、僕は「神々の指紋」とかあの手の「超古代文明」本に凝っていて、それらの本でアレクサンドリアの名前がお馴染みになったような気がする。今でこそ「ムー」みたいなインチキ臭い情報に満ちあふれた本ということになっているが、当時は結構あの手の本が流行ったし、僕もかなり夢中になってむさぼり読んだものだ。いわば若気の至り。そこで出てきた話というのが…紀元前ウン百年頃のアレクサンドリアの図書館にはきっと超古代文明についての知識がいっぱいあって、それらを記録として書き記した本がどっさりあったはずだという手合いのもの。つまりはキリスト教徒どもがバカなことさえしなければ、かつての超古代文明はどんなモノが知ることができただろうし、簡単にその存在も証明できただろうというわけだ。ったく余計なことをしやがってクリスチャンどもめ。

 ともかくその都市の名前をタイトルに冠したこの作品、何とお久しぶりねのアレハンドロ・アメナーバルの新作だと言うではないか。そうなると、見たくならずにはいられない。

 しかしながら、僕にとってアメナーバル作品が「久しぶり」のモノになってしまったのは、実は彼の都合によるものではなかった。いまやアメナーバルと言えば、「海に飛ぶ夢」(2004)でアカデミー外国語映画賞を受賞した…と必ずお決まりの「枕詞」がつく。しかしこの僕は、その「肝心要」なはずの前作「海に飛ぶ夢」を見ていないのだ。それにはちょっとした理由があるのだが…。

 それでもこの作品、レイチェル・ワイズを主演にした英語映画として、一時はハリウッド進出もチラついていたアメナーバルの面目躍如たるところも感じられる。かつてのアレクサンドリアの街の佇まいを再現する、スペクタクル映画としての見どころもありそうだ。

 見たいような見たくないような…そんなこんなで迷いに迷ったあげく、公開日からかなり経ったある日、ようやく映画館に足を運んだ次第。

 

あらすじ

 4世紀末、ローマ帝国も末期の頃のエジプト・アレクサンドリアの街。この街はいまだに巨大な図書館と大灯台の存在で栄華を誇っていたが、その足下から変化と混乱がひたひたと忍び寄ってもいた。

 そんな街で数学者、天文学者、哲学者として活躍していたのが、ヒュパティア(レイチェル・ワイズ)だった。彼女は人種や信教を問わず生徒を集め、幅広い知識を分け与えるべく講義を行っていた。彼女の持論はこうだ。

 「人間には相違点よりも類似点の方が多い。私の教室に集う者は、みな兄弟よ」

 彼女はそう思っていたが、必ずしもみんながそう思っていたわけではない。しかも世の中は「混乱期」に差しかかろうとしていた。アレクサンドリアの市民たちは古代の神々を崇拝していたが、最近ではユダヤ教や新興宗教であるキリスト教が流行りつつあったのだ。

 中でも大きな支持を集めていたのがキリスト教だ。今日も今日とてアレクサンドリアの表玄関である大広場で、キリスト教の修道兵士であるアンモニオス(アシュラフ・バルフム)が過激な布教を行っていた。彼は炎の上を歩いてみせるパフォーマンスを実行したうえ、彼に反論していた異教徒を炎の中に放り込み、大やけどを負わせるという無茶な振る舞いを行ったのだ。そんなこんなに知識人たるヒュパティアの父テオン(マイケル・ロンスデール)は顔をしかめていたが、激しい変化には為す術もなかったのが実際のところだった。

 しかしこの「奇跡」は大きな反響を起こし、キリスト教に関心を持つ者が急増する。そんな中に、ヒュパティアの奴隷であるダオス(マックス・ミンゲラ)もいた。

 テオンは自邸で働く奴隷がキリスト教を信じることを禁じ、十字架を持っていた奴隷を罰しようとした。見かねたダオスはその奴隷をかばって自らがムチ打ちの罰を受けるが、その際には彼はまだキリスト教には単なる興味しかなかった。後にヒュパティアはダオスのムチのキズを癒しにやって来るが、その際にダオスが詳細な天文模型を作っていることに気付いて驚嘆。ダオスは毎日ヒュパティアの講義に同席するうちに、彼女の語る知識を自分のモノとしていたのだった。

 こうしてヒュパティアは自らの講義においてダオスに語らせ、その知識を賞賛する。しかし彼女はダオスをホメながら、奴隷についての不用意な発言を行って彼を失望させた。「人間には相違点よりも類似点の方が多い」とは言っていたものの、ヒュパティアにとっては奴隷は奴隷。そこに何ら他意はなかったのだが、実は彼女を心の奥底で慕っていたダオスには、あまりにツライ発言ではあった。

 そんなヒュパティアを慕っていたのは、ダオスだけではなかった。彼女の講義に出席している生徒の一人オレステス(オスカー・アイザック)も、かねてからヒュパティアを狙っていた。劇場での幕間にいきなり舞台に上がり、彼女に捧げる曲を奏でる…と笛を吹いてみせたりもした。「あなたは私にとって調和そのものです」

 しかし学問に生涯を捧げる覚悟のヒュパティアには、男は眼中になかった。彼女は翌日の講義を聞きに来たオレステスに、一枚のハンカチを渡したのだった。それは、彼女の月経の血で染まったハンカチだった。

 「こんな血を流している私の、一体どこが調和そのものなの?

 彼女を諦めさせるためとはいえ、これにはさすがに愕然とするオレステス。

 そんなところに、衝撃的な知らせが飛び込んできた。アレクサンドリアの大広場で、キリスト教徒が市民が元々信仰している神々を冒涜し始めたというのだ。早速、剣を持ってキリスト教徒たちを制圧しようという声が挙がる。慌ててヒュパティアはみんなを止めようとするが、興奮した人々は抑えが効かない。さらに意見を求められたテオンが、ダメ押しともいうべき決定的一言を発してしまう。

 「冒涜されたのなら、報復しなければならない」…。

 

アレハンドロ・アメナーバルとの長い付き合い

 今でこそ、それなりの有名監督になってしまったが、僕が最初にアレハンドロ・アメナーバルの作品を見たときは、当然そんな知られた人ではなかった。

 だから、たまたまフラリと見に行った、オープン・ユア・アイズ(1997)にはたまげた。

 元々が多くを期待しないで見たというのも大きかったが、何よりこんな壮大なスケールの作品とは思わなかった。せいぜい普通のサスペンス映画かホラー映画ぐらいにしか思わなかったから、こんなSF映画のような作品だとは思っていなかったのだ。そもそもスペイン映画…いや、ヨーロッパ映画には、このような構想の作品は珍しい。僕はみなさんご存知のようにSF映画ファンということもあって、この作品に強烈に惹きつけられた。同時にアメナーバルという名も脳裏に焼き付けたわけだ。

 ところが僕は、アメナーバルのデビュー作「次に私が殺される(テシス)」(1996)をすでにちっちゃい劇場で見ていたのだった。これも猟奇サスペンス映画の常道をいく作品ではありながら、妙に気になる出来栄えではあった。なかなかやるではないか、アメナーバル。

 そんな風にアメナーバルに注目していたのは、当然ながら僕だけじゃなかった。ハリウッドからも引き合いが来たというから実にめでたい。何と天下のトム・クルーズから声がかかって、例の「オープン・ユア・アイズ」のハリウッド・リメイク権が売れただけではなく、アメナーバル自身も新作を撮れることになったわけだ。

 そのアメナーバルが撮ったハリウッド作品が、当時クルーズ夫人だったニコール・キッドマン主演のアザーズ(2001)。これはこれで、なかなか味わいのあるホラー作品になっていたからさすがだ。

 その一方で「オープン・ユア・アイズ」のハリウッド・リメイク版は、キャメロン・クロウによるバニラ・スカイ(2001)となって結実。これはこれで、それなりに良くできた作品だったと思う。

 そんなわけで作品を追うごとにスケールアップ、ますますその名を知られるようになったアメナーバルが、次に放ったのが「海を飛ぶ夢」だった。

 全身マヒの男が尊厳死を望むお話…と、アメナーバルにして初めてSFやホラー以外の作品。それが功を奏したか、アカデミー外国語映画賞はじめ世界の映画賞をバンバンとった。もちろん映画も大ヒットして、その後、アメナーバルといえばこの作品の名が挙がるほど彼の代名詞的作品になった。いや、まったくめでたい限り。

 しかし白状すると…僕はアメナーバルの作品の中で、これだけはなぜか見逃してしまったのだ

 タイミングが悪かったということもあるだろう。元から難病モノの映画が苦手ということもあったから、それで足が遠のいたこともあるだろう。しかし僕がこの映画を見逃した最大の原因は、何よりこの作品が「非ホラー」「非SF」作品であったということではないだろうか。

 それまでスペインの映画作家にして異色ともいえる、大スケールのSFやらひと味違うホラー作品で頭角を現してきたアメナーバル。念願のハリウッド進出も果たして一層の飛躍を期待される段階になって、いきなりそれまでの古巣であるSFやホラーに別れを告げ、感動的な難病モノ映画にチャレンジ…。正直に言ってそんなアメナーバルの露骨な「巨匠」狙いの作風の変化に、いささかセコさを感じたというのがホンネだ。それがまたアメナーバルの狙い通りにヒットしちゃったというのも気に入らない。そんな自らを売るためにエゲツないことをするアメナーバルに、ちょっとガッカリしたというのが本当のところだ。

 そんなアメナーバルが、今度はスペクタクル史劇を撮る。

 いくら何でも、そんなに「巨匠」になりたいのかアメナーバル。しかし…前作の「感動の難病モノ」よりは、もうちょっとマシになったような気もする。

 僕は今回の作品に対して、そんな微妙な気持ちを抱えて接したというのが本当のところだ。

 

見た後での感想

 ズバリ言うと、見る前に僕が考えていた通り。アレクサンドリアに対してキリスト教徒が行った暴挙を描いた映画だし、そのアレクサンドリアで革新的研究を行っていた天文学者で数学者で哲学者でもあるヒュパティアという女性の運命を扱ったものだ。これも、まったく予想通り。

 しかし、思っていた以上に僕は楽しんで見ることが出来た。

 当時のアレクサンドリアの状況を、かなりリアルなタッチで描こうとした試みがまず興味深い。よくよく見ていると、手持ちカメラのブレた映像をわざと使っていることが分かる。この当時にカメラなどあるわけもないのだから、手持ちカメラが「リアリティ」などにはならない。しかしこの作品では、手持ちカメラで撮っているというのはリアリズムで撮っているという作り手の意思表示のように思われる。

 お話は…といえば、予想通りキリスト教徒たちがこの街に対して行った暴挙を、かなりストレートに描いた作品。そういう意味ではオドロキはないが、こういう作品がヨーロッパから出てくるあたりが興味深い。我々だからキリスト教徒の暴挙…なんて軽く言えちゃうけれども、これはキリスト教国である欧米各国の人々にとって、かなり勇気の要ることだったはずだ。こういう題材の欧米でやろうとした点が、今回のアメナーバルの最大の野心だったのではないか。

 

キリスト教徒にとってシャレにならない題材

 レイチェル・ワイズは彼女のオスカー受賞作ナイロビの蜂(2005)を思わせるような、猪突猛進で周囲に一切妥協無し…その結果、命を落とすことになるヒロインを好演。彼女を取り巻く人々も、奴隷のダオス役にソーシャル・ネットワーク(2010)で金持ち双子兄弟とツルんでいた学生を演じていたマックス・ミンゲラを起用したり、なかなか興味深い顔ぶれ。見応えのある大作に仕上がっている。

 脚本ではヒロインのヒュパティアを巡る人間群像をうまくさばいて、彼女が悲劇的末路を遂げざるを得なかったストーリー展開をつくりあげている。感心したのはヒロインのヒュパティアを研究一筋の人…ととらえながら、決して理想化して描かなかったこと。奴隷のダオスに一度ならず無神経な発言をするなど、デリカシーにいささか欠けた一面を見せて描いているあたりが見事だ。演じるレイチェル・ワイズの演技力もあって、キレイごとの「偉人伝」ではなく血の通った人間として描かれているのである。

 先のように全編「リアル」風な感触でとらえられた作品で、そのあたり、定型化した「スペクタクル史劇」とは一線を画そうとしている意図がはっきり伝わる。過激化するキリスト教徒の暴走ぶりなどの描き方を見れば、現代のキリスト教国がイスラム教徒たちにいかに不当な態度をとっているか…と、アメナーバルがそう訴えたがっていることがよく分かる。その意気や良し。

 しかし途中で頻繁に挟まる、人工衛星からとらえたような地球のショットなどは、当時見ることなど出来なかったはずのアングルだけにいささかシラケる。当然のことながら、神だ何だ…と無益な争いを繰り返す人間たちに対して、まさに「神の視点」を提示して空しさを表そうという意図は分かるのだが、その意図があまりに図式的で露骨に過ぎるのがマズイのだ。

 その他にも、例えば原理主義的な挑発を繰り返す過激なキリスト教徒アンモニオス役に、「パラダイス・ナウ」(2005)やキングダム/見えざる敵(2007)などに出演したパレスチナ人俳優アシュラフ・バルフムを起用するなども、かなり図式的な意図が透けてみえる。キリスト教もイスラム教も、原理主義的考え方には違いはない…と言いたいのだろう。いずれも良心的なメッセージを発信するためにやったことは分かるのだが、あまりにミエミエなのでちょっと寒〜いかな…と思ってしまうのも事実だ。

 それでもキリスト教徒としてはシャレにならない題材に、果敢に挑んだ意気は買える。彼らにとってはデリケートなテーマだっただけに、「保険」としてこれだけ図式的な描き方をしなくてはならなかったのかもしれない。

 そしてレイチェル・ワイズ演じるヒュパティアが、終始、太陽系の構成について思いを巡らせているあたりも見ていて楽しかった。そこには「オープン・ユア・アイズ」で意表を突いた大スケールのSF風味を見せた、アメナーバルらしい「SF魂」が漂っていたから、僕にとっては嬉しかったのである。

 

 

 

 

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